岩井 清隆さんのレビュー一覧
投稿者:岩井 清隆
私は本屋が好きでした あふれるヘイト本、つくって売るまでの舞台裏
2019/12/10 22:28
永江朗さんの嘆きに賛同します
7人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
最近は一時に較べやや治まった・・・というか、別な見方をすればもはや一種のスタンダードにすらなってしまった感があるネトウヨ本、ヘイト本。読まずに批判はできないものと、名前も出したくないような愚劣なネトウヨ本を何冊か読んだことがあるが、なぜこのような本が多産され、読まれ続けているのかが実感として理解できない。大御所の櫻井よしこ氏や渡辺昇一氏の本ですら(いや、だからこそと言うべきか)、必ずしも事実に基づいてはいない論理性のない駄本を量産しているし、昭和天皇の玄孫を自称しながら昭和上皇(って呼び方がいいのか、それとも明仁上皇といえばいいのか)から露骨に嫌悪されパクリだけで恥ずかしげもなく本を上梓する竹田恒泰氏や、かつてはいわゆるネットワークビジネス(事実上のねずみ講)を賞賛する本を書いていた筋金入りのビジネスマンであるケント・ギルバート氏などの本をまともに真面目に読む人がいることが実感として理解できないのだ。ここで問題にしているのは、政治信条云々のことでは無く、必ずしも事実に基づいてはいない非論理的な書物に対する抵抗感の無さについての違和感のことだ。
永江さんもこのような事態、現象に憂慮しているけれど、この本ではヘイト本の著者に対する批判は少なく、何故このような本が書かれ、出版され、書店に並びつづけるのかを実証的に問うている。その、表面的な理由は簡単だ。売れるから。永江さんは、その理由が本当なのかと問う。つまり「売れる」ということが単なる言い訳でしかなく、実は出版社、取次(出版社から本を仕入れ書店に売りさばく流通業者)、書店が共に思考停止状態にあることこそが問題だと問うている。事実、永江さんは、明確に意志を持ってヘイト本を出し続けている青林舎(「ガロ」を出していたかつての青林舎とは全く別の、かつて在特会の幹部だった人間が編集長を勤めている「新生」青林舎)のような特定の例外を除けば、さしたる意志もなく流れに流されるままにヘイト本が流通してしまっていることを論証している。ヘイト本のハシリの一つとも言える『嫌韓流』を出した普遊社ですら、「売れるかもしれない」程度の薄弱な気持ちでこの本を出版し、たまたま売れてしまったので類似本を多数出したものの後が続かず、今ではヘイト本から足を洗ってしまっているのだ。
しかし、はっきりとしたマーケティングがなかったとしてもヘイト本が一定の割合で売れて(しまって)いるものまた事実であり、竹田恒泰氏の著作などはベストセラーとなっている。それを「空気」と呼ぶこともできるのかもしれないが、そんな「空気」こそが実は一番危険なのかもしれない。
2018/06/20 13:08
『ボヴァリー夫人』翻訳の決定版
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
翻訳の問題は非常に難しい。そもそも異なった言語に、原文を全く損なうことなく翻訳すること自体が不可能であり、そこに至らずとも言語構造の相違には、翻訳不可能性の大きく深い淵が口を開けている。したがって、翻訳の方法論を大きく二分するなら、翻訳される言語に即して自然な文体を選択するか、飽くまで原文の持つ言語的な意義を重視(保持)するかのいずれしかないのだが、前者の場合は原文のもつ意義(味わい)を少なからず失うと言うデメリットがあり、後者の場合には翻訳されたもの(例えば日本語訳文)の読みづらさと言う弊害を伴う。一般的には両者の折衷と言うことになるのだろうが、翻訳に当たっての姿勢には折衷はあり得ないため、如何なる場合においても翻訳者は究極のの選択をせざるを得ないのだ。
さて、『ボヴァリー夫人』の最新のそして久々の翻訳である本書は明確に後者、すなわち可能な限り原文に沿った翻訳を行なっており、そしてその試みは、ある部分においてはこれまでの翻訳では伺い知ることができなかった成功を収めており、全体を通しても原文への忠実さと言う点においてかなりな程度成功していると言えるだろう。
翻訳がこなれていないとの厳しいレビューもあるが、これは原文に可能な限り忠実な翻訳を試みたが故のことであって、日本語としての自然さを多少は欠いてはいても、決して意味不明、文意解読不能なものとはなっていない。主語や述語が日本語としては不自然に感じられる部分も少なからずあるのだが、これは芳川氏の翻訳が拙いわけではなく、原文を自然な日本語に意訳することなく原文を可能な限りそのまま翻訳したが故にことであって、不自然な日本語を目にした時には「ああ、これがフランス語の言い方なのだな」と解して読むのが正しい読み方だろう。
実はこの本を決定版と評価したのは翻訳の対する姿勢そのものよりも、その姿勢の中核とも言える自由間接話法の扱いこそにある。自由間接話法に関しては本書の後書きでも触れられているし、そのことを主題の一つにした『「ボヴァリー夫人」をごく私的に読む ー 自由間接話法とテキスト契約』で詳述されているのでそれらを参照して頂きたいが、ここでは本書においては自由間接話法を明示しなおかつ日本語として自然な表現にするために、原則として自由間接話法が現在時制として表記されていることだけを指摘しておく。日本語訳で自由間接話法を明確に体感できる翻訳は現時点では本書だけであり、自由間接話法を享受できるか否かは、『ボヴァリー夫人』の観賞において抜き差しならぬことであることも重大な事実なのだ。
なお、『ボヴァリー夫人』は、最初の文が「わたしたち(Nous)」で始められているにも関わらず、このNousは冒頭のシャルルの来歴を語る部分以降は全く出現しないこと、作中には「ボヴァリー夫人(Madam Bovary)」との表記は一度もなされておらず、ボヴァリー夫人と目される人は三人いること(シャルルの母親、シャルルの前夫人と「主人公」と一般には言われているエンマ)、「主人公」エンマの死後もシャルルを中心として物語が語り続けられ、彼が死んでもまだ物語は終わらず、本作の狂言回し的な役割を担う薬剤師オメーの「些細な」エピソードをもってようやく幕を閉じるなど、単なる「夢見がちな田舎の女性の不倫劇」に収まることがない、豊かさと不可解さ、不敵さを湛えた極めて現代的な小説なのだ。その姿は「前衛的奇形」の様相をまとわない前衛作品と評することができるだろう。物語の筋からなんらかの「テーマ」を受容するのではなく、文の細部の豊かさで構成される小説と言う構築物を体感すること。
皆勤の徒
2019/12/11 00:25
読む物の言語感覚を不安に陥れる希有な傑作
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
酉島伝法のデビュー作であり、デビュー作にして日本SF大賞を受賞した短編連作『皆勤の徒』は表面的なおどろおどろしさを満面に湛えながらも、表面的な意匠には留まらずに読む物の言語感覚を不安に陥れる希有な傑作だ。「書き出しはどの一日でもかわまない。寝覚めから始まるのも説話上の都合に過ぎない。ただ、今日ばかりは少しばかり普段より遅れていた」という書き出しから始まるこの小説は、書き出しこそポスト・モダン小説や一昔前のヌーヴォー・ロマンのような雰囲気はあるものの、格別に特殊なものではない。が、読み進めるうちに当て字を多用した言葉使いや異様な世界観に誰もが戸惑いを感じるだろう。
隷重類(霊長類≒人類(?)のこと)、胞人(法人≒企業)、製臓物(製造物≒主人公が勤める会社の製造物)、百々似(ももんじ、未来の巨大な軟体生物)。これ以外にも旧漢字を交えて書かれる意味不明な、しかし字面だけでなんとなくイメージは感じられるルビ付き造語が万遍なく現れる。が、この言葉使いはこの小説の、そして酉島伝法の特徴の一つではあるけれど、それ以上に独特で異様なのは有機的で粘りけすら感じるグロテスクな世界観だ。冒頭に置かれた、そして酉島伝法の処女作である短編「皆勤の徒」は語感からわかるようにいわばサラリーマン小説で、酉島自身がSFを題材とした未来の「蟹工船」を書きたかったと語っている。しかし、一読しただけで感じることができるのは「ギョヴレウウンン」と言う主人公が従業者(社員)であることや雇い主と思われる社長、来客、外回り(営業?)がいると言うことだけで、彼らがどのような役割で何をしているのかは杳として掴めない。グロテスクで、残酷で、粘着質で、逆説的に美しささえ感じさせる異形な世界がひたすら描かれる。彼の小説を通常の言葉で説明するのは非常に難しい。元々はデザイナーだった酉島は自著にイラストを添付することが多いが、その一つをアップしておくのでそれを見てもらった方が、彼の世界観を感じる近道だろう。
こうやって言葉で説明すると単なるグロテスク小説のように感じられてしまうかも知れないが、実はその世界観の背後には明確な人間の未来社会の見取り図が描かれている。だから、この小説を21世紀の酉島版「幻想の未来」(筒井康隆の人類滅亡をテーマとした連作小説)だと評する人もいる。ナノマシンの暴走によって世界が溶解し、文明が滅びた後の世界という絵柄なのだが、実はそれが(なんとなく)わかるのは最後に置かれた「百々似商隊」まで読み進めてからのことだ。最後に至ってようやっと世界観の朧気な姿が見えると言った構成になっているのだが、正直言って作者の思惑通りにこの小説を読むのはしんどい。文庫本の解説で大森望が書いている通り、まずはこの「百々似商隊」を読んでから頭に戻るのが賢明な読み方だと思う。
上述の通り、この小説は物語を素直に追うことすら拒む特殊な作品だ。異様な言葉遣いに対してそれだけで拒否反応を起こしてしまう人も多い(大部分?)だと思う。しかし、その読みづらさを乗り越え作品世界に入り込んだなら、今までどんな小説からも感じ取ることができなかった、まさに別世界の感覚を感じることができることだけは保証する。そういった意味では、まさに読む人に「驚き」をもたらす、唯一無二の作品だと言えるだろう。
『ボヴァリー夫人』をごく私的に読む 自由間接話法とテクスト契約
2018/06/20 11:50
新しい『ボヴァリー夫人』
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
近年新潮文庫において『ボヴァリー夫人』の新訳を刊行した芳川氏が、その訳出に当たって思い巡らし、試行したことについて語った本。
『ボヴァリー夫人』において重要な位置づけを占める自由間接話法に関して書かれた部分が愁眉で、この部分だけでもこの本を読む価値がある。
自由間接話法はフローベールが生み出し、その後プルーストやナボコフジョルジュ・プーレらによって文学的な手法として認知されたものだが、フランス語では半過去と言う過去の状態を表現する時制でかかれ、日本語はもちろんのこと英語ですら同じ作用を表現するのが困難なもののため、少なくとも日本語の翻訳おいてはこれを適切に享受することができなかった。
芳川氏は『ボヴァリー夫人』の真価の一つが自由間接話法にあることに極めて意識的に取り組んだが、訳出に至るまでの経緯やその論理が丁寧に説明されている。フランス語を解することができない読者にとっては、本書は『ボヴァリー夫人』をより良くより深く読むための必読書とも言えるだろう。
ただし、後書きにもその部分を書き綴った経緯について多く触れ、後半の目玉として書かれて芳川流のテマティスム、蓮實重彦氏の『ボヴァリー夫人論』に反論している部分に関しては、正直言ってご愛嬌という感じがする。確かに芳川氏の指摘には首肯できる部分が皆無という訳ではないものの、全体的には蓮實重彦書の細部を殊更に拡大し、間隙を穿った感が否めない。本の帯でも蓮實本に反旗を翻していることをことさら強調している文言が書かれているが、これではこの本の真価を貶めてしまうことになるだろう。
繰り返しになるが、翻訳で『ボヴァリー夫人』を読むのなら、まずは本書を丹念に読み込んだ上で、芳川氏訳の新潮文庫版を読むことを強くお勧めする。そして、そのあとには蓮實重彦氏の『ボヴァリー夫人論』があなたを(あなたが)待っている。
岩波科学ライブラリー176 さえずり言語起源論 新版 小鳥の歌からヒトの言葉へ
2018/06/19 16:21
ジュウシマツの鳴き声には「文法」がある!
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
ジュウシマツの鳴き声には「文法」があることを検証した画期的な研究についての本。しかし、文体や語りの流れはエッセイに近いものがあるので、誰にでも容易に読み進めることができると思う。
「文法」とは言っても、ジュウシマツのそれは人間の言語とは異なり特定の、種々の意味を伝えるものではない。どうやらメスを惹きつけることだけを目的とした「唄」に相当するものなのだが、そのさえずり方は固体によって異なっており、その相違は父親や他の雄鳥のさえずり学ぶことによって身につけると言う。
では、何が「文法」なのか? ジュウシマツのさえずりには人間の言葉のシラブル(音素)に相当するものがあり、その音素の配列を有限マルコフ連鎖的に利用すること、つまり音素を部品化して繰り返しや再帰を行い、個体の個性を表現するのだ。メスはより複雑なさえずりを明らかに好む傾向があるため、オスはより多くのメスを惹きつけるためにより多彩な「唄」を歌う。
ジュウシマツは江戸期に東南アジアから移入され、日本だけで独自に家畜化されたため、同じ属に属する外国のフィンチではこのような唄は歌わない。どうして日本のジュウシマツだけがそうなったかの検証など、ちょっとしたノンフィクション並みの面白さもあるが、この本の重要性はやはりジュウシマツに有限マルコフ連鎖文法を構成する能力があることを証明したことにあるだろう。
言語学に詳しい人なら有限マルコフ連鎖と言えばチョムスキーと彼が提唱する生成文法論を思い浮かべると思うが、本書の重要性はまさにそこにあるのだ。チョムスキーは有限マルコフ連鎖自体は『統辞論の諸相』において考察の対象にはするものの、彼が唱える普遍文法には相応しくない(レベルが充分ではない)として退けてはいる。しかし、有限の要素から無限の表現を生み出すことと再帰性については今日に至るまで生成文法の、つまり人間だけが有する言語能力と規定しているため、ジュウシマツが有限マルコフ連鎖文法を生成し得ることは、チョムスキーの主張に対する大きなアンチテーゼの核となり得るだろう。
なお、この本は元々岩波科学ライブラリー176として刊行されたが、その後の研究を踏まえて増補されたものがオンデマンドブックスとして発行されているので、是非ともオンデマンド版で読むことをお勧めする。
セルバンテス
2019/12/10 23:59
セルバンテスの評伝?
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
この本は、作家の評伝シリーズの一冊として書かれたらしい。つまり、タイトルの通り『ドン・キホーテ』の作者であるセルバンテスの評伝、すなわち作者の人生や作品の生い立ちについて解説した書物が本来の目的なのだ。がしかし、パウル・シェーアバルトの書いたものなのだから、一般的な評伝のスタイルにはもちろんなってはいない。セルバンテスや『ドン・キホーテ』についてあらかじめ知識がない人が読んだら、SF仕立ての冒険物語としてしか読むことができないだろう。
話の流れはさほど複雑ではない。評伝の作者(シェーアバルト自身か?)がセルバンテスについての書物を書くためにセルバンテスと旅をする。が、その旅は一筋縄ではいかない。旅をする交通手段は、この作品が書かれた当時の最新の乗り物であった飛行船だし、同乗者はなんとドン・キホーテとサンチョ・パンサなのだ。彼らが恐ろしく早く飛ぶ飛行船に乗って、セルバンテスの実際の生涯を辿りつつ世界一周旅行をする。つまり、セルバンテスが書いた小説の人物たちがその小説(『ドン・キホーテ』)のアウトラインに触れつつ、実在したセルバンテスの人生を飛行船の旅によって辿るという複雑なメタフィクションの構造となっている。しかし、その旅も荒唐無稽な出来事が立て続けに起こるため冒険奇譚として通読することができる。
決して読みやすい本とは言えないが、シェーアバルト流のメタフィクション、荒唐無稽な冒険奇譚、さらにはセルバンテスの評伝としての側面と、多面的な読み方、愉しみを提示してくれる良書・・・傑作と言えるだろう。
虫けらの群霊
2019/12/10 23:39
傑作!
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
この本をどのように評し、表現したら良いのだろう。体裁としてはSF、ファンタジーに類するかとは思うが、SF的なガジェットや設定はまったく出てこないし、異界と言えば異界の話なのだが、容易に想像をくすぐるような魔物やお姫様は登場しないのでファンタジーとは明確に異なっている。タイトルにもあるように、虫けらのような群れる霊(のようなもの)の冒険譚ととりあえずは言うことはできるかもしれないが、冒険という言葉から想像できるような物語性は強烈に拒絶されている。まあ、なんとも訳がわからない小説なのだ。
訳がわからない小説なので間口は決して広くない。いや、極端に狭い、読む者を選ぶと言っても差し支えないだろう。しかし、猛スピードで流れ、去って行くイメージの奔流に流されるうちに、まるで麻薬でも打たれたかのような気持ちになってくる。もちろん、実際に麻薬を打ったことなどないのでこれは飽くまでも比喩に過ぎないのだが、そうとでも言うしか無い独特なものがこの小説にはある。そう、敢えて言うなら、読む麻薬、と。
稲垣足穂の『一千一秒物語』が少しばかりこの小説と似ている、類似点があると言えるかもしれない。硬質な、生硬なイメージと言葉遣い、星や空が重要な要素となっているところは、両者の共通点とも言える。違いは、『一千一秒物語』の方がずっと物語性があり、イメージに具体性があることだ。物語性の欠如やイメージの抽象性が特徴とされ賞賛されもする稲垣足穂よりも、これらを欠いた比類の無い小説。
とても売れるとは思えない本なので、絶版、版元切れになる前に書店に駆け込むべし!
灰者 (Young jump comics ultra)
2019/12/10 21:54
銃夢とは違う、もう一つの木城ゆきと
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
木城ゆきとと言えば、『銃夢』をさまざまなバージョンで書き続けている、とびきり画力のあるマンガ家として有名だが、『灰者』は木城ゆきとの画力を別な側面からまざまざと感じさせてくれる作品だ。
SF好き(と思われる)木城ゆきとらしく、『灰者』もSF仕立ての作品だけれど、『銃夢』で展開しているようないわゆるハードSF的なものではなく、設定こそSFであるもののどちらかと言えば現代(実在)ドラマに近い。
短い作品なので、『銃夢』のような目くるめく世界観やガジェットは余り出てこないが、『銃夢』とは全く異なったタッチの、でも紛れもなく木城ゆきとを感じさせてくれる絵柄を愉しむのがこの作品の良い読み方だと思う。
悲しみを聴く石
2019/12/10 21:47
瞠目すべき小説
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
アフガニスタン国籍のイラン系の作家が、フランス語で書いた作品。フランスの有名な文学賞であるゴンクール賞を受賞したらしいが、そのことが充分に納得できる素晴らしい作品だった。
戦場となった街の廃屋で、どうやら戦闘によって傷つき植物人間状態になった夫を介抱する妻の視点から淡々と物語が語られる。最期の最後でちょっとしたオチのようなものがあるけれど、この作品の素晴らしさはそんなオチや悲惨なアフガニスタンの国情にあるのではなく、語られる言葉の強度にこそある。
作者のラヒーミーは、サミュエル・ベケットとマルグリット・デュラスに影響を受けたらしいが、確かにのこ二人の作風と似ていないとは言えない静謐なムードを醸し出しているが、一方でこの二人を含めて誰にも似ていない独自性のある作品に仕上がっている。比喩を余り用いることなく、比較的短い文章で淡々と語り続ける語り口で、書かれた言葉を読んでいるだけで小説(言葉)を読むことの素晴らしさを感じさせてくれる。
いわゆる越境作家に類する作家なので、今後作品を書き続ければノーベル文学賞も夢ではないと感じさせてくれた作家、作品だった。
灰と土
2019/12/10 21:31
「あなた」が語る物語
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
『悲しみを聴く石』が非常によかったので続けて読んだ作品。フランス語で書かれた『悲しみを聴く石』とは異なり、それ以前に書かれたこの本は、彼の母語であるイラン語で書かれているらしい。ただし、この翻訳の成り立ちはちょっと複雑で、元々イラン語で書かれた原著を、作者とフランス語の翻訳者とで協力してフランス語訳されたものをベースに、作者が改めてイラン語で書き直した、いわば第三版がこの翻訳の原著となっているとのこと。
作品の質というか好みとしては『悲しみを聴く石』の方が優れていると思うが、この作品もミシェル・ビュトールの『心変わり』が嚆矢と言われている二人称(この作品では「あなた」)が語り手となっており、それが作品に良い意味で趣を与えている。
物語自体は、村が内戦の被害に遭い、そのことを息子に伝えに行く老人の言行を内的独白風に語られたミニマルなもの。内的独白調とは行っても、語り手は「あなた」なのでそのことが独特なムードを醸し出している。
二人称のを語り手とする小説は『心変わり』を筆頭に、倉橋由美子の『暗い旅』とか、最近では多和田葉子の『容疑者の夜行列車』などがあるけれど、もしかしたら『灰と土』が一番成功しているかもしれない。そんな風に感じさせてくれた優れた作品だった。
ようこそ量子 量子コンピュータはなぜ注目されているのか
2020/05/25 14:07
量子コンピュータ入門としては最適な本では?
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
量子コンピュータと言うものはともかくわかりにくい。「サルでもわかる」的な入門書も出ていて、実際に読んでみたけど量子論のキモであろう「もつれ」や「スピン」の部分でいつも撃沈してしまう。評者は数学や物理学の素養はもちろんのこと、基本的な知識すら覚束ないのでこれは当然と言えば当然のことなのだが、それにしても量子コンピュータの概論の類はわけのわからないことだらけなので、入門書の論じ方にも原因はあるのではないかと自己弁護したくなる。
それに対して、本書の論じ方は類書に較べると非常に解りやすい。入門書と言うより啓蒙書と言った方が良いほど簡易かつ丁寧に書かれているのでそう感じるのもこれまた当然だとは思うが、コンピュータの原理・・・ノイマン型コンピュータと言われる現今のコンピュータの動作原理から説き始めていることがわかり易さの最大の理由ではないだろうか。
量子コンピュータというと、なにやら訳のわからないけどこれまでのコンピュータとは全く異なる原理と論理で動作する夢の、理想の電子頭脳といった感じで語られることが多いが、これはAIに対する幻想・・・過大評価と同じく必ずしも実態に即したものではない。量子コンピュータと言っても、ノイマン型のコンピュータが逐次処理しかできないのに対して膨大な同時並行処理を行うことができるとしても、所詮はあるアルゴリズムを膨大かつ高速に処理するだけものもであって、人間の「知性」を代行、代用してくれるような代物ではないのだ。
この、「(これまでのコンピュータと比して)膨大かつ高速」ということは決して軽視できない重要かつ重大なことではある。が、その適用範囲や限界をきちんと認識しないと、かつての第五世代コンピュータ騒ぎと同じ事態に陥ってしまうだろう。このような観点からも、ノイマン型コンピュータの動作原理から書き起こしている本書は、量子コンピュータの入門書として優れているように思う。
最後の艦上戦闘機烈風 ゼロ戦後継機の悲運
2019/12/10 23:19
大日本帝国軍機のアウトラインを知ることができる良書
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
軍記物や飛行機マニアでなければ烈風の名前を知らない人が大多数だろう。それもそのはず。先の大戦の末期に戦局を挽回できるかもしれないとようやっと注目されることにはなったものの、結局戦争終了まで完成することがなかったまさに「悲運」の戦闘機だからだ。
同様に末期に登場しして期待以上の活躍をした局地戦闘機(いわゆる迎撃機)である紫電改は漫画「紫電改のタカ」の「主人公」として戦後にも脚光を浴びることになったし、完成はしなかったもののドイツから密かに運ばれた概要設計図だけを頼りに試験飛行まで辿り着いたロケット戦闘機・秋水もその偉業はしばしば口にされる。設計思想といい性能や仕様と言い、同時期のアメリカ軍機に負けずとも劣らずだったにもかかわらず「名機零戦」の影に隠れたままになっている烈風は、まさに悲劇の軍機と言えるだろう。
映画『風立ちぬ』を始め、零戦をテーマにして書物は多数あれど、烈風を主題として本は非常に少ないので、この観点からも本書は非常に価値があると思う。だが、それ以上に本書は零戦以前の各種の試飛(試験飛行機)の歴史から書き始められているので、大日本帝国海軍の戦闘機の歴史を辿るうえで、非常に資料性の高い本だと思う。
小説ドラマ
2018/06/20 11:18
最先鋭な前衛的小説
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
今では伝統的な作法に則った小説を書いているフィリップ・ソレルスが、最も尖っていた頃に書いた実験的な前衛小説。
「彼」と「私」が語り手となるパラフレーズが交互に展開され、「彼」の語り口は主観的で「私」は客観的に描写される倒錯的な手法が用いられている。物語の筋らしいものがないため、上記の構造と相俟って多くの人はたちまち眠気に襲われてしまうだろう、とは思う。
でも、語りの構造を充分に脳裏に埋め込んだ上で、語りから立ち上る「物語」を読者自身が自ら構成し、ソレルスならではの詩的イメージに流されながら読み続けていけば、他のどんな小説でも味わえない感興を感じることができると思う。
1960年代にフランスで勃興し隆盛を極めたヌーヴォー・ロマンは数多くの実験的な作品を生み出しはしたものの、70年代にはそれが単なる流行に過ぎなかったかのように急激に退潮し、やや遅れて一斉に開花したラテン・アメリカ文学に「前衛」の旗印を一気に奪われてしまった。
確かに今になって思えば、前衛的技法のみが先行してしまった感が大きかったヌーヴォー・ロマンではあったが、伝統的な文学をひとまず疑うという姿勢は、ラテン・アメリカ文学の作家の一部にも影響を及ぼしたし、本国フランスにおいてもル・クレジオという才能を生み出す土壌を作り得たと思う。いや、単なる過去への回顧と言うだけではなく、この『ドラマ』や緻密な描写を積み重ねることのよって言葉そのものの重みを体現させたロブ・グリエの『消しゴム』、二人称の「きみ(tu)」の語りにより「作者(小説を書く私)」を顕現させたミシェル・ビュートールの『心変わり』など、今でも文学的な価値を失ってはいない作品を生み出し得たと言う点において、打ち捨てられた異物として忘れ去ってしまえるものではないだろう。
鳥の脳力を探る 道具を自作し持ち歩くカラス、シャガールとゴッホを見分けるハト
2018/06/20 13:42
あっさりし過ぎ
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
鳥を「三歩歩けば忘れてしまう」劣った能力(脳力)の動物ではなく、想像以上の能力を持っていることを様々な事例を元に紹介しているが、いかんせん説明が表面的で浅すぎる。
「へぇ〜、鳥って意外に凄いんだな」と言う程度の感想を感じるだけならこの程度の書き方でも良いのかもしれないが、実際には鳥はこの本で書かれている以上の能力や可能性を持っているので、この本で鳥類に興味を感じた人がいたら渡辺茂著『鳥脳力ー小さな頭に秘められた驚異の能力』(DOJIN選書32)や『さえずり言語起源論ー小鳥の歌からヒトの言葉へ』(岩波科学ライブラリー176/絶対に改訂版のオンデマンド版にすること)に読み進めるのが良いだろう。
全集樋口一葉 復刻版 1 小説編 1
2018/06/19 15:44
会話の「」添え、改行がされています
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
詳細で読みやすい註が施されているのはとても良いのだけれど、読みやすさを狙って、会話を「」書きしたり、文意が変わる(と編者が考えた)部分で改行が成されているのは大いに興ざめ。一葉の素晴らしさの一つは、地の文と会話とが分け隔てなく綴られへんげしていくことにあるのだから、こうした処置はお節介以外のなにものでもない。
やはり、一葉のような作品は、旧字旧仮名使いで、一葉が書いた通りに読むのがふさわしい。