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なんというか気骨がある。自分の思うことをそのままに語り、人を良い意味で緊張させるところがあるように思う。自分もこうありたいなと。自分の世界を語ることは、誰かを否定することではない。あくまで世界をかたどっているだけ。そこに遠慮がないところが良いなと思う。
以下引用
いわゆる美しいデザインにあまり興味がありません、デザインであれ文章であれ、私に必要なのは理想の美学でなく現実の論理ろ倫理です。表現ではなく、手法でもなく、必然です。
本ー情報共有のための物質メディアの一種
★われわれはいつでも、かたちそれ自身とは別の意味を探し求め、かたちの概念をなんらかの対象の表象、すなわち像の概念と混同しがちです。そしてかたちの概念は、とりわけ記号の概念混同されやすい。だが記号は何かを意味するが、他方かたちは自らを意味する
わたしは創作という言葉を極力使わないようにしています。芸術作るのは主にフィクション、虚構です。虚を構えて、創って作るだなんて、どれだけこしらえたら気が済むのか。虚構を実作する、と言えばよろしい。また一歩踏み込んで、私がより好ましく思う考え方は、虚構によって現実を作るというものです。何かを作ることは必ず、新たな、別の現実を生み出すことだと考えます。なぜならそこには、かつて存在しなかったものが生まれるのですから。
私は何かをかきはじめるとき、考え始めるとき、ほぼ必ず他者に言葉を出発点にします。自分が何を考えているのかを知るために、まず他者の言葉を足がかりにする。
待機する状態密度が高ければ高いほど、じょうほうりょうgs高い
私たちの心の形はもっと具体的で複雑なはずなのに、紋切り型にはめられて、デザインされてしまう
ジャケットのカラフルなイラスト、装飾的なタイトル、、、、全方位から本が広義のイメージに包囲されている。イメージのすべてがいけないというのでもありません。しかしイメージは往々にして、意味にしか人を誘導しない、大変威圧的で暴力的なものになっています
こうしたデザインは、それを所有する消費者の形を勝手に決めているとも言えます。消費者に対するサーヴィスでありつつ、彼らをデザインするマーケティングです。私たち自身もまた形を持つ情報なのです
→そこにあるのはコミュニケーションではなく、提示、説明でづ。それが権威を持つ著者を中心に組織されている
世界に生じる暴力の多くは、途方もない悪意などによってではなくm人間が自分の、他者の形を相手にしていないという至極残念な事実に起因する
このズレやノイズが重要だと考えます
円滑な情報伝達を妨げるノイズは、不都合なもの、不快なものとしキャンセルされます
デザインの技術んか余白のなさ
技術は自然からの引用である