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ヒュパティアという人物をこの本を通じてはじめて知った。
ただでさえ歴史上の人物は時代によって色々な解釈を施され型に嵌められ歪められたりしながら、利用され消費されたりする。
史料の限られている古代はなおさら人物の全貌がわかりにくい。そして男性社会から見た女性というジェンダーのフィルターにも注意を払う必要がある。
第10章近代の象徴は、それらの経緯も踏まえた上でのヒュパティア像の変遷をたどっていて興味深かった。
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後期ローマ時代エジプトの都市アレクサンドリアに生きた女性哲学者ヒュパティア(355?-415)のことを知ったのは、映画『アレクサンドリア』を通じてだった。主人公のヒュパティアをレイチェル・ワイズが演じていたが、ヒュパティアは非常に凄惨な最期を遂げる。
当然、ヒュパティアについて知りたくなり、少し調べてみたものの、彼女には著書がなく(あるいは散逸したか)、回顧録のようなものも残していない。それが今回、本書が出た。興味津々で読み出した。
ヒュパティア本人には著作がない。では研究ができないかと言えば、そんなことはない。本書の著者ワッツはそれを見事に証明してみせた。アレクサンドリアという都市の状況、パワーバランス、書簡、ヒュパティアについて語られた同時代人または後世の評価などから、外堀を埋めるようにして、ヒュパティアという人物を、その学問を浮き彫りにしていくのである。
さて、グレコ・ローマンの女性哲学者と聞いて、誰を思い浮かべるだろう。むしろ何も思い浮かばない人が大半ではないだろうか。実は私もそうだった。この時代の哲学者なんて、ソクラテス、プラトン、アリストテレスにピュタゴラス、みんな男性。石膏像になったヒゲのおじいちゃんのイメージしかない。しかし、本書を読むと、少数ながら当時も女性の哲学者がいたことを知ることができる。現代にあっても女性の学者は苦労が絶えないというが、今以上に男性社会の当時、彼女たちがどれほど苦労をしたことか想像に難くない。
なかでもヒュパティアは、キリスト教が台頭し始めたアレクサンドリアにあって、学校を運営して男女信教の区別なく指導し、高潔な人柄から尊敬を集め、時の権力者すら一目置く存在だったという。著者のワッツは「通常は男性が支配する場所に出入りし、通常男性が唱えてきた思想を教え、通常は男性によって独占されてきた権威を行使した、才能ある哲学者である」と畏敬の念をもってヒュパティアを評する。
しかし、哲学者ヒュパティアの業績は、あまりに劇的で悲惨な死により覆い隠されてしまう。容姿に優れ、その哲学的信条から生涯純潔を貫いたというヒュパティア。それは格好の文学的な材料となった。実際、殺害当時のヒュパティアはすでに功成り名遂げたベテランの学者であるが、文学的な世界ではうら若き乙女として描かれた。ワッツは映画『アレクサンドリア』を含め、こうした作品群が「彼女の生涯の意義を低く評価することにつながる」として、それはヒュパティアを二重に貶めているとする。象徴としてのヒュパティアではなく、ヒュパティアその人を見るべきという思いで本書はしめくくられる。
学術書で、やや訳もかたい印象。読みやすい本ではないが、熱い。
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・資質に恵まれていても、傑出した家門の出身であっても、女性には男性と同じように公的な職務を担うことが許されなかった時代のことである。男性の著作家たちはしばしば、厳しい家父長制社会の制約と規範のもとに生きる女性たちを「記録に値する」傑出した存在とみなせば理想化して賞賛し、そぐわない存在とみれば軽蔑のまなざしをなにはばかることなく注ぎ、矮小化し、戯画化すらした。読者は、記録を残す立場にある自信と使命感をこめて従時の男性著作家が開陳する女性への毀誉褒貶のなかに、読者は二十一世紀の人からみれば受け入れがたい偏見を見いだして慄然とすることもあれば、自身の内なる偏見と共振する感情を見いだすこともあるだろう。