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鍼原神無〔はりはら・かんな〕さんのレビュー一覧

投稿者:鍼原神無〔はりはら・かんな〕

19 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本思想としての全共闘世代

2006/12/20 16:54

全共闘な人からの、時を越えた自己紹介

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 著者は「わかりやすく言える範囲のことは、わかりやすく言う」って流儀で、文章を書く人。同時に「全共闘の化石」と自称=自嘲してもいる著者が「自分の個人的な経験を出発点としながら、なるべく自分の枠を超えて世代に共有できるもんだい取り出し」て伝えようと試みた本です。『思想としての全共闘世代』って書名は、誤解を招き易いと思う。著者の考えはわかるので、致し方ないけど。勝手に言いかえを試みれば「姿勢としての全共闘運動とその後」といったところでしょうか。過去のメディア報道や、政治的な大所高所からの整理から零れ落ち易い無数の出来事が、当事者視点による個人史的整理と、原理的展望とを軸にして、やや複雑な図柄だけど、歴史から零れ落ちた事柄の歴史、として編まれています。
 例えば、1972年の浅間山荘銃撃戦や内ゲバ殺人の頃から「過激派とい言葉が流布された」との示唆(p.130)。おそらく、当時のメディアに媒介れて流布されたのでしょうか(?)。著者の主張ではありませんけど、「架空の内戦」って妄想にからめ採られていった党派集団に対する当時の社会の方の対応が「過激派」という名指しだったように思えます。想定読者である後の世代にとってのもんだいは、例えば、数十年前に生まれた色眼鏡が、過去の出来事の実態をわかりづらくする作用を今でも及ぼしていること。仮に「あらゆるテロは悪だ」という立場にたつとしても、シーア派のヒズボラとスンナ派のアル・カイーダを「イスラム過激派」という括りで一括していては、遠くの出来事の実態を誤解するばかりですよね。全共闘が生まれ、自壊していった時代についての、似たような誤解を解きほぐしていく材料は、この本で無数に提供されています。
 著者が「はじめに」で「書く人が違えばまた違ったものになるだろうが、ぼくの書けるものを書くしかない」と断っていることは特記しておきます。この本の語り口は、とても紆余曲折があって、たんじゅんな割り切りではないのですが。当然ながら、それでもなお、掬いきれていない局面と言うのはある。著者もそれはわかってるはずで、例えば同著者が1997年に出した『ことばの行方・終末をめぐる思想』(芸文社)では、世代的には同年代の橋本治氏が、全共闘に蔓延していた無自覚な「正さ」にかつて抑圧感を感じていたという述懐について触れられているのですが。『思想としての全共闘世代』では、全共闘という場の周縁や外縁で生きていた同世代の人たちや、そうした人たちと全共闘の関係までは、整理が届いていないようです。それでも、「もういい加減書けるものを書いておかないと、結局は何も伝わらないままで終わることになる」という思いで書かれたとも「はじめに」に記されています。どうやら、この本でも掬いきれなかった過去の出来事について考えてゆくことは、読者に委ねられたことになる型のようです。もちろん、そんな責任を引き受けるのも、拒否するのも、読者それぞれの自由であることは言うまでもありませんけれど。

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西欧式「世界史」の起源探求

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「世界史」は、古代ギリシアを前史としローマ時代に誕生した、と著者は説きます。
 著者の言う「世界史の誕生」って出来事は、「諸民族の歴史が、ある統一的な観点から構成された歴史が書かれたこと」と換言できるでしょう。
 いわゆる古典古代から近代西欧に至る時代の画期ごとに、どんな読者が想定された「世界史」が、どんな世界像と時間観念を伴って叙述されたか。このポイントを押さえて「西欧式世界史の形成史」を素描した本が、『世界史とヨーロッパ』です。
 “素描”と書きましたけど、論の運びは丁寧なで、時として一般向け概説書で見られるハショりすぎも少ない。要所を押さえた大きな歴史のアウトラインが信頼感の持てる筆致で“素描”されています。

 アタシは、本書を読んで1970年に刊行された、中公新書『西洋と日本』(増田四郎、編)に収録されている、西欧中世史の故・堀米庸三さんによる『ヨーロッパとは何か』を思い出しました。実は十数年ぶりに再読もしたんです。
 こちらの小論で、堀米氏は「ギリシア・ローマの古典古代史はなぜヨーロッパ史の第一章をなすか」との問いをたて、次のように考えを進めています。
 アタシなりの要約になりますけれど。中世西欧社会の自己形成は、地中海世界の歴史を、古典古代として自らの前史にせざるを得ない必然性を持っていた。と、堀米氏は説いています。

 「すべての歴史は現代史である」とはよく言われることです。
 この歴史の基底問題を、西欧史について考えてゆくための戦略図を描いたような小論が、堀米氏の『ヨーロッパとは何か』なのですけれど。
 岡崎勝世氏は、講談社現代新書での同著者前著『聖書vs.世界史』で整理された、西欧式世界史というコンセプトの起源が、より広いパースペクティヴの内で探求されています。
 アタシたちが、知らずに前提に置きがちな、西欧式世界史というコンセプトの特性を起源に溯って点検する。そんな基底的問題の具体的素描が、アタシのように専門研究者でない読者にも咀嚼可能な型で提供されているのです。

 著者の後書きによれば「戦後日本における世界史を加えてはじめて、本書のテーマに関する作業は完結する」とのこと。
 西欧史を、アタシたち日本人にとっての現代史として読む、そのように歴史を考えるためのさらなる探求が期待されます。

 もっと言えば、専門研究者でない読者が、「イスラムの世界史」や「中国の歴史」について自分なりに考えようとするときにも、有力な補助になる歴史的思考を期待できます。
 この本や『聖書vs.世界史』同様、一般向け概説書版での完結編公刊を待望しています。

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紙の本オイディプス症候群

2002/07/12 20:53

矢吹駆連作に事件は起きたか!?

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 根強いファンを持つ長編推理連作、矢吹駆シリーズの最新作。
 
 著者は、ことに本格ミステリの場合、雑誌連載終了後、数年間の徹底的な推敲で作品を磨き上げてからでない単行本化しないことで知られます。
 ファンとして言わせてもらえば、今回は長かったです。足掛け5年待ったでしょうか?
 でも、腰帯に1600枚と記された分厚いハード・カヴァーを手にした途端、待った時間のことなど、どっかに行ってしまいました。装丁も渋いし☆
 
 最新作『オイディプス症候群』では、冬のエーゲ海に建つ古代ミュノアの神殿を模した館を背景に、孤島連続殺人事件が扱われます。
 フランス当局からはおそらく「望ましからぬ入国者」と目される(?)、法規と国家権力を無視した探偵役の矢吹駆。
 今回は、連作の語り手、パリ警視庁のモガール警部の娘、ナディアが招かれた孤島に変名にて紛れ込むのですが。
 嵐で孤立する孤島で起こる連続殺人事件。二重に装飾された幾つもの屍体に隠蔽された、事件の現象学的本質とは何か?
 
 ミステリ・ファンにとっては、メタ・ストーリーのようにして語られる、密室殺人と孤島殺人の哲学的な差違がお楽しみ。
 もちろん、この哲学議論は連作恒例の趣向通り、ミステリーを解くヒントとミス・ディレクションを兼ねたもの。いつもよりたくさん錯綜しています。
 
 さらに、『オイディプス症候群』では、連作がターニング・ポイントを迎えたか? と思わせる出来事が幾つか起きています。
 まず、連作の語り手ナディア・モガールが、第一作「ラルース家殺人事件」を書きまとめた物語内時間へと、物語がたどり着きました。
 
 これから連作に手を出そうという方は、この最新作か、1つ前の連作『哲学者の密室』から読みはじめてみるのも一興かもしれません。
 矢吹駆シリーズは、一作一作の完成度は高く、いずれも独立した作品として楽しめますので。
 本作にも、過去の連作に関する断片情報は記されてはいますが、先に本作を読んでしまっても、未読シリーズへの謎めいた誘いにこそなれ、文庫版で刊行中のシリーズに手を伸ばす読者の楽しみは損なわれはしないと思います。
  
 すでに連作を読んでいる方には、他にも幾つか興味深い出来事をお知らせすることができます。
 「自壊する教養小説」が構想されているかに思われる、矢吹駆シリーズ。今回の実行犯は、弁証法的権力機構に偽装潜伏し内部から自壊作用を及ぼす、と自称します。
 これは、著者のマスター・ピース『テロルの現象学』の戦術ではないですか(!)。
 人間を呪縛する観念の悪を突く矢吹駆は、この権力の自壊を目論むテロルの思想にどう対峙するでしょうか?
 
 矢吹の遍歴に関る思想対決の方では、「大量生の権力」を標的に、微細な権力の網の目を論じる思想と現象学的実存論との間で論戦が交わされます。
 さらに、宿敵ニコライ・イリイチの運命にもある特異な出来事が起きるようです。ますます謎めく矢吹、第三の啓示の行方は!?

 最後に、恋愛小説としての矢吹連作。
 『オイディプス症候群』では、なんと、矢吹駆が恋愛について語ります(!)。
 これは(少なくともナディアにとっては)大事件!!
 
 ナディアによる恋愛の深まり、前作『哲学者の密室』でも、物語に随分複雑な彩りをもたらしましたけど。
 語りが、物語内の実時間に追いついてきたからには、これからナディアの恋愛と矢吹の遍歴とがどんな二重奏を描いてゆくか期待されます。
 
 「だったらカケルは、自分のことをわたしの夢にすぎないと思っているの」
 〔中略〕青年が薄く微笑する。ゴーギャンの絵に描かれた、マオリ族の若者が口許に湛えているような官能的で憂鬱そうな微笑だった。
 小さく頷きながらカケルが頷く。「そうさ、僕はきみが見ている夢にすぎない……」
 
 ナディアうらやましーわよ、このー(笑)。

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社会人類学・文化類学を統合した視座

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 この本の原題は、“Sociocultural Theory in Anthropology”。 “Sociocultural”は、日本語版の内で「社会・文化的」と訳されています。原著者ガバリーノが独自に提出した視座でしょうか。

 ガバリーノは、日本語版が刊行された1987年当時イリノイ大学の人類学教授でした。 『文化人類学の歴史』は、アメリカの一般過程の大学生を読者に想定した本。内容は、専門課程の人類学の概要と学説史を紹介したもの。日本でも、大学生以上の読者の方に向いたベーシックな概説書として、今でも通用する内容と思います。
 
 特に、「社会・文化的人類学」の視座が提示されることで、英国流の社会人類学とアメリカ流の人類学(文化人類学と自然人類学)の相互影響が、わかり易く整理されてる点が優れています。また、フランス流社会学などへの言及も適確と思われます。

 日本では、戦前の大学制度の関係で、人類学(自然人類学)は理科系、民族学(文化人類学)は文化系って制度が主流で、今でも続いています。こうした事情から、実は、一般向けの人類学概説書の中にも、目立たない偏りを秘めた本、少なくありません。
 その点、『文化人類学の歴史』は、単なる学説史ではなく、「人類学的なものの考え方」が洗練されて来た経緯を比較的偏り少なく整理した良書になっています。

 専門研究者ではない読者が人類学的な考え方について読んでいくなら、是非お勧めしたいベーシックな1冊です。

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紙の本熾天使の夏

2001/04/22 22:48

遍歴の始まり

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 『熾天使の夏』は、著者自身によって「矢吹駆連作の第0作」って位置付けが示されてます。「小説作品にあとがきの類を書く趣味はない」と明言する笠井潔が、特に本作成立の事情を語る「あとがき」で「第0作」と呼んでいるんです。
 ナディア・モガールが「本はどんな読み方でもできる」って言ってたことありましたけど。著者本人による「第0作」(第1作ではなく)って位置付けは、なかなか魅力的。

 矢吹駆連作は、どれも独立して読める丁寧な仕上がりの小説です。特に『熾天使の夏』は、連作としての連続性よりも、断続性を優先して読まれた方が悦しみの多い作品になっています。
 まず、独立した作品として読まれることをお勧めします。

 この小説の主人公は、革命の可能性を現実的シニシズムの陰謀から奪回しようと無差別爆破テロに手を染めました。その振る舞いは「灯かりに惹かれてランプの火に身を焼かれる蛾」に喩えられる熾天使を思わせます。

 同士結社員たちの死を経た主人公は、官憲に捕まることを望まず「完璧な自殺」を試みます。衝動的な自殺、激情に駆られての自殺ではなく、徹底的な精神集中により唯一の必然性を正面から引き受ける自殺行為です。
 観念の呪縛を徹底的につきつめることで、世界を回復しようとする試みは、しかし、微妙な回心を主人公の裏にもたらしたようです。
 「完全な自殺」の成功と供に予期されていた「すべてよし」の言葉を口にした主人公を訪れた幻視〔ヴィジョン〕は、彼が本来の世界とみなす、荒涼とした空虚とは異質な様相も観せたのでした。

 竹田青嗣は、『熾天使の夏』(講談社文庫版)解説を「『完全な自殺』は成就せず、彼〔主人公〕の思想的世界遍歴はいまも終わらない」と結んでいます。

 確かに主人公の「完全な自殺」は成就しませんでした。読者は、「完全な自殺」の試みと「すべてよし」の幻視との予期されなかったズレから、主人公の以降の遍歴のベクトル生成を探ることができます。
 『熾天使の夏』のできごとを経て、主人公は連作で知られる矢吹駆になったのです。

 連作のファンにとっては、矢吹駆が主人公の変名であること、ニコライ・イリイチと思われる人物との最初の邂逅、そして、「矢吹が自殺の是非」を瞑想の主題にしている意味、などを読みとる悦しみが用意されています。
 何より、『熾天使の夏』は、主人公の思想と連作での矢吹の思想の断続と屈曲線を読み解き思い描く悦しみが折り込まれた小説でもあります。

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紙の本ヨーロッパの歴史 基層と革新

2001/04/11 22:52

社会や国家を相対化する西欧史

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 西欧ルネッサンスの歴史像を大胆かつ確実に刷新してきた樺山紘一さん編著の放送大学教材。
 放送大学教材ですので社会人一般が対象に想定されています。

 一般に歴史とは「過去の事実を扱う学問」とイメージされがちですが、これは間違いではないにしても大雑把なイメージです。歴史学が扱う対象は過去の痕跡であり、いわゆる過去の事実は歴史学の結論として導き出されるものですから。従って、歴史の内容は、新しい痕跡が発見されても、研究者の思想が深化しても書き換えられます。書き換えられない歴史は、死んだ歴史とも言えましょう。
 『ヨーロッパの歴史 =基層と革新=』は、社会人一般に向けて、我が国の西欧史研究の近年の考え方が、きちんと反映された一般向け西欧史の本、と言えます。

 内容構成は、最初がケルト人など。ローマ帝国史ははぶかれて、次はゲルマン人諸国家の成立へ(関連記事の内で古代ローマとの関わりは最小限だけ説明されてます)。最終的には、近世のヨーロッパ・フランス革命前夜、イギリスの産業革命、ってあたりまで15章で要領よくまとめられてます。
 ヨーロッパらしい社会の在り方が、どんな歴史的メカニズムで形成されてきたかが、考え易く整理された一冊です。

 この本の構成の背景にあるのは、例えば、「古典古代の地中海世界は、ヨローッパとは別種の社会」って考え方です。
 また「西欧近代の市民社会成立と前後して逆戻りできないまでに進んだグローバルヒストリーは世界の西欧化ではない」って考え方も背景にあるでしょう。

 「歴史は書きかえられる」と言っても、社会の功利や国家の理念などによって書き換えられるべきではありません。社会や国家を正当に相対化してゆくのも歴史の役割のひとつだからです。
 「古典古代の地中海世界は、ヨローッパとは別種の社会」や「グローバルヒストリーは世界の西欧化ではない」も、「社会や国家を正当に相対化してゆく西欧史」の正当な筋道なのです。

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紛争地帯のフィールド記録にして一種の娯楽本

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 “GUIDE TO THE WORLD’S MOST DANGEROUS PLACES”の第3版、の日本語訳です。カバーと背表紙にはちょっと小さいけど副題っぽく“Fielding’s The World’s Most Dangerous Places”と記されてます。本の中味は「フィールディング(Fielding)」って言葉が、一番表してると思います。
 要するに、冒険野郎って言う以上に、危険な場所中毒になっちゃってる著者や著者の仲間が実際に足を踏み入れた世界各地の危険な国々、危険なスポットを紹介した体験的ガイド本。この「実際に足を踏み入れた」ってとこがこの本の記事のミソなんですけど。
 旅行ガイド風に整理されて、危険スポットの紹介になってるところが、軽快な文体とあいまって、微妙なおもしろみをかもし出しています。

 はっきり言って、読者次第で不謹慎な読み方もできる本です。ただし、記者たちの執筆姿勢が不謹慎だとは、アタシには思えません。
 アタシ自身、不謹慎な興味本位の好奇心と、紛争地での生活・生存の“リアル”を考えることとの間で、緊張感を持って読めました。そうしたことを考えながら読むための材料は豊富に取材されています。アタシはそこがこの本一番の価値だと思う。

 この本の「あとがきにかえて」には次のように記されています。「〔前略〕飾りだけの『政治的に正しい』コメント、公平な報告などは本書には登場しない」。
 好き好んで後ろ盾もなしに危険・紛争地帯に脚を踏み入れる記者たちには「公平な報告」など書けない、って強い確信があるのかもしれません。だって、仕事道具を泥棒されたり、死にそうな目にあったりしながら、果たして「公平な報告」書けるものでしょうか?

 この本の「まえがき」にあたる「DPは誰のための本か?」には、次のように記されています。「本書は、どの組織にも属さず、すべて我我だけの世界観に基づいて制作された、一種の娯楽本である。」「もしテレビが、おふざけバラエティーや軽いトークショー、あるいは硬派のニュース番組だけに物足りなさを感じたとき。そのときこそ本書の名前が番組欄に載るはずだ。」
 とりようによっては開き直りともとれるこのもの言いから、著者たちのメッセージを読みとる事ができると思います。
 逆説っぽくはなりますけど、「一種の娯楽本」に徹する事によって、この本の記述は、ある種の公正さを実現しています。この本の内容の何をどこまで信じるか、は読者に委ねられているわけです。

 本書の執筆者たちのお気に召すかどうかは心もとないところですが。アタシは本書、例えば明石書店の「エリア・スタディーズ」シリーズとか、河出書房新社の「暮らしがわかるアジア読本」シリーズとか、もしくは国土社の「目で見る世界の国々」シリーズなどと併読する事で、よりよく読めるのではないか、と思います。相乗的に、併読する双方の本を、です。

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一般読者向けの、使える世界史事典

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 この歴史事典は、全体が「世界史の基本用語」、「テーマ別小事典」、「人名小事典」、「科学技術史小事典」の四部から構成されています。各パートはさらに大項目ごとに、各記事がテーマ別・年代別に編纂されてます。
 ある項目記事を読んでいると、自然と関連が近しい記事も目に入ってくる作りなのが助かります。 パラパラみているだけでも、関連項目に自然に目がゆきますので。
 参照項目などの指示は少し弱い気もしますが。前記のようなテーマ別・年代別に編纂で、充分フォローされている、と思われます。

 歴史事典の類って、受験用のものか、専門的でヴォリュームのあるものが多くて。一般読者にとって、手頃で刺激的なものは少ないのではないでしょうか。かえってテーマが絞られた歴史事典に、使い勝手のよいものがあったりします。
 もちろんこの歴史事典では、記事が現代史も含めて、世界史全般に渡っています。歴史好きの方がスタンダードな知見を確認するためにお勧めできます。この事典の記事を手がかりに、さらに詳しく調べてゆく使い方にも適しています

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笑えて、しかも、文学史のイメージが変わる評伝☆

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 『レ・ミゼラブル』(『嗚呼無常』)のユゴー。
 『岩窟王』のデュマ(大デュマ)。
 「人間喜劇」のバルザック。
 この三人は、みんな1800年を挟んで生まれ、多少の差はあるけど1830年前後にデヴューしました。 みんな幼少時にナポレオン戦争の高揚とナポレオンの敗退を目の当たりにしてる。 で、三人ともナポレオン・マニアだった・らしい。

 「彼らは、名声、金、女、といった世俗的欲望とは無縁だったどころか、むしろそうした欲望の権化だったといったほうがいい。〔中略〕
 すなわち彼らはこうした欲望『にもかかわらず』大傑作を残したのではなく、それがあったが『ゆえに』かくほどまでの偉業をなしとげたのであったと。」
 
 演劇と新聞小説でバンバン設けた金で、大邸宅を建てて、モンテ・クリスト城とか名づけた大デュマ(おろかだ:笑)。
 毎日宴会やって、十億円以上稼いだ(ホントはいくらくらい稼いだのかよくわからないらしー:笑)のに、ぜーんぶ使いきっちゃった(驚)。
 
 新聞小説の契約金前渡しで1億円くらい手に入れると、ヤタッ、って感じで2億円くらい使っちゃう(笑)バルザック。
 
 息子に先立たれて孫がオトナになってもオンナ道楽をやめなくって。しかもドンドン、セックス賛美の詩のネタにしちゃって、自選選集に入れちゃうユゴー。

 自分のセックス体験を詩作のネタにするとかゆーと、なんとなく日本の私小説作家みたいだけど、『パリの王様たち』に引用されてる詩は少なくとも、私小説的ではないですねー。
 
 “涙も流すが、まもなくほほえみ、いきつくところは恍惚境。
 言うことなんかありゃしない。”(『ユゴー詩集』辻昶,稲垣直樹、訳)
 
 いやはや・なんとも(笑)。
 
 『パリの王様たち』は、ようするに「我こそはペンのナポレオンたらん」って、誇大妄想の大家が三大文豪なのだ、って、そーゆー観点(笑)の評伝です。
 『パリの王様』ってデュマの評伝が有名なんだそうです。この本は三人の評伝だから『パリの王様たち』。
 
 ちなみに、さっきのデュマ父子の話は逸話だそうなんですけど。この本では、逸話の類も、ちゃんと「これは逸話」って断わったうえで、積極的に収録されてます。 同時代の人とかに、三大文豪がどんなイメージで観られてたか、の一端とかが想像できて、これはこれでよいです。
 
 ちょっと間違えると、とんでもなく悪趣味な内容になっちゃいそうなこの評伝。 読後感も爽快になってるのは、まず第一に三大文豪が揃いも揃って誇大妄想気味の大モノだから。
 
 そして、ただ「世俗的な欲望」のネタだけを掘り返してるわけでなく、1「文豪の欲望と創作の関連」、2「文豪の欲望と社会環境の関連」が考察されている。
 
 それやこれやで、笑える・けれど読みがいのある本になってます。
 
 この本で考察されているのは、高校とかでやる大学受験用の文学史のような「古典主義があって、ロマン主義が来て、写実主義になりました」とかの整理とは違います。ロマン主義と写実主義はお互いに意識しあって対抗しあいながら、どっちも“古典主義なんかクソクラエ”運動だったりしてたような。より・実態に近い姿を復元するような評伝です。
 
 例えば、アタシは義務教育過程では、バルザックって、「初期はロマン派だったけど、後期は写実的傾向を強めた」とか言われた記憶があったんですけど、この本読んだら、どーも疑わしいです(笑)。断言はしませんけど。少なくともアタシは、バルザック読み直す楽しみが増えました(笑)。
 
 笑えて、しかも、文学史のイメージが変わる評伝☆ オ・ス・ス・メ☆

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群集の時代の幻視行とミステリー

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 一八四八年二月、パリ。ルイ=フィリップの復古王政に蜂起した群集と国民軍が対峙する内、一発の銃弾が、背後から取材記者を撃った。
 緊迫していた状況は、瞬時に軍の発砲から騒乱へと発展。そして騒乱は、国王追放、共和政府樹立へと動く。二月革命と呼ばれることになる事件だった。

 現場で唯一、「ブロンドの頬髭の男」が新聞記者を狙撃する瞬間を目撃した若き無名詩人シャルルは、共和政府内保守派が「軍を挑発した犯人」としてジャコバン派の老人を告発した事に憤る。シャルルはかつて阿片パーティーで出会った謎めいた紳士、名探偵として知られる勲爵士〔シュヴァリエ〕オーギュスト・デュパンを頼る。

 革命が反革命を呼び込む陰謀と、沸き立つような混沌が錯綜するパリを、若い詩人と、明晰な名探偵が事件を追いゆく。そして「最初の名探偵」オーギュスト・デュパン第四の事件は、連続殺人事件へと発展する。

 ポーの『群集の人』からの引用を、序章エピグラムに飾る『群集の悪魔』は、「探偵小説は形式化の小説」と語る笠井潔による、形式化の詩人・作家、エドガー・アラン・ポーへのオマージュとも言える本格推理。と、同時にこの小説は、「探偵小説のジャンル意識は、第1次大戦の大量死の体験を経て形成された」とも語る笠井が、「大量死」の前提になる「群集の時代」に、探偵小説の深源を探る幻視行とも言えます。
 連続殺人のトリックは、どれもたいへんレトロな味わいに押し包まれていますけれど。それも、また、幻視〔ヴィジョン〕の一環とし楽しめるでしょう。

 また、著者、笠井潔のファンにとっては、沸き立つような群集放棄に騒然とする都市の描写にハッとさせられるでしょう。

 一八四八年十二月、亡命地イギリスより帰国したルイ=ナポレオンは、大統領選挙に圧勝。次いでクーデターを起こしたルイは、国民投票で皇帝ナポレオン三世となった。

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紙の本アメリカン・ヒーロー伝説

2001/03/18 01:06

アメリカ、その巨大なジョークへの愛

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 ロス・マクドナルド、ダシール・ハメットなど、ハード・ボイルド小説の翻訳で知られる、小鷹信光さんの著書。 
 エドガー・アラン・ポー作の推理小説や広義のミステリーの話題から、作家と作品の謎にふれる「<探偵小説の父>が遺した名探偵 悲運のヒーロー、オーギュスト・デュパン」よりはじまる12章。

 ダイム・ノヴェル、ウエスタン・ストーリー、犯罪実話、セミ・ノンフィクション、そして、アメリカの大衆出版とジャーナリズムの関係について語られるこの本。一言でなんと説明したらよいか、少し迷う内容です。

 「一八四〇年代から、一九一〇年代までの、アメリカ大衆文芸史の素描」。そう言ってしまうことは簡単です。間違いではないですし。
 でも、それだけですませられない内容が、この本には含まれてます。

 1840年代〜1910年代に活躍した作家、キャラクター、出版人、それから、犯罪実話の主役になった実在人物たちに犯罪実話に熱中した無数の大衆。これらの群像を、258頁の文庫本で扱う以上、素描にしかならないのは当然です。
 問題は、素描のタッチですよね。

 『アメリカン・ヒーロー伝説』を、大衆文芸史の概説書として読もうとすると、解説などにやや不親切な点もみられます。
 この本の価値はもっと別のところにみることができます。

 「昭和十一年(一九三六年)生まれの私は、思春期をはさんだ、六、七年間、アメリカの映画の強い影響をうけ、正直いってその傷痕はいまも完全に治癒しいない。
 建国二百年のの歴史を、鮮烈なスクリーンに映して、白紙同然の私の頭のなかにや来付いたアメリカ映画。その教宣的な洗礼を疑うまえに、少年だった私はただ偉大なる娯楽〔エンタテインメント〕そのものとしてのアメリカに無抵抗に惹きつけられてしまったのだ」
 「アメリカの夢が失われ、民話のヒーローたちがとうに過去の遺物となり、アメリカが私にとって巨大なジョークにすぎないことがわかったいまとなっても、なお私はアメリカに心を惹かれ、かかわりをもちつづけようとしている。そのかかわりかたと関心とが、この本のすべてだといってもいい。」

 1980年に単行本刊行されたときの題名は、『ハードボイルド以前 アメリカが愛したヒーローたち』。文庫版の『アメリカン・ヒーロー伝説』より、内容への示唆は明瞭だったかもしれません。

 1936年生まれの著者は、大日本帝国が敗戦した1945年には、9歳。
 16〜18歳になったのは、52〜54年ですよね。ケネディ大統領がベトナムに軍を派遣した60年には、24歳。
 「アメリカ映画の強い影響」が「いまも完全に治癒していない」「傷痕」だ、って感じ方が、ただのアメリカ大衆文芸史概説に納まらない内容をこの本に与えていると思います。

 そうした著者が、アメリカを「巨大なジョーク」と感じても、なお「かかわりをもちつづけようとしている」屈折した愛情の在り方を読みとってゆくのが、この本の読みどころ。
 「屈折した愛情」は、まず、今は忘れ去られたような大衆文芸のヒーローたちに注がれています。それから、無数の読者たち。
 けど、その無数の読者大衆は、同時に扇情的な犯罪実話に悪趣味な興味・関心を注ぐ存在でもあることも書かれています。
 大衆のヒーローと読者、それから、作家、出版人が含まれてるアメリカ社会、その在り方が、著者にとって「巨大なジョーク」であるかのように思えたのかもしれません。

 今アタシたちが、実際に生きて暮らしてるこの国にも同型の状況がみられますよね。 そうした読者・大衆と大衆文芸のヒーローたちの間にいる、作者や出版人への著者の理解にも鋭敏なものがみられます。
 その辺を読み解いてゆくことは、この本を読む楽しみにつながることでしょう。

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紙の本プロレス少女伝説

2001/03/18 00:55

1980年代の日本をコラージュしたノンフィクション・ノヴェル

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 1983年、フリーライターの著者、井田真木子は、知人に誘われ女子プロレス会場にはじめて脚を運びました。当時は全日本女子プロレスで、クラッシュ・ギャルズのブームが、ちょうど盛り上がろうとしていた頃。

 ローティーンの女の子向け雑誌に、女子プロレスラーへの取材記事企画を持ちかけた著者は、会場に通いはじめます。

 「数ヵ月前、初めて会場に行ったとき、女子プロレスの観客はおおむね中年男性で占められていた。彼らは、裂きイカを口にくわえてビールをちびりちびりやり、ときどき、リングにのんびりした野次を飛ばす」
 「こういった会場の隅に、小学生らしい年代もまじえたローティーンの女の子たちの一群が出現しはじめたのは、いつの頃のことだろう」

 これは、K-1とか、パンクラスとか、格闘技が、マスコミを通じて世間に認知されるようになるより以前の話。北斗晶やアジャ・コングが、全日本女子のリングのうえで、ベビー・フェイスとヒールってプロレス的な約束事を無意味にしちゃう直前の話です。

 第22回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したこのノンフィクション。クラッシュ・ギャルズの活躍、そして解散・引退ってうねりを縦軸に、中国帰国子女のレスラー天田麗文、アメリカからニホンに来てレスラーになったデブラ・ミシェリー、そして柔道から女子プロレスに転向した頃の神取しのぶの3人に肉薄したドキュメント文学。

 この国の社会の内でまだ認知がされていなかった頃の女子プロレスの内で、さらに異分子であった3人の肉声が、1980年代の女子プロレスと日本とをコラージュしてゆきます。

 著者の井田真木子は、とても特異な才能に恵まれた人と思います。彼女の書くもの、アタシは、ありきたりのルポルタージュとは思わない。
 彼女はいつも、自分が「部外者」であることをわきまえながら、そのことを踏まえて、取材対象の肉声を聞き出してゆきます。
 ですから、大所高所からの裁断でまとめられたドキュメントとも違う。井田の書くものは、いつも基調が生活者の視点にあって、この国での生活のリアルが描き出されてゆきます。

 ヘタな小説よりよほど読みごたえのあるノンフィクション・ノヴェル、と呼んでも、決して、著者や、この本を誹謗したことにはならないでしょう。

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紙の本はじめての構造主義

2001/03/17 22:21

20世紀的思想の平易でベーシックな入門ガイドブック

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 システム社会学の橋爪大三郎氏の若い頃の著作。平易な語り口が、ともかくわかり易いです。それから、数学の話にかなりページ数が割かれてるところがよいです。
 「構造主義とは、どんなものの考え方か」ベーシックなところが確実に理解できます。ソシュール言語学〜記号論のトレンドへの言及が薄いのが欠点と言えば欠点でしょうか。
 でも、文科系の人が、数学的な構造のトレンドを理解するにはよいし、理科系の人が、文化系的な構造概念の手掛かりを得るにも割とよいです。
 入門・概説書としてはハイ・クオリティー。ブックガイドも充実してます。

 「構造主義」とは19世紀までのものの考え方を、根本のところで変更した、または、無視できない疑問を提起した、20世紀の大きな動きのひとつなのですが、世間では、「構造主義はもう死んだ」みたいな意見も、聞くことはあります。
 構造主義が死んだならば死んだで、どの辺が理由になって、どのように乗り越えられたのか、乗り越えようとされているのか、考える事は大事でしょう。その辺に言及しない「構造主義は古い」的な言説はナンセンなものです。
 よく言われることですけれど、構造主義が否認される場合ですら、否認には構造主義が提起した問題構成が利用されること多いからです。

 読者がその辺のことを考えようとするには、うってつけの1冊です。

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20年の時を隔てた幻視の光景とミステリー

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 「小学生のときから、この道を通るたびに看板を見あげて、いつも考えてたんだ。探偵ってほんとにいるんだなって」

 このままゆけば半年後には廃業見込って国際探偵・巽事務所を訪れた女子高生は、アメリカ帰りの私立探偵、飛鳥井に、「私生児である自分の父親を探してほしい」と依頼した。依頼料はバイトで貯めたって話の10万円。
 少女は、「母親には絶対知られない」を依頼条件にすると、サイン代わりに、にやにや顔の猫のイラストを残して去っていった。

 「60年代末〜70年代はじめの大学紛争時代、少女の母もメンバーだった文学サークルの幹部、今は忘れられた小説『三匹の猿』の作者が、父親である可能性が濃厚」こんな内容の報告を用意した探偵を、しかし少女は訪れなかった。約束の日限が過ぎても。

 数週間後、探偵は、失踪した少女を案じる母親の来訪を受ける。半年前にも清里で起きた女子高生惨殺事件、第二の被害者は少女なのか。依頼条件にこだわる事が依頼者本人の不利益につながると判断した飛鳥井は、母親の依頼で少女の探索を請負う。

 半年前の被害者は眼を抉り出されていた。連続殺人事件の新たな被害者は、耳が斬り落とされた屍体で発見されている。見猿・聞か猿・言わ猿。『三匹の猿』の寓意に、ことなかれ主義へのブラック・ユーモアを感じる探偵。
 屍体と、三匹の猿の暗号に不安を抱きつつ、調査対象でもある母親と、依頼人の追跡を請負った探偵、奇妙な関係の二人が、中央フリー・ウェイを清里へ向かう。
 20年を過ごしたアメリカから舞い戻った私立探偵は、この国のつい昨日の日々を手繰ってゆく探査に脚を踏み入れる。アメリカ仕込みのプロフェッショナルは、仕事の範囲をあえて踏み出し、彼が見知らぬこの国の光景の内で事件を追う事に。
 彼が知る20年前の日本とはあまりに変わった20世紀末の光景に探偵〔プライベート・アイ〕がみるものは?

 プライベート・アイ・ミステリー、と呼ばれる、「私立探偵飛鳥井の事件簿」第一長編『三匹の猿』は、一冊めの中編集『道 −ジェルソミーナ−』(集英社文庫 ISBN:4-08-747112-8)収録の一作目、『硝子の指輪』に次いで書かれた、連作第二作めの作品です。

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紙の本歴史とは何か

2001/03/17 19:59

歴史についての言説の妥当性は、どのように考えられるか

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 イギリスの現代史家(専門は両対戦間の外交史やロシア革命史)の公演録。聴衆に向けて、「歴史とは何か」って歴史哲学の主題を平易に語り通した、あまりにも有名な本。古典的名著と言えましょう。

 「歴史哲学」と言うと、しちめんどくさい観念論ではないか、と懸念されるかもしれませんけれど。要するに「歴史とは何か(=歴史哲学)」とは、「歴史を巡る思考・言説の妥当性はどのように考えてゆけば成り立つか」と言った主題であるにすぎません。

 実はこの本の原著が刊行された1961年は、フランスでミッシェル・フーコーが、20世紀的な歴史書の大著『狂気の歴史』を刊行した年でもあります。
 一方、カーの『歴史とは何か』は19世紀の歴史学のスタンダードな考え方がその限界まで思考を巡らした内容、と言えると思います。
 フーコーがその20世紀的な歴史哲学(=歴史とは何か)の書『知の考古学』を刊行したのは1969年なのですけど。1961年って年に、新・旧の歴史学・歴史哲学の大著が刊行されたことは興味深いことと、思います。

 「『歴史とは何か』は19世紀的な歴史哲学の限界」と書きましたけど、これは古臭い、とかつまらないとかって意味ではありません。後、もう1歩踏み出せば、すでに構造主義的な20世紀思想の歴史世界に入らざるを得ないんだけど。その手前でギリギリ踏みとどまってる、とも採れる思考の筋道は緊張感があってスリリングです。
 一般向けの歴史書は、その結論もさることながら、専門の研究者が結論に至った思考の筋道こそを読取るべきもの、と言われます。そうした読み取りの為のとても貴重な内容が、『歴史とは何か』で語られている「歴史についての妥当な思考・言説」についての思考の内には、含まれています。

 カーの『歴史とは何か』は、今読んでもおもしろい本です。いいえ、「今・読んでも」ではなく、21世紀に入ったアタシたちが、「20世紀とはどのような歴史だったのか?」問い直すため「今・読んでこそ」、おもしろいのでしょう。
 だから「古典的名著」なのです。

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