投稿元:
レビューを見る
【なぜキーンは英語で書き、わたしに翻訳させたのか?】ドナルド・キーンが知りたければ、その作品と直に向きあうほかない。晩年の20年を伴走してきた翻訳者による、初の評伝と作品論。
投稿元:
レビューを見る
評伝ではありません。キーン氏の翻訳に携わってこられた角地氏の雑感集なので、ちょっと取り止めのない感じもあります。日本の学会がキーン氏に対して無関心を装ってきたという不満は同感です。海外では日本文学の通史を知ることができる研究書がないので、「日本文化史」を完成させたそうですが、日本人の私にとっても基礎文献です。日本語は音数が少ないから「掛け言葉」が生まれたという説は卓見で腑に落ちました。彼が晩年手がけた渡辺崋山の評伝は涙しました。明治天皇を通して幕末から明治を知るという試みもいいですね。キーンさんはかけがえのない啓蒙家でした。
投稿元:
レビューを見る
本自体が薄い上質な紙でつくられています。そして「キーンさんという陽の温もりを一身に浴びて、その恵みに守られて生きて来たような気がする」という言葉に端的に表現されているように、相互の慈しみが感じられます。
日本語のもつ象徴性の高さに魅せられたドナルドキーン。「時には、詩人が一篇の詩の終りまで全く違った二組の影像を並行させて、少しも破綻を来さずにいることもある」という例として、
消えわびぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしの森の下露
という藤原定家の歌を引きます。恋人に捨てられる人を描いただけでなく、風吹く森の消えそうな露をも、二つの同心円的に描いている、とのこと。確かに、どうして自然の円も描くのでしょうね。私自身は、定家から遠く、しかも薄っぺらくなってしまいました。