今の社会にモヤモヤしている人におすすめ
2021/12/02 16:20
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:dsukesan - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本で問われている現代資本主義社会への違和感や、そうした巨大なシステムに対してどの様なスタンスで生きることが、より楽しく生きられるのかという思索は非常に心地よく、分かりやすかった。
自然と人との共存というのを、ずっと私自身のテーマにしていたが、その中で社会のシステムをサステナブルに変えていくことと、そのシステムのオルタナティブにして社会の外側に立つことの意義というのを、この本を読んで改めて具体化することができ、また、著者の言う様に両者を行ったり来たりしたいと思った。
持続可能な調達やCSR経営は、資本主義社会を持続可能なシステムに変えていく取り組みで必要だし、他方で、東日本大震災の被災地を訪れて感じた資本主義経済のシステムのもろさとオルタナティブとして地方分散・自給自足の的生活が必要と感じた直感も大事だし、そうした両方のいずれかではなく、両者の間を行ったり来たりすることこそ、自分がしたいことなのだと、この本を読んで理解できた。システムは大切だけれども、システムから弾かれる存在は必ずあって、その弾かれたものが生きるオルタナティブな場が必要であり、そのオルタナティブな場が、システムを相対化していきやすい社会をもたらす。だから、一つの正解・合理性だけのシステムだけではなくて、オルタナティブが必要になるのだ。
こちらの本は、内田樹氏の「ローカリズム宣言」、平川克己氏の「21世紀の楕円幻想論」で知った、社会の在り方、都市と田舎などの二つの原理の焦点を持ち、共存させるという考え方を、実践しさらに両者を行き来することの価値・意義を教えてくれる本であった。自分のやりたいことは、正にこの二つの世界を行ったり来たりすることだということに気づかされて、勇気を頂くことができた。自分も、漸う、やりたいことの哲学的意義を整理し、また具体的な行動方針を明らかにすることができてきた、この頃の中で、本書は自分の考えを整理して動き出す準備を整えるのに役立った。
間を生きるということは、7~3バランスで行動の選択肢を広げてくこと、白黒思考からの脱却ともリンクしていて、認知行動療法的と通じるところがあって面白い。
この本を読んで、気になったのは次の言葉たち。
・ハンナ・アーレントの定義
「労働」自分の生活維持のため
「仕事」世界をつくるため
「活動」他者とコミュニケーションをするため
→自分は、「労働」で自給自足、「仕事」で森林認証、「活動」で地域活性化とブックカフェをやろうと思った。
・社会のあらゆる領域を資本主義理論に置き換えていくと、全体主義的になる
・人は「離床」によって、地縁・血縁というしがらみから自由になったが、個別性、身体性をおろそかにすることになった。そのため、個別性、身体性に根差した土着が必要。
・社会制度や公共秩序に縛られることで、それにそぐわないものが、病気や欠陥として疎外される。そして、ユングのいう「個別化」が進まない。皆が皆、スーパーカーではないのに、皆が高速道路をぶっ飛ばせるスーパーカーの様な働き方を求められている。そうではなく、自分なりに走れる道を自分で探す方が良い。働き方の多様性を考えることが大切。そして、一つの基準(生産性がある)ことだけが大切という価値観を内面化すると、働けない人を殺してしまうことにもつながる。
・自由の本質は、二つの原理を行ったり来たりできること。この自由を手に入れるためには、対立する二つの原理を全く別物として捉えるのではなく、連続性においてみることが必要となります。
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近代、前近代、ポストモダンて、何かよくわからない。歴史的時代区分なのか、それに伴う思想的区分なのか。
そういう、人文知の大前提がわかってない状況ながらも、この本で問われている現代資本主義社会への違和感や、そうした巨大なシステムに対してどの様なスタンスで生きることが、より楽しく生きられるのかという思索は非常に心地よく、分かりやすかった。
自然と人との共存というのを、ずっと私自身のテーマにしていたが、その中で社会のシステムをサステナブルに変えていくことと、そのシステムのオルタナティブにして社会の外側に立つことの意義というのを、この本を読んで改めて具体化することができ、また、著者の言う様に両者を行ったり来たりしたいと思った。
持続可能な調達やCSR経営は、資本主義社会を持続可能なシステムに変えていく取り組みで必要だし、他方で、東日本大震災の被災地を訪れて感じた資本主義経済のシステムのもろさとオルタナティブとして地方分散・自給自足の的生活が必要と感じた直感も大事だし、そうした両方のいずれかではなく、両者の間を行ったり来たりすることこそ、自分がしたいことなのだと、この本を読んで理解できた。システムは大切だけれども、システムから弾かれる存在は必ずあって、その弾かれたものが生きるオルタナティブな場が必要であり、そのオルタナティブな場が、システムを相対化していきやすい社会をもたらす。だから、一つの正解・合理性だけのシステムだけではなくて、オルタナティブが必要になるのだ。
こちらの本は、内田樹氏の「ローカリズム宣言」、平川克己氏の「21世紀の楕円幻想論」で知った、社会の在り方、都市と田舎などの二つの原理の焦点を持ち、共存させるという考え方を、実践しさらに両者を行き来することの価値・意義を教えてくれる本であった。自分のやりたいことは、正にこの二つの世界を行ったり来たりすることだということに気づかされて、勇気を頂くことができた。自分も、漸う、やりたいことの哲学的意義を整理し、また具体的な行動方針を明らかにすることができてきた、この頃の中で、本書は自分の考えを整理して動き出す準備を整えるのに役立った。
間を生きるということは、7~3バランスで行動の選択肢を広げてくこと、白黒思考からの脱却ともリンクしていて、認知行動療法的と通じるところがあって面白い。
この本を読んで、気になったのは次の言葉たち。
・ハンナ・アーレントの定義
「労働」自分の生活維持のため
「仕事」世界をつくるため
「活動」他者とコミュニケーションをするため
→自分は、「労働」で自給自足、「仕事」で森林認証、「活動」で地域活性化とブックカフェをやろうと思った。
・社会のあらゆる領域を資本主義理論に置き換えていくと、全体主義的になる
・人は「離床」によって、地縁・血縁というしがらみから自由になったが、個別性、身体性をおろそかにすることになった。そのため、個別性、身体性に根差した土着が必要。
・社会制度や公共秩序に縛られることで、それにそぐわないものが、病気や欠陥として疎外される。そして、ユングのいう「個別化」が進まない。皆が皆、スーパーカーではないのに、皆が高速道路をぶっ飛ばせるスーパーカーの様な働き方を求められている。そうではなく、自分なりに走れる道を自分で探す方が良い。働き方の多様性を考えることが大切。そして、一つの基準(生産性がある)ことだけが大切という価値観を内面化すると、働けない人を殺してしまうことにもつながる。
・自由の本質は、二つの原理を行ったり来たりできること。この自由を手に入れるためには、対立する二つの原理を全く別物として捉えるのではなく、連続性においてみることが必要となります。
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面白かった。ルチャリブロの価値の多元性のひとつに【システムからの離脱=逃避】があるとして、果たして自分たちはどこに特異性があるかなというところへの問いかけを頂いたような気がする。
考えられるひとつには、「よりよい形での生成」の実験をしているということかなと。システム的に見れば、専門作家ではないし、大きな部分への参入もしないけれど、その反面生じる自由度の高さ、障害の露呈の中で、全的な発展をする生活実験をしている部分はあるのかなと。内在的な論理や秩序を最優先した上で(障害を携えた生)、システムや大きな論理に回収されることなく、
そこに経済が成立する実験。それは専門家としてのふるまい、社会的要請にこたえる<アーテイスト>としてのありようとは勿論異なる、いいわば、「むき出しの存在」としての生成していくこと=「アートとしての生」を全うする人生の成立が、この社会において可能であるのだと示すという意味で、社会的な意義も帯びてくるだろうと思う。「アーティストとはこういうもんだ」というキャリア、生き方とは別の、より根源的な内在秩序に依拠した生、全的な資質の横溢による生の達成。
おそらく全的な資質の発揮(=百姓的)と、専門家として社会に要請されることは、一致しない、一致しないけれど、それでも経済が成立するあり方が提示できるんでないか。
僕も、ある種、書けない時は一切書けないわけで、一定の周期や、社会的な要請において、制作を求められても
「職業」には関係あるけれど、「実存」には関係がなくなってしまう。そのどうしようもなさ(=障害)を携えつつ、それでも、「アートとしての生」を全うする術を、開発しようとしているのかもしれない。
以下引用
簡単に数値化できない、言語化社会化すらできないような「知」が自然やその一部には内在している、その知があまりにも軽視されている
もし今いる場所が自分に合っていないなら、自分の土着の知と社会の折り合いが悪いなら、なんらかの形でそこから立ち去る準備をしなければなりません
★社会の外部と縁を結びなおすことが必要。それができる場が現代のアジール
ソロー→なぜ独立を果たすことができたのか、それは社会を捨て、自給自足の生活を送ったからではない。社会の外部に触れる経験をしたことで、彼が社会の内部と外部を行ったり来たりできる核心を得たからです。孤独と社会、幻想と現実、自然と文明の境界に立てる、その間を行き来できる。
★外部と縁を結びなおすこと。その回路を確保するために、異人が生きていける場としてのアジールをつくる必要がある。
数値化を前提とした資本主義的・都市的原理に対抗できる別の原理の力を高めておかないといけない。
なかなか社会の外部には触れらない状況がある、この状況から抜け出せないのは、個人の資質の問題ではありません。個人ではどうしようもできないときに必要なのが、場所。ある空間に身を置くことで、意識的に取り入れることのできない情報を、身体が無意識にインストールする。資本主義的原理に負けない、外部に触れる経験が必要
書きたい本や訳したい本のための時間を確保するのが目的で、田舎での人とのふれあい、村おこしにかかわって時間を取られるのも本望でない。そういうものから逃げておきたい。
研究の世界と決別したつもりはありません、行ったり来たりしています。
渦中にいないからこそやれることはある。
逃げるというのは、自分にとって一番安心できる場所を探すという意味で、もともといた場所にもどるという感覚が一番近い
いずれにせよ、逃げ延びてこんなふうに山奥で暮らしていけるんだということで、別の人の希望になりうるんでないか
昨今の大学院ではスピードと生産性を求められるので、学術論文を量産して、それをまとめて博論をださないと、というプレッシャーが大きく、論文に直結しないことをやっている暇がない。
→これはコンペへの出品とか、ポートフォリオ作成とか、その辺のことをしていた時の面白くなさの記憶が想起されるな。「アーティストはそういうもの」みたいなものに準拠するのが、面白くなかった。
研究者という自己規制を少しゆるめると、すごく楽になる。
そもそも大学に就職するとか、しないとか、そういう次元だけで、研究してはいけないなと思った
重要なのは、関心のあることと収入を得られることは必ずしも相関せず、、
ドイツイデオロギーにおいて、各人は専属の活動範囲を持たず、自分が望むどの部門でも自分を鍛えることができるし、社会が万人の生産を管理している。そのおかげで、好きなように、今日はこれ、明日はこれ、といった感じで、朝に狩り、午後に漁、夕方に家畜の世話をし、食後は批評。だからといって、狩人、漁師、牧人、批評家になることはない。あるいはなる必要はない。これは労働、仕事、活動を、分けずに、総合的に実践していく方向。
→これを書いていると、海女のこなかさんを思い出すというか。専門家として立つことと、「その人の生を全うすること」は、必ずしも一致しないということかな。
★自らの声を取り戻す支援
★自分の土着を抑え込んで社会に適応する術を身に着けていくことよりも、せっかく持っている土着的な部分を大事にできるような社会を作る方が大事
→自分にできることは、この「土着を抑え込まないこと」くらいしかないだろうな。
土着の合理性に耳をすます。ぼくら一人ひとりには内的な合理性や論理がある。でも多くは。社会生活の中で、社会通念に合うように自らの合理性に合致しない人を、排除する。
公的秩序への違和感を、その人ならではの土着の合理性で表現している
土着の秩序にあまりに反した働き方をさせられると疾患ができるのは健全なこと
複数の合理性がある
異質な人を障害者や病気と分類し、社会から排除することで、社会をスムーズにしてきた
スマート化は、外在的合理性に基づく社会。人の内側ではなく、外側にある合理性によって最適化された社会
★序列主義。自らが信じていたものを引きはがすのは、簡単ではない。でもそれをはがさないと、自分本来の土着性は取り戻せない。
→僕もまだ序列化しているなぁ。
世間ではどんな人が求められているか、自分はどのような人になるべきか。ここで一番重視されているのはニーズ。
自分と比較不可能な他者に囲まれた生
近代社会は時間と空間を切り離してしまう。前近代までは、時間と空間は一つの場所に結びつけられていた
場所とは、質的な経過のこと。道がぬかるむとか、身体に変化が起きるとか、そういう変化って面倒くさいじゃないですか
土着というのは、物理的な土というよりは、ある種の「場所」を取り戻す試み(=世界において内在秩序と環境を同期/相互交流させながら生きるということかな)
大学のポジションをとるのにうまい人もいますが、だれもがどうであるわけではない。だから大学内の研究者とな同じことを大学の外でもやっている人がいたら、次世代の希望になる
常勤をめざすと、どうしても自分のペースではできなくなる。自分のペースはゼロになります。求められる書類を書き続けるしかない。その書類をいかに効率的にこなすかが、研究職に一番求められる。ちょっと悲しい
人文知は、そういう当たり前を問い直す学問。
★★青木さんのいう土着や生活は,整えられた環境から抜け出て、そこにしかない場を立ち上げること、それが人が土着的に生活をするということなのかな(世界内在者ということかな)
山は静謐な場ではない。闘いです。雑草は伸びるし、斜面は崩落してくる、川の水は増える。やることが無限にある
山に棲んでいると、自分は全く自由じゃない。という感覚が生まれた。自分のためだけにお金や労力を使いたいと思ってたが、いろんなことにもう少し目配せをしないそれができなくなると気づくようになった。自分の生活を保つには、社会全体を維持していく必要があるから
自由の本質は、二つの原理をいったりきたりできること。
山は障害なのです。しかし障害は自由を阻むものばかりではない。有限性を基礎に置いた、自由への理解が足がかりになります。台風がこれば、非難の準備をするし、火事が起きれば消防団の詰め所に集合する。障害にひとりで立ち向かう必要はありません。共同墓地の清掃や地区の役員は三年に一度は回ってくる。これからの民主主義は個人と共同体を行ったり来たりすることで、血縁や血縁ではなく、生態圏という有限性を基礎においた個人同士のつんがりにより構築される必要がある。
有限なもの、社会の外、その障害を受け入れたうえで、民主主義を立ち上げること
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思っていた以上に揺さぶられる本だった。両肩つかんで「これでいいのか」と揺さぶられる感じ。決してそのような暴力的な著述ではなく、おっとり静かな口調であるのだが。
自分よりもとても若い方(ご夫婦)の生活や考えを知り、「こういう生き方もあったのか」と、なぜか自分に引き寄せて考えた。研究者でもないし全くなんの接点もない、年代も違う、それなのに、これからの自分の生き方を考える時、ものすごく参考になる感じがした。
ただ単に「隠居」のイメージを重ねたのか。
大概の人は口だけになる。「疲れすぎて、都会もイヤ、人もイヤ、仕事もイヤ!もう山にこもりたい」。
こもりきりではなく、「行ったり来たり」。
理想ではないか。
これから先も目が離せない。
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就職活動や労働すること、お金を得ることについて違和感があって、逃げ出した自分が救われるような本だった。自分が所属しているものから逃げ出すことを否定しないで、それも積極的な行為のひとつだと言われ、考え方が柔軟になった気がする。
自分の中の軸、自分にとってちょうどいい生き方をしていきたいと思った
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新年一冊目。浦和と深吉野ほどのかけ離れた土地のありかたであれば都市/農村という対立の文脈で語られるときに綺麗に落とし込めるのだが、自分の住んでいるような東北の地方都市について考えた場合、資本主義的な原理に回収される部分が大都市ほどではないがあるにせよ依然として封建的な縁により結ばれた関係性の中で生活しており、そのどっちつかずの曖昧さはある種アジール的な様相を呈しているのではないかと思った。しかしながら、その地方都市に生まれ育った人間にとっては、まさしくそれが「内部」の世界である。私も地元に帰って私設図書館を作りたいな。
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都会に住んでハウツー本を片っ端から読んでこういう本を読むってどうなのよ、でもなんかすごい。この本で紹介されてる本を読もうという気になってきた。
社会から離れたところに身を置く。他者が自分との違いを確認できる相手である必要はない。自分と比較不能な他者の中に身を置く。生きていることもあれば死んでいることもある。意見を変えてもいい。みんなが考えない社会がいい社会という感覚への違和感。
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社会の中でアジール(避難所)を自分たちの手で確保するという言葉に惹かれて手に取る。
面白く刺激的だけれど、それを明文化するには自分の中の蓄えが足りない。働くとは生きるとは何だろうということに思いを馳せさせられた。
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品川中延にある「隣町珈琲」にぶらっと立ち寄った際、著者が参加するイベントのポスターが貼られたいたのをきっかけに手を取りました。
経歴と現在の活動について見た時、最初に自分が思ったのは「山村に自宅兼図書館を作って、どうやって暮らしていくつもりだろか?なんでそんなことしたんだろうか?趣味なんかな、気楽でええな」といったこと。
この本を読んで、無礼で浅はかな考えを猛省。
資本主義と新自由主義が台頭する現代社会はすべてが均質化され、誰もが血縁や地縁に依存しない自由を手に入れられる環境となった一方で、競争に入り込めなかったりうまく社会になじめない人達にとっては生きづらい世の中になった。あらためて、ここはまさしくその通りだと思う。体調不良などもあって、著者は社会(此岸)と離れた避難場所(アジール、彼岸)を自らの手で構築し、此岸と彼岸を行き来することで自分の人生を取り戻し、よりよい社会システムを模索する研究に邁進されている。
「てづくり」にこだわるところも、資本主義に対する反骨心のようなものという点に共感した。サービスが行き届いてなんでもお金で手に入る時代、モノに自分を合わせてある意味窮屈な生活を送っているのではないだろうか。小さい頃からそのような環境で育った場合は、それが当たり前となって、何も感じないかもしれない。「買えるもので生活すればいい」、個々人が満足できればその考え方もありだが、社会全体、地球全体で見た時にもうそのような考え方が許されないのは気候変動と環境問題の深刻化を考えれば一目瞭然。
我々は盲目的に商品の無限性というまやかしを信じてしまっているようだが、まずは自然の有限性を自覚しなければならない。その一つの契機が山だそうだ。
給料もらって仕事して、子供育てながら自分のキャリアを考えることに、何か漫然としない気持ちを持っていた自分にとても刺激的な示唆をくれた本だった。AIが発達して世界がいくら便利になっても、人間の精神までも変わることはないだろう。そんなときに人間として生きることは何なのか、幸せに生きるとは正しく生きるとは何か、という問題に答えるためには歴史を知り、文学に触れ、人文知を探求していくことなんだろうなって思った。