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出版社(岩波書店)
https://www.iwanami.co.jp/book/b639924.html
内容、目次、試し読み
米田佐代子による書評(WAN「おんなの本屋」)
https://wan.or.jp/article/show/11156
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配架場所・貸出状況はこちらからご確認ください。
https://www.cku.ac.jp/CARIN/CARINOPACLINK.HTM?AL=01427053
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新書ということもあって平易で簡潔に書かれていて読みやすい。内容は女性史やジェンダー史の勃興から歴史叙述との関係、家族史や身体史や労働史、他には近代家族論、社会構築論、ポスコロなんかが扱われている。ほとんどの章で日本やアジアのことについての記述が含まれていて、読んでいて沸いた「日本やその他の地域ではどうなんだろう」といったような疑問にはある程度は応答してくれていて快適だった。
ジェンダー史は全く知らんので記述の確度は分からないけど、姫岡さんは全くの門外漢のぼくでも知ってるような方なので信頼できるとは思う
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読んでいる途中だけど、第4章の記述の中で、歴史を考える上で、「正史」という見解はもはや成り立たず、ジェンダー史もある見方としての歴史の一つなのだ、という指摘は心に留めておく必要があると思った。
ジェンダー史だけでなく、障害者の観点から捉えた歴史とか、民族や移民の観点からとらえた歴史とか、多様な歴史の見方があるということを改めて気付かされる。
これまでの歴史の叙述から埋もれてしまった歴史を掘り起こし人々の歴史認識をズラすことに貢献してくれるのが、上記の新たな歴史学なのだろう。
だけど、できれば依拠した出典の明記の仕方がもう少しわかりやすいほうがいいなと思った。例えば、「〜〜(〇〇 2024)。」とか「〇〇(2024)によると、〜〜。」みたいな感じで。
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ジェンダーに興味があり、ちょこちょこと関連本を読んではいるものの、歴史についてはほとんど知らなかったので、こちらの本でジェンダー史を概観することができて良かった。近代化の流れの中でジェンダー規範が生まれたこと、それがどうやって歴史の中で強化されていったのかかがよく分かった。
近代化の出発点で「家族」と「市民」の概念が新たに作られ、近代社会に固有の性別二元論的な社会秩序が形成された。
フランス革命の「人権宣言」の中に女性や無生産者は含まれていなかったことを初めて知った。ここで言及される人間とは男性市民のみだった。
人権宣言は近代の市民権の出発点であると同時に女性排除の出発点でもあった。
私たちが思い描くような、夫婦や親子が強い情愛で結ばれた私的で閉鎖的で親密な、そして性別役割分担によって女性がケアを担当する家族は、まだ250年あまりの歴史しかもたない。
本能だと考えられていた母性愛も歴史の産物だった。
18世紀末までの家経済の時代には公私が未分離なため生産労働と消費は完全には区別できず、私領域である家庭で妻が夫や子どものケアをする、という意味での家事労働やその概念は、家族が生産の場ではなくなることによって、はじめて誕生した。そして、家事労働が長年、労働の範疇に含められず、就業労働だけが労働とみなされてきたのは、前者が「愛の行為」ゆえに無償であり、対価も「愛で受け取る」とされたからだ。家事育児に専念し、かいがいしく夫や子どものケアをするという主婦像は、近代になって生産の場と消費の場が分離したからこそ登場したのである。
母性愛本能説は、「女性は家庭」という性別役割分担を固定化させるために作り上げられたものだった。
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興味を覚えて入手し、ゆっくり読了した1冊である。
「10講」と銘打っている。10の篇、或いは章でなる1冊だ。大学の講義か何かのように、「講」と名付けられた篇に関する話しを1時間半程度でするような感じの内容だと思う。読み進め易い綴り方になっていると思う。
「歴史」というのは、様々な記録を紐解いて、それを整理して語られ、伝えられるというモノである。そうやって語られ、伝えられる内容は、自ずと“主流”とでも呼ばれるような人達に関わる内容が多くを占めるようになるであろう。が、各々の時代に、その“主流”ということにもならない多くの人々の存在が在り、その活動等が確実に在った筈だ。
その“主流”ということにもならない多くの人々の存在の代表的なモノかもしれないのが「女性」である。「歴史の中の女性」または「女性達の歴史」というような、語られるべきこと、伝えられるべきことも多く在る筈だ。本書はそこに眼差しを注いでいる。「女性史」とでも呼ぶような事柄に纏わる研究の経過、そして「女性史」ということで整理された内容のあらましということに関して、主にドイツの歴史に纏わる研究を手掛けて来た著者が綴ったのが本書である。
女性に纏わる「少し古いイメージ」というような事柄が、実は相対的に新しい時代に造られたようなイメージであるということに、本書の内容を通じて気付かされた。そして、「古くから…」ということの多くがそのようなモノで、「現在時点で如何か?」と色々なことを、積極的に真摯に考えるべきなのかもしれないというようなことも、本書を読んでいて思った。
「歴史」とは、何事かを覚えるというより、モノを考える材料に触れて考えてみるという存在なのだと思う。本書はそんなことを思い出させてくれる。
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第7講「身体」だけめくってみるけど不安になる。デューデン先生やラカー先生そんなに権威みたいに扱って大丈夫なんだろうか。ていうか、あちこち出典なしで断定的な表現で書かれているのでよろしくないと思う。
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「ジェンダー史」の成立までと、それが明らかにしてきたものを10章に分けて説いている。
実は本書を読む前、ちょっと誤解していて、ジェンダー研究の歴史のかと思っていた。
が、そうではなく、歴史学の中で、ジェンダーがどのように主題化していくのかということだった。
ならば、どうして「ジェンダー史学」とか「ジェンダー歴史学」という言い方ではないんだろう?
「ジェンダー史」という言い方が、歴史学業界では普通なのかなあ?
前半4章は、歴史学の研究の流れが紹介され、この整理はとても分かりやすかった。
ジェンダー史は、第一波フェミニズム、第二波を経て、生まれた。
第一波では、これまで歴史学が顧みてこなかった女性を歴史学の対象とする「女性史」が成立し、第二波フェミニズムの時には、既存の歴史学が男性に偏向したものだと批判する「新しい女性史」が成立する。
しかし、いずれも女性という周縁的な内容を扱ったもので、既存の歴史学の幅を広げたもの、として済まされることになる。
そこでジェンダー史が現れる。
知と権力の関係の中で、どのように性差が意味付けられ、どんなメカニズムで社会の中に組み込まれ、はたらいていくのかを分析するもの(主にJ.スコットとその影響にある人たちの立場)だ。
つまり、社会構造を作り出す力として、ジェンダーを捉える。
ジェンダー史とは、その歴史的過程を跡付けていく学問ということのようだった。
著者はドイツ近現代の労働史を専門としてきた人というだけに、本書の中にある、「生産領域だけに注目する」だけでなく、家との連関を考えないと労働の全貌は把握できない、という指摘は説得力がある。
たしかに、労働や生産は、経済の問題となり、それは従来の歴史学でも主要テーマであったはずだ。
ある時期まで女性の姿がその領域に見えないのは、近代家族が成り立っていくのとセットで、女性が補助的な労働を担うものという役割が成り立っていったからであり、女性が労働に関わっていなかったわけではない。
これがごっそり「見えない」存在になっていたとすれば…と思うと、そら恐ろしい気持ちになる。
後半はジェンダー歴史学が明らかにしたものが取り上げられていく。
筆頭は家と家族。次に身体と性、福祉、労働、植民地、レイシズム、戦争と続く。
この辺りは、それぞれ1冊以上の本になっても不思議でない、問題が山積する領域。
(最後の章は、なんか突然終わってしまった感もある。)
権力機構の中で、女性が、社会的地位などにより、被害者にも加害者にもなるという錯綜が見られる。
単純なものが好まれる雰囲気も感じられる昨今だが、こういう社会の複雑さに向き合えるか。
読み終わってから、考えてしまった。