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マルクス・ガブリエルの哲学: ポスト現代思想の射程
序章主著は三冊
ガブリエルの哲学はカント的な体系の復興と見立てられそうだが、話はそう単純ではない。確かに体系構制としてはカントに準じているが、基本的な着想そのものは学生時代に専攻したシェリングにあり、カント的な道具立てを用いてクリプキをはじめとする科学哲学の手法で問題を処理するというのがガブリエルの流儀である。
ガブリエルは現代思想全般、とりわけフランクフルト学派に批判的だが、そのなかで例外的なのはデリダであり、科学哲学の手法でデリダの問題圏に近づいている。
また政治理論としてはロールズに好意的であり、現代思想より以前にわが国でも流行していた実存主義を評価している。
第一章 世界は存在しないー『意義の諸・領野』
ガブリエルが当初はシェリングの神話の哲学の研究を介して宗教ないし芸術への関心を示すように見えながらも、観念論を懐疑論的に読み換えることで伝統的な形而上学の解体に挑もうとしていることである。形而上学の解体と言えばわれわれはすぐさまハイデガーやニーチェの仕事を連想するが、後述するようにガブリエルはナチスに利用されたこれら二人の哲学者から距離を置き、むしろカント的な伝統に立ち返りながら科学哲学の手法で間題に取り組む姿勢を見せている。
ガブリエルは自身の立場を「無世界観」と名づける。つまり形而上学が想定する客観や領域は一切存在しないとする立埸であり、このことを「世界は存在しない」と言い換える。この表現は先述の『存在論』における「客観を一切包含する究極的な領域は存在しない」という言い方に対応し、また『なぜ世界は存在しないのか』に直結する問題意識でもある。
量化子が適用されるのは卵の存在が自明視される領域が前提されてのことで、そうした領域と「卵は存在するのか」という問いが及ぶ領域は区別されるべきだということである。だからといってガブリエルにとって「卵は存在するのか」という問いが「卵が何個存在するのか」という問いよりも根源的だとか上位にあるとかというつもりはない。つまり形而上学の道筋は取らない。大事なのは個体が適切な概念を包摂することである。
「領域」と言う場合は、そのなかに何かが, 在するかどうかにかかわらず領域が自立的に存在するイメージが持たれるのに対し、「領野」はむしろそこに何かが存在することが知られることではじめて感知される埸所だということである。それゆえ「領野」に帰願する対象の外延が空集合と同じということはあり得ない。
で改めて「意義の諸領野」が次のようにテーゼ的に示される。
1 存在することは意義の領野において現出することである。
2 何であれ対象が存在すれば、その対象は意義の領野において現出する。
3 意義の領野は存在する。
4 そのなかで意義の領野が現出する領野が存任する。
ガブリエルの政治的立場を敢えて問えばそれはアナーキズムということになるが、その立場はこうした平坦な存在論に寝打ちされていると考えることができる。
『諸領野��が問題にしたのは、本章のはじめで論及したように伝統的な形而上学の解体である。例えばプラトンの言うところのイデアとその影、 カントの言うところの物自体と現象、ハイデガーの言うところの存在と存在者の区別に共通するのは、 可視化ないし言語化できるものとそれを超えるものを見定めるという定式化のなす、二階的な階郴秩序である。
その表現の仕方は上下関係だったり奥行きだったりとさまざまだが、いずれにせよ一部の部位が特権的な立場をなす階層秩序である。これに対してガブリエルは意義の領野が無際限に増殖し、しかも意義の領野同士の関係は並立的だとする平坦な存在龄を掲げている。
そこで様相の問題は当該の領野における爭物の現出の仕方に関わる現実性のみが問題とされ、必然性は当該の領野内の事物同士の関係として、叮能性は意義の領野のあいだの移動の枠組で処理されることになった。
第二章 ユニコーンは存在するー『諸々のフィクション』
ガブリエルにとって「フィクション」はいわゆる物語、絵.刪、彫刻、音楽あるいは映画といった芸術作品に限られるものではない。例えば法律、自然科学、日々われわれの見る夢といった、ある意味で日常生活に定位しながらその枠組を超出するような出来事は、ことごとくフィクションに含むことができる。
「意味づけ」は確かに「総譜」には関わるが、やはり「構成要素の学問的再構築」にとどまる。基本的に演奏者と鑑賞者は「解釈」に定位する点で同列になるが、前者の場合は「総譜」の意味づけのうえに築かれた「解釈」になるので、この点で音楽の玄人と素人の「解釈」は分岐することになる。
アラーの神はキリスト教という意義の領野においては存在しなくても、イスラム教という意義の領野には存在するのであり、 また万有引力の法則は『不思議の国のアリス』のようなファンタジー作品とい、つ意義の領野においては存在しなくても、自然科学という意義の領野には存在するということである。つまりはフィクション的対象として定常的に話題になる対象は、全面的に否認されることも全面的に肯定されることもない。
現象学の方法論に対するガブリエルの評価は、かなり好意的である。
1 われわれは事物全体を知覚することはできない。
2 一つの事物を知覚する場合、直接的に知覚されるのは小物の・側而にとどまる。
3 事物の一側面の知覚は事物の別の側面を覆い隠す(陰影の公理) 。
4 知覚判断は直接的に知覚されるものに関わる。
結論。知覚判断は事物全体に関わることはない
われわれは神話とイデオロギーをよく混同するが、ガブリエルによれば両者のベクトルは逆向きである。つまり神話が過去のある種の規範性を原型として現代に投影させるのに対し、イデオロギーは逆に現代の価値観が遠い過去より続いているように見なす。そしてその価値観というのが、ある種の支配層が資源の独占を正当化するというものである。
第三章 道徳的事実は存在する—『暗黒時代における道徳的進歩』
一般に「暗黒時代」と称されるのは、研究が進んだ現在はそういうイメージを持たれなくなっているが、中世である。ある種の宗教的世界観が科学的認識を妨��、世界を正しく認識する目が持てなかった時代が、いわゆる「暗黒の中世」である。
それでは目下到来している「暗黒時代」はどうだろうか。言うまでもなく中世よりもはるかに科学技術が進歩しているが、科学的認識の代わりに「道徳的認識」が衰退している。
ここで示唆されている道徳的認識の衰退とは、必ずしも人々の窮状に対する知識が欠如していることではない。問題を知りながらそれを見て見ぬふりをする態度が、道徳的認識の衰退であり道徳性の荒廃である。
り明らかに「不同意」という「社会的事実」が存在することに気づいているにもかかわらず、まさしく見て見ぬふりをしている。ガブリエルがSNSを非道徳的だと見なす理由はここにある。つまりは「社会的事実」には薄々気づいていながら「道徳的事実」に直面したくないという状況である。
「道徳的事実」という語を目にするときにわれわれが連想するのは、カントの言う「理性の事実」である。道徳法則が存在することは「理性の事実」であって、そこからカントは定言命法を基軸とした実践哲学を展開する。これに対してガブリエルの言う「道徳的事実」には、理性による裏づけがない。ガブリエルはうかつに「理性」を持ち出すことで西洋中心主義という誹りを受けないため「道徳的事実」という最小限の逆徳性を担保にしようとしている。
道徳的進歩を導く原理として要請されるのが、有名なカントの定言命法である。
ガブリエルは定言命法の次の二つの定式化に着目する。
普遍化の定式:「汝の意志の格率がつねに同時に、普遍的切法の原理として妥当し得るように行為せよ」。
自己目的の定式:「汝の人格における人間性のみならず、汝以外のあらゆる人格における人問性をつねに同時に目的として用い、決して単なる手段として用いないように行為せよ」。
自身の幸福を追求するのに相応しい方法がどこまで一般化できるか、またその方法がどの程度まで他の人間の幸福の追求を妨げないものかを考慮して調整するのが、道徳的意識だと見なされる。幸福の追求が必ずしも他律として否認されないことに注意したい。この点でも道徳性の原点が「理性の事実」とされない理由が坂間见られる。
信仰の対象が神なのか、 それともドーキンスの言うような「利己的遣伝子」なのかを話題にすれば間違いなく有神論と無神論は対立するが、それなりに道徳的爭実に配慮をする言動をする点では両者は歩調を合わせられるとされる。ガブリエルの議論の真骨頂は道徳性の定式化の仕方ではなく、道徳的事実に鑑みたこれまでの社会的主張を一刀両断する鮮やかさにある。
われわれの誰もが日常的な振る舞いを通じて、多かれ少なかれ偶然的に、あるいは.意識的に獲得された象徴的資源により編み込まれた複雑な衣装を,身にまとっている。この衣装を、ブルデューの表現を用いて八ビトウスと呼ぶことにしよう。
言うならば 八ビトウスの貯蔵庫のようなものがあって、われわれはその貯蔵庫から象徴的資源を取り出して、複雑な独自の論理にしたがった展開をしてゆくというわけである
一切の意義の領野を包括する意義の領野のそのまた意義の領野、つまりは「世界」が存在しないというのがガブリエル��立場である。この考え方を歴史的時間に当てはめれば『進歩』で求められている道徳教育によって、本当にわれわれは最終的に道徳的に進歩するのだろうかという疑念が生じてくるだろう。
この疑念についてガブリエルは特に答えてはいないが、恐らくは自己と他者の折り合いを通じて最善とまではきわないものの、よりましな道筋をつけられると考えているのではないだろうか。
その意味でガブリエルの社会哲学は、行き渡りばったりの問題を解決する身の丈に合ったものだと言えるだろう。
マルクス・ガブリエルはポストモダンの哲学者ではない。ポストモダンが花盛りの時代に青年期を過ごしていたことは爭実だが、その思考の方向はポストモダン以前の実存主義、あるいはそれよりも前に流行したドイツ観念一論に向かっている。
さらには共著本で関わったプリーストとスコーベルにも共通するが、 東洋思想に対する興味も認められる。これらの要因を掛け合わせれば京部学派を連想させるものがガブリエル哲学にあると推論することもできる。要するにこの半世紀近く続いたポストモダンの流行にどこか物足りない思いをしていた読者に、ガブリエルは魅力的な議論を提供していると思える。