無宗教に積極的な意味をみいだそうとしている
2009/02/06 21:44
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Kana - この投稿者のレビュー一覧を見る
日本人は無宗教であることを比較的最近,自覚するようになったが,昔の日本人は無宗教になりようがなかったという.それは「宗教」ということば自体がなかったからだという.そのため,宗教の有無のくべつもなく,神道と仏教をはっきりくべつするする理由もなかった.現在でもそれらを明確に区別して,どちらかだけを信仰することに,どれだけの意味があるのだろうかと著者は疑問をなげかける.また,宗教どうしが排他的になりがちなのに対して,無宗教である日本人は対立をうまず,世界的におおきな意味をもちうるという.
しかし,無宗教がどういう意味をもちうるのか,明確な議論はない.未完の議論であり,いささか,くいたりない.
「無宗教」は日本を超えられるか
2011/03/20 10:34
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Genpyon - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者は、まず、「無宗教」とは、特定の宗教を信じていない、特定の教団に属していない、という状態とし、日本人は「無宗教」であっても宗教心は豊かであることを示す。
このあたりまでの論証は、類書でもより詳細に論じられているが、本著でも著者独自の視点も交え、それなりに説得力をもった論証が行われている。
本著では、論を一歩進めて、「無宗教」を「無」という日本的価値観に結びつけた上で、さらに、これを世界の宗教的対立への処方箋として提示しており、そこに本著の独自性が感じられる。
ところが、残念ながら、こちらの論証は、「無宗教」に積極的な意味を見出したい著者の気持ちが先走ったような強引な論の進め方が多く、たとえば、「宗教さえ存在しなければ世界は平和だとも言える」といった極論まで持ち出してくるような議論は、「無宗教」に積極的な意味を見出そうとする試みにとっては、かえって逆効果な印象を受ける。
日本人である私にとって「無宗教」という文化は心地よい。しかし、世界中が日本のようであれば平和だよ、と言っているようにも感じられる議論では、何かを論じたとは言えないのではないだろうか。
ああ、またやっちゃったかぁ。
2009/02/17 16:17
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投稿者:ちひ - この投稿者のレビュー一覧を見る
たいへんな労作がある一方、ときどき「超」が付くほどの駄作や「迷」作もあるのが島田氏の最大の魅力ではある。しかしそうは言っても、これほど魅力的なタイトルの本にここまで裏切られたのは久しぶりである。
わたしはたぶん日本人だが、わたしの宗教は浄土真宗であって無宗教ではあり得ない(日本人にもいろいろあるということです、あたりまえですよね)。なのでこのように「日本人の!」と言って大上段に振りかぶられても困惑するばかりである。だから逆に、島田氏がこのタイトルを選択して何を伝えたいかを知りたいと思い読み始めた。
本書では「宗教や無宗教の定義は難しい」または「宗教学者の数だけ宗教の定義があると言われている」といった事実が指摘される。それはその通りだ。しかし、本書が宗教や無宗教について論じようというときに必要なのは、宗教や無宗教が何であって何でないのか、読む人がついてこられるように最低限の確認作業を行うことである。
不幸にも、島田氏は宗教や無宗教の定義をおろそかにしたまま話を進める。これは本書のテーマからいって常軌を逸している。ちょっとあり得ないのではないか。
「我々は定義や実態把握をおろそかにしたままイメージで語ることが多い」という指摘もなされる。指摘しさえすれば自分も定義や実態把握をおろそかにしたままイメージで語り続けていい、ということには、けっしてならない。
また、大事なところで甘い表現が目立つ。「‥‥可能性があるわけだ。」「‥‥のではないだろうか。」「‥‥かもしれない。」「‥‥ように思われる。」「‥‥だろう。」という表現が頻出する。論証にならない物言いをいくら積み重ねて書名のような結論が導き出されたとしても無意味である。
だが不満を感じる箇所ばかりかと言うと、じつはそうでもない。クリスマスがもともと冬至のおまつりであった事実を地味に指摘するあたりは好感が持てる。また、日本の神道とイスラムとの共通性をあぶりだす手法にも感心した。だが、そこからなぜかイスラムを無宗教に引っ張っていこうとするのには無理がある。反対で、神道の営みの一部が歴とした宗教信仰の一形態である、だから無宗教はあり得ない、と言うべきである。
何にせよ、いろんな意味で「ああ、またやっちゃったかぁ。」的な本である。
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日本人の宗教、あるいは宗教性について「無宗教」という言葉でアプローチをはかった一冊。
一つの宗教だけを守ろうとしない無節操さ
宗教コンプレックス(劣等感):日本人は宗教を大切なものと考えながら、今の自分たちが、宗教に真摯な態度で臨んでいないことを嘆かわしく思っている。
⇒自嘲的に「無宗教」
ある特定の宗教を信じるということは、他の宗教や信仰を認めないことであり、排他性や排外主義に結びついていくと考え、特定の宗教を信奉するよりも、無宗教であることに価値を見出す。
⇒強い誇りを持って「無宗教」
「日本人が無に求めてきたのは、私という小さな存在の限界を超えることである。もっと広い世界、もっと豊かな世界に出ていくことをなんとか可能にしようということのはずである。限界を設けないことで、本当の自由を得ていく。そうした可能性があるからこそ、日本人は無ということに強い魅力を感じてきたのである。」
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・朝日新聞の書評を見て
・なぜ、無宗教なのか、日本人は宗教を持たないのかという疑問の答えを欲しかったため
・著者いわく、日本人は無宗教であっても、信心深くないというわけではないとのこと
・オウムや創価学会などの存在が、「無宗教」と日本人に言わせている、つまり特定の宗教を支持していると
主張することを難しくしている
・神仏が共存(決して混じっている訳ではない)している、というのが日本の宗教の特色であり、一神教とは異なる。
・宗教に対して寛容→現在の世界における宗教対立(排他性)とは、象徴的に異なる点
・ただし現在の宗教対立は、もともと教義が異なるが故の対立ではなく、結局は土地などの利権争いが原因であることに留意すべき
日本は宗教において寛容であり、他民族にたいしても寛容である。
無宗教がそれを可能にしているのでは、というのが本著における主張であると、私は捉えた。
無宗教こそ日本人の宗教である、確かになるほど。
なぜ、無宗教でも生きていけるのか、
神を信じなくてもいいほど(つまり、何か超越的なものに依存しなくても生きていられるほど)
過酷な状態に置かれていないからだ、人々を宗教に駆りたてる動機の欠如が原因だという風に私は捉えていた。
が、無宗教という宗教を信じているのだ、と言われてしまえば、そうなのかも知れない。
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●無宗教と公言する日本人が、実は宗教に対して強い関心を持ち、ある意味熱心に宗教活動、信仰活動を実践している、、、56
●現代の日本人は、結婚式を神道で行い、葬式は仏教で行うことを、いいかげんで無節操なことだと、自嘲的に語る傾向がある。 しかし、そうした慣習の背景には、神仏宿合という、長い歴史を経て形成されてきた信仰のあり方がある。決してそれは、いいかげんなものでも無節操なものでもない。それは、日本人なりに、日常の生活に合う形で、独自に形を作ってきた信仰のあり方であり、卑下する必要は全く無いのである。76
●自分たちの宗教は何かと問われたとき無宗教と答えるしかないと感じながらも、無宗教だと公言することに、ためらいを覚え、時にはコンプレックスさえ感じてきた。 無宗教のいいかげんさを示す事として、良く引き合いに出されるのが、日本人の神道、仏教、キリスト教とのかかわり方である。 決して無原則にやっているわけではない。 一定の原則があり、異なる宗教のあいだでの役割分担が存在している。
★海外に行ったとき、よく宗教について聞かれた。なんと答えていいのか、答えに窮した。その時の事を、思い返しても、なるほど、自分でこんな感じで宗教を感じていたのかなと思う。基本無宗教といいながら、判ってもらえないので、その場しのぎで、仏教を言っていた。外人は宗教になると熱くなるからメンドクサイんだよね。
ただ、無宗教の自分の現況を理解しても、この内容を外人にどう説明したらいいのだろうか。判ってもらえないだろうな。。。
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垂水迹説 日本の神々は仏教の仏が化身したものであると考えられるようになる。天照大神は大日如来の化身であり、八幡神は阿弥陀如来の化身 わたしたち日本人は、やがて死ぬということを明確に認識し、予めそれを受入れていくところがある。自分という存在は、無のなかから生まれ、再び無の中へ消えていく。生は一回限りのもので、輪廻のように繰り返し生まれ変わるとはあまり考えていない。どこか、人生は無常であるという認識をもっていて、はかなさこそが生あるものの本質と考えている。 排他的で攻撃的になる移民の宗教 これからの日本人が考えなければならないのは、さまざま面での日本の豊かさを世界に伝えていくことではないだろうか いかにして日本の豊かさを世界の人々に享受してもらうかといった方がいいかもしれない。
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外国人と話すとき、日本人が最も自分の意見を持っていないテーマとして「宗教」や「思想」、「倫理観」といったものがある。
海外の人間とビジネスをする際にもこれらは尋ねられることが多々あると聞いて、自分なりの宗教観、倫理観を養おうと考えて読んだ一冊である。
本書のテーマである「無宗教」を日本人が信仰するに至った背景を歴史的に説明しながら、多数の宗教が混沌と存在する現代の世界の中で「無宗教」を掲げる日本人に対する期待を込めて著者は本書を記しており、その中には共感できるものも多かった。
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あなたはどの宗教を信じていますか?
この質問に約7割の日本人は「信じていない」と答える。つまり7割が無宗教と言うことである。
無宗教を語るのは、以前は自嘲的の理由だったが、現在は誇りと思うべきだと著者は言っている。
何故か?一つの宗教に固執・信仰することは排他的になり、しばしば対立や抗争を生み出す要因になる。
しかし無宗教の場合には、自己の信仰自体を曖昧にしており、宗教によって自己と他者を区別しない。
つまり、無宗教は様々な宗教を尊重し、極論だが世界を平和に導くのである。
まぁ無宗教も一貫性が無い、まとまりが無くなるなど悪い点はあると思うけど、良い面・悪い面双方から見ると僕は良いかなって思う。
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島田裕己著「無宗教こそ日本人の宗教である」角川ONEテーマ21
* 案外、無宗教ということばは落ち着きがよい。宗教を信じないと言い切ってしまうと、それは自分の信仰の有無にとどまらず、宗教そのものの価値を否定してしまっているようにおもわれるかもしれない。たが、無宗教ならば、それはあくまで自分だけに限定であって、宗教を信仰している人たちに対しては一定の敬意をはらっている。だからこそ、われわれは無宗教ということばを使うことにためらいを感じないのである。
* 日本人は無宗教に誇りを感じているのではないか。9・11以降のことになるが、今日の世界情勢のなかで、宗教はグローバル化した経済とならんで、極めて重要で、かつ重大な問題になってきている。それぞれの宗教は、世界平和の実現を求めているとし、平和を実現するための活動を展開してはいるものの、むしろ宗教こそが世界に対立と混乱を生出す原因になっている面がある。ある特定の宗教を信じるということは、他の宗教や信仰を認めないことであり、排他性や排外主義に結びつく。ならば、特定に宗教を信じるよりも無宗教の方が価値あると無意識に感じ始めているのではないか?
* 日本人が仏教とであった意味は計り知れないほど大きい。もし入ってこなかったら、日本には原始神道という素朴な信仰しか存在せず、高度で多様性をもつ宗教文化は形成されなかった。そして、最初は仏教の信仰や世界観が死の世界にまで入り込んでいなかった。死と仏教が結びついたのは浄土信仰が取り入れられた後である。今日の日本人が知っている仏教信仰が確立されるまでには、平安時代以降、密教(インドに土着宗教の影響をい受けながら成立した大乗仏教の思想的潮流で、加持祈祷などによって神秘的な儀式を営み、具体的な利益をもたらすことを目的とする:天台宗の最澄や、真言宗の空海な密教経典や法具などを日本に持ち込んだ)や、浄土教信仰(死後、はるか西方にあるとされる極楽浄土に生まれ変わるための信仰で念仏の実勢を伴う:浄土真宗の親鸞であり専修念仏の教えでは難解な仏教の教えではなく「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えればよかったため、庶民層にも広く受け入れられた)、さらには禅(水墨画や山水画、茶道などが形成され、「わび・さび」といった日本独自の美意識が形成された。現在の日本文化の形成には禅の影響なしには考えられない)などが取り入れられた。
* 宗教は、教義に前に利害の対立が潜んでいる。イスラム教とキリスト教が対立状態に至ったのは十字軍である。十字軍はやぶれ、キリストが十字架に掛けられて聖地エルサレムで殺された。そこでは、協議の違いが問題になったのではなく、聖地が奪還の戦争であったが、領土拡大という侵略戦争の性格も持ち合わせていた。
* キリスト教とイスラム教の決定的な違いは、キリスト教ではキリストは人間と神の2つの性格を持ち合わせているのに対して、イスラム教では預言者ムハンマドはあくまで人間であった。キリスト教の母体となったユダヤ教にも認められない考え方である。イスラム教、キリスト教、ユダヤ教と信仰する神は同一でありその点では共通している��、その神をどのようにとらえるかでは違いを見せている。そこに、2つの宗教が対立せざるを得ない根本的な原因がある。
* 無宗教は社会に宗教的な対立を生まない。日本人が無宗教であることには大いなる意義がある。日本人が無宗教にたいして公言することに誇りを抱くようになったのも、信仰を強調し、特定の宗教に立脚するより、無宗教であるほうが、対立をうまず、平和をもたらす可能性があることが自覚されるようになった。
* 仏教とキリスト教カトリックしか「出家」はない。日本の神道でもイスラム教でも、教団はそれほど重要性をもっていない。実質的には、神道の信者になる方法はない。ユダヤ教でも、ユダヤ人の家に生まれれば自動的にユダヤ教になるわけで入信のための特別な儀礼もない。ヒンドゥー教でも儒教でも道教でも共通だ。そうなると、日本人が無宗教であるのと同じ意味で、イスラム教もユダヤ教もヒンドゥー教も、いずれも実際には無宗教である。生まれながらに行っている活動は、外から見れば宗教活動に見えるが、内からみれば、単なる習慣にすぎない。それらを意識することはなく自分が特定の信者であるという意識も持つことはない。⇒信仰を意識するのは、そこに他の宗教を信仰する人間が現れたときである。イスラム教徒も十字軍などに脅かされなかったら格別イスラム教を宗教として意識することはなかっただろう。⇒そう考えると日本人の無宗教としての意識は決して特別なものではなくなってくる。⇒『世界中のベースが無宗教とも言える。』
* 日本人が無宗教であることで、海外から異なる宗教を持つものがやってきても、対立や衝突がおこらない。無宗教の人々はかえって他の宗教を尊重する。とくに真摯に信仰を追及している人々を尊重して高く評価する。宗教によって他者を排除しないことで宗教の自由、信仰の自由が確保されている。
* 我々が本当の自由を確保していくためには、特定の宗教を信仰し、それ以外を認めなくなるのではなく、無宗教の立場にたって、あらゆる宗教を排除しない方向に踏み出していくことも大切なのかもしれない。
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メモ。日本人の宗教として仏教 神道 イスラム≒神道 八百万の神の実態は「名前のない神」宗教の対立は教義のまえに利害の対立 無宗教である事に誇りを持って、には違和感。
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[ 内容 ]
「あなたは宗教を信じますか?」
多くの日本人は、答えることができない。
そして、自分は宗教に無関心だと思っている。
しかし、無宗教は大きな価値のある宗教なのだ。
無宗教、その“魅力と可能性”を初めて明かす。
[ 目次 ]
序章 「無宗教」は恥ではない!
第1章 日本人は本当に「無宗教」と思っているのか?
第2章 日本人はなぜ「無宗教」なのか?
第3章 日本人はどうやって「無宗教」に至ったのか?
第4章 日本人はなぜ「無」に惹かれるのか?
第5章 「無宗教」は世界で大きな価値がある
第6章 世界の宗教も実は「無宗教」である
第7章 「無宗教」が世界を救う
補章 JUniverse(ジュニヴァース)の未来
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読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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確固たる信仰を確立できていないことへのコンプレックス。複数の宗教と無節操に関わりを持つが故に日本人は無宗教。ある特定の宗教を信じるということは、他の宗教や信仰を認めないことであり、排他性に結びつく。神仏習合ー土着の神道と外来の仏教が交わったことで生まれた日本に独特な信仰本地垂迹ー日本の神々は実は仏教の諸仏が化身してものだという信仰平安時代に入って、まず密教、その次に浄土教信仰、鎌倉時代に入って、禅が流行。密教の宗法の実践は、国家鎮護や病の治癒、願望の成就などに効果を発揮。密教は、現世における救済、浄土教信仰は来世における救済を目的とし、使者を仏と呼ぶ。禅により、わび、さびといった日本独自の美意識が形成。稲作、祖先崇拝、先祖供養の観念が神仏習合を進めた。日本人はいわば名前のない神一般に祈っている。グローバル化とともに宗教の力はより強くなる。宗教が社会と対立するのは、教義的な問題よりも、経済的な問題が大きい。仏教とキリスト教カトリックにしかない出家キリスト教ー洗礼、仏教ー得度 罪 煩悩イスラム教のあり方は神道に近い。聖職者としての僧侶の地位が確立されないことで、仏教は権力との結びつきを失った。原理主義は、社会に大きな問題が生じ、現行の社会体制が危機的な事態に陥り、閉塞感が強まったにもかかわらず、政策の変更や社会改良運動では問題が解決しないときに、その状況を一気に解決するための方向性として打ち出される。日本人は宗教にいい加減ではない。宗教が世界平和を阻害している。無宗教は社会に宗教的対立を生まない。
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日本と海外での大きな違い。
宗教。
基本、日本にいるぶんには何の問題も無い。ていうか、気にすることも無い。だから、すごく不思議で興味があるものでもある。
この本は筆者の思いがつらつらと書いてあるんだけど、結構面白かった。そうだな〜って思ったり、そうなんだ〜、え?それはちょっとと思ったり、そこまで専門的すぎず、浅くもなくどんどん読めた。
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何が言いたいのかよく分からない本。「無宗教」というのは、新書で軽く扱うテーマとしてちょっと難しすぎるかも。仮に「宗教」を定義できたとして(これも一筋縄ではいかないが)、「無宗教」とはあらゆる「宗教」の信徒でないことなのか、「宗教」の価値観を信じないことなのか、それとも「宗教」の存在すら認めないことなのか、いろいろ解釈が考えられる。あるいは、religionという言葉が入ってきたのは明治以降のことであるので、それ以前の日本人は「宗教」という概念を持っていなかったと考え、そのことを持って「無宗教」と言いたいのだろうか。現代の日本人が言うところの「無宗教」とは「宗教に無関心」の意と考えられ、文化としての「無宗教」とは別物だとも思えるが、著者はそれらを混同しているようにみえた。