紙の本
日本人・・・
2024/01/12 13:41
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ないものねだり - この投稿者のレビュー一覧を見る
北欧とひとくくりにするけれど、デンマークは旧宗主国でノルウェーは分離独立の歴史があり、フィンランドは第二次世界大戦でドイツに協力して負債に苦しんだ経緯がある。
投稿元:
レビューを見る
日本から見ると極寒の北の地の者がなぜバイキングとなりヨーロッパ各地に出向き、大きな足跡を残したのか、それが知りたかった。
メモ
まえがき ヨーロッパの中の北欧
ヨーロッパ大陸から位置的に隔離されていた、これが北欧の特徴。
ヴァイキングは、ずば抜けた航海術にものをいわせて、一方的にヨーロッパを席巻できた。これは当時のヨーロッパ大陸が封建的分裂によって軍事力が分散していたため、侵入が比較的容易だったから。
近代の始めには北欧諸国が覇権を争い得たが、それは周辺にまだ近代国家があらわれてはいなかったから。
近代になると、ヨーロッパ大陸に関与を避けたい、という消極的な面が、逆に北欧諸国の発展を利した。軍事的関心の中心の場となったバルカンとは対照的に、帝国主義時代の隆盛に乗じて工業発展を進め、第一次世界大戦では中立を守ることで、19世紀半ばの後発国的経済状態を脱して福祉国家への道をひたすら歩むことができた。
北欧諸国は、文化意識の面では一体性を感じていたが、政治・軍事的には一つの国にはまとまらなかった。これが社会面での越境的な統合をすすめ非軍事的な面での協力を目的とする北欧会議を発足させた。ECより統合が進んでいるとも言われ、冷戦下では緊張緩和の空間を作り出していた。
が、1995年にスウェーデン、フィンランドがEUに加盟し、さらに2022年2月のウクライナ侵攻を受け、5月にはとうとうNATOへの加盟申請となった。これは北欧にとってはヨーロッパ大陸からの相対的隔離という状況が雲散霧消してしまったことを意味する。
スウェーデンとデンマークは宿敵
第1章 北欧の先史時代(ヒースマン姿子)
BC13000 ほぼ全域が氷床に覆われ大陸とつながっていた 7月でも零度近く、とけだした水はたまってバルト氷湖をなしていた
BC12000 気温が上昇し、氷床が後退し、動植物とドイツ北部からハンブルク文化の影響を受けた人がやってきた(ブローメ文化)
バルト氷湖→大西洋をつながりヨルディア海→スカンジナビア半島は再び大陸とつながり、ヨルディア海はアンキュルス湖となる。⇒この時ブリテン島、アイルランド、ヨーロッパと地続きになり、大陸北西部の後半な地域に、イギリスのスター・カー遺跡で知られるマウレモーセ文化が形成された。狩猟・採集の季節移動生活。
BC8500 再び大陸から分離、アンキュルス湖は今日のバルト海の原型であるリトリナ海になった。3
BC3000 北欧南部で土器の使用が始まる(エアテブレ文化)
BC2000 大陸からフェンネル・ビーカー文化とともに農業が伝わり、小麦、大麦、エンマー小麦などの栽培と豚、羊、山羊などの飼育がされた。
巨石文化も伝わる。フィンランドにはバルト海沿岸東部からウラル山脈にかけて広がった櫛目式土器文文化がみられる。
BC2000~1800 闘斧文化。デンマークでは単葬墓文化。その他北欧では舟型石斧文化。→のちのロングハウスの原型ともいえる長さ10m近い掘立柱の住居も建てられた。
BC1800 青銅器が到来。フィンランドではこの時代の遺跡は極端に少ない。デンマークでは15000基の青銅器時代型墳丘墓がある。火葬も伝わりキリスト教の土葬が普及する11世紀まで骨壷とともなう火葬が主流となる。ロングハウス(長さ15m幅6m )が建てられる。倉庫や作業所を含む多機能建築物。
スカンジナビア半島北部とフィンランドでアスベスト土器(使い手はサーミ人の先祖とみられる)やロシア中西部からの影響とみられる繊維土器がみられる。
BC500 鉄器が伝わる。この頃になると各地に集落がみられる。ローマ人ピテウスやタキトゥスの著述に北欧らしき地名登場。北欧から毛皮、琥珀色、セイウチの牙が、ローマからは土器、ガラス製品、金属製品が入る。
AD400~550 デンマーク:前期ゲルマン鉄器期、ノルウェー・スウェーデン:民族移動期、環状集落や古墳あり。
<民族移動>
・BC2世紀にローマ世界に侵入したキンブリー、テウトニー、民族移動期にイングランドに渡ったアングル人、ジュート人などは、ユラン半島(ドイツ突端デンマーク)近辺出身と言われる。
・ブルグンド人は現デンマークのボーンホルム島出身
・ゴート人はスウェーデンの中南東部・西ユトランド地方、ゴットランド島からと言われる。
・・これらの地域では民族移動期に遺跡数が激減するので民族移動説の根拠となっていたが、現在では疾病説、気候変動説もあり。民族移動の北欧との関連は、主に集団名と地名の類似、伝承を基礎とするにとどまっている。
~8世紀末 舟葬墓が現われる。
・北欧は集落遺跡が非常に少ない。
第2章 ヴァイキング時代(熊野聰)
8世紀末に始まる。海賊であるとともに交易者。西欧、ロシア、ビザンツの王侯に傭兵、親衛隊としても勤務。多くは一般住民=農民。ヴァイキング舟の指導者であった豪族も多くは農民の上層。ヴァイキング活動期を通じて指導者、勢力ある階層が成長し、北欧諸国の王権もこのなかから生まれる。
・ヴァイキングはノルマン人、デーン人とも呼ばれた。ノルマン人の一部はセーヌ川河口地方に定着し、その地域はノルマンジーと呼ばれるようになった。11世紀以後の史料に「ノルマン人」と呼ばれている人々は、ヴァイキングの子孫というより、ノルマンジー地方出身の騎士たち。
・デーン人はアングロ・サクソン史料でデンマークからやってきたヴァイキングをさすが、「デーン人」部隊がデンマーク人のみで構成されていたわけではない。
・ヴァイキングの目的:遠隔地の珍しい品物を入手して豪族としての権威を高める。故郷の農場で不足する生活必要物資の調達。侵入先で人々を捉え奴隷とした。捕虜=奴隷の一部は身代金と引き換えにイスラム世界などへ奴隷として再輸出された。
・ノルウェーでは個別の豪族が、デンマークとスウェーデンでは王や地域首長の主導権が大きい。スウェーデンでは遠距離交易の要素が大きかった。
・ノルウェー:シェトランド諸島、オークニー諸島、ヘブリティーズ諸島、アイルランドに入植。ダブリン地域にはノルウェー系ヴァイキング王朝ができる。スコットランド西海岸部と島嶼部、湖水地方にもノルウェー人の定住を示す地名が多く残されている。
・ベブリティーズ諸島とマン島は12,3世紀に、オークニー諸島トシェトランド諸島は15世紀にスコットランドに帰属した。この地の住民の文化・慣行・言語に長く北欧の痕跡がのこされた。
※キエフ・ルーシ:「ネストール年代記」9世紀の半ば過ぎ、スカンジナヴィアから来たルーシ人がノブゴロドを支配し、次いで南下しキエフにも政治支配を樹立した、と言われる。ロシアの古名「ルーシ」はスウェーデン人の一グループの名称からきたという。
・コンスタンティノープルの皇帝は北欧人だけからなる親衛隊ヴァランギア隊をもっていた。
・「スウェーデン」の成立
・現在のスウェーデン南部(スコーネ地方)は14世紀半ばまではデンマーク王国の一部。1658年にスウェーデン帰属が決まるまでは両国の争奪の地。
・フィンランドは1809年まではスウェーデンの東方領。
→現在の「スウェーデン」の成立は19世紀初め。が原型はヴァイキング時代に形成された。
・「デーン人の国」
・デンマークの領域は、ユラン(ユトランド)半島、スコーネ地方(現在のスウェーデン南部)、シェラン島などの島嶼部の3地方から成る。
・1016年11月、父の後を受けイングランド征服をやりなおしたクヌーズ(カヌート大王)は、イングランドの王となる。1027年、ノルウェーの王位も手に入れる。→クヌーズはイングランド、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン南部とヴェンド人の国(北ドイツ・ポーランド沿岸部)を単独支配する、が、1035の死とともに、北海帝国は瓦解した。
・ノルウェーの統合
9世紀末、南東部のハーラル美髪王が沿岸部を統一。デンマークのクヌート支配の後、11世紀後半、ハーラル・シグルソン(苛烈王)のとき内陸部もひとまず統合される。
・フィンランド
スカンジナヴィア3国で王権が形成されつつあったヴァイキング時代には、フィンランドの政治的結集は未発達だった。フィン語を話すフィン人は、南西部のスオミ、その東方内陸部のハメーンリンナ、その東方のカレリアの3地方に分かれ文化的経済的なまとまり。オーランド諸島にはスヴェーア人が農漁民として居住。
・フィンランドは比較的温暖な沿岸部で大麦、ライ麦の栽培。内陸部や北部では狩猟。
・自ら政治的な社会的統合を行う前に、成立したばかりのスウェーデン王権によって漸次征服され、税として毛皮をとられた。
「新版 世界各国史第21 北欧史」1998.8山川出版社 の普及版~YAMAKAWA Selection としたハンディ版(旧版は1955刊)
新たに、第十章 現代世界のなかの北欧(村井誠人)を追加
2022.8.10第1版第1刷 図書館
投稿元:
レビューを見る
元になった世界各国史の北欧史(1998年版)を読んだ時にも感じた事だが、デンマークとスウェーデンが年がら年中戦っているのに驚かされる。時代が進むと、そこにロシアも絡んでくるので、より複雑に。
また、ドイツ史から見たハンザ同盟ではなく、北欧史からハンザ同盟という視点は興味深い。彼らと結びつき力を得ていく者達。その利益を奪おうとする国王。宗教改革なども巻き込み、大きなうねりを起こす。