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投稿者:H2A - この投稿者のレビュー一覧を見る
仏教とその思想に出てくる悟りとは何か、また悟った後で釈迦はなぜあえて生きて布教に従事したのか、この当たり前の問いに回答するのが本書の内容。それでその答えが端的にわかりやすく書かれているかというと、かなりうまく端的に述べていると思う。著者はブッダの教えはわかりやすいというが、それでもその理解が簡単だったとは言えない。大乗仏教に偏る向きが多い中、この著者はあえて上座部(小乗、テーラワーダ?)仏教の視点から本を書いている。使用する用語に漢字をアルファベットを併記しているのも自分には好ましく初心者にもわかりやすくなるよう、索引も付いていて説明している。自分程度の初心者には良い本ではないかと思う。
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これは名著ではないだろうか。ツイッターで著者に興味を持ち、Kindleで「だから仏教は面白い」を読んで興味が高まってこれを買った自分は、仏教に関する知識、興味といえば中学の修学旅行で訪ねた禅寺がきっかけで今でも臨済宗の寺が「なんとなく好き」ということくらい。そんな自分でも飽きることなく読み進めることができた。
仏教用語の漢字(初出でふりがながあっても翌日には忘れていたりする)、言い回し、概念いずれも多少は難しいはずなのだけど、それで読むのがイヤになることもないし、常にわかりやすいと思えて、少し不思議な感覚。
専門家の方の読み込みにも耐えるレベルのはずなので自分の「理解」なんぞ話にならないと思うのだけど、それでも大事なことはわかったぞと思えてありがたいし、その上で再読したらさらにナルホドに出会えそうと思わせてくれる。
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再読。やはり素晴らしい。ちゃんと読めてなかった部分もたくさん。ニー仏さんのツイキャスなどを聞いてから読むとまた別の感慨もある。輪廻のところ、ツイキャスで質問したいわ。
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難しい! 中国経由で導入された仏教なので、漢字で理解が深まるが、本書によるとほとんど仏教用語が通常の漢字での意味と異なる由.例えば、「苦」は不満足の由.「輪廻」は、行為による作用が結果を残し、その潜勢力が次の業(行為)を引き起こすというプロセスをひたすら相続している と定義され、一般に言われる「ある人が、一つの生から別の生へ移るという物語ではない」.
だったら、もっと分かりやすくするべきだ.最後の章で、日本独特の仏教について、なぜ仏教の看板をはずさないのか とある意味で強烈な批判をしているが、納得できる論考だ.
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恐ろしい仏教入門書を読んでしまった。私は仏教徒ではないということ。この本は、仏教価値を一転させた。さて困った。私の宗教とは?
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パーリ経典から、ブッダの「悟り」(=仏教思想のゼロポイント)を読み解く本。
初期仏教教団の形態や基本の教理(四諦、八正道など)を頭に入れたうえで、結局お釈迦さまの悟りってどんなものだったの?と思ったときに読むとヒントになりそう。
私は輪廻の話や、悟ったあと利他行に転じた理由に関してが興味深かったです。
後半は、だんだんと「日本仏教」を批判するような文が多くなってくるのがちょっと気になります(大乗仏教の思想を悪く言っているわけではありません)。「悟り」のみを扱うのなら、「日本仏教」のことはあんまり言及しないほうがよかったのでは…。
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これは面白い。世界三大宗教と言われながらその教義は幅広く、親しみやすいようで捉えどころのない仏教についてその起源から考える入門書。著者は仏教の本質を「その教えの説者が、「物語の世界」の外部の視野を、自ら有している」ことと定義し、悟りとはそうした苦痛や快楽の原因となる物語の世界―対称にイメージを付与してしまうものの見方―から解き放たれることと説明しているのはわかりやすい。他にも輪廻というものがいま・この瞬間にも生起し続けている話など、用語を丁寧に噛み砕きながら興味深い内容を教えてくれている。
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なんか、もう、今年最強。涅槃の説明。因果とかってラプラスの悪魔的なもんだよ(私の理解ね、著者の言葉ではないです。)だから、要は、そこで起こってることって色。色即是空。っていうようなことがつらつらと書いてあって、自由意志の問題とかを頭がくらくらするくらい考えてる欧米な人達と比べてのパンチ力半端ないよね。
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仏教の基本的な考え方を論理的に解説してくれていますね。
自分は知識が少ないので、二度読みでだいぶ腑に落ちてきましたが、理解してしまえば説得力がある本だと思います。
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解脱・涅槃とは何か、輪廻と縁起をどのように捉えるか考えるために購入。
パーリ経典に拠る仏教理解を基本にして、解脱・涅槃とは何かという「仏教のゼロポイント」を検討する。
著者はテーラワーダ仏教の瞑想センターで実践を積んでいるが、仏教徒ではない。
本書は、仏教「思想」の本であって、宗教としての「仏教」の本ではない。
輪廻については、業の結果が寄り集まったモノが縁によって生起し続けているだけであって、輪廻が仏教思想の弱点であるという見方を却ける。
大乗仏教に対しては、肯定的とは言えない態度を採る。
ただし、否定的では全くない。
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仏教の核となる教義をここまでわかりやすく解説した本はないのではないか。
巨大な哲学的体系では決してなく、苦、縁起、輪廻、涅槃、解脱など極めて論理的で、かつ「書かれていることを、書かれている通りにしたら、書かれている通りに解脱できた」という、極めて実践的なものでもある。
解脱とは徹底して客観視する、もしくは人間社会の心象風景は須らくバーチャルだと断じてしまうことのようにも思えるが、解脱者が涅槃と俗世間との繋がりを表現しようとすると、表現の仕方によってさまざまな教理が生じるのだろう。
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初めての仏教解説書としてはなかなか難解だったけれど、自分には日本仏教よりも釈迦仏教(ゼロポイント)の方が合っているように感じられたのは大きな収穫。周辺知識をもう少しつけたらまた必ず読みたい。
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201607/
縁起の法則が、私達衆生の迷いの生存状態・苦の現状を形成している法則であるからであり、ゆえにそのはたらきをありのままに見て、私達を現状に至らしめている原因・条件(因縁)を消滅させることができれば、私達は苦であるところの迷いの生存状態から脱却する(解脱する)ことができるからである。/
ゴータマ・ブッダの仏教において目指されていることは、衆生をこの「世間」の存在状態から「出世間」へと移行させることであり、その手段は、縁起の法則によって形成された私達の苦なる現状について、その原因や条件を徹見し、それを消滅させることである。「仏教は難しい」とよく言われるが、その基本的な筋道は、このように、これまた実にシンプルなものなのだ。/
ゴータマ・ブッダの教説の新しく、そして弟子達にとっては魅力的であったポイントとは何かと言うと、それは彼が衆生の苦という存在のあり方を徹底的に分析した上で、それは原因による必然的な結果ではあるが、そこからの解脱は決して不可能ではないと結論したこと。そして「私(ブッダ)はその原因を見出し、それを根絶することができた。私はその方法を君達に教えてあげることができるし、そのとおりにやれば、君達にも必ず私と同じことができる」。このようにはっきりと語り、かつ、その言葉が真実であることを、彼の全人格を持って、対面する人々に納得させ得たこと。これこそブッダの教説が多くの人々を惹きつけた理由。/
世界を説明することではなくて、世界を超越することが仏教の第一目的である/
厭離と離貪を経て解脱に至った者には、必ず「解脱した」との智が生ずる、というのは、経典において何度も繰り返されている仏説の基本である。そして、このいわゆる「解脱知見」を得た修行者は「わが解脱は不動である」とか、もやは再生することはない」とか、「梵行は完成した」とか、「為されるべきことは為された」とか、そのような自覚を明白にもつ。/
渇愛は凡夫に対しては「事実」として作用しており、それが彼らにとっては「現実」そのものであるところの、「世界」を形成してしまっている。ゴータマ・ブッダの教説が当時の真剣な求道者たちに対しても説得力をもったのは、彼がそのような「世界=苦」の原因を渇愛であると特定し、それを自分は滅尽したと宣言した上で人々にもその方法を教え、そして弟子たちがそれを自ら実践してみると、本当に「世界」が終わって苦が滅尽した--あるいは少なくとも、そのように確信することができた--からである。/
無為の涅槃の覚知によって、渇愛から離れた眼で現象を眺めた時に、誰が教えるということもなく、ただ明瞭に自知されることが一つある。それは、いま・ここに存在している、「私」と呼ばれるこのまとまりが、他の全ての現象と同様に、一つの「公共物」であるということだ。
「公共物」という言い方が正しいかどうかはわからない。「私」と呼ばれる、継起する現象のまとまりは、「私のもの」ではないけれども、他の誰かのものでもないし、ましてや「みんなのもの」でもない。花が花のようにあるように、山が山のようにあるように、石が石のようにあるように、「私」はただそのようにある。そこには意味も無意味もない。/
仏教の本質は、「世界」を超脱した無為の常楽境を知った上で、そこから敢えて、物語の多様に再び関与しようとすることにある。したがって、そこに新たな物語が様々な仕方で示現することは当然なのだが、それらが「仏教」であるためには、そうした物語があくまで「遊戯三昧」の境地から、執著を離れた形で語りだされていることが必要だ。/
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ミャンマーで上座部(テーラワーダ)仏教を学んだ著者が、初期仏教の解釈をおこなうとともに、現代に生きる仏教の実践者たちの体験も参照しながら、釈尊(ゴータマ・ブッダ)「解脱」「涅槃」ないし「悟り」の具体的な内実を、明確にしようと試みた本です。
著者は、「解脱」や「涅槃」を証得した修行者には明白な自覚が訪れるといい、それを世間の「現実性」と区別して「本来性」と呼んでいます。その上で、大乗仏教における「即心是仏」や「平常無事」の主張は、「現実性」から「本来性」への移行というゴータマ・ブッダの教えには明白に見られた方向性は無効化され、「現実性」と「本来性」が媒介無しに等置されていると論じています。
やはり、大乗仏教的な発想に多少ともなじんだ読者のばあい、ともすると、ここに説かれている「悟り」がドグマティッシュなものに感じられるのではないでしょうか。あるいは、かつて秋月龍珉が批判した「禅の心理主義的解釈」と同様の問題が指摘されはしないだろうか、と思ってしまうのですが。
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生きることの苦に対する姿勢が仏教だとすると、生きることが楽(喜)だと思っている自分はどうなのか。
その楽が原因で苦がくるのか。あるいは楽には楽の生き方があるのか。
探っていきたいと思った
理解しても「わかっちゃいるけどやめられない、悪い癖」。これを抜くために修行