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  3. 佐伯シリルさんのレビュー一覧

佐伯シリルさんのレビュー一覧

投稿者:佐伯シリル

9 件中 1 件~ 9 件を表示

宝を捨てにいく旅

24人中、22人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 野口悠紀雄氏が『超整理日誌』(ダイヤモンド社)で「風の谷のナウシカに関する主観的一考察」というタイトルで宮崎駿のコミック版『ナウシカ』とトールキンの『指輪物語』との類似性について語っているが、宝探しの旅ではなく「宝を捨てにいく旅」という大ざっぱな共通性以外、この二つの物語はまったく似ていない。
『指輪物語』は西欧的な《二元論》、善と悪、光と闇、清浄と汚辱といったものの対峙を描いたファンタジーだが、『ナウシカ』はもう一重構造が複雑で、そうしたキリスト教的《二元論》に対する仏教的《一元論》あるいは《多元論》といった感が強い。
 最終巻に登場するシュアの墓所、それ自体が生命体であり統治者でもある墓所は、生きとし生けるものを悪から善へ、闇から光へと向かわせるためにプログラミングされた予定調和の神なのだが、ナウシカは「汚辱と清浄こそ生命だ」と言い放ち、墓所を破壊してしまう。闇を含まぬ光、汚辱を含まぬ清浄など生命ではない、という宮崎駿の自然観・生命観は興味深い。
 これは手塚治虫が描けなかった物語である。『火の鳥』には、善が悪に堕ち、悪が善に昇華される、動的で不確定な人間模様が描かれているものの、結局のところ善悪の挟間の物語であって、善悪の彼岸のそれではなかった。二元論の図式そのものを切り捨ててしまう一元論の大太刀がないのだ。
『火の鳥』はヒューマニズムだが、『ナウシカ』はアナーキズムである。ヒューマニズムは基本的に二元論であり、悪なるものを定め、それに対抗する人間の善性や英知を信頼し、殺戮や飢餓や抗争や災厄を人智によって克服しようという立場であり、改革であり進歩である。シュアの墓所はそのシンボルと言えよう。それに対して一元論はアナーキーなナチュラリズムであり、人智を信頼せず、宇宙の意図に運命を棚上げし、人智による進歩よりも長大なタイムスパンによる生命の「進化」に身を委ねようとする。統治や改革への徹底したレジスタンス。ナウシカは行動的なアナーキストと言えるだろう。
『ナウシカ』全7巻には「トルメキア戦役バージョン」というサブタイトルがついているので、あるいは続編が描かれるのかも知れないが、娯楽のためのファンタジーとはいえ、このようなテーマを現代日本の「ブンガク」があまり取り上げようとしない以上、漫画というフィールドでしばし考えてみるのも無益なことではないだろう。

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紙の本不幸な子供

2005/09/18 23:40

大いなる無意味

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

タイトルどおり、どうしようもなく不幸な子供が、さらにどうしようもない不幸の中で死んでいく物語である。かといってこの物語は決して悲劇ではない。主人公は間違いなく不幸なのだが、読む側にその悲惨さは伝わってこない。読後に涙が出るわけでもなし、苦い後味に気分が曇ることもない。救いのない不幸の奥に人生の教訓や知恵が秘められているかと言うと、どうやらそれも無さそうだ。
何ひとつ得るもののないノンセンスでデカダンな物語。
それこそがゴーリーの真骨頂であり、この大いなる無意味、書物のトマソンとも言うべきゴーリー・ワールドを前にして「作者は何を伝えたかったのか」という推薦図書感想文のような自問自答や、ハッピーエンドの凡庸さに対するアンハッピーのインパクトを云々するのはやめたほうがよいだろう。『不幸な子供』はその不幸のせいで印象深いのではなく、不幸が見事にあっさりと無意味化されているゆえに印象的なのだ。
読書から実人生の糧を求める人には向いていないが、在るものをただ在るものとして愉しむことを知っている人にはお薦めの1冊である。

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痛み分けのやさしさ

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 物語が「もののけのかたり」であるならば、言葉どおりの意味で、この『蟲師』のテーマは物語それ自体である。時代も定かでなく、場所もいずことも知れない。まさに「むかしむかしあるところ」であり、この設定は実に絶妙だ。
 夢とも現実ともつかぬ「あるところ」で、もののけたちが物語を紡ぎ出す。彼らは異変をもたらすものたちであり、大異変だろうと小異変だろうと、それなしに物語は成立しえないことを思うと、これもまた物語の王道を行っている。
 もののけには「蟲」という名が与えれ、それらは、妖怪、精霊、山神、宿霊、病菌、生命、何とでも解釈可能なオールマイティな異類であり、物語の生成装置である。
 こうして作者は無限に物語を生み出すことも可能な「場」と「装置」を手に入れたにもかかわらず、それを乱用しようとしない。
 物語の骨子は明瞭だ。「共生」である。
 もののけの討伐ではなく、ひとえに共生のみが描かれる。「むかしむかしあるところ」に暮らす人々は、ときに禁忌を犯し、ときに運命ゆえに、蟲とかかわり、病苦や不遇や喪失を引き受けるのだが、その調停者として登場するのが「蟲師」である。
 蟲師はもののけの討伐者ではない。蟲を壊滅させるまでの力はなく、それを望んでもいないようだ。あくまで調停者として、人と蟲との「痛み分け」へと持っていくだけである。蟲もいくらか痛み、人もいくらか痛む。共生とはそういうことであり、そこには勝者も敗者もなく、ハッピーエンドもないのだが、それでもこの物語がほのかに明るいのは、痛みを甘受する蟲と人のやさしさが全巻の底辺に流れているからだろう。
 一方の痛みのぶん、他方の居場所が生まれる。ならば、痛みはやむをえまい。そういうやさしさを描いた物語は現代には少ない。読んでほしい。

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「人間とは何か」を問う物語

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

永遠に近い寿命を持つ主人公フリーレン、愛や思慕や罪悪の概念を持たない魔族たち──。人間とはまるで異なる種族たちの振る舞いから、ヒューマンの本質を浮かび上がらせる設定がじつに見事です。

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紙の本ペスト

2005/10/01 16:49

勝者のいない死闘劇

15人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ある夏の日、アルジェリアの架空の都市オランをペストの猛威が襲う。街は軍隊と警察によって世界から遮断され、誰にとっても平等な死の恐怖が舞い降りる。
 主人公(語り手)は町医者のリウー。彼はただ黙々と医師としての仕事を繰り返し、ペストという名の殺戮者に反抗する。
 リウーは英雄ではない。そもそもこの物語に英雄は登場しない。キリスト者であるオランの司祭はペストの災禍を神の審判だと説く。しかし司祭自身、自らの教説がゆるぎないものという確信はない。たまたまこの街に滞在した新聞記者はパリに残した恋人と逢うために戒厳令下のオランの街から不法な脱出を試みる。しかしその直前になって、いかなる災禍も愛にかなわないと信じていたはずの彼は街にとどまることを選ぶ。ヒロイズムもキリスト思想もロマンチックラブもニヒリズムも楽観主義も悲観主義も、あらゆる思想や感情がペストの前で試され、無力さを露呈し、そうしてペストはあたかも禍々しい季節風のように、ある期間、思うがままに殺戮した挙げ句、ふいに姿を消して小説は終わる。

 繰り返すが、この物語に英雄はいない。勝者もいない。いかにもカミュ好みの不条理人である医師リウーは、ペストに勝てる見込みなど万が一にもないのを承知の上で、患者に血清を注射し、手厚く看護し、予測どおりの死を待ち、臨終を確かめ、泣きすがる遺族を威圧して、感染防止のために死者を特設墓地へ運び去る。彼には希望はない。絶望もない。悲哀も憐憫もない。ただひとえに、息を抜けない仕事があるだけで、そのせいで人並みな感情を抱く余裕がないのだ。
 私の手元にあるのは薄墨枠と朱色の二重枠の、昔ながらのデザインのガリマール叢書版の『ペスト』である。学生時代の仏語のテキストであり、何度再読したか知れず、日本語版の翻訳に飽き足らず自分で完訳した初めての原書でもあり、影響を受けたと言っていい数少ない小説のひとつでもある。

 カミュはこの小説を構想するにあたって、メルヴィルの『白鯨』を念頭に置いたことを手記で語っている。
 メルヴィルはキリスト教の異端宗派であるソフィア派の信奉者だった。この宗派によれば、地球に君臨している神は「狂える神」であり、生きとし生けるものに災禍をまき散らすのを喜びとし、そのあまりの暴虐を見かねて、この神の母であるソフィアは、狂える我が息子に対抗するための武器を人間に与える。武器とはすなわち知恵であり、それを人間に手渡す使者とは蛇である。しかしこの武器で神を倒すことはできない。勝利は不可能であり、せいぜい抵抗しかできない。
 以上がソフィア派の思想の骨子なのだが、メルヴィルの『白鯨』は、狂える神であるモビーディックと、それに反抗するエイハブ船長との死闘を描いた物語だ。カミュはモビーディックを「ペスト菌」に置き換えた。世界の不条理性を描いた文学の歴史は古いが、この書はそのジャンルにおける二十世紀の傑作と言えよう。

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紙の本コンプリート・ロボット

2005/09/30 20:31

アリバイとしての「ロボット3原則」

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 どんなジャンルであれ、優れた作品はそのジャンルの中におとなしく収まるものではない。いまや古典SFの名著として名高いこの本もSFというジャンルの壁をさらりと突き抜けて、すばらしく上質な「本格ミステリ」の高みに到達している。

 周知のとおりアシモフは旧ソ連に生まれ、アメリカ移住後にコロンビア大学で化学の博士号を取得し、晩年はボストン大学医学部の生化学の教授を勤めた人物だ。科学する精神とは仮説を立てて推論・証明するスタンスであり、その思考プロセスはまさに本格ミステリのそれと一致している。
 実際、アシモフのミステリ好きはよく知られた話で、邦訳されている『クリスマスの12のミステリー』や『いぬはミステリー』など、本格推理のアンソロジストとしても活躍している。

 多くの評者が語っているので詳細は省略させてもらうが、後続のロボットものの指標となった有名な「ロボット三原則」がここに収録された31の短編の謎解きのキーポイントになっている。
 しかしそれはSFの概念と言うより、本格ミステリのアリバイ証明に近い。本格推理の世界では「密室殺人の犯人は幽霊だった!」なんてオチはご法度であり、チェスのクイーンには然るべき動きしか許されないように、この本に登場するロボットたちにも「三原則」の絶対のシバリがある。この「三原則」に基づいた作者と読者の知恵比べという意味で、この本はSFであり、同時に本格ミステリでもあるのだ。
 さらに言うなら、厳格な行動原理を死守するロボットと、人間の「これだけは譲れないポリシー」もまた似通っており、実はロボットじゃないかと疑惑をかけられた公明な政治家が登場する短編では「人間としてのアリバイ(存在証明)」まで問われている。
 SFであり、本格ミステリであり、哲学書であり、ジャンルを超えた、真っ先に挙げたいアシモフの代表作である。

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すべてが雪崩れていくその一点

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

死を想え。ラテン語でメメント・モリ。

さまざま死者たちの写真に著者の短いコメントが添えられている。たとえば、死体を野焼きする写真にはこんな具合に。
「ニンゲンの体の大部分を占める水は、水蒸気となって空に立ち昇る。それは、雨の一部となって誰かの肩に降りかかるかもしれない。何パーセントかの脂肪は土にしたたり、焼け落ちた炭素は土に栄養を与えて、マリーゴールドの花を咲かせ、カリフラワーをそだてるかもしれない」

死を想え。
この言葉は、言葉の厳格な使用法からいって正しい。僕らは死を見ることはできない。想うだけだ。医者や兵士が見なれているのは死ではなく、死体であり、使い果たされた肉体であり、物質である。あるいは死への恐怖や想像であり、かつて生者だった頃の面影であり、追憶であり感情であり、死そのものではない。
死を見るものは死者だけだ。生者にとって死は抽象であって、僕らはただそれを想うことしかできない。ゆえに、死を想え。

死は生の尊さの証明のためにあるものではないし、深刻さや厳粛さを歌ったりもしない。それはただ、そういうものであり、そこにあるものだ。モラルや虚無や法則を持ち込まず、人間も含め、森羅万象が雪崩れていくその一点、物質化していくその一点を想うことは、人の夢想の必然でもある。
メメント・モリ。「無想を想え」という反語のような名著。

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紙の本中国新声代

2010/03/07 12:23

中国のオプティミストたち

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 言論への検閲や規制の厳しい中国で、国民はどれくらい自由に言葉を発信できるのか。自由にものを言う人たちはどの程度のリスクを予測し、処罰を甘受し、あるいはどうやってその縛りをくぐり抜けているのか。
 中国における言論規制の厳しさやその処罰の過酷さをメディアが恐ろしげに喧伝する一方で、ネットには中国からの個人発信のテキストがあふれている。このギャップはなぜなのか。

 そんな疑問と好奇心からこのインタビュー集をひもといた。
 何よりここに登場する発言者の肩書きが楽しい。女優、ブロガー、コラムニスト、漫画家、映画監督などなど、いかにも「自由にものを言ってしまうだろう面々」であり、また十八人のインタビュイーのうち十二人が個人ブログを持ち、しかも並外れたアクセス数を稼いでいるらしいカルチャーパワーなタレントたちである。

 読み進むにつれ、彼らの自由な発言は、言論の自由を当たり前に享受している国のインテリジェンスな友達や知識人のおしゃべりに聞こえ、それが中国に暮らす人々の発言であることを忘れさせてしまう。
 彼らはなぜこんなにも自由な思考に慣れているのか。これまでメディアが伝えてきた大時代的な言論弾圧のニュースは何だったのか。中国の多面性なのか、懐の深さなのか、あるいは言論でも格差社会なのか。

 次々に湧き起こる疑問への解答は彼ら十八人の発言の奥に見え隠れしている。この書は現代中国の言論問題を解析し纏め上げた論文ではなく、著者のフランクで鋭い質問や切り返しから誘引されるインタビュー集なのだから、答えを探るのは読者の仕事だ。

 一言、ここに登場する発言者たちは様々な歪みや矛盾を抱える現代中国の負の面を踏まえつつ、しかし可能性のほうを見つめている。彼らは一人残らずオプティミストであり、リスクを承知の発言が可能なのは彼らの明るさゆえだろう、という私的な読後感を添えておきたい。

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紙の本変身 改版

2005/09/22 09:03

単センサーの物語

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 三年前にロシアで映画化されたカフカの『変身』が、いま日本で公開されている。監督は演劇界で活躍しているワレーリイ・フォーキンだ。サテュリコン劇場で上演された舞台版の映画化なのだろうか。
 さっそくシネマ版『変身』のオフィシャルサイトへ飛んでみたのだが、メイエルホリドのスコアブック脚本スタイルを採用しているところからすると、見せ場である変身のシーンはどうやら舞台版と同じ手法であるらしい。ネタばらしを控えたいので、ここでは一言、役者の演技力にかかっているとだけ言っておこう。

 ブランショの『カフカ論』だったか、彼によるアンソロジーの小論集だったか、記憶が定かでないのだが、カフカ世界をトーキー映画(おもに初期のコメディ)になぞらえて語っている論文がある。ドタバタ劇の登場人物たちの思考と動きはその目的性に対して極めて単一的であり反復的であるといった内容だ。
 そもそもパントマイムの意味伝達の力は単一性と反復性によって支えられているのだから、そうならざるをえないのだが、言葉を換えればその思考と動きは「虫」っぽいとも言えよう。
 技師Kは城に辿り着くことしか考えていないし、グレゴールは会社へ行くことしか考えていない。そうして、行く手を遮られた虫のように、壁にぶつかってひっくり返り、同じところを堂々回りしている。

 カフカの描く世界にはメタな問いがない。グレゴールは「会社とは何か」「そもそもなぜ会社へ行かなければならないのか」など考えない。Kにとって城と測量の仕事は問うべからざるものであり、メタからの見直しのない回避不可能な絶対性の何物かなのであって、それを考えたり期待したりするのは読者だけである。
 グレゴールは最後に死んでしまうが、メタのない物語に終わりを与えるにはとりあえず死んでもらうしかないわけで、筆を置くためのカフカの方便であって、それが終点でもなければ結論でもないだろう。終わりを探したいなら、カフカの物語は始まりの段階で、すでに終わっているのだ。

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