稲葉振一郎さんのレビュー一覧
投稿者:稲葉振一郎
紙の本私という迷宮
2001/05/08 14:09
敵を間違えているのでは?
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
予告では大庭健・村上春樹・香山リカの共著という触れ込みだったはずが結局大庭単著で村上、香山のコメントという体裁になってしまった本書。「自分探しはやばいぞあぶないぞ」という趣旨自体は大変に分かりやすいしほぼ賛成なのだが、相変わらず永井均へのちょっかいというか、永井独我論への批判というより文句、因縁、繰り言が目立つ。これって本当に必要なのか?
今回も注意深くというかいいわけがましく、大庭は「永井独我論自体というよりそれが誤読されて「自分探し」のツールにされていることを問題にしたいのだ」という趣旨のことを書いている。これに対しておそらく永井はまたしても「それなら俺に文句を言う筋合いではなかろう」と繰り返すのみであろう。いまから不毛なやりとりが予想できてしまう。
平たく言えば、大庭が「バカがあんたの言うことを勘違いしてバカやってるぞ、どうするんだ?」と詰めているのに対して、永井は「そんなことにまで責任はとれない」ということではなかろうか。
大庭が永井に対して永井印独我論の製造物責任を問いたい気持ちは何となく分かる。「科学者の社会的責任」ならぬ「哲学者の社会的責任」という奴だ。それに対して永井の方は、そういう大庭の道学者ぶり——「哲学者であること」より「道学者であること」を優先するのみならず、この優先順位を疑ってもみないし、あろう事かそういう姿勢で自分にちょっかいを出してくること——が我慢ならないのだろう。道学者ではなく純然たる哲学者としての倫理学者、「善なる嘘」より「邪悪な真理」を重んじる倫理学者たらんとする永井には。
ただ、本当に永井は「誤読するバカにまで責任は持てない」と居直っているのかと言えば、そうでもないような気がする。永井も永井なりの仕方で道学者をすることがあるのでは、と。『これがニーチェだ』(講談社現代新書)には「どのように世間的にはおぞましく危険なものと見なされ忌避され抑圧される欲望であっても、世の中と折り合いをつけてそこそこ実現し充足することは不可能ではない。しかしそれは倫理的というより政治的な力だ。」という趣旨のことが述べられていた。これはある意味できれい事だ(「常に可能だ」と言うならば欺瞞になってしまう)が、とても重要な指摘だ。
乱暴に言えば、大庭はバカを説得してバカなことをやめさせようとしている。それに対して永井的なスタンスというのは、宮台真司の言う「バカが伝染らないようにする」に通じるものがある。大庭的アプローチは一見バカに優しい。「バカでも話せば分かる」「バカは治る」と。こういうアプローチには普通「お人好し」「性善説」という罵倒が飛ぶものだが、ここでは別の角度から考えてみたい。これは本当に「バカに優しい」立場なのだろうか。「バカでも話せば分かる」とすれば、「バカが治る」とすれば、その限りでバカはバカではなくなるわけである。結局それは「バカの存在を認めない」論理ではないだろうか。「バカな奴」はバカが治る可能性があるからこそ優しくしてもらえているだけではないだろうか。しかしもしどうしても治らないバカがいたら、いったいどうなるんだろうか。
大庭の論理が「バカやキチガイやヘンタイやワルでも治る」というものだとすれば、ありうべき永井的道学とは「バカでもキチガイでもヘンタイでもワルでも何とか世の中と折り合いをつけることができる」である。治らなくても必ずしも構わない。バカのまま、キチガイのまま、ヘンタイのまま、ワルのままでも別によいのだ、他の世の中とどうにか折り合いがつきさえすれば。もちろん、「治る」ことに比べて「折り合いをつける」ことの方が易しいという保証は全くないが。(多分大庭的道徳の最悪の可能性が「洗脳」だとすれば永井的道徳のそれは「監禁」「追放」だろうか。そして双方にとって「抹殺」「無視」「忘却」?)
紙の本動物会議
2003/06/04 13:20
誰のための本?
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本書は以前『どうぶつ会議』と題して「岩波こどもの本」として小判のカラー絵本で出ていたが、長らく品切であった。その他にも「ケストナー少年文学全集」版が入手可能であったが、残念ながら絵本扱いではなく、挿絵がモノクロになってしまっていた。その意味で今回のカラー絵本としての復刊は大変意義深いものであるはずだった——が。
いったいなぜ漢字に振り仮名が振られていないんだろう。
いったい誰のためにこの本は作られているんだろう。
理解に苦しむ。
2001/07/05 11:34
留保付きでおすすめ(翻訳者はまじめにやろう)
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
著者ハッキングの本はこの他に『表現と介入 ボルヘス的幻想と新ベーコン主義』(渡辺博訳、産業図書)、『言語はなぜ哲学の問題になるのか』(伊藤邦武訳、勁草書房)、『偶然を飼いならす』(石原英樹、重田園江訳、木鐸社)の3冊が邦訳されている。『表現』はパラダイム論と科学的実在論を同時に擁護するという一見離れ業に見える作業を、華々しい理論ではなく地道な観察や実験という営為に注目しながら行う、独特なスタイルの科学哲学入門書。『言語』はホッブズ、ロックではじめてデイヴィドソンでしめる、きわめて簡明な英米言語哲学への入門書であると同時に、ミシェル・フーコー『言葉と物 人文科学の考古学』(渡辺一民・佐々木明訳、新潮社)への注釈としても読むことができる好著。『偶然』は彼のライフワークとも言うべき、数理統計学・確率論の科学哲学と社会制度としての統計の歴史研究についての著作である。
実験や統計を探究の対象としているところからも伺われるように、著者はフーコーの影響を受けて「未熟な科学」や科学の泥臭い実践としての側面に注意を払ってきた。おそらくリチャード・ローティーなどよりまっとうにプラグマティズムの伝統を引き継ぐ哲学者である。本書は引き続き「未熟な科学」としての心理学、精神医学に、多重人格という切り口で迫った著作である。
著者はここで、19世紀に見いだされ、20世紀後半の北米において未曾有の流行をみている多重人格障害を歴史的な観点から批判的に吟味する。多重人格障害なるものの存在が社会的に認められ、その研究と治療の実践が社会的な制度として確立しながら、当の障害そのものの正体が一向にはっきりしないこと、しないままに制度としての多重人格が定着し、人々の想像力をあおっていること、とりわけ記憶と人間のアイデンティティを直結させる記憶政治学memoropolitics(言うまでもなくフーコーのanatomopolitique, biopolitiqueのひそみに倣っている)の重要な媒体となっていること、を力強く論じている。論点は多岐にわたってやや読みにくく、かなり難解なところもあるが、非常に面白い。
ただその面白さの多くは、多重人格の歴史を広範かつ多面的に追っていくところにあるために、この邦訳書の惨憺たる有様はその価値を半減させてしまう。科学哲学にも心理学・精神医学にも素養がないらしい訳者がしばしば間抜けな訳語を当てているのはご愛敬とも言えるが、これからきちんと勉強していきたい素人にはひどく不親切なことにもなろう。(「並列分布処理」はまあご愛敬だが、「可変性」はvariableのことかひょっとして?)読みにくい部分にはひょっとしてかなりの誤訳もあるのかも知れない。(大筋はわかる、しかしこれは哲学書なのだ。わかんないときは素直にプロを呼んでほしい。)更に何より許せないのは、読んでいて参照文献を調べたくて巻末の文献目録を見ると、しばしばリストに載っていないのだ! あれと思って積ん読の原著Ian Hacking, Rewriting the Soul: Multiple Personality and the Sciences of Memory, Princeton University Pressを見てみると、ちゃんとある。つまり邦訳の文献目録はなぜだか知らないが穴だらけなのだ。重要な文献ほど落ちていると言っていいくらいのひどさである。
多分その道のプロはこの邦訳は買わずに原著を読むべきなのだろう。我々素人も、せめて文献リストだけは原著からコピーしておきたい。