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TOYOKUMAさんのレビュー一覧

投稿者:TOYOKUMA

6 件中 1 件~ 6 件を表示

紙の本朗読者

2004/06/29 00:09

三つの物語

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この物語の中には三つの物語がある。

一つめの物語は「恋の物語」である。15歳の少年ミヒャエルはある日、21歳年上の女性ハンナと出会う。そして恋に落ちる。もちろん最初は好奇心から。そしてだんだんと、15歳の少年は36歳の女性から、大人の「ものの見方と考え方」を学んでいくことになる。

ハンナはミヒャエルに本を読んでほしいと云う。ミヒャエルはその日を境にハンナのための朗読者になる。ハンナは熱心な聴き手であり、ミヒャエルの朗読する本の中で語られる物語の世界にどっぷりと頭まで沈み込む。時には悠々と泳いでみたり、時には溺れたりする。物語はそういう意味では海に似ている。静かな浜辺で、足元に寄っては返す波に足の指を濡らせて、のんびりと歩いていたかと思うと、いきなり大きな波が来て足元からさらわれてしまうこともある。ハンナはミヒャエルの読む物語を耳の中の大切な場所にそっとしまいこむ。朗読者であるミヒャエルはなぜ彼女がそんな風に物語を聞きたがるのか、全くわからない。そして、その理由がわかるとき新たな物語が始まる。朗読者ミヒャエルと聴く人ハンナの物語が。

「学ぶ」ということには2つの種類があるようである。つまり学校での勉強のように、文献や教師が語る言葉を通して知らない事についての知識を吸収していく作業と、修行中の料理人のように、自分よりも上の立場の人間の、動きや仕事の中から技術や知識を吸収していく作業。15歳の少年は21歳年上の女性のことを恋することによって、周囲にいる友人たちが子どもっぽく見える。女の子と話をする時も、同学年の友人たちのように、変に気を使ったり格好を付けたりすることなく、自然に振る舞えるようになる。人が自分よりも年上の人を愛したときには、必ずこういう錯覚を覚えるものなのかもしれない。つまり自分の存在が自分が思っている以上に大きく感じられるのである。けれども15歳の少年はやっぱり15歳の少年なのである。彼女がある日、ふっといなくなってしまった時、彼の中から自分を大きく見せていた魔法の力が消えてなくなる。

 二つめの物語は『ある罪についての物語』である。その罪は戦争という極限状態の中で行われた罪である。アウシュビッツ。ポーランド南部の工業都市。第2次世界大戦中、ドイツ軍が占領し強制収容所が設置された場所。そして4000000人以上の罪の無い人々が虐殺された場所だ。戦争さえ無ければ「普通の生活」を過ごすことができたかもしれない人々。「普通の生活」とは何かといえば、気持ちのいい朝の光りを感じたり、おいしい朝食を食べたり、夢を叶えるために一生懸命勉強したり、誰かの役に立つ仕事をしたり、夕日の美しさに一日の疲れを忘れたり、道で素敵な人を出会ったり、子どもの寝顔を見て小さな幸福を感じたり、喜んだり、怒ったり、哀しんだり、楽しんだりすることができる生活のことである。そういう生活を蹂躙する権利は誰にもないはずなのだけれど、戦争という極限状態に置かれた場合、人間は何をやってしまうかわからないものである。それは歴史が教えてくれる。

三つめの物語は『朗読者と聴く人の物語』である。ハンナはその罪により牢獄に入ることになる。ミヒャエルは一度はハンナのことを忘れようとして結婚し、普通の生活をしようと試みるがうまくいかなくなってしまう。そして彼は行動する。本を朗読した声をテープに吹き込み、独房にいるハンナに送り続けるのだ。何年もの歳月が流れるが、朗読者は朗読し続け、聴く人は彼の声を聴き続ける。なぜ彼は朗読者として生き続けるのか、そして彼女はどうして聴く人として生き続けるのか?

その秘密を知るとき、何かが心の中でふくらんでいくのがわかるかもしれない。それはとても素敵な感情である。

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紙の本カイマナヒラの家

2004/06/21 01:07

素敵なことを教えてくれる。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この物語の舞台はハワイイのダイアモンド・ヘッドの麓に本当に建っていたという古くて大きな一軒の家である。この物語の語り手である男は、この由緒正しい家を借りて住んでいる男と偶然出会ったことから、ハワイイに来るときにはかならずその場所で過ごすことができるようになる。とても素敵なことである。そして彼はその場所で、良い人々といっしょに良い時間を過ごす。

人には自分がいるべき場所とそうではない場所があるのだと僕は思う。自分がいるべき場所にいるときはとても居心地が良くて、どんなに長い時間を過ごしていてもちっとも退屈にはならないけれど、自分がいるべきでない場所にいると、息苦しくなったり、意味もなく眠くなってしまったり、肩がこってきたりしてしまう。そういう生活が長く続いてしまうといつの間にか生きていること自体が苦しくなってくるのかもしれない。そしてそうならないようにある人は大きな買い物をし、ある人は旅に出る。大きな買い物はしばらくの間はその魔力を発揮するがいつかは大きなゴミになる。そして旅は旅をしている間は大きな魔力を発揮するが帰って来たら魔法は消える。もちろん旅は思い出という目には見えない姿で心の中に残るので旅の魔力は細々と長く続く。あるものは魔力が無くなる頃にまた新たな大きな買い物をし、あるものは魔力が無くなる頃にまたどこかへ旅に出る。そんな風にして、自分自身の周囲に流れている空気を循環させることによって人は生きている。

一人のウィンドサーファーがいる。彼はこの物語の中で唯一、自分のいるべき場所を最初から最後まで見つめ続けている。彼の言葉を読むと僕はとてもうらやましくなる。こんな風に自分のいる場所について語ることができるようになりたいなあと。けれどもそれは努力したり懸命に探したりして見つける種類のものではないらしい。それはきっと誰もがちゃんと持っているものなのだ。そのことに気が付くか気が付かないかの問題なのだ。

池澤夏樹はハワイのことを書き表すとき、「ハワイイ」と書く。なぜそんな風に書くのかという理由もこの小さな本の中にはちゃんと書かれている。

そんなわけでこの本は、とても小さな本であるけれども、いろいろな素敵なことを教えてくれる。

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それは小さな生まれ変わりである。

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名前にはある種の意味があると思う。
自分が背負っている名前によって、自分の方向性が定められてしまう。その方向性と自分自身で決めた方向性が割りと合っていれば、けっこうスムーズに毎日の生活が流れていくような気がする。でも、双方の方向性にズレがあれば、どちらかがどちらかの足をひっぱりなかなか思うようにいかないという話になってしまう。だから名前を変えるという行為は、今まで使っていた名前の持つ磁力を裁ち切ることを意味する。
それは小さな生まれ変わりである。
そんな風に僕は思う。

この物語は雫石という名前を持つ一人の女の子の物語である。
雫石というのはサボテンの種類の名前で、彼女の死んだおじいちゃんが好きだったサボテンにちなんで付けられた名前である。雫石の家族はおばあちゃんただひとり。雫石とおばあちゃんは人里離れた山奥で、薬草を材料にしたお茶を作りながら暮らしている。おばあちゃんは雫石に大切なことをたくさん教えてくれる。

雫石はおばあちゃんのことを「自由」であると表現する。
「自由」とは何だろうか?と考えると、「不自由」とは何だろうか?と、同時に考えることになる。この物語の中でおばあちゃんが作り出している「自由な空気」は何ものにも束縛されず、自分の思った通りに生きていくというおばあちゃんの毎日の生活から出てくるものである。何ものにも束縛されないというのは、もちろん「人」にも「物」にも「金」にも束縛されないということだ。人はときどき自分ではどうすることもできないような穴の中に落ちてしまうことがある。全てのものごとには原因があり結果がある。穴の中に落ちて頭上にぽっかりと空いた穴の入り口から小さく見える空を見上げているときになってはじめて、人は自分が穴の中にいることについて考えはじめる。
「どうして今、自分はこんな穴の中にいるのか」と。
それはおそらく<人>か<物>か<金>に振り回された結果なのだと僕は思う。物語の中のおばあちゃんはそれらの魔の手をひょいひょいと飛び越えて行くことができる、強い力を持っている。その力はどこから来るのか。誰でも持つことができるのか。どうすればいいのか。という様々な疑問が生まれる。
おばあちゃんの次の言葉がそんな疑問に答えてくれる。

『それにいつかきっと大きな意味で、うまくいく日も来るよ。人のいるところには必ず最低のものと同時に最高のものもあるの。憎むことにエネルギーを無駄遣いしてはいけない。最高のものを探し続けなさい。流れに身をまかせて、謙虚でいなさい。そして山に教わったことを大切にして、いつでも人々を助けなさい。憎しみは無差別に雫石の細胞まで傷つけてしまう』

そして雫石はおばあちゃんから自立して、一人で街の中で生きて行くことになる。この物語は雫石が自分に合った、自分と等身大の「自由」を探す物語である。それはおばあちゃんの持つ「自由」とは色も形も大きさも違うものであるに違いない。大切なことは自分自身がその場所に居て心の底から安心できる場所を見つけることである。それが、自分にとっての『王国』であり、『アンドロメダ・ハイツ』なのである。

この物語は大きく二つの部分に分かれている。雫石とおばあさんとの山奥での暮らしを描いた前半部分と、雫石が都会で自分の居場所を探す後半部分である。前半部分と後半部分では、物語の空気が微妙に変化する。

これは「吉本ばなな」が「よしもとばなな」になって最初の本である。この物語が書かれている間、「吉本ばなな」と「よしもとばなな」がまだ作者の中で、いったりきたりしていたのかもしれない。名前を変えるというのは、なかなか大変なことのようである。
なんといってもそれは、小さな生まれ変わりなのだから。

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紙の本センセイの鞄

2004/06/22 21:38

世界をおもしろくするもの。

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本には二つの種類がある。
電車の中や喫茶店のざわめきの中でも読める本と、
ひとり静かに読む本の二つだ。
『センセイの鞄』は後者の本である。
ぼくはひとり静かにこの本を読んだ。

おじいさんと呼ばれる年齢になった「センセイ」と、彼のかっての教え子で三七歳という年齢になった「ツキコさん」の物語。センセイが地球だとするとツキコさんは地球の回りをぐるぐる回る月のような存在である。彼らがよく出会う場所は、地球と月のいる場所である宇宙というただ広く茫漠とした場所ではなく、居酒屋のカウンターという暖かい場所である。

地球と月とはいつも一緒にいるわけだが、地球から月が見えるのは太陽の光が見えなくなる夜である。夜になると居酒屋の提灯が静かに灯り、その小さな光に誘われる虫のように、センセイとツキコさんは暖簾をくぐる。その場所でセンセイとツキコさんはそれぞれお互いのペースで酒を飲み肴を食べる。それまでひとりでそうしてきたように、ふたり並んで座っていてもそのペースを崩すことはない。

この物語の中では<場所>というのが大切な要素となっている。
センセイとツキコさんはいつも居酒屋という同じ場所にいるわけではなく、様々な場所を歩き、様々な場所で同じ空気を共有する。人には同じ空気を共有できる人と、同じ空気を共有できない人がいる。同じ空気を共有できるというのは、単に同じ場所で酒が飲めることを意味しているわけではない。同じ場所で同じ酒を飲んでいても吸っている空気の成分が違うのではないだろうかと思うことがある。そういう相手と同じ場所にいても、居心地が悪いだけで、なんだかつまらないものである。同じ空気を共有することができるというのは、お互いに自分自身でいることができるということである。背伸びをしたり、格好付けたり、気を遣ったりすることなく誰かと同じ場所に存在できること。そこから生まれてくるものは無限であるような気がする。

センセイとツキコさんの間に漂う空気は、場所が変わり、時が流れ、季節が変わるたびに変化していく。匂いが変わり、密度が変わる。だんだん成長していく夏休みの向日葵のように二人の間にある漠然としたものがだんだんと明確な形になっていく。そして最後に二人はとても不思議な場所に辿り着く。それはこの物語を読んだ人だけが知ることができる場所である。

地球と月は太陽の回りを回っている。
地球から見た月は十五日という周期でじわりじわりと姿を変える。同じように宇宙もぐるぐると回っている。昨日と同じ星空は今日はない。人と人との関係も同じようなものだと思う。昨日と同じものはないのだ。そんな風に変わっていくことが、この世界をおもしろいものにしていく。

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紙の本体の贈り物

2004/06/12 00:48

「あたりまえのこと」

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『体の贈り物』。
この本を読んで、
「強さとは何か?」ということについて考える。
この小説の中には一人の女性が生きている。
彼女の仕事は死にゆく人々を見守ることである。
死にゆく人々を前にすれば誰もが言葉少なになり、
いつもの自分の顔でいようと思っていても、
つい暗い表情になってしまう。
泣いてしまうこともあるかもしれない。
でも彼女は「強い」。
死にゆく人々を前にして、
人間としてやるべきことをちゃんと行う。
これは簡単なことのように思えるけれど、
とても難しいことである。
僕はこの小説を読んでいるだけで、
何度か泣きそうになってしまった。
死にゆく人々の姿が悲しかったわけではない。
死にゆく人々を前にして彼女が行ったこと。
彼女が彼らに語りかけたことがとても「あたりまえのこと」だったからだ。
「あたりまえのこと」を行うことが、
時にはとても難しく勇気のいる行為であることがある。

翻訳は柴田元幸。
彼の翻訳した小説が僕はとても好きです。
それは彼が「翻訳しよう」と思った小説が彼にとっては、
『訳した本はどれも、届くべき読者に届くことを祈りつつ世に送り出すもの』
であるということに、
大きな理由があると僕は思う。

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紙の本インド夜想曲

2004/06/27 10:15

大切なのはマーヤーではなくてアトマンである。

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男はある<男>を探してインドにやってくる。そしてインドという場所を彷徨する。探している<男>の手がかりは少ない。男はインドという場所で様々な人々に出会う。タクシーの運転手、娼婦、医者、学者、そして預言者、それは男であったり女であったりする。人は旅をすると様々な場所にたどり着くことになり、そこで様々な人々と出会うことになる。出会いが人の運命を変えていく。そんな単純な事実にこの物語は気づかせてくれる。

僕はこの物語を読みながら男とともにインドを彷徨い、<男>を探しているよ
うな気持ちになる。その<男>の影はどこまでもあいまいでピント調節機能が壊れたカメラのように焦点があうことはない。そのうちに僕は探している<男>自分自身とを重ね合わせてしまう。物語の主人公が探している<男>が物語を読んでいるもの=僕自身であったらどうなるだろうかと考える。僕は物語の中である<男>が自分自身を探している姿を眺めながら、自分自身が今いる場所を確認する。僕はここにいる。そしてここで生きている。誰かが僕を探している。けれども彼が探している<僕>は実は僕自身ではないのかもしれない。人には真実の姿と偽の姿がある。人には本来あるべき姿と情況によって存在させられている姿がある。旅に出ることの良い点は、本来あるべき自分自身の姿の片鱗を見つけることができるかもしれないということである。この本来あるべき自分自身の姿のことが物語の中では「アトマン」という言葉で語られる。
「アトマン」に対して「マーヤー」という言葉があり、これはこの世の仮の姿であるという。またカルマは過去と現在と未来における自分の行動のすべてである。

物語の中の男は、こんな風に語る。
「僕らの中にあるのはカルマだけかと思っていた」
「僕たちがおこなったこと、過去の自分と、これからあるべき自分のすべて。それだけかと思っていた」
僕も日常の普段の生活の中ではこの男と同じように思い込んでいることに気が付く。物語の中の少年が男に微笑みながらひとつの真実を教えてくれる。
「それじゃアトマンってなんだ」
「The Soul.個人のたましいです」

大切なのはマーヤーではなくてアトマンである。その真実を僕はポケットの中にそっとしまう。以前にもこんな風に同じ真実に気が付いて、同じようにポケットの中にしまったような気がする。あのときのポケットにはきっと穴があいていたに違いない。
今度のポケットは大丈夫だろうか。

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