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塩津計さんのレビュー一覧

投稿者:塩津計

1,449 件中 46 件~ 60 件を表示

紙の本毎日かあさん 3 背脂編

2006/05/21 21:50

マンガを訴訟沙汰にする杉並?武蔵野市?の住民達

17人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

サイバラさんのマンガは相変わらずの絶好調。人気に根負けしたのか、あのケチの毎日新聞も、ようやく毎回オールカラーで連載してくれるようになった。メデタシ、メデタシ。ところがサイバラさんの近辺でめでたくない事件が勃発していると聞いて驚倒した。なんとサイバラさんのご近所から「毎日かあさん」が目の敵にされ、訴訟問題にまで発展しつつあるというのだ。何がもめているかというとサイバラさんが学校の様子を茶化してマンガにしたのがお気に召さないようで「うちの子が馬鹿に見える」「学校が崩壊しているように見える」「学校のことはマンガのネタにするな」「うちのこをマンガに登場させるな」と、まあ、こんな感じなんだそうだ。杉並や武蔵野市には気位ばかり高くて性格の悪い人たちが多く住んでいるという噂はかねてからあったが、どうやら本当のようだ。こういうジョークを解せ無い人たちが住んでいる街は、あまり住みたくないと、この話しを聞いて思った。サイバラさん!負けないでね。表現の自由をまもってね!ガンバレ、サイバラ!

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本書はタイトルこそ「米国製エリートは本当にすごいのか?」と、あたかも米国エリート論であるかのような印象を受けるが、米国製エリートの実体についての記述は思ったほど多くない。中身の大半は慶應大学湘南藤沢キャンパスの総合政策学部を出た著者が東洋経済新報社に入社後、休職して留学したスタンフォード大学院留学体験記と、そこで感じた日米差異論、留学体験を通じて著者が感じた日本論となっている。

18人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「米国製エリートは本当にすごいのか?」という問いについては、著者の結論はあいまいだ。確かに大量の書物を読まされることで「知的体力」「知的筋力」が「平均的に」エリート大学の学生に施されるという点で「すごい」ということになるのだが、それ以上に「すごい」という点は、どうもあんまり見当たらないようだ。また日米のエリートの資質については、はっきりと「大差はない」「特にトップ層の資質は概ね同じ」と結論付けている。英語で早口で自信たっぷりに(傲慢に)自己主張するから、最初のうちは気圧されるが、耳が英語に慣れ、よくよく聞いてみると「たいしたことを言っていないことに気がつく」のだそうだ。

学生の資質、とりわけ日本のトップ大学の学生の資質には日米ともに大した差異は無い。そういう意味で、日本の受験戦争はしっかりと機能しており、優れた学生を選抜する役割をしっかりと果たしていることが分かる。それでも日米の大学格差、とりわけ日米の政治リーダーの資質には大きな懸隔がある。これには、むしろ大学を取り巻く空気、社会全体を覆う価値観の差異が大きいと著者は言う。とりわけ米国のすごいところは「自身の過ちを素早く把握・分析し、それを知識として後世に引き継いでいく力だ」という。これは野中郁次郎氏の名著『失敗の本質』でも指摘されていることだが、大いにうなづけるところだ。米国では2008年の時点でイラク戦争を大学の講義で取り上げ「なぜ占領政策がうまくいかなかったのか」「大量破壊兵器がイラクに存在するという誤報がまかり通ったのか」などがジャーナリズムのみならずアカデミズムでも盛んに取り上げられ、膨大な資料や論考を読みこんだ上で侃々諤々と議論が重ねられ、そこから教訓を導き出そうとされていたそうだ。日本ではこうした議論はなかなか起こらない。まず身内のかばい合いの意識が強すぎて「これを話すとあの人を傷つけることになる」と考えるのか、ヤバイ話は墓場まで持ってい行くことになって誰も真相を語らないし、まして失敗から教訓を学ぶことなんて出来なくなってしまう。こうした日本の風土を象徴する人物として著者は瀬島龍三をあげる。大本営参謀として日本の戦争指導の中枢にいて全てを知悉する立場にありながら、最後まで「美しい自慢話」だけして肝心なことを一切語らずに鬼籍に入った瀬島を、自己弁護に傾きがちながらも懸命にベトナム政争の失敗の教訓を語ろうとしたロバート・マクナマラと対比させる。日本の大学でも是非「日本はなぜ第二次世界大戦に負けたのか」「大蔵省はなぜバブルの処理に失敗したのか」「なぜ日本は20年も失われたのか」な、日本の将来の教訓になるようなテーマを学生たちが徹底討論出来るような機会を作って欲しいと訴える。

日本では議論というものが成り立ち難い。そもそも論者が批判を受けつけようとしない。日本では批判はそのまま「人格攻撃」と受け取られ、一旦相手を批判すると相手が根に持ち、以後、面談すら敵わないとなりがちだ。だから議論は常にすれ違い、相手を正面から論破するような対談はそもそも成り立たないし忌避される。議論がかみ合わないから結論は出ないし、「痛み分け」「喧嘩両成敗」となる。しかも源氏と平家に分かれて双方の陣営を罵倒し合う(ただし特定個人を対象にすることは、なるだけ避ける)から、議論は往々にして「神学論争」になりがちだ。現実から遊離した神学論争が日本で頻発するのは、相手のメンツを保ち双方気づ付かないようにする為の知恵なのではないかとさえ思われる。

先に著者が訴えた「大蔵省がなぜバブルの処理に失敗したのか」という議論さえ、日本ではいまだに決着がついていない。そもそも大蔵省も日銀も忌憚のない意見を述べる人がほとんどいない。しゃべっているのは榊原英資のような電波学者だけだ。最近では不良債権処理そのものが間違いだったとする元興銀マンの自己正当化の居直りとしか思えない『不良債権処理先送りの合理性』などという本さえ出ている始末だ。「批判をむしろ歓迎し自分の議論の欠陥をそれで補強する」と考えるのが一般的な米国との落差は歴然である。」

良い議論を展開する能力を料理人の能力に例えて1)良質な知識と情報(良質な素材)2)知識・情報をまとめてクリエティブかつ論理的にまとめるセンス(調理能力)3)対話のスキル(出来上がった料理を批評してもらい改善に生かす力)とする著者の視点も秀逸だ。とりわけ重要なのは「良質な知識と情報」で、料理の出来栄えの9割が素材で決まるように議論の優劣もベースとする知識・情報の質が左右すると著者は言い切る。この点で寂しいのが、ネットウヨのスター元航空自衛隊航空幕僚長の田母神俊雄で、著者は田母神論文を「信頼性が高いとはいえない文献から、自分のイデオロギーに合う、都合のよい記述だけを盛り込んだ作文」にすぎないと喝破し、「自衛隊の高官が、こんな杜撰な主張をしていては中国韓国に歴史を歪曲するなと言えなくなる」と切って捨てる。SAPIOや正論、WILLに掲載されている論文の大半は著者が言う通り「あまりにもクオリティが低い」と私も思う。

他にも著者の指摘には面白いものが多い。例えば全共闘世代のジジイが最近の日本の若者の米国留学生数が減少傾向にあることを指して「日本の若者が内向きになっている」などと説教するが、著者は「それは違う」と言下に否定する。なぜ日本の若者がアメリカに留学しなくなったかと言えば、少子化の影響が一番大きいのだが、それに加え「日本が豊かな成熟国家になって、アメリカの生活を羨ましいと思わなくなたから」が一番大きいという。実際、スタンフォード大での2年間の生活について「田舎なので勉強するにはもってこいだが、死ぬほど退屈」と言い切っている。

韓国人がなぜ米国に留学したがるのかの原因分析も面白い。韓国には良質な就職先(医師、弁護士、高級官僚、サムスンなどの一流企業)に就職できるのは同世代の5%のみで、後は月収88万ウォン(7万円)のフリーターみたいな仕事しかないそうだ。いわば韓国にはソニーとトヨタと新日鐵以外会社がないみたいなもんで、だから上の上からあぶれた準秀才たちは祖国を捨ててアメリカに走るんだそうだ。

著者は日中関係の将来を楽観していない。「経済相互依存が高まれば戦争は起きない」などということはありえない。むしろ人間関係と同じで親しくなればなるほど相手の嫌な面も見え、反発も高まるものとし、もし経済関係が深まれば戦争をしないのであれば、なぜ日本が米国に宣戦布告したのか説明できないと喝破する。

ネイティブ並みの英語を目指すのではなく、ノンネイティブの英語を目指せとか、文章を暗記して英作文能力を磨けとか参考になる話も多い。一読をお勧めする。

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歴史学習における「問い」の大切さを教えてくれる本

18人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

作者の意図は本書の巻末に書いてある。「二度と戦争は起こさないという誓いが何度繰り返されても、今後起こりうる悲劇の想定に際して、起こりうる戦争の形態変化を考えに入れた問題の解明がなくては、その誓いは実行されないのではないか」という山口定氏の言葉を念頭に「いくつかの戦争を分析することで、戦争に踏み出す瞬間を支える論理がどのようなものであったのか」について考察を深めることであるという。なぜなら「新しく起こされる戦争というのは、以前の戦争の地点からは、まったく予想もつかない論法で戦闘かされ、合理化されてきた」故に、こうした事例分析をひとつでも多く、将来の非常時に直面した際、「現実的な態度」で事態に臨むことが出来るからではないかと著者が想定しているからなんだそうだ。

本書を読めば、明治維新以後国際社会の荒波に投げ出された日本が、焦燥に駆られながらも何とか時代と格闘し、徐々にその足場を極東の一角に確立していく様子を知ることが出来る。明治以来、朝鮮半島は日本の安全保障上の最大の問題であり、ここを如何に軍事的中立状態(日本に敵対的な勢力が朝鮮半島を支配下に置かないよう)にするかにつき、日本の指導者たちは心を砕いてきた。昨今、朝鮮半島がまたぞろ蠢動しているが、歴史的にも地政学的にも、この半島は常に極東における「やっかいな騒動」のタネであった。その「やっかいな騒動のタネ」から戦後の日本はしばらく解放されてきた。朝鮮戦争によりアメリカ軍が韓国に常駐することになり、朝鮮半島の地政学的負担は日本からアメリカへとバトンタッチされたからである。これは日本にとって僥倖だったのである。朝鮮半島を巡りアメリカ、中国、そして旧宗主国たる我が日本が関与するのは当然だが、なぜロシアがと常々思っていたが、本書を読んで、この疑問が氷解した。ウラジオストックは冬は凍結する港であり、ロシアは兼ねてより冬でも凍結しない北朝鮮の港(元山など)を手に入れようと虎視眈々と機会を伺っていたのだ。六カ国協議にロシアが参加しているのは、まさか元山狙いというわけでもあるまいが。

本書が冒頭で指摘している通り、これまで私が学習してきた歴史の教科書は研究書を水割りしたようなものばかりで、出来事=事件の羅列はあっても、「なぜ、その事件は起きたか」という「問い」はほとんど書いていないものばかりだった。年号や事件名を幾ら覚えても、なぜ当時の人々は戦争遂行政策を支持したのか、なぜ当時の政府は開戦に踏み切ったのかが全く分からない本ばかりを学校で使ってきた。大学、社会人と進んで様々な本を読むにつれ、いろいろな「問い」に出会い、また「その答え」に巡り合う機会もないではなかったが、それは「大河の一滴」をすくい取るような気の遠くなるような作業を必要とし、なかなかその全貌を明らかにしてくれるものは、残念ながら今まであまりなかったのである。本書は、その意味で、新書という制約はあるものの、かなり「なぜ」に応えてくれる有意義な書物であると断言できる。

本書を読んで「なるほど」と思った点をいくつか挙げてみよう。

私は日清戦争の賠償金2億テールは、てっきり豊かな大清帝国が手元にある現金から即金で払ったのだと思っていた。しかし、事実はロシアとフランスによる融資(借款)で日本に支払ったのであり、この融資の見返りにロシアは満州を横断する中東鉄道(東清鉄道)の建設と、ハルビンから旅順に向かう南部支線の建設、更には旅順港の租借という事実上の満州植民地化を清に要求したのだ。当然、こんな要求を清は撥ね付けてしかるべきなのだが、ニコライ二世の戴冠式に出席するためロシアに出張した李鴻章にロシアは莫大な賄賂を贈って、彼を篭絡してしまう。私は、これまで李鴻章を科挙を優秀な成績で突破した大秀才として尊敬していたが、晩年の彼は金品に目がくらんで国を売り渡す亡国の汚吏に転落したと知って、がっかりであった。ロシアというのは、いざとなったらかなりえげつない方法を躊躇なく採用する国であることは今も昔も変わりはない。だからみんなから嫌われるんだな、露助は。

また、このロシアによる満州支配の野望にいち早く反応したのが英国で、英国は直ちに山東半島の威海衛を租借し、返す刀で日英同盟を締結し日本を支援することでロシアの極東における影響力増大を押さえ込もうとする。このあたりは「日本を東洋の番犬」として使いきろうとする英国の狡猾さの表れでもあったわけだが、これが日本にとっては天佑となったわけだ。これに門戸開放政策を掲げるアメリカが乗っかってくる。中国の門戸開放を狙うアメリカにとって、満州の独占を狙うロシアは不倶戴天の敵というわけだ。

あと、日米関係の悪化はアメリカにおける排日移民法案の成立に始まったことは知っていたが、どうして絶対数としてそう多くもないアメリカへの移民規制に日本があれほど反発し激高したのか、いまひとつ理解できなかったのだが、これも本書を読んでなぞが解けた。アメリカでは排日移民法が通るはるか前に中国からの移民を制限する排中移民法が成立していたわけだが、「中国人よりも日本人が上等であり、中国人は劣等国民として高等国民たる日本を兄として敬い、その教えを請うべきだ」と思っていた日本人アジア主義者にとって、日本人が中国人と同等の差別待遇の対象と指定されることはプライドを傷つけられるのみならず、中国における日本人の威信低下を将来し、既に中国で起きつつあった半日運動、侮日運動に拍車がかかることを日本が恐れたことがその根本原因だったというのだ。これは知らなかった。

満州を巡る日中の衝突が満州に住む大量の朝鮮族の処遇(当時の朝鮮人は日本人だった?)から始まったものだったとは知らなかった。今でも中国東北部延吉周辺には大量の朝鮮族が住んでいて、しかも彼らは中学から第二外国語として日本語を学んでいるという。血は水よりも濃いということか。

先にも述べたが本書の最大の難点は、本書が新書であることだ。扱っている対象に比べ紙幅の制限が著しい。著者の歴史に対する眼差しや切り口に共感した人は、今や大学の歴史学教授の著作としては異例のベストセラーになりつつある『それでも日本人は「戦争」を選んだ』を手に取ることをお勧めする。

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紙の本自衛隊が危ない

2009/04/29 19:02

「右の左翼」の台頭を許すな!

21人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『兵士に聞け』、『兵士を見よ』、『兵士に告ぐ』、『兵士を追え』と長い年月をかけて自衛隊に密着取材を敢行した杉山隆男氏による自衛隊についての論考集である。杉山氏はいまや日本有数の自衛隊通であり、石破防衛大臣以下自衛隊の最高幹部が居並ぶ席に招かれ、「自衛隊について気のついたことを何でも言って欲しい」と求められるほどになっているそうな。そりゃ、レンジャー部隊の訓練、ヘリコプターからの降下訓練、F15イーグル戦闘機同乗しての空中訓練取材、護衛艦乗船取材、潜水艦乗船取材と、ここまで幅広く自衛隊を取材したのは、後はあの「不詳、宮嶋」くらいか。

冒頭を飾るのは、あの、例の、田母神なるバカ空将についての論考に始まる。田母神の「日本は侵略国家ではない」発言をめぐる空疎な「言論の自由」論争を見ていると、全共闘・進歩的言論人の害が、ついに国軍のトップにまで及んだのかと暗澹たる気持ちとなる。田母神は「日本には言論の自由がある」を唯一のよりどころに政府の公式見解とはまるで異なる歴史観を「公人」として公の席で表明した。言論の自由という「人権の保障」は、田母神の指摘を待つまでもなく、田母神含む日本人すべてに保障されている。しかし、航空自衛隊の幕僚長という要職に在籍している限り、その発言にはおのずと一定の制約がかかり、公職についているもの全ては政府の公式見解と相反する政治的見解を述べことは差し控えなくてはならないのである。もしこれを乗り越えたければ、田母神ら自衛隊の要人は、まず職を辞し、民間人となったうえで「発言の自由」という人権の行使に踏み切るという手続きを踏まねばならない。とりわけ「軍隊という暴力装置」を飼いならさねばならない日本政府にとって、自衛隊には「上官=政治家」という指揮命令系統は徹底されねばならず、さもなければ彼ら自衛隊に武器をもたせることなど、危なくて出来ないという話になるのである。これがシビリアンコントロールの肝でもあるのだが、この辺りの機微を田母神は最後までまったく理解していないようだ。危ない、危ない。田母神の「制服を着ていたら、自由にものが言えない?そりゃあなた、差別じゃないか」という「差別といえば、みんな黙る」と思っている田母神の発言には正直、笑った。田母神は「自由、権利、差別」の三題話で自己正当化を図ろうとしているが、その姿は左翼人権弁護士と二重写しだ。

この手の「高級軍人が政府と異なる見解を述べたら即解雇」の原則は、米国では当たり前のように根付いている。古くはトルーマンに逆らって解任された極東の英雄マッカーサーがいるし、最近ではブッシュ大統領・ラムズフェルド国防長官のイラク作戦に異を唱えて解任されたシンセキ陸軍参謀総長がいた。この他、アメリカ軍高官のメモワールを読んでいると、アメリカ軍という組織は徹底した上意下達の組織であって、「自由闊達な意見表明」どころか「唇寒しそのもの」の世界であることがわかる(ちょっとした軽口で即解任、左遷)。

それにも関わらず、最近、特にウヨクの言論人が田母神を「神」のごとく英雄として祭り上げ、田母神解任を支持した五十旗頭眞防衛大学校長に罵詈讒謗を浴びせているのは如何なものか。猪瀬もかついて言っていたが、本書で杉山氏も指摘している通り、最近「右の左翼」としか言いようのない、自分と少しでも意見が異なるとすぐ相手にレッテルを張ってその論者の人格を全否定し議論を拒否し、あとはひたすら相手を誹謗中傷する連中が台頭していることを私も憂いている。

こうした「右の左翼」台頭の影響が自衛隊にも及び始めていると杉山氏は心配するのだが、その一方で、自衛隊員がかつて大学の夜学に通学しようとしたところ、全共闘の連中と一緒になって大学の教員らが「自衛隊のスパイの大学侵入を許すな」と、自衛隊員の学ぶ権利を平気で蹂躙した暗い過去、こうした左翼による理不尽な弾圧に反論せずにじっと耐え「ビロードの手袋をはめた拳骨」を握りしめた自衛隊員らの心情に思いをよせ、著者の杉山氏の筆致は自衛隊員に同情的である。

それにしても日本では百姓や漁民の権利が、過度に保護されすぎてはしまいか。日本国内で上陸演習や海上演習を行うに際し、数ヶ月前から漁業組合の了解を取り付けなければならない自衛隊って一体なんなんだ。軍の演習海域を設定することはできないのか。海は全部漁民のものなのか。こうしたわずらわしさから逃れるため、自衛隊が海上自衛隊のみならず陸上自衛隊までがアメリカ軍の演習場に出向いて訓練をしなければならない現状は、どうみてもおかしい。

私は一日も早く憲法第九条第二項を削除し、日本の自衛隊が、日本国民を守る国民軍として正々堂々と日向を歩ける普通の国になるべきだと本書を読んで、一層その思いを強くした。

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紙の本絶対貧困 世界最貧民の目線

2009/04/12 09:57

相対的貧困などとふざけたお遊びごっこをやめ、本当の貧困を括目して見よ!

26人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

私は常々子供たちに語りかけている。「現在の日本に生まれたということは、生まれながらにして宝くじに当たったようなものだよ」と。日本ほど平等で、平和で、犯罪発生率が少ない、安全な素晴らしい社会はないのだ(ちなみに昨今、日本における見かけ上の犯罪発生率が増えたように見えるが、その実態は「天下の回りもの」状態になった駅前に乗り捨てられている自転車の盗難=自転車盗の増加による。重大犯罪は増えていないし、その多くが世界有数の優秀さを誇る我が国の警察により検挙されている)。

昨今、「相対的貧困」なるお馬鹿な概念を、これ見よがしに振り回して「日本もついに世界最悪の貧困格差社会に突入した」などと喚き散らす阿呆がいる。その多くが敗北した元全共闘だという根強い噂もあるが、バカも休み休み言えと私は思う。糖尿病になるホームレスが大量発生する我が国の、どこに貧困があるというのだ。本物の貧困を知らずして、政府をひたすら糾弾したい「クレーマー」にすぎない連中のまき散らす妄言に、諸君は騙されてはいけない。

本当の貧困を知らずして貧困を語るなと私は言いたい。本当の貧困を知りたければ、インドに行け、アフリカに行け、バングラデッシュに行け、ブラジルに行け。そして日本が如何に恵まれた社会、温かい社会、人情味あふれる社会であることを噛みしめろ。

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東京都のみならず主要都市圏すべてで起きた名門公立進学校潰しの歴史が一目瞭然

18人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

元通商産業省の八幡氏が書いた全国の名門高校案内である。経済産業省以下に勤務するキャリア官僚の間では「出身高校はどこか」に異様な関心が集まる。出身大学となると大半が東大法学部・東大経済学部で差が分からないので、出身高校が各省庁の名簿にまで書いてあるのである。八幡氏が本書を執筆するに至った動機も、こうしたキャリア官僚の気風と無縁ではあるまい。全国の名門進学高校を網羅的に扱い、かつコンパクトに編集したという意味では、まあ、よく出来ている部類か。同様の類書に比べると私は八幡氏の本に、より好感をもった。

一目瞭然なのは、公立名門進学校の没落とその理由である。昭和30年代、左翼の日教組を中心に全国で受験戦争批判が展開され公立進学高校潰しが展開された。その最大の標的は当時東大進学者数ナンバーワンの座を維持し続けてきた旧制東京府立第一中学校(現日比谷高等学校)で、その手段は学校群制度の導入だった。東京都立高校だって学校群制度の導入で直ちに没落したのは日比谷と小石川、両国ぐらいで戸山(旧制府立四中)や西(旧制府立十中)は昭和50年代までは、まだまだ名門進学高校としての命脈を維持し続けていた。都立高校が最終的に没落するのは学校群制度改革第二段が実施された昭和50年代後半で、これで東大進学ベスト20から都立高校はその名を消す。東京周辺の県となると没落には更なる時間を要した。埼玉県立浦和高校、千葉県立千葉高校は平成7年までは東大進学者数が50人を超えていたのである(神奈川県立湘南高校が没落したのはこれら2校よりやや早い)。しかし、狙い撃ちにされたのは、実は東京周辺の進学校だけではなかった。同じような動きは愛知、京都、大阪、兵庫でも起きていた。兵庫で灘高校が躍進した背景には旧制神戸一中(現神戸高校)の没落があったし、京都で洛星や洛南が躍進した背景には旧制京都府立一中(現京都府立洛北高校)の没落があったのである。

公立高校を潰すのは実は簡単である。どこも同様の手法で公立学校は潰されていったのだが、要するに通学可能な学区を細分化して人材の供給源を小さくすれば、生徒のレベルは簡単に下がるのである。愛光学園を擁する愛媛県や広島学院・修道高校を擁する広島県では、そもそも日教組過激派が跋扈して学区が戦後早くから細分化されていたが故に、公教育が荒廃し私立が躍進したとも書いてある。

林望の著作にも書いてあるし、名門都立高校出身の先輩からも証言を得た話だが、昭和30年代までは東京でも高い教育を受けるに際し、ほとんど金がかからなかった。私立は「金持ちの馬鹿が行く学校」程度にしか見られていなかった(今でこそ進学校のトップの座に君臨し続けている開成高校だが、昭和30年代までは入試後も入学金の納付は都立高校の合格発表後まで待つ2番手3番手校だったそうである。灘高校だって遠藤周作が入学した頃は公立を落ちた生徒の受け皿程度の学校だったし、吉行淳之介が入学した頃の麻布は「アソブ中学」と揶揄される学校に過ぎなかった)。そして浪人しても、当時の高校生はわざわざ高い金を払って予備校になんか通う必要はなかった。学校群制度導入までは各高校に補修科なる浪人生向けの特別補修クラスがあって、浪人生は引き続き母校に通い、恩師から直接指導を受けていたのだそうだ。

昨今格差論ばやりである。曰く「私立の中高一貫校に行くことの出来る一部の金持ちしか高等教育を受けることが出来なくなったのは、憲法が保障する機会均等の侵害にあたる」云々。じゃあ、どうして今のような状況になったのかといえば、日本全国でサヨクの日教組らが中心になって公立の進学校潰し運動を展開したからである。当時盛んに叫ばれた文句が「東大生の親の平均年収は、日本全体の平均年収よりはるかに高い。その多くが公立の進学高校出身である。日本では金持ちが学費の安い公立校に生徒を送り、貧乏人が学費の高い私立に子弟をやむやむ通わせている。教育が国民の格差を増幅している」というものであった。「ペーパーテスト批判」というのもあった。「たった一回のテスト結果で人生が左右されるのはおかしい」というアレだ。その結果導入されたのが「内申書重視」という評価基準であったのだが、本書によればこれが高学歴層でリベラルな思考を持つ家庭に嫌われ、公立高校が忌避されテスト重視の私立への逃走が始まったんだとされている(著者曰く、高学歴でリベラルな思考を持つ家庭では親も子供も学校の機嫌を取らなければならないことを嫌うものなんだそうだ)。私は教育制度と格差論を混ぜて議論するのは危険だと思っている。格差の話はあくまで税制や生活保護の問題として解決すべきものであって、これを教育制度の改造で対応しようとすると、かえってその志とは正反対の結果を招来すると思うからである。高学歴層の家庭は、かなりの確率で教育熱心である。彼らの多くは大学教授、医師、高級官僚、一流会社員である。彼らの多くは超がつく金持ちではないにせよ、それなりの所得を得ており、子供の教育に惜しみなく資源を投入する。こういう人たちの子供はかなりの確率で、親同様高学歴層の仲間入りを果たすものなのである。これを「不公平」と呼んだところで、私は意味がないと思っている。現に日本全国で行われた公立学校潰しは、結果として私立学校と学習塾を超え太らせただけで終わったではないか。
それに仔細に見ると、愛媛や広島のような日教組の猛威の犠牲となった一部の県を除き、地方に行けば行くほど名門公立高校はまだまだ健在であることが分かる。進学先を東京大学や京都大学に限定すれば首都圏など大都市圏の私立中高一貫校が圧倒的に有利となっているが、北海道大学や東北大学、名古屋大学、九州大学などでは地方の公立高校で目覚しい進学実績を維持しているところも多い。ここでも昨今はやりの教育格差論のうそが露呈されている。名門大学は東大、京大、一橋、東工大だけではない。その他の旧帝国大学も含めれば地方の学生にも十分高等教育への道は開かれているのだ。だから首都圏の私立に子供を送る金がない家庭は、はじめから東大なんか目指さずに名古屋大学とか北海道大学を目指せばよいのである。現に名古屋大学はノーベル賞受賞者を数多く輩出しているではないか。

問題点もないわけではない。本書の末尾に医学部批判が延々と展開されているが、著者がいうほど医者が全体として高収入で社会的ステータスが高いとも思えないし、異性にもてるわけでもない。昨今は医療訴訟も増えており、訴訟を起こされて汲々としている医者も多いし、少なくともインターンの時代は、わずかな手当てで異常なほどの超過勤務を強いられている医師(のたまご)が多いというのが私の認識だ。こういう一面的な思い込みで安易に制度をいじると司法試験制度改革がそうだったように、後々ひずみが非常に多いように思われる。

著者の出身校でもある滋賀県立膳所高校についての解説が不必要なまでに長いのはご愛嬌か。

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紙の本日本の食と農 危機の本質

2008/01/06 10:02

似非百姓の土地財テクを許すな!

17人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

日本の農業に関する論議が迷走している。私はしょっちゅう海外に行く。成田に向う途中のバスの窓から千葉県の農地をずっと見ているのだが、この農地が最近次々と潰され建設機械置き場や倉庫、産廃置き場に変貌を遂げている。美しい水田が次々と失われているのである。日本の農業は衰退する一方である。それなのにその農業を支える農地が足元から崩れている。どうしてこんなことが起きるのか。

農林水産省は食料自給率が先進国中最低であると危機感を煽る。聞くと米の自給率は100%を越えているという。んなら自給率が足りないのは大豆、小麦、トウモロコシとなるから水田を潰して畑にし、これら3品目を増産すればいいことになるのだが、これにはJAなどが猛反対する。更に食料自給率約30%なんかいいほうで、日本のエネルギー自給率は1%前後だから、食料なんかよりエネルギーの方が心配なんじゃないかと問いかけると農水省、JAともに全員聞こえない振りをする。おかしいな、おかしいなと思っていたら、本書を読んですべてが氷解した。

本書の著者・神門さん曰く、日本で戦わせられている農業論議は、全部ポイントが関係者の利害により巧妙にずらされており、我々国民は騙され続けられているのだという。そもそも農林水産省にしろ、農協(JA)にしろ、本気で日本の農業の効率を高め競争力を強化し食料自給率を高めようなんてはなから思っていない。農協はむしろ国民が「本気で農業について考え始めることを恐れている」とさえ言い切るのである。JAの正組合員は435万戸。農林水産省による調査による農家は285万戸だという。両者の差は都市近郊の偽装農家(=実質的な不動産屋)に等しく、更に農水省調査285万戸中、やる気のある競争力のある農家は30万戸に過ぎず、あとはいわゆる片手間農家なんだそうだ。彼いわく「農協の目的は、本気で農業をやっている30万戸の活動を邪魔し、うとんじつつ、大多数の農協構成員である零細農家=片手間農家の利益を保護し、増進することにあるんだ」という。零細農家なんていうからなんだか昔のミズノミヒャクショウを思い出して同情したくなるが、零細の意味が違う。これは単純に彼らの耕作面積の狭さを基準にした分類であって、彼らは兼業農家であり世帯辺りの収入は国民平均をかなり上回る裕福な連中である。零細農家の実体は土地持ち資産家であると彼は言い切る。彼ら土地持ち資産家はそもそも農業の効率を高め増産に励もうなんてはなから思っていない。彼らの関心の中心は持っている田畑をいかに高値で売り抜けるか、その一点に尽きる。良い農地は、良い工場用地、良いスーパーマーケット用地でもある。農家の本質は、農業を継続する振りをして農地の宅地並み課税を回避しつつ節税に励み、如何に農地の用途指定をはずさせてジャスコ以下のスーパーや企業に売り抜けるかにある。農地が農地として売買された場合、田んぼ2反の価格はたかだか200万円程度に過ぎないが、これが大企業に企業用地として転売された場合、78百万円になるのだという。実は、農地を虫食いにしてでも高値で売りたがっているのは、こいつらヒャクショウじしんなんである。よくジャスコ以下のスーパーが郊外荒廃の悪役として名指しされるが、実は本当の悪役は農業に関心を失い、もっぱらゼニモウケしか考えなくなった「零細農家」じしんにあるんだという冷厳なる事実を神門さんは容赦なく抉り出していくのである。だから、彼ら偽装農家がもっとも恐れているのは「農地の用途指定を強化し、農地の転用を許さない」という正論が世間で台頭することなんだそうだ。しかし民主主義の世の中では数がモノをいう。農業の競争力を高めるということは、このやる気のある30万戸に日本中の農地を集中させていくことにあるのだが、これでは現在435万戸を背景としたJAの政治的発言力は低下するというパラドックスがあるのである。

農林水産省についての指摘も考えさせられる。農林水産省の従業員総数は2万人超。世界に冠たる大工業国日本の屋台骨を管轄する経済産業省の従業員総数はたかだか5千人前後である(この数字を示すと、海外の研究者から感嘆の声があがるという)。要するに農林水産省の関心事は自分たちの雇用の維持なのであって、日本農業の競争力強化なんて二の次三の次なんだそうだ(このあたりの力学はJAのそれと酷似している)。昨今、食品偽装問題が世間の関心を集めている。赤福や船場吉兆のように血祭りにあげられた「名門」も多い。この問題を大きくクローズアップさせたのが「食品安全110番」なる窓口ナンのだが、よく見るとこれが農林水産省の一部組織である。「あれ?食品衛生は厚生労働省の管轄じゃないの?」と疑問を持った方も多いだろう。問題はここにある。食品偽装問題で深刻な事故がおきたことがあったろうか。解雇されたアルバイトによる垂れ込みで事件を作り、問題を大きくして一番メリットを受けているのは一体誰なのか。もしかして仕事が増えて雇用が安定する農林水産省じゃないのか。こんな深読みさえ本書を読むと出来てしまうのである。

ウルグアイラウンド対策費として5兆円の税金が農家にばら撒かれたが、これは日本農業の競争力強化にほとんど使われず農道空港、農業道路等の「土木」に使われJA系土建屋の懐を潤しただけで終った。農水省もJAもこの時の「成功体験」が忘れられず、今も「企業の農業参入」でこれの再演を演じきろうとしているという。狙いはカゴメやサントリー、キリンといった真面目な企業が農業に参入してくることを阻みつつ、偽装企業=JA会員が作った土建屋の農業参入を譲歩した振りをして認め、2~3年彼らに農業をやらせたあげく「やっぱり出来ませんでした」と手を上げさせ、彼らが取得した農地の用途指定をはずさせて第三者に転売し関係者で転売益を山分けすることにあるのではないかとも神門さんは疑っている。

いや、関係者の談合でがんじがらめになり、徹底した遺物排除が行なわれがちな今の日本で、よくぞこんな本が出たものだ。神門さんは日本の農業の問題点を突き止めるのに10年、その調査結果を論文にまとめるのに10年かかったという。学究が20年の歳月を費やしてものした渾身の一作。それが何とサントリー学芸賞、日経BP・BizTech図書賞を受賞したのだから、今の日本もなかなか捨てたものではないと思い直した私なのである。

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周回遅れの永山則夫

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まあ、ひどい本である。ひどい本だが、なぜかサヨクマスコミやそのシンパはこれを大きく取り上げた。なぜか。それは本書の著者である「自称」弱者の赤木が、あろうことか自分達サヨクを攻撃対象に選んだからである。

赤木の主張の概要は「周回遅れの永山則夫」だ。自分のことは全部棚に上げて、自分の不幸は全部社会のせいにする。まあ、こんなもんだ。曰く、自分は32歳になるがいまだ正業に就いたことが無くずっと今日までフリーター生活を送ることを余儀なくされるという屈辱を強いられているが、これは勝手にバブルを生成し勝手にバブルを崩壊させ、その責任をとらずにツケだけを団塊ジュニアたる自分「達」に回した「日本社会」に原因がある。世に言う左翼は弱者の味方を気取るが、左翼が味方する労働者は、赤木から見れば遙かに恵まれた境遇の強者である。腹が立つのは左翼によって保護された労働者たちは、赤木と特に能力も変わらなければ家柄も血筋も変わらないただの凡人集団に過ぎない。違うのは生まれたタイミング、ただそれだけだ。だから余計に腹が立つ。超名門のエリート一族や大金持ちはどっちみち自分とは別世界の住民だから腹も立たんが、ろくに能力も無いくせに赤木より10年生まれたのが早いばかりに彼らは正業を持ち、家も自家用車も家族も持って「幸せに」に暮らし「平和」を満喫している。彼らは平和を愛するが、彼らの愛する平和の継続は赤木にとっては現在の屈辱の永続を意味する。それならいっそのこと日本社会全体を戦争に巻き込んでぐちゃぐちゃにしたい。戦争になれば死ねば英霊として顕彰されるし、内務班では赤木より遙かに身分が上の連中とも「平等」になれるし場合によっては殴りつけることも可能だ(実際、陸軍の内務班で東大の丸山真男は殴られっぱなしだった)。座してこのまま屈辱の中で死ぬよりは、戦争を欲する。。。

赤木の主張は、予想通り左翼陣営の猛反発を食らう。反発の様子は本書に詳しい(よせば良いのに赤木はそのひとつひとつにかなり辛らつな反論を寄せている)。この構図は扶桑社の「新しい歴史教科書をつくる会」を巡る小林よしのりと保守論壇の内紛の構図とかなり似ている。違いは小林は自前の発信能力を持つ「売れっ子」漫画家である一方、赤木は小中高とプーさんを続けてきた、これといってとりえの無い、かわいげの無いネクラな男という違いか。全共闘世代は赤木の奇襲攻撃に目を白黒させ、自分達が見落としていた「弱者の視点」を売り出したいようだが、これだけ豊かで平和な日本社会で、「日本が悪い。社会が悪い。お前ら全員憎たらしい。戦争でも起こしてやる」と連呼するプーさん赤木の主張に耳を貸す暇人などほとんどいないことを知るべきだ。赤木は一連の論文を朝日新聞社「論座」に連載したあと、「この論文を読んで感激した年長者から就職の世話や融資の申し出がもしかしたらあるかもしれない」と期待したという。バカは死ななきゃ直らないというが、本当に、あまりにも自己中心的な発想につける薬はないものかと読後しばらくあっけにとられた。
赤木は就職できないなら有能な女性と結婚して「専業主夫」になってもいいと妄想する。ところが彼を娶ろうという才媛など一人もいない。当たり前だ。男女は需要と供給の法則で成り立っている。ろくに仕事もないくせに文句だけ一人前のフリーターと結婚する有為の女性などいるわけがないのだが、赤木はそうは思わない。赤木に女性が声をかけないのは女性の心に潜む差別意識が問題なのだというのだ(笑。

赤木に決定的にかけているのは、主張が全て「自分から見た目線」でのみ行われていることだろう。言いっ放しの放言でよいならそれもありかもしれない。しかし、少しでも他者を自分の方に向かせたいと思うなら、他人の共感を勝ち得ねばならない。その為には、「自分はこう思う」だけではダメで、「相手はどう思うだろうか」という視点も自身の中に育てねばならない。将棋で言う「先読み」だ。100手先まで読めとはいわない。せめて3手くらい先まで読んだ上で主張を繰り出さないと、ただ物笑いの種にされて消費されて終わりだ。

赤木君は小さいときから社会に疑問ばかり持って反抗を重ねてきたようだ。大多数は従順に社会の流れに従っていたとき、おそらく赤木君は彼らをバカにしていたんではないか。社会とは一種の保険機構でもある。社会のルールに従い、社会に逆らわないでいれば、それなりのコースに乗れて保護されるが、これに反発すれば、社会からドロップし、誰も保護してくれなくなる無間地獄に落ちる。赤木君の不幸は、実は赤木君みたいな悲惨な人は社会にはそんなにいないということだ。だから幾ら赤木君が叫んでも共感してくれる人はおそらくほとんどいないだろう。「ホームレス中学生」じゃないが、「こんなひでえヤツがいるんだ。下には下がいるもんだなあ」と大方の人を安心させる為に読まれていたりして。

なお、私は赤木君のことを弱者とは思っていない。これだけ虚勢をはるエネルギーが残っているんだから、そのエネルギーを善用すれば済むだけの話だと思うからだ。幸せとはメーテルリンクの「青い鳥」の話を引くまでも無く、実は赤木君の心の中にある。平たく言えば幸せの基準を大幅に引き下げ、手の届くところにゴールを設定しさえすれば人間は幸せになれるし、これをしない限り、幾ら巨万の富を得ても、心は空しいだけなのである。

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紙の本とてつもない日本

2007/08/27 17:54

タロウ、タロウ、タロウ、ウルトラマン(ガ)タロウ!

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麻生太郎の時代である。巻末に「特技は何か」と問われれば「ばあさん芸者にモテルこと」と自己紹介することを常としていたが、近年、これに秋葉原系の「若い男の皆さん」が加わり、これは「望外の喜びであった」と書いている(この書きぶり自体、一部のサヨクピューリタニスト(ジェンダーフリー推進者に多いタイプ)をいきり立たせる「危ない」書き振りではあるが、まさにこの率直さこそ、天才政治家・小泉純一郎の後継者に相応しいものだと、既に大方の国民は「頭とハート」で理解しているのである。そうだ。そうなのだ。時代は太郎を呼んでいるのである。麻生太郎の最大の魅力は、その天真爛漫さ、楽天さにある。とにかく麻生太郎は明るいのである。前向きなのである。例えば日本は世界に先駆けて高齢化社会に突入する。年金制度にしろ、経済にしろ「少子高齢化は国を衰退させる」と悲観する声ばかりが巷間に溢れている。しかし太郎は違う見方をする。「世界の先進国は、どの道少子高齢化する。そうなれば世界で真っ先に高齢化する日本は、いわば高齢化社会の先輩、リーダーになりうるのである。このチャンスを生かすしかない」と高らかに歌い上げるのである。格差問題でもそうだ。日本人のほとんど全ては実際には日本には欧米ほどひどい格差は存在しないことを知っている。しかし、マスコミには格差を憂える言説ばかりを垂れ流す。森永卓郎、橘木俊詔、山田昌弘...。彼らは「小泉が日本の社会を格差社会にした」と見てきたようなうそを平然と言う。これをも麻生太郎は真っ向から否定しさる。そして返す刀で「日本はアングロサクソン化しアメリカ化して弱肉強食の格差社会になる」という言説を、「アメリカがそんなにひどい社会なら、どうして世界中の人々が今日もアメリカに移住しようと移民局の前に並ぶんだ」と突っ込みを入れる。「そんなに平等がお好きなら、中国に移民しろ、ソ連に移民しろ、北朝鮮に移民しろ。しかし誰も移民しようとはしない。なぜか。それはこうした共産主義の国々は平等ではあっても希望のない貧しさの平等しかなかったからだ。アメリカには希望がある。豊かになれるチャンスがある。だから皆アメリカを目指すのだ」と真実を述べてしまうのである。実に爽快な読後感ではないか。私の好きな麻生太郎の口癖に「お前らに、名門の大金持ちの家に生まれた人間の辛さが分かるか」というものがある。いまだに渋谷区に5千坪の土地を所有する麻生太郎。葬儀屋以外は何でもやっているという麻生グループ総帥の嫡男として生まれ、名宰相吉田茂を祖父に持つ「名門」の家柄。大金持ちのぼんぼんで背も高く、とびぬけてハンサム。そんなウルトラマン太郎にも、幼少期に心の傷を負っているのである(貧乏人の諸君、不思議だろう?)。祖父が吉田茂という政治家の家系で、家が大金持ちなら、まあ常葉会(学習院初等科)に入るのは当然だろうが、家族は全員「勉強好きな太郎ちゃんは、もちろん中学は私立の名門中学に進むわよね」と期待するのである。ところが太郎は違った。勉強が嫌いだったのである(この場合、敢えて「勉強が出来なかった」とは書かない)。そして一つ下に「素晴らしく出来る弟」がいて、何かと、この「出来る弟」と比べられては「まったく、太郎ちゃんという子は」と両親からバカにされ、嘆かれては、幼い心を痛めていたのだという。ところが、この麻生家の将来をしょって立つと期待されていた優秀な弟は早々に夭折してしまう。この出来すぎた弟の死が、太郎の人生を根底から変える。「弟の分まで生きないと」と太郎はそれまでの放縦と縁を切るのである。こうして人間としての厚みを増した太郎は政界に進む決心をする。彼こそは酸いも辛いも知り抜いたリーダーなのである。時代はまさに太郎の登場を待ちわびていたのである。進め、太郎!

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紙の本1984年

2007/05/26 07:51

古典の正しい読み方

16人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ジョージ・オーウェルは元々共産主義シンパだった。スペインのフランコ政権独裁に反発し、人民戦線側に加勢すべくオーウェルはアンドレ・マルローやヘミングウェイらとともにスペインに渡り銃をとったのである。当初こそ、フランコ政権側を全体主義国家のドイツイタリアが支援し、人民戦線側をソ連や英仏が支援するという「ファシスト対民主主義」という構図であるかのように見えたが、やがて人民戦線側が内部分裂を起こす。ソ連が己に従わない連中を「トロッキスト」と非難するようになって人民戦線側が親ソ派と非親ソ派に分裂し殺しあうようになったのである。やがてソ連はナチスドイツと手を組み、人民戦線を見捨てるという行為に出る。こうしたソ連の行為に対し、かなりの欧州人共産主義シンパが幻滅を覚えソ連から距離をとるようになる。オーウェルはその1人だった。「ソ連を信用するな。ロシア人を信用するな。ソ連共産主義は恐ろしい全体主義だ」。こういうソ連共産主義に対する痛烈な皮肉・当てこすりとして書かれた小説が本書なのである。欧州ではハンガリー動乱やプラハの春が起こり遙か前からソビエト共産主義・スターリン独裁主義に対する反発がはじまっているのである。ところが極東の田舎国家日本では、こうしたソ連共産主義への「疑念」というものは全く生じなかった。丸山真男ごときはフルシチョフによるスターリン批判が起きた後でも「スターリン批判を行なうやつは許さん」がごときスターリン批判の批判なる珍妙なる論陣を張ったりしている。大内兵衛はソ連の圧制に対し立ち上がったハンガリー民衆を「百姓国家」として罵倒したりしている。オーウェルが書いた「カタロニア賛歌」はスターリンの非人間性を痛罵したものだし「動物農場」もソ連型全体主義に対する皮肉として書かれたものなのである。ところが日本では不思議なことにこうした共産主義批判はなかなか怒らなかった。ソ連が崩壊するまで共産主義を全体主義ととらえることを頑なに拒否する風潮が続いた。全共闘運動のように議会制民主主義破壊を目指す運動さえ起きたりし朝日ジャーナルなぞはその全共闘運動を煽るような記事を垂れ流し続けたのである。当然、オーウェルの著作から共産主義の恐怖を学び取ろうという読み方も、実はあまりなかった。むしろ「嫌な本」として遠ざける風潮さえあった。「グレートリープバックワード」と揶揄される大躍進政策を礼賛したり毛沢東の文化大革命を「偉大なる精神革命」などという論調が幅を利かせ、あれが中国共産党内部の過酷な権力闘争に過ぎなかったことは完全に見落とされていたのである(正確に事態を見抜いていたのは産経新聞)。それが昨今、オーウェルの「反共産主義」の本を「社会の右傾化を憂えるサヨク」が盛んにとりあげるようになったりするから笑わずにはいられない。「石原都政は『1984年』への道だ」「安倍政権の下で日本は軍国主義化し『1984年』のような社会になってしまう」という批判は当たらない。なぜならソ連は共産党一党独裁の全体主義国家で、政府に異を唱えるものはGPU・KGBによってとらえられ拷問・虐殺されていったが、日本は民主主義国家である。拳銃で立てこもった犯人も警察が遠慮しておいそれと射殺できない「馬鹿に優しい国」である。言論の自由がある国=日本、民主的な開かれた選挙でいつでも政権交代が実現できる国=日本と、異論を認めない共産党一党独裁の北朝鮮や中国のような全体主義国家では事情は根本的に異なるのである。監視カメラ先進国である英国に比べ、日本の監視カメラ設置数はまだまだ不足している。

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「丸山真男や筑紫哲也をぶん殴りたい人」必読!戦後の日本論壇の歴史を描いて完膚無し!!ついでに都留重人もひっぱたいちゃおうか(笑

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戦後の論壇(ただし1945年から1970年まで)の歴史を「岩波書店の『世界』の時代」と「『朝日ジャーナル』の時代」にわけ、それぞれがどのようにして一世を風靡し、どのようにして没落して行ったかを分かりやすくまとめている。岩波書店の岩波茂雄は戦後、総合雑誌「世界」を立ち上げその編集を吉野源三郎に任せる。吉野は左翼で、吉野とその一派は「世界」の執筆陣から小泉信三、安倍能成、津田左右吉らオールドリベラリストを追放し、丸山真男ら「アカ」を招き入れる。それはビジネスとして大成功を収めるが、今から振り返ると共産主義への違和感を堅持した小泉らの見通しの方が正しかったことが見て取れる。「多数講和。安保条約の反対論者が、もしも平和の独占者のおとく振舞うなら、それは許し難い僭越である。また親ソ反米の本心をかくし、ただ日米離間という目的のためだけに平和の美名を装う者は、平和を賊する者と言わねばならない」という小泉の言葉は、今もNHK、朝日新聞、筑紫哲也以下にそっくり差し上げたい言葉である。丸山真男、都留重人らは堂々たる論陣を張って「議論に勝ったつもり」になっていたが、彼らは彼らが「平和勢力」と崇め奉ったソ連じしんの行動(ハンガリー・チェコへの武力介入、政治犯の大量粛清など)により裏切られ、学者・論客としての信用を失墜していく。羽仁五郎の文章など今から読むと「お笑いのネタ」以外の何物でもない。現在左翼は日本のナショナリズムを「危険なもの」として封じ込めようと躍起だが、終戦直後、左翼が日本国内で広範な支持を得たベースには日本人の素朴なナショナリズムがあったことも分かった。「どうして米軍基地が国内にあるんだ」という一般国民の反発心に左翼は付け入ったのである。アジアのほぼ全てを敵に回し英仏蘭豪を敵に回した日本が国際社会に復帰することは容易ならざる状況になったが冷戦の開始をチャンスと見て取った吉田(岸も同じ)は「米国の下僕」となることで米国を日本の保護者とし、嫌がる英仏豪アジア諸国を米国にねじ伏せさせて「安上がりな和解」「安上がりな国際社会への復帰」を可能とする外交路線を選択する。この選択は大成功で、やがて日本は空前の繁栄を手に入れる。左翼の主張は「日本が貧しい」限りにおいて一定の説得力を持ったが、日本が豊かになるにつれ「自民党政治のどこが悪いのだ」という意見が出るように成り、高坂正尭先生ら「現実主義者」の主張のほうが国民の間に広い共感を呼ぶようになる。岸の安保改定は今から思うと「日本での内乱への米軍介入権削除」「米軍の無期限駐留権を有限化する」という当たり前のことをしただけなのに、どうしてあんな大騒ぎになったのか不思議だったが、これも衆議院で起きた「強行採決」の映像が「戦前のような強権政治復活を連想」させたというイメージの問題だったということも理解できた。安保騒動はテレポリティックスの走りで、あそこまで騒ぐ必要はそもそも無かったのである。
「朝日ジャーナル」の時代は、極めて短かった。全共闘運動とは、要するに「アメリカという親」「日本経済の大成功という親」の元でぬくぬくと育ったティーンエイジャーたちの自分勝手な「反抗期」以外の何物でもなかったので国民は全く彼らに同情せず、それは線香花火のようにあっけなく終る。全共闘運動に肩入れをした朝日ジャーナルの記事は、今読むと著者が指摘する通り異様である。最後に著者は現在我が世の春を謳歌する「諸君!」「正論」らが掲げる記事のおどろおどろしい見出しを引き合いにだしながら嘆息するが、これには違和感を覚えた。論壇がエリートの占有物だった昔と大学全入時代の大衆化された現在を比較するのが間違いなのである。大衆化すれば品位は下がるが、これは受け入れなくてはならない。私は低劣なタイトルのついた記事はスルーし「これは」という記事のみ読むようにしている。

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紙の本世界史の中から考える

2007/05/05 12:58

ああ、高坂正尭!

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諸君は高坂正尭を知っているだろうか。彼の著作を読んだことがあるだろうか。もし知りもしなければ、読んだことも無いという人がいたら、その人は人生において重大な損をしているといえるだろう。日本政治や世界政治外交の見かたについて、高坂正尭の教えを受けた人とそうでない人との間には、石器時代と鉄器時代、あるは火薬と鉄砲の時代とそれ以前くらいの隔たり、格差があると見て間違いない。高坂正尭を呼んでいない人たちよ、深く悔い改め、恥じ入って下さい。本書は月刊誌「FORESIGHT」{新潮社が出している雑誌だよ、これさえ知らない人は、相当程度の政治オンチだ)に連載された小編記事を集めたものであり、彼の絶筆遺稿集ともなっているものだ。なかでも白眉は「なぜ日本人は太平洋戦争という間違った戦争をしたのか」について論考する最後の2編であろう。高坂は、開戦と同時に名だたる文学者たちがそろいもそろって対米戦争開戦を大歓迎したことを引きながら(引き合いに出されているのは、三好達治、高村光太郎、斉藤茂吉で、斉藤茂吉の有名な和歌「何なれや心おごれる老大の耄碌国を撃ちてしやまむ」が彼らの当時の心情を代表するものとして引用されている)、そこには「白人支配への恨み」があったとする。17世紀から19世紀にかけて、武力にモノを言わせ、世界中を侵略し、世界中で虐殺を繰り返し、その結果巨大なる植民地帝国を築き上げた英・仏や、「国内」で虐殺を繰り返し大帝国を築き上げた米、露などからなる「白閥」が、その経済支配を背景に日本やドイツに対し道徳を説く偽善に対する怒りが日本人を「それなら俺も」と中国支配に向わせたと高坂は分析する。この白人に対する恨み辛みを吐露した代表的文章が近衛文麿の「英米本位の平和主義を排す」(北岡伸一編『戦後日本外交評論集』中央公論社参照)だが、その誤りは「じゃあ、英米本位の平和主義を排した後、日本はそれに変わる新しい世界システムを構築し維持できるのか」という具体的政策提案が欠如していたことだとも指摘する(このあたりは反米主義に凝り固まった左翼たちの米軍基地反対運動、日米安保条約反対運動、自衛隊違憲運動にも共通する欠陥である)。そして日本人が抱える重大な欠陥は「あまりにも簡単に状況に従いすぎる(逆に言えば、原則に固執する頑固者が少ないということ)」だと高坂は指摘するのである。「勝てば官軍」という現象は世界中どこでも見られるが日本ほどそれが目立つ国も少ないともいう。そしてこれは「『柔軟性』という日本人の美徳と表裏一体となっているから、完全に克服することは出来ない」と高坂は断言するのである。原理原則を軽視し柔軟にルールを変えても平気という日本人の資質は「優越する西欧文明」を我がものにするとき非常に有利に働いた。中国が近代化に失敗し日本が近代化に成功したのも、おそらくこの「柔軟性」の差だと思われる。こういう宝石のような指摘が高坂の文章には、そこかしこに散りばめられている。一読をオススメする。

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国民を統治するということ

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私は後藤田正晴が嫌いである。彼の角栄べったり、中国べったり、警察べったりで反自衛隊、憲法改正反対という姿勢が、私とは政治的に相容れないからである。しかし、本書は良く出来ている。オーラルヒストリーとしても読みどころ満載で出色の出来栄えとなっている。何より面白いのは警察官僚の頂点を極めた後藤田氏の「日本国民の統治者」としての視点の確かさだろう。彼は警察という暴力装置を指揮する最高司令官として実に良くやったと思う。彼は警察が日本共産党や全学連、全共闘のバカ学生たちに対して徹底的に低姿勢に出るよう指導した。警察が学生を殺し蹴散らせば、判官びいきの日本国民は反体制側につき、日本国の国体が危うくなると正確に事態の先行きを見抜いていたのだ。だから警察に過剰な暴力を慎むよう指導し、むしろ学生たちにやられるように指導したのであった。私の義父は当時、警視庁に出向し秦野警視総監の秘書を勤めていたが、同じことを総監から言われたという。こうして暴力学生のアホどもに日本の警官たちは殴られ、投石され、追いかけられ続けたわけだが、この作戦は見事に成功したといって良い。東大安田講堂を占拠し乱暴狼藉の限りをつくすアホ学生や、よど号を乗っ取り北朝鮮に行けと指示する馬鹿ども、あるいはみんなの成田空港を占拠して管制塔を破壊するバカたちを見て、当時学生だった私は、一日もはやく機動隊に志願してこの手で左翼学生を殲滅してやりたいと手に汗握っていたわけだが、何のことはない、後藤田さんの作戦にまんまとはまってしまったわけだ、私は。統治者とはこういうものかと頭が下がる思いがした。それにくらべると「安田講堂」を書いた島泰三の考えのなんと浅はかなことか。おつむの出来がまるで違うなと、この書評を書いていて、島に対し、またため息をついてしまった。

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紙の本検証戦争責任 1

2006/07/29 20:47

読売新聞主筆渡邉恒雄氏が主導した力作の誕生!万人に与える書とはこの本のことだろう!!

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昨今、A級戦犯論議が喧しい。やれ連合軍の占領下で行なわれた東京裁判は無効だの、事後法で裁いた裁判は違法だの、まるで先の大戦では責任者は誰も存在せず「1億総懺悔」ではないが、日本人全体の連帯責任だみたいなことを言う奴がいる。しかし、それは違うと思う。確かに先の大戦開戦では多くの日本人が快哉を叫んだ。「撃ちてしやまん」と詠んだ斉藤茂吉ではないが、サヨクもウヨクも「暴戻なるアメリカ人に一矢を報いた」と本当に多くの日本人が下がらぬ溜飲を下げたのは事実である。しかしだからといって「日本人全員に責任がある」ということにはならない。組織というものは魔女狩りを必要とする。戦争に負けるという日本史上前例の無い恥辱を前にして、儀式として、敢えて責任者をあぶり出し、彼らに全責任を押し付けることで残りの国民全員の「健康」を守るという方法は世界で古くから行なわれてきたことなのだ。現にドイツも、ドイツ人のほぼ全員がヒトラーの演説に熱狂し、ナチスの政策を全面的に支持したにも関わらず戦争に負けるとナチスに全ての罪をおっかぶせて「私たちドイツ国民も被害者」だと、あらぬ大嘘をついているではないか。山本夏彦さんは、己の罪には目をふさぎ、他人に全ての罪を被せようとする態度を「健康的」だとし、「ゆえに健康とは嫌なものだが、人間は健康でなければ生きていけないのである」と喝破した。確かに桜井よし子が指摘するように東京裁判は「法的には」欠陥だらけの裁判であり、それを丸呑みするのは「卑屈であり屈辱的」なのであるかも知れない。それならもう一度あの戦争を再度日本人の手で検証し、一体どうしてあんな馬鹿な戦争をしたのか、どうして300万人もの犠牲を出してまで最後まで闘い続け原爆を2発も食らい、東京以下の大都市を焼き払われるような愚かな戦いを継続したのか、その責任者は誰なのかをあぶりだそうという試みが本書である。一体誰が一番悪かったのか。それは大体分かっている。東條英機は当然当確である。しかし、それだけではない。軍部の独走を安々と許した政治家たち・近衛文麿と広田弘毅もそうとう責任がありそうだ。城山三郎という愚かな売文業者が広田弘毅を平和の使者であったかのごとく美化したことがあったが、歴史家の大半は「広田にも非常に重い責任があった」ということでほぼ一致している。海軍も罪が深い。特に対米戦争を推進した「第一委員会」の面々・石川信吾や富岡定俊、それに永野修身ら海軍首脳の責任も重い。一部で天才視される石原莞爾も「陛下の軍隊を勝手に動かした」前例を作ったという意味では罪が重い。その他、艦隊派の末次信正・加藤寛治といった強硬派、テロを推進した桜会の橋本欣五郎、井上日召、2.26事件・5.15事件の実行犯達、統帥権干犯を議会で言い出し議会政治を破壊した鳩山一郎、ナチスとの同盟を推進した松岡洋右・白鳥敏夫・大島浩...こうした「真のA級戦犯=日本人の仇」が次々と炙り出されていく様は読んでいて痛快ですらある。本書は一部の阿呆どもから「保守反動の権化」のごとく戯画化されている渡邉恒雄氏の強いリーダーシップの下に始められた非常に高度で厚みのある知的作業である。軍国主義を嫌い民主主義を信奉する稀代のジャーナリストである渡邉氏の情熱に敬意を表さずにはいられない。この検証作業は現在も継続中である。第二巻以下も出版され次第、順次買い揃えていくこととしたい。

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紙の本日本共産党

2006/05/13 10:46

読め!そして日本共産党の本質を知れ!

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本書が出版された途端、日本共産党は大混乱に陥った。4月19日付「しんぶん赤旗」で紙面1ページ半を割いて反論を大々的に展開し「(筆坂は)落ちるところまで落ちた」(志位委員長)「虚構と妄想」(不破前議長)と、筆坂氏の著作を口汚くののしった。共産党の悪いところは公明党とそっくりで自分に仇なす批判者を絶対に許さず聞くに堪えない読むに堪えないような汚い言葉でののしりまくることだ。自分は絶対に正しいとする「日本共産党の無謬性」は筆坂氏も本書の中で日本共産党の最大の欠点として指摘しているが、今回の日本共産党の慌てぶりを見て、あらためてこの反省とは無縁の自己中心政党の姿を見る思いがした。日本共産党は病んでいる。一番病んでいるのが財政で、長期低落傾向をたどる「しんぶん赤旗」の売上の下、選挙の度に毎回確実に没収される供託金。それに政党助成金の受け取りを拒否する意固地な姿勢のツケは全部党員にかかってくる。死ぬほど突きつけられる「寄付」「募金」「基金」への拠出。鬼のような「しんぶん赤旗」拡販運動。でもご近所に「あの人、共産党員よ」と知られるのを嫌がる人が激増する中で、こうした負担は既に共産党員であることが満天下に知れ渡っている地方自治体の議員に集中することになってしまうという哀れな構図。日本共産党の財政が悪化の一途をたどる中で建設が強行された新本部ビル。その御殿のようなビルの威容を見て、思わず「もう二度と献金には応じない」と歯噛みした地方党員がいたというのもうなづける話であろう。今や日本共産党の財政は赤字に転落し、その赤字幅は毎月1億円にも達するという。しかしなんといっても日本共産党をここまで落ちぶらせたのは、その「うさんくささ」にある。胡散臭さはどこから来るかといえば「自分達は絶対に正しい」と常に開き直るそのジコチュウ性にある。直前まで「拉致問題の存在を決定付ける証拠なんかあるのか」と自民党を突き上げていたくせに、金正日が拉致を告白した途端、「北朝鮮の疑惑を最初に指摘したのは、わが日本共産党です」などと白々しいことを言い出す胡散臭さ。全部重要なことは不破をはじめとするトップが決めて、これをしたのものに命令するトップダウン型の絶対王政制度の専制主義体制のくせに「民主集中制は開かれた究極の民主制だ」と言い募る厚かましさ。「たしかな野党」というウラには、日本共産党はエリート支配一党独裁の究極の専制国家体制を目指す民主主義の破壊者という本当の顔がある。国民はこれを見抜いているからこそ、共産党に票を投じなくなっているのである。4月29日付の産経新聞には、筆坂氏の著作に対する共産党の慌てぶりを評して「事実だからこそ慌てているとの指摘がなされていた。同感である。もし、今、日本が日本共産党の支配下にあったら、筆坂氏は直ちに拉致され、人知れず山中で共産党により粛清(殺害)されることになったかもしれない。そうなれば私もこんな書評を書いたりすることも出来なかったであろう。書いた途端、逮捕され強制収容所に送られ、そこで死を迎えることになっていたであろう。ソ連、ベトナム、カンボジア、中国、北朝鮮、東ドイツ、ハンガリー、チェコ、ブルガリア、ポーランドではこういうことが30年以上も続いていたのである。中国、北朝鮮では今もこうした言論弾圧が公然と行なわれている。bk1にも共産主義シンパと思われる書評者が複数存在する。そういう人たちにも是非本書を読んでもらいたい。そして共産主義が抱え込んだ重大な病の本質を、いやだろうけど学習してもらいたい。読めば筆坂氏は貧困な環境で育った純情少年であったようである。本書を読んで、少し筆坂氏が好きになった。

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