ニーチェが健康を取り戻し回復の喜びとともに、「生きる勇気」ということを説いた書です!
2020/06/01 10:20
4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、ドイツの哲学者ニーチェによって著された作品です。ニーチェは、1869年わずか24歳の若さでバーゼル大学の教授となったのですが、10年後に健康の悪化を理由に退職します。ニーチェが同書を執筆したのは、その時期にドイツからイタリアのジェノヴァ移った後で、徐々に健康を取り戻しつつあるニーチェが快癒の希望と回復の喜びを同書の中で述べています。同書では、ニーチェが「生きる勇気」ということを述べており、キリスト教とその道徳を厳しく非難して新しい道徳を打ち立てるということを意味しています。キリスト教のせいで世界は醜悪で下劣なものになったと主張し、そこから生まれた道徳は個人の幸福より社会の都合を優先する集群道徳であって、個人は社会のために奉仕する歯車になりさがっているというのです。「神は死んだ!」という名言で有名なニーチェらしい主張ではありませんか?同書を読まれることで、ニーチェの思想の本質が見えてきます!
投稿元:
レビューを見る
注釈など、研究に使うにはちくま学術文庫の方が良いが、普通に読むのであれば、こちらが読みやすいのでオススメ
投稿元:
レビューを見る
この訳は3章から。ちくま学芸の訳より数段読みやすく、流れるように読める。
とはいってもニーチェ自身に由来する難しさはあるので、まあ何度か読み返さねばというところである。第3章あたりの短い断章の方が好きだ。
投稿元:
レビューを見る
[関連リンク]
『喜ばしき知恵』 フリードリヒ・ニーチェ epi の十年千冊。/ウェブリブログ: http://epi-w.at.webry.info/201212/article_1.html
投稿元:
レビューを見る
ニーチェの著作の中では、調子が明るく高揚感のある文章が続く(特に第四書)。一大事である神の死を喜ばしく受け入れ、一個の肯定する者として、新しい時代に嬉々として突入する姿が見える。
私は本書『喜ばしき知恵』と『道徳の系譜学』が、ニーチェの肯定と否定のそれぞれの極点だと思う。ニーチェを読むなら最低でもこの2冊だろう。もう1冊、総まとめとして加えるなら『偶像の黄昏』か。詩的感性が十分な人であれば『ツァラトゥストラ』だけで足りるのかも知れないが、私には散文による著作の方が理解が容易であった。
序文で『快癒した者の感謝の念』が語られる。ニーチェ思想全体でも、病気と健康の概念は大変重要である。ニーチェは病気に対して『底辺に喘いだあの激症期は、いまでもなお汲み尽くせないほどの実りをもたらしてくれた』と感謝する。一方で、従来の哲学については『病いこそが哲学者を駆り立ててきたものではなかったか』と疑われる。第一書に『軟弱な者を殺す毒物は、壮健な者にとっては強壮剤なのだ』という文章があるが、軟弱な者を殺す毒物=病気だろう。
第一書の最初に『人間という種の保存に有利なことを行うという課題』について『そうした本能以上に古く、強烈で揺るぎなく、克服不可能なものは何もない』と書く。これがニーチェの根本的な人間観だろう。多様なテーマ、人間観・認識・高貴-卑俗・強者-弱者・道徳の欺瞞・生命観・文明・等々が、非常に鋭い視点から次々と語れれる。体系だってはないものの、流れはある。後の著作に繋がるような重要な着想が多くみられる。
第二書は、第一書に引き続き多様なテーマが扱われる。科学的世界観・真理観・女性・芸術・音楽・学問・詩人・等々。一つ伝えておきたいのは、ニーチェが女性を語る文章は著しく偏っているが許してほしい、ということである。彼の生涯に関する情報がいくらでも手に入る我々からしたら、いくら強気なことを書いても、どう考えても負け惜しみである。例えば次のように書いているのが典型例である。
『自分の愛する男性の目の前では、そわそわと落ち着きを欠いて、やたらにお喋りするような哀れな女性たちは、いつでももてないものだ。なぜなら男たちの心を鷲掴みにするのは、奥床しく、蕩けるような淑やかさだと、相場が決まっているからだ。』
第三書、ニーチェの本領発揮である。
『神は死んだ。とはいえ、人の世の常として、おそらくなお幾千年にもわたって、神の影が出現するかずかずの洞窟が存在することだろう。──そしてわれわれは、──神の影をも克服しなければならないのだ!』
『神は死んだ!二度と甦ることはない!われわれが神を殺めたのだ!あらゆる殺害者のなかでも最たる殺害者たるわれわれに、心休まる時があろうか?』
ここから本格的に、みんなの知るニーチェになる。
『世界を生きた存在とみなす考え』は『神の影』であり、それを克服しなければならない。世界は『永遠にわたって混沌』であり『旋律などとは呼べないその調べをそっくりそのまま永遠に反復』する『骰子遊び』なのである。
認識・真理観・道徳・本格的なキリスト教批判が展開される。
キリスト教が『世���を実際に醜悪で下劣なものにしてしまった』として『いまや、われわれの趣味がキリスト教に反感を覚える』とされる。
神の死によって『すべての事物の照明と色彩に変化が起こった』にもかかわらず、古代の人々(おそらくギリシア、ローマだろう)のような『かつての巨匠たちの絢爛たる色彩に匹敵できる望みはない』とする。
第三書の後半は、比較的短い断章、というより箴言集が続く。一つ一つの文章は短いものの、例えば次のように、何ともいえない鋭い力を持っている。
『「善悪というのは、神の抱く偏見だ」──そう蛇は語った。』
なぜ『第三書』の後半という中途半端な位置に、このような短い箴言集を置いたのだろうか?書物全体の最初か最後、あるいは独立した1章に置くのが、違和感が無いように思う。思うにこれは「神の死を通過した人間が世界をどのように眺めるか」、その多彩な例を示しているのではないだろうか。
第四書、ニーチェの一つのピークである。最初の断章の一部を引用する。
『運命愛(amor fati)──これをいまから私の愛としよう!醜悪なものに闘いを挑むのはやめよう。私はひとを非難することを望まないし、非難する者を非難しようとさえ思わない。目をそむけること──これを私の唯一の否認のあり方としよう!要するに、私はいずれは、一個の全面的な肯定者になることを願うのだ!』
私はここで思う、ニーチェはこの宣言を守れなかったのではないか。本書が出版されたのが1882年、反キリスト者が書かれたのが1888年である。ツァラトゥストラより後のニーチェは、激烈な論争の書を何冊も書いた後、その著作活動を停止した。
第四書では、神の死、つまり既存の価値観が否定された後に、いかに率直に自己と世界を『肯定』するか、その実例が豊富に語られる。肯定するといえば大げさに聞こえるかもしれないが、序文に大きく取り上げられている『健康』と等しいと思う。肯定すること・まさしく『喜ばしき知恵』と言いたくなる明るい調子・否定にとらわれないこと・自由精神・エゴイズムの肯定・等々。既存の文化・哲学・価値観・キリスト教への批判(否定)も多くあるが、他の書ほど激烈な調子ではない(そういったものが読みたい人は『道徳の系譜学』をお勧めしたい)。
起こることはことごとく『なくてはならなかったこと』になり、決裂した人間関係も『巨大な曲線と天体軌道』における『星の友情』として肯定される。『卓越した人間の特徴』は『自らに対して怖れを抱かないこと、自らの内に恥ずべきものを予想しないこと』、『生まれつき自由な鳥』が『心置きなく飛翔する』ことである。このあたりの筆致の美しさは凄まじいものがある。
そして、本書のタイトルである『喜ばしき知恵』が、ついに示される。
『「生は認識の手段である」──この原則を胸に抱いてこそ、われわれは単に勇敢になるだけでなく、喜ばしく生き、喜ばしく笑うことができるのだ!』
また、非常に重要なテーマである同情の禁止について明瞭に書かれる。同情は『他人の苦悩から、真に個性的なものを取り去』ってしまい、『われわれの価値や意志を矮小化』して、その『同情する側がまるで運命を握っているかのように振る舞う知的軽薄さは、われわれを憤慨させる』と表現する��この「同情」を「共感」に置き換えてみるだけで、今日の日本にも完全に当てはまるように思う。現代は「共感の時代」であるが、私はその風潮が大嫌いだ。
他の哲学者との関連も見えてくる。
まずは、時代的には後になるフロイトである。次の断章は精神分析を先取りしているようだ。
『今日にしてようやく、われわれの精神活動の大半は、無意識の内に、感じ取られることもないまま進行しているという真理が顕わになってきた。』
そしてカントである。
『老カントは、「物自体」──これまたひどく笑止千万なものだ!──を掠め取った報いで、「定言命法」なるものに忍び寄られ、それを胸に抱いて、ふたたび「神」、「魂」、「自由」、「不死」のところへと舞い戻ってしまった。』
私はこれに100点満点中の120点を与えたいほど同意した。
最後から二つ目の断章で、ニーチェの核心として語られがちな永遠回帰が初めて示される。しかし私が読んだところ、むしろ主眼は『一個の全面的な肯定者になること』であり、永遠回帰はそれに至る手段、あるいは思考実験ではないかと思った。永遠回帰とは、『この最後の永遠の確認と封印より以上の何ものも望まないためには、君は君自身と人生をどれほど愛おしく思わなければならないだろうか?──』と問いかける『最大の重し』なのだから。
第五書は、ツァラトゥストラの後に増補された章である。『善悪の彼岸』や『道徳の系譜学』と同時期の思索であり、批判的な調子が強く見られる。ここでは『神の死』は『開かれた海』と表現される。私はこの美しい言葉が大好きだ。『ニヒリズム』や『力への意志』という言葉も初めて登場する。全体として、力点が『一個の全面的な肯定者になること』から、それを阻害する道徳への批判に移ったのではないかと思われる。自由精神・道徳批判・意識と言語・認識・原因概念の誤謬・哲学者の病気・来るべき未来像・自身の文体・そして再び『健康』・等々。
ニーチェは自身について『誤解され、誤認され、取り違えられ、誹謗され、聞き間違えられ、聴き落とされること』を運命とらえて、それは『控えめに言って、一九〇一年まで』と書いた。実際の歴史を考えると、早くても1945年以降であろう。しかし次のような未来像が語られるのを見ると、誤解され悪用されたのも理由のないことではないと思う。
『われわれは断じて「自由主義的」ではないし、「進歩」リベラルに身を捧げることもない。』
『──われわれは、正義と団結の国が地上に築かれるのを、けっして望ましいとは思わないのだ(なぜなら、それはどう考えても、底の底まで凡庸化した支那風の国となるだろうから)。』
『われわれは自分たち自身を征服者の一員に数え入れ、新たな序列の必要性、そしてまた新たな奴隷制の必要性に思いをめぐらせる。──なぜなら「人間」の類型の強化と向上のためには、新たな種類の奴隷化が必要となるからだ──そうではないだろうか?』
そして、エピローグの一つ前の断章で、序文で力強く宣言されていた『健康』が再び大きく取り上げられる。『大いなる健康』は『繰り返し獲得し、獲得し直さなければならない』のであり、それを持ったものは『長い航海を続けたのち』に『別の理想』を手に入れる。そして『��そらくはこの理想とともに、大いなる厳粛がいままさに始まり、真の疑問符がはじめて打ち付けられ、魂の運命が変わり、時計の針が進み、悲劇が始まる……』。
なお、第一書の前、第五書の後に収録される詩的文章に関しては、私は詩的感性に乏しいので理解が難しかった。それでも最後の一句を読んだときには寂しさに襲われた。少しの間、仲良くしてくれていたニーチェ氏との「さよなら」のように感じて。このような読後感を与えてくれた書物は、他に無かったように思う。