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  3. 中堅さんのレビュー一覧

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先月(2017年6月)

中堅さんのレビュー一覧

投稿者:中堅

32 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本人間不平等起原論 社会契約論

2010/04/07 00:03

自由とは、民主主義とは何か、ルソーのラディカルな思索を読む

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

読者に先入観を植え付けているかもしれない、倫理の授業で習うルソーの思想の総括は、「自然にかえれ」だった思うが、訳者が冒頭の解説で述べてくれているように、これは全くの誤読である。ルソー自身そのようなディオゲネス的文章は書いていないし、森に入ってゴリラと共に暮らすことが幸福だとは述べていないのである。
それでは、ルソーはいったい何をいったのか? 雑感になるが下記に記す。

『人間不平等起原論(1755)』で用いられるルソー独特の用語である「自然状態」は、想像力により得られる概念である。ルソーは、前-文明状態の人間、つまり未開人の状態(=自然状態)を理念として立て、そこから文明社会を根本的に批判するのである。自然状態と比較した場合、文明化された人間は(自然的)自由を失い、弱くなり、(社会的)不平等も発生する、とされる。
この「自然状態」からの現実批判は、科学的ではないかもしれないが、かなり過激で、根本的であることは間違いない。
なぜなら、現代に生きる私たちにとっても、「不平等論」出版当時の社会にとっても、自分たちの街そのものが、文明の所産そのものであるだけでなく、人との繋がり、及び自己の評価、全て「文明」による規定を受けていないものは何も無いために、人間が作り出したもの全てが批判の対象となるからである。
『人間不平等起原論』は、「自然状態」から遠く離れてしまった人間、つまり「人工の人間」の登場に対する悲観主義に貫かれている。自分の根源の場所(=自然)から離れてしまった人間を嘆くルソーの嘆きは、宗教家が文明批評家となったような、かなり切迫した絶望感を読む人に与える。彼の書を「自然にかえれ」と、宗教的な標語として総括した人間は迫ってくるこの興奮にやられたのだと思う。しかし彼を単なる「厭世的な文明批評家」という概念に丸めこむことが間違いであることを証明するのが、『社会契約論(1762)』である。

『社会契約論(1762)』は、正しい文明(社会)の在り方を築くための方法を「社会契約」という形で提供する。人間が「自然状態」で孤立して生きることが困難になり、皆と協力する必要、つまり共同体を作る必要が生じた際に、自由でありながら、皆の力を合わせることのできる結合の方式として、「社会契約」を考えるのである。ルソーは、各人の利害に絡む特殊意思の最大公約数として、「一般意思」の概念を生み出し、その「一般意思」の行為として、法を考える。「自分の制定した法への服従が自由だからである(P.231)」というカントが影響を受けたであろう文章とともに、ルソーは「自由」についての概念をずらすことになる。つまり、自然的自由から社会的自由にである。「社会状態において得たものには、精神的自由を加えることができよう(P.231)」とルソーがいうとき、『人間不平等起源論』で語られた「自然状態」への憧憬は打ち消された訳ではなく、依然として彼の中に残っているのである。が、このずらしの意味を、私(評者)は、人間が奴隷のように自分の自由を売り渡すことが強要される君主制から脱し、かつ無政府主義に陥らずに共同体を維持するためのルソーの苦渋の策とみたい。文明の全否定からは何も生まれない。よって、否定に程度を持たせることで答え(=民主主義)を導くのである。
なお、「人間は生まれながらにして自由であるが、しかしいたるところで鉄鎖につながれている(P.207)」という『社会契約論』冒頭のルソーの言葉を引いて、彼があたかも『人間不平等起原論』での「自然状態」からこれを語っているのだと解釈する人は間違いを犯していると思われる。一方は受け取り、一方は奪われ続けるような、もはや人間の関係で無くなっている、君主と奴隷のような関係性のことを「鉄鎖」とルソーは言っており、だからこそ、社会契約により、(1).自然状態から脱し、かつ、もう誰からも支配されないために、(2).自分自身に法を与えよう(一般意思)としているのである。
しかし、「制度」を考えるとき、ルソーは急速に(現実性がないという意味で)観念的になってしまう。彼の考える「立法者」が、天下り的な導入に留まっていること等、『社会契約論』は「制度」としての検討が欠けていることは否めない。「一般意思」「主権」の概念を、いかに現実的な「法」とすることができるのか、という問題が如何にルソーを苦しめたか、文章の間から推し量れるようである。
……その思想を受け継いだ現代においても、同じ問題で多くの法律家/思想家が苦闘していることは、この問題の大きさを物語るものであるが。

------
『人間不平等起原論』『社会契約論』どちらも大変おもしろかった。この中公クラシックス版の翻訳された文章は非常に読みやすかったので、岩波文庫等、他の翻訳もあるが個人的にはこの本をお勧めしたい。文明批判者としても、政治思想家としても、非常に興味深いルソーの著作を是非、読んでみてください。

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紙の本存在と時間 上

2004/09/23 12:00

本書の偉大さは、哲学の伝統的な用語(つまり死語)を使わずに私たちの生きる世界を生き生きと描いて見せたところにある。

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 小林浩氏のbk1「人文レジ前」によると、村上春樹の小説「1973年のピンボール」には「純粋理性批判」を寝床で何度も読み返す主人公が登場するらしい。
 その話を知り、「純粋理性批判」というあの難解な、ひたすらに頭を酷使する哲学書を寝床で読み返す人間を想像してみて、私は怖いような気がした。
 だが今「存在と時間」上巻を読み終えて、私個人としては、寝床で「純粋理性批判」を読み返す人はあまりいないとしても「存在と時間」を読み返す、という人なら結構な数が居そうなものだと思ったのである。
 それは本書が実存主義者と目されるハイデッガーによるものだからではなく、「精神」と「物質」に分裂させることなく生き生きとした世界を描くことに本書が成功しているからである。

 哲学の専門家ではない私が、哲学書に何を求めるかといえば、「人生とはなにか?」の答えということだと考えている。人生とはつまり知ることのできる世界の全てなのであるから、この問いはさらに、「世界とは何か?」という問いと考えられる。
 「この世界はいったい何なのか?」というこの質問に対して、何人かの天才の文学だけが答えることができ、多くない文学者たちはわずかに開示するだけだった。
 それにハイデッガーが成功している、といえば、本書の偉大さが分かってもらえるだろう。

 この上巻には、序論と、第一部第一編「現存在の準備的な基礎分析」が収められており、その中に六つ章がある。
 序論から第二章までは、方法論と、本書全体の探求の見通しについて述べ、第三章から最後の第六章まで、「世界の世界性」「共同存在」「被投性」「心境」「真理概念」など、「存在の秘密」を消化不良になるのがあたりまえだと思われるほどの密度で、ハイデッガーは語り続けるのである。

 「形而上学」「純粋理性批判」「精神現象学」などの挑むに値する原著は多くあるのだが、おそらく「存在と時間」ほど、衒学趣味に陥らないですむ原著はないだろう。これほど現実に迫ってくる「古典」といわれる哲学を私は知らない。
 この上巻、第三章までとにかく読んでみることを勧める。
------
 「存在と時間」の訳は文庫本では他に岩波文庫、中公クラシックスのものがあるが、日本語としての完成度からして、とにかく最初はちくま学芸文庫で読むのが安全である。(なにしろ訳者の細谷氏はハイデッガーの自宅を訪ねて、直接話を聞き、翻訳に万全を期しているのだ。)
 また、この本を読む前に読んでおくと良いのは、木田元「現象学」と谷徹「これが現象学だ」である。どちらか一冊でもいいので読んでおけば、本書の特に序論で嫌気がさすようなことは防げるだろう。
 AI関連に興味がある人は「コンピュータには何ができないか」から「存在と時間」に入るのもいいかもしれない。この本の著者は、ハイデッガーの良き研究者であるから、AI(人工知能)研究を架け橋に「存在と時間」を読むにはもってこいである。

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紙の本形而上学 上

2003/11/11 23:52

非常に注釈が多いので、勤勉な読者には大いに理解の助けになると思う。

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

抽象的、普遍的なものについて、それがなにであるかを考えるのは難しい。
言葉の上っ面だけをもてあそび、同語反復におちいる危険があるからだ。
それが言葉というものの弱さなのだろうが。
アリストテレスは、厳密な言葉を定義をし、類や種などの独自の方法での分析をして、さらには他の哲学者たちへの批判や総括を踏まえて、「存在とはなにか」を掴もうとする。
残念ながらその問いへの明確な回答は得られていないが、
その思考の過程において、弁証法や唯物論、観念論の萌芽がみられ、著者の分析力、体系化能力に大変驚かされた。

哲学が、他の学問より優位な理由は、
諸学問すべての基礎付けを徹底的に行い、この世界をよりよく理解しようという点においてであろう。
アリストテレスには、理性への過剰なまでの信頼がある。
それは、科学実証主義によって理性への懐疑の後のあきらめでいっぱいになった現代人の姿とは対照的だ。

「全ての人間は、生まれつき、知ることを欲する」で始まるこの書物は、
我々に「全てを知ること」への欲求を蘇らせるだろう。

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至るところに散りばめられるアレントの考察が、「政治」「人間」への理解を促すように感じる

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書、第一部では、ユダヤ人について性質/国家権力との関係が歴史を追いながら考察される。
中世からドレフュス事件に至るまでの、ユダヤ人の社会学的な考察とともに、
その時々の国家体制(君主制~国民国家(民主制))についての考察もちりばめられている。

アレントの語り口は、「社会学」、もっと言えば「社会心理学」とは大きく異なる。最初読み始めたときは、著者であるアレントが価値判断を厭わず、行っているからだと思っていたのだが、この違和感、はやはり本書が「政治学」の本であることに由来しているように思われる。
一般に、心理学的な観点からものごとをみれば、全ては1人間、無いしは集団心理に分解/還元されてしまう。これは、人間の「主体」、「責任」を最初から度外視した観察方法なのであって、この観点からは人間の「動物性」、「オートマチックな社会の流れ」等しか回答が得られない。せいぜい行きつくのは「運命論(宿罪論)」である。だが、アレントは非常に明確に「実践的人間」、「主体としての人間」つまりは「政治的人間」を定義し、そこから裁断を行っているのである。「主体」があるゆえに、「責任」も存在し、それ故に「罪」も生まれるが、真の「自由」も存在する。
ナチズムを集団ヒステリーとして、またはスケープゴート説、ないしはキリスト教文化圏に存在するユダヤ人憎悪(ぞうお)の結果だとして、解釈することをアレントは鋭く拒否するのである。アレントは、儚い存在だけれども、人間を主体/責任/自由をもっていると考えいている。だからこそ、人間を1動物、せいぜい社会的動物に貶める上記の説では全然納得がいかないのである。「理性が破壊された人間」の定義からスタートし、ナチズムを1つの「病理」として解釈する理論は、アレントにとって根本的に「不合理」なのである。

アレントは、人間存在の「可能性」に対し、敬意を抱いているように見える。だからこそアレントの「なぜ?こんなことに?」は一歩ずつ進んでいき、ナチズムの「理解」へ至ろうとする。

それにしても、ユダヤ人に対するアレントの叙述は、日本について語られているようにしか思えなかった。
「疑いもなくヨーロッパで最も政治的経験に乏しい民族(P.9)」
「二千年間を通じてまったく政治行動というものを断念して来た一民族の特異なドラマを示している。このことの結果ユダヤ人の歴史は、他のすべての民族の歴史よりもはるかに外的な偶然的な要因に支配されることになり、結局ユダヤ人は次々にいろいろな役割を演じてそれに失敗しながら、そのいずれについても自分にその責任があるとは感じないで来た(P.9-10)」
ユダヤ人は政治感覚の欠如は本書の至るところで強調されることである。それ故に、ユダヤ人は身に迫る危険に対して今からすれば驚くべきほどに無関心であったし、いざホロコーストが始まった時には巨大な政治権力の前に無力であった。このような大量殺りくはどのような方法でも正当化できないため、当然ユダヤ人は無罪である。だが、その無罪は彼らに「選択の機会」が無かった、「選択の機会が放棄/遺棄」されていた、ということを意味するだけで、言わば、彼らが「責任の主体足り得ない」といっている、「非人間的な無罪」なのである。
私(評者)は、日本に同じ道を歩ませたくはない。
「国際的な力関係のなかで純粋に政治的な要因はまずます無力になり、純粋に経済的な力がますます強力に支配権を簒奪しはじ(P.95)」めたのが第一次世界大戦前の世界だった、とされるが結局大戦の結果、人々は常識的な結論に至るのである。「経済的また工業的発展はそれ自体としては人類の救いを約束(P.95)」しない、との常識に。

政治に無感覚な人間とは、主体的な人間たりえない、ということであり、結果そういう人間は人間存在の数少ない名誉の1つ「自由」を放棄することになるのだろう。

引き続いて第二部では、「帝国主義」が考察の対象となる。

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紙の本マチウ書試論・転向論

2010/05/13 07:08

「思想」をもつ、ということの難しさ

6人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『転向論』は第二次世界大戦時に生じた、共産党員の「転向問題」に関し、一連の論議の中から、近代の知識人における「転向」及び「非転向」のタイプを著者(吉本)が明快に整理してみせた小論である。
吉本によれば、「転向」とは「日本の近代社会の構造を、総体のヴィジョンとして掴みそこなったために、インテリゲンチャの間におこった思考変換(P.286)」を指す。
吉本が示す「転向」の3つのタイプを下記に示す。

(1).論理的な思考をいくらかでも身に付け、日本的な小情況を封建的/前近代的と侮っているタイプ 
権力からの強制により、「現実」として「小情況」が迫ってきた際、「小情況」として馬鹿にしていたもの(天皇制/封建制等)が、社会の中に確固として存在し、大衆の支持を得ており、逆に自分がそういった状況において異端であり、非・正統的(吉本の言葉では劣性遺伝的)であることを自覚⇒正統(優性遺伝)なものへの全面屈服に至るタイプ
(2).日本的な近代主義(モデルニスムス)者のタイプ
このタイプの人間は、思考される論理(硬直したマルクス主義思想等)が現実の社会構造と対決/検証されることがなく、思考する人間の内部で自己完結している。よって、例え目の前の現実がその論理から離れていったとしても、決して論理が修正されることなく、論理のオートマチズムにより生産され続ける結論をオウムのように繰り返す(吉本の言葉ではサイクルを回す)。⇒よってこのタイプは、己の体系内に、原理的に「転向」が存在しない。吉本はこのタイプを「非転向」的転向と呼ぶ(現実を最初から見ていない、つまり、あらぬ方「向」に最初から「転」じているという意味での「転向」と解釈していると思われる)。
(3).本来の意味における転向(思考変換)のタイプ
(1)と同じく、現実(「小情況」と侮っていたもの)が迫ってきた際、その正統的(優性遺伝的)なものの強靭さの前で一度屈服するが、そのあと、これまでの現実認識の甘さを突き付けられながらも、この屈服により、自分の侮っていた敵(優性遺伝的なるもの)を見出し、それと対決するすべを探していこうとする(中野重治が唯一の例としてあげられる)

以上が、3つの転向のタイプであり、(1)(2)が典型的なタイプとされ、(3)が前2つに優越した新しい転向(思考変換)だったとされる。

『転向論』は、思想における「節操(≒死)」の問題以前の、「誕生」の問題を取り扱っている、という意味で根本的である。
((2)のタイプの思想家がいくら節操を守ったところで笑い話にしかならないのは明白である)
吉本は思想の「一貫性」等を問題にするよりももっと根本的に、それが「現実」に触れているか、を問題にしているのだ。「自己を疎外した社会科学的な方法では、分析できるにもかかわらず、生活者または、自己投入的な実行者の観点からは、統一された総体を掴むことがきわめて難しい(P.287)」この日本の社会の特異性にもかかわらず、「当面する社会総体にたいするヴィジョンがなければ、文学的な指南力がたたない(P.286)」と切迫した心情において、社会総体に対するヴィジョンを得ようと果敢に切り込んでいく。

『転向論』だけでなく、もう1つの標題作『マチウ書試論』や、『芥川龍之介の死』などについても、いかなる「架空性」も排除して「現実」に迫ろうとする吉本の醒めた目があり、緊張感あふれる文章となっている。

本書は、吉本の一つの達成点であることは間違いない。そして、本書の後の大作『言語にとって美とは何か』以後、吉本隆明に対する評価が、絶賛と酷評の二極化することを踏まえ、「吉本隆明入門」として薦める著作を考えると、この本になる。これ以後の著書が面白く、代表作であることも認めるが、『言語…』『共同幻想論』から吉本アレルギーになった人を見ている私としては、本書を入門として強く推したい。
------
個人的な話になるが、私は昔、図書館のカビ臭い「作品集」(?)か何かでこの短めの批評文『転向論』を読んだ時、自分が(2)の典型的なタイプであることを突き付けられ、呆然としてしまったことがある。吉本という思想家のことを殆ど知らなかった自分としては、出会っていきなり侮辱されたような気持ちにもなった。恥ずかしながら、私も「論理的な思考をいくらかでも身に付け」始めた青臭い学生だったのだ。
だから、というだけの理由でもないが(苦笑)、思想書の如きものを読み始めた学生にお薦めしたい本でもある。

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紙の本これが現象学だ

2004/08/08 02:00

「これが現象学だ」という書名に現れる威勢の良さとは違い、内容は、現象学の主要な概念を読者と共にじっくりと考え、理解しようとする著者の姿勢が伝わってくる丁寧な現象学入門書である。

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「現象学」とはなにか?
 ハイデッガー「存在と時間」によれば、それは「名目の上では、神学・生物学・社会学などにならって作られた『現象』の『学』といえるが、内容からいえば、それらの学問とは異なった性格をもっている」学である。
 ガチガチの硬い文章なので分かりにくいかもしれないが、さらに引用すると、それは「対象について論明さるべきすべてのことがらを、直接の挙示と直接の証示という態度で論述するという対象把握の仕方を意味する。」
 さらに、私の独断と偏見で質問に答えれば、「それは、私たちの新しい方法序説になりえる学である。」となる。
 ……大丈夫、わからなくても。そのために本書があるのだから。(分かられても困る。)

 本書は、限られた紙数を知識の羅列でなく、現象学をフッサールの思索の主要な概念を取り上げ、読者と共に考えようとするため、現象学を「本当の意味で」理解したいという人にはもってこいの本である。その分、骨が折れる本だ、とも言える。(そもそも、私はこれで読むのは二回目なのだが、読みすすめていく程に理解が深まっていくのを感じる一方、初読の時の達成「感」を思い返して、達成「感」と達成「度」の違いにためいきが出た。)

 現象学を知ったらどんないいことがあるのか?
レーモン・アロンは、「ほらね、君が現象学者だったらこのカクテルについて語れるんだよ、そしてそれは哲学なんだ! 」と答える。(ボーヴォワール「女ざかり」より)
 またしても、私の独断と偏見で質問に答えれば、「考え始めることができる。」となる。

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 本書をとにかく読み終えた人には、次は木田元「現象学」(岩波新書)がお勧めである。それによって、「現象学運動」全体を眺めることができるようになり、また、本書の理解も進むだろう。

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紙の本国民とは何か

2010/05/28 16:26

「国家」と比べ、考察の対象にされることの少ない「国民」 。数少ない「国民論」の古典を読む。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

エルネスト・ルナンの講演『国民とは何か』(1882)の構成は単純で、論述の長さも短い(二十数ページ)ため、論述を辿るのは容易である。ルナンは、「国民とは○○ではない(=○○ではあり得ない)」と、○○に「種族」、「語族」などの語を入れてみて、その定義が合理的、普遍的かどうかを一つ一つ検証していく。つまり、「国民」という言葉が余りに安易に用いられるために付着した固定概念を一つ一つ剥ぎとっていくのである。下記にて、この講演の流れを追ってみる。

(前提)「国家」が存在するからといって、国民があるわけではない。
「古典古代には(中略)私たちが理解する意味での国民はほとんど存在しませんでした(P.43)」。己を共同体の構成員であると自覚する精神は、近代の国民に特徴的であって古代のそれは家族の延長に過ぎない、よって「国民」は存在しなかった、とルナンはいう。
(1)国民とは同一の「種族」ではない
「ヨーロッパの最初の諸国民は本質的に混血の国民(P.55)」であったのであり、「おまえはわれわれの血族だ。おまえはわれわれに属する!(P.55)」と、言って歩く権利はない。人間を動物学の体系で暴力的に一括りにすることは否定される。
(2)国民とは同一の「語族」ではない
アメリカ合衆国とイギリスが同じ言葉を話しても異なる国であり、対照的にスイスには三つか四つの言語あっても一つの国である。「言語がちがうと(中略)同じものは愛せないとでも言うのでしょうか(P.56)」と言語学的な分割も否定される。
(3)国民とは同一の「宗教(宗派)」ではない
「国家宗教はもはや存在しない(P.59)」のであり、何を信じるかは個人に任せられているのである。それは講演当時(1882年)でも自明とされているようで、簡単に否定される。
(4)国民とは共通利害をもった集団ではない
「利害が共通なら通商条約を結べばよい(P.59)」と、乱暴に否定される。国民性とは「魂にして身体(P.59)」であり利害関係だけで国民を形成することは難しい、という論述は、後述されるルナンの国民の定義を窺わせるものである。
(5)国民とは自然境界(海・川・山)によって分割された集団ではない
「自然境界」に諸国民分割の重要な役割を認めながらも、自然境界内の「必要なものを勝手に手に入れる権利があるといえるのでしょうか(P.60)」と断じ、国家間の暴力を正当化する「恣意的で有害な学説(P.60)」としてこれを否定する。前項に引き続いて更に断定的な論述となる。それと同時に、ルナンの国民の定義が姿を現してくる。「国民を作るのは(中略)土地は土台を、闘争と労働の場を提供するもので、魂を提供するのは人間です(P.60)」。
※各項目の()括弧内の番号は、本書内の番号と同じ

上記のとおり、五段階ほどの否定の積み重ねの後、講演の題目「国民とは何か」に答えるルナンの有名な定義、
「国民の存在は日々の人民投票(un plebiscite de tous les jours)なのです(P.62)」が登場する。
……だが、この定義はそれ自体では意味が不明瞭ではないだろうか? 「AはBである」との主語-述語関係で考えると、「存在が投票である?」となって意味が通らない。前後の論述を読む必要がある。ルナンにとって国民とは「魂であり、精神的原理(P.61)」である。その魂は「過去」と「現在」の2つの要素の結合から構成される。要素の1つ「過去」は「豊かな記憶の遺産の共有(P.61)」であり「栄光と悔悟の遺産(P.61)」、「現在」は「ともに生活しようという願望(P.61)」であり、「明確に表明された共同生活を続行しようとする合意(P.62)」なのである。
つまり、有名な上記の定義を私(評者)なりに解釈すれば、「国民の存在は、生活(=実践)の中で、日々新たに生成/確認される未来へと向かう意思そのものである」、となる(日本語としては随分ぎこちない文章にはなってしまったが(苦笑))。

国家的なものにほぼ生理的な嫌悪感を示す戦後教育、また国際的なスポーツのイベントがあるたびに垣間見える隣国の熱狂的なナショナリズム(中国、韓国等)により、「国家」「愛国心」「国民」は、知的な考察対象としては敬遠されがちである。だが、このルナンの定義は、血/言葉/宗教/利害/土地、全ての「既成事実」を否定し、原初の共同体形成への「意思」を抽出してみせる。ルナンの定義に従えば、国民とは、己の過去を引き受け、未来へと向かう「意思」そのものなのであり、国民について考えることは、道徳的人間、主体的人間に必要不可欠な行為であるとも思えてくる。
-------
ルナンの講演についてだけの書評となってしまったが、ドイツの哲学者J・G・フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』(1807-1808) が収録されているのと、ルナン、フィヒテに対する論考も3つ収められている。書評の冒頭で、ルナンの講演を「単純」だと書いたが、それは「ただ意味を追っていく分には」単純、だというだけで引っかかるところはいくらでもあり、収録された論考は、その引っかかりを捉えて「国民」の概念をさらに突き詰めようとしている。値段は張るが、良書である。

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紙の本万延元年のフットボール

2003/11/20 00:15

合う、合わないはやっぱりある。「それでも読んで欲しい」というのは、私のわがままである。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「朱色の塗料で頭と顔を塗りつぶし、素裸で肛門に胡瓜をさしこみ」首を括って死んだ、ただひとりの友人や、「茶色の眼で穏やかに見かえすほかにいかなる人間的反応も示さない」赤ん坊、そして、障害児の出産によってアルコールから離れられなくなり、心の闇に怯える妻・菜採子。
主人公・蜜三郎もまた、死んだ友人を想い、夜明けの暗い穴ぼこに無気力にうずくまっていた。そんな時、アメリカから帰ってきた弟・鷹四に誘われて、蜜三郎は妻と共に希望の草の家を探しに故郷である四国の谷間の村へ出発する。
谷間の村で鷹四は、村の青年たちを集めフットボール・チームを結成し、万延元年に谷間の村で起こった一揆に重ね合わせて、100年後の今、スーパー・マーケットの天皇に対して一揆を起こそうとする……。

 この小説の魅力は「持続する緊張感」であると思う。主要な登場人物は全員が精神の危機に瀕しており、万延元年の一揆や、戦争直後におけるS兄さんの死についての蜜三郎と鷹四の論争は、まさにそれぞれの「identity」をかけた切迫したものとなっている。また他にも、鷹四の「本当のこと」に関する謎や、蜜三郎の菜採子との確執、谷間の民衆の狡猾さなど、緊張の糸が切れることがない。そのエネルギーは、最後の蜜三郎と鷹四の会話に向かって収束していくのである。
 さらに、小説世界の構造についていえば、蜜三郎を中心とした、「危機からの回復」というような、個人の物語の背景に、「六十年安保闘争」という大衆の寓話が織り込まれているために、読み直すことによって新しい意味を発見することもできるだろう。

 著者も認めるように、「他者を拒む」表現が冒頭に出てくるために、さらに、そもそもの著者の文体自身が硬いために、また「根所蜜三郎」や、「鷹四」などの登場人物の奇妙な名前によって、読むのを途中でやめてしまう人がいるかもしれない。しかし、純文学の旗手として前線で戦い続ける大江健三郎の臨界点といわれるこの小説をそれだけの理由で放り出すのはもったいない。

 私が今回読み直してみて感じることは、「この小説には感傷がない」ということである。それは、登場人物が人間らしくないということではなくて、主に蜜三郎に放たれる強烈な批判や、緊張関係の中に、感傷よりも「生きることへの意思」また、言い換えれば、「くそまじめに生きる意志」が強く含まれているということだ。逆にそれだけに、この物語がこれほど緊張感を保てているとも言える。冒頭の蜜三郎も無気力感の中にいながら「期待」の感覚を探すことから始まるし、友人の死もまた、心の暗闇と最後まで戦った結果である。
 私は、この小説には読者の中にある甘えを削りとってくれる効果があるのではないかと思っている。
辛い読書体験の先に、「期待」の感覚が待っている。多くの人に挑戦してもらいたい小説である。

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紙の本文学部唯野教授

2003/08/30 12:24

唯野教授の知識量にびっくり

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この本は批評理論九つを唯野教授が講義します。
そして、講義の間には、はちゃめちゃな物語が講義に疲れた読者の集中力を回復させてくれるので、講義自体は後ろに行くほど難しくなっていくのですが、最後まで読ませてくれるでしょう。
また、唯野教授の博識振りが発揮され、固有名詞があふれかえっているために、いやでも勉強になります。
そのあたりは、ちょっと嫌気が差す読者もいるんじゃないかと思いましたが、すさまじいまでの唯野教授の饒舌は、それだけでも十分に楽しめるので安心して読んでください。

「文学理論は必要です。評価する・あるいは否定する根拠なしの、曖昧主義的な批評にさらされているわが国の作家たちには、それも特にこれから小説を書き・発表する若い人々には、文学理論に立つ批評がなされることほど望ましい話はないはずです。気分しだいで誉めたり叱ったりする親ほど教育的でないものはないように、あいまい主義的な批評が若い作家を良く育てうるとは思いません。」大江健三郎-「新潮」昭和六十二年二月号「『読む』と『書く』の転換装置」

この引用された大江氏の言葉から、講義が始まります。
「本の正しい評価なんてできない」。
そこで思考停止していた私は、唯野教授の講義がとても新鮮に思えました。

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カフカが当てこすり、ドストエフスキーが神秘化する「運命(偶然性)の支配」に対し、偶然性から人間を守り、秩序を与え、《世界》を作る「共同体」そして「政治」の姿。第二部の主題「帝国主義」に対する分析の過程で垣間見えるアレントの考える「共同体」の理念・理想が示唆に富み、興味深い。

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本書、第二部では、「帝国主義」が俎上に載せられる。「帝国主義時代とは、通常1884~1914年に至る30年間を指(P.1)」す。第二部は、帝国主義時代のもう少し後、第一次大戦を経てパリ講和会議とヴェルサイユ条約(1919年)後、条約が認めた「民族自決権」が東欧・南欧諸国にもたらした「無権利」の人間たちの群れの発生までを論述する。

本書で定義される「帝国主義」とは、「政治権力の範囲を、それに応じた政治体を新たに創設することなしに拡大すること(P.21)」を目的とする。
資本主義経済は、「国民経済の枠内では生産的な投資も適切な消費も不可能(P.43)」な《余剰資本》と、永久失業状態に陥れられた《人間の廃物》を生み出した。その解決策として、国内で処理不可能となった2つの要素《余剰資本》と《人間の廃物》を合わせて海外に輸出し、被支配者への無関心と隔絶を特徴とする「官僚制」による支配を行うこと、これが「帝国主義」の端的な定義である。
上記のような帝国主義政策は、海外(アフリカ及びインド)に領土を見出すことができたイギリス・フランス等の国々では、外交上の成果(領土の膨張)を得たものの、ドイツ・オーストリア等、帝国主義的野心を抱きながらも大陸の諸国家に囲まれた国々においては、失敗に終わった。しかし、「帝国主義の方法と支配観念の諸結果(P.163)」は、逆に、帝国主義政策の実際の成果を上げられなかった国々において広まり、法制度の軽視(≒反国家主義)及び人種主義的なナショナリズムの蔓延をもたらし始める。
そういった状況で、第一次世界大戦が勃発しヨーロッパ全体を疲弊させた。そして、平和条約で「民族自決権」をすべての民族集団に認めることによって、混迷はさらに深まる。新しい国々(ポーランド・チェコスロバキア等)は、1.住民の均質性及び2.土地との強固な結びつきという「国民国家」の要件を欠いていた結果、「一連の小型の多民族国家(P.242)」となり、「少数民族(その国々での少数派)」を生み出すことになった。結果、政治・経済の不安定は多くの難民を生み、「無国籍者」の大量発生を引き起こす。それはつまり、「国民国家の崩壊(P.251)」を告げ、「人権の喪失」という危機を生み出す。

以上が、本書の論述の流れであるが、教科書的なそういった「あらすじ」とは別のところにアレントの面白さはある。それは表立っては示そうとはされないが、対象を批評するときに垣間見えるアレント自身の理念、「こうあるべきだ」という理念・理想である。それが私には、小説家フランツ・カフカについて述べるところで強く感じられた。
「カフカの小説の中心主題の一つは(中略)何らかの恐るべき暗い必然性に巻き込まれるという不幸の中に人生の意味が啓示されるとする宿命迷信に結びついた誇りに対する風刺だった。(P.203)」
こんな風にバッサリと、「不条理」を切るカフカ読者を私は知らない。カフカは不条理につまづく人間を描き、それを読む人は、そこに人間の不幸・苦しみを見て、それでも強く生きる姿勢を読み取ったり、「人生や社会の本質」を見たりするのが凡そ一般的な読み方ではないだろうか? だがアレントは違う。彼女にとって、そもそも人間は自然の与える偶然(人種・身分・財産の違い等)から守られねばならず、それを守るのは「共同体」であり、その共同体は、「自分の住む世界の創造と変革に絶えず関与して(P.117)」生きる、「およそ行為し得るためには協力しなければならない(P.216)」と自覚した公的・政治的人間自身によって作られると考える。それゆえに「諸民族の政治的自発性と創造性が圧殺される(P.203)」陰惨な官僚制支配の状況を見ていたであろうカフカが、「日常生活において偶然の支配に(中略)委ねられてしまった人々が不回避的に抱く宿命への迷信(P.204)」を知悉しており、それゆえにカフカは自らの小説によって「風刺」を行った、とアレントは考えるのである。

アレントにとって「不条理」とは、人間がこれまでも、そしてこれからも戦っていくものであって、それ自体に「意味」を与えたり、考えたりするものではないのである。むしろ、そういった「不条理」から人間を守るための「共同体」をいかに守っていくか、良くしていくかを考えるのがアレントである。へこたれてばかりの私にとっては、こう正論ばかり聞かされると本当に耳が痛いのだが……(苦笑)。しかし、何かについて討論する時、相手の立場が明確であれば、例え自説にケチがつこうと実りのある結果になるのと同じように、「死すべき人間からある共同体に不滅性を与える(P.39)」ことが政治原理の任務であると見抜く字義通りの《保守》政治哲学者ハンナ・アレントを読むのは、やはりためになるし、面白いのだ。

次はいよいよ最終、第三部「全体主義」に向かう。

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人生論ノート 改版

2003/08/14 17:21

すごく短い本だけれど。

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この本は哲学的であるというより、文学的。
哲学の思索を書き記した論文というより、メッセージ性の強いエッセーです。
また、思考と同時に感情を働かしてこそ本当に自分のためになる本だと思います。
(感情を働かすと言う表現は正しくないですが。)
そういった意味で、書かれている言葉を自分に還元するのが本当に難しい、とも感じました。
独立した23題のテーマのうち、人生の中で一度も考えないようなものは(「瞑想」は分かりませんが)
含まれておらず、非常に無駄のないものとなっています。

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誠実な本だと思う。

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本書は、「(脳研究にまつわる-評者注)そうした情報を的確にとらえるための枠組みと材料を提供することを目的(P.6)」としており、「効能」として、下記3点が挙げられている。
(引用始まり)
1.脳をネタにした言説の読み解きかたがわかる
2.脳研究の問題意識と方法がわかる
3.脳科学が人間と社会にもたらす問題の所在がわかる
(引用終わりP.6-7)

評者の独断と偏見によると、この手の本は、下記3点に代表される特徴がある。
1.カタルシスが得られない
2.さらなる「問題」を読む人に与える
→(1.2.の理由)もともと「解決」ではなく、「見通し」を立てるだけであるため。
3.あんまり売れない(笑)
→(3.の理由)第1章で批判している疑似科学本が使っているような強烈なキャッチフレーズが使えないため。要するに地味(笑)
疑似科学本の例:「話を聞かない男、地図が読めない女」「セックスしたがる男、愛を求める女」

誠実な本だと思う。不安を煽って、その不安を解消すると謳って買わせようとするキャッチーな擬似科学本が多い中、問題の難しさに真正面から取り組む姿勢と、親切な巻末のブックガイドはありがたい。「心身問題」「心脳問題」に興味がある方はもちろん、「脳が分かれば○○が分かる」、といったような本に金・時間を奪われてきた方にもお薦め。

(以下雑感)
・抗鬱薬プロザックが「ちょっと気分をよくするために(P.262)」という理由で、アメリカで2800万人に使用されている、という事実に衝撃を受けた。近い将来、落ち込んでいる人間をみたら、励ましの言葉よりも、プロザックを与えることがモラルになるのだろうか? 「元気だしなよ」と。

・ただ、これは評者の独断だが、神経薬理学が進歩し、副作用が無い、となったとしても、抗鬱薬の投与のような、あまりに人工的な人間の改造は、日本の精神風土(図式的にいうと「自然の一部としての人間」)には合わない、と評者は個人的に思う。ゆえに、アメリカと違って日本では、プロザックが表立って流行るようなことは無いのではないか? と考える。

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紙の本日本語の作文技術

2003/08/17 14:49

日本語は非論理的な言語か。

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・英語の文法「主語ー述語の関係」は日本語にも適用できる。
・句読点の打ち方の基準は「読みやすいように」だけである。
・そして何より日本語は非論理的な言語である。
これらの根拠のない「常識」を信じていたのは私だけでしょうか。

私たちは、英語の文法は英語圏の人も驚くほど知っていますが、母国語である日本語の文法は軽く学校の国語で教えられる程度です。
そのために曖昧な「感覚」だけを頼りにしてしまい、読みにくい、下手な文章を書いてしまうのです。
しかし、この本が教えてくれるのは「技術」です。それはつまり読んで学べば誰でもうまくなれるということです。

修飾と句読点について書かれた第一章から第四章までの物理的な作文技術の解説がこの本の一番の肝です。
それゆえに解説者は、ここまで読むだけで格段にうまくなるといっているのです。
けれども、第六章の「助詞の使い方」、第八章の「無神経な文章」、第九章の「リズムと文体」なども読めば役に立ち、かつおもしろいものになっています。

この本は、勤勉な新聞記者本田氏が、文章を読み、書き続けて得た体験に支えられているために、実践的で役に立つのでしょう。

何か文書を書くときには、そばに置いておくと頼りになる本です。

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本棚を彩ってくれはしない肌色の無愛想な本ですが、明快な翻訳でプラトンを始めて読む人にも読み返す人にも大変お勧めです。

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 二千五百年ほど前に、ソクラテスは正義を貫くために死ななければならなかった。
 彼の死は(こういうのが正しいのかは知らないが、)超人的で、かつ悲劇的だった。そしてそれは、俗界に生きる人間にとって、もっとも遠い生き方だった。それ故に、つい百年ほど前ニーチェが、「ソクラテスのような生は地上に生きる人間にとって非常に難しく厳しい。彼は生存を断罪して、地上の生を貶めた。」として、ソクラテス、そしてキリスト教を「断罪」したのも、私には無理もないことと思える。

 ソクラテスは、「自分が不正を加えるぐらいなら、受けたほうがいい」という。
 極東の某国の憲法は、この思想に基づいて作られたのだろう。しかしそれまでに、この思想を貫徹できたのがソクラテスと、イエス・キリストだけだという事実を省みれば、当然ながら、某国民が、この重荷に耐えられなくなることは分かりきっている。

 正義は「ある」。しかし、正義は負けるという、なんとも辛い現実。ソクラテスは死んだのだ。殺されたのだ。
 これから先、人類の歴史は、彼のような人間を生み出さないかもしれない。

 ソクラテスを馬鹿にする人(そういう人は、そもそもこの書評を読んでくれていないだろうけれど。)は、全く正常な感覚の持ち主だと思う。
 私も、彼が馬鹿だと思う。しなくてもいいのに、いばっている人間に片っ端からケンカを売って殺される始末だ。これが馬鹿でなくてなんだろうか。

 しかし、人間は、何か善いことをするとき、馬鹿にならなければならないという事実、また、善い行いを自意識の網に絡めとられることを防いでくれるのも、やはり馬鹿(=無知)しかないという事実は、ソクラテスを笑う私たちをちくちくとする。

 人間が全て善人であることを教えたキリストと、人間が全て馬鹿であることを教えたソクラテスとの対照は、面白い。
 「どいつもこいつも全員馬鹿だ!」というのは、本当に気持ちがいい事実だ。

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どうしても、外国語から翻訳された本は、初読の印象に強く影響されてしまう。
「プラトンなら田中美知太郎」という図式をもっている私は、他にあるより良い翻訳を見つけることができないでいるのかもしれない。

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紙の本ナボコフのドン・キホーテ講義

2003/09/02 22:18

非常に有意義な講義である。

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極めて常識的な講義だと思う。
「腎臓が悪い痩せた騎士が、棒うちをくらったり、歯を折ったり、なにより周りの人たちにもてあそばれる。」という「ドン・キホーテ」を、
ナボコフは「名作」だという先入観なしに読んだに過ぎない。

「ドン・キホーテがスペインに特有の残酷さに満ちた荒削りの古い本であることに変わりない。
その仮借なき間での残忍さは、子供のように遊ぶ老人をいじめて、ついにぼけさせてしまう種類のものである。
この作品が執筆された時代には、小人や障害者が嘲笑され、高慢と横柄さがどの時代にもまして幅を利かせ、
世界の通念から外れた人間は町の広場で生きたまま火刑に処せられた。
それを見物する人々は拍手喝采し、慈悲や親切は追放されてしまっていた。」
-ナボコフのドン・キホーテ講義P.31

この本を読んだ後、沸き起こってくるのは、「ドン・キホーテ」を手放しで評価していた私への怒りである。
私は本当に心のそこから「ドン・キホーテ」を評価していたのだろうか?という怒り。そこから、
「作品にあふれる暴力に目をつぶり、周りの面白いという評価に私も同調しただけではないか。」
という推測に辿り着く。
私は、「ドン・キホーテ」の評価を上げ、「講義」の評価を下げていた私の曖昧な感覚が、
私だけのものであるか疑問に思う。実際、そうであれば一番良いのだが。

この本を、「ドン・キホーテ」の暴力に辟易したナボコフが愚痴を講義にこぼしただけのものと理解し、価値なしと判断した人もいる。
しかし、ナボコフの講義の根底には「一人の高潔な狂人と俗人である従士」に対しての高い評価がある。
ただ、彼がそれをするまでもなく、他の批評家たちがしていたからしなかっただけであろう。
彼は全否定などしていない。

「ドン・キホーテ」を楽しく読めて「しまった」人は是非読んでほしい。

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どうしてもいいたいので、最後に文句を言わせてもらえば、「この厚さで4660円は高すぎる!」ということである。
それだけならまだいいのだが、ドン・キホーテの各章ごとのナボコフ流要約が半分を占めているのは、
ドン・キホーテをすでに通読してしまってこのことを知らずにこの「講義」を買ってしまった人にとっては悲しすぎる(そして、ほとんど詐欺である)。

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