紙の本
生きていく中での「訂正する力」の活用。
2024/01/06 09:45
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投稿者:おじゃもんくん - この投稿者のレビュー一覧を見る
哲学の方面からの、切り口ですかね。
なかなか、視点の変わった面白い一冊でした。
本書は、「語り下ろし」方式をまとめたもので。
利き手と構成は別の方が。
まさに本書の題名の、「訂正する力」そのものですね。
哲学の魅力を支える、「時事」「理論」「実存」の視点から。
修正ではなくて、「訂正」する事の大切さを書かれています。
四つの章に分けて構成され。
「訂正する力」の意味と、何故今必要なのか。
「じつは・・・・だった」は、とても多いし日常にある事。
他者や他の国の文化と、親密な公共圏を作り出していく事。
日本を、「喧騒のある国」に戻す事の意義。
各章の最後に、「本章のまとめ」と言うか「振り返り」を載せて。
とても解り易い一冊になっています。
他人は、分からないものだから「訂正」して付き合って行く。
家族も、本当の奥底まで解らないもの。
恋人やパートナー・子供ですら、最終的に解らない事もある。
その都度都度、関係を「訂正」して生きて行くしかない。
世の中もそうで、今まで「そう」だったモノが「べつ」のモノに変わってる。
電話が携帯になり、スマートフォンに変わり。
少しずつ変化に対応するために「訂正」して行く。
その「訂正する力」を、改めて認識させられた一冊でした。
生きにくい世の中で、必要な一冊ですね。
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デリダ関連の本を読んでいて『存在論的、郵便的』を次に読まねばと思っていたら『訂正可能性の哲学』が出たので、そっちから読もうかと思っていたら、今度はこれが出たのでまず読んだ。結局どれも読むことになると思うが。
現在のSNSなどから垣間見る日本の思想的状況からして、個人的にはかなり自分にフィットするものを感じた。
さらに、1つ前に読んでいた『言語の本質』(今井むつみ、秋田喜美)に書かれていた、言語習得におけるアブダクション推論の働きについての論考とも響き合うものを感じた。
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「じつは…だった」をキーフレーズに進んで行く本書。
どっち付かずの方法論。
何でも正しいか間違っているかと白黒つけないと気が済まない昨今。
昨日と違うことを言えば怒られる。
でもホントはゆるく考えるのが大事。
方向転換をするだけで過去との連続性を断ち切らず同じ流れの中で変化して行くようにすればうまくいく。二者択一から脱しよう。
著者も書いているように捉え方によっては、歴史修正主義とか相対主義的に見えることもあるけれど違う。
昔、英語の講義でsuccessionという単語の意味を習ったことがある。影が連続して重なりながら移動するようなイメージ。何か難しい小説の1シーンだったと思う。実体は変わらないけれどぼんやりとした周縁部の影は変化して行く。
マルセル・デュシャンの「階段を降りる裸体」の も僕が思ったイメージに近い。
変化しながら同一であることの表現。
時間上の変化をひとつの時間に重ね合わせるとああいった感じになるのだと思う。
変わらないけれど変化して行く道を探して。
過去を過去として切り捨てるのではなく過去を残像のように保ちつつ現在に合わせて行く。
そんな厚みのある生き方を選びたいと思った。
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あなたのうんまあ?いれ?とれものとにらげんめつ、がんまんがそふにもてつかない、ひびやてんかいまさきのうてきさいかんや、だらいまんまみやぶるはなつきつきいたかんがだにいかたがいまたがたくてきにかたんや、ぶうたにん、おやじとおなじしきいのみかたたがやせいさいやどくさいかっこずけ、ずかいはつ、ずんずら、やまがたべんしきいて、できのわるぎに、にかたやせいさつまきや、かたかたのどろうがくれきしもう、どてわらの、たいかいかたかいまきくやきくのこえもんとおおらかのけびいしふくのしようごっけしんものわらいたかじよよくぼつよ
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読後、救われた気分になった。「こんなはずではなかった」「こうであるべきなのに」そうやって自分を追い詰めてしまう事が多かったが、確かに「じつは・・・だった」と捉えなおすと、前向きに考えることが出来る場面が多いことに気が付かされる。
「ひとはだれでも交換不可能で、固有の存在」この記述に励まされた。
改めて「訂正可能性の哲学」を、今度はじっくりと読み直したい。きっと、もっと発見がある。
ありがとうございます。
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1056. 2023.10.14
・訂正する力の具体的な活用例・失敗例が列挙されている。
・「歴史修正主義」や「なんでもあり」との違いも強調されているが、いまひとつ腑に落ちない。
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感想
一貫性はかっこいい。だけど難しい。誰でも間違えてしまう。だからお互い様。大事なのは謝罪と訂正を受け入れる心。雰囲気作りから始めよう。
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この本を読むと、ブレない考えの単純さが強調される。コロナ対策を例に、日本の試行錯誤の難しさを感じた。日本の失敗を許さない文化がイノベーションの障壁として描かれており、訂正する力の重要性に深く感銘を受けた。
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p4 ものごとを前に進めるために、現在と過去をつなぎなおす力。それが本書が言う訂正する力です
p8 訂正する力は、リセットすることぶれないことのあいだでバランスを取る力でもあります。
p20 訂正するとは、一貫性を持ちながら変わっていくことです
p37 訂正する力は、現状を守りながら、変えていく力のことです
p39 言い換えれば、訂正する力は、自分はこれで行く、自分はこのルールをこう解釈すると決断する力でもあります。
p43 訂正する力とは現実を直視する力
p54 訂正する力は老いる力、再出発する力
p59 訂正する力は、記憶する力
p72 ネットは文脈、時間を消す。すべての情報をフラットにつなげる。けれど、そのような余剰がないと読みが単純化してしまう
p72 訂正する力とは読み替える力
p77 訂正する力とは、過去との一貫性を主張しながら、実際には過去の解釈を変え、現実に合わせて変化する力のことです。それは、持続する力であり、聞く力であり、老いる力であり、記憶する力であり、読み替える力でもあります。
p136 その余分な情報が聴衆を刺激し、それぞれの頭のなかからいろいろな連想を引きずり出す。そういう経験は、人工知能社会になるこれからの時代にこそ貴重なものです
p148 固有名になれ。周りの人に対して、職業や役職といった属性を売りにするのではなく、属性を超えた何かで判断されるような環境をつくれということです。
p150 固有名になるためには、そういう期待の外で、相手に交換不可能な存在だと思ってもらわなければならない
その鎧を打ち壊せば、人間はみな自動的に交換可能な存在になります。そうすると相手は自然と「じつはーーだった」とあなたを発見してくれるようになります。余剰な情報が必要なのはそのためです。
周りに余剰の情報の場をつくること。そのために時間に余裕をもつこと。それが訂正の梃子になります。
p153 訂正可能な存在になるとは、交換不可能な存在になることです
p155 こちらの行動を逐一観察し、是々非々でつきあいを決めるひとばかりだと人生は行き詰まります。かといって逆に、なにがあってもついてくるひとに囲まれていても成長はありません。僕が強調したいのは、その中間が大切だということです。
p156 人生は、自分を属性で判断するひとに囲まれても決して豊かにはなりません。いつまで期待に答えなければならないからです。
かといって信者に囲まれても閉塞感がますばかりです。豊かな人生を送るためには、自分の価値を、「じつはーーだった」というかたちで何回も発見してくれる訂正する人たちが必要なのです。
p160 対して組織は訂正の運動論です。過去の失敗を記憶し、「じつは僕たちがやるべきだったのはーーだったのではないか」という反省を繰り返す。ぼくがゲンロンでやってきたのは、まさにその反省の連続でした。
p167 交換不可能な関係は人間を不自由にすることもある 親子関係、家族関係
p170 ぼくは、人間と人間は最終的にわかりあえないものだと思っています。親は子を理解できあにし���子も親を理解できないし、夫婦もわかりあえないし、友人もわかりあえない。人間は結局のところだのことも理解できず、だれにも理解されずに孤独に死ぬしかない。できるのは理解の訂正だけ。じつはこういうひとだったのかというきづきを連鎖させるだけ。
大事なのは、ひとが理解し合う空間をつくることではなく、むしろお前はおれを理解していないと永遠に言い合う空間を作ることなのです
p177 平凡社 荒俣宏 世界大博物図鑑 全7巻
p184 丸山真男 歴史意識の古層
つぎつぎになりゆくいきほひ
ものごとがなんとなく自然とうまれつながっていく。そういう発想が日本の思想や政治を動かしてきた
例 明治維新 はじめは攘夷 いつの間にか開国でうまくいっている
p197 訂正する力は、幻想をつくる力でもあります。過去の解釈を変え、現在につながるような新たな物語を作る。そして未来に進んでいく。
ぼくたちはときに、深刻な現実に直面するためにこそ幻想を必要とする
p228 きわまえて大雑把にいうならば、一方にはすべてあきらめて成り行きに任せるしかないという親鸞的な思想(自然=非政治の思想)があり、他方にはがんばって国を守るぞという日蓮的な思想(作為=政治の思想)があるそして両者が拮抗している。どうも日本は昔からそうなのです。漢意と大和心の対立も、宣長がつくったというよりも、それ以前からあった思想的対立の変奏だと考えたほうがいいかもしれません。
p229 過去を変えたのに変えたと思わせない力。ルールを変えたのに同じゲームが続いていると思わせる力。政治が続いているのに、消えたと思わせる力。それはつまり、作為があるのに自然のままだと思わせる力のことです。平和は訂正する力によって作られるのです。
p238 本書ではそこで第3の道を提示します。自然を作為するという立場です。変化を変化として許容しながら、それでも一貫性を保つ立場です。そのような立場を生み出す力こそが訂正する力です。
平和な国とは喧騒に満ちた国でもあります。訂正する力は喧騒の力でもあります。社会全体が一つの話題に支配されないこと。友と敵の分断に支配されないこと。いろいろな人が政治的な立場と関係なく結びつき、いろいろなことを語り、極論が極論のまま共存し続け、いつも新たな参加者に対して開かれていること。日本には古来そのような喧騒を重んじる文化的な伝統がありました。
その伝統を活かし、世界に発信していくこと。訂正する力を取り戻すこと。平和を再定義すること。それが日本復活の道となります。
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まず、この本の感想に触れる前に意識しておきたいことがある。あえて主語を大きくするけど(その方が単に気持ちいいから)、僕らは本の内容をよく鵜呑みにする。本屋に並んでいる本に権威性を感じ、本に書かれていることを“正しい情報”として理解してしまう。読書は常にそのことに注意しておかないと、簡単に「染まってしまう」。
特にこの本は、著者である東浩紀さんの主観がふんだんに入っていると思った。“主張”という印象が強い。だから面白い。一方で、だからこそ鵜呑みにしないスタンスが大事であり、それがこの本へのリスペクトでもあると思う。
この本の“主張”に対して自分はどう思うか?何を持ち帰るか?それこそがこの本の主題である「訂正する力」だと思った。
第二章の前半で語られる「対話」の話が面白かった。世の中では、対話とは「AかBかを決めるための手段」だと思っている節がある。そしてしばしば“良い対話”とは「AかBかという二項対立ではなく、新しいCという昇華したよりベター結論を導き出すことだ」という論も見かけられる。自分も割とその意識がある気がする。
けど、この本で定義する「対話」はそうじゃない。対話とはそもそも結論を出すための手続きではない「あなたは私のことをわかっていない」ということを永遠に言い合い、どこまでも発言の訂正がつづいていくことが本質だと、本書は語る。ここはネガティブケイパビリティにも通じる話かもしれない。
そもそも、現実はAでもBでも、Cでもなかったりする。より良い結論のように見えて、どちらかが我慢してるだけだったりする。
(これは本書の内容をシンプルに解釈しすぎているかもしれないが)ある意味、「わかりあえない関係」を持つことこそが人生を退屈にしない手段なのだと思った。その関係の一例が、本書でも触れている「家族」だ。出身も年齢も性別も異なる存在が、究極的にわかりあえる日など来ない。永遠にわかりあえないからこそ、永遠に対話し続ける。その「対話し続ける」過程こそが、互いに交換不可能な存在にさせるのだろう。
結論がでないから、人は一緒に居るのだ。
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1.本著の概要(書かれている内容)
あらゆる情報やひととどこにいても、アクセスできる現代では
『より早く、目的地へ。すぐに!
役立つものを。需要があり売れるサービスを(=会社が儲けになるものを)』
そんなタイパ、コスパ重視のサービスが価値と捉えられる。
そのサービスは誰が作ったか。背景や作り手の人となりではなく、目的の音楽や本をただ楽しめればいい。
ただすぐに役立つものが人間の幸せや豊かな時間を叶えてくれるのだろうか。
そんな問いに対する著者なりの見解を、正確を求めずに、対話を深める人文学や哲学的立場から【豊かに老いる力】
としてあらゆる角度から論じてくれた。
"訂正力"=温故知新(過去から学び新たな知見を見つける)
がいまの日本に必要な概念。
聴きなれない言葉で、読む前は曖昧な理解でしたが、数あるわかりやすい言葉で、【訂正力】を言い換えて解説してくれています。
【感想】
変化を恐れて誤ちを認めずに自分のやり方にこだわること
正解や結果がわかりやすい理系や自然科学との違いを知ってともに生かしあえたらいい。
正解の見えない人生では、幸せはひとの数だけあり、活躍できる舞台もさまざま。
ひとりとして同じ体験はできないからこそ、正しい解釈はなく、あなたって面白いね!
これはこんな見方があったのか。
攻め合いではなく、他者を通して気づき合う。
そんなわちゃわちゃした井戸端会議が当たり前な日常が続いてほしい、、
社会問題の核心に迫る読み応えありまくりの貴重な時間にさせてくれました。
社会人一年目に読みたかった。
読めて良かった。
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とても分かりやすい。実に現代的。動物的に言論ごっこしている場合じゃない。まずは「訂正」に道を開こう。漠然と考えていた現代の政治の隘路を打開する道筋を、明快な言葉で示してくれた。
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年末にひとまわり下の後輩に読んだ方がいいですよ、と言われて素直にお正月読書しました。とはいっても、じっくり、と言う訳でなく、電車の中で、あっさり読了。書き下ろしという訳ではなく語り下ろしということで非常にやさしい文章です。YouTubeとかで本人が語っているより文字だと独特のクセが消えわかりやすいかも。それでも思考停止とシステム破綻に覆われた日本のイマに新鮮な気づきを与えてくれる本だと思いました。同時期にゲンロン業書から「訂正可能性の哲学」が出版されているので、そのトレイラーのような新書かな?とすると「訂正可能性の哲学」も読まずにはいられません。デビュー30年、「データベース消費」とか「動物化」とか「郵便的」とか「誤配」とか「観光客」とか「一般意志2.0」とかさまざまなキーワードを提示してきた著者ですが、今回は「訂正」。「リセット」でも「修正」でもないところが主張のポイントです。「訂正」とは正しく直す、とかではなく「じつは…だった」という気づきへの柔軟性を言うのだと受け取りました。つまり「訂正」=「訂正し続ける」という意味です。ここに人文学と自然科学の違いを見出しています。個人的には斉藤幸平の「人新世の資本論」でのマルクスの見直しをイメージしました。今回のキーワードに引き込まれてしまうのが、東浩紀がこれまで大学の外に出てゲンロンという場を作りビジネスとしてサスティナブルを志向し社長を退任する、という「ゲンロン戦記」としての実践から生まれている言葉だから、という気もします。先ずは、一月の三連休明けに、この本を薦めてくれた後輩との「喧噪」トークを行いたい!
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自分の存在意義をどこに置くか,ではある一方,群体としての社会は他者との相互関係によって成り立つ.我だけを通していたら,社会は成立しない.しかし,生まれた瞬間から死ぬまで時間とともに環境が変化することを考えれば,柔軟な(抽象的な)骨子と絶えず変化する自分(それが成長というものではなかろうか)があって初めて社会が成立するはずである.他者との関係があるからこそ,修正ではなく訂正,常に正の時間軸方向の行為であり,当たり前な行為とも思える.自らの哲学を具体化すると,訂正すなわちブレと認識することになるのだろうか.それは恐らく哲学ではない.
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うーん、久々に理解がついていけない内容だった。これは完全に自分の理解不足だな。後日改めて再読したい。