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メルさんのレビュー一覧

投稿者:メル

108 件中 31 件~ 45 件を表示

紙の本

文学が語る「社会」

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

副題の「社会科学と文学のあいだ」という点に引っかかって読み始めてみた。文学プロパーの私からすると、これは「邪道だ!」という思いがしてならない。しかし、読んでみると意外な発見があるのかもしれないという期待もある。
本書は、一人の社会科学の研究者が文学作品をどのように読んだのか、という本だ。文学作品の時代背景やモデルを論じる。著者は、本書で用いた方法をつぎのように説明する。
《本書で私が用いたのは、文学作品そのものを用いて、時代の「良質な観察者」としての文人が描く人々の生活の内面的な部分を、ストーリーの流れの中から読み取るという手法である。(p.10)》
ここの「良質な観察者」というのは、たとえば本文中では山田風太郎の『戦中派不戦日記』について論じている時に出てきている。曰く、「最良の文学者」は「最良の「傍観者」」であったと。
本書で対象となる文学は何か。著者は、まず「歴史と文学とを渾然一体化させてしまった」といういわゆる「歴史小説」を外す。もう一つは、いわゆる「経済小説」「企業小説」といった類の作品も外している。というのも、経済小説などは、「経済社会」や「社会の内実」を強く意識して取り上げてしまうからだという。著者は、「経済社会」や「社会の内実」を描くことが目的ではないのに、知らず知らずのうちに「人々の内面的生活と社会の全体的雰囲気」を語っている作品に関心が向く。というわけで、本書ではいわゆる「純文学」と呼ばれる小説が取り上げられる。論じられた作品は以下の通りだ。
武田泰淳『鶴のドン・キホーテ』、太宰治『斜陽』、三島由紀夫『絹と明察』、永井荷風『あめりか物語』、谷崎潤一郎『痴人の愛』、横光利一『上海』、小林多喜二『蟹工船』、大岡昇平『野火』、山田風太郎『戦中派不戦日記』、夏目漱石『文芸の哲学的基礎』
著者の言うとおり、本書は文学作品そのものを読み込むのではなく、作品中に登場する出来事や人物を取り上げ、それらを基に日本の近代社会を論じている。文学作品より、その背景となる時代や社会を論じることにウェイトが置かれていた。この論じ方が悪いとは言わないが、文学作品に関心を持つ私にとって、文学作品の読解には物足りなさを感じてしまう。しかし、作品のモデル、あるいは時代背景や歴史などの知識を得るにはちょうど良い本だと思う。

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紙の本

紙の本遠い山なみの光

2003/09/22 19:44

一級品の「語り」

1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『日の名残り』で有名なカズオ・イシグロの作品を初めて読んだ。悪くない小説だけど、なんとなく嫌悪感を覚える。変な言い方だけど、この小説は優等生が書いた小説、という雰囲気がある。たとえば小説創作学科というものがあれば、そのクラスできっと「優秀である」と先生から認められる作品なんだろうなあ、と。たぶん、小説の構成とか語りの方法とか、いかにも「小説的」だ、と言いたくなるようにきっちりと生真面目に書かれてあるからだろう。お手本通りに書いた書道のようなもので。たとえば、先生のお手本通りの書道って、すごく巧いなあと感心するけれど、心を揺り動かされるということが少ない。イシグロの小説に感心したのは、きっとこの「巧さ」であり、嫌悪感を感じたのもこの「巧さ」なのだ。

 小説は、母とその娘の関係を繊細な手法でもって、微妙な心理を書いている。物語は、娘、景子を自殺という形で失った悦子が、もう一人の娘ニキの訪問をきっかけに、かつて過ごした長崎のこと、そこで出会った佐知子とその娘万里子のことを回想する。悦子は、佐知子のことがどうしても理解できなかった。佐知子は、夫を亡くし、長崎の伯父のところへ身を寄せていたが、そこを万里子と飛び出し、アメリカ人男性と一緒になりアメリカへ行くことを望んでいる。娘、万里子にとってもそれが一番良いと信じている女性だ。そんな佐知子に対し、悦子はとまどいを隠せない。佐知子の生き方を否定することも肯定することもできないでいる。

 佐知子の娘、万里子はどこか影をもった不気味な存在として描かれている。それは、普段悦子は、「万里子さん」と呼ぶのに、時々万里子が周囲とのコミュニケーションを拒絶する時、「女の子」と呼ぶことからも理解できる。そんな万里子は、しばしば女の人が現れると言う。佐知子は大人に関心を持ってもらうためのいたずらだと、はじめは説明していた。しかし、その女性は、戦時中、佐知子と万里子が東京で暮らしていたときに見かけた人であり、自殺したと言われる。佐知子と万里子はある日、その女性が赤ん坊を堀割の水の中に浸けていたのを目撃したのだった。

 この光景は、物語中にもう一度反復される。それは、佐知子がアメリカ人男性と一緒になるために神戸に引っ越しする際に、万里子が子猫を一緒に連れて行くと言った時、佐知子はどうしても連れて行けないと言い、最後は近くの川の中に子猫を沈めてしまうのだ。

 物語のはじめに悦子は、自殺した娘景子のことを語るのではない、と言っていた。しかし、佐知子と万里子の関係を語りつつ、それは次第に悦子と景子の関係と示唆しているのではないかと思われる。まるで佐知子を語りながら、悦子自身の人生を語っているようなのだ。とすると、先ほどのエピソードすなわち赤ん坊や子猫を沈めて殺してしまった女性の反復は、悦子自身、自分もその女性たちと同じなのだ、という思いを抱いているからではないか。すなわち、娘景子を自殺に追いやったのは、自分ではなかったという自責の念である。

 語りたいことを直接には語らず、別のことを語りながら、言葉と言葉のあいだから非常に繊細な心理を浮かび上がらせるイシグロの手法。この「巧さ」は、まさしく小説的だと感じるのだが、一方でこのような手の込んだ仕組みに多少の嫌味を感じないこともない。これは単に個人的な趣味な問題ではあるけれども。しかし、そうは言っても、この小説の語りは一級品であることは間違いない。

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紙の本

建前と本音

14人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 江藤淳の占領期日本の研究の一つである本書は、アメリカがどのように占領期に検閲を行い、その影響が戦後日本の言語空間に影響を与えているのか、一次資料を丹念に調査したものである。この調査によれば、アメリカの行っていた検閲はかなり巧妙になされていたということになるだろう。
 というのも、アメリカは日本に「自由」を植え付けるためにやってきたのだが、検閲というものはその「自由」を奪うものに他ならない。「言論の自由」の国であるアメリカが、それを自ら破るという矛盾した行為となる。したがって、検閲の正当性を考え出さなければならないし、巧妙に隠蔽しなくてはならなかったのだ。そのために様々な情報の統制が行われていた。
 したがって戦後の日本は、検閲によって言語空間を拘束されていた、いや拘束され続けているということになる。江藤淳は、「いったんこの検閲と宣伝計画の構造が、日本の言論機関と教育体制に定着され、維持されようになれば、CCDが消滅し、占領が終了したのちになっても、日本人のアイデンティティと歴史への信頼は、いつまでも内部をつづけ、また同時にいつ何時でも国際的検閲の脅威に曝され得る」と述べている。
 とすると、いわゆる戦後の日本を覆っていると批判されている「自虐史観」なるものは、まさしくアメリカによって植え付けられてしまったものだというのも可能だろうか。
 この本を、簡単にアメリカへの嫉妬と羨望による反米ナショナリズムに過ぎないと片付けることができないと思う。「自虐史観」はともかく、日本の言語空間はどこか屈折があるように思えるからだ。それは「言論の自由」というものがあるにも関わらず、その「自由」を押さえてしまう「言葉狩り」と呼ばれることがあるからだ。江藤淳は、最後に戦後天皇に関する言葉が、「時代遅れ」「難解」といった理由で次々に変えられてしまったことに憤っていた。こうした屈折は、やはり占領期のアメリカの屈折の影響を受けてしまったのではないかと思わせる。そう感じるのは、本書が単に心理的なモチーフによって書かれた文章ではなく、きちんと一次資料に基づいた調査・研究の力があるからだろう。

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紙の本

紙の本吉田松陰留魂録

2002/10/20 17:17

種をまく

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 吉田松陰は、この『留魂録』を書きおえた翌日、すなわち安政六年(1859)十月二十七日に処刑された。つまりこの書は松陰の遺書であり、門下生への最後のメッセージになった。『留魂録』は密に門下生の間で回覧されて、松陰の意思を継ぐ者たちのバイブルとなったという。きっと維新の原動力となったのだろう。わずか三十年あまりの生涯なのに、その影響力の大きさにはただ驚くばかり。
 死を目前とした時に書かれた文書なので、非常に張り詰めた緊張感のある文章なのだが、ある種の達観の境地というか悟りの境地というのも感じられる冷静さも同時に含む。
 松陰は、人の寿命は定まっていないという。しかし、十歳には十歳の四季があるだろうし、二十歳にも二十歳なりの四季がある。百歳にも百歳なりの四季があるという。そして、自分は三十歳で死ぬが、既に四季を巡ったのだから、どんな実であるか分からないがとにかく実をつけたのだという。自分の意思を受けついでくれる人があれば、その種子は途絶えることはないだろう、と述べている。自ら実となり種となり、それを受けついだ人がまたあらたな実をつけていく。自身では何も成し遂げられなかったという後悔が感じられない。自ら礎となり、仲間に自分の意思を託して、死を受け入れる松陰の姿がある。文字通り、この書は「魂」を書き「留」めたものである。

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紙の本

紙の本思考のレッスン

2002/10/19 17:05

書くための心得

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 どうしたら良い論文が書けるようになるだろうか。そんな切実な思いから本書を手に取り急いで読んでみる。
 本書は、丸谷氏の少年時代から影響を受けた人などの話から始まって、やがて思考のコツ、読書の方法、文章の書き方といった方法論に及ぶ。丸谷氏がどのように本を書いているのか教えてくれる。実用的な方法論にはなっていないかもしれないが、丸谷氏の経験から語られた方法論はとても参考になった。
 印象に残ったものをいくつか取り上げてみると、まず「型を発見したら、それに名前をつける」ということ。たとえば、フロイトは息子が抱く母親への愛着を「オイディプス・コンプレックス」と名づけた。こうすることで、確かにバラバラに見えたものが一つにすっきりするし、良い名をつければ、それだけでインパクトを読み手に与えることが出来る。これは、使える!
 それから、文章を書く心得として肝に銘じておきたいと思ったのは、「書き出しに挨拶を書くな」「書き始めたら着実に前を進め」「中身が足りなかったら、考え直せ」という三つの点だ。この三点は文章を書くときについやってしまうことだと思う。書き出しに無用な言葉を書いてしまったり、本論と関係ないことを長々と書いてしまったり、規定の分量に足りなくて水増ししてしまうなんていうこともある。しかし、それをやってしまうと面白い文章は書けないないのだろうなあ。常に注意しておきたいことだ。
 そして、最後に丸谷氏はこう付け加える。「言うべきことを持って書け」と。これが、一番重要だ。言うべきことがあれば、言葉はどんどん出てくるものだ、逆に原稿用紙を前に書けないと悩むのは、言うべきことがないからだという。全くその通り、と言うしかない。
 ところで、本書の書き方は、質問者のような人物がいて、それに丸谷氏が答えるという形式になっている。つまり「対話」で成り立っている。これは、もちろん丸谷氏が影響を受けたとして本文中でバフチンを取り上げているが、そのことと大きく関わっている。すなわち、丸谷氏自身の思考方法が「対話」なのであり、常にもう一人の自分、あるいは他者との対話を通して考え、文章を書いているのだ。こうしてみると、本書そのものが、実は丸谷氏の思考の形そのものであったということに気がつく。面白い仕掛けだ。

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紙の本

紙の本敗戦後論

2001/09/13 12:19

微笑する女の子

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 数年前に、この「敗戦後論」が発表され、それ以後大きな議論を呼んだ本であったが、私はその時にはあまり関心がなかった。しかし、最近の日本の戦後に関する本を読むと本書はしばしば取り上げられている。それだけ評論としは近年かなりのインパクトのあった本なのだろう。それゆえに一度は読んでおこうと、遅ればせながらも今回はじめて手にしてみた。
 この本で、大きな議論を呼んだ個所は、おそらく次の部分だろう。

「ここにいわれているのは、一言にいえば、日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼をつうじてアジアの二千万の死者の哀悼、死者への謝罪にいたる道は可能か、ということだ。」

 戦後の日本は人格にたとえれば、ジキルとハイド氏のように二つに分裂して「ねじれ」を起こしていたのだという。この「ねじれ」があるかぎり、一方ではアジアの死者を悼みそのアジアに対し謝罪の態度を示せば、一方ではその反動で侵略ではなかったと発言するものが現れてしまう。加藤典洋は、まずは謝罪主体の構築が必要であり、そのためにも人格分裂を克服しなければならないという。そして、アジアに対し謝罪するには、まずこの日本の三百万の無意味な死を無意味なまま深く哀悼し、そのことがアジア二千万の死者への哀悼へと繋がると述べるのである。
 こうした論への反論として、高橋哲哉の「汚辱の記憶を保持し、それに恥じ入り続けること」という態度を、「潔癖」であって違和を感じるともいう。そしてこの加藤典洋が感じた違和感をめぐって、「戦後後論」では太宰治とサリンジャーから「文学」は誤りえるものであると言い、そうした誤り得る状態での正しさのほうが、安全な真理の状態におかれた正しさよりも深いと。また、「語り口の問題」では、ハンナ・アレントが取り上げられ、ここでは「公共性」や「共同体」が考察され、先の高橋哲哉の態度がなぜ加藤には受け入れられないかというと、それが「共同体」の言葉であるからという。
 全体を通して特に、「語り口の問題」を読んでから本書を振り返ってみると、アレントが「イェルサレムのアイヒマン」でその語り口が批難されたように、本書での加藤典洋の態度が「共同体」を刺激するものがあったのではないか、と思われる。本書で語られた問題が、たしかに戦後の日本では避けつづけてきた問題であったのは確かだ。「共同体」のタブーに触れているという感は否めない。だからこそ、大きな議論の対象にされたのだろうと実感できる。
 で、さて問題は、この加藤典洋の提出した命題にどう対処するかだ。私自身は文学を研究しているので、やはり文学の側から考えてみる。そして思ったのは、加藤典洋が「戦後後論」の中で引用していたのだが、太宰治の「薄明」の場面、結膜炎が治ってようやく眼が開くようになった女の子をつれて自分の家の焼け跡を見にいくところだが、

「ね、お家が焼けちゃったろう?」
「ああ、焼けちゃったね。」と子供は微笑している。
「兎さんも、お靴も、小田桐さんのところも、茅野さんのところも、みんな焼けちゃったんだよ。」
「ああ、みんな焼けちゃったね。」と言って、やはり微笑している。

と、こんな不思議な会話をしている。私は、この女の子ようなところから出発はできないのかと考えている。

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紙の本

紙の本言葉と物 人文科学の考古学

2002/08/19 16:17

ほとんど理解できないけど、一つだけ言えることは…

6人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 すでに、古典といっても良いほど有名な本だ。現代思想を論じる人は、どこかで触れる本だし、今現在、その影響の大きさは計り知れないと思う。
 それほど巨大な存在の本だけれども、やはり中身はかなり難解だ。フーコーに関する本を前もって読んで、相当準備をして読んでみても、なかなか本書の全体を吸収するのは難しかった。それでも、我慢して全部を読み通して、一つだけ言えることがあるとしたら、本書の文章は文学的で名文だなあということだ。
 本書が結局どんな意味なのか理解できなかったけど、それでも途中で放り出さずに最後まで読み切れたのは、文章の魅力にあると思う。少なくとも、私の好きな魅力的な文章であった。古典主義時代から言葉=表象と物との関係を考古学的方法で追い続け、がどうやら18世紀あたりで変化を起こすらしい。で、その時になってはじめてなんていうものが現れたのだ、なんてたかだか最近200年ほどしかいなかったんだよ云々、ということが語られた後に、本書の一番最後にこう書き綴られる。

《そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するだろう。》

 この最後の文章も有名な箇所で、時々評論家など引用することなどあるけれど、難解な思想をへとへとになりながら読みすすめ、最後に出会うのがこの一文だ。なんてCOOLな言葉なんだろうと思った。この場合、ある種の冷ややかさと同時格好の良さを感じさせる。思想書がこんな閉じ方をするなんてすごい、と思う。
 この一文に出会うためだけでも、本書を一度通読してみるのも良いかもしれない。

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紙の本

紙の本ポストモダニズムの幻想

2002/02/02 17:26

幻想だったのかもしれない

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ポストモダニズムに興味があって、とりあえず「ポストモダニズム」なんていう言葉を本の中に見つけると、ついその本を手にとって見てしまう。なんだかよく分からないけれど、「ポストモダニズム」というものは良いものなのではないかなあ、と思っていた。とにかく「ポストモダニズム」の批評家とか思想家の文章が難解にもかかわらず、魅力を感じていたのは確かだ。流行に乗ってしまったと言えばその通りだと思う。しかし、いつまでも流行は続かないものだ。最近は、その反動で「ポストモダニズム」批判に関心が向いている。
 文学理論家として有名なイーグルトンによる本書は、「ポストモダニズム」批判の代表的な本だろう。破壊を得意技にしていた「ポストモダニズム」を明快に崩していくところには痛快さを感じる。
 イーグルトンが言うには、ポストモダニズムには、全肯定か全否定しかない。どちらかが善であり、片方が悪であると決め付けてしまうという。複雑な議論をしているようでも中身は単純な二項対立で成り立っていたということだろう。
 たとえば、ポストモダニズムでは普遍性を認めない。あるのは差異だけだと言う。しかし、こう決め付けてしまうと差異の状態が普遍的に存在することになるのだ。差異だけしかないと言う時、すでに差異の状態の普遍性を認めていなければならない。だから普遍性しかないのだ、と反論するのではなく、普遍と差異という概念が必ずしも対立するものではないということをイーグルトンは示すわけである。言語や文化がそれぞれ異なる差異があるといっても、人間が言語や文化を持っているという普遍性まで否定することはできないと。
 このあたりの議論など見ていくと、この本はポストモダニズムの脱構築なのでは、と感じてしまう。要するに、ポストモダニズム批判もポストモダニズムというものがなければ批判することができないのではないか。イーグルトンは、ポストモダニズムを完全否定するわけではない。それなりに意義を見出している。本書が説得力を持つのは、イーグルトンがポストモダニズムを一度は消化吸収した上での批判だからだと思う。もし、ポストモダニズムを通過せずに批判だけをしていたのなら、おそらく本書のような説得力は持ちえず退屈な本になっていただろうと思う。

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紙の本

紙の本日本の心

2002/01/08 00:40

美と民族主義

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは、「怪談」で有名だと思う。本書は、そのハーンの日本に関するエッセイである。

 ハーンが日本国内を旅行したりした折に、聞いたその土地に伝わる話や出来事をハーンは書き残している。その文章を読むと、ハーンの生きた明治の「日本」や「日本人」の姿が彷彿とする。ハーンは文学者だけに、語りが上手い。ハーンの語る物語につい引き込まれてしまうのだ。
 このようなハーンの文章に、多くの人はなつかしさのようなものを感じるのではないか。あるいは改めて「日本」ってこういうものだったのか、ということを感じるのではないだろうか。ハーンの文章には、「日本」の素晴らしさを私たちに気づかせる働きがあると思う。

 しかしながら、どうしてハーンの文章を読むとなつかさしさのようなものを感じたり、「日本」の良さに改めて再認識したりするのだろうか。そこには、ハーンの民族主義と関係があるのではないだろうか。
 たとえば、ハーンは「旅の日記から」という文章の中で、最高の芸術に表現されている人間の理想は、必ず「過去」の経験すなわち無数の祖先から受け継いだ何かに訴えるに違いないと言う。そして《さてそこで、美の感動だが、これも人間のあらゆる感動と同様に、果てしない過去の、想像もつかないほど数限りない経験から受け継がれてきたものに他ならない。美に対するいかなる感情の中にも、脳という不思議な土壌に埋もれた微かな記憶のざわめきが無数に存在する。》
 おそらくハーンにとって、文化や芸術というものは、それを生み出した民族の精神を表象しているのだ。日本の美術や文学には、日本人という民族の祖先の記憶が無数に刻まれてきたものだと考えていたのだろう。ということは、日本の美術を賞賛することは、そのまま「日本人」という民族を賞賛することになっていく。ハーンの文章を読んで、私たちが懐かしいな、良いなあと感じるのは、このような理由からかもしれない。

 本書に収められたエッセイのなかでとりわけ素晴らしいのは、虫に関する話である「虫の演奏家」と「草ひばり」だろう。ハーンは、虫に非常に関心を持ち、虫の鳴き声を愛したらしい。そして日本に虫の文学の伝統があることを賞賛している。「虫の演奏家」は、日本文学における虫の詩をハーンが調べて集めたものだ。
 ハーンは言う、《日本の文学はもちろん家庭生活でも虫の調べに与えられている地位の高さは、西洋人にはまだ未開発の方面に日本では美的感受性が育っているという証になろう》と。そして虫の声から優美で繊細な空想を呼び起こす国民から西洋人は学ぶべきものがあるだろうと言うのである。
 ハーンの賞賛した、虫に対する美的感受性は現代の日本にも残っているだろうか。ハーンの西洋人に向けた次のような忠告は、現代の日本にも向けても良いだろう。《しかし、西洋人が驚いて後悔しながら自分たちが破壊したものの魅力をわかり始めるのは、今日明日のことではなく、先の見えない猪突猛進的な産業化が日本の人々の楽園を駄目にしてしまったとき、つまり美のかわりに実用的なもの、月並なもの、品のないもの、全く醜悪なもの、こういったものをいたるところで用いたときのことになるのだろう。》

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紙の本

紙の本寝ながら学べる構造主義

2002/07/29 10:44

コンパクトな入門書

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「寝ながら学べる」というように、難解な思想を非常に平易な文章で書かれている。説明も丁寧で出来るだけ理解しやすいような例を持ち出しているので安心して読むことができると思う。
 本書は、まず構造主義の前史から始まる。構造主義を準備した人としてのニーチェの解説があり、言語学からはソシュールの説明がある。このあたりは、たいていの構造主義の解説本にある記述なので、構造主義に親しんでいる読者なら「またか」といった印象も無きにしもあらず。でもきちんと押さえていたほうと後々の議論に役に立つだろう。
 それから、本書では構造主義の「四銃士」として、フーコー、バルト、レヴィ=ストロース、ラカンといったフランスの現代思想家が紹介される。これらの思想は、難解だし、もちろん簡単には説明できないようなものだけど、ここでも丁寧な解説があり、思想の一端を理解することができるだろう。
 例にたとえばコンピューターの話を持ってきたりと今時らしいなあと思う。本書を読んで気になったところは、まず言説と身体の関係(フーコー、バルト)。「人間」という概念の終焉といったところだ。本書の「まえがき」で著者は、《入門書が提供しうる最良の知的サービスとは、「答えることのできない問い」、「一般解のない問い」を示し、それを読者一人一人が、自分自身の問題として、みずからの身に引き受け、ゆっくりと噛みしめることができるように差し出すことだ》と述べている。本書は、充分に読者のナビゲーターになっていると思われる。

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紙の本

紙の本言語的思考へ 脱構築と現象学

2002/02/24 02:04

結局、なんだかんだ言っても…

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 竹田現象学による、現代思想=ポストモダン批判の本。読み終えた直後の感想としては、果たしてこの本が、ポストモダンへの有意義な批判となっているのか、疑問に思う。
 竹田が批判するのは、イデオロギーと化したポストモダン思想と言ってよい。竹田は、《ポストモダン思想は、ある一つの観念を顛倒したいという切実な望みのために、哲学の本質的思考法と引き替えに一切のことを否定を言いうる強力な魔法を手に入れた者に似ている》と言う。本書では、ポストモダン思想は、「形式論理」「メタ論理学」「一般」などの言葉で言い表され、それは実存的な動機を欠いた単なる論理ゲームでしかない。その特徴は、相対主義、懐疑主義であるとされる。
 これに対置されるのが、(竹田)現象学であって、それは「原理」「本質」「実存論的考察」「現実」などの言葉で言い表される。その方法は、たとえば、「倫理」に関する考察において、次のように述べられる。《現象学の方法では、「倫理」や「善」の本質を捉えようとするなら個別的な内的実存におけるその本質から出発し、そこからこれを「間主観的」に展開していくという順序をとらなくてはならない》。
 竹田によると、伝統的な形而上学は主観と客観の認識の一致を目指すという。これはいわば、自己の外部に絶対の根拠を置く、という思考だろう。それに対し、(竹田)現象学は本書を読む限り、根拠を追求するものではないと言いながらも、自己の内部に根拠を置いていると思う(本書はとにかく「本質」という言葉が頻出して、それがかなりうんざりする)。
 とにかく、本書は、ポストモダンが二項対立という方法で、批判する対象を相対化している「否定神学」であるとするが、竹田が行っているのは、あるいは依存しているのはポストモダンのこうした二項対立による相対化という思考法なのではないか、と疑ってしまう(それを否定はしていると思うけれど)。デリダを中心としたフランス系の思想や英米系の分析哲学など、現代思想として大雑把に括ってしまうのも、どうなのかなあと疑問に思う。厳密さに欠けるというか。
 さらに本書を読んで、違和感を覚えるのは、「わたし」という言葉と「われわれ」という言葉が、簡単に接続してしまうことだ。ある段落の中で「わたしの考えでは〜」「わたしの考えからは〜」という言葉に続いて、その直後に「われわれにとっては〜」といつのまにか、竹田の思想の中に組み込まれてしまう(326ページあたり)。こういう論述の仕方も乱暴だと言わざるを得ない。
 重箱の隅を突っつくようだけど、本書のポストモダンに対する批判がどこか違和を覚えてしまうのは、こうした論述の乱暴さであると思う。

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紙の本

文法を通してみる文化

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は、日本語の実態に即した文法の説明を!というコンセプトのもと、明解に日本語の文法を説明する。明治以来、西洋の言語学を応用して、日本語の文法を作り上げたが、それはあまりにも日本語の実態に合っていなかった。そこから、日本語文法の「謎」が生じたのだろう。
 さて、本書が強調するのは、主語はない、自動詞と他動詞、受身と使役といった項目で、これらを従来の学校文法とは全く異なる論で説明している。そして、この文法論は、英語圏文化と日本語圏文化の比較文化論へと繋がる。それが、「ある」という存在を重視する日本語は、人よりも自然のほうが大きい。一方、「する」という行為を重視する英語では、人が中心となる。自然を中心とした文化観と人間を中心とした文化観という構図を、言語の面からも説明することができるようになる。この視点が特に注目すべきであり、本書の面白い点でもある。
 本書には、文法から文化論へ繋がるヒントがたくさんある。たとえば、日本語には主語がない、という著者の一番強調する論から、ではどうして近代の日本の国語学者は、西洋からもたらされた「主語」の概念に拘ったのか。日本語に「主語」が無いことに、何か不都合なことがあったのか。
 それから、もう一つ面白いのは、人間の顔の部位と植物の部位が対応しているのではないか、ということ。「目」と「芽」、「鼻」と「花」、「歯」と「葉」など。これは、どうも日本に限らず、東アジアの中でも見られることらしい。とするなら、東アジアにおける身体観、自然観の関係がもっと知りたくなる。人間の身体が自然と対応するという自然観が想定できるだろう。
 もちろん、本書は日本語の文法の説明も合理的で、たとえば外国人に日本語の特徴を教える際に非常に参考になる本でもある。「する」と「ある」、この二つの違いがあることを理解すれば、「謎」が「謎」でなくなるのだ。

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紙の本

紙の本退屈論

2002/07/01 23:15

「退屈」がやってくる

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 結局、本書読むと恋愛とか性とか芸術とか戦争まで、あらゆることが「退屈しのぎ」だ、といった感じになる。ほんまかなあ、と疑問に思いつつも確かにどんなに面白くかつ興味・関心のある事柄でもずっと続けていたら、飽きて退屈する。うーむ、それには反論できない。飽きて退屈するのは、もう仕方がないのだろう。
 私が「退屈」について思っていたのは退屈をマイナスに捉えるのではなく、むしろプラスの方向へ考えてはどうなのかと。私が思うに、物事の進展や社会生活や、思考というものが硬直化したとき、それを私たちは「退屈」と感じるのではないだろうか。とするなら、その「退屈」が現れたとき、それは変革する時期のサインなのだから、そこで思い切って行動なり思考を転換してみれば良いのだろう。つまり「退屈」というものを、もし人が感じなくなったら、ずっと同じ状態が永遠に続いてしまうのではないだろうか。これまで世界が何らかの形で変化をし続けてきたのだとしたら、それは「退屈」のおかげなのではないだろうか。ということで、「退屈」は実は非常に重要なものであったのではないかと思う。
 しかしながら、ここで注意しないとならないのは、「自分」自身を変えようと考えることだ。小谷野氏は《「退屈」を論じた教訓的な文章の多くは、自分の心持ちを変えることを勧める。自分を変えれば社会が変わるなどということを言う者もいるが、嘘である》とはっきり述べる。なぜ《嘘》かといえば、たとえばいじめられっ子に、いじめられてつらいのならまず「自分」を変えてみなさい、そうすれば周囲も変わるよ、といってもそれは残酷なことだろう。で、変えるのは「自分」ではなく、《私たちはいま一度、社会を変えてみようとするべきではないか》と言う。
 そして小谷野氏は、本書でスローな社会になるべきと主張している。小谷野氏の「退屈」問題に対する解決法は自身が述べている通り、斬新なものではなく拍子抜けしてしまうが、最後のポパーの主張に沿いながら、こう述べている。
《身の周りの小さな不条理をまず何とかしようと考えること、そして理性を働かせること、その上で、対処しようのないことがら、あるいは「退屈」については、「あるがまま」に任せるのだ。》
 「退屈」について、ちょっと考えてみても良さそうだと思う。

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紙の本

やっぱり文学批評のほうが面白い

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 最近、恋愛論や読書論などの本を書いていた小谷野敦の本格的な文学批評。恋愛論や読書論には、あまり満足できなかったので、やっぱり小谷野氏は文学を論じたほうが良いのではないか、と思っていたところなので、期待して読む。
 全部読み終えて感じたのは、やっぱり文学批評のほうが面白い、このままこれからも文学を論じていって欲しいということだ。
 本書の面白いところ、それが本書の批評の方法でもあるのだけど、それを見てみると、まず一つは通時的分析と言ったらよいのか、一つのテーマなりジャンルの歴史を概観する。もう一つは、共時的な分析と言ってよいのか、その批評の対象となる小説の読者に受け入れられた背景の分析も行う。さらに、本書の全体を貫いているのが、ジェンダー批評である。この三つの分析が、巧みに組み合わされていて、その手つきに脱帽した。
 そのような中で、特に面白いと思ったのは、ホーソーンの『緋文字』の分析だろうか。姦通の文学なのだが、どうして「制度外の愛」である姦通に、これまでの批評が感情移入してきたのか、ということが批判されていて面白いと思う。結論として、妻を寝取られた夫のチリングワースの本当の敵は、寝取った男のディムズデールではなくて、妻の(あるいは女性)へスター・プリンではないか、という結論は賛否両論に分かれるかもしれないけれど。

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紙の本

オペラ劇場という『場』の歴史を描く

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 これは、文句無しに面白い本。私は、音楽は全く無知だし、オペラなど見たことも聴いたこともないのだけど、それでも充分に楽しく読めた。たぶん、本書はオペラ入門としてけっこう優れた本ではないだろうか。

 面白いのは、オペラの歴史を作品や作曲家を中心に語っていくのではなく、オペラが演じられる場(そこにはオペラを観る観客も含まれる)の歴史を語っていることだろう。著者はこう述べている。《「オペラ劇場という『場』の歴史を辿るという主題。あえて言えば「オペラ劇場の雰囲気の歴史」になるだろうか》。

 そのような視点でオペラの歴史を見ると、オペラがもともとは王侯貴族の社交場であったが、フランス革命を経てブルジョワの台頭によって、オペラを芸術作品として鑑賞する場へと移って行く。その最高到達点としてワーグナーが現れる。その象徴として、1868年6月21日、ミュンヘンでの『ニュルンベルクの名歌手』の初演での出来事がある。そこで、《オペラ作曲家による王位の「簒奪」》と述べられているが、ワーグナーはルートヴィッヒ二世とともに貴賓席に座ったという。こんなことは、想像も出来なかったことらしい。王を差し置いて観客の喝采を浴びるワーグナーがいる。そんな劇場の様子が思い浮かぶ。ワーグナーがオペラの歴史の中でいかに大きい存在であったのか理解できるだろう。

 しかしながら、そんな絶頂期を迎えていたオペラも第一次世界大戦後に下降線をたどる。新しいメディア、そう映画の誕生がオペラの運命を変えるだろう。映画の現実性の前に、非現実的なオペラは衰退していく。だが、映画はオペラの恩恵を大いに受けていることを忘れてはならないだろう。オペラと映画の繋がりも本書では指摘されている。たとえば、グランド・オペラ。これは、七月王政時代(1830年〜1848年)にパリの王立オペラ座で上演された記念碑的な規模を持つ五幕の歴史劇のこと。この壮大の規模のオペラの工夫として、観客が見るだけで、舞台を眺めていれば筋が理解できるようになっているというのだ。それゆえ、《グランド・オペラこそは、二十世紀の映画・テレビ文化にまでつながっていくところの、ビジュアル娯楽の先駆だった》という。この指摘は、映画を考える上で非常に有益である。現在のハリウッド映画との繋がりが思い浮かぶ。

 こんな風に、本書はオペラを様々の角度から論じており、それらを合わせていくと、各時代のオペラ劇場そしてそれを取り巻く人々の雰囲気が伝わってくるようになっている。したがって、オペラって何?という初心者にも、とても読みやすいオペラ入門書となっているだろう。

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