「語りえぬもの」を考える出発点
2001/05/29 16:37
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:小田中直樹 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書の編者の上野さんによると、構築主義とは言葉に自律的な力を認める考え方で、本書の目的は「その系譜、展開、意義、限界」を学際的に論じることだそうだ。執筆者の多くは社会学者だけど、社会学にとどまらず、臨床医療学、文学、人類学、歴史学、さらにはジェンダー論や少数派論に至る学問領域を扱う、便利でお得な論文集。おまけに、執筆者たちの間で、構築主義の定義が統一されていて、読みやすい。構築主義についての入門書、というか紹介書としては、お勧めの一冊だ。
ところで、本書の執筆者たちは、構築主義をめぐる「選択にコミットしている」、つまり構築主義支持の立場に立ってるらしい。そうすると、言葉は自律性を持っているという考えは構築主義の土台だけど、これは正しいの、と質問してもいいはずだし、彼らにはこの点を証明する義務が、少なくともこの点を考える必要がある。だって「土台」だもんね。この点を基準にして本書の論文を分類し、採点してみよう。
まず、序章だから仕方ないけど、この点をあまり考えてない千田論文。ちょっと考えて、歴史学と構築主義の平和共存を「信じたいと思う」という信仰告白で終わった荻野論文。構築主義の正しさを根拠なく前提にしてる飯田論文と竹村論文。この四本は上の質問に答えてないので、僕に言わせると、使えない。
もちろん、言葉の自律性の問題をちゃんと考えてる執筆者もいる。当然こっちの方が、使える。考える方向としては、言葉の自律性そのものを、もっと突っ込んで考えるものと、その問題は措いとくけど、現実の問題を解決するのに役立つぞと主張するものが多い。このうち第一の方向に進み、哲学的な議論に入っていくのが赤川、加藤、北田の各論文。僕は、彼らの議論はわからないけど、その姿勢は誠実だと思う。第二の方向に進むのが、セラピーに役立つぞという野口論文と、少数派の「解放」に役立つぞという伊野論文。これも方向としては悪くないけど、どこかもどかしい。やるなら本格的に社会活動して、その経験にもとづいて、もっとはっきり書いてほしい、というところかな。最後に残ったのは、どちらの方向にもいかない中谷論文。僕はこれに一番共感した。中谷さんが、「人類学」の「研究者」として、哲学にもいかず、社会活動の実践にもいかず、だけど言葉の自律性を考えるという、ぎりぎりの選択をしてるからだ。自分の学問領域のなかで悩んでる、と言ってもいい。
反対に、一番失望したのが、上野さんが書いた結論。上野さんは、むかし、歴史に真理があることを否定し、ある歴史家から、そんな簡単に否定するな、と言われたことがある。上野さんがこの批判を真面目にうけとってたら、意味のある思索が始まったかもしれない。でも上野さんは、本書の結論で、構築主義は歴史家の客観性や中立性を疑問視するだけですと言っちゃう。これは、よくいっても戦線縮少だし、わるくいえば逃げてる。しかも、逃げ方がまずい。歴史家の客観性や中立性なんて、何世紀も前から疑問視されてるぞ。他方で、上野さんには、ちゃんと言葉の自律性の問題への関心がある。だから「言説の外に実在があるかどうか」という問いには「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と答えればよい、なんて書くんだろう。でも、これじゃ、私の考えは正しいけど、その理由は内緒、と言うのと同じ。これはどこにも通用しない理屈だし、というより、理屈じゃなくて単なる居直りみたい。上野さんは、構築主義を論じる際の土台になる大事な点をめぐって、逃げたり居直ったりしてる。まぁどちらかだったら許してもいい。でも、両方やるのは格好悪い。逃げるなら居直っちゃいけない。居直るなら逃げちゃいけない。それが社会の、ましてや理屈でなりたつ学界の仁義だろう。
というわけで、本書の評価は「保留」。
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上野千鶴子ほとんど書いてないじゃん。ヽ(`д´)ノ ウワァァァン
いや、悪くないのですが、どうも1冊の本としてのまとまりに欠けるというか…入門書をお探しならば、他の文献のほうが良いと思います。
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構築主義の基本的な前提。
?現実は社会的に構成される。
?現実は言語によって構成される。
?言語は物語によって組織化される。
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野口論文、赤川論文、北田論文が秀逸。
特に野口に脱帽。
現実は社会的に構築される。
現実は言語によって統制される。
言語は物語によって組織化される。
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2008/11/10(〜P30),12(〜P70),13(〜P168),14(〜P307終)
薦められて読みました。
いろんな方々の考えがそれぞれとても読み応えがあっていい本だと思った。
しかし、私の苦手分野かもしれないと思った。
なんせ何人もの人のそれぞれ違う考えが1冊にまとめられている為、頭がこんがらがるというのが本音。
でももう1度読んでみたいと思った。
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「構成主義/構築主義」(constructionism)をテーマに、社会学、人類学、歴史学、文学などの分野から、10人の論者の論文を収めている。また巻末には、編者の上野による各論文についてのコメントがある。
ジェンダー論ではなく科学哲学における社会的構成主義をめぐる論争の方から構成主義の議論を知ることになったという経緯もあって、構成主義にあまりポジティヴな印象を持っていなかったのだが、本書を読んで、そこれまで抱いていたいくつかの初歩的な誤りを正すことができた。
1960年代に盛んだったラベリング理論は、逸脱の原因を逸脱者の側にではなく「逸脱者」というラベルを恣意的に貼り付ける人びとの側に求めるものだった。だがそれは、社会的なサンクションに逸脱行動の原因を求めるという意味で、実証主義的な原因論を脱していない。M・スペクターとJ・I・キツセはこうしたラベリング理論を批判的に継承し、客観的な状況を不問に付し、人びとの相互作用を問いなおすことで社会問題の構築のあり方に焦点を当てた。こうして彼らは、社会問題の同定における構築主義の立場を確立した。
まだ構成主義に全面的に賛同するに至っていない自分としては、加藤秀一の論文「構築主義と身体の臨界」が、バランスのよい立場を示しているように思えた。ただし編者の上野は、加藤の立場はさらにラディカルな構築主義へと推し進められるべきだと主張している。加藤はI・ハッキングの『何が社会的に構成されるのか』の議論を継承する形で、構成主義は身体の物質性を否定する必要はなく、それが人間にとっての「本性=自然」ではないことを明らかにすればよいという。これに対して上野は、加藤の議論が「物質性」と「社会性」という二つの水準が自律的に存在しているような前提に基づいていることを批判し、身体の物質性は社会的にカテゴリ化されることを通してのみ、存在しかつ認識されるべきだと述べている。
上野の主張は、私たちの社会が物質性に基づく実証的研究に高い信頼性を与えているという事実を批判的に解体する視座を提供するものだと思うが、おそらく加藤は、そうした社会問題の水準を超えて、身体の実在論/反実在論の議論に構成主義は立ち入る必要はないと考えているのではないかと思う。
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構築主義というものについて、今まで聞いたり読んだりしたことはありつつも、構造主義との区別もあんまりついていないほどの情弱だったので(というか今まで何を見聞きしてきたんだ)、構築主義の理解を広めるという意図で読んだ本。
上野千鶴子先生に関して、今まで色々と噂を聞いてきたのでどんなものかと身構えていたけど、本書は上の先生は編集に回っているということもあり、あんまりそれらしい感じはせず。むしろ、上野先生への批判も積極的に載せているあたりに誠実さを感じた。
著者によってテーマが異なり、自分との関心との合致具合によって評価はまちまちというところだけど、全体的に良い質を持っていると思った(こなみかん)
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【はじめに by 上野千鶴子】
20世紀の思想的な発見のひとつは、言語の発見であった。言語が自然発生的なものではなく、人為的で恣意的な差異の体系であること、言語が言語外的な指示対象物を意味したり伝達する道具ではなく、意味の産出をつうじて現実を構成する当の実践そのものであること、言語が心理的・内在的なものではなく、社会的・外在的なものであること。ソシュールが提示し、のちに「言語論的転回 linguistic turn」と呼ばれる人文・社会科学上の巨大なパラダイム転換につながったこの発見は、構造主義言語学に端を発している。p.i
《序章 構築主義の系譜学 by 千田有紀》
バーガーとルックマン「現実とは社会的に構成(construct)されており、知識社会学は、この構成がおこなわれる過程を分析しなければならない」p2(Berger, P. and Luckmann, T., 1966 The Social Construction of Reality: A Treatise in the Sociology of Knowledge, Doubleday=1977『日常世界の構成―アイデンティティと社会の弁証法』
バーが列挙する構築主義の特性。
(1)反-本質主義
(2)反-実在論
(3)知識の歴史性および文化的な特殊性
(4)思考の前提条件としての言語
(5)社会的行為の一形態としての言語
(6)相互作用と社会的慣習への注目
(7)過程への注目 p3
(Burr, V., 1995 An Introduction to Social Constructionism, Routledge. =1997『社会的構築主義への招待―言説分析とはな何か』
Spector, M and Kitsuse, J. I., 1977 Constructing Social Problems, Cummings=1990 『社会問題の構築―ラベリング理論をこえて』
中河伸俊『社会問題の社会学―構築主義アプローチの新展開』
言語のパフォーマティビティ(遂行性)p33
《第二章 言説分析と構築主義 by 赤川学》p63〜
(構築主義とは)最大公約数的にいえば、「ある事象Xは、自然的/客観的存在というより/ではなく、社会的に構成されたものである」という認識の形式を共有しているように思われる。
構築主義を牽引したスペクターとキッセによれば、社会問題とは「何らかの想定された状態について苦情を述べ、クレイムを申し立てる個人やグループの活動」であり、「クレイム申し立て活動とそれに反応する活動の発生や性質、持続について説明すること」が社会問題の理論の中心的課題である。p71(Spector, M.B. and Kitsuse, JI., 1977 Constructing Social Problems, Cummings Publishing Company=1990 119p『社会問題の構築』)
→構築主義においては「問題とされる状態」ではなく「問題をめぐる活動」が、「実態」ではなく「言説(語り)」が、コンテクストではなくテクストが、研究の対象になる。p71
言説分析においてより重要なのは、誰がどのような立場から語っても、似たような語りを構成してしまうという、言説が生産される「場」のありようである。ミシェル・フーコーの言葉を借りるなら、「一つの社会のある時点において、言表の出現、言表の保存、言表間に打ち立てられる結びつき、言表を資格分類するやり方、言表の果たす、言表の帯びている価値や聖別化の働き、実践や行動において言表が使われるやりかた、言表が流通したり抑圧されたり忘却されたり破壊されたり復活させられたりする原則などをつかさどっている諸条件を明るみにだす」こと(ミシェル・フーコー『ミシェル・フーコー思考集成Ⅲ』100-143頁)これが、言説分析の目的である。
フーコーの問題意識「なぜこの言説が語られ、他の言説が語られないのか」p81
いずれの方法を採るにしても、一定の言説フィールド(言説空間)を想定し、そこでの言説のレトリックと配置を仔細に観察し、記述するという営みは避けて通れない。誰が、いつ、どこで、どのような状況下において、どういうクレイムを申し立てたか。逆にそこでは、何が申し立てられなかったのか。これらを仔細に記述することによって、言説の場に応じた、社会問題の構築のされ方のバリエーションがみえてくるかもしれないし、逆に言説の場を問わない、ある程度一般的な言説生成のメカニズムがみえてくるかもしれない。p80
《第四章 <文化>?<女>?―民族誌をめぐる本質主義と構築主義 by 中谷文美》p109〜
<メモ>
フレームワークとして参考になるかもしれないものとして、「アイデンティティの政治学 politics of identity」
↑を展開する集団は、政治実践の文脈で「集合的に共通する要因として特定の文化的・社会的・歴史的差異を掲げ、これに自己同定することによって集団としての社会的代表権を求める」(米山リサ 1998 「文化という罪―「多文化主義」の問題点と人類学的知」、『文化という課題』41-66頁)p115
《第五章 歴史学における構築主義 by 荻野美穂》p139〜
バー『社会的構築主義への招待―言説分析とは何か』
富山太佳夫「言語論的転回以降」『思想』四月号 岩波書店
多くの歴史家たちの議論の的となってきたのは、言語や言説に与えられた排他的重要性、すなわち言語の外側に「現実」が存在し、言語はたんにそれを指示したり反映したりしているのではなく、歴史的出来事や人々の経験、意識(そこには個人の意志やアイデンティティも含まれる)などの「現実」は、言語によって言説の内部で構築された「差異の戯れ」にすぎないという、反実体論的主張の有効性や妥当性である。p144
《第六章 構築主義と身体の臨界 by 加藤秀一》p159〜
「テクスト」を超えたところには何も存在しない、なぜならわれわれは言語の外へは出られないし、言語を通じて構築していない世界の諸側面は知覚できないのだから、と。p165(→ヴィヴィアン・バーが紹介する「極端な見方」に突く社会的構築主義者の見方)(Cf. 『社会的構築主義への招待』
《構築主義者とは何か―あとがきに代えて by 上野千鶴子》p275〜
「世界が言語で表現されているというよりも、言語が世界を構成しているというべき」という前提↓p278
「言語論的転回 linguistic turn」とは、ウィーン学派のベルクマンによって命名されたもの。1967年にローティによる『言語論的転回』という著書がある。ウィトゲンシュタインの影響のもとに、意識が言語に先行するという「意識分析」から、言語が意識を構成するという「言説分析」への転換を果たした哲学的な思潮を言う。言語に先立つ意識、さらに意識に先立つ主体そのものも否定する点で、近代のコギトの明証性をくつがえし、主体二元論を否定する。構造言語学、言語哲学などの思潮のなかに位置づけられる。p301
(Childers, Joseph, and Gary Hentzi eds., 1995, The Columbia Dictionary of Modern Literary and Cultural Criticism. New York University Press『コロンビア大学現代文学・文化批評用語事典』)
言説(discourse, discour, Diskurs)は、もともとフーコーの用語であり、「文より長い完結した言語上の単位」を指す。(Chiders and Hentzi)p279