紙の本
誤情報の拡散といじめ
2023/03/17 18:46
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:nekodanshaku - この投稿者のレビュー一覧を見る
「いじめ」という言葉の持つ、物事を画一的に規定してしまうことをまず、十分に理解しておかないといけない。そして偽情報・誤情報がエコーチェンバーで増幅され、枠を超えて拡散していく「インフォデミック」という現象を認識して、社会を生き抜いていかなくてはならない。小山田圭吾氏の名前は、2年前の事件(誤情報に基づいていたらしい)で知ったのだが、その後の報道が何もなく、忘れていた。しかし、情報は、複眼的に継続して追うべきものだと改めて認識した。そして「いじめ」という言葉を、子供たちの世界に安易にまき散らさないように。
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2021年夏からの無茶苦茶なメディア、無茶苦茶なネット空間を思いだしてしまいなかなか読み進めることができませんでした。
この本には現代人として必要な知識が詰まっています。
全宇宙読め!
今までこの世になかったネット空間が日常となった現代、人類はまだまだこの技術についていくことができていないのだ。
まずはインフォデミックという言葉を覚えることから始めましょう。
将来、ネット空間を含めより良い世界になることを願います。
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小山田氏の件について深く知りたかったので、読みにくい文体を我慢して読んだ。事実関係については認識を新たにしたが、氏に対するモヤモヤはあまり減らない。いじめ文化論みたいなことを書かずに、氏の件をもっと掘り下げてほしかった。
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当該インタビューをリアルタイムに読んだものとしては、あの騒動について全く理解し難いことだったのだけど、この書を始めとしてしっかりと総括されていることについて、非常に頼もしく思います。妙な憎しみで世の中が満たされているような感じがしているのですが、冷静に少しずつでも薄まっていけばよいな、と思います。
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2021年夏、コーネリアスの小山田圭吾氏が、東京オリンピック・パラリンピック開会式の楽曲制作担当者を辞任した(させられた)事件があった。
学生時代の自らの障害を持った同級生に対するいじめをめぐる1990年代の雑誌上での発言がSNSで炎上したことがきっかけだった。
当時、小山田氏を犯罪者扱いするような記事もあって、内容が内容だけに「叩かれるのは仕方がない」という思いつつも、「なぜ今さら炎上するのか?」という思いも交錯して、もやもやした心持ちで事件を眺めていた。
で、その事件を振り返った本書。
バッシングはインフォデミックだったと結論づける小山田さん寄りの内容だけど、説得力ある。
そういうことだったのか!
すっきりした。
それにしても、アンチの人がエコーチェンバーで盛り上がるのは仕方がない。
しかし、まともに元ネタも読まず全国紙の記事にしちゃう〇〇新聞の記者はしょうもないな…
小山田さん自身の釈明である【いじめに関するインタビュー記事についてのお詫びと経緯説明】(http://www.cornelius-sound.com/index.html)と合わせて読むとよいです。
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人文学者の手によるインフォデミック糾弾の書。僕は著者のような小山田圭吾の特別な信奉者というわけではないが、若い頃、パーフリから「Fantasma」まではそこそこ熱心な聞き手だったし、そこから20年以上も経たのちに持ち上がった件の「いじめ」報道と炎上騒ぎには心底辟易していた。ただ僕の抱いた疑念は著者のそれとは全く違い「なんであの小山田圭吾ともあろう者が『オリンピックの楽曲制作担当』などという名誉職を引き受けたのだろう?」というものだったけれど。念の為に申し添えれば僕はボランティアにも参加したオリンピック賛成派で、それ自体は全く無害な催し(であり、それ以上のものではない)だがそれに付着している栄誉やら何やらは本当にくだらないと思っている。そこに唐突に加えられた小山田圭吾という強烈な色彩が、オリンピックのその無害さとどうにも相容れないものに思えただけだ。
そういうわけで、本書の第3章までの内容にはさほど共感することができなかった。確かに当時の邦楽ジャーナリズムが欲するように方向づけられてしまった面は否定できないだろうが、この奇矯なイメージづけで小山田が得たものもそれなりに大きいように思えるのだ。当時の小山田は、繊細で美麗な楽曲のコンポーザでありながら、攻撃的で非道徳的な面を併せ持つ一種理解し難い奥深さを持つアーティストとして認識されていた。そこに例のROJ・QJの一連の記事は一定の貢献をしたと言っては本当に過剰なのだろうか。それが反ヒューマニズムであるとして糾弾の対象となる度合いが、この数十年で大きく変動してしまったのは本当に不幸なことだが。
ただ、第4章の内容にはかなりシンパシーを感じた。自分の経験に照らしても、自分が「いじめている/いじめられている」まさにその時は、自分が「いじめる側/いじめられる側」にいるという意識は確かに希薄だ。しかしいったんそのような状況が閉じられた後で、それは「いじめ」や「パワハラ」であるという外部からの指摘ないし定義づけに接すると、そこではじめて「あれはいじめだったのだ」という明確な認識を持ったりする。他人が同様の状況(本書の言葉を借りればある種の「構造」)のもとで経験したエピソードに触れることで、自らの経験を事後的にその文脈で容易に捉えなおしてしまうのだ。
これはつまり「他人の人生を生きる」ということだ。自らに固有の感性に基づくのではなく、他人の経験や批評を介してでしか自分の人生を評価できなくなってしまう。これは確かに著者のいうとおり由々しきことであり、奔逸する情報があまりに多すぎて、個々の情報を自らの経験に基づいて吟味する暇もなく脊髄反射に反応することを余儀なくされている我々が容易に嵌りがちな陥穽だと言える。「自分がエコーチェンバーの中にいるかどうか」は事後的にしかわからず、その外に出てみて「自分はエコーチェンバーに囚われていたのだ」と初めて認識できる。これはまさに「いじめ」の経験の図式と全く相似ではないか!「いじめ」と「エコーチェンバー」に同一の構造が隠されていることを喝破した、この著作は小山田圭吾のファンならずともぜ���一読すべきものだと思う。
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けれどもまた、というよりもいっそう、からのしかしそれだけではありません、みたいな修飾が過剰気味だったり回りくどかったりするのは読みづらくて面倒だった
はじめにで抱いた億劫さは増してく一方で、題材自体には興味あったのだけど、めんどくささが勝ってギブアップしました
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内容はまあこんなもんかなという感じ。ただ、文中で軽く紹介されていたファンによる検証サイトの「擁護する以上足下を見られないよう完璧にやります」という、能力と社会性と覚悟を備えたファン達の熱気が立ち昇る感じは一アクセスの価値はありました。
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今日のメディア環境下で促進される誤情報や偽情報の大規模な拡散ーインフォデミックーは何故起きて、我々はどう対処すればいいのか。本書はそのために書かれた。よって、私のように小山田圭吾やコーネリアスの音楽を聴いたこともないような者にとっても重要なことだと思い、紐解いた。
何故起きたのか?
幾つかの要因のうち、重要だと私が思ったのは世の中が単純化を求めているから、ということだ。
学校時代の回想の一部が無惨に切り取られ、匿名掲示板に集う人々による悪意に満ちた拡散の果て、際立って恣意的なあるブログ記事が不当に信頼を得たことで、小山田圭吾の歪曲的な人物像が広範囲に共有されることになった。本書を一通り読んで、私も片岡さんと同じく「(小山田は)不当に過ぎる重荷を担わされている」と判断する。でもそれは曲がりなりにも250ページを辛抱して読んだからだ。
最初、もしどんな歪曲があったとしても、「(障害者へのいじめ関わりがありそうだから)パラリンピックの担当者には相応しくないだろう」と通り一遍のヤフーニュースを読んだ人間は思ってしまうような、揺るぎないかに見えた単純な「事実」が提示された(だから、小山田辞任を「傍観」した私を含む市民を免じるわけではないが、ここでは扱わない)。
1番衝撃的なインタビュー記事を、SNSで140字以内に載せる事ができたことが「拡散」に拍車をかけた。
でも、誰もが納得できるように物事を説明すれば、この本のように10万字以上の解説が必要である。此処に一つの問題がある。
もちろん、物事を単純化することは必要だ。
その一方で、
これは私の30年以上にわたる持論なのだけど、
議論が二分するような問題は、
間違いなく重要な問題である。
その時、問題は間違いなく複雑系である。
そして、その幾つかは大きな括りで言えば、
インフォデミックが起きている。
例えば
従軍慰安婦像は「反日の象徴」である。よってその展示を予定していた「表現の不自由展」も反日展覧会になる。そんな暴動が起きそうな展覧会は危険だから、中止するのも「仕方ない」。
例えば
マイナンバーカードが健康保険証化されるのは「仕方ない」。よって、カードを作るかどうかは本人の選択だけど、「大きな」制限とお金がかかるから、カード化が進むのは「仕方ない」。
例えば
台湾海峡で戦争の「危険性」が増している。そのために備えが「必要」なので軍事力倍増も「仕方ない」。
こういうのは、単純化して反論できない。不才不肖の私ならばせめて少なくて5万字と1ヶ月以上の完全自由な時間が必要だ。
片岡さんは本書で「何が起きたのか」については語っていたが、この複雑系に向き合うために「ではどう対処すればいいのか」という事まで触れてはいなかった。ただ、他の宣伝インタビューでは、
「私たち人間にとって、心地よさを通して複雑さに向き合うための道筋を提供してくれるものは、一つは広い意味での「芸術」だと言えます。」(「世界の複雑���と向き合うための、シンプルな方法。」https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/1876864/1/)とは言っている。
白でもなく黒でもなく、複雑さを一目で見渡す手段を「芸術」は確かに持っているのかもしれない。(だからこそ、従軍慰安婦像が、日本人の多くに直に見られなかったのは残念だった。)
ちなみに、現在、2021年7月16日に炎上騒動を無批判に伝えた毎日新聞と、その後追随報道した各新聞、辞任表明直後の「報道ステーション」アナウンサーが「いじめというよりは、もう犯罪に近い」と発言したこと、またさまざまなSNSの中でその震源地となったブログ主は、未だ一切事実経過の正確な説明と謝罪をしていない(ブログ主はいまだに片岡さんを罵倒に近く非難をしていた)。拡散に重要な役割を持った個人並びに組織が安全地帯にいるという、この世界的な構造も、またインフォデミックの大切な要点なのかもしれない。
たけさんのレビューで、本書を知りました。ありがとうございました。
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小山田圭吾の一連の騒動について書いたもの。
明確な結論があるわけではないが、インフォでミックの要素が大きいことを知った。
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オリンピックや報道や小山田氏に大して興味無かった身からするとずっと同じ話してて中々展開しない印象…
100ページ以内にまとめて欲しかった
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小山田圭吾が思っていたよりもさらに悪くなくて驚いた。イメージに引っ張られていたと反省して最新作を聴いてみたが良さが分からなかった。なんか仙人みたいになってないか。
あと、小山田圭吾を糾弾した人とこの本を読んで糾弾した人を糾弾する人の間にはたいした違いはないのではという考えが頭を離れなくて読んでいて居心地が悪かった。
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キーワードは「物語」ということかなと思った。音楽における雑誌・ジャーナリズムが小山田圭吾を「いじめの主犯」というイメージで飾る。そのイメージ/バイアスに沿って記事が作られ、それを補強する記事が新たに生み出され、それがコピペとなって手軽に(ファクトチェックを怠ったまま)シェアされる。「いじめ」という言葉に飛びつき、そこから正義感を燃え上がらせた人たちに恐怖するのはもちろんだ。だが、そうしたジャーナリズムが生み出す「物語」の魔性の力にぼくはどれだけ自覚的であるか。新手の「いじめ」や「渋谷系」試論としても読める