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  3. 荻野勝彦さんのレビュー一覧

荻野勝彦さんのレビュー一覧

投稿者:荻野勝彦

33 件中 16 件~ 30 件を表示

いつの時代も若者には可能性がある

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 現在の若年労働を知り、考えるうえで、この本はまことに貴重である。それは何より、この本が若年に対する大いなるシンパシーのもとに、若年の視点に立っていることによる。こうした立場の上にこれだけの実証的な分析と主張が行われている本はこれまでなかっただろう。
 この本の1章から4章までは、ごく荒っぽく言ってしまえば、現状の若年の失業や離職、あるいはフリーターの増加などは、景気の悪さと既存の雇用を維持しようとする(さらには60歳台前半の就労を進めようとする)社会構造のせいであって、若年が悪いのではない、ということを言うために費やされる。これは、人事担当の実務家としての実感にも良く一致している。実際、就職し定着している若年であっても、企業内がいわゆる「上がつかえている」状態になっているせいで、仕事がステップアップしないという問題に直面している。
 そういう意味で、4章での「所得格差より仕事格差が問題」という洞察は正鵠を射ていると思う。ただし、仕事格差がもっぱら労働時間だけで論じられていることには不満もある。たしかに若年の長時間労働はそれ自体問題ではあろう。しかし、より問題なのは仕事の中身だからだ。重要性が高く、自分自身の成長にも資する仕事を与えられているのであれば、それは仮に労働時間が長くなったところでむしろ本人は好ましく思うだろう。「下が入ってこない」せいで、雑用のような仕事に忙殺されて長時間労働になるのが最悪である。一方で、中高年にしても、閑職に追いやられて労働時間が短くなっているのであれば、それは決して本人にとって喜ばしい事態ではあるまい。
 4章から7章までは、必ずしも若年だけが対象となっている内容ではないが、若年が現状を打破するための方法につながる考察が行われ、8章が全体の結論になっている。一見、4章までの流れからは、最も効果的な解決策は「中高年の解雇や早期引退」ということになりそうだが、さすがにそうはならない。それでは著者の言う「漠然とした不安をどうとらえ、どう冷静にファイトするか」ということへの答にはならないからだ。そこで著者が提示した答は、これまたごく荒っぽく言ってしまえば、ひとつは「自分で自分のボスになる」という意識のもとの「新しいタイプの独立開業」であり、もうひとつはその成功の前提でもある、グラノヴェターらの言う「Weak Ties」の大切さである。
 これはいずれも重要なポイントをついているだろう。確かに、著者が示しているように、開業を成功させるには20年以上の仕事の経験があることが望ましく、今の若年者が「新しいタイプの独立開業」に到達する道筋や、そもそも「新しいタイプの独立開業」とはなにか、ということも明らかではない。しかし、「自分で自分のボスになる」ために、自発的に能力開発に取り組むことは、フリーターであってもできる。
 こうした「自分で自分のボスになる」若年が増えてくれば、20年後にはおそらく彼ら自身が「新しいタイプの独立開業」とそこへの道筋を見せてくれるだろうという予想には、私も賛同したい。私もまた、若年の力を信じるひとりであるからだ。
 著者は、「頑張れ」とか「夢を持て」ということを若年に言いたくないという。同様に、私は「自立」とか「自己責任」とかいうことばをあまり使いたくないと思っている。それ自身はもちろん悪いことではないが、今日的な意味合いでそれを強調することは、健全な依存関係、ひいては(伝統的な共同体意識ではない)ゆるやかに支えあう連帯関係、一種の「Weak Ties」をも否定してしまいかねないからだ。今の社会で必要なことはむしろ、「Weak Ties」が縦横に張り巡らされた、新しい「社会的連帯」を構築することではないかと思う。

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紙の本Unknown

2001/11/14 10:09

読後感さわやかな傑作ミステリ

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 斯界で新人の登竜門として評価の高い「メフィスト賞」の受賞作でもあり、期待に違わぬ傑作で、最近の推理小説としては出色の出来と云ってよいのではないかと思う。そのうえ、普通の小説として読んでもたいへん面白く、思いもよらず、短時間で一気に読み切ってしまった。
 この小説の舞台は自衛隊のレーダー基地である。自衛隊というのは、わが国の国防の第一線であり、中でもレーダー基地は、空からの外敵の進入を警戒する、まさに最前線である。その実態はわれわれ一般人にはなかなか窺い知ることのできないものだが、高度の緊張と集中を求められる、過酷な任務であり、強い使命感と高いモラルの求められる職場である。
 その一方で、「自衛隊は、地元にとっては邪魔物でしかない」「自衛隊員が事故でも起こせば、徹底的に叩かれる」−作中にも、自衛隊に対する否定的な評価がたびたび現れる。
 自分の仕事の意味が認められ、正しく評価され報いられることは、働きがいを高めるために最も重要なことのひとつであろう。自衛隊は、その仕事の意味は実に明快である。しかし、それが世間に認められ、正しく評価されているとは言えそうもないのが残念な現実だ。災害の時などには、国民のために危険を冒して働いて当然のように思われ、その国民に、平時には「迷惑なもの」扱いされることが少なくない。
 この小説の中では、若い自衛官たちが、使命の大きさ、任務の重さと、世間の冷たい視線に葛藤しながらも、明るくひたむきに仕事に打ち込む姿が生き生きと描かれている。それゆえ、ストーリーはかなり重く暗いものであるにもかかわらず、さわやかな読後感が残る。現実もこのとおりであってほしいと願わずにはいられない。
 私は別に、再軍備論者でもなければ主戦論者でもない。しかし、労働という観点から考えても、政治的な思惑を離れて、自衛官にもっと気持ちよく働いてもらうことを社会全体で考えるべきなのではないかと思わずにはいられない。国民のために命懸けで働く人が、それにふさわしい敬意をはらわれなくて良いわけがない。その組織がどうあるべきかは別として、その役割は社会にとってなくてはならないものなのだから。

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紙の本国家についての考察

2001/10/22 15:00

今こそ国家を考えよう

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 9月23日に、有明の国際展示場で「米国同時多発テロ犠牲者追悼・お見舞いの会」というのが開かれた。大河原元駐米大使や小泉首相、ベーカー駐日大使のほか、日米間での学生の交流事業のリーダーと、ニューヨーク日本人会会長の5人がスピーチに立った。
 私は、日本人会会長が、「アメリカはもともと多様性、ダイバーシティの国で、個人が自由に生きる国だが、あのテロ事件、以来すべてのアメリカ国民が、『ユナイテッド』になったと感じる」と云っておられたのが、たいへん印象に残った。個人、家庭人、地域人、組織人など、いろいろな側面を持っているのが人間というものだろうと思うが、それらの側面ではおおいにダイバーシティであっても、国民、という一点ではユナイテッドになる、というのがアメリカという国家なのだろう。その点、原理主義というのはダイバーシティの対極であり、ダイバーシティを受け入れない国家絶対主義の悲しさも感じさせられる。これを聞いて、その前にスピーチした学生の「諸国諸国民、諸民族の相互理解によって世界平和を実現」という発言がいかにも薄っぺらに思えたものだ。
 シリコンバレーにほど近いカリフォルニア州バークレー市では、全米で唯一、議会が米軍によるアフガニスタン攻撃の早期収拾を求める決議を行なったところ、それを批判する企業が市との取り引きを打ち切ったり、市外への移転を表明したりするなど、大きな反響を呼んでいるという。これまた、深く考えもせずに、自治体議会が横並びで「平和都市宣言」なる決議を採択してしまうわが国とは対照的だ。まあ、日米に背景の違いはあるにしても。
 この彼我の差はいったい何なのか。それはおそらく、「国家」というもののありようが大きく異なるということなのだろう。そしてそれは、国家というものが、見た目や形のある実体物ではなく(政府は実体物かも知れないが)、国民一人ひとりの心の中にあるもの(米国民がユナイテッドになりうる部分)であることを考えれば、国民の心のありようの違いであると言うしかない。
 こうしたことを考えるとき、この大部の本はまことにすばらしい。この本は、国家とはなにか、あるいは国家と国民とのかかわりとはいかなるものか、さまざまな国家の姿や思想家の思索をふまえて考察していく。そして、現代のわが国における国家のありよう、すなわち国民の心のありようがいかにして形作られたのかを解き明かす。そして、わが国の国家、国民のこれから進むべき道を指し示す。もちろん、そこには著者の信念の反映があり、それは必ずしも私がそのすべてを共有するものではない。とはいえ、著者の主張は、こうしたテーマを論じるときに往々にして陥りがちな感情的な独善は皆無であり、終始一貫して論理的で整然としている。雑誌等で既出のものも含まれているようだが、論旨はきちんと整合しており、たいへんな労作というべきものだろう。
 この本はテロ事件に先立つ7月に刊行されているのだが、結果として非常に時宜を得たものとなった。今もなお、テロ事件をめぐる一連の対応について、世間ではまことに混乱した議論が続いているようだが、それぞれの主義主張はいろいろあって良かろうと思う。ただ、この本が繰り返し指摘するように、それは現実的で建設的な議論でなければなるまい。

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紙の本外国人労働者新時代

2001/09/20 20:48

待望の優れた解説書

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 最近、またしても外国人労働者の議論がさかんになっている。この議論は往々にして混乱しやすいのだが、今回の議論は3つほどの論点がありそうだ。一つめがIT技術者などの高度な人材の不足。二つめが3K労働などの特定分野における日本人労働力の不足。三つめが将来的な人口減少に備えての移民受け入れ論である。もともと感情論が入りやすい問題であるうえ、一つの問題に三つの論点、ただでさえややこしいところに論者たちのさまざまな利害、本音と建前とが錯綜して、ますます問題をわかりにくくしている。
 こうした状況下において、外国人労働者問題を今日的な観点から捉えなおし、諸外国の経験や、経済学の考え方なども援用してわかりやすく整理した本が登場したことを大いに歓迎したい。著者はもともと労働省で外国人労働政策に携わり、その後アカデミズムに入った人であり、この問題に関しては第一人者と目していいだろう。
 この本ではまず、外国人労働者論議の歴史的経緯と現状、わが国外国人労働の実態が概観される。そして、移民の受け入れによる人口規模や人口構成を是正や、外国人労働者導入による労働市場の不均衡是正などについて、海外の事例や経済学的考察を通じて、その効果があまり期待できないこと、実施にはさまざまな困難がともなうことなどが示される。とはいえ、著者は決して外国人労働力に全面的に否定的なわけではない。むしろ、その必要性と効果とを現実的に判断しようとしている。
 そこで重要になるのが、開国か鎖国かという議論を超えた、社会的統合の議論であるという。すなわち、外国人労働者あるいは移民とその家族とが、日本社会、地域や職場などでいかに受け入れられ、あるいは溶け込み、共存し協働していくのかという問題である。外国人受け入れのコストについてもこの文脈の中で検討が加えられる。
 そして著者は、アジア経済の地域統合を進めていくプロセスで、アジア、特に東アジア諸国との間で、「広範なレベルの人材について、日本のあらゆる企業、組織や機関でアジアの人材を開発し、その一部は母国に還流して、そこで能力を生かす」という「人材開発・還流モデル」を提唱している。
 わかりやすい解説書として非常に価値のある本であるが、特に、この問題の困難さを説得力ある形で示していることを評価したい。全般的に、相当な識者であっても、この問題のもたらすコストを軽視していると思われることが多いからだ。
 一方で、小さな本なので致し方のない部分もあるだろうが、物足りなく感じる点もないではない。例えば、コストに関しては具体的な試算まで示して記述されているが、その負担の考え方については言及がない。世間には外国人労働力のメリットだけを享受し、コストは周囲に転嫁してフリーライドしようという論調が間々見られるだけに、ここは明確にしてほしかった。また、社会的権利についても触れられているが、最近のテーマである地方参政権問題についての言及がほしかった。
 さて、著者独自の「人材開発・還流モデル」については、現実的なアイデアのひとつとして評価できると思う。ここでもやはり最大の問題は、それにかかるコストがどれほどで、誰がどのように負担するのか、という点であろう。人材送り出し国まで含めてここの体系をうまく作り上げないと、バランスのよい人材の受け入れ・還流は難しくなるように思う。また、「企業内の公用語を二ヶ国語にする」というアイデアには賛成できない。著者が言うように「広範なレベルの人材」を受け入れるということになると、二ヶ国語の負担はかなり重くなるからだ。むしろ、日本に来て働いてもらう間は日本語に接する機会が圧倒的に多くなるのだから、事前にある程度日本語を修得してもらうことを前提におき、日本語をアジアにおける準公用語としていくという構想もあってもいいのではないかと思う。
 

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すべての原点がここにある。

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 書名が「変われる会社、変われない会社」、著者はスタンフォード大教授で米国有数の経営学者とくれば、もう内容は読まないでもわかった、という気分になる。例によって、株主重視の経営をせよ、集中と選択に取り組め、過去のしがらみを断ち切り、従業員も取引先もドライに整理せよ…。
 違うのである。この本は、その手の凡庸な経営書ではない。
 きわめて示唆に富む多数の成功事例、そして失敗事例。その中から、成功と失敗を分けるものはなにかが明らかにされる。それは、「知識」ではなく「行動」である。知識は成功した企業にも失敗した企業にもある。知識はビジネス・スクールで学べるし、おカネがあれば、コンサルタントにカスタム・メイドさせることもできる。失敗した企業にないのは「行動」なのだ。
 なぜ行動できないのか。この本は、知識を持つ人はたくさんいるが、行動からしか得られない本当の知識を持つ人は少ないという。優れた企業では平凡な人たちがすばらしい成果を上げている。これは、彼らが行動を通じて本当の知識を体得しているからだ。反対に、優秀な社員をたくさん雇いながら、成果の上がらない企業もある。それは、優秀な社員たちは知識をたくさん持っているが、行動から得た本当の知識は持っていないからなのだ。
 それでは、社員を行動に向かわせるためにはどうすればいいのか。ここで語られるのは、現場主義であり、失敗を許し恐怖感を与えない組織であり、社内での競争よりライバル会社との競争に目を向けさせることであり、結果でなくプロセスを評価することである。そして、長期的な経営ビジョンであり、情報共有であり、OJTであり、チームワークと人間尊重である。短期的な業績や株価の向上を求める投資家たちは、行動を促すことの阻害要因とされる。
 特に注目されるのは、現実に行動する社員の行動に注目し、彼らが行動しやすい環境を整えるリーダーシップを強調していることだ。成功をもたらすのは企画部門ではなく現場で働く平凡な多数の人たちであり、彼らに前向きに行動し、知恵を出させるような動機づけを行うというのは、まさに日本企業が営々と行ってきたことではなかったか。あるいはこの本は、まず行動することが大切であり、戦略はその後で良いという。行動する前にいくら議論しても、単なる知識を超えるものはできないから、まず行動して、行動から得られた本当の知識をふまえて戦略をつくるべきだという。これは見方を変えれば、ボトムアップでの戦略づくりという日本企業の特質に近いものではないか。
 このところ、日本企業でも、経営戦略の策定や、マネジメントの再構築などといったことがさかんなようである。極論すれば、経営戦略を論じたりマネジメントを語ったりするのは楽しいし、楽である。しかし、現場でそれを実行するのは困難をともなう。にもかかわらず、知識をもてあそぶ人がもてはやされるのでは、いずれ現場は行動しなくなるのではないか。最近起きている、品質をめぐる不祥事は、その前触れではないか。日本企業の抱える最大の問題点がここにあると云っても過言ではあるまい。
 そしてこれは、企業に限らず、経済や社会の「構造改革」についても同じではないか。「経済戦略会議」やら「経済財政諮問会議」やら、訳知り顔の「学者」たちがあれこれ「知識」をもてあそんでいるが、さっぱり行動には結びついていない。今、本当に必要なリーダーとは、ナントカ会議で高説を述べるリーダーではなく、国民が構造改革に向かって行動するような動機づけや環境づくりを行うリーダーであろう。
 企業の成功、国家の発展を支えるのは、一部の「指導者」の知識ではなく、多数の現場の平凡な人の行動である。わが国経済・企業の発展の基盤となり、そして今見失われつつあるこの原点に、われわれはもう一度、この本を読んで立ち返らなければならないのではないだろうか。

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信念の書

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 「美しい経営」とはなにか。著者は冒頭で、「過剰設備になって設備を廃却する必要が出てきた産業が、産業競争力会議で、税金を負けてくれ、余った土地を買ってくれと願い出たというが、実にトリビアルな考え方だ」と述べている。これが「美しくない、醜い経営」の代表ということであろう。そして最後に、「経営は、無駄をそぎ落とした合理性を持ったものになるだろう。しかし、それと一見矛盾するように見える『ゆとり』や『奥行き』を併せ持たなければ、『美しい経営』とはいえない」「これらの要素は、ひとつひとつが単独で表層に表れるものではなく、企業の歴史、トップの経営経験、個々人の人生経験の集積などによって、総合的に作り上げられるものである」と結論づけている。
 私は労務屋なので、どうしても労務関係の記述に目が行く。著者は日本的雇用慣行について、「長期的視点に立った経営や人間性尊重の労使関係であり、これ自体は『美しい経営』であった」と明言し、現状に対し「バブルがはじけ、会社が危機に瀕してから、あわてて対応しようとするから急激な対策が必要となる。長期的視野に立って堅実に歩んでいれば、本来の日本的経営の良さを持ったままの対応は可能である」と述べており、例として、キャノンのカメラ事業の主力工場の仕事を海外移転した際、従業員を一人も解雇せずに、再教育により新事業(プリンタ)の工場に移行したことを紹介する。「労働における人間性尊重とは、生き甲斐を感じられる仕事を与えることが第一である。これができなくて、余剰人員をただ抱えていることは、真の人間性尊重ではない。経営者が第一にすることは、新しい仕事を作り、そこで働いてもらえるよう従業員を教育することである」との言葉は、現実の経験を踏まえているだけに説得力を感じる。
 コーポレート・ガバナンスについても、「経営において先立つものは、業績より理念」と明快だ。そして、「コーポレート・ガバナンスに関する企業の基本的な考え方を含む企業ミッションをはっきりと作り上げる」ことが第一であり、それを情報開示し、賛同した人に株を買ってもらい、会社に参画してもらえばよい、との考え方を示す。さらに、「特に日本的経営の考え方から、企業は『とにかく株主最優先』とするより、ステークホルダーみんなに対して責任を持ち、社会に貢献するために存在するものとして位置付けられるべき」としている。
 グローバル・スタンダードに関しては、日米欧の特許制度を例にあげて、「先発明主義・非公開」を原則として、日米にも同調を求める米国の姿勢を「明らかに横紙破り」と断じる一方、「しかし、『アメリカの独創性を守るため、国際競争力を維持・強化するため』と称して、自国の異質性に強く固執する姿勢に、われわれが大いに学ぶべきものがある」とも述べる。「日本独自の『ノントリビアルスタンダード』があってもいい。独自のものを守りつつ、それがやがてグローバルスタンダードとして世界を席巻する可能性もある」「それが企業の業績を上げ、ひいては日本の国力を上げることにもなる」としている。「人間性を尊重した労使協調体制、従業員も経営者も、自分が属している企業の業績を上げていくことで生活を向上させようという日本独自の体制は、日本としての絶対の強みである」「生産過程での欠陥製品を皆無にしようというゼロデフェクト運動などは、日本のいいスタンダードである」などと述べ、日本は異質すぎてグローバル化できないという主張には賛成できないと結論づけている。
 この本は、技術者のあり方、技術開発のあり方や、キャノンの「共生」の企業理念などについても力を入れて記述されており、著者の経営思想、人生哲学が縦横に語られて行く。その確固たる理念は、往々にして経営理念の流動化する今日にあって、確かな方向性を指し示すものとして注目されよう。

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真の人材育成とはなにか

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 わが国の自動車産業は、労働集約的であるにもかかわらず、優れた国際競争力を維持している。その謎に正面から迫った本である。
 自動車の組立作業は、コンベヤ上の作りかけの自動車に、60〜120秒くらいのサイクルで、15〜30くらいの部品を組み付ける、反復繰り返し作業である。そこには、「慣れ」はあっても「熟練」は皆無に見える。世間では自動車組立は単に体を酷使すれば足り、いかに酷使するかが生産性を決定すると考えられている。しかし、これは実際には熟練の入口(レベル1)に過ぎない。
 現実に生産性に貢献するのは、品質不良や設備故障、生産量の変動による作業内容や手順の変更、新商品への生産の切り替えなどの変化に、いかに効率的に対処できるかであるという。例えば、最終検査で品質不良が見つかった場合、かなりの程度まで分解して修理しなければならず、多くの時間がかかる。もし、これを生産の途中で発見できる程度の技能(レベル2)の持ち主がいれば、発見した時点で修理することで、その手間ははるかに少なくてすむ。
 さらにすすんだ技能として、設備トラブルの復旧がある。すべてでなくても、いくつかのトラブルを復旧できるだけでも、効率への貢献は大きい(レベル3)。組立ラインではひとつのコンベヤ上で数十人の人が働いている。設備故障で作業ができず、コンベヤが止まれば、全員がアイドル状態となり、そのロスは多大である。
 さらに高度な技能になると、トラブルの原因を推理し、解決できるという。このレベル(レベル4)になると、新しい生産設備の設計を見て、現場における問題点を予想できるという。ブルーカラーのホワイトカラー化である。もちろん、レベルが上がるにしたがってできる作業もふえていくから、作業内容や手順の変更に対する柔軟性も向上していく。
 このような、高度な技能の形成や伝承がいかに行われるかが、さまざまな職務について、詳細な聞き取りによって明らかにされる。それをふまえたアンケート調査にもとづく計量分析による検証も行われ、聞き取りのサンプルの少なさを補完している。調査の綿密さを反映して、それぞれの事例には非常にヴィヴィッドな現実感があり、説得力がある。
 発見内容は非常に興味深い。レベル3以上の高度な技能は全体の6割は必要で、それ以下だと効率は大幅に落ちる。ここに達するには10年程度以上の経験を要するが、技能はすぐれて企業特殊的であり、その修得のほとんどはOJTに頼らざるを得ない。そして、高度技術が導入されるほど、知的推理を要求する技能が必要となり、技能の高度化が要請される。
 その含意として、まず、育成途上の人まで考慮すると、全体の4分の3は長期雇用であることが重要である。ベテランから仕事を習う機会の確保、職場における一人ひとりのくふうを促すしくみと、向上した技能を正しく評価し報いることが必要である。具体的には、仕事給や職務給ではなく、レベル1からレベル4までを職能資格とする幅広な職能資格制度が推奨される。同じ仕事をしていても、その仕事しかできない人と、前後の多くの仕事ができる人とでは、効率への貢献に大差があるが、仕事給ではこれに適当に支払うことはできないからだ。そして、各資格ごとに上限と下限を決めて、資格が上がらなければ上限を超えないが、上位資格の下限と下位資格の上限は大いに重なりあうのが良いとされる。評価は数量によることはできず、仕事を良く知っている熟練工、すなわち上司の評価によるしかない。そして、作業者にとって最大の財産は技能であり、労働組合も技能形成や人材開発に積極的に発言、参与することが望ましいという。
 今、世間では、人材育成や職業訓練に関する議論がかまびすしい。しかし、その多くは極めて浅薄な理解に止まっている。本当の意味での人材育成とは何かということを教えてくれる本である。

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企業統治の新たな指針

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 伊丹敬之氏と言えば「人本主義」だが、最近どうも旗色が悪いようだ。資本市場がグローバル化する中で、いわゆる「グローバル・スタンダード」、「株主重視経営」が求められ、多くの論者が、人本主義は従業員への過大な配分、ひいては「放漫」を招くと主張している。その一方で、企業経営の現場では依然として人本主義への支持は幅広い。
 そこでこの本だが、人本主義に賛同する人、反発する人、そして大多数のその中間派の人々すべてにとって、人本主義理論の現在地を再確認することは大いに有意義であり、忙しいビジネスマンが読むに十分値すると思う。
 この本の主張は、「従業員メイン、株主サブのコーポレートガバナンス」こそが、日本に適した「日本型コーポレートガバナンス」である、というに尽きる。その理由として氏は次の二点をあげる。第一に、企業、経営に対するコミットメントの深さである。わが国の労働市場、経済社会の現状を考えれば、従業員、それも氏の言う「コア従業員(創業者、オーナー経営者を含む)」が最も深く、次いで「逃げない資金」を提供している株主である、というのは事実そのままである。特に注目すべきは、株主を、創業時の出資者をはじめとして、長期にわたり株を保有し、企業とかかわろうとする「コア株主」と、極論すれば、朝買って、値上がりすれば夕方にも売りたいという、投機目的に近い「ノンコア株主」とを区別し、後者の権利は前者より相当程度制限されてしかるべきとの説を展開していることである。まことに正論であろう。そして第二に、企業の競争力の源泉となるのは従業員であり、企業の今あるを作り上げたのも従業員であるという点をあげる。これも実感にあった正論であろう。
 一方で、バブル期前後の日本企業における不祥事、経営倫理の後退については、人本主義そのものが内包する問題によるものではなく、人本主義が一部機能不全に陥っていたゆえであるとする。そして、人本主義をベースとした「従業員メイン、株主サブの日本型コーポレートガバナンス」が十全に機能するであろうしくみを私案として提案する。ヨーロッパ、特にドイツのコーポレート・ガバナンスを参考として、さすがに良く考え抜かれた提案となっている。
 少々気になるのは、この私案は実務家の立場からするとかなり煩雑な印象があり、実際の企業経営においては、ほとんどは経営者の判断と取締役会(などの実質的意思決定機関)における検討において意思決定されるにしても、私案の機関を忠実に機能させていこうとすると、いささか経営の迅速さの面で疑問を感じざるを得ない。また、果たしてこれがマーケットに理解を得られるかどうかとの危惧がある。しかし、それは経営者や関係者が信念をもって対処すべき問題であり、こうしたガバナンスが立派な業績に結びつくのであれば、マーケットの理解も得られると考えれば良いのかも知れない。
 この本の主張は、決してこれまでや現在の日本のコーポレートガバナンスをよしとするものではない。「アメリカ型」の「株主重視経営」にも異を唱えつつ、日本のコーポレートガバナンスにもかなりの変革を要請する。実は、「日本型コーポレートガバナンス」という書名は、この本が初めてではない。同名の論文もいくつか存在する。それでもなお、この書名をつけてきたところに、著者の並々ならぬ意気込みを感じる。今後のわが国において、コーポレートガバナンスを考えるにあたって、大きな指針を示した本であり、その意味で画期的な本ではないかと思う。

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雇用問題の核心に迫る

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 「中流層崩壊論」「日本的雇用システム」「雇用不安」というテーマの設定は時宜を得てまことに適切であり、記述も平易で読みやすい内容となっている。人事、労務、労働に関わる人にはぜひとも一読を勧めたい好著である。
 第一章で取り上げられた「中流層崩壊論」や「格差拡大論」は、一種のブームのような状況にある。しかし、世間の議論は、本当に格差は拡大しているのか、という議論と、格差拡大の是非、あるいはどの程度の格差が好ましいのか、という議論とが錯綜して、いささか混乱している。
 この本では、基本的に「格差拡大の善悪」という主観的論点には言及を避け、「格差は拡大しているか、それはなぜか」について、ていねいに検証・考察している。所得不平等度の拡大は高齢化の進展と女性の社会進出によっておおむね説明できることが示され、格差拡大を感じる理由として、大学進学率の高まりによる、大卒カテゴリの中の人材のバラツキの拡大や、経済低迷下で平均賃上げ率が非常に低くなっていることなどが指摘されている。所論は非常に整理されていて説得的であり、実務家の実感とも整合的である。格差は「ない」というより「ある」と言った方が世間の耳目を集めやすいし、本も売れるだろう。そういう風潮の中で、事実関係の冷静な分析の価値は高い。
 第二章では、日本的雇用システムが論じられる。主に長期雇用とセットになった年功賃金について、さまざまな考え方が紹介され、検討される。国際会計基準など最近の動向もふまえた検討は興味深く、日本的雇用システムについて基本的な理解が進むように書かれている。「日本型雇用システムの崩壊ではなく、雇用システムの多様化である」という結論も納得のいくものである。
 第三章は、雇用不安の検討にあてられている。わが国では、ひとたび失業すると長期化することが多く、賃金も多くの場合相当程度減少するなど、転職コストが高く、その引き下げが雇用不安解消に効果的であるという。そのためには雇用、特に解雇に関する規制緩和と、税制や年金・退職金制度などを転職に中立的なものとすることで、転職を容易かつ低コスト化すべきとされる。単純な量的調整のみの短絡的な流動化論とは一線を画した、積極的な労働力流動化論と呼ぶべきものであろう。
 転職コストの引き下げはたしかに急務だと思う。それは雇用不安の問題とは別に、大企業を中心にポスト詰まりは著しく、多くの人が、能力を十分に発揮し伸ばせるようなポストや仕事を得られず、能力を大きく下回る仕事に甘んじているという問題があるからだ。彼らが広く社外に活躍の場を求めることは、本人だけではなく社会全体としても好ましいからである。
 一方、雇用不安解消のために解雇規制を緩和すべきとの所論はどうか。著者によれば、厳しすぎる解雇規制のゆえに企業は新規採用に慎重になり、失業期間の長期化を招くという。解雇規制を緩和すれば、失業者は増加するものの、企業の採用も積極化し、雇用の総量は増えないまでも、失業にともなうダメージは多数の失業者でシェアされて、一人当たりは軽減されるという。これは特定の失業者に過大な負担を強いないということで、公平な考え方である。
 しかし、雇用不安解消を考えるには、労働市場の需給の現状を考慮する必要がある。市場は一般に十分多数の需要と供給がなければ機能を発揮しないが、現在のわが国労働市場は圧倒的な供給過剰であり、解雇規制の緩和はこれに拍車をかける可能性が高い。そうなると、労働市場は満足に機能せず、雇用不安もむしろ強まるのではないか。
 この本では、この他にも、いくつかの話題をコラムとして提供してくれている。100ページに満たない小さなブックレットだが、質的にはたいへん充実したものであると言えると思う。広く読まれてほしい本である。

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労働関係者にもおすすめしたい本

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 すでに何年にもわたり、所得が伸び悩む中で消費性向が低下傾向を示すという、経済学の教科書とは正反対のことが起こっている。パソコンや携帯電話といった、ランニングコストのかかる大型のヒット商品が生まれ、広く普及して、それにはそれなりの消費が向けられているにもかかわらず、国民は所得が減る以上に倹約して、せっせと貯蓄(や負債の返済)に励んでいるのだ。
 こうした中で94年から98年まで、合計15兆円以上の特別減税が行われた。しかし、景気対策としてそれほど有効だというわけにはいかなかった。「それは恒久減税でないからいけないのだ」という意見が出て、99年には制度減税が行なわれ、さらには地域振興券という古今の奇策も講じられたが、結果はご承知のとおりである。
 日経連の奥田会長は、「文芸春秋」1999年10月号の「経営者よ、首切りするなら切腹せよ」というインタビュー記事の冒頭で、日本経済が、雇用や老後に対する不安感が消費を冷え込ませる「不安の経済」に陥っていると発言した。毎年の春闘でも、「賃上げによって所得を増やし、個人消費を活性化することで内需主導の景気拡大」を訴える連合に対し、日経連は「企業業績を回復させて雇用不安を払拭するのが消費拡大の道」と主張した。昨年初の春闘セミナーでは、奥田会長は連合の鷲尾会長との対談で、「賃上げがすべて消費されると約束してくれれば、満額回答してもいい」とまで発言した。
 連合の主張にも一理ある。実際、これまでは、消費をもっとも良く説明するのは所得であった。研究機関などのマクロモデルも、多くは消費を所得の関数としているらしい。しかし、所得が消費を規定するというこの常識も、疑ってみる必要がありそうだ。
 松原隆一郎著「消費資本主義のゆくえ」は、消費を所得の関数ではなく、独立した変数と考え、経済を従来の生産中心の立場ではなく、消費中心の立場から見た本である。この観点から見ると、雇用不安が貯蓄性向を高め、規制緩和が不安を増大させて、消費不況を深刻化させるという連鎖が見えてくる。これは日本の現状をよく説明してはいないだろうか。
 この本は読み物としてもまことにおもしろい。序章で従来の経済学との立場の違いを具体例を交えて述べたあと、欧米の近代と、日本の戦後の経済の歴史を、消費資本主義の立場から再解釈する。社会学や心理学の成果や、ソシュール、バルト、ボードリヤールなどの所論も動員して、学際的な議論が展開される。そして、現時点でのわが国の消費は「コンビニエンスストアや携帯電話は戦後日本経済の到達点」だが、しかし「それは、本当に誇るに足るものなのだろうか」と疑問を投げかける。むしろ「日本の消費資本主義は、その到達点で倦怠に包まれている」という。
 著者はこの倦怠を脱することが消費不況を脱する方途であると考えているようだ。著者は改革そのものを否定せず、いわば市場原理主義(という表現を著者は使っていないが)にもとづく急速な改革が経済に混乱をもたらしたのだから、漸進的に改革を進めるべきだと主張する。それに加えて、企業活動に経済活動以外の社会的・文化的価値との両立を求め(それは会社中心で家庭・地域を省みさせない働き方の否定でもある)るための消費活動のモラル、あるいは商品を使う技術の再興が必要であるという。
 しかし、モラルと技術の再興には、著者はいささか悲観的であるように私には思える。直接的には「異質の意見に耳を傾けて議論を重ねるモラル」の達成の困難さを著者が強調しているからであるが、おそらくそれは、論壇に独自の地位を築いた著者が、論壇における公共性の喪失を憂慮する心情の反映でもあるだろう。
 斬新な論点を提示しているだけではなく、経済読み物としても非常に面白いし、労働政策を考える上でも大いに参考となる点を含んでいる。多くの人におすすめしたい本である。

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史料としては貴重な書

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 著者の体験をもとに戦後の経営労務史を述べた本だが、この本を一読して受ける印象は、この本は賃金制度の本である、というものだ。
 とりわけ著者の強い思いを感じるのは、職務給をめぐる記述である。当時は高度成長とともに技術革新が急速に進んだ時期であり、年功的な賃金と現実の職場での貢献との間に矛盾が生じていた。その矛盾を克服するために、賃金制度に職務給を導入することで、現実に職場での貢献度の高い人には若年であっても処遇を高くすることができたという。著者らは旧八幡製鉄において、すべての職務について職務分析を行なってポイント化し、職務ランクを決定した。
 しかし、その後の現実を見ると、職務給はわが国の賃金に定着することはなかった。その後出現した職能給制度は、その柔軟性と、能力向上を促進する優れたインセンティブであることによって、わが国賃金の主流となって今日に到っている。
 これについて著者は、職務給を経由した職能給とそうでない職能給とは大差があると主張する。職務給を経由しなかった職能給は、年功的な運用をもたらし、職能給そのものの存在を危うくしている実態が出てきた。それに対して、職務給の経験を通じた職能給は、職務(あるいは業績)という形で顕在化した能力について支払っていると主張する。
 いっぽう、この本の構成にあたったひとりである佐藤博樹氏(東京大学社会科学研究所教授)は、この本の中で、職務としては顕在化されないが、異常対応などを通じて効率や競争力に大きく貢献する能力が存在すると述べた上で、そうした能力を積極的に評価し、その形成を促進するインセンティブとなる小池式職能給の合理性を指摘している。
 これに対して著者は、異常対応などを通じた貢献が大きいのであれば、それは別の職務であると考えるべきであるとしているのが注目される。これはすなわち、著者が現在考える職務給が、かつて著者自身が実施したような、職務分析でポイント化して賃金ランクを決めるという細分化された職務給とは本質的に異なるものであることを意味するからだ。事実著者は、幅広のブロードバンドによる賃金制度であっても職務給たりうるとも述べている。「賃金が企業業績に対する貢献度に応じて支払われる。生産性の高い人には高く、低い人には低く支払われる」のが職務給であるという。著者も述べるとおり、これらは明らかに職務給の通念とは異なっている。ここまで拡張されれば、著者のいう職務給と、小池式職能給との違いはみたところあまりない。そういう意味では、著者のいう「新しい職務給」も、すでに整理され体系化されていると考えることもできる。
 現実を見れば、職務でも成果でも、とにかく貢献(顕在化した能力)と処遇との一致を指向する賃金制度の導入は明らかに進展している。むしろ、実務的な問題点は、それ以前の問題として、能力と職務の一致が十分でないという点にある。著者自身も、職務給の前提は同一能力同一職務だと述べているが、著者の現役時代には成立していたこの前提が、今日の低成長、ポスト詰まり・仕事詰まりの時代にあっては成立しにくくなっている。具体的に言えば、能力を伸ばし、それを顕在能力として発揮してみせたとしても、常にその能力を顕在化できるような仕事にステップアップすることが難しくなっているのだ。要するに、レベルの高い仕事は限られているのであり、上がつかえているとなかなかいい仕事にありつけないのだ。
 このときに、はたして能力を伸ばしても、それに見合う仕事がみつかるまでは賃金を上げないのがいいのだろうか、あるいは先行して賃金を上げるのがいいのだろうか?
 私の理解では、著者のいう職能給と小池式職能給の違いはここにあるように思われる。そして、私が小池式職能給を支持する理由もやはりここにある。

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紙の本雇用と失業の経済学

2002/03/29 23:23

企業にも政府にももっとできることはあります

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 大部の本であるが、内容もまた充実している。著者自身の研究成果に加えて、公開されている統計も援用して、わが国における労働市場の実情とその変化が、豊富な国際比較とともに、克明に明らかにされている。この本の最終章は、全巻の結論として、著者の労働政策への提言が述べられている。企業の役割としては、社員への情報開示、人員削減時の退職金上乗せと再就職支援、職務の明確化とキャリア権の保証が述べられる。政府の役割は多岐にわたるが、第一に雇用機会の創出(起業家支援、規制改革、直接雇用)が述べられ、次いでミスマッチの解消、セーフティ・ネットの拡充、労働市場のルールの整備と機能の強化が述べられる。全般的に見れば現状認識の適切さを反映して、妥当な内容であると思われる。特に、この本を読み進めてみて痛感させられるのは、やはり需要創出が最も重要かつ必要な施策であり、供給サイドの政策の効果は限られているということである。したがって、政府の役割の第一に雇用機会の創出が掲げられていることはまことに適切であると云えるだろう。
 その上で、あえていくつかの論点を挙げてみたい。
 第一に、企業に対しても、その重要な役割として、雇用の創出をぜひ指摘してほしかった。同様に、雇用保障の重視をいいながら、その内容が人員削減時の退職金上乗せと再就職支援というのもまことに物足りない。過剰雇用を削減するばかりではなく、新たな事業に振り向けることは立派な雇用創出であり、雇用保障の重視という趣旨にもかなうものである。この部分にはぜひとも踏み込んでほしかった。
 第二に、セーフティ・ネットの構築について、働く人相互の連帯、相互扶助という観点がもっとあってよいのではなかろうか。現実として、雇用維持のために全社員の賃金を一律にカットするような事例が出はじめている。こうした取り組みが社会保障による方法より効果的な場面も多いはずだ。
 第三に、積極的雇用政策の重要性には同感であるが、雇用調整助成金などに代表される雇い入れ助成についても、もう少し積極的な役割を認めてもよいのではないかと感じる。衰退産業のソフトランディング、悪い言葉で言えば「安楽死」するための支援としても役割を認めてもよい。また、新規雇用に対する助成は、新規採用者へのOJTに対する教育訓練助成であるという考え方もできる。制度設計次第では十分使えるものになるはずだ。
 第四に、職務の明確化に関しては、やや過剰に重視している感がある。ある程度の業務分担が決まっていれば、キャリアをふまえて仕事を選ぶことは可能だろうし、パートタイマーの均衡処遇に関しても、必ずしも職務が明確化を必要とするとまではいえない。
 もう一点、細かいことではあるが、通勤問題について言及してほしかった。都市部、特に首都圏に限られた問題ではあるかも知れないが、自己啓発にしても家庭参加にしても時間が十分とれない要因としては、長時間労働と並んで長時間通勤も重大な問題である。短時間勤務の拡大にしても、通勤時間が往復4時間という状況では、8時間労働を6時間労働に短縮することはほとんど意味を見出しがたい。逆に言えば、長時間通勤は長時間労働を誘発すると言えるかも知れない。この本だけでなく、著者は随所で「くらしの構造改革」を提唱しているが、その上で意外に大きなポイントになってくるのではないか。

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紙の本雇用の未来

2001/09/20 18:29

アメリカの現在を日本の未来にするな

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 この本は、米国における雇用の「ニュー・ディール」について書かれている。1980年代のリエンジニアリングの過程で、雇用関係が大幅に変貌した、その前後の状況を仔細に調査している。米国の雇用、労働市場について知る上で非常に参考になる本である。
 1980年代に米国は深刻な不況に陥り、企業は人員削減の必要に迫られた。退職者年金基金などの機関投資家が、株主として経営に対する影響力を行使し、短期的な業績や株価を追求するようになったことがそれに拍車をかけた。この過程で、企業は、従業員が企業に貢献できる限りは雇用するが、そうでなくなれば雇用は保証しない、その代償としてエンプロイアビリティ向上を支援するという新しい枠組みを提示した。雇用のニュー・ディールの出現である。社内労働市場に深く社外労働市場が入り込み、企業は社外労働市場の人の海に浮かぶような形になった。
 その過程と、影響について、この本は詳細に解説している。生産性は低下せず、むしろ向上しているが、優秀社員の定着や企業内での技能の蓄積などに問題があり、いずれ悪影響があるだろうと指摘し、その対応策を述べる。ある地域全体で、産学で人材を融通し必要な職能を育成していく「シリコンバレー・モデル」はそのひとつであり、こと人材に関しては「シリコンバレー株式会社」とも言うべきシステムが成立していることがわかる。
 そして、結論として、ニュー・ディールのもたらす格差拡大などの問題点も冷静に指摘した上で、「最後の忠告」として長期的視野の重要性をあげ、ニュー・ディールもいずれは過去のものとなり、その後の雇用がどうなるかはわからない、と述べて終わっている。
 この本はアメリカの本であり、著者は「もはやオールド・ディールには戻れない」という前提で議論している、という点に注意が必要だ。著者はニュー・ディールとオールド・ディールの優劣や善悪については断言を避けている。おそらく、ニュー・ディールが近年のアメリカでうまく行っているのは、長期にわたる好況の助けによるところが多いだろう。この本は1999年の本であり、これから始まるかも知れない景気後退期において、ニュー・ディールがうまく適応するかどうかは考慮されていない。
 幸いにして、日本ではまだアメリカ型のニュー・ディールは広がっておらず、後戻りができないところまで来ているというわけでもない。長期雇用のもと、企業特殊的熟練まで含めて技能を蓄積していく人材育成のシステムもまだ健在であり、それが競争力に直結している分野も案外多い。もちろん、アメリカ型のニュー・ディールがなじむ分野、たとえば金融や証券などでは、それをさらに取り入れていけばいい。アメリカの優れた点には学びつつ、盲従はせずに、よりよいシステムを維持し、構築していく努力が必要だろう。
 なお、訳題の「雇用の未来」は不適当だ(原題は“The New Deal at Work: Managing the Market-driven Workforce”)。この本は主に雇用の「現在」を述べており、「過去」にも触れているが、「未来」についてはほとんど語っていない。第1章の原題も“The New Deal at Work”で、訳も「雇用のニューディール」となっている。なぜ、書名も同様にしないのか。また、第7章の訳題も「雇用の未来」となっているが、この章の原題も“Concluding Observations on the New, Market-Driven Employment Relationship”であり、内容的にも「雇用の未来」という題がふさわしいとは思えない。いずれも、“Market-Driven”という語の含意が生かされていないし、この本の内容や主張を超えて、「ニュー・ディールは日本の『雇用の未来』」だと言いたいという意図が感じられる。これは著者に対する冒涜ではあるまいか。

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紙の本労働組合よしっかりしろ

2001/07/04 09:45

原点に立ち返った議論を

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 今日の労働運動についてなにかと考えさせられる本である。
 最近、労働組合が企業の株式を取得して、株主としての立場から影響力を行使しようという取り組みも見られるようになってきたが、通常の場合は労組が大株主になるほどの財力を持つことはまず考えられない。労働組合が経営者に対する交渉力を、ひいては社会におけるプレゼンスを持つのは、ひとえにその組織力によることは論を待たない。それは、単に組合員名簿に多数の名前が登載されているだけでは無意味であり、構成員のそれぞれが、執行部の統制のもとに、組合活動に協調して参画してはじめて、その組織力は遺憾なく発揮されるのである。
 この組織力はもちろん、ストライキのような争議行為においても発揮されるし、それは経営陣に対する圧力となって交渉力を高めるだろう。しかし、組織力がさらに十全に発揮されるのは、実は労使協調による生産性向上においてではないだろうか。実際、現在のような競争経済においては、争議は労使双方にとって自殺行為に等しいことも多い。それでも経営者が労使関係への配慮を怠らないのは、企業がその生産性を維持するためには、争議がないといったレベルにとどまらない、高い次元の労使協調を必要としているからに他ならない。いったい、例えばわが国におけるジャスト・イン・タイム方式などは、リーン生産方式などと言われて、各国の企業にも導入され、生産性向上に大きな役割を果たしているわけだが、どうして、労使関係の安定なくして、ジャスト・イン・タイム方式がその効果を万全に発揮することはないのである。
 とすれば、いかにして主体的に活動に参画する組合員を増やして行くのかが、これまでもこれからも労働組合の生命線であるはずだ。現在の労働運動の問題点は、組合員名簿に載っている名前の数が減っているだけではなく、その中で主体的に活動する組合員が減少していることに本質がある。例えば選挙の際に、自分だけではなく、家族、親類縁者、知人友人の票まで獲得するほどに主体的に活動する組合員は、幹部役員を除けばほとんどいないのが実態だろう。
 連合は、組織率が低くなっても波及効果がある、という。春闘などでも、組合がある企業の労使が「世間相場」を作って、それが組合のない企業の労使にまで波及するから、組織率は低くとも影響力という面で存在意義が高いのだ、という理屈である。同じように、今の労働運動は、法制化運動にかなりの重点を置いている。これは確かに、組織率は低くとも、すべての勤労者に波及効果があるのだ、ということで、組織率の低下を正当化できる、魅力的な理屈である。
 しかし、こうした理屈は、自分は組合に入らない、組合活動をしない、「組合の人」ががんばってくれるからいいのだ、というフリーライダーの増加を正当化するものである。その費用は、とりあえずは今は組織のしっかりした労組の組合員が負担してくれている。それは主に大企業の正社員であり、負担能力のある人だから、一種の所得再分配機能として説明できないこともない。しかし、これはまさに袋小路だ。
 これからの労組は、ある程度までは、「横並び」「波及効果」というものを捨ててもいいのではないか。現に組合活動に参画し、組合費も払っている労働者については、そうでない労働者に比べて恵まれていて当然だ、という価値観の転換を進めるべきではないか。そして、なにより組合員自身が、「組合費を払っていればそれでいい」という意識を転換し、一人ひとりの参加が組合活動の力であるという認識に立ち返ることができるような活動を実現していかなければなるまい。そうしなければ、労働組合は、増え続けるフリーライダーに侵食されて、崩壊してしまうのではないだろうか。
 この本に登場する論者たちにも、労働運動の表面的な「改革」ではなく、根本的な「再建」を論じてほしかったと思う。

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紙の本定年破壊

2001/07/04 09:04

定年制は本当にそこまで悪いのか

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 「定年破壊」とは刺激的だが、サラリーマンが本屋で見かけて楽しい気分になる書名だろうか?
 私は労務屋で、著者がエイジフリー論者であると知っているから、定年制を廃止して、年齢に関係なく働き続けることができるようにしよう、という意味だとわかる。しかし、とりわけ中高年サラリーマンにとっては、定年制を廃止して、50歳でも45歳でも首切りできるようにしようという本に見えないだろうか。
 この本は研究書ではないから、かなり極論に振った内容となっていることはある意味で当然であろう。とはいえ、読み進むに連れて、定年制の弊害ばかりが強調されて均衡を失したり、重要な論点が軽視されたりしている部分が目につくように感じられる。特に後半になるほどそうである。定年制は、誰にも等しく存在し、誰の目にも明らかな年齢によって退職時期を予定することと、それまでの雇用維持努力がパッケージされることにより、勤労者に人生の目標を与え、計画的な生活設計を可能にしており、国民の多くの支持を受けているという事実がある。それを「反社会的」であるとして「破壊」を主張するのは、若干特定の価値観の押し付けと感じられないでもない。
 著者は定年制のさまざまな弊害を指摘するが、その多くは必ずしも定年制を廃止しなくても、年功制の見直しと、定年延長と再雇用制度の組み合わせなど、他の方法で十分対処可能なものである。
 例えば、本の一番最後の締めの部分で、著者は「…早く引退して趣味や営利をともなわない社会活動などに没頭したい人、長く働き続けたいけれども途中で仕事環境を変えたい人、いずれにとっても定年まで働かないと大損するような仕組みでは困るのである。/定年なしにすることによって、このように定年まで働かないことによる不利益は根本的に解消される」と述べている。
 前段はたしかに正論である。それを妨げるような賃金・退職金・年金制度や税制などが存在することも事実だ。しかし、単に定年なしにすれば根本的に解消されるということはなく、むしろ、それだけでは何の解決にもならない。長期勤続奨励的な人事・処遇制度の改訂や、年金のポータブル化などを進めることによって、定年制のメリットを維持しつつ、こうした弊害を改めることは十分に可能である。働き続けたい人には再雇用制度を準備すればよい。
 雇用保証との関係についての言及も乏しい。企業としては、定年での退職が確実に見込めるからこそ、計画的な人員計画が可能になるわけだし、個人単位だけではなく、従業員全体での賃金の長期清算が可能になっている。定年制を廃止した場合、60歳以前での解雇が相当程度容認されることは当然セットにならざるを得ず、社会的に相当大きな影響を与えるだろうが、この点についての言及は、わずか1頁をさいて解雇権拡大に簡単に言及したのみである。定年がなくなれば労働者が自分で引退時期を決められるという発想はあまりに一面的で能天気である。むしろ、企業の都合で、望むより早期の引退を強いられる労働者の方が多くなる可能性の方がはるかに高いだろう。
 また、市場に対する楽観的な見方も気になる。著者は労働市場の情報量を増やし、能力開発に注力すれば市場原理で十分に労働需給のマッチングが可能であると述べる。しかし、労働市場は、本当に常に十分に多くの求人と求職が存在するのだろうか。失業者は、本当に再就職先で必要なスキルを正確に予測できるだろうか。
モノならぬ人の市場へのなじみにくさをもっと考慮すべきではないだろうか。
 もちろん、有益な指摘も数多くなされている。しかし、清家篤氏と云えば市井の一介の学者ではなく、誰もが認める高齢者雇用問題の権威であり、行政への影響力も大きいだけに、かなり極論が目立つように感じられるのは残念である。

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