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脳梗塞の後遺症でマヒが残ると「死んだほうがよかった」という言葉が出ることが少なくない。
迷惑をかけている、お荷物になっている、という感覚が耐え難い。
85を過ぎたころから、体力が落ちる。
高齢者の自殺が多い国。
死ねない老人には、生きがいを見失って死にたいと願う人、周囲の圧力で不本意に生かされてしまう人、の2種類がある。
塗り絵やカラオケは生きがいにならない。
遊びだけを老後の楽しみとして提供する高齢者サービスは高齢者を見下している。
遠くの親戚問題は家族を混乱させる。
リビングウィルがあっても、治療を中止すると殺人と言われかねない。
在宅死は、静かに死ねる。
病院にいるといつ死ぬか、を考える。自宅にいると今日生きていてよかったと思える。
高齢者が食べなくなるのは、死に向かう時の自然な体の変化。
要介護でも訪問介護や施設介護をフルに活用すれば、在宅は可能。
台湾では安寧緩和医療法で尊厳死を認めている。
韓国ではリビングウィルが通用するようになった。
安楽死と尊厳死は違うもの。
尊厳死法案を妨げているのは、難病患者団体など。周囲が治療をやめるように働きかける可能性を心配している。医師会も反対。医師の裁量範囲が狭まる。
オランダでは安楽死も認められている。命はだれのものか。
生きがいの一つ目は人の役に立つこと。二つ目は好奇心を持って学ぶこと。
脳の本能は、生きたい、知りたい、仲間になりたい。
歳をとると何をやっても面白くない、と行動量が減る傾向がある。脳の伝達機能が落ちている。
「いつも何かに夢中になること」が大事。
法的効力がなくてもリビングウィルは作成しておく。
実際にがんになってみると、死にたくないという人も多い。
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筆者の方は嘆いておられましたが、おおよそ医療界の中、特に内科や家庭医療のマインドを持つ方々は少なくともこの本に書いてくださっている問題点を共有してきる方が多いと思います。
今はむしろ積極的な集中治療や延命に近い治療を総合病院でパターナリスティックに行うという例は減っていると感じます。慢性期の病院や施設で管理が容易だからという理由で胃瘻や胃管などを機械的に勧めてしまうケースなどはあるんだと思います。せめて、経営的な理由で行われるケースは無くなってもらいたいと切に思います。
逆に、特定の病気やある程度の年齢以上になったときに十把一絡げに治療をしない方向に持っていこうとする様子や、決定が医師の考えによる、属人的に決まってしまう側面は否定できないと感じます。患者の意思を尊重するという名目が、パターナリズムの方向が違うだけになってしまわないかは注意を要すると感じます。
治療をする主体本人の希望はなんなのか。主体自身もわからないことは少なからずあるでしょうが、考えたい考えたくないも含めて本人の意向に合う生き方ができればいいなと。
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高齢の親に人工栄養なんてしなくてよくてもそんなこと言えない雰囲気の病院。
自然の理にかなって食べなくなるのに点滴や栄養剤を入れられてしまう
全国のお医者さんがみなこんな考え方ならいいのに。
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日本は老人が死にたがり、そしてかつ、なかなか死ねないのだという。
それは延命。胃ろうの普及率がとても高い。
しかしそんなのが本当に必要なのだろうか。
老人が死にたがる背景と、もうちょっと自然に死なせてあげようよ、という本。
僕はこの分野に関心があるので、すごく新しい何かを知る、という感じではなかったけれど、書かれていることは多くの人に知ってもらいたいことばかりだ。
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死にたいのに、死ねない。
その理由が家族に迷惑をかけたくないから、だとしたら、そんな悲しい事はない。永遠に続く痛みから解放されたいという事なら、そうしてあげたい。それでも。唯一、自分が自分でいるだけで愛してくれた親に対しできる限り尽くせれば。死にたい気持ちは、一時的な場合もあり、判断を誤れば取り返せない。それが尊厳死を難しくする。それで良いと思う。死の判断は、難しくて良い。
本書に、終末期医療をどうすべきか、というような話がある。食事ができない病人を胃ろうや点滴で命を繋ぐ事に対し、それで良いのかと。個人的、家族的事情を配慮して機械的に白黒つけない制度であるならば、自由度はあって良いと思う。悪用されなければ、その判断の責任は、当事者同士が負えば良い。その際にコストの事、年金の事を考えて望まぬ判断をするのは避けたいが、それも含めて一つの人生であると考えれば。
本書に書かれている生きがいについて。幕引きの話も重要だが、死にたいと思わない現世に向き合う方が、先ずは大事。人の役に立つこと。好奇心を持って学ぶこと。この2つが、生きがい。突き詰めて考えると、人間にとって一番面白いのは、他者とのコミュニケーションなのだという。
そんなもんかな、と思う。
できる限り面会し、できる限り会話するようにしたい。