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  3. 小沼純一さんのレビュー一覧

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先月(2017年1月)

小沼純一さんのレビュー一覧

投稿者:小沼純一

21 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本不思議のフランス菓子

2001/06/11 12:17

美味しいお菓子はコミュニケーションの潤滑油

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

最近は日本でも見掛けるようになった「ガレット・デ・ロワ」。いわゆるアーモンド・タルトなのだが、これをフランスでは年明けに食べる。キリストの生誕に駆けつけた「東方の三博士」にちなんでいるからだ。このお菓子の楽しいところは、なかにフェーヴと呼ばれる陶製の人形が入っていること。切り分けてそれに当たると、昔は、その日だけ王様・王妃様として振舞えたとか。パリの或る店では、毎年たった1台だけ純金のフェーヴが隠されており、筆者の知人はいつかそれを当ててみたいと毎年この菓子を買っているのだという。そして——みごと或るとき彼女の買った中にフェーヴがはいっていたのはいいが、実際にそれを当てたのは、知り合いのお子さんだった。「ああ、残念!」と言いながら、彼女は笑い、また同じ店で同じ菓子を来年も買うだろう……。

こんなエピソードを読むにつけ、はっきりとわかるのは、本書の魅力がほかでもない、筆者の菓子に対する愛情からきていることだ。ただ美味しいものを食べたいというようなグルメ本ではけっしてない。フランスのお菓子をとおして、筆者の目はときにフランスの歴史や文化、生活といったものに注がれ、そうした菓子を作り、味わうフランス人たちの姿が浮かび上がってくる。そうすると、ああ、筆者はひとが好きなんだなあと、しばしば感じさせられてしまうのだ。それはまた、メインの食事というよりは、もっと楽しむことや余裕といったものに結びついてくる「甘いもの」、お菓子だからこそということもきっとあるだろう。生きてゆくための糧としてよりも、生活を楽しむ、エンジョイする、そして家族や友人達とコミュニケートする、その潤滑油としてのお菓子の姿が、ここにある。

もちろん、どんなお菓子が美味しいのか、お菓子の種類、気になるお店、等など、ガイド的な部分もところどころ文章に織りこまれているし、巻末にはお菓子の名と店の名のインデックスもつけられている。しかも、世に知れ渡っているポピュラーな都市型(?)フランス菓子ばかりではなく、もっとローカルなものとか、もはやほとんど土地のひとからさえも忘れられているようなものについても触れられている。もともとは雑誌『味の手帖』に連載していて、本書にまとめるにあたって手を加えたと最後には記されているが、雑誌の記事で、きれいなイラストなり写真なりがあったら、どれほど楽しいものだっただろう(ちなみに、本書にもところどころかわいらしいカラーのイラストが添えられている)。

また、チョコレートがもともとは健康ドリンクとして飲まれていたとか、17世紀の画家クロード・ロランはじつは菓子職人だったこともあり、彼がミルフイユ——本書では残念ながら「ミルフィーユ」と記されている。これじゃあ「千人の娘さん」!で、こういう書き手がちゃんとしてくれなくちゃあと思うので、ここだけは減点——を最初に作ったとか、砂糖大根からビート糖を作り出したのは19世紀のフランス人だとか、ふむふむと教えられることも多い。

私自身としては、同じ筆者の『フランスお菓子紀行』(NTT出版)を数年前読んでからファンなのだが、お菓子だけではなく、フランス文化に興味のあるひとも手にとってみると、なかなかに甘く、優しい気分になれるのではないだろうか。 (bk1ブックナビゲーター:小沼純一/文筆業・音楽文化論研究 2001.06.09)

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「ハンニバル」——小説と映画の「間隙」を縫うガイドブック

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都心では、どこにいっても、尋常とは思えない、充血した目のアンソニー・ホプキンスと「ハンニバル」と記されたポスターが貼ってある。10年ほど前ジョディ・フォスターの顔と蛾の文様とが不思議な雰囲気を醸し出していた『羊たちの沈黙』を知っていようといるまいと、この『ハンニバル』の存在は、はっきりと通り過ぎるひとびとの記憶に残る。

『ハンニバル』は、ここでわざわざ繰りかえすまでもなく、トマス・ハリスによる『レッド・ドラゴン』『羊たちの沈黙』につづく「ハンニバル・レクター博士三部作」の完結編にあたる小説であり、それをもとに『エイリアン』『ブレード・ランナー』のリドリー・スコットが監督した映画で(も)ある。本書は、この小説と映画をリンクさせるべく企画されたものといえよう。興味深いのは、小説と映画と、どちらも「あたりまえ」のものとして通り過ぎてしまうもの、あるいはどうしても抜け落ちてしまうものこそがとりあげられていることだ。一種のスキをついた、逆の言い方をすれば、ちょっとばかりマニアックなとでも形容すればいいだろうか。しかし、それだけに小説を読み、映画を見、というひとが手に取ったとき、ああ、そうだったのかと思わせられることも多くある。ただ『ハンニバル』という作品世界をめぐる諸々の謎を解き明かしてくれるだけではなく、一種の「雑学」——教養?——にもなるところがいい。

内容としては、いくつかのテーマに分けることができる。小説について、映画について、フィレンツエについて、登場人物たるレクター博士の趣味について、だ。もっともそれらがしっかりと「部立て」になっているわけではなく、比較的まぜこぜになっている。始めのほうはフィレンツェをめぐるガイドや、ロケ場所「カッポーニ宮殿」のオーナーが語るハリス像、あるいはこの古都に20年以上も住んでいる作家・塩野七生のインタヴューとまとまっているが、あとは「レクター博士のすべて」「フォションのランチ・ボックス」「プロデューサー・インタヴュー」「脚本一挙掲載」とつづいてゆく。たしかに、前から順番に眺めてゆくと、こうした「まぜこぜ」なかんじのほうが読みやすいかもしれない。

見物のひとつは、先の「フォションのランチ・ボックス」と「最後の晩餐」、ワイン「シャトー・ディケム」といった実物の写真だろう。こうしたものは、映画にちらっとでてきても、じっくりと眺めることはできないのだから、写真でクローズアップはありがたい。クルマについても同様。ちなみにこれは徳大寺有恒が執筆。あと、読み物としては、レクター博士が好んで聴く音楽についての文章や、フィレンツェの昔日の貴族達、あるいは「脳の活け作り」といったエッセイが充実している。 (bk1ブックナビゲーター:小沼純一/文筆業・音楽文化論研究 2001.05.03)

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猫はかつて狸だった——言葉からたどった日本古典における「猫」さまざま

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中国ではいまでも「狸」を表記して、「猫」を表すことが多いという。これは驚き。かつては日本でも同様に『日本霊異記』などで「狸」と記していたという。うーん、狸は「犬科」ではあるが、腰のあたりのまあるくなった線などは、硬い身体の犬というより、たしかに猫のほうかなと——私自身——思うことが少なからずあったりしたっけ。そんな勝手な思いこみも、じつは大昔の人々と通じ合っていたとは。昔の絵をよく見ると、猫は首輪をつけ、ひもにつながれている。犬は逆に何もつけずに野放しのものばかり。これはもともと、猫が中国から渡ってきた貴重な動物だったからではないかという。いやはや、さぞかし、猫はこの首輪をいやがっただろう。

写真集からエッセイ集、伝説や民俗、あるいは童話・小説・詩などを満載したアンソロジー等々、猫をめぐる書物は枚挙にいとまがない。雑誌で特集を組めば、あまり失敗もなく売れるのだという。しかし、それでいながら、「書かれたものとしての猫」、しっかりと資料にあたって紹介の労をとっているものは、意外に見あたらないではないか。文献にどのくらい猫が登場するのか——著者・田中貴子はそれをやってみようとする。日本古典のなかで、猫はどんなふうに扱われてきたのか、と。
猫と狸、猫と虎といったアナロジー、王朝貴族に愛された猫、禅僧と猫の関係、江戸時代の猫の生活。猫好きにとってはじつに興味深い話ばかり。日本古典も多数引用されているが、親切なことに、現代語に訳して紹介されている。もし原文のままだったら、こんなにスムーズに楽しめなかったかもしれないから、この親切さは感謝すべき事柄である(もし原文も載っていたりすると、もっとうれしいかもしれない。ちょっと覚えて、酒の席などで披瀝し、知ったかぶりができるから。でも、あまり趣味が良くないか)。また、さまざまな図版が本文の合間合間、あるいは第九章「描かれた猫たち」のあたりにまとめて置かれており、ふだんあまり気づかないでいた、「猫」の姿に新鮮な驚きをおぼえたりする。
著者は『聖なる女』(人文書院)、『室町お坊さん物語』(講談社)などを著している国文学の徒で、本書は著者の十冊目にあたる。猫への愛情は文章のはしばしから感じられるのだが、個人的にとっても好きなのは、こういう箇所だ。すなわち、かつては猫の瞳孔の収縮をみて、時刻を知る習慣があり、江戸時代、梅川夏北という人物などは諸家の説を紹介、考察を加え、本を一冊書いてしまったという。それにつづくこういう文章——「ともあれ、このように、いちおうは猫の目で時刻をはかる習慣はあったことが明らかになった。しかし、日常の生活において「タマや、ちょっとこっち向いて……ああ、もう昼だね」などという光景は見られたかもしれないが、(以下略)」。何気ないながらも、ちょっと粋な会話調をはめ込むことででてくる効果。こういうところに、単なるアカデミシアン以上の「書き手」を感じてしまう。

猫についての古典の「知」は、こうした文体によってこそ、すらすらと読者のなかに根づいてゆくだろう。田中さん、今度は(専門外といわれるかもしれないけど)、明治以後の「猫」をやってくださいませ。 (bk1ブックナビゲーター:小沼純一/文筆家・音楽文化論研究 2001.04.08)

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バロック音楽好き必読。視覚的想像力も刺激する往年の「ダンス」の魅力

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ヨーロッパの「時代もの」映画を観ると、しばしば大勢の招待客が宮廷で優雅に踊る場面に出会う。時代によってその踊り方も違って、十九世紀では、三拍子のワルツにのって大広間を複数のカップルがくるくると回りながら交差してゆく。これは比較的見慣れた、二十世紀にもまだ地球上のどこかで——かつてなら鹿鳴館だろうか? ——かろうじて残っているスタイルだ。ところが、もっと遡って十七−十八世紀の光景ともなると、なにかしら整然と男女が並び、交互に相手を換えながらゆったりと踊る、およそ「現代」では馴染みのないスタイルに遭遇することになる。いったいこれはどういう決まりでこんなふうに踊っているのだろう、上手や下手はどこで決まるのだろう、等々といった疑問も当然浮かんでくるわけだ。

本書はこうした「バロック・ダンス」について、日本で一般向けに書かれた最初の本。どうして三百年も前に踊られていたダンスが現在でもわかるのか。身振りなどその瞬間瞬間だけで消えてしまうはずで残ることなどないのに。しかも伝統さえ途中で途切れてしまっているではないか。そんな疑問は当然あるだろう。そこがまさにポイントなのだが、この時代のダンス、しっかりと「舞踏譜」が残されているのである。たしかに身振りは瞬間にして消え去り、伝統もなくなってしまっているけれど、この舞踏譜を研究することで、現在でも「バロック・ダンス」を復元することが可能というわけだ。

全体は三つの部分で構成されている。第1章では、バロック・ダンスとはどういうものなのかが簡単に述べられ、「舞踏会用」「劇場用」の二種類に分けられるのだとつづく。そしてそれぞれがどういう「場」で踊られたかの説明がつづく。ここでは、踊られる場、環境、ダンスを「踊るひと」と「見るひと」、あるいは「音楽を演奏するひと」といった位相が、大事であることを知ることになるだろう。そして主に二種類残っている「舞踏譜」の説明となる。第2章は「舞踏譜」をもとにしたダンスそのもののテクニックの記述。基本的に「足」の動きがメインで、それに付随して腕のポジションが決まり、奏でられるべき音楽の楽譜との関係が示される。第3章は、メヌエットから始まり、パスピエ、ブレなど十以上の主たるダンスの紹介で、なんと、本書の七割を占めている。

この第3章で紹介されている「舞踏譜」は、なかなかに驚きだ。なによりも美しい。独特の記号によって音楽とステップとがひとつの「図」のなかに表されているのだけれども、一種の絵画のようにみえる。当時の記述者が、ただ「伝達」を目的とするのみならず、「見る」楽しみをもそこに含ませていることもしっかりと感じさせられる。

メヌエットやパスピエなどは、バロック時代の音楽に親しんでいれば、いくつも実際の例を耳にしたことがあるはずだ。音楽を聴く場合にも、この曲にはどんなダンスがついていたかをこの本を参照しながら聴くのも、これまでとはちがった楽しみ方となるだろう。しかもそれは聴覚のみならず、視覚的な想像力をも刺激せずにはいない。もちろん、いかに図表が多く使われていても、実際に踊っている姿を見ることができないかぎり、なかなかアタマで想像するのは困難である。そのためだろう、本書とは別に、筆者の監修ヴィデオが発売されており、そこでは実際の音楽を含めた舞踏を目で確かめることができるという(残念ながら、評者は未見)。いずれにしろ、「バロック」時代に関心のあるひとには、必読とはいわぬまでも、必携の本といえるだろう。 (bk1ブックナビゲーター:小沼純一/文筆家・音楽文化論研究 2001.03.05)

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ボディパーカッション入門体を使った楽しいリズム表現

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 何はなくとも、身体はある。これが基本だ。とりあえずは、この「触れる」ことのできる身体から始めればいい。ヴァーチャル・リアリティなんて、とりあえずは、考えなくていい。そして、音楽を始めるには、楽器でも何でもなくて、まず、身体からがいい。この身体を基本にすれば、子供からお年寄りはもちろんのこと、障害をもっているひとも、「ろう」のひとも、音楽とつきあうことができる。

 著者はちょっと面白い経歴を持っている。大学を卒業した後、音楽企画の仕事をして、その後、通信教育で免許を取得し、小学校の教員になったという。それから手拍子や足踏みなどを素材としながら、独自の音楽教育を展開。この本にまとめられるような「ボディパーカッション」という考えと実践に至った。

 本書の前半は、著者がやってきたこと、何を考えてきたかを振り返る。後半はもっと実践的な、著者が子供達と実際にやっている「スクール」の進め方である。たしかにおたまじゃくしなど、楽譜らしきものは使われているが、これはあくまで指導する側が参考にするためのもので、「ボディ・パーカッション」は楽譜にしばられるものではない。「ボディ・パーカッション」をやってみる子供達と、指導するひととが向かい合って、音でコミュニケーションしていくうえで、楽譜は、その指導するひとのあたまにあるだけだ。子供たちにそれは必要ではない。しかも著者はこんなふうに書いている——「ボディ・パーカッションは間違っても間違いにならない不思議な音楽!」です、と。
 何不自由なく暮らしていると、視覚障害のひとや「ろう」のひとについて、どうしても気がつかなかったり、忘れてしまったりすることがある。しかし、視覚障害者にとっては、音は健常人以上に大切なものだ。
 「視覚障害者の方にとって、音は生活を営む上で非常に重要な情報源です。あらゆる音を聞き分けることで、身を守ろうとしているのです。それゆえに、音に対して真剣に取り組んでいるような気がします。楽しい音、そうでない音までも聞き分けようと真剣です。」

 こうしたひとばかりではなく、「ろう」のひととも、こうした音、音楽で通じ合うことができる。そこには身体が確固としてあるし、しかも音・音楽はそもそも振動、ヴァイブレーションなのだから。
 あたりまえのように思えるかもしれないが、著者は改めてこんなふうに記している。
 「音楽——それは「音を楽しむこと」なのです。」
(bk1ブックナビゲーター:小沼純一/評論家(音楽文化論研究) 2001.01.28)

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紙の本尺八演奏論

2000/12/13 18:15

尺八って何?どんな楽器?知っているようで知らないこの伝統楽器をめぐる「尺八」へのアプローチ

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 自分が生まれ育ったのは日本にちがいない。日本語を話し、書き、ものを食べている。温暖化してきているとはいっても四季をもった気候風土はとりあえず健在である。だが、音楽はどうかといえば、伝統的なもの、つい百年や二百年前にふつうのひとが親しんでいた音楽は、いまひとつ、遠くにある印象は否めない。まわりにあるのは西洋音楽の影響を受けたものばかり。日本の音楽にも興味はあるが、どうも身近にあるものは専門的にすぎる。

 こうした疑問・当惑を抱いているひとは少なからずいるだろう。そしてその反省からか、最近は「邦楽」をめぐる入門書もふえていたのは事実だ。本書は、けっして「邦楽」一般についての入門書ではない。だが、そういうふうに読むこともできるし、もっと「尺八」というひとつの楽器とその音楽、技術、それをめぐる諸々の文化的背景、さらには既に還暦を迎えながらも世界的に活躍している山本邦山という尺八奏者個人の姿勢、生き方を知ることができる。

 著者は父上がやはり尺八の演奏家だった関係で、小さいころから邦楽に親しんでいた。そして一般の大学に通いフルートなども吹いたりした一方で、しっかりと尺八もつづけ、古典曲の演奏から新曲の創作、ジャズやインドの音楽などとのセッションと広い範囲の音楽活動をつづけている。

 著者は「音楽に国境はない」と断言する。だがけっしてそれは口先だけのものでもないし、「人類みな兄弟」的な安直さを持っているわけではない。

 西洋音楽一辺倒ではなく、さまざまな音楽が聴かれるようになり、一種の民族音楽ブームともいうべき状況になってきているのは、ほかでもない、「音楽社会においても階級性が崩れてきて、人々の価値観が多様化してきたことによるものといえるのではなかろうか」と述べる著者は、また、こんなふうに忠告を促すことも忘れない──「ただし、音楽には国境はないといっても、これは聴衆の受容と感動についてのことであって、それぞれの民族はそれぞれの音楽文化を持っている。音楽も民族の文化の一部をなしているわけだから、音階やリズム感や音楽の場などについて、民族によってさまざまな相違があり、個性がある。これを、いかに西洋古典音楽が優れているからといって、経済のように、国境を越えたグローバル・スタンダードで統一することはできない。」ここには、「文化」の側面での多様さを見詰めるしっかりした視線がある。

 全体は6つの章からなり、「尺八一筋に」という自伝的パートから、「ジャンルを越えて」「出会いと挑戦と」「対談」といった自らの演奏活動をめぐるエッセイ、「日本の音楽と尺八」「演奏論」といった歴史や実践を踏まえた講義まで、多岐にわたる。山本邦山のひととなりが知りたかったら自伝的パートやエッセイを読めばいいし、尺八の歴史や演奏技術のことを知りたかったら講義の部分を読めばいい。興味の持ち方によって、自由にアプローチできるのがこの本の良さだ。巻末には山本邦山の作品リストとレコード・リストも収められている。 (bk1ブックナビゲーター:小沼純一/音楽文化研究・文筆業 2000.12.14)

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紙の本山尾悠子作品集成

2000/08/21 21:15

20年を経て装いもあらたに回帰するみごとな想像=創造の世界。言語の力は未だ衰えてなどいない!

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 久しく視界から消えていた名が、唐突に、かつてないほどの輝きをもって、かえってきた──そんな印象である。20年以上前になるだろうか、年長の知人に教えてもらって手にした、早川SF文庫『夢の棲む街』の衝撃はなんとも大きかった。あの「名」はどこへ行ってしまったのかと、作品を手にした自らの日々を惜しむことは少なくないが、山尾悠子の名には、そうしたセンチメンタルなおもい以上の欠落感をつねに感じさせられてきた。だからこそ、760ページを超える大冊が、しかも見知らぬ多くの作品をともなってあらわれた驚きは、よろこび以前の酪酊をもたらしてくれることになった。

 作品の冒頭だけでも触れてみてほしい。3つばかり引用しよう。
 「街の噂の運び屋の一人、〈夢喰い虫〉のバクは、その日も徒労のまま劇場の奈落から這い出し、その途中ひどい立ち眩みを起こした」(『夢の棲む街』)
 「地上を襲った終末の大洪水がすでに過去の出来事と化していたその頃、〈宇宙館〉と呼ぶ建物の中に九千九百九十九人の生き残りが住んでいた」(『耶路庭国異聞』)
 「ひどい濃霧をかき分けるようにして、その時刻、Gは──人々が〈鴉〉と呼ぶゴムびきの黒い防水外套を嵩張らせながら──店に入っていった」(『ゴーレム』)

 読み手はいきなり「物語」の世界にいる。読み手の現実、「ここ」にはないはずのものが、はっきりと立ちあげられる。硬質なものも粘液質のものも、言葉はひとつひとつしっかり構築してゆく。曖昧さは可能なかぎり切り捨てられる。想像力と創造力とを結びつける文字どおりの「力」が、文章を紡いで「もうひとつ」の世界をつくりあげる「力」が、ここにある。もちろん、こうした虚構の世界は苦手だというひとも少なからずいるだろう。好き嫌いは誰にでもある。だが、ひとたびこの山尾悠子の世界の魅力を知ったなら、自らがそれを知っていることを、そこで遊べることの贅沢を思わないではいられない。

 収録作は、『夢の棲む街』(7篇)、『耶路庭国異聞』(10篇)、『破壊王』(4篇)、『掌篇集・綴れ織』(10篇)、そして『ゴーレム』。ほかに解題、著作年表、後記を加える。栞には、佐藤亜紀、野阿梓、小谷真里、東雅夫が寄稿。函には、けっして大仰にではなく、横長に、バーン=ジョーンズの絵があしらわれている。

 自らの意志によって収録されなかった作品もあるが、ほとんどの作品は単行本未収録。高価な本ではあるが、けっして大枚をはたいても惜しくない。いま現在ほかに手にすることができないからというだけではなく、もしこれらを1冊ずつ単行本にしていたら、すぐにこの程度の値段になってしまうだろう。それに、「山尾悠子世界」を徘徊するものにとって、この大きさは迷宮たる書物を文字どおり体現するに充分なものなのだ。この大冊によって山尾悠子が広く知られ、また読み手が新しい作品を望んで、作家が新しい世界を創造してくれることを──。 (bk1ブックナビゲーター:小沼純一/音楽文化研究・文筆業 2000.08.21)

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近くて遠い中国絵画への肩肘のはらない招待——台北・故宮博物院へのガイドとしても役立つ手引きとしても

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 多くのひとがジュディを知っている。女優で歌手、しかも木版画を学び、日展に四回入選している。たとえそうした経歴などは知らなくても、何らかのCF--例えば、「ナンパオ」?--に登場して、ポートレートを見れば、「あのひと」とわかる人物。この多才なジュディ・オングが、生まれ故郷台湾は台北の「故宮博物院」に展示されている九枚の絵を題材に、「中国絵画」の魅力、見方を語ってくれるのが本書。

本のサイズも大きめで、全ページ、カラー印刷。ジュディの説明は、高校一年生の「ユウタ」、中学三年生の「マイ」ちゃんという二人とかわす会話のなかから、自然とあらわれてくる。三人が「故宮博物院」を訪れ、一枚一枚を前にしてああだこうだと話しているうちに、いろいろと「そうなのか!」とわかってくるという仕組み。実際の展覧会場では、目を寄せたり、一部を指差してじっと見たりするが、それと似たような効果をあげるため、細部が拡大されたり、あるいは関連のある映像が引用されたりする。といきには差産を枠でかこってコメントをつけたり、欄外に本文の「会話」にははいりきらない説明があったりと、なかなか立体的な構成をとる。

ジュディは「エピローグ」でこんなふうに書いている。--「最近のコンピューターグラフィックスの世界は、ますます私たちを内面の世界へと誘っているように思います。コンピューターの仮想現実(バーチャルリアリティ)中国絵画の心の視点は、宙空に浮かぶ自在な視点から対象をトータルにつかまえるという根本の点で共通しているように思います」本の構成も立体的だが、そこには中国絵画というものの立体性も重なっているといえるのかもしれない。

扱われている絵を時代的に分類すると、宋のものがもっとも多く、ついで明、そして清、唐とつづく。子どもが遊び、女性達が宴を催す。あるいは文人が座し、鳥獣が描かれる。水墨人物画、花卉画(かきが)、山水画、巻物、それぞれの「スタイル」における代表作に注釈がほどこされる。もちろん、中国独特の画法、一枚の絵を理解するためのバックグラウンドなどの解説も忘れない。

「絵画は見て面白ければいい」というのは確かだが、それをより深く理解するためには、やはり時代の隔たりを考慮にいれながら、知識を補うことで、感覚的な面と知的な面と、両面から立体的に見ていくべきだろう。西洋絵画についてのこうした解説はかなり多くでてきているが、アジアの美術においては、まだまだというほかない。しかし、こうした点数は少ないながらもベーシックな知識が得られる本が有ると、繰り返し眺めるのも億劫ではないし、気が向いたときにちょっと見て、次第に身についてくるのではないだろうか。台湾でも中国でも旅行して美術館なり博物館なりを訪れることが容易になったいまだからこそ、こうした本に一度は目をとおしておくべきだ。 (bk1ブックナビゲーター:小沼純一/音楽文化研究・文筆業 2000.7.11)

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うたものがたり

2001/05/04 18:16

日々の生活のなかで「短歌」を読むことの広がりを、深さを、気づかせてくれる好著

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書店の棚に、おなじ作者とはっきりわかる装画の本が六冊ばかりならんでいる。寺田伸子による女性の姿で、色合いが美しい。行間をたっぷりとって、字も大きい。すっと目を落とすと、すらすらと一篇のエッセイを読み終わってしまう。このシリーズは、作家の川上弘美、詩人の小池昌代、美術家の吉澤美香といった、ヴェテランでありながら独自のスタンスを保ち、徒党を組まないような、ひじょうに広い意味での女性の作家のエッセイを集めたものである。そのひとつに水原紫苑の『うたものがたり』もある。

水原紫苑の手による最初の歌集『びあんか』を手にした新鮮さは忘れられない。柔らかな言葉を使いながら、ひじょうに硬質なイメージをつくりだしたり、具体的な事物を扱いながら、どこか遠い世界や形而上的な世界を現出させたり、短歌という言葉の少ない、しかも音数の限られたなかで、こんなことができるのかと、驚いたものだ。以後、欠かさず歌集を読んできたし、エッセイ集も繙いてきたのだが、この『うたものがたり』は、これまでとはかなり趣きの異なる、ずっと親しみやすい内容、文体をもっている。

第一部「うたものがたり」は、歌を一首引きながら、その歌の誕生をあたかも小説のように浮かび上がらせる。「ピアノの蓋かすかに浮けば黒白のキイの上ねむる光のヘレネ」から、部屋の、もう弾くこともないアップライトピアノと世界一の美女ヘレネが重ね合わされる。ヘレネの眠りを妨げまいとするかのような鍵盤たち。歌とその後につむぎだされた「物語」とのなんと甘美な対話!

つづく短い第二部「うたのゆめ」は、十二ヶ月それぞれに対応する歌を挙げてゆく部分。第三部「逢いたかった歌人」では、主として、啄木が岡本かの子が、あるいは和泉式部が藤原定家が挙げられ、総勢十一人の歌人について書かれている。

この三つの部立てが、どれも「短歌を読む」ということに収斂していることは、あらためて強調するまでもない。文字に記された歌があり、それを誰かが読む。その背後に広がる世界を、宇宙を透視する。書かれた言葉から書かれなかった言葉、おもい、欠けてしまったり故意におとしてしまったりしたもの。やさしい言葉で書かれながら、水原紫苑という歌人の想像の「力」、読み込んでゆく迫力を感ぜずにはいられない。こういうひとにとって、世の諸々のことどもはどんなふうに映っているのか——つまり、読者は「歌人」の視線をとおして、あらたに世界をみなおすし、見方や想像の力を学び、獲得してゆくこともあるのだということがあるのだ。

水原紫苑は、「読む」行為によって、これまでに読んできた歌人におもいをはせる。作品をとおして、作者に目をむける。第一部から第三部まで、ゆるやかに「歌」から「作者」へと移動してゆくさまをみつめながら、「歌」を読むことの、「ひと」を知ることの不思議さを、さまざまに考えさせられるのだった。 (bk1ブックナビゲーター:小沼純一/文筆業・音楽文化論研究 2001.05.04)

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写真とエッセイが伝えるパリ・朝市の魅力——滞在者にも旅行者にもお勧め

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 一昨年、両親と一緒にパリに出掛けた。特に、青春時代はこの街に憧れ、フランス文化を愛していた母は、60も半ばを過ぎ、はじめての訪問だったのだが——折しもさまざまな美術館や博物館はいっせいにストライキ中。案内をいろいろ計画していたわたしはむらむらと苛立ち、つぎにすっかり意気阻喪してしまったものだ。しかししたたかな生活人たる母は、彼女なりの楽しみをしっかり見いだしていた。それが朝市だったのである。

おなじパリでも、お客さん向きの、ちょっと気取ってとりすましたかんじの地域と、日常の生活と密接に結びついた地元の人達の暮らす地域とでは、かなり雰囲気が異なっている。シャンゼリゼのブティック街やルーヴル、オルセーなどの美術館などをまわっているかぎりでは、なかなか後者の様子は目にはいってこない。とはいえ、一歩奥にはいり、ふつうの商店街、そして何よりも「朝市」に触れれば、ぐっとパリのさまざまなことが身近になってくる。レストランででてくる食事は「出来上がったもの」だが、ここに来れば、肉も野菜も、魚も香辛料も、どんなふうな素材なのか、どんなかたちで売られているのかがわかる。

本書はたくさんのカラー写真とともに、パリ13カ所の「朝市」を紹介している。著者はさすがに十年以上家族で暮らしているだけあって、「生活者」の「日常」の視線がしっかり感じられる。食材が中心ではあるが、花市、小鳥市、切手市、のみの市も紹介されているところも楽しい。また、冒頭におかれたエッセイでは、朝市がどんなふうに運営されているかや、日本のお店との比較などが記されているのだが、あいだにちょっとした文化のちがいをめぐる鋭い考察が織り込まれてもいる。家の職業に誇りを持ち、しっかりとそれを受け継ぐこととか、肉の売られ方についての見方とか、慣れてしまうとなんということはないのだが、いざ指摘されると、そうだなと思うことが少なくない。

日本ではなかなか見られない野菜をクローズアップして説明してくれたり、何軒もの「お昼ご飯のおいしい店」が紹介されていたり。メニューが写真入りででていると、そうか、このまえ隣りのひとが食べていたのはこれだったのかと納得させられることもある。

たしかに、キッチンのついていないホテルに滞在しているかぎりでは、朝市で買い物をする必要などないかもしれない。だが、この活気溢れる朝市に触れるのと触れないとでは、おなじ「パリ」を訪れても、だいぶイメージが異なってしまうにちがいない。だからこの本は、パリで生活するひとにとってはもちろん、旅行でのぞいてくるだけでも、観光名所とはちがったものを提供してくれるガイドとして役にたつ。

上述したわたしの母は、この本をみせると、自分の通っていた朝市こそ載っていなかったが、ゆっくりとページをめくり、父に、わたしに、感想をもらしていた。 (bk1ブックナビゲーター:小沼純一/文筆業・音楽文化論研究 2001.05.01)

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三つの文化を背負った一音楽家の生きざま

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日本には、いま、多くの外国から来て生活している人達がいる。ビジネスマンから肉体労働、教師、芸術家、あるいは留学生と、さまざまだ。いささか私事にわたるが、わたしはこうしたなかから音楽家ばかり45人にインタヴューをして、昨年『アライヴ・イン・ジャパン 日本で音楽する外国人たち』(青土社)という本を上梓した。国籍もやっている音楽も、この国にやってきた経緯もそれぞれ異なっている人達。どうして他のところではなくこの「日本」なのかというのが気になって、そうしたことも尋ねたのだったが、かならずしもはっきりとしたモチヴェーションがあるとはかぎらない。なりゆきでそうなってしまったひとがじつに多かったのに、あとで、驚いたりもした。

本書の著者——というより語り手であり、人生の「主人公」——も、外国から日本に来て、活動している音楽家である。残念ながら、この方については、この本がでるまで知ることがなかった。だからインタヴューもできなかったのだが、これはとても残念に思える。やっている音楽もそうだし、これまでの送ってきた人生のありようもひじょうに興味深いものだったからだ。

セリアさんはインドネシアに生まれた女性。ピアノやエレクトーンを学んでいた彼女は、日本総領事に出会ったことで、この国に行ってみようという気になる。日本でやろうと思っているのは、音楽の、エレクトーンの勉強だ。この見知らぬ土地で、セリアさんはホームシックにかかりながらも勉強をつづけ、今度はユダヤ系のアメリカ人と出会う。そのひととの結婚——ユダヤ教という、これまた未知なる宗教の体験。さらにエレクトーンばかりでなく、日本の琴の勉強も始める。
セリアさんは家庭人であると同時に、音楽教師、作曲=演奏家としての生活を送り始めるのだが、そうしたなかで、独自の「エスニック・フュージョン」と呼ぶ音楽が生まれてくるのだ。

「エスニック・ヒュージョンとは、音楽ジャンル、楽器の編成、国境を超え、異なった文化、精神的な支えを融合したものです。インドネシアの、日本の、ユダヤの、それぞれの文化、音楽が私という一つの体の中で溶け合ってでき上がった音楽です」——セリアさんはこんなふうに語っている。エレクトーンと琴、サックス、インドネシアの楽器が一緒に演奏される音楽。もちろんセリアさんは、音楽をとおして、もっと深い、文化の問題に触れてゆく。いまの日本では伝統的な邦楽があまりにもなおざりにされていないか。自分の国の文化を大切にすれば、おのずと他の国の文化も尊重できるようになるのではないか。セリアさんは、自分の複数の文化が重なったアイデンティティ、ながいこと子供に音楽を教えることをとおして、こうした言葉を発しているのだ。「こんなふうに生きてきた」のは必然ではないかもしれない。なりゆきだったかもしれない。しかしその体験のうえでこそ語られることがある。

本書にあるのは、たしかに、完成された、みごとな語りというわけではない。しかしだからこそ逆に、これまで生きてきたなかで得たものをできるだけ直接に語ろうとする意志がはっきりと感じられるのである。 (bk1ブックナビゲーター:小沼純一/文筆業・音楽文化論研究 2001.04.25)

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パリお菓子巡礼(?)の大いなる味方

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パリの街を歩いていると、華やかな表通りだろうと、住んでいる人達がちょっと買い物に出掛ける商店街だろうと、さまざまなお菓子屋さんが目にはいる。ウィンドウに並べられているケーキのなんと魅力的なこと! 蜜に誘われる蜂のごとく、するすると店の中にはいっていって、さて、何か買って食べてみたいと思うのだが——パリの売り子さんはかならずしも愛想がいいわけではない。あらかじめ買うものを決めておかずに、店内でゆっくり眺めていたりすると、結構プレッシャーなのである。しっかりとお菓子の名前を言おうと思っても、手書きの文字は容易に読めないし、しどろもどろしながら、小心なわたしは適当なところで妥協してしまうことが少なくない。本書は、伝統的なフランスのケーキ類がどんな名前でどんな形態なのか、どのあたりの店ででているのかがよくわかる、お菓子好きの味方である。

著者はパリの料理学校「リッツ・エスコフィエ」で学び、現在は洋菓子教室を@主宰している@女性。さすがに足で歩いて舌で味を確かめてこそだろう、この街をパリの41の菓子店を厳選、各店の特徴をコメントしながら、代表的な菓子の写真をクローズアップする。この見せ方が、いつもテーブルの上のお皿に載っている「定形」ではなく、籐椅子や草むら、石づくりのベンチなど、セッティングが凝っている。レバノン、ユダヤ、あるいはアルザス、ウィーンといった「正統派パリ」とはひと味ちがった、国際色豊かなパリの菓子店といったところをさりげなく含ませているところも、ポイントが高い。

有名なエディアールやダロワイヨではどんなものがお勧めか、逆に、マカロンやミルフイユといった定番菓子はどこのお店のものがいいか、「店」と「菓子」両面から扱っているのも、使い勝手の良さにつながっている。パリのお菓子屋さんを知っている著者ならではの、「八箇条」——いや、そんなに大袈裟なものではないのだけれど——が掲げられており、ウェットティッシュは必需品、写真を撮るときには許可をといったことを喚起してくれている。あまりにベーシックであるがゆえに、ついつい忘れてしまいがちなこういうところを押さえてくれているのは、大切なこころづかいといえるだろう。

こうした写真とコメント、地図のある本とともに、白水社からでているニナ・バルビエ+エマニュエル・ペレ(北代美和子訳)『名前が語るお菓子の歴史』などとあわせてみると、「パリお菓子めぐり」が一層楽しくなること請け合いである。 (bk1ブックナビゲーター:小沼純一/文筆家・音楽文化論研究 2001.04.07)

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映画やテレビに接しながら、ひとは音と映像をどう「感じて」いるのだろう?

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ひとは「五感」をとおして、周囲のさまざまな「もの」や「出来事」に反応し、対応している。個々の「感覚」は、けっして切り離されているわけではなく、相互に補い合いながら、結びついている。生活はこの総合的な感覚のうえでこそなされるわけだ。だが、これまで「芸術/アート」といったものは、多分にその「ひとつ」の感覚のみをはたらかせるものが多かった。美術しかり音楽しかり。美術は視覚の、音楽は聴覚の。しかし実際には、美術においても、油絵のマティエール、彫刻の量感といったものは視覚のみならず、視覚をとおしての「触覚」も関わっているわけだし、音楽においても、演奏者の身振りやその場の「空気」といったものも大きく作用してくる。演劇やパフォーマンス、儀式においてはなおのこと、「綜合」性は大事になってくるだろう。そうして20世紀(すでに!)、映画やテレビ、DVDやインターネットといったものが登場してくるなかで、ひとはこれまでになかった「綜合」的な、ひとつひとつの独立した感覚だけでは扱いきれない「芸術/アート」に囲まれることになった。

本書は、そうした時代に対応した新しい方向性を探ろうと、研究してきたひとつの報告書といえる。「『マルチモーダル・コミュニケーション』というのは、視覚と聴覚のように、2つ以上の感覚が組み合わされた情報伝達を意味する」との説明を読めば、その意図はくみとれよう。

視覚と聴覚の共鳴現象、相互作用といったところから、大画面に映しだされた映像と音楽とがひとに及ぼす影響、色彩が音楽の印象にどう影響するか、音楽のリズムと映像の同期とどう関わるか、BGMが空間の印象をどう変えるか、等々、扱われているテーマは広範だ。筆者は「音響設計学」科で研究をつづける工学博士であることもあり、ここでも「理系」的で、実験をして統計をとったものが提示されている。被験者の「印象」をデータにとりこみながらも、それを解析する眼差しはあくまで客観的であり、その意味である種の記述の平板さ、退屈さを——読み物としては——おぼえないではないが、それはそれ、実験とその結果をこそ、本書では読みとるべきにちがいない。

興味深いのは、筆者がどういうふうに実験をおこなってゆくかというプロセスと、でてきた結果を解析する視線である。漠然とした「印象」を、どんなふうに被験者に「語らせ」るか——それをあぶりだすためにはどんな質問を作成すべきか。そうしたときの冷静でディジタルな思考は、自分がいろいろと考えていることを明確にするためにも、有意義であるように思われる。

多くのグラフや表が登場し、それを解析する冷静な文章がつづいていくと、読んでいてそれなりの疲労も感じるのは事実だ。とはいえ、いわゆる「客観的」な評価といったものが、「音と映像」という観点からはどういうふうにでてくるものなのかは、この本によって、或る程度知ることができるのではないだろうか。 (bk1ブックナビゲーター:小沼純一/文筆家・音楽文化論研究 2001.03.08)

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見高名な美術史家が照らしだす「マルチ」なホフマン

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今年2001年は、夏目漱石が『吾輩は猫である』がモデルにした長篇『牡猫ムルの人生観』の主人(猫?)公、E.T.A.ホフマンの実在の飼い猫「ムル」が天に召されて180年目にあたる——と、この本を読んで始めて知った。その翌年に作家自身も亡くなっているから、来年はホフマンの没後180年ということにもなる。
後々にバレエになった『コッペリア』とか『くるみ割り人形』、あるいはオペラ『ホフマン物語』といった作品は知られているけれど、実際にこのドイツ・ロマン派の作家の作品に触れているかといわれれば、せいぜい文庫になっている数冊程度というのが、一般の傾向にちがいない。それでも、日本では隣国フランス同様早くから本国ドイツよりはるかに評価が高かったのだという。

本書はコンパクトながら、この作家の生涯をたどりながら、あいだに重要な作品についての解説をおりこんで進行してゆく。時代のながれ、風潮と、そのなかを生きてゆく作家ホフマン。そしてその生から生み落とされる作品。その作品のなかに、時代を読み込み、また時代への照射を読む。
 「不気味、グロテスク、奇形、歪んだ像。ホフマンの作品における文体の特徴は、外界と内界をつなぐ通風口が狭められたこと、その接触が中断されたこと、相互交流の流れが妨げられたこと、それに両者の不一致がますます大きくなったことについての感覚の表現にある。こういった感覚は、個人的にのみ知覚され、意識の歴史からは制約される。ホフマンはこれを繊細な感覚能力によって拾い上げ、形象のイメージとしてつくりあげるのだ。」

 「悪魔は万物の上におのれの尻尾をのせている」というホフマンの確信、モットーを、筆者がときに反復して検証していることも、本書を一貫させる構成の要素だ。こうした手腕をみせる著者は、1929年ドレスデン生まれの人物。1975-86年にはベルリン美術館の館長を、83-86年にはベルリン芸術アカデミーの造形芸術部長を務めた美術史家である。編著『ベルリン1919-1933——芸術と社会』は岩波書店から邦訳もあるので、ご存じの方も多かろう。ホフマン自身がもともとは音楽家として身を立て、デッサンやカリカチュアの腕前を誇り、その後に文学へと移行していった「マルチ」な人物であったことを考えれば、著者ロータースが、逆に、美術畑から文学へと視線を向け、ホフマン像を浮かび上がらせているのも、自然なことといえるかもしれない。

もちろんホフマンの作品を知っていればよし、なんとはなしに興味をもっているというひとでも、良き入門書になる本である。 (bk1ブックナビゲーター:小沼純一/文筆業・音楽文化論研究 2001.02.08)

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20世紀の音楽、「ロック」を浮き彫りにするさまざまな切り口

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 「アイデンティティの音楽」って、何だろう? どういう意味だろう? そう思うと、つい本に手がのびてしまう。
 ここで「アイデンティティ」と呼ばれている音楽は、ロックをベースにした音楽である。基本的には、20世紀におけるロックの歴史を、ミュージシャンの名を列挙するだけではなく、副題に示されているように、メディアや若者、あるいはポピュラー文化といった角度から切り取ってゆくもの。
 全体は二部に分けられ、前半は「アイデンティティの音楽」、後半は「ポピュラーの意味」。
 前半で扱われるのは、ロックのスタイルと社会との関連。
 ロックンロールからパンクのみならず、その後に派生してくるレゲエやラップと「ロック」から派生した音楽まで含まれる。また、アメリカ・イギリスのみならず、旧ソ連や中国にロックがどう受け入れられていったかをも視野に入れている。MTVやダンスといった周辺事項、あるいはカルチュラル・スタディーズに言及しながら、ロックを受け入れ、聴き、楽しんだ少年少女達といった層といったものに目を配ることも忘れてはいない。このような「ロック」を考えるうえでのベーシックなものが、コンパクトに記述されているわけだ。ロック・ミュージシャンには「アート・スクール」の出身者が多いのだが、この「アート・スクール」はもともとウィリアム・モリスの考えから生まれたという事実、そして、そこに通う学生は、裕福になった階級の子達であったという指摘など、細部から浮かび上がってくることにも、しばしば刺激を受けもした。

 一方、後半はといえば、前半に対していささか説明的——「論文」的な色彩が濃くなってくる。内容的にそれは仕方がないのかもしれないが、「アイデンティティ」に言及し、ロックを愛し、いまも聴きつづけているという著者にしては、文体が生きていない。アドルノ、フリス、タグといった先人達の分析を提示してくれるのはいいが、その検証に終わってしまってはいないだろうか。「ポピュラー音楽の真髄は音楽にではなくサウンドにある」と書きつける著者なら、もっとくずれてもいいから、独自の「声」を聞かせてほしい。ないものねだり? それとも、こういうふうにスタティックになってしまうことが、現在のロックの状況を示しているというわけか?

 巻末に収められた「付録」では、「文献」はいいとして、20ページに及ぶ「ポピュラー文化クロニクル」は眺めるだけでも面白い。1876年における「ベル電話機発明」から、1995年、「ウィンドウズ95」、阪神大震災までの約125年が、「メディア」、「作品など」、「その他」の分類で並べられているのだが、後2者の比較的アバウトで雑然とした内容に、20世紀という混乱した時代のさまを見て取れるように思う。 (bk1ブックナビゲーター:小沼純一/評論家(音楽文化論研究) 2001.01.26)

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