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kingさんのレビュー一覧

投稿者:king

231 件中 31 件~ 45 件を表示

紙の本ハーモニー

2010/03/04 23:41

フーコー、バラード、スターリング

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

デビューして一年半の間に三冊の長篇を出したのみで逝去した伊藤計劃の遺作。「虐殺器官」もかなり面白かったけれど、これは前作からさらに先に踏み込んでいる。現実のあり得るかも知れない延長を組み合わせて、妙にリアリティのある近未来設定が面白い。

今作では、人類社会が未曾有の災厄に見舞われ、人間の資源としての希少価値が極端に増大し、結果、各成員の健康維持が社会の至上命題と化した「生命主義」社会が舞台となる。

生命主義とは、「各構成員の健康の保全を統治機構にとっての最大の責務と見なす」ことで、成人を恒常的健康監視システムに組み込むこと、薬剤、医療処置の大量消費システム、生活習慣病予防のためのライフスタイルへの助言を、人間の尊厳の最低限の条件と見なす考え方、となる(P54-55を適宜要約)。

各人はWatchMeと呼ばれる体内環境の監視装置をインストールし、その観測に従って健康に努めなければならない。そこでは身体は私的な自由に従うものではなくなり、「社会的に希少なリソース」ゆえにほぼ全的に「公共的」なものとして扱われる。つまり、健康至上主義で生政治の極点に達し、愚行権(というか「幸福追求権」といった方が分かりやすいのかも)が極端に切りつめられている。

「人類は今や、無限に続く病院のなかに閉じこめられた」

タバコは禁止され飲酒は社会常識的にあり得ないこととされ、果てはカフェインすらが白眼視される。人を傷つけたり、嫌悪を催させたりするものはことごとく遠ざけられ、検閲されて視界から消されていく。人々はそれぞれが希少な価値ある存在であり、それがゆえに優しく見守られ、優しく見守られ過ぎる。

そして国家はほとんど解体し(夜警国家化)、生府(ヴァイガメント)と呼ばれる各々の合意によって運営される共同体が林立している。そこでは中心的な権力者はいない。

これらは明らかにフーコーの「生政治」に基づいた設定だろう(実際作中でフーコーが引用されている)。そして主人公たちは、そんな優しさのファシズムに覆われた世界に憎悪を燃やし、「公共的身体」となった自分自身の身体を自分の手に取り戻すために自殺を試みる。

これが冒頭部分の物語だけれど、この出だしは近年のバラードが病理社会の心理学シリーズで描いてきたモチーフをなぞっているように思える。

監視社会化が進み、セキュリティの保証された社会で死んだように生きることに耐えられなくなった人々が自ら危険を求めるような行動をとる、というのがバラードの近作の乱暴な要約になるかと思うけれど、伊藤計劃はそれを叩き台にして、そこからさらに先へと踏み込んでいく。

さらにブルース・スターリングの「ネットの中の島々」が参照先として暗示されている。

スターリングの他の作品を読んでいないのでとりあえず「ネット」しかわからないけれど、冒頭に出てくるトゥアレグ族はまさに「ネットの中の島々」で重要な役割を持つし、マリ共和国も出てくる。たぶん「生府」の「合意員(アグリーメンツ)」というのも「ネット」の「ライゾーム」という企業共同体に範をとったものだろうと思う。「ハーモニー」でのジュネーヴ条約軍というのも「ネット」のウィーン条約機構をネーミングに使っていると思う。これはただガジェットを名前だけ借用したというのではなく、ネットが遍在している社会という舞台の重要な参照先なのだろうと思う。他にもいろいろ共通点を見いだせると思うけれど、「バラードの心でスターリングのように書きたい」という伊藤氏の言葉は伊達ではなかった。

言ってみれば、フーコーを使って、バラードとスターリングの問題意識をより深く突き詰めてみようとしているのがこの小説なのだろう。そんな伊藤氏がバラードより、スターリングよりも先に死んでしまうというのは悲劇としか言いようがない。

科学技術の進歩によって、人間の人間性がどんどん解体されていくところをこの作品は描いている。すでに現代においても、精神病は薬で治すものとなりつつある。感情、性格、性向なども薬物等によって影響される事例はしばしば目にする。脳科学、認知科学の進展は、人間の意識や感情などの、こういって良ければ「神秘性」をプラモデルを分解するように即物的に解体してきた(といっていいのかな)。

サイバーパンクとはテクノロジーの領域への批評的な視点だと伊藤氏は書いたけれど、テクノロジー、メディアの進歩、変化が、人間をいかに変えるか、ということが伊藤氏の諸作を貫く重要なテーマだということは間違いないだろう。伊藤氏は、とりあえず私の読んだ三作(「虐殺器官」「ハーモニー」「The Indifference Engine」)すべてにおいて、人間の意識、認識、情動等に対するコントロールを扱っている。「人間」にとって、意識や感情といったものは特権的な位置付けを与えられてきたと思うけれど、伊藤氏は進化論や脳科学、認知科学の知見を使いつつ、その特権的な位置づけを突き崩していく。

ここらへん、小説の核心に関係するので書きづらいのだけれど、様々な知識を動員して人間の「人間性」とは何か、そして人間の終焉を小説は描いていく。サイバーパンクは技術による人間の変質を描くと言うけれど、今作はそれを極限までドライブさせてみせた強烈な代物だ。

管理社会ものの定番といえば、奪われた人間の尊厳を取り戻す、というものだけれども、ここではその尊厳自体が解体されてしまう。生政治、生―権力の極点としての姿。これは「セカイ系」と呼ばれるものへの批評的スタンスでもあるだろう。「セカイ系」を定義するのは面倒だけれど、世界が個人の実存に従属するものとして現れるもの、という感じで私は捉えている。自意識の問題というか。ここはちょっとご意見ある方もいるかも知れない。で、「虐殺器官」について、伊藤氏はこう書いている。

「社会そのものが、テクノロジーを経由して、個に投影される、という。だから、「虐殺」をセカイ系だという方もいらっしゃたんですけど、それはちょっと待て、違う、流入経路が逆方向だ、と(笑)個がセカイに直結しているんじゃなくて、セカイが個に直結している。逆セカイ系なんです」

というように、伊藤氏には「セカイ系」に対して批評的な観点がある。「ハーモニー」にも「涼宮ハルヒ」ネタの引用があったけれど、それは「セカイ系」的問題がやはり関心にあるからだ。そして、「虐殺器官」が「逆セカイ系」だとするなら、「ハーモニー」は「セカイ系」の枠組みそのものを破棄する。人間の「人間性」それ自体が問われるならば当然そうなる。「セカイ系」の端緒となった作品ととても類似した部分が存在するが、その意味合いは対照的ですらあるように。

バラードの「溺れた巨人」にフーコーの「そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するであろうと」というナレーションが被せられる映像を私は想像する。

できれば、同時代を生きながら、新しい作品を読み続けたい作家だった。
元記事と補記

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紙の本ダーウィン以来 進化論への招待

2010/02/03 22:07

科学の「中立性」

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

グールドが科学雑誌に長期連載していたものをまとめたものの第一集。で、このシリーズは以下結構な数の続巻が出ている。もう全部読むかな、とか思うくらい面白い。

一章十数ページ程度で読みやすく、巧みにいろいろな学説の明快な解説や科学史のエピソードを語り、また章を八つのパートに再配置してそれぞれのテーマ性を印象づける編集がなされており、面白くてタメになる、を地で行っている。

はじめは突然変異と自然淘汰というダーウィン進化論の基礎の基礎からはじめて、ダーウィンの進化論が着想されたときの興味深いエピソードを紹介したり、変わった動物の具体例から進化の理論を例証してみたりと、タイトル通り進化論についての様々な知見が得られ、格好の入門書になっている。

進化論だけではなく、恐竜絶滅が隕石の衝突によるという説が猛批判を受ける元ともなった地質学における中心的ドグマたるライエルの斉一説は、ご都合主義的な天変地異説を否定して近代地質学の理念となった、という皮相な見方に対し、当時の天変地異説はそれほど迷信的ではなかったし、天変地異説の支持者であるアガシもライエルの著作にはかなりの程度までは合意を示していた、という興味深い事実を提示している。このことは、隕石衝突説が定説化したいま読んでみてもなかなか含蓄のある考察だ。

他にも、昆虫の大きさの限界から惑星の性質に至までを論じる大きさと形について論じた第六部や、人種差別や知能について科学がいかなる振る舞いをし、科学がその時代のイデオロギーに強く影響されるかという科学の政治性を論じた部分なども、非常に面白い。科学は事実と解釈を扱うが、解釈はいつだって中立なわけではない、ということだ。

そのことは本書のなかで、いまでは大陸移動説を証明するとされる事実が、当時はさして重要でなく、大陸移動説を用いなくても説明できるとされていたことなどを紹介して、幾度も強調されている。本書はそうして、科学が必ずしも中立でいるとは限らないと、読者に注意を喚起しようとしている。

刊行が70年代ということもあって、私がみても内容が古びている箇所がいくらもあるが、それにしたところで面白い。学者によるエッセイの手本のような本。

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「〈たわごと〉はいかにして〈定説〉となったか」

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

フォーティの「生命40億年全史」を読んでいてとても興味深かった部分の一つは、恐竜の絶滅が隕石衝突によるものだという現在すでに定説となっている説が、新説として提唱されたときのことを語ったところだった。

この説が79年に登場した後、80年代を通じての大論争となり、応酬は次第に過激になり、ついには個人攻撃をも含んだ熾烈なものにまで発展した。隕石衝突説、というのはそれほどまでに地質学界に衝撃をもたらしたものだった。

いまから考えると、なぜそれほど激越な反応が現れたのか分かりづらい。これを理解するには、近代地質学の成立にかんする事情を考える必要がある。

それまでの地質学では、たとえば聖書による創造の記述通りに地球の歴史を解釈しようとするものであるとか、様々な地質学的イベントをご都合主義的な天変地異によって説明したりするなど、恣意性を免れていないものが多かったという。そうした状況を是正するためにチャールズ・ライエルは、過去の地質学的現象は現在観察できる地質学的現象と同一であり、変化は漸進的に起こった、という斉一説を唱えた。ライエルは近代地質学の父とも呼ばれ、この原理は地質学が科学として成立するための要諦となった。

つまり、天変地異によって地質学的現象を解釈するのを禁じることが近代地質学のそもそもの前提だったので、隕石衝突という天変地異で恐竜の絶滅を説明する、ということは、地質学的にはまず真っ先に却下すべき主張ということになる。

しかも、息子で地質学者のウォルターも一緒だったとはいえ、提唱したのはルイス・アルヴァレスというノーベル賞を受賞した物理学者だった。専門外の人間による地質学そのものの前提に挑戦するかのごとき新説の登場は、当然のごとく賛否両論を巻き起こした。


この新説は、息子ウォルターが地球の地磁気逆転現象の調査のために行っていた研究から派生した。地層の時間経過を正確に測定するため、貴金属を用いた年代決定法を模索していたとき、イリジウムという地球には希な物質を用いてそれを行おうとした。そして、当該地層におけるイリジウム濃度を検出したところ、恐竜の絶滅した白亜紀と第三紀の境界、K-T境界において、突然のイリジウム濃度の増大(イリジウム・スパイク)が見つかった。イリジウムは地球には希だが、隕石には多量に含まれている。

アルヴァレス親子は、境界とイリジウム・スパイク(漸進的な増大のピーク、ではなく、突然の増大を指してスパイクと呼ぶ)の一致は偶然ではありえず、このことは恐竜の絶滅の謎を解く鍵になるのではないかと推測した。

で、それが新説として「サイエンス」に掲載され、かまびすしい論争となるわけだ。発見に至る経緯も興味深いけれど、地質学はおろか、古生物学、天文学、さまざまな学者たちが、肯定のためであれ、否定のためであれ、綿密な調査を行い、何度も否定派からの批判を受けたために、より詳細かつ厳密な調査をすることとなり、結果としてより確実な研究結果をもたらすことになるという科学的議論の好循環もまた面白い。

著者は、この説がもたらした学際的な動きは、「科学史上きわめてまれ」なものだと言うほど大規模なものだった。

この本は、そうした論争の経緯をまとめつつ、アルヴァレス親子による地質学を革新する新説が、いかにして発想され、それがまたいかにして定説としての確たる土台を築くまでに至ったのかを詳細に述べていて、きわめて興味深い科学的発見のドキュメントとなっている。

できるだけ詳細に、そして一般向けに分かりやすく書かれていて、とても面白い本だ。帯には、「〈たわごと〉はいかにして〈定説〉となったか」と書かれているとおり、学問的には論外とされた説が、みるみる証拠を固めていき、今知られるような定説の地位を得ていく、エキサイティングなサクセスストーリーでもある。

また、広島に原爆を落とした爆撃機と一緒に飛んでいた機から、原爆投下を目の当たりにした人物でもあるルイス・アルヴァレスという人物についての記述が興味深い。なお、ルイスはSF作家アーサー・C・クラークの「太陽系最後の日」所収のエッセイに、地上管制着陸誘導装置の発明者として、そして友人として出てくる。

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ザ・ブラインド・ウォッチメイカー

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

つとに著名なドーキンスによる、進化論の概説書ということになるだろうか。世界の創造に神が関わったと主張する創造論(あるいはインテリジェント・デザイン説)が神による創造でなければこんな複雑なものは生まれ得ないという根拠として良く持ち出す、「目」やコウモリのエコーロケーション(音を出してその反響で周囲の状況を把握する)といった高度な生体システムが、突然変異と自然淘汰とによる進化のメカニズムによっても生まれうることを懇切丁寧に叙述している。

進化にとって重要なプロセスはふたつ、突然変異と自然淘汰だ。突然変異は生体に変異をもたらし、その変異は、自然の状況の中で子孫を残すのに有利であれば、その子孫を通じて広まり、定着していく。突然変異自体はランダム(というと実は語弊がある)、無方針なのだけれど、自然環境の中で淘汰されることによって、有利な形質が残る。それを後から見ると、まるで目的を持って進化していったようにも見えるのだけれど、それは錯覚だ。

進化論に対する批判として、目という複雑な装置が突然変異によって出来ることなどあり得ないというものがある。目のように光学的に精妙な仕組みを持つ装置が、一回の突然変異で出来るはずがないというのだ。この意見自体は正しい。目が何もないところから一足飛びにできるはずがない。そこでドーキンスは累積淘汰という概念でそれを説明する。

キリンを例に取れば分かりやすい。首の短い状態のキリンが世代を経るうちに変異が起こるとする。あるものは足が速くなるとか、模様が精巧になるとか、様々な方向の変異が起こったかも知れない。彼らが居る生態系のなかでは、そのなかでも首の長い個体の方がより生き延びやすい状況だったとする。そうすると、自然淘汰によって、首の長いもの以外のキリンは子孫を増やすことができず、逆に首の長いものはより子孫を増やしていくことになる。その環境では首の長い個体が有利なので、キリンの首は、変異と淘汰によって生体そのものの限界と環境への適応のバランスがとれるところまで首が長くなっただろう。このように、淘汰は累積していき、種はその環境に適応していく。

と、私は、これは別に目新しい概念ではないと思う。ありがちな進化論への誤解を分かりやすく解きほぐすために導入されているんだと思う。これは同時に眼についても言える。まったく見えないより、少しは見えた方が捕食にも、捕食回避にも有利であり、少し見えるよりはよりよく見える方が有利だ。そういった淘汰への圧力があれば、眼点のような光のくる方向ぐらいしか分からないものから、どんどん光学的に精妙な眼に進化していくのは至極当然と考えられる。もちろん、人間の眼のように精妙なものではない眼は、視力がきわめて弱いだろう。しかし、だからといって機能しないわけではない。少しでも機能するならそれは非常に有利な武器となる。

アンドリュー・パーカーは「眼の誕生」で、暗黒の洞窟内部の魚などはかなり早く眼が退化すると指摘している。眼は、きわめて「高くつく」器官なので、暗闇では真っ先に退化してしまうらしい。逆に言えば、光のある世界では、そのような高くつく器官を我先にと進化させねば生存に致命的に影響する、ということを証明している。

眼が、きわめて精妙で複雑な器官である、ということは神の介在を証するのではなく、それだけの進化を要求するほど視覚が自然界において重要な感覚であることを示している。それに、進化というのは何万、何百万、何億年というスパンのなかで進むものなので、変異と淘汰というメカニズムによる器官の進化は、それはもう我々の想像を超えるクリエイティビティを発揮してもまったくおかしいとはいえないだろう。「眼の誕生」でも、原始的な眼点から眼に進化するには、かなり控えめに見積もっても、五十万年で充分だ、というシミュレーションが紹介されていた。五十万年とは、地質学的には一瞬より短いくらいだけれど、人間にとっては想像を絶する。それが進化のタイムスパンだ。

ドーキンスは、このような進化という自然によるメカニズムを、盲目の時計職人(ブラインド・ウォッチメイカー)、という卓抜な比喩で説明している。ただ、この比喩は、職人、というデザイナーを想定させてしまう点でちょっと微妙かなとも思う。まあ、だから比喩なんだけれど。

この本、なかなか面白いのだけれど、創造論への批判が大きな比重を持っているため、記述が妙に細かくてサクサク読めないところがある。一つのことをそんなに何行も費やして書く必要なくね?というところが多い。創造論との緊張関係がそうさせているので、無駄な訳ではないのだけれど。日本でも創造論を信奉している人が実は結構いるみたいなので、案外と対岸の火事と笑っていられないかも知れない。

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「進化とは移ろいゆく環境への適応であって、進歩ではない」

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ほとんど説明する必要もないほど有名な進化論の代表的論客グールドがバージェス頁岩について解説した大著。

600ページ近いのだけれど、とても面白くてもっと読んでいたくなる。確かむかしNHKスペシャルで機械仕掛けのアノマロカリスを製作していて、面白いものを作るなと思っていたけれど、これらの奇怪動物から導かれる進化の歴史の本質に迫る、というグールドの試みを当時は全然知らずに見ていたのだった。

アノマロカリスやオパビニア、ハルキゲニア等々の面白い形の生物などについては本書で詳細かつ具体的な解説が行われている。付属肢だとか生物学の基礎的な分類について他ではあまり見ないくらいきっちりと書かれているので、このほかのバージェス動物ものを読む前にこれを読んでおくのが良いように思う。

それだけではなく、グールドの論述は人間中心の思考についての批判を伴っていて、ただ科学的に興味深い、というだけではない広がりがある。

本書でのグールド進化論のひとつの特徴は、偶発性の強調にある。「悲運多数死(デシメイション)」というキーワードが示しているのは、進化の歴史において、どの種が生き残り、どの種が絶滅するかはほとんど偶然にゆだねられているということだ。その当時の生態系で優位に立っていたはずの生き物が絶滅し、さほど目立たない位置にあった生物がその後繁栄するという歴史は、当時生物学者がいたとしても判断が付かないような偶然に左右されているという。これは、生物の形態、構造に科学的な法則による優劣はつけられない、という主張だろう。

グールドはまた、進化のよくある説明のなかで漏斗型の図を示し、過去は多様性が少なく、現代に近づくに従って生物の多様性が増していく、というイメージを喚起する図像を一貫して批判している。バージェス動物群の存在は、古代のある時期においては、むしろ現代よりも生物の基本デザインは異質性が高く、その後の悲運多数死において基本デザインのバラエティは減ってしまった、というグールドの主張を根拠づけるものと見なされている。生物種の多様性は漏斗型ではなく、底辺が広大なクリスマスツリー型だ、という。

もうひとつ、人間が生まれたのは、進化の繰り返しの結果の必然であり、それは人間という種が優秀であるからだ、というような俗流進化論への批判をグールドは繰り返す。彼はこう書いている。

「進化とは移ろいゆく環境への適応であって、進歩ではない」

本書では、科学的議論が人間中心主義へと収奪されることへの批判が大きな核として存在している。人間は偶然の産物であり、生命の歴史をリプレイしたら、人間は生まれなかったかも知れない、というグールドの主張は、進化の歴史を人間の誕生へと収斂させることへの批判だ。

こうした科学のイデオロギーへの収奪、というのはどうもグールドの大きな関心のようで、「人間の測りまちがい―差別の科学史」という本では科学が人種差別の根拠として用いられた歴史を辿っている。本書ではバージェス動物群を語りながら、科学を自分の観念なり思想なりに押し込めてしまう愚を一貫して批判している。


もちろん、そうしたグールド自身の主張がちょっとうるさいという人もいるだろうし、悲運多数死や生物デザインの異質性についての批判も多く(なんせ本書での英雄扱いのコンウェイ・モリス自身から後に批判されている)、学説としてはあまり受け入れられていないみたいなのだけれど、それをぬきにしても、バージェス動物群発見の物語やハリー・ウッティントンたちのバージェス動物群見直しにまつわるプロセス等を詳細に語っていて、バージェス動物群にまつわる人々のドラマとして、とても楽しめるノンフィクションであることは間違いない。

また、バージェス動物群を既存の動物門へと押し込めてしまったウォルコットがどうしてそのような間違いの多い新種記載をしてしまったのかについて、一章を割いて敬意を払いつつ同情的に語っているの点は本書にさらなる厚みをもたらしている。

この本に対する批判や新説がいくつもあるようで、進化論をめぐる議論もとても面白そうだ。

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紙の本神仏習合

2006/04/23 19:58

国家による宗教の利用法あるいは自我の起源について

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

笙野頼子がしばしば参照しているので読んでみたら、これが非常に面白い。入門という感じではなく、それなりに古代史の知識がある人向けに書かれていて、決して読みやすいとは言えないが、その分非常に濃い議論を展開していて、かなり手応えのある内容になっている。

本書の問題意識はおおまかには以下のようなものだろう。

・古代の王権における租税制度等の正当性を担保するものとしてどのように宗教が利用されたのか。
・教義がなく共同体の祭祀儀礼を中心とする土着の神祇信仰(神道)と、理論的体系を備え普遍性を獲得した仏教とが、日本においてどのように習合したか。
・富の私有に発する罪の意識が、共同体のなかに埋没できない個人を生み出したとき、仏教がどのような機能を果たしたか。

ここで興味深かったのは、人心を掌握し租税を取り立てようとする国家権力がどのようにしてそれを達成したかの方法と歴史だ。それは同時に、民衆のあいだで広まっていた土着の神祇信仰が、いかに変貌したかということでもある

神仏習合の最初の具体例としてあげられるのは、「神宮寺」という、神社の境内か直近に立てられる寺社のことだ。このような寺が建てられるのは、神の身ゆえの苦しみから、仏教に帰依して仏となりたい、とそこで祀られている神自身の託宣があったからだという。もちろんこれは祭祀の背後にいる豪族らの意図が含まれているのだが、ではなぜ豪族らが仏教に帰依したいと願うようになったかが問題になる。

ここで著者は生産能力の向上などによって地方豪族らが富の蓄積をするようになり、さらに儒教の影響などのなかで彼らのうちに「所有と罪の意識」が発生し、その苦しみの解決を仏教思想に見いだしたからだと説明する。これは自我の発生のメカニズムの説明として非常に興味深い。

共同体のためのものという側面が強い神祇信仰では、個人の苦しみは取り扱うことができない。そこに、欲望という罪を断念し、俗世からの解放を得て悟りにいたるという仏教の論理はきわめて魅力的に映ったのだという。しかも日本において広まった大乗系仏教では、贖罪のための苦行と悟りは、出家した僧のみの任務とされ、「一般在俗者は、この僧侶を供養し布施を施せば、それによって贖罪と救済が保証されるという論理を持つ」という。支配者階級の人間たちにとってきわめて都合の良い論理だが、それゆえ、彼らはこぞって仏教に帰依することになった。

また、怨霊という特定個人の怨みが復讐するという考えも、自我の発生を待たねばならなかったという指摘は説得力がある。

以上のような自我や怨霊観念は、当時の国家にとっては租税制度や国家の権威そのものに脅威を与えるものでもある。神祇信仰の儀礼のなかに租税制度を滑り込ませていた律令国家にとっては、仏教の台頭は租税制度の不全を来すため、神仏習合政策によって地方豪族らの掌握を試みるようになる。その現れが権力公認の神宮寺だ。

本書はそうした国家と自我のかかわりを宗教を手だてに探っていく。自我の起源の説明としても面白いし、それが国家制度にどのように抵抗し、どのように掌握されたかというようなダイナミズムを描くところも面白い。著者自身がもともと、経済、政治の専門であって、宗教は専門ではなかったというところは良い方に作用していると思う。

自我の起源、宗教を題材にした古代国家論、最近の笙野頼子のどれかに興味がある人ならとても面白く読めるだろうと思う。

詳しくは以下
「壁の中」から

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紙の本硝子生命論

2006/01/24 19:31

「男」という性への憎悪としての人形愛

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「男」という性への憎悪を体現した美少年の人形による、異性愛という制度そのものへの抵抗から、「国家殺し」たる「人形愛者たちの幻視建国」を描く、幻想的色彩の強い連作形式の長篇。個人的には初期長篇群では最も面白く興味深い作品であるとともに、後の「水晶内制度」との関係を考え合わせると、笙野の作品群の重要な水脈の一つだろう。タイトルとともにミルキィ・イソベによる装幀も印象的。

この作で「人形」とはほぼ美少年あるいは男に限定されていて、それは重要人物たる人形作家が女性であるからであり、彼女が人形を作るのは女性にだけであるからだ。そして、その人形は必ず死体でなければならない。ここに、この作の眼目がある。

この作品に出てくる女性たちは、みな「男性」を拒絶している。意志的な拒絶と言うより、いいようもない不快感がある、とか近くにいるだけで恐怖感を感じるとか、ほとんど病的な潔癖さ(つまり一種の身体的な反応に近い)で拒絶している。それは、男、と女と切り分けられて女というカテゴリに自分がいるということが、きわまってしまったものなのだろう。たとえば、語り手が人形作家と出会った時について。

「だがそれでも、お互い、何かを隠し合って生きているのだとその時にぼんやりと意識した。何か、というのは無論、恋愛の異端的な指向ではなく、憎悪だった。この世界のずっと変らないからくりへの、或いはいつでも外から来る何かによって叩き壊されてしまうしかない、果敢ない感覚や孤立した観念への、或いは、ただ文章に男と女は、と書かれていたというだけで自覚しなくてはならない漠然とした疲れ、体のだるさや、強いプレッシャーや……」 34頁

女が女であるだけで蒙らなければならないプレッシャー。作中、「透明」と表現される制度の網の中に、男は無意識にもぐってしまえるのに、女はそうではないということを語る場面がある。女であるということで強いられてしまう現実の制度への強い憎悪と抵抗を、作中の女性たちは人形を通して表現する。

「ユウヒの作る、布で隠れた人形には本当は性別など必要がなかった。にも拘わらず彼女はそれが少年の人形であることに固執したではないか。私自身もまた同じだった。彼女の顧客たちも。それとも、それは単なる異性憎悪の変形に過ぎないのだろうか。いや、正確には異性に現実や制度を象徴させることで、それらへの憎しみを煮詰めて行くための、憎悪を核にした幻の愛だろうか」55頁

現実なり男たちなりに抑圧された女性たちが死体人形を憎悪をこめて愛惜する。ここではそんな屈折した異性愛が描かれる。そして、現実の制度を嫌悪する者たちによって人形の国家が、奇怪な儀式によって打ち立てられようとする。

観念的で幻想的、なおかつSFの影響も強い作品で、わりあい難解な小説である。また、初期から続く憎悪と殺意のテーマが異性との(非)関係を通して語られるのが非常に珍しい。難解ではあるが、笙野が明確に国家を対象にして抗争をしかけた端緒の作品でもあり、「レストレス・ドリーム」「水晶内制度」その他の国家と制度をめぐる一連の作品との関係も重要だろう。
「壁の中」から

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紙の本果しなき流れの果に

2004/05/02 11:11

壮大なスケールのSF小説の傑作

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砂が無限に落ち続ける砂時計が、古墳の発掘現場から発見され、大泉教授とその助手野々村は、番匠谷教授からその砂時計を見せられる。明らかに人工的なその出土品は、どうも四次元空間を介して上と下がつながっているらしいと推測される。
そして三人はその砂時計の出土した古墳へと赴くのだが。

と、この小説の序盤の導入は色んな傑作SFを思い出させる、ある意味スタンダードともいえるものである。
たとえば、バリントン・J・ベイリーの「時間衝突」は、時を経るごとに新しくなっていく遺跡が発見されるのだし、J・P・ホーガンの「星を継ぐもの」では巨人の死体が発見され、「2001年宇宙の旅」では月の三百万年前の地層から明らかに人工的なものと思われる真っ黒な直方体が発見された……

どれもそれを発端としてよりスケールの大きな世界へと導いていく魅力的なものである。そしてこの作品は、その無限の砂時計から前に挙げたすべての作品よりも巨大なスケールの小説へと変貌していく。

発端として提示された大泉教授、野々村、番匠谷たちのエピソードは、百ページいないで早々に終わってしまう。「現代のぼくらの手には負えない」と観念された事件にぶち当たり、なにも進展させることができないまま、小説はひとつのエピローグを迎える。
現代はおよそ百ページで終わる。次の章からは軌道エレベーターや衛星の研究所が実用化されている数百年後に舞台が移る。そこでは、超常現象や序盤で出て来たような奇妙な事例の研究が行われていて、真相に接近しつつあった。それは、「未来からの干渉」ではないかと考えられ、あとは試験の結果を待つばかりであったのだが、原因不明の要因により、衛星ごと消滅してしまう。
その後、トントン拍子に小説の時間、空間、スケールが拡大して、果ては宇宙規模の壮大な話になっていく。ここらへんの拡大感覚は、解説にあるように、ワイドスクリーンバロックと呼ばれる小説の手法でもある。

登場人物たちは、その時代から抜け出ることができない。そんな彼らを尻目に、何か超常的な存在が時代を超えて動きまわっている。通常の時間に生きる人々と、時間を超えてうごめく存在とが、小説世界をあやなす縦糸と横糸、である。
紡がれていくのは、宇宙そのものをテーマとした壮大な物語。存在の階梯を駆け上がり、時間、宇宙、その果ての果てに近づこうとする意識の物語である。

「2001年宇宙の旅」を遙かに超えるスケールで展開される、SFの傑作。

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形態をめぐる生物学エッセイ

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近著は内容が既読のものと重複してそうで手を出してなかったのだけれど、これは長沼氏にしては目新しいテーマだったので飛びついた。

意外なアプローチだな、と思っていたら、やっぱりもともとはこういう方面には詳しくないそうで、そういうスタンスから進化発生学(エボデボ、と呼ばれる)を学びつつ書いていくエッセイ、という体裁になっていたのはやや当てが外れた感があるけれども、内容は面白く、亀の甲羅の発生学的な由来とか、フィボナッチ数が生物において重要なことなど、聞きかじったことはあってもちゃんとは知らなかったことがさまざまに触れられていて、面白い。

1951年に癌でなくなった人の癌細胞が現在も生き続けていて、しかも遺伝子が変異しすぎてしまってすでに人ではない別種の新生物としてみなされることもあるというHeLa細胞の話にはびっくりした。

「しかし一部の研究者は、細胞株の分類上の議論をまだ続けている。無限に複製するその細胞の能力とヒトとは異なる染色体数から、リー・ヴァン・ヴェーレンはHeLa細胞を現代新しい種の例として、Helacyton gartleriであると論争的に述べた」wikipediaより

あるいは、2000年に発見された「はてな」という生物の話もすごい。この単細胞の藻類は、分裂して二つに分かれる時に、片方にだけ葉緑体を継承する。葉緑体があるほうは光合成ができるけれど、継承しなかった方は光合成ができず、どうするかというとものを食べる「動物」になるという。しかも、ものを食べる方も他の単細胞藻類を食べて葉緑体を獲得すると光合成をはじめて「植物」になるというのだから面白い。動物と植物のボーダーラインを行き来する奇妙な生物だ。

日本植物学会のサイトに、「動物と植物のあいだ?-半藻半獣の生き物ハテナ-」というPDFがあるので詳しくはそちらを見て欲しい。

そこで見られるように、この生物はどのように植物が誕生したのかという疑問について興味深いサンプルとなっている。植物は、捕食性の生物が藻類を取り込むことで誕生したという細胞内共生説が現在有力なようで、つまり植物とは「食べることをやめた」生き物なのだという。「はてな」はその進化の中間段階のものと見られているようだ。


この本、いろいろとても面白いんだけれど、途中微妙に気になるところはある。進化について語る時に、レトリックとしてたびたび「神の御心(デザイン)」という言い方をしていることだ。内容的に創造論を擁護しているところはないので、あくまでも効果的なレトリックとして使っているのはわかるので、単に気になる、というだけだけれど。

あと、構造主義に関連して、読んでない様子のドゥルーズの『襞』という本のタイトルを自説の傍証にするところや、構造主義生物学を擁護しているところは気になった。ダーウィンの「突然変異」と「自然淘汰」に対し、構造主義生物学では、「普遍文法」や「生成文法」のようなものを生物進化に想定する、ということらしいのだけれど、本文の説明だけでは構造主義生物学というのが何なのかよくわからない。わからないけれど、その擁護の仕方が、トンデモ議論を擁護する定型パターンになってしまっているのですごく胡散臭く感じてしまう。

まあ総体としてはとても面白い生物学エッセイだ。個人的にはこの種のテーマをこれ専門の人が書いたものを読みたいと思った。

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失われた<時>、見出された<時>

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最終巻となる今巻では最終篇の続きを収録しているけれども、巻末に詳細な索引等が含まれているため、本文は300頁に満たない程度だ。前巻では文学と経験、第一次大戦などが語られていたのだけれど、特に部を分けているわけでもないのに、今巻の内容はがらりと変わっている。

この巻では、ゲルマント大公夫人邸で行われる午後の集まりに語り手が参加する場面から始まるのだけれど、ところどころの記述からどうも語り手にとっては二十年ぶりの参加らしく、「時」の経過がいかに多くの人に大きな変化が現れたのか、そしてどういう風に関係がかわったのかということを丹念に辿っていく。

その<時>についてのさまざまな考察なかで、重要なのはジルベルトとサン=ルーの娘と対面する場面だろうか。この作品を象徴するものとして、スワン家の方とゲルマントの方があるということは第一篇と第三篇の標題からも知ることができるけれども、ジルベルトというスワンの娘、サン=ルーというゲルマント家の男の子供であるサン=ルー嬢は、語り手の人生における「道」が一箇所に集まる合流点のようなものかも知れない、と語り手は述べている。そこで語り手とサン=ルー嬢との対面が果たされ、そこにサン=ルーやジルベルト、オデットの面影を見出す。

「まだ希望に満ちあふれており、いかにも明るい笑みを浮かべ、私の失ってしまった歳月そのもので形作られた彼女は、私の青春に似ていた。
 結局のところ、この<時>の観念は、私にとってぎりぎりの価値を持っていた。それは人を奮い立たせるもので、私にこう語っていた、もしも私が自分の人生の過程で、たとえばゲルマントの方やヴィルパリジ夫人と馬車で散歩していた折りなどにときどきちらりとでも感じたもの、人生を生きるに価するかのように思わせたもの、そのようなものに到達したいと望むのなら、今こそ始めるべきときだ、と。人が暗黒のなかで送っている人生も光で照らしだすことができ、人が絶えずゆがめている人生もその真の姿に引き戻すことができる。つまりは一冊の書物のなかにそれを実現することができる。そんなふうに見えるようになった今、どんなにかこの人生は私にとって、いっそう生きるに価するように思われはじめたことだろう! そのような書物を書ける人は、どんなに幸せだろうか! と私は考えた。またその人の前には、どんなにつらい仕事が横たわっていることだろう!」247P

こう述べたすぐ後では、読者は私の読者ではなく、自分のことを読む読者だ、私は彼らに自分自身を読むための拡大鏡を提供するに過ぎない、という有名な文学の「光学器械」説を語っている。

人と時について、もうひとつ引用したい箇所はあるのだけれど、それはもうこの作品の終わりの部分で、自分で辿り着いて読んで欲しいところなのでここには引かない。

と、まあこれで最終巻も読み終わり、プルースト「失われた時を求めて」を一応は通読、となったけれど、まあこれ全然読めた気にはならない本だね。終盤で喚起される序盤の場面とかはずいぶん忘れているし、まあそもそも私に読みこなせる本ではないのだけれど、いろいろ面白かったとはいえる。ただ、これ人に勧める類の本ではないなと思った。面白いとか以前に、これだけの長さと密度の本なので、積極的な興味と意志がないと続かないし、なによりも叙述の性質からして、密やかな偏愛を誘う類の小説だと思った。

というわけで、とりあえずこれで一年かけたプルーストマラソンはひとまず終了。なかなか感慨深い。

現在他の出版社から二種の全訳が刊行され出したけれど、どちらもまだ二巻が出ていない状態で、岩波版などは七年がかりの予定だそうなので、いま読み始めるとすると、この集英社版がベストだろうか。ただ、この集英社版、注釈が詳細で充実しているのはいいんだけれど、時々先の展開をばらされるのは不愉快ではある。巻末エッセイもすべて読んだ後の感想だったりして、全巻通読するまで手をつけることができない、というような不親切さがある。

全巻まとめ

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紙の本乙女の密告

2010/08/11 20:58

「どうか、忘れるということと戦ってください」

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赤染晶子は以前、「花嫁おこし」を読んでから変な作家だなと気になって、唯一の単行本だった「うつつ、うつら」もなかなか面白く読んだのだけど、一向にその他の作品が本にならないのはなぜだと思っていたら、なんと芥川賞受賞を受けてやっと二冊目の本が出た。ただ、芥川賞あわせで一作だけの急造本ということがかなり残念だけれど、これから残りの五作もぼちぼち本になるだろう。

というわけで、芥川賞受賞作を出てすぐ読むなんてほとんど初めてのことだ。とにかく一読して、いやこれはかなりのもんだ、と圧倒されてしまった。赤染作品でこれまで読んだものは、笑いをまぶしながらも生活の苦しさみたいなものがじわじわ迫ってくるようなものか、不思議な夢のような雰囲気を持っているところがあったのだけれど、笑いを忘れてはいないけれど、かなりシリアスな問題に切り込んでいっている。赤染晶子はこういうのも書くのか、と意外にすら思った。

この作品は前情報の通り、「アンネの日記」が題材になっている。私は「アンネの日記」を読んだことがないので、その内容、意味づけについてはよく分からないのだけれど、ある家にかくまわれていたアンネ・フランクやその父ら八人のユダヤ人が密告されゲシュタポに連行され、強制収容所で命を落とすという結末を辿る、その密告されるまでの二年間の生活を記したもの、となっている。作中では原タイトルの「ヘト アハテルハイス」(後ろの家=隠れ家)と呼ばれている。

舞台は京都の外語大で、そこには圧倒的に女子が多いという。小説にも女性しか出てこない。いつもアンゲリカという人形を持ち歩いて、女学生たちを「乙女」と呼ぶ奇妙なバッハマンというドイツ人教師は、スピーチコンテストで「アンネの日記」を暗唱する課題を出した。

そんななか、「乙女」たちのあいだで、ある女学生がバッハマンとのあいだに穏やかならぬ関係にあるのではないか、という「噂」が流れ始める。この「乙女」と「噂」が実に重要なキーワードとなっている。「噂」とは「乙女」を「乙女」たらしめるものなのだけれど、その「噂」の対象を「乙女」から疎外してしまう。常に「乙女」たちはお互いに噂を囁きあうことで、お互いが乙女であることを確かめ合う。そこにスケープゴート、「他者」が生まれる。

この小説では、「アンネの日記」でのホロコースト、ユダヤ人問題を、現代の「乙女」たちのいじめの構図に二重写しにすることで、日常のミニマムな「ユダヤ人問題」をえぐり出す、そういう仕組みにとりあえずなっている。そういうと、なんだ、ユダヤ人問題がただのいじめの問題に矮小化されているだけではないか、と思う向きもあるかも知れない。そういう批判が有効かどうかは別として、しかしこれはまだ前半部の構図だ。

次第に主要なモチーフになってくるのは、忘れること、そしてアイデンティティの問題。アンネ・フランクは作中の引用によれば、自身のユダヤ人というアイデンティティに引き裂かれていた。ユダヤ人である、ということは生きていけない、ということであるとともに、ユダヤ人であるということは誇りでもある。しかし、ある日の日記にアンネは書く。

「今、わたしが一番望むことは、戦争が終わったらオランダ人になることです!」

アンネのこの言葉は彼女自身を引き裂く。

小説はそして、乙女が知る必要のない真実を知ってしまったみか子が、他人から密告されるという展開をたどる。私は「乙女」だ、と何度も主張する密告された「乙女」だ。疎外と共同体のメカニズム。小説はさらにアンネ・フランクにかかわるエピソードを踏まえつつ展開していく。そして核心に置かれるのは、「忘れる」ということ、アンネ・フランクとは誰か、ということ。教授は以下のように語る。

「ミカコ、アンネが私たちに残した言葉があります。『アンネ・フランク』。アンネの名前です。『ヘト アハテルハイス』の中で何度も何度も書かれた名前です。ホロコーストが奪ったのは人の命や財産だけではありません。名前です。一人一人の名前が奪われてしまいました。人々はもう『わたし』でいることが許されませんでした。代わりに、人々に付けられたのは『他者』というたったひとつの名前です。異質な存在は『他者』という名前のもとで、世界から疎外されたのです。
中略
『ヘト アハテルハイス』は時を超えてアンネに名前を取り戻しました。アンネだけではありません。『ヘト アハテルハイス』はあの名も無き人たち全てに名前があったことを後生の人たちに思い知らせました。あの人たちは『他者』ではありません。かけがえのない『わたし』だったのです。
中略
どうか、忘れるということと戦ってください」

ここでこの小説は現代の歴史学や思想哲学系でも取り上げられる大量虐殺とその記憶をめぐる問題に突き当たる。大量虐殺はその固有名が無となるような暴力なわけだけれど、だからこそ、一人一人の名前が重要になる。ここでは、忘れる、ということがアンネの名前と同時に、スピーチの壇上での「記憶喪失」のこととも重ねられている。この小説は、展開、設定にさまざまに「アンネの日記」やユダヤ人問題にまつわることが取り込んであり、寓話的、象徴的な雰囲気を持っている。

終盤の展開はこの短文の畳みかけでなかなかに読ませるうえ、こうとしか終えられないラストは決まっている。まあ、そのシリアスな問題にかんしての記述が公式的過ぎて、「優等生」な小説に感じるところもあるんだけど、秀逸な出来だと思う。

作中でもあるように、今年1月、アンネ・フランクを支援した最後の生存者ミープ・ヒースが死去している。もう誰もアンネ・フランクを知るものはいない。書評タイトルに引用した一文はそのことを踏まえて書かれている。

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交易のネットワークを広げる北方の民

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本書は古代から近世までの「エゾ」の歴史を扱っている。国境が策定される以前、大きな範囲で交易を行っていたアイヌ及び北方の人々の活動の広さを見ることができ、アイヌの歴史は日本史の部分史ではない、というのがよくわかる。まあ、北海道が日本になるまえの歴史なので、それは当然の話。歴史学者による著作なのでわりあい硬いのだけれど、非常に興味深く読める。

なお、この本は「エゾ・エミシ」の歴史であって、アイヌ限定の歴史ではない。古代日本における「蝦夷=エミシ」はヤマト王権に属しておらず敵対関係にある人々一般を指す名称であって、固有の民族名称ではないと見られていて、後のアイヌ民族をも含むより広い概念だと考えられている。そして中世以降の「蝦夷=エゾ」はまあだいたいアイヌを指す、というのが通説的な理解になるだろうとは著者もいうけれど、それにはまだ研究が必要だろうともいっている。また中世の蝦夷には渡党、日の本、唐子と呼ばれる三つの勢力があり、特に渡党は中央との繋がりも強く後に松前藩士となっていくなど、一枚岩ではなかった。さらに、蝦夷といった場合、北海道とイコールではなく、本州東北部も含む。

著者も断っているとおり、章ごとに時間的順序に沿って書かれた通史とはちょっと違う体裁の本だけれど、全体の流れは大きな広がりの中で交易を行っていた北方の民が、近代に近づくにつれてその活動が狭まっていく過程としてみることができる。とはいっても、近代以降のような過酷さとは異なる自由度は存在したようではある。

アイヌ、松前藩、中央という三者の関係も単純な上下関係ではないところがあったりするなどしている。中近世のエゾと中央との関係史はなかなかに複雑なところがあるのだけれど、それが面白いところだ。

特に印象的だったのは、十三世紀後半にアイヌ民族と見なされている人々と元とが四十年にも渡る交戦を行っていたというところだ。著者はこのような継続的な戦争を行いうる支配力を持った人物はおそらく蝦夷管領の安藤氏だろう、と論じている。元とアイヌが戦争をやっていたとは知らなかったけれど、北方民は黒竜江の上流の方まで交易に訪れていたりしていたというから、近代以前、中近世の人々の活動範囲はかなりのものがあったのだろう。ここらへん網野善彦も日本という枠をこえた中世の人々の交易範囲の広さをよく論じていた。両者とも、日本という枠に収まらない、というか近代以前の交易のネットワークを示すことで、国境という概念を相対化してみせている。

だからこそ、近代化のなかで分断され、ネットワークが寸断されていくことで、民族としての活力を失っていくというようなことになってしまうのだろう。この時代の歴史を読むと、今のようではない国のかたちの可能性を考えてしまう。


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東欧、旧共産圏文学のアンソロジー

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本書は岩波書店から出ていた今福龍太、沼野充義、四方田犬彦編集による世界文学アンソロジーシリーズの第三巻。この巻の「夢のかけら」という表題には、実現されたユートピア――共産主義、社会主義体制の後、という意味が込められていて、選ばれた書き手の出身国も、ユーゴスラヴィア、ポーランド、アルバニア、チェコ、中国、ロシア、ハンガリー、イタリア、コロンビア、東ドイツとあるので大体の傾向はつかめると思う。もちろん作中に夢を題材にしたものもあるし、マルケスやイタリアの作家なんかも入っているけれど基本的には東欧、旧共産圏アンソロジーだと言える。

これを読んだのはカダレの短篇目当ての他に、最近興味を惹かれている松籟社の「東欧の想像力」叢書から出ている作家が四人(カダレ、フラバル、キシュ、エステルハージ)も載っているので、試し読みに好適というのもある。

カダレはもちろんかなり良かったのだけれど、もっとも感銘を受けたのはセルビア語で書く、ユーゴスラヴィア出身のダニロ・キシュ「死者の百科事典(生涯のすべて)」だった。これはもう、素晴らしいと思った。

「死者の百科事典」というのはその名の通り、ある人物の生涯がすべて記された百科事典という代物で、まったく無名の人物の生涯が余すところなく、しかし簡潔に記されている、という超自然的な書物。ある女性が「王立図書館」に連れられてそこを物色している時に見つけたのが父の生涯が記された百科事典だった。彼女は急いでその事典を読み、その要約を作っていき、その概要を「あなた」に宛てた手紙にこうして記している、という体裁になっている。

まったく無名のある人物の一回限りの二度とない生涯の、そのすべてを記した書物について、女性はこう述べる。

「人間の歴史にはなにひとつ繰り返されるものはない、一見同じに見えるものも、せいぜい似ているかどうか、人は誰でも自分自身の星であり、すべてはいつでも起きることで二度と起きないことなのです、すべては繰り返される、限りなく、類いなく。(だから、この壮大な相違の記念碑、『死者の百科事典』の編者たちは個なるものにこだわるのです、だから、編者たちにとっては一人ひとりの人間が神聖なのです。)」

この「死者の百科事典」という発想は、キシュの父はアウシュヴィッツに送られ帰らぬ人となった、ということをどうしても考えさせる。ホロコーストでは大量の人々が計画的に絶滅させられるという生の尊厳を根底から覆す事態が起こってしまったわけだけれど、この「死者の百科事典」はその不条理な事態に抗して人間個々の神聖さを取り戻そうとする試みに思える。

これはつまり、キシュにとって小説、文学とは何か、という問いに対する一つの答えなのだろう。「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である」というアドルノの言があるけれど、この小説を読むと、キシュは「アウシュヴィッツ以降こそ、文学が書かれなければならない」と言っているように思えた。

これは短篇なので、「父」の生涯は百科事典を読んだ女性の要約、というかたちでうまく圧縮されている。ラストの短篇小説らしい流れもいい。

アウシュヴィッツで死んだ自身の父を正面から題材にして、長篇で展開したのが主著の自伝的三部作。そのうちのふたつが河出の全集の「庭、灰」、「東欧の想像力」の「砂時計」がいま手に入る。しかし、「死者の百科事典」が収録されている短篇集と、三部作の一角をなす「若き日の哀しみ」は、十年ほど前に東京創元社から出たっきり絶版になっているのが惜しい。

イスマイル・カダレの「災厄を運ぶ男」はさすがの面白さだ。これはオスマン帝国時代に併合されたばかりのバルカン半島に対してチャドル(イスラム教徒の女性が付けるヴェール)着用令が出された、という設定になっている。いまだチャドルをつけない野蛮とみなされた、アルバニアを含むバルカン地方へ帝国の使いの男は旅立つのだけれど、途中でヴェールを付けない快活な美しい女性たちにすっかり魅了されてしまう。しかし彼はその女性たちの顔を覆う五十万枚のヴェールを運んでいる、という話で、やはり「アルバニア」を外から眺める視線を導入しているのがカダレらしい。帝国が辺境を文化的に同化する、というあたりこれはむしろ現代的な話のようにも見える。塩川伸明の「民族とネイション」でのオスマン帝国の解説を見るに、多民族、多言語、多宗教の帝国と述べられていて、着用令が史実かどうかは知らないけれど、オスマン帝国時代にはむしろこうしたことは行われなかったのかもしれない。沼野の解説でも書かれているように、「誰がドルンチナ~」ともども、中世を舞台にして現代を描く手法を用いた一作なのだろう。

ガルシア=マルケスの「海岸のテクスト」は夢ネタのショートショート三本、という体裁で、記者時代の文章なのだけれど小説と言っていいもののように思う。コラム扱いの記事らしいのだけれど、雑誌や新聞にちょこっと載ってたら楽しくなるような作品。新潮社の小説全集には入っていないはず。

ステファノ・ベンニの「最後の涙」は同名の短篇集から二篇を採録なので、「最後の涙」という短篇が載っているわけではない。「悪い生徒」と「新しい書店主」が収録されていて、ネタ自体はわりとべたなSF風、怪奇小説風なもので普通なのだけれど、「新しい書店主」の「紙魚たちは不服」というフレーズは面白かった。

ボフミル・フラバル「魔法のフルート」は政治的騒擾を背景にした作品なのだけれど、これだけでは何とも。句点のほとんどない迸るような文体で、さまざまな思想家作家の名前が出てくるのは「あまりにも騒がしい孤独」と似ている。そして「騒がしい孤独」というフレーズがこれにも出てくる。

中国の残雪は名前が格好いい。河出の全集にある「暗夜」が気になってる。何とも不思議な、意味深そうな話。

アナトーリイ・キムはそういえば群像社ライブラリーから一冊出ていた。語り手が時折変わっていく不思議な語り口の作品で、なかなか面白い。朝鮮系ロシア作家。

エステルハージ・ペーテルはハンガリーの大貴族の末裔で、名前で気づいた人もいるかと思うけど、ハンガリーは苗字が先のようだ。本書所収の「ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし」は同名の「東欧の想像力」叢書で出ている長篇の一部で、ここでは副題に「見えない都市」とある。もちろん、カルヴィーノの同名の小説のことを指していて、それに倣って断章形式にして、「見えない都市」の文章をそこここに挿入したり、名詞部分だけを「ブダペスト」に変えてみて一章分まるまる持ってきたりして、カルヴィーノの「見えない都市」を、エステルハージ流ブダペスト論に仕立て上げている。ハンガリーポストモダン文学の旗手らしいのだけれど、なかなか人を食った小説だ。長篇ではどうなっているのかちょっと気になる。

というわけで、なかなか面白いコンセプトのアンソロジー。キシュを読めたのは存外の収穫。カダレも流石だ。
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トリビアからたどるアルバニアの今

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アルバニア、と言われても全くイメージがわかない程度にはバルカン半島に詳しくない私なのだけれど、アルバニアの小説家イスマイル・カダレを読んでみて、さて、アルバニアとはどんな国か、というのが気になり「死者の軍隊の将軍」の訳者でアルバニア語の専門家だという井浦伊知郎のこの本を見つけたのでこれは機会とさっそく読んでみた。

アルバニアがどこにあるかというと、ヨーロッパの南部、ギリシャの隣でマケドニア、コソヴォ、セルビア、モンテネグロに隣り合い、アドリア海を挟んでイタリアの「かかと」に向かい合っている。旧共産圏の意味で「東欧」と呼ばれるけれど、国連の分類的には「南欧」。

構成としては書名通り、アルバニアにまつわる国際的なつながり―マザーテレサはアルバニア人だとかのどこの国の誰それはアルバニア系とか、事件事故で出てきた名前からアルバニア系だということに感づき、ニュースを追っていく話とか―を示すトリビアルなエピソードをこれでもかと並べていく、連続コラムのような体裁になっている。

国としての知名度がまずもって相当低いため、また共産主義政権時代の鎖国などのため資料が少ないといった事情からか、そうした面白トリビアで興味をひく手法なのだけれど、ただの雑学には終わらずに、背景事情にまつわる細かい解説、現地を何度も訪れている著者ならではの写真、観察などが盛り込まれていて、大変面白く読める。なんというか、これ金取れるだろう、というブログを本にしたような面白さ、っていうのか。そういう入りやすさと面白さがある。それでいて守備範囲がかなり広く、アプローチも多様で、大きな網で総体的にアルバニアを捉えよう、という試み。アルバニアに乗り入れていた航空会社の時刻表がどうこうとかのネタに至ってはこの人マジですごいなと思ったらその記事だけは他のライターさんのだったりもした。

それだけではなく、冒頭にはアルバニア史の概説が置かれ、巻末にはアルバニア語の文法、参考文献一覧等があり、きちんとしたガイドブックとなっているところが良い。

とは言いつつも帯に「世界一マニアックな国」とか、叢書名が「共産趣味インターナショナル」とか、何でカバーをアルバニアで人気のヒップホップユニットの写真にしたのか、等のネタっぷりが面白すぎる。トリビア主導の記事構成とか、かなり遊んだ感がある本だ。そうしたネタっぽさと真面目さが良い塩梅で配合されている。

表紙の煽りに「鎖国、無神論、ネズミ講だけじゃなかった」というのがあるんだけど、むしろ私はこっちの方が全然知らなかった。特にネズミ講ってなんだ、と思ってたら、90年代に民主化して市場経済に移行した時、ネズミ講が大流行して人口の三分の二がはまったのだという。六割。しかも、このネズミ講を政府も推奨していたらしく、配当金が支払われないとなるや反政府暴動に発展し、主要都市をあらかた巻き込み死者二千人を数え、諸外国が自国民の救出作戦を発動させるまでになったらしい。

で、しかもこれ、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の当事者に兵器売った金で配当金を支払ってたらしい。なんたるカオス。

この本は著者が自分で撮った当地の写真が結構載っている。特に面白かったのが、アルバニアのファーストフード店を紹介する下りで、ロゴもそっくりのマクドナルドに似たハンバーガーショップの次に出てきた、「Yahoo!」という店の写真。似ているというレベルではなく、ロゴもそのまんまコピーしたような「Yahoo!」で、なぜかファーストフード店。あと、子供向けのアニメ雑誌では「ドラゴンボール」の悟空とベジータが表紙を飾り、竹内直子のセーラームーンの字が見える。

写真が多くて面白いのだけれど、どれもモノクロなのが残念。特に、ティラナ市長の政策として、市内の景観をカラフルにするというのがあるらしいのだけれど、モノクロだとそれがわからない。でも、ネットならすぐにカラー写真が見られるので検索してみると、確かにやたらカラフルな建物がぽつぽつと見える。

欧州はどこもそうなのだろうけれど、この本でも多く扱われる、民族、文化、宗教、国家が、複雑な層をなしているのが印象的だ(つまりこんがらがってあまり覚えていない)。大多数がムスリムではあっても、イスラム教の影響力はほとんどなく、女性は普通に肌を出して歩いているし酒も飲むし豚も喰う(喰わない人もいるけれど)。アルバニア人がアルバニアにだけいるわけではなく、コソヴォにもかなりいるし、他の国にもいる。アルバニアは特に宗教的な無関心が特徴らしく、そこら辺は日本人みたいだと著者も書いている。特に見た目では民族的、宗教的対立が目立たないらしい。ここら辺なんだかポジティブなカオス、という感じで面白い。

アルバニアは割合に平和的に見えるのだけれど、では他の地域で紛争が絶えないのは、民族的、宗教的対立というのとは違った要因があるのだろうか。


しかし、歴史的経緯は確かに参考にはなったけれど、カダレの作品理解の助けになるかは微妙な感じ。フランス語版の訳者にまつわるエピソードとかは面白いけれど、基本的に現代文化からのアプローチが多いので、古典的な文化とか伝承とか習俗とかであまり参考になる情報はないかな。ただ、アルバニア人は遠方からの客を手厚くもてなす人たち、という描写は「~四月」と「ドルンチナ~」の掟を思わせる。それと、まだ訳されていない直近の政治的情勢を扱った一群の小説の参考にはなるだろうと思う。

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「祟る神」から「罰する神」へ

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中世の思想、宗教にかんする議論を主なフィールドとする佐藤弘夫のこの本では、冒頭、長谷寺で護法童子のアマテラス像を見たことを枕に、古代から中世にかけての日本において、神仏の世界がいかなる変貌を遂げたのかを検証している。

本書はアマテラスと銘打ってはいるけれど、全体的には中世の神仏習合にかんする議論が主で、アマテラスの割合は薄い。とはいっても、中世の神仏観について独自の見解を提出していて、非常に読み応えのある本だ。

佐藤は古代から中世にかけての神仏概念の変遷を、ひとまず「祟る神」から「罰する神」へ、というかたちで捉えている。このキーワードは「命ずる神」と「応える神」とも言い換えられる。そしてこの変化に関わるのは仏法の浸透がその大きな要因として存在している。と、ここまで言えば佐藤がここで展開している議論の図式がだいたい分かった人も多いと思うけれど、どういうことか紹介してみる。

「祟る神」の事例として挙がるのは允恭天皇と仲哀天皇だ。允恭天皇の件は狩りの時、獲物がまったく獲れないという程度の害だったのだけれど、仲哀天皇は熊襲討伐のおり、神功皇后に憑いた神の託宣を無視したことで、祟りを受けて死んでしまう。

このくだりに出てくる神は、いま私達が観念しているような祈りを捧げて御利益を願う、というような神では全くない

「神は、特定の社に常住していていつでも気安く人の願いを聞き届けるものとはみなされていない。どちらの話(仲哀、允恭の件・引用者註)でも神は何の前触れもなく突然出現して、人々にある命令を下した。その指令に従わなければ、人は神の下す過酷な災いを避けることができないのである。人々があらかじめ神の出現を予知することは不可能だった。また、神が何を要求してくるかも予測のたてようがなかった。そもそも。指令を下した神の名さえ当初は不明であった。それがいかに不合理なものであっても、人は神の下す命令に無条件に従うしか道はなかったのである」19P

古代の神はこのような「命ずる神」だったと佐藤は言う。そして祟りというのは神意をそこに見出すべき神からのメッセージの表れだった。人々はその祟りを解読し、そのメッセージの意味とどの神からの祟りなのかを特定するために奔走しなければならなかった。

しかし、平安時代にはいると不合理な祟りという悪い側面はもっぱら邪気、霊気、モノノケといった邪霊が担うようになっていく。それと平行して、神の作用は「罰」と表現されるようになっていくという。

そして、「罰」と同時に、「賞」という言葉もセットで用いられるようになっていて、神の下す作用が、ある基準を持った合理的なものへと変化していることが見て取れる。この「祟り」から「罰」への変化は、同時に神の性格の変化だ。「神は人々を仏法に結縁させるべくこの世に垂迹したとみなされていたがゆえに、仏法への敵対はとりもなおさず守護神への敵対と見なされ、下罰の対象とされた」。

「神は信心を要求し、人々の態度に応じて賞罰を下す。(中略)中世に入ると、神はあらかじめ人がなすべき明確な基準を示し、それに厳格に対応する存在と捉えられるに至っていた。私はこうした性格を持った神々を〈応える神〉と規定したいと思う」46P

古代の神は、人格的と言うよりは自然そのものの擬人化に近いように思える。まず祟りがあり、それを解読し原因を追及し対策する、という一連の流れは現代の自然災害に対するそれのようだ。そうした神が、仏教による神仏観の変遷によって、仏法を背景にした合理的存在へと変化し、同時に、現実の不合理を象徴する存在として邪霊、モノノケの存在がクローズアップされるようになっている。

ここまでは常識的な神仏習合論に見えるけれども、独自性を発揮するのはここからになる。佐藤は、起請文という史料から、中世人にとって仏がどのように見られていたかを検証していく。起請文は「人が約束や契約を交わす際、それを破らないことを神仏に誓う文書」で、そこには主にこの地に垂迹している土着の神が勧請されるのが普通だけれど、同時に仏も勧請されていることが少なくない。

神仏習合理論としては、仏は次元の異なる世界に住まう存在であり、直接人々に作用するのは垂迹した土着神の役割のはずだ。そこで、勧請されている仏の特徴を探してみると、どれもが仏像などの形で、国内に特定の場所を占める存在であることがわかる。これらの特定の仏は、他界にあって救済を行う仏とは異なる役割を持たされており、賞罰を司る神と同質の働き持つと見なされていた。ここにおいて、中世の神仏は、神と仏という単純な二分法ではなく、彼岸の仏と、此土の神仏という形で把握されるべきだと佐藤は主張する。

また中世において、この賞罰を司る神仏は、同時に荘園制を背景とした世俗化にさらされることにもなったという。この時期、寺社勢力が国家から独立し、荘園領主となるのだけれど、その時、田や金銭の寄進を仏法への結縁と位置付け、宗教的善行とみなすのに伴い、年貢、公事の出し渋りはとりもなおさず神仏への敵対と見なされ、そうしたものたちに対しては神仏の名において脅迫を加えると言うことが行われていたという。


そしてアマテラスの話になる。皇祖神として至高の地位を持つアマテラスだけれど、古代から中世のコスモロジーの変容のなかで、その位置付けも変わっていった。以前は私幣禁断の制によって、天皇家以外の参拝を禁じていた伊勢神宮は中世に入ると「日本国主」として開かれた信仰の対象へと変化していった。アマテラスは天皇家の神から、日本全体を知行する開かれた神へとそのポジションを微妙にずらしていく。皇祖神から国家神への変貌といえる(溝口はこれを同義として用いていたけれど、佐藤の観点からは異なる意味を持つことになる)。

これがアマテラスの地位の向上かというと違う。中世日本は須弥山から遠く離れた辺土粟散であり、そのために仏ではなく神が垂迹していると考えられていた。つまり、この意味ではアマテラスという国主は、ヒエラルキーのなかでは仏教の梵天、帝釈といった諸天からすれば明らかに下位の存在として観念されていた。

「中世における「日本国主」の称号は、日本全体の主宰神であることを強調すると同時に、日本という特定の限られた領域の主に過ぎないことを意味するという、二つの側面があった」146P

皇祖神アマテラスもこのなかで、護法神的な性格を帯びるようになっていく。同時に天皇も仏教とは無縁であり得ず、葬式が仏教的な形をとるようになり、秘印を結び、真言を唱える即位灌頂という儀式を行うようにもなっていく。中世はそうした仏教的世界観の覆う時代だった。

この本地垂迹理論と日本のローカリティについては、「「神国」日本」でより丹念に論じられているので、そちらを参照してもらいたい。神国思想が元々は日本の絶対的優位性を説くものではなく、上記のアマテラスの位置づけのように、普遍的な仏法に対する日本の固有の位置づけ(仏教的世界観に日本を組み入れるとということ)を説くものだったというのが佐藤の主張だ。

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