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Shinji@pyさんのレビュー一覧

投稿者:Shinji@py

12 件中 1 件~ 12 件を表示

紙の本凡宰伝

2002/09/01 00:46

やはり我々の代表だったのかもしれない。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

気になる政治家がいた「真空総理」と言われた小渕恵三元首相である。どこかで聞いた「三人集まれば小渕が来る」という言葉がなぜか耳に残っていた。地元の集会にはどんな小さなものでも参加するという意味だそうだ。この本『凡宰伝』では、ノンフィクションライター佐野眞一が、元首相本人の全面的な協力を得て、その一風変わった政治家の実像に迫る。世界旅行の8ミリ映写会、苦手な演説の特訓、竹下登との関係、「ブッチホン」、「ボキャ貧」、「株あがれ」のパフォーマンス、法案の丸のみ。生い立ちにはじまって、脳梗塞による入院までのことがよく書かれている。気配りに明け暮れ、選挙に勝つための涙ぐましい努力が伝わってくる。小渕元首相はこの本の出版とほぼ同時に亡くなった。
ただ、読み終わって、なにか物足りない。小渕恵三はそういった大変な努力をして、いったい何がやりたかったのかということが最後までわからないのだ。金と名誉が目的というのならまだわかりやすい。「真空総理」とか言われて、何がしたいのかわからない首相というのはやはり不気味だ。ふと我に返ると、こんな本を読んで本当に知りたかったことは、自分のこと、自分たちのことだったのかもしれないと気づく。仕事に追われ、集会に参加して、まわりに気を遣って、いったい自分は何がやりたいのだろう。小渕恵三は確かに我々の代表だったのだ。最近、いろいろなタイプの政治家が現れて話題になる。でも、政治家のことをとやかく言う前に、不気味なのは自分たちなのかもしれない。
佐野眞一の作品にしては地味かもしれないが、この本でこんなことを考えさせられた。

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自分はこれでいいと思えるのはいつごろだろう

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「ひきこもれ」こんなことを言ってくれる大人が近くにいたら、子供は幸せだと思います。挑発的なタイトル、大きな活字に、広い行間、177ページにまとめたのも、ふだん本を読まない人にも手にとってもらうためかもしれません。先が見えない時だからこそ、年配の方の話を拝聴する価値を感じました。ひきこもりを「いい・悪い」でとらえる風潮に異議をとなえ、ひきこもって一人の時間を持つことの重要性をくりかえしくりかえし説きます。また、子供たちを取り巻く問題として、親の不安を反映して子供が心に傷を負うという主張には全く同感です。

でも、ひきこもりの人やその親たちにとっては、著名人に「自分もひきこもりだった」と言ってもらうことが、本当は、一番うれしいことなのかもしれません。全編を通して、世相や組織にとらわれず自分の頭で考えることの大切さを語っているのに、吉本隆明という名前がこの本の一番の価値かも、と思ったら、少し皮肉な気がしました。

「自分はこれでいいのだ」と思えるのはふつう何歳ぐらいの時でしょうか。ぼくは思えたり、思えなかったり。孔子でも不惑は四十、と時々開き直る。変ですが、「これでいい」とまれに思えるのは、むしろ挫折の後です。なぜか達成感とはあまり関係ありません。達成の後には次の不安がすぐにやってきます。人生を「いい・悪い」でとらえる人の「これがいい」になることと、本当の自己実現とは、どうも、かなり違うと最近は思っています。

最近の「自爆テロ」にふれて、戦時中の特攻隊の人たちを悪く言うことはできないというところでは、なぜかNHKのプロジェクトXを思い出しました。道路公団やダム建設が批判されるなか、せめてあれくらいは瀬戸大橋や黒四ダムをほめなければと思いました。特攻隊の人たちの苦悩も取り上げてくれというのは極論です。でも、「善・悪」に簡単に分けられることなんて何もないのではないでしょうか。

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努力と工夫で豊かさを手にいれられた時代

12人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

江戸時代後期に頻発した農民による「一揆は、搾取されているかわいそうな人々が貧しさにおしつぶされて仕方なく起こしたのではなく、必要不可欠である自分たちの存在をもって、生活の有利を獲得するための方法であった。」むしろ現代のデモにちかかったと著者は言う。本気で支配階級に立ち向かうのなら、猟銃が使われるはずだが、それは使われず、もっぱら棒や熊手や鎌といった農民の生活を象徴するものを手に持って一揆に参加したそうである。そもそも農民が全人口の8割に対して武士は5%、武士の持つ武器が農民のものに対して特別優れていたわけでもなく、戦闘から長らく遠ざかって城勤めをする武士が農民とまともに戦って勝てるだろうか。ではなぜ、江戸時代、武士による支配が続いたかといえば、単にそれに代わる社会体制が提示されなかったためであると著者は考える。それは、投資家にふりまわされながら資本主義に代わる社会体制が見つからない現代の我々とよく似ている。

本書は白土三平の『カムイ伝』を題材にして江戸時代の庶民の生活を解説したものである。『カムイ伝』では階級闘争としての一揆が最も衝撃的な場面だが、本書はその背景として生きいきと描かれる庶民の生活に注目する。江戸時代は、庶民が自らの工夫と努力で豊かさを手にいれられた時代であったと言う。綿花の栽培、養蚕、イワシ漁などをもってそれを例証する。

対照的に、武士に対して『カムイ伝』は手厳しい。子供に武士道を説きながら夫の敵討ちを狙う武士の妻子はあっけなくカムイに殺され、職を失って『生きて恥をさらすぐらいなら、死を選ぶのが武士だ』と一家無理心中をする武士の様子は、さながら最近の我を失った無差別殺人を連想させる。武士は給料を受け取って生活していたのだから「現代のサラリーマンと同様だ」と著者は続ける。

『カムイ伝』で漁師が突風で海に投げ出される場面のせりふから。『船板一枚下は地獄の海で、生きる者どうし、お互いさまじゃねえか』『海で生きるもんは体一つが元手だ。家だとか物にこだわっちゃなんねえだ....一番近い陸に向かって逃げるだ』「職業はその仕事独特の人生観や関係意識を生み出していた」そうである。高々200年・300年前の話でも、歴史をさかのぼって俯瞰すると、考え方であり、生き方の幅が現在あまりにも狭くなっていないかと考えさせられる。

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人道支援の実態

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

1993年2月、旧ユーゴスラビア、いっこうに政治的解決への道が開かれないなか、セルビア系武装勢力に包囲されたサラエボへの、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)による懸命の人道支援が続けられていた。砲弾が飛び交う前線で早朝から深夜まで働くUNHCR職員の体力はすでに限界を超え極限状態にあった。そしてそのUNHCRによる人道支援は、救済を望む自国内の世論をかわしたい欧米各国政府にとって、体裁のいいアリバイとなっていた。
そのなかで一つの事件が起きた。セルビア系武装勢力が道を封鎖して救援物資の運搬を妨害したのを機に、ムスリム側指導者は対抗策として援助物資をボイコットしたのである。いわばハンガーストライキである。支援が止まれば住民の命が危うくなるのは明らかだった。緒方さんは双方の指導者との交渉の後、援助活動の停止を決断する。
この本は、1990年からの10年間、国連難民高等弁務官を務めた緒方貞子さんへの長時間インタビューをまとめたものである。200ページ程度の新書であるにもかかわらず、緒方さん、そして国際的な人道支援に携わる人々の人間的な魅力を十分に伝える。
緒方さんはその援助停止事件ことを回想してこう言う。
「向こうは政治的な理由でボイコットしたわけですから、それで逆に停止するという....まあ、非常に怒ったのでしょうね、自分で。....これがちょっと大事件になりまして....」
突然の援助活動停止宣言に動揺した国連・各国首脳陣は緒方さんに非難を浴びせた。しかし、意外にも事態は収束へと向かった。国際世論は人道支援を妨害したセルビア側を非難し、それに気をよくしたムスリム側指導者はあっけなくボイコットを解除したのである。さらにその活動停止が「脅し」となって安保理決議へとつながった。
安易な「人助け」とは程遠い人道支援の実態が描かれる。ルワンダでは武装勢力に難民キャンプを占拠されながらも、その中にいる難民のためには援助物質を送り続けなければならないという矛盾に満ちた決断を迫られる。ティモールでは難民支援を快く思わない民兵たちによって職員が惨殺される。アフガニスタン難民は世界に見捨てられたまま、あの9.11を迎える。あるときは政治の道具にされ、あるときは武装勢力の盾にされ、人道支援では問題の根本的解決にはならないことを認識しながらも、UNHCRの人たちは難民を救うために少しでもましな策を模索する。
行動のもとになっているエネルギーはと問われて、緒方さんは、
「怒りかもしれないですね。....この10年で私、癇癪もちになったのかもしれないけれど」
と不意に笑顔を見せる。私たちの日常も些細な怒りにあふれているが、怒りのスケールの違いに恥ずかしくなる。世界の「実態」を「受け入れられないこと」からくる「怒り」だそうだが、他人の不幸が受け入れられないとすれば、それはむしろ「やさしさ」と言うべきものだろう。
国際貢献・人道支援に興味がなくても、これからの人生を模索している若い人たちに読んで欲しい一冊だ。

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紙の本ナショナリズムの克服

2003/02/20 01:49

人生は博打だ。必然性を求めない方が気持ちがいいこともあるような気がする。

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

緊張感あふれる対談。読み出したら止まらなかった。こんな本は久しぶりだ。日本を離れた時に感じた、なんとも言えないある種の心地よさを思い出した。頼れるものもなく、自分はただの英語の苦手なアジア人なんだ、と思った時の心地よさの理由がなんとなくわかった気がした。

例えば、自分の前で国境線が引かれたり...。大学入試の合格・不合格でも、就職活動でも、企業のリストラでもなんでもいい。利益が得られるかどうかを分ける、適当に引かれた線はいろいろある。多くの場合、はっきりした線引きの理由はないから、外に閉め出された人は割り切れない。すると線の中にいる人はその線の妥当性を躍起になって説明しようとする。つまり外の人の悪口だ。もちろん外の人はあきらめるしかない。ただ、その悪口が耳に残って、さらにやりきれない。

「一億総在日化」という言葉がこの本の一つのキーワードになっている。グローバル化のもと、自己責任ということがよく言われる。つまりは政府が国民に、福祉国家としての機能が国民全体に行き届くとはかぎらないことを認めて欲しいということだ。そして、福祉国家の恩恵を受けられない者は治安管理の一番の対象と見られる。簡単に言えば、閉め出された者は準犯罪者扱いされるということだ。それはまさに今まで在日韓国・朝鮮人の置かれてきた立場だ。そう考えると「在日」の問題は、今後誰にでも降りかかりうる問題だ。

ナショナリズムの嫌な感じの訳がわかったような気がした。得をする人の範囲を限定する理由付けの代表なのだ。民族による差別化を認めれば、次はすぐに、性別、出生地、職業、学校歴、宗教、その他いろいろなものによる人間のランク付けを連想してしまう。上の方には絶対入れてもらえないよなぁ...とか、つい考えてしまって、また憂鬱になる。本文中にも出てくる、留学中に英語の発音を直されて怒ってナショナリストになっちゃうエリートの人とかが実はちょっと羨ましい。

言い古された言葉だが、人生は博打だ。博打に負けるのがこわいから、出生とか身分とかなんらかの区別によって国や企業にあらかじめ勝つことを保証してもらいたくなる。誰だって危険な思いはしたくない。森巣博の肩書きには国際的博打うちとあったが、ぼくはその肩書きをその差別化による保証をあてにしないで生きる人という意味に受け取った。そのせいか、重いテーマを扱っているにも関わらず、読書後の印象はさわやかだ。あてにしない(できない)方が気持ちがいいのかもしれないと思ったら、もやもやしていたものが少しだけ晴れた気がした。

近代化におけるナショナリズムの考察もさることながら、姜尚中が在日韓国人としての自分の半生を語るところがこの本の一番の見所だ。この個人史があるから姜尚中の言葉に説得力がある。

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幽霊のいる生活

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

冒頭、著者は嘘を書かないことを強調する。幽霊のことを書くのだからしかたない。しかし、本当かどうかなど、どうでもいい気になるのが、川端康成邸を訪問したときの話だ。

そのとき川端康成はすでに他界していたが、秀子夫人の話すことが尋常でない。「ついこの間」三島さんが訪ねてきて、「とてもお気の毒なお姿だから」「大変なお力のあるお坊様に」お願いしてお首だけは元通りにしてもらったのだという。ネタばれにならないように、あとは本書を読んでほしいが、ご夫人の話す内容、話し方、そしてその主を亡くしたお屋敷までが、まさに川端康成の晩年の小説の世界そのものなのだ。こういった環境の中で川端文学が生まれたのかと思うと、なにか、うれしくなった。

本書は、川端康成邸でのことを書いた「三島由紀夫の首」をはじめ、幽霊にまつわる話(あとがきを入れて)16編を収録する。世界中を探しても広い意味の幽霊が登場しない文化はおそらくないだろう。今でこそ非科学的といわれ敬遠されているが、信じる信じないではなくて、幽霊に対してもう少し適度な距離の取り方があってもいいのではないかと思った。

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紙の本ヤノマミ

2011/05/03 21:59

ヤノマミの森での壮絶な150日の記録

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

死者の弔い方は文化の鏡と言われるが、ヤノマミは遺骨を食べる。

本書は、生まれたばかりの子供を白蟻の巣の中に入れる衝撃的な場面が話題になったNHKのドキュメンタリー『ヤノマミ』を制作した著者の渾身のルポタージュ、南米アマゾンの先住民族ヤノマミの村で生活を共にした合計150日にもわたる命がけの取材の記録、映像にできなかった多くのエピソードを含む貴重な学術的資料である。囲炉裏に埋めた死者の骨を食べる「死者の祭り」は撮影が許されなかったそうだ。

「ナプ急げ!」狩りの取材では、子供たちにそう言われながら、取材スタッフたちは必死で森の中の彼らを追う。「ナプ」とはヤノマミ以外の人間、もしくは、人間以下のものという意味だ。けっして批判の目を向けない取材姿勢が、ドキュメンタリー『ヤノマミ』を生んだことがわかる。

生と死、自然と人間が混然一体となった世界が広がる。それは、私もかつてやみつきになったガルシア=マルケスの『百年の孤独』の世界だ。例えば、4年と11か月と2日雨が続いたという挿話も、ヤノマミの森では違和感がないと著者は言う。

本書終盤では、徐々に「文明」側からの視点に移り、ファンタジーの世界から引き戻される。ブラジルでの先住民保護の運動にも触れ、政治の世界で戦うヤノマミも紹介される。町に研修に来ていたヤノマミを、著者が取材の帰りに訪ねたとき、脇に置いてあった弓が空港の土産物のようだったそうだ。森ではあれほど頼もしく見えた物が。余計な劣等感を感じないで森に帰ってほしいと著者は願う。

映像ではあまり印象になかった「偉大なシャーマン」の言葉の意味や製作者の意図が本書を読んでわかった。オマム(神)の知恵を「ナプも知らねばならない」とシャーマンは言う。ヤノマミの村がこのままであってほしいと私は思った。

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紙の本戦場でメシを食う

2009/12/04 12:50

戦闘地域での日常

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

題名に惹かれてこの本を読んだ。
戦場カメラマンとして第一人者である著者の武勇伝を期待したが、
いい方向に裏切られた。内容は戦場での食事、日常である。
そして戦闘地域で感じた素直な驚きと失敗談。
飾りのない体験談を身近に感じた。

どこのゲリラの飯がうまいかが話題になる日常。
少年がAK47自動小銃を持って自転車に乗る日常。
素手で不発弾を処理する日常。

淡々と書いてあるから引き込まれるが、死と隣り合わせの日常が続く。
野外の電球の周りは虫が集まるので、皿に入らないように
暗闇で食事を取る。ぼくがわかるのはせめてこれくらいだ。

自分のことで恐縮だが、
就職のとき、「ベトナムに行ったか」というアンケートの質問に
意味もわからずNOと書いた。ベトナムとはあのことだと後でわかった。
緑の迷彩服は珍しくないが、生地のしっかりした砂漠色の迷彩服を
街で何度も見かけて、この国は今も戦争をしていることに気がついた。
アメリカに来てすぐのことだ。
ぼくには知らないことが多すぎると思った。

素人が危険な地域に行くのは無謀なだけだと思うが、著者の言う
「未知のことに対する恐怖より、それを知りたいと思う好奇心」
という気持ちはわかるような気がする。
こういう本を若い人に薦めていいか、これはよくわからない。

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紙の本サヨナラ、学校化社会

2003/01/06 03:55

弱者の味方

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

まったく昔はよかったよ。周りに一人や二人は狂った暴力教師が必ずいてさあ。こっちに悪気があるわけでもないのに、勉強ができないだとか、規則だとかで、殴るは蹴るは。もちろん悪気のあるやつらもいたけど、そういうやつらには暴力教師もビビッちゃってさ。なんにもしないの。世の中の理不尽ってやつ、感じちまったよ。あの暴力教師がいなかったら、今でも思うよ、オレの少年時代は楽しかっただろうって。だから昔はよかったよ。ところが何だよ、今は。ゆとりの教育だとか言って、わからなかったら授業を簡単にするんだとよ。おまけに「気に入らない教師がいたら、すぐに言ってください。注意しますから」だってさ、校長が。学校で、勉強で勝つのって、せいぜい十人に一人だろ。負けたやつは自分が悪いと思うしかないだろう、それだと。勝ったやつだって、勝ったやつだけまたいい学校に集められて、競争して九人負け。自分はバカだから楽しくなかったって、意地でも思わせたいのかね、「学校」ってやつは。

と愚痴も言えないぐらい「学校」にやられちゃった人たちの救済に弱者の味方上野千鶴子さんがあたります。ぼくは以前、上野さんのことを、パンツのことを書いてお金をもうけたエッチなおばさんぐらいにしか思っていなかったのですが、webで「あげた手をおろす」という文章を見つけて、思わず恐縮してしまいました。すみません。驚いた証拠にそのページを「保存」していました。恐れ入った文を勝手に少しだけ引用してしまいます。

「わたしはフェミニズムを、ずっと弱者の思想だと思ってきた。もしフェミニズムが、女も男なみに強者になれる、という思想のことだとしたら、そんなものに興味はない。弱者が弱者のままで、それでも尊重されることを求める思想が、フェミニズムだと、わたしは考えてきた」。
(日本女性学会ニュース89号で全文を読めるみたいです。アメリカのアフガニスタン攻撃のことを書いたものですが。ぼくはasahi.comにあった池澤夏樹のコラムで見つけました。)

弱者が弱いまま、よりよく生きていける社会の実現を目指してきた人なんですね。そういう上野さんの今一番ほおっておけない弱者が、学校教育という制度に押しつぶされそうな子供たちなんだと思いました。そういう本だと思います。「わたしバカだし」と言ってる子たちや、疲れきっている優等生が読んだらいいのにと思います。この本の書評はすごくたくさんあったので、この辺でやめます。書評数が人気投票みたいですね。最初の変な文は、なんとなく書いてしまいました。

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紙の本ほんまにオレはアホやろか

2002/09/23 05:43

元気がでます。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

子供の頃に読んで面白かった本は読み返したくないものです。
今読んでがっかりしたらどうしよう、などと考えてしまいます。
「ゲゲゲの鬼太郎」で有名な水木しげるの少年時代の自伝で、
「のんのんばあとオレ」が、ぼくにとってそんな本です。

文庫新刊の案内に自伝「ほんまにオレはアホやろか」を見つけたので、
これならと思い読んでみました。今度は人気作家になるまでの自伝です。
読んでみると、青年水木しげるは少年の頃よりさらにおもしろい。
軍隊の中にいるのに南の島のその土地の人たちと仲良くなってしまう、
マイペースな水木しげるも魅力ですが、戦後の極貧生活。
特に、極貧の中、申告した収入が少なすぎると税務署の役人が来たときに
「あんたらに、われわれの生活がわかるもんかい」
と一喝した場面は痛快です。あったことをそのまま読んだら、
ただの苦労話ですが、水木しげるが書くと不謹慎ながら笑えてきます。

初版は78年。不況・就職難の今、タイムリーな復刊です。
なんだか元気が出てきます。作品(マンガ)に対する自信ではなくて、
「絶対に生かされる」という自信があったと言います。

水木しげるはやっぱりすごい。
「のんのんばあとオレ」を読み返してみてもいいかな。

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紙の本「日本が変わってゆく」の論

2002/08/13 00:02

橋本治が分かりやすくなってしまった。

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かつて私は巻頭エッセイ「ああでもなく、こうでもなく」を読むためだけに「広告時評」を購読していたことがある。橋本治は思想の迷宮の不親切な案内人である。最初こそ親切に案内してくれるが、そろそろ出口かなと思ったところがまだ迷宮のまん中。そこで「あとは勝手に」とばかりに案内役がすっと消える。残された読書は当惑するばかり。だが、橋本治のエッセイはそんなところがおもしろい。その橋本治のエッセイが、小泉純一郎、鈴木宗男、田中真紀子、野村沙知代という強烈なキャラクターを得て、分かりやすくなってしまった。平安時代から延々と続く日本の政官癒着体質、「自由主義経済VSその他」の対立構造、実に面白い。そして20世紀の終わりを繰り返し繰り返し考察する。
しかし、分かりやすい。20世紀は消費の世紀で、消費社会のシンボルは広告で、分かりやすさは広告の属性だ。橋本治までが分かりやすくなってしまったことが20世紀最後の象徴なのか。そうだ、このエッセイは20世紀が終わってすぐの「広告時評」の巻頭エッセイだったのだ。あとがきでは「自信をもってなにも分からない」ことを宣言する。すでに時代は21世紀。混沌の時代にこそ橋本治の時評はふさわしいはず。続編が楽しみだ。

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紙の本つげ義春1968

2002/12/16 05:43

「ねじ式」誕生の周辺

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「だが、「ねじ式」だけが、そのシュールな形態ゆえに絶賛を浴び、
まったく同時期に発表された「ほんやら洞のべんさん」が無視されるという
現実を前にして、人々は作品の内奥に横たわるテーマや表現性よりも、
自らの保身に都合のよいモダニズムに接近するのだろうか、という感慨をもった」。
生涯を通してつげ義春のマンガと関わってきた著者の言葉だけに、重い。
つげ義春の作品誕生に編集者として立ち会った著者が「ねじ式」誕生周辺の
エピソードを多面的に語る。

時として漠然とした不安や焦燥感におそわれることは誰にでもあると思う。
そんなときにつげ作品はやさしい。これ以上に落ちようのない生活の疑似体験が、
開き直りともいえるある種の安心感を与え、極度の緊張から解放する。
最初に引用した言葉をつげ義春の最も近くにいた人が書いているの見てうれしかった。
「ねじ式」だけが異色を放っている気がする。否応なしに強烈な不安を読者に
与えるからだ。そこに「癒し」はない。それだけを芸術と持ち上げるとしたら、
対岸の火事を「すばらしい」と眺めているようで気分が悪い。
ぼくはむしろ旅ものや貧乏暮らしで李さんとかが出てくる作品が好きだ。
「自分がどれほどのものだと言うのだ」と自意識過剰を反省させられる。
そして、それこそが「癒し」になる。
「ねじ式」と「ほんやら洞のべんさん」が同時進行で書かれたことを
「作家としての健康さ」と著者は表現していた。健康さは読者にも必要だと思う。

つげ義春ほど作品と作者の印象が一致している人は珍しいそうである。
「ガロ」関係者で熱海に行った話で、つげ義春がストリップの客引きと交渉して
入場料を値切っている姿を、著者はかっこいいと感じる。
同行の人たちの反対で結局入らなかったが、つげ義春と一緒にストリップを
見てみたい人は以外と多いのではと、ふと思った。

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