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  3. 稲葉振一郎さんのレビュー一覧

稲葉振一郎さんのレビュー一覧

投稿者:稲葉振一郎

18 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

留保付きでおすすめ(翻訳者はまじめにやろう)

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 著者ハッキングの本はこの他に『表現と介入 ボルヘス的幻想と新ベーコン主義』(渡辺博訳、産業図書)、『言語はなぜ哲学の問題になるのか』(伊藤邦武訳、勁草書房)、『偶然を飼いならす』(石原英樹、重田園江訳、木鐸社)の3冊が邦訳されている。『表現』はパラダイム論と科学的実在論を同時に擁護するという一見離れ業に見える作業を、華々しい理論ではなく地道な観察や実験という営為に注目しながら行う、独特なスタイルの科学哲学入門書。『言語』はホッブズ、ロックではじめてデイヴィドソンでしめる、きわめて簡明な英米言語哲学への入門書であると同時に、ミシェル・フーコー『言葉と物 人文科学の考古学』(渡辺一民・佐々木明訳、新潮社)への注釈としても読むことができる好著。『偶然』は彼のライフワークとも言うべき、数理統計学・確率論の科学哲学と社会制度としての統計の歴史研究についての著作である。
 実験や統計を探究の対象としているところからも伺われるように、著者はフーコーの影響を受けて「未熟な科学」や科学の泥臭い実践としての側面に注意を払ってきた。おそらくリチャード・ローティーなどよりまっとうにプラグマティズムの伝統を引き継ぐ哲学者である。本書は引き続き「未熟な科学」としての心理学、精神医学に、多重人格という切り口で迫った著作である。
 著者はここで、19世紀に見いだされ、20世紀後半の北米において未曾有の流行をみている多重人格障害を歴史的な観点から批判的に吟味する。多重人格障害なるものの存在が社会的に認められ、その研究と治療の実践が社会的な制度として確立しながら、当の障害そのものの正体が一向にはっきりしないこと、しないままに制度としての多重人格が定着し、人々の想像力をあおっていること、とりわけ記憶と人間のアイデンティティを直結させる記憶政治学memoropolitics(言うまでもなくフーコーのanatomopolitique, biopolitiqueのひそみに倣っている)の重要な媒体となっていること、を力強く論じている。論点は多岐にわたってやや読みにくく、かなり難解なところもあるが、非常に面白い。
 ただその面白さの多くは、多重人格の歴史を広範かつ多面的に追っていくところにあるために、この邦訳書の惨憺たる有様はその価値を半減させてしまう。科学哲学にも心理学・精神医学にも素養がないらしい訳者がしばしば間抜けな訳語を当てているのはご愛敬とも言えるが、これからきちんと勉強していきたい素人にはひどく不親切なことにもなろう。(「並列分布処理」はまあご愛敬だが、「可変性」はvariableのことかひょっとして?)読みにくい部分にはひょっとしてかなりの誤訳もあるのかも知れない。(大筋はわかる、しかしこれは哲学書なのだ。わかんないときは素直にプロを呼んでほしい。)更に何より許せないのは、読んでいて参照文献を調べたくて巻末の文献目録を見ると、しばしばリストに載っていないのだ! あれと思って積ん読の原著Ian Hacking, Rewriting the Soul: Multiple Personality and the Sciences of Memory, Princeton University Pressを見てみると、ちゃんとある。つまり邦訳の文献目録はなぜだか知らないが穴だらけなのだ。重要な文献ほど落ちていると言っていいくらいのひどさである。
 多分その道のプロはこの邦訳は買わずに原著を読むべきなのだろう。我々素人も、せめて文献リストだけは原著からコピーしておきたい。

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紙の本

紙の本契約の時代 日本社会と契約法

2001/05/15 13:08

「民法の内田」のもう一つの顔

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 期待に違わぬ好著である。10年前の『契約の再生』(弘文堂)は、「契約の死」——主として「意思説」に立脚した古典的契約モデルの機能不全——と新動向としての関係的契約理論をめぐる英米の研究動向をよく紹介してくれる勉強ノートという趣が強かったが、今回の著作は近年の規制緩和やグローバリゼーションの動向をも踏まえ、オリジナルな内田バージョンの関係的契約理論——実証社会科学的知見を十分に踏まえつつも決して法社会学ではなく、あくまでも解釈論としての——が積極的に展開され、現代日本の法状況のなかでその切れ味が試されていく。第6章での借地借家法・定期借家権をめぐる議論など、管見の限りではいまいち迫力を欠くものが多い反規制緩和論・慎重論のなかでは明晰さと説得力で飛び抜けている。また第7章で紹介されている契約法の国際化の話題については、私は不勉強にして今回が初耳であり、大変勉強になった。各種試験必携の内田『民法』(東京大学出版会)しか知らないという受験生の君、君は大勘違いプラス大損している。
 印象深かった今ひとつのポイントは、今更ながらではあるが実証社会科学的、あるいは政策志向の立場からの法律観と法解釈学的、あるいは司法の立場からの法律観の食い違いであった。この辺のギャップを埋めようとする努力はもちろん多々なされていて、たとえば「法と経済学」「法と社会」とかいった新領域が既に確立しているのだが、どちらかというと前者からの後者への越境、挑戦といった趣が強い。これに対して本書などは、逆の方向を目指しているめざましい例と言えるのではないか。
 著者の議論は私にはこう解釈できる。すなわち、政策志向の観点からは法は人や社会の振る舞いを事前的にコントロールする行為規範とみなされ、もっぱらその観点から評価されがちである。たとえば損害賠償や刑罰といった制度は、不法行為や犯罪を防止・抑止する機能において評価されるわけである。しかし司法的な観点にとっては法は主に裁判規範である。つまり紛争が現実に発生してしまったその後始末をする事後的な機能が重視されているのである。このリスク管理の二つの次元、あるいは政策・法を評価する二つの次元は、互いに還元できない関係にあるのではないだろうか。たとえば労働災害や製造物責任における無過失責任とか、あるいはそもそも過失責任まで含めて損害賠償のための保険というものが現に成立していることの意味をどう評価するのか? たとえばモラル・ハザード論は、保険は保険加入者の油断を呼び込み、事故発生率を上げてしまうという危険を指摘し、この観点から公的保険への批判がなされたりもするが、この論法で賠償責任保険の批判をする論者を寡聞にして知らない。この辺は一体どうなっているのだろう?
 例えば第6章で著者は以下のように書いている。
 「経済合理的な理由もなく立ち退きを迫る家主はいないはずだ、という議論がなされることがあるが、紛争の現実を知らないというほかない。借家法1条の2(更新拒絶や解約申し入れに「正当事由」を必要とするとした——引用者)自体、相当悪質な事例が目立って、立法に踏み切ったという事情がある。(中略)もちろん、そのような悪質な事例は現実には例外的事象であろう。しかし、例外現象こそが訴訟になり判決にまで至ることが多いのであり、事後的紛争解決の観点からは、まさにそのような病理的現象でこそ機能する規範が求められるのである。」(230-231頁)
 本書が提起している法の二重の機能というか二つの顔の問題は、社会科学全般にとっての重要テーマでもあろう。一人でも多くの方に読んでほしい好著だ。

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紙の本

紙の本生殖の哲学

2003/05/18 16:08

怪物を歓待する

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

一読して頭を抱える。相変わらずあちこちにアラやでたらめが目立つ。しかし今回は基本的に有意義なことを書いているような気がしてならない、というか、気分のレベルでは肯定するぞ私はとりあえず。
 前著『レヴィナス』ではしめくくりが「繁殖」論であり、次なる課題として肯定的思想としての「人間家畜論」が提起されていたのだが、その展開が早くもここに開始されている。それは『ドゥルーズの哲学』においてよりも明快かつ積極的に、ドゥルーズ継承のひとつのあり方をネグリ&ハートなどよりまっとうに提示するものになっている。
 時論的にいえば本書のテーマは優生思想批判の批判である。既存の左翼の生殖技術批判、生殖技術を悪しき生−権力と見て社会的にコントロールしようという志向を批判し、むしろ逆に「できることはなんでもやれ」と生殖技術の社会化、その肯定的な生−権力への奪還を主張するその論法は一昔前、科学批判以前の伝統的進歩主義左翼を思い起こさせる(生殖技術に女性解放の希望をかけたファイアーストーンなど旧ラディカルフェミニストも)。実際それだけなら旧左翼と、そしてネグリ&ハートと変わらないわけだが、一点重要な違いがある。解放された生殖技術の恩恵をこうむる・収穫を受け取る主体は、われわれではない——プロレタリアートでもなく、人間でもない。それは怪物たち、生殖技術によって出現するであろう怪物たち——つまり、ダナ・ハラウェイのいう意味でのサイボーグ——である、というのだ。ここにその思考はマルクス主義的左翼の臨界を越え、逆説的な形でヨナスやレヴィナスと通じていく(ヨナスやレヴィナスにとって来るべき次世代はなお「人間」であろうがしかしそれはやはり「他者」である)。あるいは『ナウシカ』を思い出されてもよい。これに比べればネグリ&ハートの「マルチチュード」なんてしょせん人間であるから、たかがしれている。
 もちろんこうした議論はある意味過度の楽観主義とも言える。そして本書には、それへの戒めにつながりうる議論も見られる。すなわち、生殖技術・優生思想とは人間家畜化であるわけだが、人間家畜化はすでに既定の事実であって否定してもしようがない。しかし人間家畜化が家畜化の一種である以上、しょせん優生思想にできることもせいぜいそんなところでたかが知れている。自然選択と人為選択は結局のところ連続しているのであり、生殖技術もダーウィン的進化の地平を越えられない——と。だとすれば、アホな優生思想家が夢見るような「神のごとき人々」も期待できないのと同じくらい、小泉が期待する「想像を絶する怪物」も望み薄ではないか、とぼくなどは思う。
 しかし一応この「怪物」について考えてみることは意味のあることではないか。時に「怪物」を生む生殖技術を、そして自然を肯定できないことには、何事も始まらないのではないか。この問題提起は至当であると思える。

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紙の本

戦後思想としての手塚治虫

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書はある意味で小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』(新曜社)と同じテーマを探っている。すなわち、戦後思想の原点を、語りえぬものとしての戦争体験を語ろうとする試みと捉えている。しかしながら驚くべきことに、その思想的測定深度においてこの小著は小熊の大著をしのいでいる。それは必ずしも、小熊に比べて戦線を限定しているからというだけではあるまい。
 たとえば小熊は江藤淳や吉本隆明のフェイク性について語るとき、戦後民主主義の虚妄を告発する彼ら自身の言説が、自らは戦場を見ていないという事実から逃避するための虚妄であったことを指摘して、斬って捨てるだけである。しかしそのような告発に対して、吉本も、そしてもし生きていれば江藤もおそらく何らの痛痒をも感じなかったであろう。なんとなれば他ならぬ吉本と江藤自身、自らの言説の虚妄なることを承知の上だったろうからだ。そのうえで彼らならこう居直れる。「われわれは戦場には行かなかったが戦時下を生きた、しかしおまえは戦争はおろか安保すらみていないではないか」と。
 つまり江藤や吉本は空虚であるがゆえに戦後民主主義の虚妄を撃つ資格がないのではない。逆にその空虚さこそが戦後民主主義告発の彼らなりの武器なのだ。戦争体験の継承と思想化が「語りえぬものを語る」ことに他ならない以上、その困難さを回避して安易なお題目に堕したり、あるいは逆に戦後言説は、自らの虚妄に深いコンプレックスを抱くがゆえに自他の虚妄一般に敏感な彼らの格好の餌食なのである。
 「語りえぬものを語る」ということの困難さへの自覚が不足し、それにふさわしい作法を磨けなかった戦後思想は、結局世代の壁を越えられなかった、というのが小熊の結論なら、江藤や吉本の、戦後を自らの低みにまで引き摺り下ろすやり口が結局勝ったということになりかねない。
 それに対して大塚は、手塚治虫の「アトムの命題」、「記号的身体で死すべき身体を描く」という難題が戦後のマンガ表現のなかに明確に継承されていくことを指摘し、それを手塚の戦争体験と戦後思想として読みかえようとする。そうすることによって、世代の壁を越えて手塚の「語りえぬものを語る」という課題が今へと連なっていることが明らかにされていく。江藤や吉本の戦後批判に対抗するには、この道こそが本道ではないだろうか。

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紙の本

逆説かつ順接

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 いろいろ毀誉褒貶あるようですが、やっぱり素直にすごいとか思ってしまうわけですよ。これにせよ続編『キャラクター小説』にせよ、物語を批判し物語に抵抗する力を養い、物語の向こうにある(かもしれない)文学を憧憬する、という逆説のために書かれつつ、順接的に正面からの小説マニュアルとしても通用する、というものになっている、というのは。
 ま、こういうマニュアルで小説の書き方覚えるやつがぞろぞろ出てくるのは気味悪いし、むしろこういうマニュアルは本来の物語への欲望とか文学とかを抑圧する力をもってしまうのではないか、という疑問も根拠ありですが、現状はそういう抑圧されるべき「本来」の「天然」の力自体が衰弱しているのかもしれないし。著者のマニュアルは、たしかに元気いっぱい「天然」の「野生児」には抑圧的にはたらくかもしれないが、著者の想定している読者は彼らではなく、かといってマニュアルを器用に使いこなすことにだけは長けた優等生でもなく、気力体力もなく器用さもない最低の子供たちに、とりあえずマニュアル練習を通じて最低の体力と技術だけをつけさせよう、というのが趣旨なわけで。

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紙の本

紙の本私という迷宮

2001/05/08 14:09

敵を間違えているのでは?

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 予告では大庭健・村上春樹・香山リカの共著という触れ込みだったはずが結局大庭単著で村上、香山のコメントという体裁になってしまった本書。「自分探しはやばいぞあぶないぞ」という趣旨自体は大変に分かりやすいしほぼ賛成なのだが、相変わらず永井均へのちょっかいというか、永井独我論への批判というより文句、因縁、繰り言が目立つ。これって本当に必要なのか? 
 今回も注意深くというかいいわけがましく、大庭は「永井独我論自体というよりそれが誤読されて「自分探し」のツールにされていることを問題にしたいのだ」という趣旨のことを書いている。これに対しておそらく永井はまたしても「それなら俺に文句を言う筋合いではなかろう」と繰り返すのみであろう。いまから不毛なやりとりが予想できてしまう。
 平たく言えば、大庭が「バカがあんたの言うことを勘違いしてバカやってるぞ、どうするんだ?」と詰めているのに対して、永井は「そんなことにまで責任はとれない」ということではなかろうか。
 大庭が永井に対して永井印独我論の製造物責任を問いたい気持ちは何となく分かる。「科学者の社会的責任」ならぬ「哲学者の社会的責任」という奴だ。それに対して永井の方は、そういう大庭の道学者ぶり——「哲学者であること」より「道学者であること」を優先するのみならず、この優先順位を疑ってもみないし、あろう事かそういう姿勢で自分にちょっかいを出してくること——が我慢ならないのだろう。道学者ではなく純然たる哲学者としての倫理学者、「善なる嘘」より「邪悪な真理」を重んじる倫理学者たらんとする永井には。
 ただ、本当に永井は「誤読するバカにまで責任は持てない」と居直っているのかと言えば、そうでもないような気がする。永井も永井なりの仕方で道学者をすることがあるのでは、と。『これがニーチェだ』(講談社現代新書)には「どのように世間的にはおぞましく危険なものと見なされ忌避され抑圧される欲望であっても、世の中と折り合いをつけてそこそこ実現し充足することは不可能ではない。しかしそれは倫理的というより政治的な力だ。」という趣旨のことが述べられていた。これはある意味できれい事だ(「常に可能だ」と言うならば欺瞞になってしまう)が、とても重要な指摘だ。
 乱暴に言えば、大庭はバカを説得してバカなことをやめさせようとしている。それに対して永井的なスタンスというのは、宮台真司の言う「バカが伝染らないようにする」に通じるものがある。大庭的アプローチは一見バカに優しい。「バカでも話せば分かる」「バカは治る」と。こういうアプローチには普通「お人好し」「性善説」という罵倒が飛ぶものだが、ここでは別の角度から考えてみたい。これは本当に「バカに優しい」立場なのだろうか。「バカでも話せば分かる」とすれば、「バカが治る」とすれば、その限りでバカはバカではなくなるわけである。結局それは「バカの存在を認めない」論理ではないだろうか。「バカな奴」はバカが治る可能性があるからこそ優しくしてもらえているだけではないだろうか。しかしもしどうしても治らないバカがいたら、いったいどうなるんだろうか。
 大庭の論理が「バカやキチガイやヘンタイやワルでも治る」というものだとすれば、ありうべき永井的道学とは「バカでもキチガイでもヘンタイでもワルでも何とか世の中と折り合いをつけることができる」である。治らなくても必ずしも構わない。バカのまま、キチガイのまま、ヘンタイのまま、ワルのままでも別によいのだ、他の世の中とどうにか折り合いがつきさえすれば。もちろん、「治る」ことに比べて「折り合いをつける」ことの方が易しいという保証は全くないが。(多分大庭的道徳の最悪の可能性が「洗脳」だとすれば永井的道徳のそれは「監禁」「追放」だろうか。そして双方にとって「抹殺」「無視」「忘却」?)

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紙の本

不毛な批判はやめよう。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 評判もよいが、他方で何かとてつもなく見当違いの批判のされ方をしている。典型的なのはたとえば「『家庭から夫をリストラせよ』という岡田のご託宣は、単なる夫の責任回避の言い訳に転じがちなのではないか」というものである。その危惧自体はもっともだ。しかし、ではどうすればといいというのか? そもそも、普通に考えれば家事・育児を模範的にこなしてきた「理想的夫・父親」の部類に属するはずの岡田がこのような提言を行うことの意味を、こうした批判はまじめに考えているのだろうか? 
 そもそも「夫リストラ」云々は、本書の趣旨からすれば枝葉末節とは言わないまでも系論に過ぎない。では本論は何かと言えば、まず第一に「家庭とは子供、老人、障害者その他要保護者をサポートするという機能を負ったシステムである」(その系論として「子供のいない夫婦は法的に「結婚」していようと「同棲」に過ぎず、「家庭」を構成しない」という主張が出てくる)。そして第二に、「上記の機能にあわせて、家庭を効率的にマネジメントしていかねばならない」、この二点に尽きる。この二点を踏まえずに本書にあれこれコメントする論者はすべて外しているというか、問題外である。
 例の「夫リストラ」提言は言うまでもなく、家庭経営の効率化の要請から出てくる。家庭も経営体である以上、意思決定系統を統合して、責任の所在をはっきりさせねばならない。つまり「誰がボスか」をはっきりさせておかねばならないのだ。もちろん、日常生活の雑事をこなすにおいては、機械的な分業よりも弾力的な対応が望ましいだろう。しかしクリティカルな局面における決断や、全体のトーンを決めるグランドデザインの策定においては、その主体は一元化しておくことが望ましい。もしそれを夫婦で完全に対等に話し合って決めようというのであれば、夫婦の間で十分な意思統一、意見の一致が見られなければならない。しかしそのコストたるや、並大抵のものではない。
 先に挙げたような批判は、言ってみれば資本主義的な企業に対して「経営が民主的ではない」と文句をつけるようなものだ。しかしながら、資本主義社会においてほとんどの労働者自主管理企業がうまくいかなかったか、あるいは「普通の会社」になっていったこと、あるいは旧ユーゴスラヴィアのいわゆる「自主管理」の末路の持つ意味を考えれば、そのはらむ問題性というか甘さは明らかだろう。別に子供(あるいは要介護老人・障害者等)を抱える家庭は、直接には、誰と競争しているわけでもない。しかしこのような家庭の多くは、日々サバイバルをかけた苦闘のさなかにあり、大きなストレスにあえいでいる。マネジメントを効率化しなければ、精神的にも物質的にもやっていけないのだ。
 「夫婦は対等であるべきだ」なんてのは、理念としては、いまさら言うまでもなくあたりまえのことである。問題はその要件をクリアした上で、なおかつ効率的に、ストレスの少ない形で家庭を運営していくにはどうすればよいか、である。その問題を考慮に入れない『フロン』批判を、私は認めない。そしてその課題は、実は社会主義崩壊後の資本主義批判と同程度に困難な代物なのだ。

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紙の本

紙の本心はどこにあるのか

2001/05/22 15:52

現代哲学入門

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 20世紀半ばまでの哲学のもっとも中心的なテーマは「言語」だった。人間がものを考えるためには、言語がなければいけない。言語がなくてもものを考えられないわけではないかもしれないけど、そういう言語なしの思考を他人が外側から観察することはできない。だから人間の思考が何であり、どのようにはたらくかを考えるためには、まず言語とは何かを考えなければならない——大ざっぱに言うとこんな感じだ。
 現代哲学の中心テーマはそれに対して「心」である。言語哲学全盛の時代には、外側から観察不能なブラックボックスとして敬遠されがちだった「心」だが、コンピュータ技術とコンピュータ科学の発展、脳神経科学の発展、更にそれらを承けての心理学の変貌によって事情は変わってきた。神経科学の発展は話され書かれた言葉以外のルートから人間の心を観察し、更にそれを他の動物と比較する可能性を開き、コンピュータの発達は、コンピュータの行う「計算」と人間の思考はどこがどう違ってどこがどう似ているのか、という問題を提出した。
 我々は自分で考え自分で判断するロボットを作れるのだろうか。いやそもそも、そのロボットが何ができたときに、我々はそれが「自分で考え自分で判断している」と判定できるのだろうか、いったいその規準は何か? 現代哲学の中心問題の一つは、たとえばこういうものだ。そういう事情について学ぶには、たとえばこの本からはいるといい。

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紙の本

統治の再編成としての大正デモクラシー

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 本書はフーコー権力論を日本近代史、具体的には大正デモクラシーに適用した成果である。こういう仕事は初めてではない(今では入手不可能となった榎並重行・三橋俊明『別冊宝島 思想の測量術』『細民窟と博覧会』他は、主に開化期を対象としていた)が、刑事政策、社会事業、精神医療、と「ミクロ政治学」をやるときのおきまりのコースの他、「天皇機関説」論争や吉野作造の民本主義論など「マクロ(普通の)政治学」の話もあり、と比較的目配りよくまとまりもよいので、お勉強になるよい本。
 ただし、大正期を「近代」から「現代」への転換期とみなしていろいろほじくる研究は政治史に限らず、労働史とか農業史とかこれまでもたくさんあり、それなりの成果も上がっているはずなんだが、そうした先行研究とのつながりが門外漢たる私にはいまいちよくわからない。
 「大正デモクラシー」に潜在するやばさ=統治の対象としての「民衆」の発見、それが昭和ファシズム=「民衆」の動員への準備をなしていた、という指摘自体はそんなに独創的なものではないし、逆に昭和期をそう片づけること自体への批判(動員の中に潜在したオルタナティヴや抵抗の契機の存在の指摘)がたとえば米谷匡史「戦時期日本の社会思想」(『思想』97年10月号)とか、あるいは坂野潤治『日本政治「失敗」の研究』(光芒社)によって提起されていたのでは、とかいろいろ考える。

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紙の本

紙の本動物会議

2003/06/04 13:20

誰のための本?

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本書は以前『どうぶつ会議』と題して「岩波こどもの本」として小判のカラー絵本で出ていたが、長らく品切であった。その他にも「ケストナー少年文学全集」版が入手可能であったが、残念ながら絵本扱いではなく、挿絵がモノクロになってしまっていた。その意味で今回のカラー絵本としての復刊は大変意義深いものであるはずだった——が。

いったいなぜ漢字に振り仮名が振られていないんだろう。

いったい誰のためにこの本は作られているんだろう。

理解に苦しむ。

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紙の本

読むべし。

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 著者は近代日本政治史の権威。まあ余計なことは言わない。以下の引用を見られれば、本書の重要性はおわかりだろう。

 「中途半端の国民が中途半端な改革をなぜ嫌うのであろうか。ここ10年くらい、私はこの「逆説」を抱え込んで、学問的に右往左往してきた。
 しかし、よく考えてみると、これを「逆説」と決めてかかったことが、間違いのもとであった。「中途半端な改革」とは、言い換えれば「実現可能な改革」である。これに反して「急進的な改革」とは、この世で実現しない、あるいは実現されては成らない改革である。かつての日本社会党の「非武装中立論」がそうであり、森前首相の「天皇を中心とした神の国」発言がそうである。(中略)
 そうだとすれば、「常情の国民」(「中途半端好みの国民」)が寛大なのは、実現するはずのない左右の極論に対してであり、実現の可能性の高い「常情の改革」に対しては冷淡であるということになる。」14-15頁

 「明治20年代の徳富蘇峰は10年前の福沢諭吉の思想から何も学ばず、大正3年の吉野作造は明治20年代の徳富の二大政党論を全く知らずに徳富を批判し、昭和33年の信夫清三郎氏は吉野作造の「民本主義」を徹頭徹尾曲解して批判した。(中略)それぞれの時点で日本の民主化につとめた人々が、自己に先行する民主主義者の努力に全く関心を払わなかったのである。彼らは「民主化」にはつとめたが「民主主義の伝統化」には全くつとめなかったのである。」38-39頁

 日本政治の可能性と限界を考える上での、必読の啓蒙書である。

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紙の本

中流幻想の崩壊?

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 これは山形浩生も「完敗」と言うとおり掛け値なしの名著である。不動産、生命保険、社会保障、子供の教育、と要するに普通の個人(著者たちのいう「ゴミ投資家」)にとっての「資産」「財産」を、長期的な損得勘定を立ててきちんと運用し、「経済的独立」(身も蓋もなくいえば「安定した老後」なんだが)を達成するための基本スキルを指南する。本来こういうことを中学高校の「公民」ではまず教えるべきだし、大学教養課程の経済入門でやるべきなんだ。今の日本で学校で教えられる社会科学は(学者層の自己再生産という第一の目的を除けば)せいぜいが小役人(官民問わず組織内の「官僚」たち)のためのものでしかない。普通の市民、私人のための社会科学が必要なのだ。
 もちろんいろいろな欠点はある。基本的なことは山形氏が指摘しているが、たとえばインターネットトレーディングへの煽りとか、公共性の視点の欠如とか。著者たちは、「中流幻想」は崩壊した、これから日本社会は二極分解に向かう、と予測する。そして読者に、上手な生活設計、資産運用によってこの分解過程を勝ち抜け、とハッパをかけるわけだが、みんながみんなこういうサバイバルレースに狂奔する経済って、結果的には非常に景気が悪いものになるだろうし、治安も悪くなるだろう。厚い中流層が存在する社会の方がマクロ的に安定し、治安もよいはずだ。そういう視点(ケインズ的というか? あるいは金子勝的?)がすっぽり抜けていて、単純素朴な新自由主義、「小さい政府」路線で話が貫かれている。もちろん本書はあくまでも利己的な損得勘定の視点を基調としているからこそ価値があるのだから、総論的にはこれは無い物ねだりなんだが、各論的にはやっぱり「?」と思うところが多い。
 それからあくまでも利己的な損得勘定の視点に固執したとしても、なお本書には重大な欠落がある。それは(子供の教育の問題を除けば)ゴミ投資家にとって実は最大の最重要の資産、人的資産についての議論がほぼすっぽり抜け落ちているということだ。つまり本書全体が、人的資産の運用(つまり本業でしこしこ自分の体を動かして働くということ)については取り敢えずいろいろ考える必要なし、との前提で成り立っている。きちんと働いて当座の衣食住を満たした上で、さあいざというときのためあるいは老後のために備えましょう、というお話だ。しかし中流幻想の崩壊だの日本社会の二極分解だのを云々するなら、ここのところから疑ってかかる(たとえば、失業の可能性くらい誰にでもある、という前提から出発する)必要があるんではないだろうか。

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紙の本進化的意思決定

2002/06/27 11:17

進化ゲーム理論の格好の入門書

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 本書は進化ゲーム理論研究会最初の成果、と言ってよいか? 若手数理社会学者による、格好の進化ゲーム理論のテキスト。経済学・ゲーム理論プロパー外の、数理的な理論展開になれていない読者にとっては、かゆいところに手がとどく構成。と言っても、数学を使わないわけではない。伝統的なゲーム理論の基礎知識も、ないよりはあった方がいい。要するに、普通のゲーム理論の研究者があまりこだわらないところ、初歩的かつ原理的な疑問に丁寧に答えているのだ。「合理性」と「進化」の概念を明確に定義して区別したり、伝統的ゲーム理論を「先読み型ゲーム理論」と名づけて進化ゲーム理論との区別を明快にしたり、といった細かい仕事を評価したい。
 ところで、かつて著者の片割れ石原氏に「『進化的意思決定』なんて言葉あるの?」と聞いたら、「いやーないでしょう」とのお答えでした。ハイ。

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紙の本

紙の本太陽の簒奪者

2002/06/27 11:11

「王道」

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 私は個人的にはハードSFなんか別にぜんぜん好きではないつもりなのだが、本書を読むと、やはりSFの本道と言うか王道はハードSFなのだといまさらながら強く思わされる。
 もともと日本のSFの第一世代は小松左京がはっきりそうであったように、戦後文学の鬼子というか落ちこぼれで、主流文学に対するルサンチマンがすごく強かったが、結局ルサンチマンだけではだめだった、ということか。いまや主流文学がかつてはSFにおいてしか許されなかった道具立てを自由に駆使できる時代になったので、かつての文学的SFにおけるような「重く困難なテーマをSF設定という裏技で玩具化して軽く探ってみる」というやり方が、正攻法の前に完全に失効したわけだ。ある意味、ジャンル全体で現代文学の前線を広げるための露払いをさせられて割を食ったわけで、気の毒と言えば気の毒なことだ。
 しかしハードSFという、小説あるいは文学としては「奇形」に近い代物は、おそらく主流文学によって追い越されたり取り込まれたりすることはないだろう。それは「SF」にしか扱えないテーマを扱う「SF」でありつづけるだろう。SFの王道たるハードSFのそのまた王道である、異種知性体とのファーストコンタクトを直球勝負で描いた本書を読み、そういう感慨を覚えた。
 また「ハードSF」という狭いジャンルの中の尺度で測っても、本書はある意味歴史的な意味を持つのではないか。古い話だが、ある意味本書の大先達に当たるだろう、ハル・クレメントやロバート・フォワードの描く異種知性体が「ものすげー変なかっこしてても所詮頭の中はアメリカ人」とよく揶揄されたのに対して、本書の描くエーリアンはスタニスワフ・レムばりの、まさに人間とは異質の何かである。しかもどちらかというと思弁的で文学志向のレム(しかし読み返すと意外とハードSFしているところもあってちょっと感動するが)に対し、徹底して具体的なハードサイエンスの成果の延長線上でそれを描こうとしているところが新しい。もちろんこの辺は、近年の認知科学や心の哲学の急速な発展を踏まえてこそのものではあろうが……。
 それにしても、やはり近作『ふわふわの泉』(ファミ通文庫)でも語られていたが、野尻の考える「非適応的知性」とはどのようなものなのだろうか? もっとこのテーマを彼が突き詰めるのを見てみたい。

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紙の本

紙の本仮面ライダー 誕生1971

2002/06/27 11:08

仮面ライダーという「神話」

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 去年がライダー30周年ということで、記念企画として村枝賢一『仮面ライダーSPIRITS』(講談社)が始まったのは記憶に新しいところだが、本書もそれに続くものととりあえずは考えてよかろう。
 ただし現代を舞台に、1号2号からスーパー1、ZXと総登場の『SPIRITS』とは対照的に、こちらは1970年代初頭の1号ライダー本郷猛に物語を絞り込んでいる。はっきり言えば、この世界にはおそらく永遠に2号以下のライダーたちが登場することはないだろう。
 コンセプトとしてはbk1のアオリに、また赤星政尚の解説にあるとおり「藤岡弘の不慮の事故によって佐々木剛がキャスティングされ2号ライダーが誕生、仮面ライダーは複数化を余儀なくされた。事故を起こさなかった可能性に基づいて書かれたオリジナル小説」というわけだ。
 実は本書にも2号ライダーになるはずだった一文字隼人らしき人物が登場するが、本書きりで退場してしまう。どういうことかというと、本書では本郷と一文字(?)の役割関係が、ちょうど原作版、というより石ノ森章太郎によるコミカライゼーションのそれを逆転した形になっているのだ。1号2号の同伴者であった普通人の滝和也を主人公に据え、出だしは好調だった『SPRITS』が、滝をうまく狂言回しに使えなくなった最近は少しくたびれてきているように見えることを思えば、これはなかなかいい工夫である。ライダー軍団総登場では、やはりどうしても物語は一貫性を保てないだろう。
 しかしそれ以上に注目すべきは中味である。ちょうど古典たる『水滸伝』を現代人にとって読むに耐えるものへと徹底的に脱構築している北方謙三『水滸伝』(集英社)と同じように、本書は大人になったライダー世代が、現代に生きる大人として、仮面ライダーという神話を解体再編する作業なのだ。いったい「悪の秘密結社」ショッカーとはなんだったのか、そして仮面ライダーの「正義」とはなんなのか、を改めてきちんと考え抜き、現代的なテーマとして再生している。物語はまだ入り口に差し掛かったばかりであるが、まずまずの切れ味を示している。
 なお「地獄大使」(の和智バージョン)のキャラ造型は見事の一語に尽きる。

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