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中村びわさんのレビュー一覧

投稿者:中村びわ

491 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本仙台ぐらし

2012/03/28 18:14

ブルーハーツの歌詞に倣うわけではないけれど、「この地震でへこたれるために、今まで生きてきたわけではないのだ」と自分自身に言い聞かせている(P144-145)/あまり無理せず、遠回りをしてもいいから、史上最大の復興を進んでいくんだ(P159)

19人中、17人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 文字組のゆったりした200ページほどの本で、サクサクと読みやすい。半ばぐらいまでは、売れっ子作家の日々の生活が軽妙に書かれたエッセイ。いちおうは、エッセイ。エッセイに見せかけた作り話を意図して書き始められたものらしいけれども……。

 仙台は、そこそこに文化や品もの、施設の整った便利な街であり、人混みをはじめとする都市問題があまり気にならない住みよさげな街である。その土地で、仕事場代わりにしているカフェをどう渡り歩きつつ執筆してきたか、タクシーの運転士さんたち(伊坂さんは「運転手」と書いていて、それでいいのだと思う)からどのような世間話を聞き出したか、実際の読者や、作家が読者だと早とちりした人たちと、どういうやりとりをしたかなどが、情景が目に浮かぶように分かりやすく、ほのぼのしたタッチで書かれている。ストレスない読書で、とてもなごませられる感じ。

 しかし、半ばを過ぎたあたりから、「ああ、こういう調子は悪くないんだけれど、こういうのに付き合うために買った本じゃないんだよね」などと考え出してしまう。つまり被災地となってしまった仙台というところに注目して買って読み始めた本なのだから、ということだ。
 住環境の良さそうな地方都市なら他にもないわけではなく、大地震の続いた日々から1年が経ってしまい、「今の仙台」は明らかに「昔の仙台」とは違う、私の中では……。そうなった今、「昔の仙台の話ばかり長くても、求めているものが違うのよ」と思えてしまう。
 勝手なもので、被災地には「被災地らしさ」を求める仕組みが、被害の外にいた人間の意識の中にはできてしまったのだ。「何て粗末な思考回路」と、情けなくも心外な発見に驚く。

 実は、半ば過ぎまでのエッセイは、「タクシーが多すぎる」「見知らぬ知人が多すぎる」「消えるお店が多すぎる」というように「○○が多すぎる」というユーモラスな見出しがつけられた雑誌向けの連載だったということ。そもそも評判が良かったエッセイをまとめて出すはずだった『仙台ぐらし』――もし、そのように出されていたのなら、伊坂幸太郎作品を一つも読んでいない私のような場違い者が、こうして『仙台ぐらし』を読む機会もなかったはずで、それが本の運命として良かったのか、良くないことだったのか。

 それはさて置き、伊坂氏の「くらし」の日々には、「震災後」という大きな要素が否応なく入り込んでしまった。家族の身を案じ、余震に怯え、電気やガス、水道といったインフラの復旧まで不便をがまんし、復興のために尽力する知人たちと励まし合い、といった要素だ。
 「被災地に住んでいる作家だから」「震災を経験した文化人なのだから」ということで、媒体で企画を担当する人たちがそれに注目しないわけはなかったろう。震災がらみのエッセイが乞われ、いくつか書かれた。ありていに言ってしまえば、「3・11」の前と後のエッセイということになる。ただ、震災の影響について、作家は、こと細かに説明しやしない。

 ところが、140ページぐらいまで書かれた「サクサクした軽妙なエッセイ」が、20ページ足らず分、集められた震災後のエッセイによって、一変してしまう。がらり違う印象のものに化けてしまった。さまざまな媒体が依頼したものだから字数に差があるのは当然だが、字数だけのせいではなく震災後の文章は、どこか寡黙、どこか簡素だ。
 震災前のものだって決して饒舌だったり無駄な表現があったりするわけではないのに、「どうしても、これだけは書いて残しておかなくては……」「残すことが、復興という再創造の前にきちんと行われるべきだ」というような強い思いが、エッセンスとして伝わってくる。そのエッセンスの20ページがよりしっかり認識されるためにこそ、前段のサクサクした文章がなくてはならなかったかのようだ。

 『仙台ぐらし』の出版物としての非凡さは、エッセイのあとに、さらに短編小説が収められている点である。よく見れば、帯に「書き下ろし短編」とあったのだが、エッセイを読み終えたところで出てきた小説に遭遇し、「何という本だろう」と驚いた。そして、読んでみて、被災地を回る移動図書館車両に乗り組むボランティアたちのことを書いた小説なのに、ちょっと聞けば不謹慎にも思われる意外な要素が組み合わされた内容で、再び驚かされる。
 エンタメと言ってしまえば、その言い方の軽さに恐縮してしまうが、この場所で何という堂々のエンターテイメントなのだろう!

 多くの犠牲者が出て、家族や仕事、家を失った人が大勢出て、これから何十年も悩み続けていかなくてはならない放射能の被害もいまだ拡大していく状況の中、「小説や文学にいったい何ができるのか」というテーゼが、物書く人の内面には常にあったことだろう。
 『仙台ぐらし』の背後に隠された不断の葛藤と、葛藤の中から慎重に選び取られた言葉で縫った文章との間の果てしなく長い距離。そこに何かを感じ取るため、できるだけ多くの人がこの本を手に取ることを願う。

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紙の本渚にて 人類最後の日

2009/06/24 13:51

核戦争で北半球が壊滅し、放射能の汚染が徐々に南へも広まっていく。その危機的状況の中で、鱒釣りに出かける人、ヴィンテージカーのレースに参戦する人、草上で家族と語らう人、友人と酒をくみ交わす人、任務を全うしようとする人。自分らしくあるための各々の選択が胸に響く。

17人中、16人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『渚にて』は古臭いSF小説だ。携帯電話もPCも普及していない時代に起きた、核兵器による世界終末戦争の後日談なんぞを描いた物語だからである。
 しかし、『渚にて』は決して古びない小説だ。それは、家族や友人を大切に思ったことのある人、住んでいる場所や出かけて行った土地の素晴らしさを感じたことのある人、食べ物をおいしいと思い、買った物に満足を感じ、仕事の大変さのあとでのびのび過ごせる自由時間に有難さを抱いたことのある人ならば誰もがよく分かる「何げない人としての喜び」を、世界の終末のなかに淡々と綴った物語だからである。
 これから四五百年ののち、人類が知性のある友好的な宇宙人に出くわすことができたなら、私たちはこの本を翻訳して、自己紹介代わりに手渡すと良いかもしれない。

 「古典」と言われるものは、一般的に「100年品質」を指すのだろうが、それを考えるとSFというのは例外的なジャンルだ。登場人物たちが携帯電話どころかパソコンを用いていないとなれば、科学技術的にそれはもう前近代的とも言えるだろう。10年、20年前に書かれたものでさえ、当時の技術発達程度を少しは心得ながら読まないと楽しめないこともある。
 通信や交通の発達において特に、人類史上これほど変化が急激な時代はなかった。そう言われるここ20年ばかりの間で、どういうガジェットを用いれば末長く読んでもらえる作品が書けるのか、作家の知恵がより厳しく問われるようになったのではないだろうか。
 また、世界がイデオロギーで東西に分かれ、核兵器や宇宙開発で牽制し合いながら覇権を争っていたという時代も、SFジャンルの好むものであったようだが、今の若者たちにはぴんと来ない。世紀が変わる前あたりから、イデオロギーの差ではなく経済格差のある南北の国々が共に手を携え、地球環境を破壊して行く仮想敵に立ち向かわなくてはならなくなった。よって核兵器を利用した世界終末戦争物の小説はひっくるめて、50年を待たずして堂々の古典と化してしまったとも言えよう。
 もっとも、ここ最近に来て再び、「核による世界の終末」というイメージは、私たち日本人にとって他人事ではなくなってきている。すぐお隣に住む手のつけられない狼藉者が、どうやら最後に一滴だけ残されているらしい理性の雫をこぼしでもしたら、「もうあと数時間」「もうあと数日」の日常が残されるだけという状況を覚悟しなくてはならないことも起こり得る。

 完全新訳だが、原書が出版されたのは1957年だと言う。
 ソ連が不凍港を求め、上海への南下を目的に中国に水爆を仕掛け、中ソ間の核戦争が欧米や中東、エジプトへと飛び火して行ったという設定。インターネットで映像を発信できる個人も組織もなく、北半球で起こった戦争の全容も、壊滅的状況についても南半球へ情報は伝わらなかったという設定。高濃度の放射能を避け、南半球の島からオーストラリア海軍に助けを求めた米国海軍の原子力潜水艦<スコーピオン>が、どうもコンピュータで操縦や制御がされていそうではなく、通信にも無線電信を用いているという設定。
 50年前の世界情勢の設定も科学技術の設定も、今読むのに「前提」としては明らかに通用するものではない。したがって、ある程度の歴史的知識を持った読者でなければ、この空想世界の現実感は伝わってこないというハンデがある。つまり50年前の過去に身を置きながら、現代とは異なる空想の未来を透視するという離れ業が要求されるのである。この小説を読んでいる時の不思議な感覚の第一は、そういう読み方の中にある。

 では不思議の第二は何であるかというと、そちらは時代性には左右されない要素で、小説世界の住人たちの事態の受け止め方と限りある日々の過ごし方である。
 北半球のどことも連絡が取れず、生物がすべて死滅したらしいことが分かっている。ただ時々思い出したように、北半球のある地点から無線の発信が確認される。高濃度の放射能は、徐々に南半球にも押し流されてきている。
 その前線が迫る状況で、オーストラリアの人々、米国や英国の海軍関係者が最後の日々をどう過ごすのかが丁寧に描かれる。オーストラリアののどかな土地柄のためなのか、北半球の壊滅やせまりくる放射能の悲劇があまりにも非現実的であるためなのか、人々の生活はパニックとは無縁で、原油の輸入が止まってしまったということもあり、馬車を利用するような何十年か昔の牧歌的な状態に巻き戻されている。
 そのようなゆったりとした流れの中、オーストラリア海軍士官ホームズは潜水艦<スコーピオン>での連絡任務をこなす。列車と自転車で通勤をして妻と赤ん坊と過ごす時間を確保し、買い物をしたり庭の手入れをしたりする。
 <スコーピオン>艦長としての任務を遂行し続けるタワーズ大佐は、故国アメリカに残してきた家族の元へ早く戻りたいと思いつつ、オーストラリアでの日々を退屈しないで過ごせるようにとホームズから気遣いを受ける。ホームズ家近所の牧場主の娘モイラを紹介され、オフタイムを紳士的に楽しむ。
 特殊な状況下だからこそ結ばれた人間関係を大切にし、狂気に陥ることなく自然体で良き日々を送っていこうという姿勢に、「最期の日々なのに、この穏やかさは何なのか」という不思議さを感じつつ、それでも、こういうものであってほしいという願いを持ってページを繰る。だが、この穏やかさの中で、いざという時のための準備と覚悟が地道に進められていく。

 タワーズ大佐やホームズの高潔さも忘れ難いが、そう重要ではない登場人物であるモイラの父のエピソードが心に残った。彼は、飼っている肉牛の方が人間より放射能への耐性が強いかもしれないと知り、自分の死後のエサやりの心配をする。人が乾草の俵のかたまりをほぐしてやらないと牛がうまく食べられない。それをどうすべきかをタワーズ大佐に相談するのである。
 世界終末物というSFジャンルでありながら、潜水艦をめぐる冒険的要素もあり海洋小説としての要素もあり、そして、それぞれが下す選択にヒューマニズム小説としての感動がある。
 帯にある小松左京氏の「21世紀を生きる若者たちに、ぜひ読んでほしい作品だ」という言葉、小さくても原画の壮麗さが窺える表紙装画、「われらこの終(つい)なる集いの地にて」で始まる、どこか典雅なエリオットの巻頭の言葉などに誘われるまま静かな渚に最後に辿りついたとき、感動の余韻のうちに、自分らしい選択とはどういうものなのかが問われる。

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紙の本ふたりはともだち

2001/02/27 21:15

「きみがいるからぼくがいる!」−−2匹のかえるが教えてくれるかけがのないもののこと。

15人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 全部で4冊ある「かえるくんとがまくん」のシリーズの1巻めに当たります。でも、4冊を順番どおりに読んでいく必要はありません。1冊につき五つずつ収められているお話は、いずれも独立して完結しており、相互に関連していませんから、どれか一つだけ読んでも十分に楽しむことができます。

 どのお話を取っても、かえるくんとがまくんの対話や行動がユーモラスで、あるものはじんとくる。「いいなあ、いいなあ、こういうのっていいなあ」と温かく伝わってくるもので胸が潤います。作家の作為がまったく感じられません。つじつまを合わせるために作られたのでもなく、「こう書けば受けるだろう」というようなあざとさが微塵もない童話なのです。

 あるがままを素直に受けとめ、思ったとおりに言葉を発した幼いころの自然な姿が、そのままお話としてまとめられたという印象です。詩人の三木卓さんによる優しく軽快な響きの訳を得て、いつまでも生き生きとして古びることのないロングセラーです。

 ここに収められたのは、春になったのにいつまでも冬眠しようとするずぼらながまくんを外へ誘いだすため、カレンダーを一枚多めに破いてしまうかえるくんのいたずらを描いた「はるがきた」。

 病気になったかえるくんを寝かせてお話をしてあげようとしたら、お話が思いつかずに逆立ちしたり頭を壁にぶつけたりするうち、自分が病気になってしまうがまくんの「おはなし」。

 3話めの「なくしたボタン」では、がまくんが、かえるくんと一緒に、どこかに落とした上着のボタンをさがして動物たちに聞いてまわるけれど、色がちがっていたり、穴の数がちがっていたり、形がちがっていたりでかんしゃくを起こします。家に帰ってボタンを見つけたとき、かえるくんに面倒をかけたことを反省して、素敵なお礼を考えます。

 4話めは「すいえい」。かえるくんに隠れて水着に着替えたがまくんは、それがおかしなかっこうだと知っているので、水に入ったっきり出てきません。あんまり「おかしい」「おかしい」というので、動物たちが集まってきます。皆が見守るなか、寒さにたえきれず水から出て、大笑いされてしまいます。

 最後の「おてがみ」は、国語の教科書にも採択されたお話。手紙をもらったことのないがまくんに、かえるくんが手紙を書いてあげますが、それをかたつむりくんに届けてもらうことにしたのが失敗。がまくんの家で待てども待てどもやってこないので、先に中身をしゃべってしまいます。
「ぼくは きみが ぼくの しんゆうで あることを うれしく おもいます」

 思いやりに満ちた2匹の対話の口まねを、小さな息子がよくしています。言葉の言いまわしを覚えようとしている4、5歳ぐらいからの読み聞かせに最適。なごみたい本がほしい人にも!

 黒、緑、茶の3色印刷がシックで、2匹がすむ世界を表現するのにぴったり。原書では、真っ白の紙が使われていますが、この日本版の用紙はアイボリー。品の良い装丁に仕上がっています。

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紙の本キンダートランスポートの少女

2008/08/14 15:34

第二次世界大戦前夜、心ある人びとによって組織された、ナチス迫害を避けるための「子供の輸送」――その体験者が日記や手紙を元に書き起こした生々しい手記。

13人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「キンダートランスポート(子供の輸送)」とは馴染みない言葉だが、第二次世界大戦前夜の数ヶ月にわたり、ナチスの迫害を避けるため、ドイツ・オーストリア・チェコの10000人のユダヤ人や反ナチの家庭の子供たちが英国の家庭に預けられるために送られた活動である。移送された子供たちは収容所に送られる惨事をまぬがれ命を取りとめた。しかし、彼らの父母や親族のほとんどは収容所で殺害され、頼る身寄りを失って孤児となった子供たちは、異郷の地で生きていく運命をたどることとなった。
 ナチスの迫害からユダヤ人を助けた義人というと、スピルバーグ(ユダヤ系米国人)が映画化したオスカー・シンドラーが有名である。ドイツの事業家であった彼はチェコスロバキアの出身で、私財をなげうち命を賭けて1200人のユダヤ人を救出することに成功した。
 本書の著者ヴェラ・ギッシングの恩人であり、チェコスロバキアからのキンダートランスポート活動の中心人物となったのは英国在住のドイツ系ユダヤ人ニコラス・ウィントンである。29歳の株仲買人であった彼は、休暇を取ろうと訪れたプラハで、ナチスのチェコ侵入時に備えて迫害を受けそうな人の援助活動をしていた人物と知り合う。そして、まだチェコ国内で組織的に運営されていなかったキンダートランスポートに取り組み始めた。国外退避を希望する子供たちの書類と写真を揃え、それを英国に持ち帰って里親を決めてから、受け入れを手配したのである。
 とりあえず難民のような状態でひっくるめて移送して受け入れるというような形でもなく、また、日本の疎開のように、それぞれのつてをたどっての退避という形でもないのがキンダートランスポートの特徴と言える。急な展開に備える必要もあって決して悠長ではいられなかった時代だろうが、送られる子供たちにとっても、受け入れる里親たちにとっても、少しでも良い出会いを……と心掛ける余裕と配慮があった活動ではないかと見受けられる。

 ヴェラ・ギッシングは、村人どうしが皆顔見知りのプラハ近郊の小さくて穏やかな村で、チェコスロバキア人であることを誇りに、幸せな子供時代を送っていた。酒類の製造や貿易を営む裕福な家庭に育ったが、父親が、ドイツ軍侵攻の折、ドイツ語の強制を拒んだために理不尽な侮辱を受けたことで、事態の深刻さが一家に認識されたのだ。身内からキンダートランスポートの情報を得た母親が、すぐにその手続きを取る。
 自分たちに起こり得る身の危険を察知して、せめて子供たちだけが助かるようにと外国へ逃れさせる――この親の決断と思いが大きなポイントだ。なぜなら、「子供たちと少しでも一緒にいたい」「子供だけで外国に出すなど大丈夫か」といった迷いがあれば、ヴェラたちの命はなかったわけである。それにしても、何ともむごい決断をさせられたものであろうか。
 姉とは別の家庭に引き取られ、祖国での出来事の報道を聞きながら両親の身を案じ、チェコスロバキアでの家族揃っての楽しい日々を懐かしんで寂しい思いをしなからも、ヴェラは英国で、温かな人びとと交わり、自然に恵まれた場所で遊ぶ機会もあり、また、向上心にふさわしい教育も受ける。
 しかし、ようやく戦争が終結したとき、母親がテレジーン収容所に送られる直前に書いたという手紙を叔母から受け取った彼女は、「お母さんといっしょにいればよかったんだわ」と口にして、叔母に強く非難される。
――「あなたが子供区画にいて、青白い顔をして飢えと脅えのなかで生きていたら、どんなにお母さんにとってつらいか想像できる? テレジーンでさえ、耐えきれないでしょうよ。毎朝目が覚めれば、今日、私の子供は殺されるために選ばれるのか、それとももう少し猶予されるのかと考えるのよ。……」(中略)
「あなたたちが安全なところにいたことが、お父さんとお母さんの唯一の心のよりどころであり、喜びであって、毎晩そのことを神様に感謝していたのよ。けっして、このことを忘れないでね、いつまでも。」(P236)
 ギッシングを救ったウィントンは700人ほどのチェコスロバキアの子供たちをキンダートランスポートで移送したということだが、成長した彼らの家族の広がりは5000人以上になっているという。

 この題材を扱ったドイツの文学作品を読んだことがある。幼い頃の記憶が定かでない語り手が記憶をたどる旅をしていく。そこでキンダートランスポートという事実が徐々に明らかにされていくという展開なので、題名は明らかにしない方がよかろう。ノーベル賞候補とも言われ、57歳で亡くなったW・G・ゼーバルトの小説である。この小説の語り手は、移送の行われた1939年に、まだ5歳であったという設定だったが、『キンダートランスポートの少女』であったヴェラ・ギッシングは10歳になっており、姉のエヴァ14歳とともにチェコから英国に向かった。手元に残る日記や手紙を元に、当時を知る人びとの話もまとめて、この手記を形にしたのである。
 彼女のような国外退避の経験を持つ人びとが、その事実を語り始めたのは1980年代半ばになってからだという。ギッシングを含むグループが、チェコ人の子供たちのためウェールズの小さな村に作られた学校に通ったメンバーに連絡を取り、同窓会を開いて再会しようということになった。それを機に、社会にこの事実を伝えていこうという取り組みが始まったというのである。戦後40年にしてようやく重い口を開けることにしたキンダートランスポート経験者たちの「改変されてしまった過去」への思いが、ドイツ生まれで英国に定住し、ユダヤ人の多く暮らすマンチェスターの大学で文学を修めたゼーバルトにとって、大きく響いたのだろう。

 キンダートランスポートについては、日本での疎開と比べられながら、ヤング・アダルトの体裁でこれから紹介が進んでいくと良い。戦争体験を語り伝える地道な取り組みの成果は、語られる若い世代の者たちが、いかに自分の生活に重ねて、それが異常で理不尽なものなのかを実感できるかどうかにかかっている。その実感があってこそ初めて、「伝える」という務めが完了したと言えるのではないだろうか。



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紙の本神を見た犬

2007/06/01 11:54

全国の中学・高校の図書館に忘れず常備せよ——と思わず言いたくなるような……。文学の面白さを教えてくれる、イタリア幻想文学巨匠の質高い短篇集。

13人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

  「もう少したったら、我が子がこういうものを読んでくれないかな」と感じさせられる本だった。そうは言っても小学6年生の息子はおバカで、まだ精神年齢が幼いため、中学3年あたりまで待たなくてはならないだろう。本書は別にヤング・アダルト向けの作品集として作られているわけではなし、簡潔で分かりよい文で物語が進められていきこそすれ、一般的な文学作品としての水準は極めて高い。
 ブッツァーティという幻想文学作家、日本ではあまりなじみがないが、生前よくカフカにたとえられていたらしい。もっとも本人は、その評価を決して有難くは受け止めておらず、カフカのことを「一生背負わなければならない十字架」と考えていたと解説にある。「現実世界の不条理」を寓話的な手法により表現した点がカフカに比される理由なのだろう。そこに超常的な不可思議や神秘性が加わる。また、SF味が加わることもある。カフカにも、そういう面がある。そしてカフカ同様、独自性ある作品宇宙の広がりを持つがため、その時代の文学の本流とは違う場所で書かれていたことも、通じ合うものがある証しなのだろう。時代の流れに左右されないがために「奇異」と見なされるのは、確固とした個性がどの時代においても辿る、避けられない運命なのである。
 しかし、せっかく読書体験を味わうのに、日常を追認していくだけではもったいなさすぎる。自分の日常の延長世界が書かれたような本を読み、「うん。この人、なかなか分かってくれているよね。その通りなんだよね」とうなずくだけでは世界は広がらない。もちろんそうした行為で日常的自信を補強していくことは大切だが、より深く物事を考え、よりよい判断をしていくために、内面世界の広がりや深みを耕していくことは必要なはずである。思いもよらなかった物の見方、日常からかけ離れたところにある価値観を提示してみせてくれる作品の「個性」は、変わったものとして遠ざけるのではなく、珍重するでもなく、出会いとして歓迎するものなのではないか。
 22篇も収まっていれば、完成度にかなりのばらつきがありそうだが、バリエーションのばらつきはあっても、アイデアが卓抜しているところ、それを巧みに現実世界との接点を設けながら書いて、読み手を身につまされる気分にさせてしまうところが徹底している。
 22篇のうち12篇はすでに訳されたことがあるそうで、私も『石の幻影』(河出書房新社)という単行本で「コロンブレ」「1980年の教訓」「驕らぬ心」の3篇を読んだことがあるが、再読であっても、そのアイデアに再び感心させられ、いやむしろ新鮮な気分でその見事さをより強く印象づけられた。
「コロンブレ」は、一度ねらった獲物を生涯追いつづけると言われている海獣につけ回される男の話。ページ数はわずか12。つけ狙われてずっと怯えて過ごした運命の終わりに、大きな皮肉が待っている。
「1980年の教訓」は、毎週同じ曜日、同じ時刻に世界の要人に異変が起こる設定。イタリア民話にもあるような「くりかえし話」のリズムに呑まれて読めば、この世の何たるかを考えさせる終息が訪れる。
「驕らぬ心」は、都会の荒野の片隅に住む修道士の元をたまに訪れる聖職者の話。これもくりかえし話のようになっていて、聖職者は決まって同じ告解をしにやってくるのだが、懺悔する罪そのものが「誠実さ」につながっている。
 「誠実さ」「意気」「善意」「誇り」「安らかさ」「希望」など、人間の意識のプラス要素が直接書かれず裏返しの形で表されるとき、そうしたものの真価に気づかされることを、1篇1篇が教えてくれる。

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紙の本わたしを離さないで

2006/05/12 00:19

「大きな小説」とすることを望まず、個人にとっての忘れがたい瞬間を慎重且つ繊細な手つきで大切に描き切る。大きな作家カズオ・イシグロの節度ある選択。

15人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「たましいが触れあう」というのは、そうしょっちゅうは一緒にいられない人、ある一定の距離を保った付き合いの人、あるいは二度と相まみえることのない人との間に一瞬の閃光のように去来する出来事だ。限られたわずかの人のなかには、その触れあいを生活のパートナーや仲間と分かち合いながら暮らしていける人もいるだろうが、慣れはおそらく触れあいを変質させる。良くも悪くも……。閃光のように瞬間にして感じる触れあいは、個人の生活や経歴を離脱したところ、虚空に浮く「疎通」である。「わたしはこの人と重なり合う背景は持っていないが、今確かに通じ合えた。『良い感じ』を分かち合えた」と確信できる瞬間。
 若いころ、旅先でよくそのような経験をした。たとえば、愚かにも預けたパスポートを忘れ、ホテルをチェックアウトしたことがある。若い娘ひとりで歩くにはちょっかいが多いイスラムの土地だ。バス停へ向かうわたしを追ってくれたフロント係は息せき切っていた。大げさに感謝を示すわたしに、彼は右手を胸に当て静かに軽いお辞儀をした。感極まったわたしも胸を鎮めそれに倣った。あとでそのホテルは日本の商社マンの常宿だと知る。紳士的なビジネスマンたちとの過去の交流への感謝もあり、わたしへ誠意を尽くしてくれたのだろう。地球の裏側で今も、名も知らない彼が確実な仕事をこなしている。そういう気がする。
 日本で生まれ、英国人として育った作家カズオ・イシグロは、ブッカー賞受賞後国際的な評価を高め、英米圏の文学を引っ張っていく存在となっている。その新作は、状況設定に科学技術に絡むものを取り込んだため、「イシグロがSFなのか」と意表を突く内容となった。だが、ここで扱われているのは、文学の題材としてはコンサーバティヴな「三角関係」である。三角関係ではあるが、書き尽くされたはずの題材を、こういう設定で新しい文学作品として書けるのかという驚きがあった。
 その1点だけを示して、この小説を称えることも可能であり、作家の今後に期待を寄せることもできる。今日的な文学の評価としては、妥当な方向性かもしれない。けれども、読み手1人ひとりが自分の読書体験のなかでの大切さを本小説に認めるとき、その中心にあるのは、上に書いた「たましいが触れあう」という喜び、幸福の瞬間がクライマックスにいくつか重要な要素として描かれたことなのかもしれない。作家特有の温かなまなざしと、情に流されない繊細で慎重な手つきにより……。
 描かれた人びとには、共有した過去がある。寄宿制の学園で多感な子ども時代を過ごした若い男女、彼らの生活を支えた保護的・指導的立場にあった女性たち。教え子たちの方には「生き方」を規定されているという悲劇があり、それは現代社会が向き合っている科学と倫理の問題にも抵触する。小説のなかで完結している小宇宙は、現代社会とは似て非なる社会の一部となっているが、実はその外に広がる全体はほとんど書かれていない。
 1人ひとりの喜びを大切に表現するとき、この小説は「大きな小説」と呼ばれるようになることを静かに拒んだのだろう。作家は、大きな小説や大きなSFならば背後にのぞかせておくべき「大きな宇宙」にはカーテンをかけてしまった。つまり、ヘールシャムという名の小宇宙である学園周辺の外に広がる「社会」、構造や制度、そこを支配する価値観について書く筆を留めてしまっている。
 もしかすると第二次世界大戦の戦勝国が違っていたらヘールシャムは
現行の社会により近しいものだったのかもしれない。大きな宇宙をもう少し書き込んでいけば、小説世界は読者をそのような想像へと運んでしまうのだろう。「大きな小説」を選択しなかった本作は、個人の内面に深く沿うことの方を尊重し、それにより読者とのあいだに閃光のような触れあいを期したのだろうか。

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紙の本クリスマスのてんし

2009/11/30 15:36

【コレクション向】【読みきかせ・幼児】地上に降りてきた10人の天使が、どういう働きをなしたのか――それを一つひとつ確かめていくうちに、ずらりと天使の顔が並んでいく美しい仕掛け絵本。

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 毎年12月25日が過ぎると、いっせいに書店の売場から撤去され、大量に出版社へと返品されていき、翌年まで倉庫に保管、あるいは見切りをつけられて断裁されてしまうクリスマス絵本。この時期だからこそ手に入れやすく、また、この時期だからこそ「どういう内容の本が出ているのか」が確かめられるということもあって、「クリスマスには絵本」という贈物ニーズの他にも、絵本ファンとして盛り上がっておかないと……という気にさせられます。
 それにしても、ありとあらゆるクリスマス絵本が出版されてきたなかで、「もう、さすがに『これは!』という絵本は出てこないだろう」「とっくに出つくしているはず。落ち穂拾いのはず」とタカをくくっていて、懐かしい1冊が復刊されるような出来事に満足を覚えている状況なのに、やはり毎年何かしら、気合い十分の絵本が送り込まれてくるのには感心させられます。
 今年は、本書におどろかされ、小おどりしました。

 見本があり、手に取って確認できれば、お小遣いのある人は思わず衝動買いしてしまうのではないでしょうか。「かわいらしく、よくできているなあ」と、ページをめくるたびに楽しくなる仕掛け絵本です。
 仕掛けと言っても、ポップアップのように飛び出してくるようなものではなく、折り返されたページを次々と広げていくと大きな絵になるというタイプのものでもなく、普通にめくっていけば済む、本の体裁をくずしてはいない形になっています。
 横長サイズのページの上の部分に、型抜きされた天使の肩から上のお顔がくっついており、セピア色で描かれた後頭部であった天使が、ページをめくると初めてそのお顔をカラーで見せるようになっています。それも1ページにつき1人ずつ現れ、10回めくって10人がずらり横並びになるようになっています。
 年配の人なら、「10人のインディアン」という歌を知っているのではないかと思います。アガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』では殺人の展開のために使われていましたが、♪1人、2人、3人来ました~♪という、ヤマハ音楽教室のオルガンで弾かされていた曲のノリをちょいと思い出させられました。
 ただし、10人の愛らしい天使たちが歌っているのは「きよしこのよる」です。本を読み終わって閉じると、裏表紙にあいた細長い窓から、10人の歌う天使のお顔が眺められます。

 お話の内容は、空から降りてきた天使たちが、どのような働きをしたかという紹介。1番目の天使は、おなかをすかせた動物たちに食べるものをやり、2番目の天使は、体が弱って孫にツリーを用意してやれない悲しそうなおばあさんにツリーを用意し、3番目の天使は、重い荷物に息をはずませているサンタクロースのおじいさんのプレゼント配りを手伝ってあげます。
 3番目にしてサンタクロースが出てきてしまうと、あとはどうなってしまうのかという感じもあるのですが、自然や外の出来事から始まって、徐々に家のなかへと目が向けられていくようになっています。
 10人の天使として話を進めてきましたが、9番目の天使のあとに、1人特別な存在が入ります。そして10番目の天使がろうそくに火をともし、クリスマスの夜に響く「きよしこのよる」で結ばれていくという流れになっています。

 仕掛けの見事さもさることながら、1882年ポーランド生まれ、ドイツのミュンヘンで絵を学び、多くの本作りにたずさわったというヴェンツ-ヴィエトールの絵の美しさが魅力的です。表紙の地色に代表されるヨーロッパの伝統色、デッサン力に裏打ちされた、輪郭のくっきりしたペンの線、それが的確に捉えた子どもたちの表情や仕草の愛らしさなど。これは、もしかすると、古い印刷の版から起こしたものなのか、古い時代のジンク版印刷のような風合いも趣きを添えています。見開きページの片方がセピアで、もう片方がカラーという構成も効果的です。
 初めにヨーロッパで刊行されたときも、同じような体裁だったのか、本の作りに興味は尽きませんが、おそらく最初の出版から何十年か経っているであろう21世紀の極東のこの冬、本書を手に取れたことの奇跡をことほがずにはいられません。

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紙の本ロシア文学の食卓

2009/02/24 17:42

「食」という人間の本能に関わる要素、そして民族の文化を構成する大切な要素を作家たちがどう描いたのか。それを確かめていくことが文学をより楽しく、より深く味わえるきっかけになると教えてくれる。迷いなく5つ★認定の優良ガイド本。

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「読みたくなる」「食べたくなる」、そして両者のバランスが程良く溶け合った美味しい読み物であった。滋養分もたっぷりだし、嬉しいことにお菓子もついていた。

 著者の沼野恭子さんは、新潮クレスト・ブックスで、ウリツカヤ『ソーネチカ』とクルコフ『ペンギンの憂鬱』というロシアの現代小説を訳していて、それが海外小説好きの間では評判になっていた。だから、「ロシア文学」と言っても、トルストイ、ドストエフスキー、ゴーゴリ、チェーホフ、プーシキンといった古典的な作家たちだけでなく、きっと広い範囲でロシアの文学作品に出てくる食べ物の話が拾われているに違いないと考え、題名を目にしたときに「絶対読もう」と思った。

 ところが、作品がよく網羅されているだけが特徴なのではなく、内容が実にふんだんで味わいが濃い。いや、食事ならば量が多く、味付けが濃いのでは迷惑千万なのであるが、文学案内ではそれらは歓迎すべきことだ。
「食事風景の描写を指摘して、それが作品全体にとってどういう場面なのかを解説しながら、食材や料理についても説明を加える」というような流れをイメージしていたが、それだけで終わるガイドブックではなかった。
 ロシア人の気質、ロシアの風俗、伝統、文化に地域性、宗教、思想、そして歴史といったものについての該博な知識を元に、作家たちの描いた食卓の風景が様々な切り口で分析されて行く。その分析のされ方が「文学を食の観点からちょっと楽しんでみましょうか」と相手の心が弾むように軽快に誘う姿勢である。その上、「あら、いつのまにか作品の本質にも触れちゃいましたね」という感じで評論に達している部分もある。

 ロシア語には縁がなくてテレビ「ロシア語会話」講師としての沼野さんを見たことがないが、テレビ番組でも大学の講義でも、おそらく説明が非常に分かり良いのではないかと思える。読む人にロシアの知識や取り上げている作品の読書体験などがなくても、どういうことについて語り、どういう捉え方をしてみると楽しめるのかが丁寧に書かれているからだ。
「あら、いつのまにか作品の本質にも触れちゃいましたね」的なノリは、文体全体から漂ってくる親切な感じ、かといって相手を甘えさせるようにではなく、自然に知の世界に足を運んできてくれることを期待するような雰囲気が可能にしているものだ。
 著者はロシア料理の本も出しているということだが、料理を作ってくれたり食事を一緒にしてくれたりする人はこのようであってほしいという好ましさが、内容への興味を一層盛り上げてくれている。

 さて、かんじんの内容だが、詩情と食欲にダイレクトに訴えてくるような口絵が8ページあって、「はじめに」というはしがきの後、章立てが「前菜」「スープ」「メイン料理」「サイドディッシュ」「デザート」「飲み物」と展開していく。後付けとして、紹介した作品の文献案内がついているのも便利で有難いことだ。
 実は、ゴーゴリ『死せる魂』のピロシキ、チェーホフ「おろかなフランス人」のブリヌィとイクラ、トルストイ『アンナ・カレーニナ』のフレンスブルグ産高級生牡蠣という豪華前菜の章に辿り着く前に、谷崎潤一郎『細雪』で登場するペリメニ・スープを扱ったはしがきのところで、早くも一食分の事足りたという気にさせられる満足感があった。
 四姉妹の次女の幸子が几帳面で清潔・正確を重んじるドイツ人一家と付き合いがあり、その一家の調理場についての記述が作中にある。そして四女・妙子はすべてに鷹揚で大雑把なところもあるロシア人一家と付き合いがあり、その一家との健啖な晩餐の様子が描かれている。2つの異なる国の人たちの気質の対比を、谷崎が2人の女性の性格に対応させて「食」に絡めて書いたのではないかと著者は言うのだ。「昭和の前半の話だが、神戸あたりだから華やかなお嬢さんたちは外国人とも交流があって」というぐらいの認識しかしないで私は読み流していたが、「そう読めるか」とびっくりさせられた。
 豊かな知識や経験だけではなく、洞察力と感性あってこそ読みこなしていける文脈というものが文学作品にはある。「食」という誰でもが興味を惹かれる要素に目を付け、それを要領よくまとめていっただけという本ではない。「食」という人間の本能に関わる要素、そして民族の文化を構成する大切な要素を作家たちがどう描いたのか。それを確かめていくことが、文学の持つ大きな価値を改めて認識することにつながると教えてくれる本であった。

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紙の本全国「一の宮」徹底ガイド

2008/08/14 17:03

江戸時代以前の各「国」を代表する神社、全国68ヶ所の案内書。その地域の歴史、風土、文化、産業などと密接に結びついた信仰が建物に表徴された「一の宮」の縁起、特徴がつかめる。

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 今も地名に「一宮」「二宮」「三宮」「四宮」といったものが多く残っているが、江戸時代以前にあった「国」――そのなかで、一番の格式を誇る神社が「一の宮」である。本書は全国に68ヶ所ある、その一の宮を網羅したガイドブックだ。一の宮の制度は1000年前にできたものらしい。ほとんどが一国に1ヶ所であるが、なかには覇権を競い合って並立、林立している国もあるという。また、京都の上賀茂と下鴨のようにセットになっている一の宮もある。
 歴史旅コンサルタントである筆者が言うことには、これを巡礼するというのは「一番簡単に始められることだが、一番やりがいがあること」――つまり、四国巡礼88ヶ所のお遍路ならば、現地まで飛行機で行き、途中車を利用して数週間でこなすことができるが、全国方々に散る一の宮巡礼であれば、1ヶ所めは自分の住む地域の神社に1時間でたどりつけたとしても、全国を回るには、かなりの手間や時間がいるだろうというのである。江戸時代に完全巡礼を成し遂げた橘三喜(みつよし)は20年かけたそうである。

 単なるガイドブックと異なるのは、祀られている神の名、所在地とアクセス、構えの写真などが分かるだけでなく、どういう縁起なのか、どういう特徴があるのかなどの説明が、簡潔ながら充実していることだ。よって、巡礼を始めるための目的でなくとも、ただ読んでいて面白い。
 先ほど挙げた京都・山城の上賀茂と下鴨、奈良・大和の大神(おおみわ)、多摩にある小野神社と武蔵一の宮の覇権を争う、さいたまの氷川神社、群馬・上野の貫前、栃木・下野に二つある日光二荒山と二荒山、都都古別(つつこわけ)と並立する陸奥の塩竈、福井・越前の気比、やはり居多(こた)と並立する新潟・越後の弥彦、広島・安芸の厳島。私の場合は、一の宮と意識しないで訪れたものも含めて、これだけにしかならず、今からの完全巡礼を志したとしても、とてもではないが、その達成は難しそうだ。
 しかし、どこかの地域へ行く機会があれば、なるべく一の宮を訪ねようとして行程を立てていけば、旅行計画の核になるものがあって良いかもしれない。出張であっても、お参りしておけば、何やら良い成果が期待できるかもしれない。
 記録がほしいという人向けには、「御朱印」もあると案内されている。専用の朱印帳を入手すれば、スタンプラリーよろしく貯めていけるというのである。達成できないラリーは自分の子孫に託すという手もある。
 余談だが、この夏も、都内のあちこちの駅で、キャラクターのついたスタンプ帳にスタンプを集めるため、ホームや階段を行き来する子どもたちと疲労困憊の保護者たちを目にした。夏休みイベントとしてすっかり恒例となったスタンプラリー、あれも一種の巡礼、日本の伝統に根ざしたものなのかと思うと、なかなかに感慨深いものがある。

 番外編として「新一の宮」が巻末に記載されている。江戸時代までは日本ではなかった「北海道」「沖縄」にも、また、一の宮がなかった陸中・岩手や青森・津軽、福島・岩代、埼玉・知知夫にも、「全国一の宮会」が認定した一の宮が指定されたということである。
 綴じ込み付録として、鳥居マークの入った地図もある。
 これからが二巡めになるという筆者の姿勢は、珍しい切り口を紹介しようというキャッチーなものではなく、ここに書かれた歴史や解釈は唯一絶対のものではないという断りに好感が持てる。「神社の伝承は、古代の史実を反映しているだけでなく、後の時代の歴史や人々の願望を投影しているものがほとんどです」(P315)というあとがきに慎重な姿勢が読み取れた。
 その地域の歴史、風土、文化、産業などと密接に結びついた信仰が建物という形で表徴された一の宮は、自由研究のテーマ、学術研究のテーマとしても良い切り口かと思う。

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紙の本テロル

2007/05/03 22:53

イスラム原理主義者の「自爆テロ」が「カミカゼ」と呼ばれているのか——それを知らされ、ズキリときた。自爆テロに一種の華やかさや昂揚感を付与する、その言葉の国の民として何をどうあがなえるものなのか。

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 この小説は「かなり踏み込んだ内容」で、イスラム原理主義の過激派グループによる聖戦(ジハード)がどういうものなのか、その本質がよく描かれている。
 米国がふりかざす「正義の制裁」は、グローバル化の流れのなかで国家権力が及ぶ領域を巨大化する大国の自己表現である。これに対するテロリズムは少数の集団、突き詰めていけば個人的な信仰による「肉体を張った戦い」なのである。したがって「帝国主義VSテロ」という図式で情況が語られることには不自然さがある。そう書くと、いかにも大きなものと大きなものが戦っているような印象を与えてしまうが、その内実は大きなものに対する小さなものの抵抗だ。具体的に言うなら、組織化された最新鋭の武器を持つ軍隊に対する、堅い信仰に突き動かされた一個人の信仰の表現ということになる。
 信仰の表現の一番聖なるものとしての「自爆テロ」が「カミカゼ」と呼ばれているとは、私たちにとって何と酷い事実であろう。武器を持って相手に体当たりするのだから、それが「カミカゼ」と称されるのは考えてみれば当然のことだ。しかし、古代から数え切れないぐらい多くの自爆があり、その犠牲者が歴史の部分部分を形成してきたなかで、よりによって使われてしまう「カミカゼ」という言葉のインパクト——そこに、カミカゼの国の民である私は、非常に苦いものを感じる。それは恥ずかしさであり申し訳なさであり、また怒りでもある。何をどうしたらよいのか分からない忸怩たる思いも重なる。このように使われる言葉、概念を生み出したという理由で、いつか国家元首が「彼ら」に謝らなければならない日が来てもおかしくない。
 テロに踏み込んだこの小説は、1つのテロのエピソードをプロローグに置き、本文に入ったところでまた1つのテロで口火を切る。物語の展開だけを取れば、ハリウッド映画のジェットコースター式娯楽作品に似ている。息つぐ隙を与えず、次から次への動きや進展があるのだ。しかし、テロの本質を露わにしようという創作意図の下に書かれた作品は「娯楽」ではない、無論。
 このテロは「米帝国主義」への聖戦という形はとっていない。イスラエルのユダヤ人に対する、イスラエル国家建国前の元々の住民であったアラブ人によるテロという形になっている。ただ、現場は「ハンバーガーショップ」という極めて米国的な場所である。
 本のカバーに紹介された程度の筋を追って紹介するなら、テロの首謀者は、イスラエルのセレブリティの妻だったのである。成功した外科医である夫には、その事実が全く理解できない。夫婦生活は幸福で安定したものであり、西洋風の生活スタイルを好む妻がイスラム原理主義者であったとは信じられない。物語は、真相を突き止めようとする夫の葛藤を道連れにミステリ仕立てで進む。
 この夫が誇り高きアラブの民族「ベドウィン」であることが、大きなポイントとなっている。アラブという出自が外科医としてのキャリアを積むことに障害となってきた彼が、イスラエルに帰化した者として、アラブとユダヤのバランスを取りながら生きてきたこと、そして、彼の妻が、そのはざまでどうバランスを取りながら生きてきたかということが小説の核となっている。
 この設定と展開の見事さ、テーマへの肉迫具合に引き摺られて読み進めた。そのため、文学性、芸術性、それは主に詩情という面での魅力にいまひとつという気もしていたのだが、その物足りなかった詩情はエピローグで一気にあふれ出た。プロローグと呼応する結びの内容に、ジハードを受け継ぐ民族の「血統」を認めたとき、これは傑作の評判に違わない小説だと納得した。

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紙の本いのちと放射能

2011/05/10 17:20

「防護壁を作るまで原発を止める」「原発が使えるようになるまで節電する」というのでは、原子力発電の根本的な問題を隠してしまう。放射能が今生きている生物、生まれてくる生物にとっていかに危険か、なぜ大人より子どもが危険なのかが分かりやすく説明されている本書を読み、さらなる対策を考えていくべきなのだろう。

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 原子力発電について検討するのに、信頼できるバランス感覚で書かれたものが何かないかと探しているとき、この本に出会えた。原発の問題を考えていく上で欠かせない「放射能が生命に及ぼす影響」について分かりやすく書かれている。
 著者名を見ると、日本エッセイストクラブ賞に輝いた『二重らせんの私』で知られる柳澤桂子さんだった。この方の書くものなら確かで、思慮深く心のこもった深い文章のはずだと、心が浮き立つ一瞬があった。

一人の人間の存在の重さは、死によって深められる。
 それに引き換え、私のおなかの中で育っている生命は、か弱くしかも光り輝いている。誕生は喜びであり、神秘であるが、「いのちの重さ」という感覚とは密接にはむすびつかないのではないだろうか。しかし、自分のからだの中で、別のいのちが育っていくという体験は、私の生命観を大きく揺るがせた。最初に感じたかすかな胎児の動きに胸はときめいた。
(『二重らせんの私』ハヤカワ文庫・P199)

 将来を嘱望された研究者として、子育てをしつつ発生学の研究に第一線でいそしんでいた柳澤氏は、30代に原因不明の難病にかかり、社会的な死(本人の表現)を体験する。闘病の中でサイエンスライターとしての仕事を始め、60歳になってようやく回復を遂げた。

 2007年9月にちくま文庫版として出された本書は、この4月で第3刷になった。元は1988年、氏が三菱化成生命科学研究所を無念ながら退職して5年後に、地湧社から『放射能はなぜこわい――生命科学の視点から』という題名で出された本である。

 1986年4月のチェルノブイリ原発事故の後、著者は原子力問題における一番の悪者は誰なのかと考える。それは自分だったのではないかと気づき、りつ然としたのだと「はじめに」で吐露する。
 放射能が人体に及ぼす影響も、放射性廃棄物の捨て場が問題であることも知りながら、原子力発電の恐ろしさについては十分に知らなかった。しかし、スリーマイル島事故につづくチェルノブイリ事故で、その恐さがはっきりしたのだから、生命科学を研究してきた立場で、生き物にとって放射能がいかに危険なものなのかを分かりやすく解説すべきだと感じたという。
 柳澤氏には、先天性異常を研究する中で、放射性物質を使った実験を行ってきた経験もある。

 文庫版には、国内の原子力発電所で相次いだ事故隠し、志賀原発のある能登半島で2007年3月に起こった震度6強の大地震に触れ、長いあとがきが添えられている。さらに、「三陸の海を放射能から守る岩手の会・世話人」である永田文夫氏の解説も加わっている。永田氏は、六ヶ所村核燃料再処理工場から垂れ流される放射性廃液が死活問題になるという、漁業者たちの工場稼働反対運動を支えてきた高校の化学の元教員である。

 放射能がいのちにとっていかに危険なものなのか。その解説は、「私たちは星のかけらでできています」という章から始まる。
 宇宙の始まりの大爆発から星間物質という「星の芽」となるものが飛び散り、そこに私たちの生命の元になる分子も含まれていた。生き物の最初のいのちができるまでに10億年の歳月が流れている。そういう壮大な広がりの中から、じっくりと腰を落ち着けた説明が起こされている。
 ただ1つの細胞だった生物が高等生物になっていくのに気の遠くなるような時間がかかってきたこと、地球45億年の歴史を一週間に縮めれば、人間の歴史はわずかに最後の3分間でしかないことが指摘される。その上で、長い時間の積み重ねの中で連綿として伝えられてきたDNAが、どれだけ複雑な構造を持つものなのか、生き物の存在にとってどれだけ大事なものなのかが述べられていく。
 そこから、細胞のガン化だけではなく、突然変異を引き起こす放射能の恐怖について徐々に話は運ばれる。
 細胞レベルの話から始められたからこそ、体内で細胞分裂が活発につづいている子どもたちにとっての突然変異がどれだけ重大なのかが分かる。母親のお腹の中の胎児が放射線を浴びれば、流産となったり奇形児となったりする可能性もあるし、表面に表れないDNAの傷が子孫に伝えられていくこともあるという。

 「少量の放射能でも危険です」という章に、次のような記述がある。これを私たちはどう受け止めるべきか。

このように便宜上きめられた放射線の量を許容量と呼んでいますが、これは、
「それだけの放射線を浴びても安全ですよ」という値ではなく、
「それぐらいまではしかたがないでしょう」という値です。
 もっといろいろなことがわかってくると、そんなに放射線を浴びてはいけなかったのだといって、許容量が引き下げられる可能性もあります。(P71)

 この注意点の後、チェルノブイリ事故で出された放射能の量、放射性廃棄物というものが、それまでの化学物質とは段違いの汚染を地球にもたらしたことを説明し、原子力発電を否定する。そして、私たち一人ひとりのエネルギー利用を見直すよう、訴えている。
 放射能と生物をよく知る科学者が書いた本であるが、専門的なことを分かりやすく筋道立てて伝えるだけではない。詩人たちの作品を引用し、原子力依存という問題の原因を「こころ」できちんと解決していくように求める。「便利だ」「快適だ」と、生活の質の向上を図る私たちが、40億年の進化の過程で形成されてきたものを壊してしまうような放射性物質を次々と生み出している。それを「こころ」で受け止める必要があると主張しているのだ。

 原子力発電所は、それが誘致された地域の経済や人々の暮らしと密接に結びつくものであり、電力供給先の産業や市民生活と密接に結びつくものである。したがって、すべての発電所を一気に止めてしまうわけにはかないだろう。
 しかし、放射線を数万年も出しつづける物質を地球の中に埋め続けるわけにはいかない。節電は停電を防ぐために行うというだけではなく、エネルギー利用を減らしていくため、1基でも多く原発を止めていくためにこそ実践していかないといけないのである。

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赤ちゃんや小さな子どもたちと楽しく過ごしたい日々に、便利に使えそうな絵本のガイドブック。300冊という絵本紹介が適量で、レイアウトやコンテンツが分かりやすくて、しゃれています。

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 「お手ごろ感」と「お値打ち感」があって、なお且つ、センスの良い絵本のガイドブックを買って帰ってきたので、「ネット上でも必要としている人、多そう」と思って紹介してみる。

 見つけたのは都内でも有数の大型書店。「きょうは私、この本、買って帰るわ」といつも感じの良い店員さんに声をかけたところ、「それのどこが気に入りましたか。きのうは著者のさわださんがいらしていたのですけれど……」という答え。「あちゃー。また、さわださんとニアミスで終わってしまった」と思った。
 著者のさわださんは、幼稚園の先生をした後、大きな書店の児童書売場に勤務し、その経歴を買われて大手出版社の児童書営業部門付の立場で、首都圏を中心とした児童書売場を回っていたと聞いている(今もかな)。営業といっても、彼女の場合やることが特別で、児童書売場のフェアの飾り付けをして、そこにふさわしいラインナップの本を選書するのである。自分が売り込まなくてはならない本だけ推薦するのではなく、その本といっしょに売場を華やかに演出してくれる本を並べる。「このフェアの飾り、きれいですね」と声をかけると、それが「さわださんが踏んで歩いた跡であった」ということを何回か経験した。
 紙皿やらペーパーナフキン、リボン、ボタンなど、ちょっとした雑貨を使って、クリスマス用ギフト絵本のコーナーやら夏の季節感いっぱいの絵本コーナーやらを作り出すのである。「並べる本」で「見せる本」であるから、「うちの子の成長に合った評判高い本」というような観点のお客さんには合わない場合もあり、中身は良いのに表紙はパッとしない本は扱われにくいということもある。けれども、さわださんの仕事が今の絵本ブームに大きく貢献していることは確かである。
 このさわださんの著書に、『絵本種』(絵本カーニバル事務局、1999年刊)という1072冊のガイドブックがあり、表紙がカラーで多く掲載されているのが便利で、結構いろいろな人に紹介した。

 新しく出たガイドブックのどこが良いかと問われたので、その書店員さんにポイントをデカい地声で話し始めると、少し前に彼女と話をしていたお得意さんが、ひょいっと近づいてきて「じゃあ、私もそれ頂いて帰る」と手に取って持っていってしまった。「どんだけ、良い販売促進員なんだ、中村」と自分を褒める。

 「お手ごろ感」はとっておきの300冊にしぼったということが主要なポイントである。「0~7歳向け」とし、その年齢層に限ったから300冊のリストで使い良い。だって、そんなものでしょ。500冊、1000冊と網羅されるのは数多く絵本を知れてうれしい。だが、子どもに本を手渡すことを仕事や社会活動にしている人には有難くても、親の立場なら、8年に500冊も1000冊もいりますか。年に40冊ぐらいの中から半分ぐらい買って、あとは図書館利用で間に合わせるのが妥当ではないだろうか。さらに子どもが気に入って繰り返し繰り返し「ええいっ、しつこい。もう寝てくれ」というぐらいにせがむので読むのは、年に5冊ぐらいのものではないのだろうか。
 300冊をどうレイアウトしたかという点にも、特徴がある。この本、判がタテ長ではなく、正方形に近くて絵本のようである。つまり見開きを横に広く使える判型ということだ。右ページに3冊、左ページに3冊ずつ紹介している。1冊分はタテ長のタンザクみたいなスペースで、一番上に表紙。絵がしっかり確かめられるよう、45ミリ×45ミリぐらいの大きさ。その下に一言で、どういう特徴でお薦めなのかというポイントが書かれ、その下に題名、それから著者と出版社と価格のデータ。ISBNやページ数のデータは省いている。さらにその下に短めの本の紹介文があり、対象年齢が記され、一番下に見開きが一画面だけ広げられている。
 並製本なのでゴツゴツしておらず、育児雑誌や教育雑誌といっしょに置いておけるような気軽さだ。これが1400円というので、「高くない」。繰り返し見て確かめる種類のガイドブックだからである。絵本1冊相当の値段なのだ。

 コンテンツは絵本紹介だけではない。絵本は対象年齢別に整理されているのではなく、「はじめまして、えほん」「せいかつ」「季節おりおり」「あそんでわらって」「もっと知りたい!」「心すくすく」「物語のたのしみ」「かぞくのえほん」というテーマで分類されている。それぞれがより細かいテーマに分かれている。私としては、面白楽しい絵本の分量が多い気がするので、まんべんのない選書よりは、もう少し自然科学分野の本を多く取り入れ、子どもの生活に何が必要かという意識があっても良いと思う。もっとも、自然科学意識ではなくても、自然の要素は絵本には多く盛り込まれているものだけれど……。
 さて、絵本紹介以外のコンテンツであるが、大テーマごとにまとめられた章の後に、『しろくまちゃんぱんかいに』に出てくる段々ケーキ、『おだんごぱん』の丸パン、『メリー・クリスマス!サンタさん』のツリー型ミルフィーユなどの作り方と完成の写真が紹介されている。絵本をヒントに作られたおやつが、おしゃれにスタイリングされているのが楽しくて、おいしそう。そして巻末には、最近よく「絵本との付き合い方」という切り口でコメントを出す教育学者の秋田喜代美氏のアドバイスも一章分綴じられている。

 さわださんの選書の特徴は、センスがあるということだ。「しゃれた」本を多く知っているということがセンスにつながっている面と、ただしゃれた本をリストアップするのではなく、選書に当たってのバランスが取れている面があると思うのだ。柔かい本と堅い本、定番本と新刊で定番化していきそうな本、子どもが楽しむ本と大人が手渡したい本などといった要素のバランスを図りながら、スパイスをうまくきかせている。
 他の数々の絵本リストを見ると、「えっ、そんな本を入れちゃうの。それよりはこっちの方が内容が素敵でしょ。センスないなあ」というものもないことはない。そういう言い方をしては元も子もないが、リスト作りに限らず物作りというのはセンス次第で、センスの良くない人間がいくら頑張っても、限界がある。作り手の限界が、本の装丁や記事の内容の質に反映されて仕上がり感が決まる。
 官の色彩や団体の思想色がある読書推進的なリストについては、かえって野暮ったいものがなじむということはある。しかし、かわいい我が子や身の回りの子と、明るく気分良く生活を楽しんでいきたいというニーズで手に入れておきたい絵本リストなら、子育て雑誌の記事を元に編集されたこのガイドブックは、とても使いやすく納得できるものに違いない。
 このガイドブックと赤ちゃん絵本のセット、ファミリアのパジャマなぞを組み合わせてご出産祝というのは、いいですね。

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紙の本子供たちは森に消えた

2009/04/05 17:33

『八つ墓村』にモデルとなった連続殺人事件があったように、『チャイルド44』にもモデルとなった猟奇的連続殺人事件があった。1980年代、ソ連の里地の森で52人の女子どもをあやめた犯人を追う捜査を再現したノンフィクション。

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 猟奇的な連続殺人事件を扱ったトム・ロブ・スミス『チャイルド44』(新潮文庫)がミステリ年間ベストテンで高評価を受けたために、この文庫本がカバー新装となり、香山二三郎氏の新たな解説を含んでよみがえった。
『チャイルド44』のモデルとも言われている「レソポロサ連続殺人事件」の犠牲者は必ずしも子どもたちだけでなく、母親もいれば青年もいて、殺害された被害者として特定されただけで52名。他に犯人の思い出せない余罪も数件あるとされている。しかも舞台はスターリン体制下という遠い昔ではなく、1980年代。
 体の何十ヶ所をもナイフで切りつけ、眼球や性器をえぐり出していたという犯人には教職歴があり、2人の子を持つ中年男性であった。

『子供たちは森に消えた』は、雑誌のモスクワ支局長を10年務めたジャーナリストが、事件捜査を担当した民警と捜査官へのインタビューと、捜査資料、供述書、ビデオテープといった記録を元に起こしたノンフィクションである。
 犯人が自白を始める第11章が全体の3分の2のところにあり、章の途中にモノクロの口絵8頁がついている。犠牲者の半分25名の写真、捜査に当たった担当官たち、逮捕当夜に撮影された犯人の写真、現場検証や法廷での様子を伝える写真などが載せられている。

 最初の犠牲者が出た(とは言え、性的犯罪はそれ以前にもいくつも見逃されていた)1978年12月から逮捕の1990年11月に至るまで、どうしてそれだけ多くの人間を殺すことができたのか、そのような悪魔的な人間がなぜこの世に存在するのかという疑問に納得のできる答を得たいと思って読み進めて行く。すると、事件の原因は2つの広がりを持って展開することになる。
 1つは、13年という長きにわたる殺人期間だけでなく、それ以前にもさかのぼって指摘される犯罪を「取り締まれなかった管理社会体制」のあらわな姿であり、今1つは、肉体的疾患・精神的疾患を親にも医療者にもケアしてもらえなかった犯人個人の事情だ。しかし、その個人的事情も、性や肉体に関する情報が十分でなかった管理社会下だったからこそのものと言える。

 犯人はウクライナ出身だが、ロシア人ではなく、外部にいる米国人ジャーナリストが本書を著したことの意味は、そこにあると言える。つまり、これは単に信じ難い猟奇事件の顛末を明らかにした犯罪ノンフィクションなのではなく、管理社会のひずみが影を落とした事件を書いたノンフィクション、言ってみればソ連という国家体制が起こしてしまった猟奇事件の顛末を明らかにしたノンフィクションなのである。
 原題はThe KIller Departmentだが、『子供たちは森に消えた』という邦題は、上のような意味で原題よりも合っている気がする。子供たちは確かに悪魔的な犯罪者に命を奪われ「消された」のだが、ソ連の森、ソ連という体制のなかに「消えてしまった」のである。

 共産主義国家において人びとは、仕事や住居、教育や福祉などを保障される。自由主義経済で人びとがそういったものを失う可能性があるのとは違い、生活の心配はないはず。だから犯罪を引き起こすはずもなく、国家は牧歌的な雰囲気のユートピアとして在ってしかるべきなのだ。建て前としては……。

 ソ連において、独立した警察機構はブルジョア国家でしか必要のないものと考えられていたという。したがって共産主義社会が完成するまで、警察の役割は人民が果たすものだということから「民警」が組織された。だが、民警は、その統括に当たる内務省とともに腐敗していた。高官が汚職まみれなら、スピード違反を取り締まる現場の民警はウオツカ1瓶で買収され違反者を放免していた。
 高い志を持って職務に当たるよう訓練されておらず、それ以前に、採用される人材は社会の落ちこぼれ的存在だったのである。そのため捜査の陣頭指揮に当たった人物たちが、民警としてまれな傑出した人材であっても、末端捜査では、聞き込みも情報の整理もいい加減に行われていた。そのような民警を非難するメディアも、喝を入れる機関もソ連にはなかったのである。
 事件名となった「レソポロサ」はソ連に多々あった里地の森林であり、奥深い森や山ではない。日に数十人もの人が通り、ゴミが放置され、大声を立てれば聞こえそうな土地である。そういう場所やら鉄道線路のわきやらで、あるときは捜査員たちが近くで警戒をしているところで、10余年にもわたって残忍な犯行は繰り返された。

 このような捜査組織の不備ばかりではなく、社会の犯罪の受け止め方にも大きな陥穽があった。連続殺人事件の噂は、あちこちで行われる聞き込み調査により広がっていったが、公に伝えられる犯罪といえば、「資本主義の病い」とされる経済犯罪だけであった。
 そこで個人に対する暴行事件は国家として「起きた」ということを認められず、建て前に生きざるを得ない人びとは、教師が幼女に行った性的いたずらをなかったことにしてしまい、ひとりで外出する子どもたちに「気をつけなさい」と教える習慣を持たなかったのだ。
 
 こういった特徴のある体制と社会のなかで、自らの精神状態に疑問を感じ、一度は精神科医の診察を望んだ男性が、52人もの人びとをあやめる環境を得たと言える。
 彼の精神がいかに病んでいったかという背景には、少年時代、貧困にあえぐ地域で何が行われていたのかという狂気の沙汰もあり、肉体の性的疾患をどうにかする手立てもなかったという悲運もある。

 ハンニバル・レクターをはじめとして、小説家たちは怪物のようなキャラクター、魔に魅入られたキャラクターに派手な事件を起こさせる。私たちは、それを非日常的なことと受け止めて消費しつづける。娯楽という快楽のために……。しかしながら、実際に猟奇事件を次から次へと起こせた人物とはどうであったか。
 一目見て、目の輝きが異様だったり、凶暴なオーラを発しているのでは、すぐに目についてしまう。ごく普通の仕事と家族を持ち、大衆に溶け込み、冷静な判断力と知性で物を片付けられる人物だったからこそ、犯人は「異常」を日常に内包しつづけられたのである。
 娯楽を求めるだけならば、この本には手を出さない方がいい。読んでいた2晩にわたって私は夢見が悪く、うなされて深夜に目覚めた。「現実ではなく小説であったなら、どれだけ良かったことだろう」と、どんよりした気分に包まれて本を閉じた。

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「いい人生」と「幸福」のあいだに断層があることを認め、成すべきことを成すために書く覚悟を決めた作家。トルコ人作家オルハン・パムクの2006年度ノーベル文学賞受賞講演。

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 とても価値高い1冊だ。――誰にとって? おそらく、人生と幸福の関係について考えたことのある人にとって……。
 2006年度に、トルコ人として初めてノーベル文学賞に顕彰された作家の受賞記念講演と、それに先立ち米独で行われた講演の記録、そしてノーベル賞授賞式直前インタビューに、ファンタジー作家・佐藤亜紀氏との対談が収録されている。
 講演3本は、「なぜ小説を書くのか」という自ら発した問いに自らが答える内容が主であり、時に息苦しいほどの真摯さがにじみ出る。特に「父のトランク」と題された受賞講演は、文学史の流れに立つ1人の作家として、また、複雑な情勢下にあるイスラム社会の一側面を照らすトルコ在住の作家として、「歴史という縦糸」と「東西世界の出遭いや確執の横糸」の交錯を意識する、大変に重みあるものである。
 同じ受賞スピーチでも、アカデミー賞のように、おちゃらけやクールなポーズだけでも感謝と喜びが表現できる場で行われるものとは様相がまったく異なる。読んでいて、彼の文学がどうして今の世界で読むべきものと評価を受けるのかが伝わってくる。そして、それは決して真面目で真剣なプレゼンテーションであるだけでなく、清々しい感動に浸される語りかけである。
 ただ正面切って自分が書くことの価値を問う内容だけでは、本としてこれほど魅力的なものには編集できなかっただろう。講演の重みある価値をより際立たせているのが、佐藤亜紀氏との対談である。海外の文学賞をいくつか受けた、彼の代表作の1つ『わたしの名は紅』が邦訳第1作めとして出され、記念来日した折に企画されたらしい。同じ歴史小説を書く立場として、さらに美術史に造詣が深い立場として、16世紀オスマン朝の細密画の絵師たちを描いた小説の創作過程や創作秘話を佐藤氏が聞き出している。
 時代考証についての考え方や、『わたしの名は紅』がどういうきっかけで章ごとに人称、語り手が変わる作品になったかという理由、西洋文明という中心に対する辺境のあり方など、作家同士のパスワードとでも言うべきか、ポイントをうまく突ければ、面白く有意な作品を作る魔法のヒントが解き明かされるという風である。対話の噛み合い方がとても良い。パムクが気持ち良く喋っていることが分かる。小説における食べる場面の役割についてなど、特に……。
 どういう構成の本かという説明ばかりで来てしまったが、作家の器とは、作品にどれだけ独自の価値を盛り込むことができるかで決まると考える身としては、講演「父のトランク」に込められた考えに、はっと驚かされるものがあった。
――いい人生の尺度が幸せであるとはどこから引き出したのか。人々や新聞や誰もが、一番大事なことが、人生の尺度が、幸せであるかのように振舞っていました。(P29)
 パムクは「社会の中で友人たちや愛する者たちと笑いあいながら幸せに生きた」父から、ある時預かったトランクについて話しているのだ。亡父は物書きにならず、しかし書きつけたものを集めてトランクに詰め、遺言を託すように彼に渡した。
「いい人生」と「幸せ」の間に断層があり得ることを、彼は指摘する。この世の幸せからかけ離れていても、「いい人生」と言える生があることを述べている。彼はこのことを、部屋に本と自分を閉じ込めた自分に向かい確認している。
 家族や友人とリゾート地に頻繁に出かけたり、おいしいものを食べ歩いたり、踊ったり賭けたり、やたら買ったり……。そういうことばかりしている人を、時に幸せそうだと羨ましく思わなくもない。だが、そういう活動では飽き足らない我が身を私も自覚する。その種の幸福は頻繁に得られなくとも、「いい人生であれば」と願う。したがって、人生と幸福の関係についてはもう考えなくともよい。パムクの文学は、つつがない幸福という価値の外で、芸術やイデオロギー、教育や手に職といった成すべきものために「いい人生」を送ろうとする者を認める。文学とは、人の生にそのように価値を付与するものに違いない。

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紙の本コレラの時代の愛

2006/11/20 00:22

内戦と疫病の危機に大きく揺れ動く祖国コロンビアを舞台に、川の流れに運ばれる運命を描く大河恋愛小説。「洒落っけ」と「真実追究」がないまぜになるマルケス調の吸引力。

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 人生はよく川の流れにたとえられる。生まれてまもなくの乳幼児期、
少年少女期は、湧き水のようにとある場所から噴出して決まった筋なく流れ始める。青春期はそのような筋をいくつかまとめて勢いづく渓流のほとばしり。ごつごつした岩がちの間をぬって障害をものともせず越えて行く。前へ前へ、先へ先へ、と。
 中年期はゆったりと物を運び、周囲の自然とともに景観を提供する、着実で豊かな流れ。高齢期では遂に大海に溶け込むことを受容する。すでに流れているのか淀んでいるのかは判然としない。しかし、多くの洲をこしらえながら川幅を広げ、より広い世界へと行き渡っていく。
 この物語にも「川」が登場する。マグダレーナ川。ガルシア=マルケスが旅をして、いつか小説の舞台にしようと考えていたというコロンビアの大河。そこは、ラテンアメリカ独立の父シモン・ボリーバルが死を前に下った川だと本書の巻末「解説」にある。
 人生が川の流れにたとえられるから、「大河小説」と呼ばれる作品がある。『コレラの時代の愛』は、まさしくその大河小説と称せられるものであり、主要人物たちが激動と混乱の時代を様々な階層の人びとと交わりながら生きる。どういう思いで苦や楽を経てきたのかが、練り上げられた構想の下に表された長篇である。
 1985年に発表されたにもかかわらず、実験的な技法や構成がない。書き方だけを見れば、名作と言われる100年品質の諸小説のように写実や描写が重ねられている。ただ、そこに書かれているどこか滑稽な挿話やら直喩・暗喩のユニークさやらは、いかにもお茶目なガルシア=マルケス調であり、翻訳で知り得る文体が明るくはっきりとした自己主張を行っているのが分かる。「ガルシア=マルケス全小説」という本シリーズの案内リーフレットに記された「物語るために、私は生まれてきた」という、謙虚さと矜持が合相半ばする発言通りの自己主張である。
 500ページ近い大著を、適宜目を走らせながら読むでなく、割にしっかり一字一句を追いながら読んでも、それでも難なくあれよあれよと読み通せてしまうのは、マグダレーナ川がクライマックスの舞台になっているというだけでなく、物語の流れやリズムとして物語中を流れているからではないか。
 半世紀以上もの間、結ばれることのなかった男女の話である。決して悲恋だったわけではない。少なくとも女性の側にとっては…。彼女は、ほとばしる渓流のような恋の日々を生きたあと、どっしりとした家庭婦人におさまる。男性の側にしても、その彼女を待ち続けるが決して人生の愉楽を棒に振るわけではない。
 「マルケスはすごい」と痛感させられたのは、この各々にとってそれなりの生活が待つ中年時代へのスローダウンである。気がどうかしてしまったのではないかという若き時代の猖獗を極めた恋愛期——常軌を逸した興奮状態と滑稽なまでの行動の描写は、いかにもマルケス調にふさわしいものだ。これでもか、これでもかという「てんこ盛り」表現を楽しみ、ややげんなりしてくるかというタイミングで、打って変わって内省的な中年期が展開されていく。社会的地位も安定し、自分という「分」が見えてくると共に、いろいろな面での衰えも認められる寂しさ。それをマジックリアリズムの騒乱とはがらり変えた調子で丁寧に描写する。
 このスローダウンさせた中年期をスプリングボードにして、高齢期は何とも華やかなフィナーレ。だがしかし、騒乱のごとき激しい祝祭ではない。かのカポーティが好きな女性作家を称えたように「エッセンス」だけが残った言祝(ことほ)ぎ。大河恋愛は見事大海に注ぎ込む。そしてさらなる行方も用意されている。

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