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  3. kingさんのレビュー一覧

kingさんのレビュー一覧

投稿者:king

231 件中 46 件~ 60 件を表示

紙の本白暗淵

2010/02/10 21:29

日常にこそ宿る危機

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

古井由吉は毎日新聞のインタビューに答えてこう語っている。

「一夜のうちに焼き払われる空襲なら、ささやかでも物語にはなる。戦後の経済成長による変化は日常のうちに起こったために出来事としてつかまえられない。ところが、前後では戦災と同じほどの断絶が起こった。その変わりようを切れ切れに拾っていければと」

古井の認識では先の戦争も、また経済成長に伴う変化もまた「戦争」として捉えられていて、「野川」ではその二つの戦争が大きくクローズアップされている、と以前書いたのだけれど、この認識は今作にもあてはまる。高橋源一郎は「野川」を戦争小説と評したけれど、今作もまたその意味で「戦争小説」あるいは「戦後小説」といえるだろう。

上掲のように戦争はそれ自体が明確な危機として物語にはなる。しかし、古井由吉が注目するのは、事件そのものよりは事件のあとの、落ち着きを取り戻した日常に伏流する危機のほうだ。一見、落ち着いたかに見える日常や馴れた景色のなかに、何か不穏な、崩れのきっかけを見いだす古井由吉の文体は、とてもスリリングでそして不穏な予感に彩られることになる。この、日常が危機に反転してしまう独特の認識の文体、これが古井由吉の方法だといえる。

これを古井由吉の鋭敏な感受性、といってしまえばそれまでだけれど、そこには古井のこの戦後の日本社会に対する認識がある。終わったあとにこそ危機が伏在する、という感覚は古井の死生観ともあわせて重要なものだと思う。

書評などを見ると、古井由吉の認識や死生観だとかそういうものが、やや抽象的な物として捉えられているように思う。しかし、古井由吉の独特と思える認識は、戦争と戦後、経済戦争とバブル崩壊、というような現実の「戦争」を土台として育ったものではないか。

「戦後にも、工場や学校の始業を報せるサイレンがあった。始業の時刻のだいぶ前から鳴らされ、その音の下で八方から、遅れかけた者たちが足を急かされる。近隣の住人たちから、あの戦時下の嫌な音を毎日毎日聞かされるのはかなわないと苦情が寄せられて、おいおい取り止めになった。あれは動員の音でもあった。動員はどこかで死へつながる。しかし空にサイレンの音が絶えてなくなったあとも、万事において、動員の時代は続いた。そのうちに、救急や警察や消防の車のサイレンの音からも、人の耳に徒に恐怖を掻き立てることを憚ってか、以前のサイレンに特有だった、陰惨な唸りができるかぎり抑えられた。その頃になり、アラームと称しながら警戒音の素性を隠した電子音に、人は日常、取り囲まれて暮らすようになった。警戒音とも知らず、アラームに従って行動する。アラームに促されて、やはり動員される」42-43P

先に引いたように、「戦後の経済成長による変化は日常のうちに起こったために出来事としてつかまえられない」という認識が古井にはある。であるとするなら、その日常の微細な変化をつねに見据える古井の文体が何のために必要なのかは明らかだろう。


また、日常が不穏に満たされるこの感覚は、劇的な事件や超現実的なものの出てこないホラー小説と呼べるのではないか。ホラーという観点からは収録作品中では特に「撫子遊ぶ」が幻想小説的な構成となっていて面白い。ここでは応天門の炎上とか文久年間の疫病の流行という説話的事件が、知人の父親の生前の夢と二重写しになるきわめて鮮烈な展開になっている。これは特に印象的な一篇。

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紙の本死者の軍隊の将軍

2010/01/04 23:15

外国人の目を通して見た自国

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

戦後二十年ほど経ったある国の将軍が、戦死した兵士の遺骨回収を命じられて、アルバニアの地を踏むところから話は始まる。将軍、それとアルバニア語を解する司祭の二人を中心人物として物語は進む。将軍は戦時中にアルバニアを占領していたイタリアの軍人であろうことは歴史的経緯からも確実なのだけれど、作中では一度も明示されない。作中では一貫して、将軍、司祭、技師、中将、兵隊さんといった呼ばれ方をしている。固有名で呼ばれるのはアルバニア人あるいは一部の女性ばかりだ。

この作品が書かれたのは1963年。作中での時間とほぼ差はないだろう。二十年前という時間は、戦ったことを忘れるには短すぎ、死んだ兵士を掘り起こす作業は、アルバニア人の微妙な敵意を呼び起こす。ひどく暗い、徒労感にあふれた作品で、物語には断絶が刻み込まれている。

戦後の二十年という時間が遺骨の発掘を難しくし、敵国同士の遺恨は消えず、生者の将軍が率いるのは青いナイロン袋に入った死者の軍隊で、言葉の壁もあり、さらには同行する司祭との仲も離れていく。この圧倒的な溝の深さには唸るほかない。死者を掘り起こし、死者の記録、村人たちの記憶に触れ、同行する男の死に見舞われ、延々と死に近づいていき、将軍はさらに自分の身長が遺骨を持ち帰らねばならぬ大佐と同じ一メートル八十九センチであることに気がつく下りは怖気を震う。かといって彼は死者ではなく、孤独のなかに突き放される。

面白いのはこの断絶を書くに当たって、カダレはイタリア人将軍の目からアルバニアを描いた、というところだ。アルバニア人が異国に赴くというのでもなく、アルバニア人であるカダレが、イタリア人の目からアルバニアを描く、と言うひねりを加えた方法がとられている。そして描かれるアルバニアがまたなんともいえず野蛮さや後進性を強調したものになっている。

司祭は言う。

「アルバニア人というのは、粗暴で後進的な民族ですよ。彼らは生まれたばかりの頃から、揺りかごに銃を置いてもらっていて、だからこそ銃は彼らの生活に欠くことのできない部分になっているのです。
―中略―
アルバニア人はいつだって、殺し、殺されたいと望んでいるんですよ。彼らは殺し合いますが、戦う相手が誰であるかはどうでもいいのです。彼らの血の復讐について、お聞きになったことは?」36頁

司祭はこうしたアルバニア人を蔑んだような持論を繰り返し展開する人物で、かなり執拗だ。かと思えば、アルバニア人技師が「復讐でアルバニア人の心理が説明できると思う外国人は時々いますがね、失礼ながらそんなものは、ただのたわごとですよ」と釘を刺す。

司祭に対して将軍はもうすこしアルバニアに親しもうとしている。ただそれもやはり断絶に押し返されることになる。

自虐的なようでいて強烈な皮肉のようであり、アルバニアの前近代性を批判しているように見えて、逆のようでもある。かなりアンビヴァレントなものが見え隠れする書き方で、国外留学組の知識人が自国を批判するというような単純な構図ではないだろう。ここら辺は後の「砕かれた四月」「誰がドルンチナを連れ戻したか?」あたりにも感じる。これらの作品では「アルバニア」とは何か、という問いがつねに大きな背景として存在している。自国を肯定的に見る目と批判的に見る目とがねじれて繋がっているような印象だ。もう一冊の訳書、「草原の神々の黄昏」も、国外留学の時の話に関わる自伝的作品らしく、「アルバニア」というのが各作品を貫く大きなテーマとしてあるように思う。

トーンは常に暗いのだけれど、そのなかでも印象に残るエピソードが二つ。街に娼館ができ、そこに軍人が出入りするようになって、というものと、脱走兵が脱走先の農家に雇われて、そこの娘に恋をする話。どちらもやはり暗い結末なのだけれど、巻末の解説を読むと、娼館の話の舞台になっているジロカスタルという街はカダレの故郷だった。これはたぶんカダレが見聞きした実際の話なのだろう、と訳者が書いている。

印象としては「砕かれた四月」に近い。死が大きなモチーフとして迫ってくるところもそうだけれど、鬱屈というか、断絶というか、そうしたことがらの重さが圧倒的なところが特に。山岳地帯、とか復讐とかのモチーフが作中にさらっと出てくるところは後の「砕かれた四月」を予示しているようで興味深い。

なお、塩川伸明「民族とネイション」で、クロアチア、セルビアの民族間対立に触れ、第二次大戦期のファシスト・イタリア保護下のアルバニアに併合されたコソヴォについて「アルバニア人の多くはドイツ・イタリアと協力してセルビア人虐殺に加わった。このような大規模な民族間の相互殺戮は、戦後長らく「忘れられるべき汚点」とされ、語ること自体が抑圧されてきたが、それが数十年後に噴出することになる」と述べている。想起すること、記憶を掘り起こすことを主軸に据えた「将軍」は、この「忘れられるべき汚点」を同時に掘り起こすものとして書かれ、読まれたのだろうかと考えた。これが世界的に出世作となった理由とも関係するのだろうか。

訳者のサイトでは多数の未刊行の翻訳が掲載されているので必見。
http://hb6.seikyou.ne.jp/home/iura/perkthim.htm

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紙の本ルポ最底辺 不安定就労と野宿

2010/01/04 20:29

最暗黒の日本

6人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「<野宿者襲撃>論」の生田武志の新著。前著もとても重く、考えさせられる本だったが、本書も凄い。

「ルポ」とあるように、本書は日本最大の寄せ場である大阪釜ヶ崎の野宿者、日雇い労働者などが置かれた状況を非常に具体的に解説した本になっている。前著では「野宿者襲撃」についてのわりあい理論的な考察が主題としておかれていたが、本書では二十年間野宿者支援活動を続けてきたという著者の経験を積極的に取り込んで、生々しく説得力ある本となっている。

これを読むまで知らなかったが、生田氏はじっさいに釜ヶ崎で日雇い労働者として何年も生活を続けてもいたようで、日雇い労働の現場の経験がいくつも書き込まれていて、その状況の凄まじさには言葉がなくなってしまう。

野宿者のおかれたどうしようもない悲惨な状況が何度も出てきて、読んでいると、涙が出てきそうなほどだ。著者は、自分が出会ったいくつもの事件についてもことさら感情を煽ったりせず、冷静に文章を綴っているのだけれど、何気なく数行で終わってしまう描写の裏には、大きな感情の動きがあったのだろうことがうかがわれて、ただ黙り込むしかなくなってしまう。たとえば冒頭にはチョークの線が書かれた小さな写真とともに、「著者が通報した路上死の跡(2007年5月)」とキャプションが付いている……

この本に書かれていることには重要なことが多すぎて、できることなら全ページ引用したいくらいだ。それだけ興味深く、重要で、面白い本だ。少しでも貧困、野宿者、労働などなどの問題に興味があるなら、是非とも読まれることを薦める。

「日本社会が抱える労働、差別、貧困、医療、福祉の矛盾が集中する『日本の縮図』」

釜ヶ崎では、労働の非正規化が進み、フリーターが増加し、ワーキングプアが問題になるはるかまえから、同様の問題に直面してきた。その釜ヶ崎を丁寧にスケッチした本書は、現在日本の労働問題に直結している。これは、そんな日本のなかでも年間二百人が路上死しているという「最暗黒の日本」についてのルポルタージュだ。

内容の具体的な説明は省いて、もっとも印象的な場面を引用する。

「ぼくはこの20年近くの間に、何度か死者の第一発見者になった。これは、ある程度長く野宿者に関わる活動をやっていると避けられない現実である。そして、死者は冬と梅雨期に集中する。冬は寒さによって、梅雨は仕事がなくなることによって。
 毎年、釜ヶ崎では「越冬闘争」中の年末から春まで毎日夜回りが行われるが、そのときに特に亡くなった野宿者に出会うことが多い。2003年の越冬では、夜回りに参加した高校生のグループが、釜ヶ崎地区内でうつぶせになって毛布もかぶっていない人に出会った。声をかけたが、返事もなく、触ると体が冷たくなっていた。もう体が硬直していたが、みんなで体をさすって「兄さん、兄さん、みんないるよ、がんばって」と声をかけ続けたという。救急車が来たが、死者に慣れている隊員は「この人はもう死んでいますよ」と病院には行かず、そのまま警察に行った。学生たちは体をふるわせて泣き、夜回りのあとでみんなで黙祷をした。その中にいた女子生徒たちは、宿舎に帰ってから泣き出してパニックになったという。人間はいろんなものに慣れていくが、自分のすぐ横でみすみす人が冷たくなっていくという現実には慣れることができない。しかし、路上死が年間200人以上ということは、こういうことが毎日のように起こっているということである」118P

このすぐ後に、養老孟司の「バカの壁」から以下のような発言が引用されているのは痛烈な皮肉になっている。

「働かなくても食えるという状態が発生してきた。ホームレスというのは典型的なそういった存在です」「ホームレスでも飢え死にしないような豊かな社会が実現した。(…)失業した人が飢え死にしているというなら問題です。でもホームレスはぴんぴんして生きている。下手をすれば糖尿病になっている人もいると聞きました」

糖尿病は生活習慣以外が原因のものもあるのだけれど。


より詳しく紹介した続きはこちら

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紙の本挟み撃ち

2003/06/21 19:51

矛盾を矛盾のまま追求していくこと

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

一体どのようにしてこの作品について書くことができるだろうか、と思う。まごうことなき後藤明生の代表作であり、日本文学のなかでも異質な方法的意識でもって書かれた「挟み撃ち」はいつも私にとって一つの謎である。その全貌を描こうとすれば逐一書いていくしかなく、それでは字数の限られたここでは不足に過ぎるだろう。あえてここは作品を迂回しよう。

矛盾があるとして、その矛盾を解決しようとせず、矛盾を矛盾のまま追求していくこと、と後藤明生は自身の作家的態度を表現した。矛盾とは、われわれ現代人の生の実相である。現代とは誰もが故郷喪失者である時代であるともいう。

中学生の時に敗戦を体験し、軍人になろうという夢を抱いていた後藤少年は、初期の短篇「赤と黒の記憶」にこう書き記している。

「不自由を不自由と感じ得ず、また、自由を自由と感じ得ない、悲劇的で滑稽な役割を負わされた自分に気付いた時、屈辱以外に、一体何を感じ得るだろうか」

戦中と戦後とに「挟み撃ち」された少年の述懐である。また、後藤明生が生まれたのは朝鮮の永興であるのだが、そこは敗戦直後、日本でなくなる。現実的な意味で、後藤明生は故郷喪失者である。だが、彼はそれを何かしら特殊なものとして称揚したり、特権化したりはしない。それが現代の様相であるという視点だからだ。

また、引用のなかでの「悲劇的で滑稽」という文言が後藤明生にとっては決定的に重要である。現実に引き裂かれた自分を、悲劇的であると見る自身の目と同時に、滑稽であると見る他人の目、もうひとつの目が、彼の主要なモチーフであるからだ。見る=見られる、それは、笑う=笑われるという関係の変奏である。この世はつまり、いつも誰かは他人に笑われているのだという関係。私と他人とが同じ地平に立っていて、どちらもが相対的なポジションであるという「楕円の世界」とは後藤明生の基本的な世界の捉え方である。
それがまた、「喜劇」の舞台装置なのだ。絶対的な神の退場により、すべてのものが同じ地平に立っている近代とは、まさに喜劇の時代ではないか。喜劇とは、物語の構造の問題であり、実際に笑う笑わないという判断によるものではない。それはレトリックである、と後藤明生は言う。

そろそろ、「挟み撃ち」に戻ろう。ここで後藤明生が試みようとしたのは、現代人の様相を、様々な方法を用いて、喜劇として書くことだった。現代とは何か、現代人の矛盾とは。そのような問いが頭にあったであろうことは推測できる。

ある朝、主人公である語り手はとつぜん思い立ち、過去に上京してきた時に着ていた陸軍歩兵の外套を探すことにする。外套はもちろん今手元にない。どこに行ったのかも思い出せないし、いつどこで無くなったのか、それすら分からない。だが、まさにとつぜんそれを探すことにして、今まで自分が移り住んできた土地を訪ねていくことを決める。

ここから、語り手は探索の旅に出る。注意しなければならないのは、実は小説の始めと終わりでは数分しか時間が経っていない点だ。語り手は最初から最後まである橋の上に立っており、作品全部は回想なのだ。語りに仕掛けられた罠こそが本作での主要な部分である。どんな素材でもそれを喜劇に変換するのが文体であるという後藤明生の考えは、ここで遺憾なく発揮されている。
過去から現在を縦横無尽に繋ぎわたり、あらゆるテクスト(ゴーゴリ「外套」、永井荷風「墨東奇譚」、獅子文六、島崎藤村など)を引用し、テクストと今とのズレを露わにし、畳みかけるように疑問符を連ねたものの解答を放り出し、本題から逸脱し続け、標題の「挟み撃ち」という言葉が作品の主題でもあるというようにさまざまな「挟み撃ち」的状況を構成していくのだ。

果たしてこれは喜劇たり得ているのか、現代を描くことができているのか、そのような問いを「挟み撃ち」に投げかけることはできるだろう。

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われわれは自身のことについて無知である

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

タイトルは冒頭の60頁ばかりの論文にちなんでいる。ここでチョムスキーは現在の民主主義がほとんど全体主義と化している状況を描き出していく。この論文の冒頭には、民主主義のふたつの概念が掲げられている。
ひとつは
「一般の人びとが自分たちの問題を自分たちで考え、その決定にそれなりの影響をおよぼせる手段をもっていて、情報へのアクセスが開かれている環境にある社会」
これは辞書的な定義である。

もうひとつは、
「一般の人びとを彼ら自身の問題に決してかかわらせてはならず、情報へのアクセスは一部の人間のあいだだけで厳重に管理しておかなければならない」
そして、「実のところ、優勢なのはこちらのほうだ」とチョムスキーは書く。

そして、「半年足らずでみごとに平和主義の世論をヒステリックな戦争賛成論に転換させた」「クリール委員会」とは何かを語っていくのである。そこで現われるのは、民主主義という社会制度がいかにして形骸化されていったのかについての史的事実である。知識人などの特殊な階級だけが権力を握り、一般大衆とは愚かであるため、時々選挙で誰かへの支持を表明する意外には何も許されない。そのような状況である。

この論文の皮肉な調子のなかでは、民主主義はほとんど全体主義と同義語であるかのようだ。
メディアにより一般大衆へ恐怖を植え付け、ヒステリックな戦争賛成論を導き出すいくつもの実例を交えて語られる筆法は鋭く、それが決して過去のことではないこともわれわれに教えてくれる。この論文事態は湾岸戦争後の1991年に書かれているが、その論旨はまったく今でも通用する。変わっていないと言うことである。

本書で問題にされているのは主にアメリカのメディア状況である。敵に対して掲げる原則(人権の重大な侵害があるのなら、軍事攻撃をしても構わない)が、全くのダブルスタンダードであるという「事実」をグアテマラやハイチでの歴史的事実を踏まえて、静かに糾弾していく。アメリカの支援でイスラエルがアラブ諸国を蹂躙しても、それはまったくメディアには流れず、アメリカが他国を侵略する時にだけ、その原則は適用される。
この点に関してチョムスキーの批判は「完璧」ではないだろうか。戦争の大義名分が全くの虚偽であり偽善でしかないことを決定的に暴いているからだ。

本書の射程はそれに止まらない。アメリカを批判して終わりではない。問題は、アメリカがダブルスタンダードで戦争を遂行しているということにとどまらず、そのダブルスタンダードがダブルスタンダードであると認識されないように情報を取捨選択している「メディア」である。

後半に収録されたインタビューでは、日本がチョムスキーの東ティモール問題について証言するのを妨害したという話が出てくる。「インドネシアの友人たちが行った大量虐殺が告発されるのを防ぎたかったのです」と言っている。インタビュアーの辺見庸が驚いているように、そしてまた私も知らなかったし、これはほとんど報道されてもいない話なのではないだろうか。恐いのはここである。
そして、チョムスキーがインタビューの冒頭で言っているように、言論統制が存在せず、情報が開示されているのにもかかわらず、それを誰も知らないことこそが危険なのではないだろうか。メディアの情報の取捨選択は決定的にわれわれの思考に影響を及ぼすということを、本書は繰り返し語ってきた。

インタビューの最後でチョムスキーは以下のように言っている。

「他人の犯罪に目をつけるのはたやすい。東京にいて「アメリカ人はなんてひどいことをするんだ」といっているのは簡単です。日本の人たちが今しなければならないのは、東京を見ること、鏡を覗いてみることです。そうなるとそれほど安閑としていられないのではないですか」。

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科学的方法論のケーススタディ

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

タイトルがこれなもんだからスルーしている人も多そうだけれど、これが実によくできた本で、ある程度偶蹄類に近い仲間だと考えられていた鯨は、実は偶蹄類そのもので、もっとも近縁なのはカバだった、という発見を導き手として、分岐分類学という生物分類方法の話を絡めつつ、いかにして定説は書き換えられたかの経緯を追うとともに、仮説の証拠力、推論方法、使える根拠と使えない根拠の判別などなどの、科学的研究における仮説の実証と反証の具体的プロセスを基礎から細かくかつ平易に解説していくという驚くべき本格派な入門書となっている。

カバと鯨の話、鳥は恐竜の仲間なのか、鳥はどうやって空を飛ぶようになったのか、化石という証拠をどう考えるかの話、そして最後にはバージェス動物群についてグールドが唱えた説が科学的仮説としては成立していないという辛口評価まで話題は多岐に渡る。けれども、一貫して進化生物学、そして科学における、科学的方法論が核心的テーマとなっている。

自然科学は数学ではないので、どんな仮説も「証明終了」という訳にはいかない。より多くのデータによって支持される、より説明能力の高い仮説を選ぶべき、という科学的仮説のあり方がいかなるものなのかがよくわかるようになっている。

こう書くとなんだか難しいように思われそうだけれど、とても単純な話からはじめて、丁寧にわかりやすく話を進めていくので、非常に読みやすい。文体など、中高生向けに書いていると思うのだけれど、科学的方法とは何か、ということに興味がある人なら誰でも面白く読めるはず。

途中に挾まれる著者自身によるイラストも、デフォルメの効いたユーモラスなものと本気のスケッチの描き分けに驚かされ、サイエンスライターとしてのマルチな能力にも感嘆させられる。サイエンス・アイ新書なので、全ページフルカラー、やや高めの値段設定だけれども非常にオススメの一冊。

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紙の本宇宙創成 上

2011/12/18 21:29

「科学的方法」の人間味

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ハードカバー時はタイトルが『ビッグバン宇宙論』で、その通りにビッグバン理論の解説に焦点を当てている。最近の本はどれも超ひも理論とかもっと多様化した最新宇宙論の話を扱うものが多いようだけれど、本書はビッグバン理論が定説となるあたりで終わっている。宇宙論の新しい本だと思って読むと話題の古さにがっかりするかも知れないけれども、エピローグや訳者解説にもあるとおり、本書が焦点としているのは、ビッグバン理論という説が、いかなる紆余曲折を経て定説となったか、ということを上下二巻に渡って綿密にたどることにある。

この点、『フェルマーの最終定理』などとは異なる点だ。シン自身『フェルマーの最終定理』で書いていたけれど、数学における証明は永遠で、一度証明がなされたら後から覆されるという性格のものではない。対して、自然科学における仮説は、つねに反証される余地があり、天動説から地動説、ニュートン力学から相対性理論、というように、新しい理論によるアップデートを免れない。

サイモン・シンは以下のように述べており、科学的方法が機能するとはどういうことか、というのが本書の狙いだということが読みとれる。

「ビッグバン宇宙モデルは、二十世紀に成し遂げられたもっとも重要かつ輝かしい科学上の偉業といってまず間違いはないだろう。しかしその一方で、ビッグバン・モデルが初めて着想されてから、練り上げられ、検討され、検証にかけられ、証明され、最終的に広く受け入れられるまでのなりゆきは、ごく一般的なものだったと見ることができる。(中略)ビッグバン・モデルの発展は、科学的方法が機能するときの典型例だったのだ。」291P

その科学的方法の特徴について訳者は、人は間違うということをあらかじめ組み込まれており、集団的努力によって間違いを修正しながら前進できることだと述べている。

ビッグバン・モデルのライバル、定常宇宙論が非常に大きく扱われているのは、試行錯誤のプロセスとしてなくてはならないものだからだろう。研究の進展ごとにビッグバン・モデルと定常宇宙論、どっちが整合性のある説明をしているか、というチェック表を用意して、当時の研究者たちにとってどっちが説得力があるように映るのかということまで検証している念の入れようだ。

こうした試行錯誤、論争による理論の検証、洗練、意外な発見などの紆余曲折をたどることで、「科学的方法」とはいかなるものなのか、ということを具体的に読者に追体験してもらうことが眼目なのだろう。だからこそ、宇宙論全体を通覧するのではなく、ビッグバン理論にのみ焦点を絞って、具体的な科学的議論のプロセスを詳細にたどるというスタイルを選んだというわけだ。

そして、十分な紙幅をとってなされる解説はどこをとっても非常にわかりやすい。基礎的な部分からそのメカニズムがきちんと伝わるように書かれているのと、絶え間ないトライアンドエラーのプロセスを含めて具体的に述べられているので、発見のドラマとわかりやすい説明が同居したものとなっている。

いろいろ面白いエピソードはあるけれど、膨大な量の写真を解析し変光星のカタログを作る作業を行った女性の集団、「ピッカリングのハーレム」の話は特に印象的。なかでも、当時知られていた変光星のほぼ半数を発見した「変光星の魔人」ヘンリエッタ・リーヴィットが、変光星の一種セファイドの変光周期と光度が関連していることを見出し、その結果、天体間の相対距離を知ることが可能になった過程は面白い。天体の距離、そして宇宙の広さを測るきわめて重大なワンステップを踏み出したこの発見は、あまり取りざたされることがなく、リーヴィットの知名度も低い。スウェーデン科学アカデミーが1924年に、彼女のこの発見に対してノーベル賞にノミネートしようと調査を始めたとき、その三年前に既に亡くなっていたことがわかる、というほど天文学界では地味な人物だった。こういう人物をきちんと紙幅をとって叙述するところがいい。

他にも物理学史の入門書のようなものをいくらか読んだけれど、ここでの説明は他のに比べても抜群に詳しく丁寧で、結果的にもっともわかりやすいものとなっている。宇宙論の最初の一冊としていいんじゃないだろうか。

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短篇によるロシアSF史

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深見弾訳による上下巻のロシアSFアンソロジー。特に書かれていないもののおそらく作品選定も深見氏によるものだろう。元々79年に出ていたものを時代を感じさせる表紙もそのままに復刊したもの。通時的に作品を並べていって、ロシアSFの歴史をたどる構成になっているので、短篇によるロシアSF史としても面白い。さらに各巻末に50ページずつ付されたロシアSF史が貴重だ。

上巻ではロシア最初のSFともいわれるものから、ロシア革命によるソヴィエト成立以前の作品を収める。全五作と少数ながら、プリミティブなタイムスリップものから、新兵器を作ってしまった話、ユーモア風のものまで多彩で、そして注目すべきは奇人ボグダーノフによる中篇(150ページと全体の半分を占める)「技師メンニ」だ。これは以前仁木稔さんの講演で存在を知った作品(「仁木稔 世界を動かした驚異の疑似科学』あたりで検索すれば講演原稿が見つかると思います)。

仁木さんは「『赤い星』で主人公を火星に導く(だけの)役柄のメンニが延々と思想を語っているだけである。同じ思想小説でも、先に書かれた『赤い星』のほうは物語や設定のおもしろさがある」といっていて、思想小説の類なのかなと思っていたのだけれど、そういう面はあるものの普通におもしろく読める小説だった。

技師、というように基本的にこれは火星開発を題材にした作品で、メンニというただ開発だけに集中したいカリスマ的技術者が、政治的思惑によってスポイルされてしまうという構図になっている。もちろん思想的な話も結構あるんだけれど、それだけという感じはない。これを読むと、仁木さんが言っているように、ソ連が環境破壊に頓着せず開発しまくったメンタリティみたいなものが感じられて面白い。同時に技術開発を妨げる汚職も描かれているんだけれど、ここらへんはソ連的に大丈夫だったんだろうかと思うところもある。

下巻はソヴィエト成立から1940年頃までの作品。このアンソロジーでは第二次戦後のSFは載っていない。下巻はどれも結構面白い。世界征服をたくらむ五人組の野望を描くアレクセイ・トルストイの「五人同盟」やロシアSFの大御所ベリャーエフのロビンソン・クルーソーもの「髑髏蛾」、空気中にあるホコリをすべて除去する発明を題材に、科学知識の啓蒙的な側面もあるゼリコーヴィチ「危険な発明」、攻撃を全て跳ね返す発明をめぐる騒動を描くグレブネフ「不死身人間」などあるけれど、出色なのはブルガーコフの「運命の卵」だろう。

ある博士が、生物を光速で成長させることのできる光線を発明する。しかし発明の情報がまわりに漏れて、家畜類の増産に使おうとする動きが起こり、発明は意に添わぬ形で流用され、ふとした手違いによって破滅的な展開をもたらすことになるというパニックSF。ストーリーは定型なんだけれども読み応えがある。ブルガーコフは『巨匠とマルガリータ』が積んであるのでそっちも読まないとなという思いを強くした。

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紙の本進化とはなんだろうか

2011/03/08 00:11

「生物学のどんな現象も、進化を考えに入れない限り意味を持たない」

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長谷川氏は行動生態学の専門家で、著書にも動物関連のものが多く、特に性について書いたものが多い。私はまだこれだけしか読んだことがないけど、かなり有名な人。

岩波ジュニア新書、ということで何にも知らないところから入っていける。ジュニア、というけれど、このシリーズは昔習ったことなんか綺麗に忘れてしまったという大人が読んでも充分満足できるレベルだったりして、とっても役に立つ。

本書冒頭で長谷川氏は、「進化論」と呼ばれていて、個人の意見であるかのように聞こえるけれども、これは既にれっきとした現代生物学の一部、というより「現代生物学を統合する総合的な理論」だと述べ、「進化生物学」と呼ぶべきだと主張している。まあ、すでに「進化論」という呼び方がが人口に膾炙してしまっているので難しいところはあるけれども、すでに確立した学問だと言うところはおさえておきたい。

内容は行動生態学者らしく、適応と自然淘汰について重点的に語られ、古生物学などについては触れていない。有名な「フィンチの嘴」なども紹介されている。これを読んで、自分が今まで読んできたものがグールド等古生物学に偏っていたのに気づいた。

面白いのは、いくつかの場面でゲーム理論や数式をもちいたアプローチをしていることだ。鳥が餌をどう集めるかを調べた研究では、遠さの違う餌場を用意し、鳥がどれだけその餌場に滞在するか、というのを計測している。餌場では長く滞在するほど餌の獲得量が減っていくので、距離と滞在時間を考慮して最適の回り方をしなければならない。この距離と滞在時間を数式化し、ある条件下でどう鳥が行動するかを予測したうえで、実地に確認すると、その数式の予測通りに鳥が行動することが判明した。つまり、仮説と検証の科学的モデルだ。しかし、動物はずいぶん合理的に行動するんだなぁと驚く。

同じことは行動だけではなく、進化についても行われている。環境の異なるいくつかの小さな島にトカゲを放し、十年、十四年後にどのような変化が起こったのかを検証した実験がある。この結果、小さな枝が多い場所に暮らす群れでは小回りをきかせるために後ろ足が小さくなり、大きな枝や幹があるところで暮らす群れでは後ろ足が大きくスピードを出せるようになっていた。これは他の研究で明らかにされていたことが、実地に実験することで検証された例だ。

進化論というと、歴史のように実験の出来ない科学的でない学問、という偏見が時にみられるけど、本書を読めば進化は人為的に起こすことの出来る現象で、実験により再現可能なものだということが理解できる。

長谷川氏は生物が多様な種をもち、さまざまな形態、生態を持っているのは何故か、という基本的な疑問は、この「進化」ということなしには解けない疑問だという。彼女は現代遺伝学の基礎を築いたテオドシウス・ドブジャンスキーの次の言葉を引いている。

「生物学のどんな現象も、進化を考えに入れない限り意味を持たない」

長谷川氏は終盤こう書いている。

「ドブジャンスキーが言うように、進化の考えを抜きにしては、生物学の知識はただの寄せ集めにすぎません。進化を考えてこそ、生き物の構造、生理、生活史、行動、生態、多様性などのすべてが意味あるものとして見えてくるのです」223P

進化というメカニズムを考えることで、目の前の生き物が、なぜいまそうあるのか、ということを考える筋道を与えるということ。進化という考えを知ると、すべての生き物が魅力的な謎に見えてくるということを体験できる。

進化論の入門というと、私はグールドのエッセイシリーズを読んだのだけれど、古生物学者のグールドと、行動生態学者の長谷川氏では、異なる視点から進化が論じられているので、両方を比べながら読むと面白い。

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キノコ学入門

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タイトルがちょっと変わっているので全体にどういう本かよく分からなかったけれど、読んでみると、著者の研究の紹介を交えながらキノコがそもそもどういう生物(植物でも動物でもなく、でもちょっと動物に近い存在らしい)で、どんな生態で、どういう風に研究されているのか等を紹介したキノコ学入門といった内容になっている。

著者自身の研究というのはアンモニア菌という種類の研究で、このためにニュージーランドまでいって調査した話が冒頭に語られている。アンモニア菌というのはキノコのなかでもやや変わった種類らしく、動物の死体や糞尿に発生する。実はこのキノコ、日本人による研究で見つけ出されたもので、日本の菌学が世界に誇る業績なのだという。

この研究は60年代、相良直彦という学者が山林に化学物質をぶちまけてみる、という実験を試みたところから始まる。化学物質、なかでも大量に利用できる合成化学肥料を使ってみたところ、アンモニアを出す物質(後に尿素を使うようになる)に限って変なキノコが大量に発生することに彼は気がついた。実験の乱暴さにそうとう異端児扱いされていたらしいけれど、データを地道に積み上げていき、とうとう1980年代になって菌学の世界で知らないものはいない、という菌学の事典に「アンモニア菌」が追加されることになる。

進化論的な話として、キノコはいつ地球に登場したのか、という部分が興味深い。DNA鑑定によると、現在のキノコを構成する二つの種類、担子菌類と子嚢菌類が分岐したのが四億年前、サルノコシカケの類のキノコは一、二億年前に地球に登場したという。現在見られるようなキノコの登場は二億年ほどまえになるようで、古生代や中生代に繁茂していたシダやイチョウ、ソテツの仲間による大森林の時代には、地上に降り積もる有機物を分解する生物はまだいなかったらしい。石炭はその時代の産物だという説がある。

もう一つはやはり毒の部分で、なぜこのような毒を持つに至ったかはいまだ未解明だという。遅効性の点で、有毒動物の適応戦略とは異なるわけだ。子実体は胞子を撒くための装置だから、死体が菌床に都合がよいというのも考えられると思うけど、毒を持っているキノコが死体に生えるものかどうかは知らない。そもそも、山ひとつが同じ個体、という場合もあるように、菌糸を張りめぐらして生きているキノコに動植物での「個体」という考え方自体が通じない気もする。

森の植生とマツタケの発生を論じた章ではキノコと自然環境についてのかかわりが論じられている。数十年前まで、マツタケは別に珍しいキノコでもなく、人里の山で普通に取れるものだったらしい。しかし、最近は高価なものとなってしまった。

以前までは人里の風景といえば松林、というほどありふれた光景だったのが、昭和三十年代を境に人々のエネルギー源は化石燃料へと移行し、里山が放置され、放置された松林は次第にシイ、カシの林に戻ってしまい、マツタケの発生する余地がなくなってしまうからだという。

この変化がどうして起こるかというと、まず人々が元の原生林だった場所を伐採して、そこに松を植えて管理したり、さらに日々の燃料として落ち葉や枯れ枝を採集することで、林床はつねに「貧栄養」の環境になる。岩や砂が多く、有機物の少ない貧栄養の環境で生育できる松が、そうした環境に降りてくることで松林がありふれた光景になる。マツタケは、松がそうした貧栄養環境でも生育を可能にする共生キノコとして役立っているのではないか、と著者は書いている。

「マツタケの生産量は、1950年代からこの50年間で約100分の1に減少している。マツタケの減少・マツ林の消滅は、われわれの暮らしが里山等の自然環境に依存しなくなったこと、里山の外生菌根菌をコントロールしなくなったことと、実は密接に関係しているのである」150P

ちょっと面白い話としては、きのこの新種記載では、慣例で味と匂いを入れるらしい。「毒きのこであってもかじって味を確かめる」というから面白い。他のどの分野でもそんなことはしてないらしいのだけれど。

本書はキノコ研究がまだまだ手つかずだということを強調していて、そして最後の章で学者も知らないレアな生態の絶滅危惧種を発見したアマチュアなど、まだまだ菌学が根付いていない状況での、アマチュアの研究の重要さを指摘している。

という感じで、これは学問的な議論もずいぶん載っていて、丁度こんな感じのが読みたかったところに非常にうまく嵌ってかなり面白かった。わりと安価なのも良い。これ以外の菌学の本となるとどれも三千円近いので、そこそこの値段で菌学のガイドとなっている本書は貴重なのかも知れない。

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辺境生物から地球外生命の可能性を考える

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「科学界のインディ・ジョーンズ」と呼ばれる生物学者長沼毅がSF小説家でサイエンスライターの藤崎慎吾と辺境生物についての本を出しているのを知って、これはと思いすぐに買った。

本書は400ページにも及ぶ大冊で、収録されている多数の写真はほぼ全てがカラーというつくりになっているのがまずすごい。長沼、藤崎両氏による対談を収録しているわけだけれど、ここで面白いのは場所。辺境生物(その多くは微生物)をテーマにしている通り、火山、地下、温泉、砂丘といった「辺境」で対談を行っている。しかし、どれも日本国内の場所だ。さすがに南極やサハラ砂漠、宇宙空間といった場所まで行って対談してくるのは無理なので、国内で似たような場所を見つけ、そこを極地と見立てて、辺境生物対談を行っている。この目次はつまり世界の極地のミニチュアなわけだ。

全部で8つの章に分かれ、「酒まつり」の町で微生物の話を語るプロローグからはじまり、低温室で南極生物を、江ノ島水族館で深海生物を、伽藍岳火口で高温に耐える極限環境微生物を、鳥取砂丘で乾燥に耐える微生物を、地下深くで圧倒的な量が存在するらしい地下生命圏を、エネルギー加速器の横で放射線が飛び交う宇宙空間と微生物の話を、天文台では惑星科学の専門家でTVチャンピオンの第六代ラーメン王の佐々木晶を交えて、宇宙と生命について熱く語る。章の間にはコラム対談、鼎談が10挿入されていて、補足やちょっと本題から外れた話も盛り込まれている。

そもそもなぜ、長沼氏が辺境生物にこだわり、それが宇宙の話にまで広がっていくのかというと、辺境生物、極限環境微生物を探ることで、生命の本質、生命の起源がわかるのではないか、と考えられるからだ。今現在の地球環境は生命誕生からずいぶんと時間が経過した姿であって、生命誕生のときの地球環境は想像を絶するほど荒々しいものだったと考えられている。その意味で極限環境というのは生命誕生の地球環境のアナロジーといえる。「深海生物学への招待」でも、深海の熱水噴出孔生物群集が、太陽光による生態系に依存せず、海中から吹き出す硫化水素やメタンを栄養源とした化学合成生態系の存在が、生命の起源の有力な仮説の土台となっていることが論じられ、さらに、太陽光なしの生態系の存在は、地球外生命の存在可能性の有力なヒントともなっていた。辺境生物を探ることは、生命の起源への旅でもあり、さらに、地球外生命の可能性への思索でもある。それが、宇宙飛行士の選抜試験を落ちたことで、地上をはい回ることになった長沼氏の大きなテーマだという。

一部の内容は長沼氏の著書ですでに既知の話ではあるけれど、対談形式でさまざまな(特に失敗した)エピソードを交えて語られる話はやはり非常に面白い。無人深海探査システム「ディープ・トウ」を牽引するロープがちぎれて紛失した話や、深海で餌にすぐさまカニが寄ってくるのは何故なのか結局分からなかった話、大西洋海中の海底火山TAGマウンドが宮崎駿の映画に倣って「ラピュタ」と呼ばれている話とか小ネタがいちいち興味深く、特にしんかい2000で移動しながらでもひとつしかないマニピュレーターでひょいひょいサンプルを採取していく名人がUFOキャッチャーで練習していたという話には、藤崎氏がかかわっている同じ光文社新書の「深海のパイロット」が是非読みたくなった。

そしてやはり興味深いのは後半の宇宙関連の話。生命の起源はどこか、エウロパやガニメデに生命の存在する可能性は、といった話が惑星科学の専門家を迎えて論じられる。生命が存在するには水が多すぎてもダメ、とか温度が500℃もあったらさすがに生命は無理だろうというような生命存在の条件についての話と、太陽系の天体ごとの特徴を語るところは面白い。この章では大胆な発言、放言がぽんぽん飛び出て妥当性はともかくかなりエキサイティングな展開になっていく。地質学的には生命はものを壊して風化を早める作用がある、という発言から、生命は宇宙の破壊者なのかもと議論が進むなど、「生命は宇宙を破壊する」と題された章にふさわしく、生命の存在論にも踏み込む。

地球外生命についての発言で特に興味深いのは、地球内で地球外生命に遭遇する可能性を語った部分だ。地球の生命はとりあえずひとつの系統な訳だけれど、たとえばDNAの文字がATGCでない生物や遺伝情報がDNAでない生物、あるいは光学異性体、キラリティとかいうらしいのだけれど、左手型、右手型と呼ばれるアミノ酸の偏りがあり、地球生物は左手型なのだけれど、右手型生物を発見できたら、地球外生命を見つけたのと同じくらいの価値があるだろうと語り、つまりファーストコンタクトはアウタースペースではなく、地球内部という意味でのインナースペースで起こる可能性がある、と述べる部分はとてもロマンを感じさせるところだ。

宇宙も、そしてまた地球内部もまだまだ未知のエリアが広がっていることを実感させる。理論的な部分などは長沼氏の「深海生物学への招待」や「生命の星 エウロパ」の方を参照したほうがいいけれど、まだ読んでいないという人にはそれらへの入門としても、読んだ人でも裏話やその後の進展も含めて充分以上の楽しめるはず。

実はこの新書のうち、四章分はすでにネットで公開されている。
辺境生物探訪記
更新中断している状態だけど、新書に未収録の分はここで公開される可能性がある。
元記事

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アイヌを描く和人という矛盾

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アイヌの蜂起で名を知られるコシャマインの名がある「コシャマイン記」で第三回芥川賞を受賞したことで文学史に異彩を放つものの、現在ほぼ忘れられた作家と思しき鶴田知也の作品集。この短篇集はその鶴田知也作品のうち、北海道二海郡八雲町を舞台にした作品を編んだもの。

鶴田知也は元々プロレタリア文学の作家として出発した人で、堺利彦、葉山嘉樹は高校の先輩にあたり、葉山との交友をきっかけとしてプロ文雑誌「文芸戦線」に書き始めたのだという。高校時代はキリスト教に興味を持ち神学校に入学してもいる。鶴田自身は神学校時代にOBの牧師宅で出会った八雲町出身の人物の誘いで八雲に訪れ半年ほど滞在し、ユーラップコタンの首長イトコルらとの親交を深める。これがその後の北海道ものの作品の舞台となっている。

アイヌを主人公とした作品はふたつあり、「コシャマイン記」と「ペンケル物語」がそれにあたる。コシャマインとはいっても、史実「コシャマインの戦い」を素材にしたものではない点は注意。同じく、オニヒシ、シャクシャインという名前も登場するが史実とは異なる。

「コシャマイン記」は部族の英雄の息子でありながら、同族らの裏切りのなかで逃亡を続け、最後には和人の裏切りにあって殺されるコシャマインの生涯を叙事詩的な文体で描いた異色の作品で、同じく叙事詩的な文体を用いた「ペンケル物語」ともども、和人の抑圧のなかで、アイヌ同士が相互に分断されていくさまを描いている。

日本の近代化の下で迫害されていった民族の英雄を、反近代的な叙事詩的な文体で描くというのは非常に面白い。けれどもアイヌ民族のことが叙事詩的なスタイルで描かれるというのはある種のオリエンタリズムによるものとも言えるのではないかとも思う。まあ、文芸文庫はさすがに面白い作品を拾ってきたな、と思った。鶴田知也の本は現行ではこれ以外入手できるものがなく(芥川賞全集などでは読める)、小説の単行本としては1976年以来の刊行となる。それぐらい忘れられていた訳だ。

ただ興味深いのはむしろ、この後に収録されている作品かも知れない。鶴田のアイヌを主人公とした作品は二つしかなく、他の北海道ものの短篇は開拓のために渡ってきた和人たちを中心にしている。農業に苦心し酪農に突破口を見つけるという開発の歴史が語られているものもあり、農業や酪農にかんする描写がかなり詳しく、開拓の苦難の歴史が一人一人の農民の生活に着目して描かれていて面白い。地味ながらもしっかりと生きていく人々に対する視線が暖かい。素朴ではあるけれどその分素直に読める好作品だと思う。

しかし、これらの開拓こそが、アイヌの生活を破壊していったと考えるとことは複雑だ。「コシャマイン記」では和人の行いを批判的に描いてはいるものの、開拓もので描かれているのはアイヌを追いやった行為そのものとも言えるからだ。私の目には鶴田の立ち位置はこのふたつの作品系列で矛盾、分裂しているように見える。この分裂こそ、アイヌを描く和人という立ち位置に必然的に入り込むものだとは言えるのかも知れない。それは向井豊昭もそうだ。和人たる私たちは、この分裂をこそ読まなければならないだろう。

ただ、鶴田自身、この矛盾をどう考えていたのかはわからない。そもそも矛盾だと思っていたのかどうかも判然としない。解説において川村湊はプロレタリア文学弾圧などによって不利な立場にあった鶴田が、芥川賞を取るなど話題性のあるアイヌものをこの二作しか書いていないことは、自身の和人たる立場からアイヌを描く欺瞞性を悩んだからではないかと書いているのだけれど、鶴田の発言、エッセイなどの根拠に基づくものではなく、推測でしかない。また、当時の共産主義、社会主義運動にとって民族問題をすくい上げることができていなかったという思想的限界もあわせて指摘されている。

向井豊昭は和人がアイヌについて語る矛盾そのものを作品の中心的モチーフとして、その実験的な手法において展開してきた訳で、そこから見ると鶴田の作品は物足りないところがある。かといって鶴田の小説の価値が低いといいたのではない。北海道をアイヌ、和人双方の面から描いてみたこの一連の北海道ものの作品群を今から見れば、その歴史的、思想的限界が露わになっているとはいえるけれども、それゆえに見るべきものがあるだろう。


鶴田知也は小説家としてはそれほど活動していなかったのか、著作の多くは農業関連書籍、あるいは草木の画帳だった。

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紙の本火星の人類学者 脳神経科医と7人の奇妙な患者

2010/05/30 22:22

病と個性の社会性

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「妻を帽子とまちがえた男」に続き、サックス二冊目。これもまた驚くべき名著。

前著には奇妙な症例へののぞき見趣味的な部分があるとの批判があったようだけれど、その批判に応えたのか、本書では七人の患者に焦点を絞り、ひとりひとりにもっと寄り添ったかたちで叙述がなされている点が特徴。

サックスの語り口はひとりの患者の症例を眺める、というよりは、その病気込みでの個人の人生まるごとを捉えようとしている。そして、その視点は個人のみに留まらず、その人間が生きている社会をも視界に据えている。特にこの点で興味深いのは「トゥレット症候群の外科医」と「火星の人類学者」だろう。

トゥレット症候群とはチックが抑えきれず、奇声や手足の突拍子もない動きなどを特徴とするのだけれど、その症状に悩まされているものがなんと外科医としてメスを握っているというのみならず、人気抜群なのだという。奇怪な動きをしながら症例について話し合っている光景は、慣れたものにはなんでもないことだけれど、初めて見た人には驚きだろうとサックスは語る。そういう手足の動きを抑制できないのなら手術なんてできるのか、と思われるだろうけれど、いざ執刀となると彼は完全に集中してまるで自分がトゥレット症候群であることを忘れたように鮮やかに手術を完遂する。途中で邪魔さえ入らなければ失敗することはないのだという。

「火星の人類学者」とは、自閉症でありながらも動物学者として活躍する、テンプル・グランディンが、自分について語った言葉だ。彼女は人間の社会的ルールを、決して内的に理解することができない。人の気持ちや表情が読めない。だから、火星に降り立った人類学者がそうするように、普通の人々の行動様式を分析し、意識的にそれをトレースする、というかたちでなんとかして生活している。彼女に会った様子を述べるサックスは、彼女が社交辞令や細かな気遣いといったものをほとんどしない、と指摘している。むしろ、彼女は動物に対してより深い共感を抱くようで、動物が苦しまずに死ぬような施設の設計においてその特質が発揮される。「アメリカとカナダの肉牛の半数はグランディンが設計した施設で処理されている」というのだから、その貢献は多大なものだ。

このような「貢献」が「病でもなお」なのか「病ゆえに」かは判断が難しいところなのだろう。トゥレット症の患者はその病気も込みで自分の個性だと考える傾向があるという(「妻と帽子~」でのレイがそうだ)。

病、特に精神的なものはきわめて社会的な影響を被る(個性と病の境界をどこに置くか)ものだと思うのだけれど、この点で病を語る、ということは同時に社会を語ることと不可分だ。なので、ここで考えなければならないのは、「有用」「貢献」という尺度で病や個性を考えることの危険性だと思う。社会的な有用性、という尺度は容易に「生きるに値しない命」の選別を行い始めるからだ。

本書のなかでもっとも悲劇的なのが、「最後のヒッピー」という章で語られているグレッグという人物の様子だ。彼は新興宗教の教団に入って生活しているうちに、次第に目が見えなくなり、それが宗教的な進歩であるとの判断から治療を受けることができずにいた結果、完全な盲目となり、診察の結果脳内に小さなオレンジほどの腫瘍ができているのが見つかった。視神経や前頭葉その他さまざまな部位が損傷を受け、予後は絶望的だという。

サックスが会った時には、彼は自分が目が見えないことはおろか、自分が何かの障碍を持っていることすら自覚していなかった。彼は「感情らしい感情がまるでなかった」。それが教団では「至福」や「解脱」に見えたのだろうけれども、重篤な脳の損傷の結果だった。そして彼には1970年代以降の記憶がなく、新しい記憶が定着できない。彼にとってはグレイトフル・デッドのオリジナル・メンバーも、ジミ・ヘンドリックスも、ジャニス・ジョプリンもまだ生きているのだった。

グレイトフル・デッドを崇拝すらしているグレッグを、サックスは現在のグレイトフル・デッドのコンサートに連れて行ってからのあまりに希望のない展開が痛ましい。彼には、自分が何を忘れたのかすら分からないのだった。


「妻を帽子とまちがえた男」では長短あわせて24篇、という多種の症状を眺めてみることで、大きく網を広げたように全体的な視点を得ることができたのだけれど、今作では7篇の事例をじっくりと掘り下げることで、病と生活、人生のかかわりをできるだけ深くつかもうとしている。片方を読めばもう片方も読まずにはいられなくなる、きわめて優れた著作だと思う。
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紙の本歌の翼に

2010/05/14 21:16

絶望と希望のアイロニー

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今作は1979年にディッシュの7年ぶりの長篇として発表されたもの。翻訳は1980年。元々サンリオ文庫で発刊されていた者の改訳版が本書となる。実に三十年ぶりの復刊。

ディッシュの小説は、知能向上の薬をキメられて収容所に入れられる「キャンプ・コンセントレーション」とか、人口が増えすぎて一部の人間にしか妊娠が許可されなかったりする時代でのある巨大な建物を中心にしたディストピア的趣の「334」とかとか、この世界というのは牢獄に他ならない、というような底冷えのする認識を土台に組み立てられていて、さらには技巧的な小説構成がやや読者を突き放すようなところがあるという印象だった。

対してこれは小説としてはシンプルな語りで、主人公の幼少の頃からの人生を追っていく極めて王道的な構成となっていて、非常に読みやすく馴染みやすい。主人公ダニエルは「飛翔」することに執着し、飛翔するために必要な歌をマスターせんと努力し、恋人が出来たり、挫折したり、チャンスがめぐってきたり、と人生の紆余曲折を辿っていくことになる。

この小説のキーとなる「飛翔」とは、歌うことと密接に関係していて、ある装置に座って歌を歌うことで、自身の肉体から抜け出すことが出来る、というようなことらしいのだけれど、ここにSF的な説明はほぼない。SFというべきかファンタジーと呼ぶべきか。

少年ダニエルの飛翔を目指す一代記、ともいうべきこの作品ではディッシュ特有の冷たさがなりを潜め、飛ぶことというポジティブな目的に向かって努力を重ねる姿が描き出されるというわけで、ちょっと見には意外に思えた。

物語はベタな成り上がりものの面白さがあって、そういう読み方ができるのだけれど、ではこれがポジティブな小説か、というとどうも違う。時代状況は結構シビアで、食料が配給制になったりするような危機的な状況だという点では「334」あたりと似通ってくる設定になっているし、「飛翔」は法的に禁止されているという宗教も絡んだ抑圧的状況がある。

キモはその「飛翔」で、これはどうしても自殺と二重写しになっているように思えて仕方がない。「飛翔」は肉体を残して精神だけが遊離する現象ということになっていて、どうも遊離した後は肉体を必要とはしないらしい。肉体に戻ってこない幽体離脱は、自殺とどう違うのだろうか。

そもそも、少年ダニエルが歌うこと、飛翔することを、自分はやるしかないと決意するのは他でもない、刑務所の中でだ。過酷な状況こそが少年に飛翔への夢を植え付けるわけだ。そしてここでは親しく過ごした人物が自殺する。このあたりに前作までの残響を聴きとるのは無理筋とは言えないだろう。もう一つ、作中には印象的な自殺のシーンがあり、それがどうしても飛翔とダブる。

もちろん、この小説においては、飛翔は現実のもので自殺とは異なる意味合いがある。一端飛翔を果たした者が戻ってくることもある。ただ、そのシーンはまるで死者との短い霊的な交流、というような雰囲気がある点が、逆に飛翔と死の相似性を連想させてやまない。というよりも、これはかなり意図的な構成だと思われる。刑務所、自殺、飛翔した者との交流そのそれぞれが、そういう読みを誘うように配置されているのだろう。

現世というのは徹底的に牢獄であり、そこから抜け出すには死ぬ他はないのだ、というどうしようもない絶望を、希望の物語のヴェールを被せて描き出したような複雑なアイロニーがここにはあるように思えてならない。その点では、「キャンプ・コンセントレーション」「334」と、ディッシュの現実認識は寸毫の揺るぎもないのではないか。やはりこの作品もディッシュ一流のペシミズムとアイロニーとがぶち込まれたものではないかと思う。

希望は絶望と表裏一体というか、ここでは希望と絶望は同じものとして提示されているようにも思える。私はラストシーンに言語化しづらい何とも複雑な印象を抱いたのだけれど、それは上記のような底意地の悪い目論みによるのではないかと思っている。

そもそも、「飛翔」というのは「キャンプ・コンセントレーション」の取って付けたようなとか言われるアレを思わせるわけで、「歌の翼に」と「キャンプ・コンセントレーション」はやはり表裏一体のものではないかと。


しかし、ディッシュが自殺した、という事実を知った後でこの著者の作品を読むというのはまたなかなかに複雑(パートナーを亡くし、アパートを追い立てられて、という状況はとっても「334」的)で、私の以上のような記述は、作品を作者の自殺という文脈に収束させるようなものになっている感があって、ファンに怒られそうだ。

さて、特に「キャンプ・コンセントレーション」や「334」は生政治とか監獄とかフーコー以降の現代でも論じられているような問題に切り込んでいて、現在読んでもやたらにアクチュアルなのが凄い。そういう方向のちゃんとした批評は岡和田さんや渡邊さんが書いておられるのでそちらを参照してくださいな。

speculativejapan ≫ 『蟹工船』の次は、トマス・ディッシュの『334』を読もう。
speculativejapan ≫ 「書評―ディッシュのいわゆる『神曲』三部作について」

というわけで、ディッシュの私が読んだ長篇のなかではもっとも読みやすく、入りやすい(かといって簡単、ではないと思う)スタンダードな小説となっているので、国書刊行会から復刊されたのを期に読んでみるのも良いのではないかと思います。全面改訳とあるけれど、既訳でも特に問題を感じないのでどの版を読んでも良いのではないかと。国書の解説は若島正で、タイトルの元ネタはじめ周辺情報に気を配っていて面白い。

これから遡って「334」、「キャンプ・コンセントレーション」と読んでいくのがいいのかも。ただ、問題は「キャンプ・コンセントレーション」で、サンリオ文庫版の語順直訳の翻訳はかなり読みづらい点。「未来の文学」で雑誌掲載版の出版なり新訳とかしてくれないものだろうか。

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紙の本誰がドルンチナを連れ戻したか

2010/05/14 21:06

中世の民間伝承を題材に現代アルバニアを寓意的に描く

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現代アルバニアを代表する小説家といわれ、第一回国際ブッカー賞を受賞したイスマイル・カダレ。今作は1986年に発表された長篇で、中世アルバニアを舞台に、民間伝承をモチーフにしたミステリアスな作風となっている。

ある夜、遠い異国の地に嫁いだはずのヴラナイ家の一人娘ドルンチナが、ただ一人残された母親の元に帰ってきたということが土地の警備隊長に報告される。不可思議なのは、対面した親子ともにショックで寝込んでしまったことと、ドルンチナは、三年前に死んだはずのコンスタンチンという長兄に連れられて帰ってきたと主張したことだった。

この魅力的なミステリーを導入に、警備隊長ストレスがその謎を解明すべく奔走する、という展開を辿る。170ページほどの短い作品のためスピーディな展開でぐいぐいと読ませる吸引力があってとても楽しい。もちろんミステリではないので謎がリアリズムのレベルで解決されるというわけではないのだけれど、兄が墓から抜け出したのか、それともドルンチナの狂言かなにかなのか、という超自然的解釈と現実的解釈との絡まり具合が興味深い。

この小説では、中世を舞台にしながらも明らかに近代以降の問題意識を用いて書いているところがある。あえていえば、中世という舞台を借景として明らかに現代を書いている。主人公の思考様式は中世人のそれのようにはとても見えず、むしろ意図的に現代人の思考様式で書いていると思われるし、ラストの方では明らかに現代アルバニアを二重写しにして書かれているところがある。

というか、まあ私はアルバニアの歴史がまったく分からないのだけれど、wikipediaを見る限り、中世に作中で「アルバニア」と称されるような概念があったようには思えない。イリュリアから文化を引き継いだ旨が書かれてはいるのだけれど、ここらへんは現在のアルバニアを中世に見出す意図的なアナクロニズムを手法として用いているようだ。

そのうえで、コンスタンチンが母親の求めるときにはどんなことがあっても娘を連れ戻すという、誓い(ベーサ)を立てたことという伝統的観念をひとつの国家的倫理として「アルバニア」を立ち上げようとする、ある種の「近代文学」的な意図において書かれた作品なのだろうと思われる。作中でも、生前のコンスタンチンの口を借りて述べられているのは、外から押し付けられたような外的な制度ではなく、この危機的な状況においてアルバニアを守るためには、誓いのように自らの中に「永遠で普遍的な機構」を作り出さなくてはならないということだ。

つまり、カダレは「誓い」のこの超自然的な民間伝承のなかに、「アルバニア」という「永遠で普遍的な機構」の核を見いだしたということだろうか。おそらく、アルバニア人にとって、このことは読めばすぐに分かることだろうと思われる。作中のアルバニアがおかれた状況や、コンスタンチン、ストレスの主張はひどく分かりやすく、そういう読みとりを誘っているからだ。

ただ、このような解釈は小説としてはややつまらなくなる、ラストあたりの長広舌で今作を読み解こうとするとこうなる、という感じのものだ。たぶん明らかにそうした意図はあるのだろう(解説でもそういう読解が引用されていて、やっぱりな、と思った)けれど、小説として面白いのはもうちょっと違うところで、中世で現代を書く、というこの設定が生み出すねじれの部分だと思う。

実は冒頭の謎についてはリアリズム的なレベルにおいての解決はある程度推測できるように書かれている(と思う)。最後まで読んだところ冒頭に重大な伏線があったことに気づいてちょっと驚いた。で、一応、自然主義的なリアリズムをベース(とも言い切れないところがあるんだけれど)に、墓から亡霊が蘇って生前の誓いを果たした、というオカルト的な解釈は主人公に拒絶され続けるのだけれど、民衆の噂などのレベルでは常に優勢を誇っている。で、このような土俗と理性的な主人公との拮抗という軸で行くのかな、と思いきや、むしろそこは密接に絡んだものとして現れてくるところがある。

中世によって現代を書くために、土俗的なものをも同時に召喚してしまっている印象がある。この小説は、中世と伝承と現代などの複数のレイヤーを雑巾を絞るようにぎゅっとねじったような絡まり方をしていて、小説として面白いのは、この絡まりが絶妙なところだ。ラストの長広舌のところでもこの絡まりが踏まえられていて、そう簡単に「近代国家」がどう、とかでまとめきれないところがある。コンスタンチンが亡霊となっても誓いを果たすということの意味とか、主人公の真の意図ということを考えると結構難しい。

「掟(カヌン=ギリシャ語のカノン)」と「誓い(ベーサ)」と「法」という言い分け方とかも興味深い。そういえば、「伝統」と「近代国家」の立ち上げって感じで復古神道というか明治の近代化を連想させもするのだけれど、どうだろうか。

短いながらも密度が高く、いろいろな読み方ができそうな小説だ。超自然的なファンタジーとまではいかず、幻想的なモチーフが現実にうすくベールのように被さるような不穏さがあり、「神話的」というより「伝説的」な感触がある。

これは結構すごい小説かも、とは思ったけどうまく説明はできない。アルバニアの歴史、政治あたりも踏まえた評論が読んでみたい作品だ。短いからと軽い気持ちで読んでみたら想像以上の重量でビックリした。

というわけで、この小説とともに「冷血」という一冊本にまとめられ、掟や誓いを扱う姉妹作の位置付けの「砕かれた四月」の方もオススメ。とはいっても絶版で図書館にでも頼るしかないけれど。国際ブッカー賞とかいうかなりレベル高い賞とったんだから、白水Uブックスあたりで出したら良いのに。ドルンチナはかなりUブックス向きだと思うのだけれど。

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