投稿元:
レビューを見る
現代の社会はどんな社会かを哲学の概念で論じている本。
言い回しも分かりにくかったし、ある程度前提知識がないと分からない部分が多かった。
すごくざっくり言うと、現代の社会は「肯定性が過剰になっている」。
以下に、ざっくりとまとめ。
昔の社会(フーコーの唱えるような、監獄や工場で、規律を守るような社会=規律社会)で異端とされるのは、規律を守らない狂人や犯罪者である。
だからこそ、禁止や命令に従わない者に対して制裁を与えるし、そうした規律の強さが、精神疾患者=ヒステリーを生み出す。
しかし、現代の社会は、「能力社会」である。
「能力社会」で異端とされるのは、「できないもの」としての無能な人間である。
また、何でもできる(=肯定性の過剰)とされるからこそ、何かを為すことに疲れ、できることに疲れた状態の精神疾患者=うつ病患者を生み出す。
ではなぜ、現代は「能力社会」となったのか。
それは、資本主義の生産効率を上げるためである。
規律社会において、生産が一定水準に達すれば、禁止や否定は生産性を阻害する要因になる。
したがって、生産性をより発展させるために、そうした禁止や否定よりも、「できる」ことに注目する。
規律に従順な主体よりも、能力のある主体の方が、迅速で生産的なのである。
(ここで、こうした肯定性の過剰、何でもできる社会が、マルチタスクな社会を生み出していることに触れている。そして、そのマルチタスク社会を筆者は、「退化」としている。なぜなら、野生動物は、食事や交尾の最中にも、外敵に備えて他の事に気を配る必要が在る。=野生動物は退屈しない。しかし、芸術や発展を生み出すのは退屈である。)
また、ここで筆者は、ハンナアーレントを引き合いに出し、ハンナアーレントが近代社会の人間を「労働する動物」とたとえ、自我がないとしていることを引き合いに出す。しかし、筆者は、現代社会の人間は、「労働する動物」ではなく、自我で飾り立てられ、過剰に活動的であるとする。したがって、現代社会の人間は、生物種として孤立して生きているということになる。
また、筆者は、刺激にすぐ反応するのではなく、刺激を抑制し遮断することの重要性も述べている。(それは、上記で述べたように、退屈こそが人間を発展させるからである。)
以上を踏まえれば、現代社会は肯定性が過剰であり、人々を疲労させ、自我中心的であり、人々を孤立させる。筆者は、そうした状態に対し、そのような状態から解放させるための「疲労」こそが人々を連帯させ、疲れた人々の社会=疲労社会を生み出す可能性を示唆している。
なお、フロイトのいう規律社会では、道徳を元に人々が義務を遂行する。そして、その道徳を果たすことで、神から報償(=承認)を得られることを確信している。しかし、現代社会では、自由と自発性が労働の元になる。そうすると、他者から解放はされるが、報償(=承認)は期待できなくなる。そうするとどうなるか。絶えず自分自身と競い合うことになる。(資本主義的には、その方が生産性は良い。=自己搾取社会)そしてその自分自身との戦いに勝者はいない。理想の自分には永遠に追いつけないから。故に、それに疲弊し、うつ病や燃え尽き症候群が発症する。
と、ここまでがざっくりまとめ。
以下が感想。
・言い回しは分かりにくいけど、現代社会に対して、「確かに」と思えるような視点を提供してくれている。本当に、今の社会は「何でもできる」し、その「何でもできる」の期待に追いつかなければいけない。そして、その「何でもできる」状態に追いつけない人は「無能」になるし、それに疲労すれば精神を病む。
・人間はどんどん発展しているんだけれども、一体いつになったら楽になるんだ、いつまで発展を続けなければならないんだ、という疑問は前からあった。多分、資本主義の社会だからこそ、永遠に発展を続けていかなければならず、そのループからは逃れられない。そして、発展を続けていくためには、人間の「能力」を発展させていかなければならず、その「能力」を発展させられない者は「無能」とされる。
・正直、もう人間の発展なんか、どうでもいいじゃん、と思うし、生活は楽になっているんだけど、精神は全く楽にならない理由が分かった気がした。「自由」な社会だからこそ、その「自由」に対して疲れてしまっているのだと思う。いい加減、何かを為さなければならないということから解放されることも、考えないといけない気がする。甘えなのかもしれないが。
・ただ、一方で、筆者の提唱している「疲労社会」には、一瞬、ん?と思った。「疲労」で共同体が生まれ得るのだろうか。。。「ああ、疲れたねえ、」と言って、緩く集まる社会を創造してしまった。
投稿元:
レビューを見る
自由であるが故に、自分のことを際限なく追い込んでしまう能力社会のことを指して、「疲労社会」と述べた著者は大きな示唆を与えてくれる。
際限ない刺激を求める「ホモデウス」になろうとするという点で、「ホモデウス」との類似性もあるが、本質的には、「刺激と成功なくして人間は幸せに生きることができるのか?」ということに尽きると思う。
自身、日々刺激を追い求める日々であるが、本書をきっかけに改めて人生への向き合い方を考えたい。
投稿元:
レビューを見る
これまでの社会は、外部と内部の違い、他者性に注目して、外部を排除するといういわば免疫的なものであったが、これからの同質性の社会になるのだ。
という話しは、コロナウィルスの出現であれれ、ということに今読むとなるのであるが、それでも言わんとすることはわかるし、独自の視点を提供していると思う。
議論のなかで、アーレント、フーコー、アガンベンの理論などが分かりやすく整理されて、それらを批判的に継承しつつ、同質性がもたらす疲労という概念を打ち出す。
と言っても、ここでの議論が、たとえばフーコーの規律権力や生権力、主体の議論を乗り越えているかは疑問ものこる。
でも、あまり哲学的につめていくというより、同じ主題を角度を変えつつ議論していくような感じで、これはこれで面白い。
面白いのは、疲労という概念を否定的、批判的にのみ解釈しているわけではないところ。疲労したり、無為にボーとしたり、退屈するということの価値を考えようとしているのは新たな可能性を感じる。
投稿元:
レビューを見る
著者のビョンチョル・ハンは韓国生まれでドイツ在住の哲学者。
アガンベンのホモ・サケル、アーレントの活動的生、フーコーの生権力などの概念に言及しながら、自己が自己を搾取しバーンアウトやうつ病を引き起こす現代社会の問題について論じる。
著者によれば、後期資本主義の現在は、19世紀的な「してはならない」を規定する規律社会ではなく、「できる」を要請する能力社会である。19世紀的な主体は他者の要請を内面化して自らを律していたけれど、現代の我々は私たちはできる、理想的な自分になれるという要請を自らに行い、自分自身を駆り立てて生きている。
それは過剰に活動的であるがゆえに、ゆっくり考える暇もなく自由なようでいて、逆に自由は失われてしまっている。サバンナで敵に襲われる可能性を常に意識して生きている動物たちは、常に休むことなく注意を払っているけれど、現代社会の我々はある意味でそのような状況に戻ってしまっている。
そこで疲弊としての疲労という概念が提示される。それは無為の疲労であり止めることであり、為すためという目的から解放される日であり、遊びの時間である。
しかし、自己を駆り立てている外部の主体はないのだから、無為の疲労を勝ち取る相手もよくわからないということであり、相変わらず我々の戦いは困難を極めている。
投稿元:
レビューを見る
ビョンチョル・ハンの哲学に「疲労」した。
それは疲弊ではない。
最も驚いたのが、私のゾンビ化をハンさんが「アンデッド」という表現をしていたこと。
見事に言語化してもらって、マジ脱帽。
この社会に関心ある人達にかなりおすすめです。
投稿元:
レビューを見る
哲学に関する引用が多く、難しかった。
最後の後書きで現代の疲労社会の原因とその対処法についてようやく理解できた
投稿元:
レビューを見る
メモ→ https://x.com/nobushiromasaki/status/1691297356371931136?s=46&t=z75bb9jRqQkzTbvnO6hSdw
投稿元:
レビューを見る
部分部分では理解できるというか、「なるほどなぁ」と思えるんだけれど全体を通しては自分には難しくて「?」が頭の中にいっぱい(笑)読むのに自分が疲労してしまった始末である。がってむ。