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  3. 桃屋五郎左衛門さんのレビュー一覧

桃屋五郎左衛門さんのレビュー一覧

投稿者:桃屋五郎左衛門

23 件中 1 件~ 15 件を表示

インターネットをめぐる思考への誘い

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 新しいものをめぐる言説は、多くの場合、安易な楽観主義に基づく無批判な讃美か、郷愁に支配された道徳的な論難のどちらかに陥りやすい。本書もその例外ではない。しかもドレイファスは、インターネットの可能性をある程度認めながらも、たとえば他者と他者とをあたかも何も媒介していないかのように結びつけ、現実世界の遠近感を反転させるメディアとしての性質を見極めようとはしていない。このようなインターネットのメディアとしての側面への考察が充分になされていないことがインターネットを論じる上での限界となっていると感じられた。

 ドレイファスは、脱身体化というキーワードを切り口にインターネットを批判している。冒頭でその四つの論点が提示され、それらが続く四つの章で順を追って吟味され、最後に総括されるという構成になっているので、論旨を辿ることは容易だ。以下、ドレイファスのインターネット批判の骨子を簡単に整理してみよう。

 一点目は階層的に体系化されていない情報の検索しづらさに対する批判で、さらに『コンピュータに何ができないか』以来の、情報を情報として認知するためのフレームの必要性という観点から、ネットにおける身体性の欠如と情報をツリー状に分類していないハイパーリンク構造が関連性の能力、つまり世界を理解する能力の喪失をもたらすのではないかと警告している。二点目は遠隔学習における当事者性の欠落による限界の指摘。ドレイファスはこれを教える−学ぶという関係において、関わりあいや模倣を可能とする両者の現前を重視する立場から論じている。三点目はリアリティの感覚の源泉としての身体の重視という立場から、テレプレザンスやヴァーチャルな世界が人や事物に対するリアリティを喪失させるという批判。四点目は現実的なリスクを伴う真正なコミットメントにこそ人生の意味があるとする立場から、匿名のリスクなきコミットメントが人を無関心・無差異の支配するニヒリズムに導くという主張で、キルケゴールの「傍観的な観察者」(やハイデガーの「世人(das Man)」)への批判を援用した議論になっている。

 ドレイファスのインターネット批判は、特に最初の二点に顕著だが、より正確にはインターネットをめぐる誇大宣伝や楽観的に過ぎる言説に対する批判と呼ぶべきものだろう。ハイパーリンク構造の情報を検索する不便さなどは、ドレイファスに指摘されるまでもなく周知のものだ。問題は、ドレイファスが指摘するような、ハイパーリンク構造がもたらす関連性の能力の喪失ではなく、雑多で玉石混交の情報を関連性の能力によっていかに整除し、どのような形の知として構成していくか、という点にあるのではないか。またドレイファスは現実世界とヴァーチャルな世界の断絶を強調し、前者を上位に置くヒエラルキーを前提に、身体から切り離された精神がその存在の足場をヴァーチャルな世界に移すことの危険性を指摘するのだが、そもそも私たちの精神が身体から切り離され、ヴァーチャルな世界のみをその存在の棲家とすることなどありえるのだろうか。

 本書への疑問はまだまだある。しかし、それらの疑問は直ちに幾つもの新たな問いを生む。たとえば、ヴァーチャルな空間を媒介としてリンクされた複数の現実世界のリアリティはどのような変容を被るのか、そのようなリアリティの変容がわれわれにどのような影響をもたらすのか、さらに膨大な情報とインタラクティヴな性質によって知が再編成されるとして、それがどのように編成されるべきなのか、といった問いだ。これらの問いはドレイファスの問いの傍らに位置するものであり、本書を媒介とすることで得られた収穫であることもまた確かだろう。

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紙の本つっこみ力

2007/05/23 22:49

人間を眼差すためのメディア・リテラシー入門?〜つっこみ入りヴァージョン

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 擬似科学や権威に対しては批判力も、論理力も、メディア・リテラシーも有効な批判のツールとはならない。人は必ずしも正しい言葉を必要とはしていないからだ。したがって正しさを正しさとして主張するよりも、正しさをおもしろさに転化した方が有効な場合もある。そこで愛と勇気とお笑いの三つの柱で構成された「つっこみ力」の出番となる、というのが著者の主張だ。「つっこみ力」とは場を盛り上げようとするサービス精神と自己犠牲の精神を要する。ただし、異才・奇才の業であるボケと異なり、「つっこみ」はある程度修練で鍛えられるものだ、ともいっている。(ホンマカイナ?)
 では「つっこみ力」とは何か。著者は「メディア・リテラシー」とは一線を画す、しかもそれに変わる思考のツールとして「つっこみ力」を提唱していながら、なかなか一般に定着しない「メディア・リテラシー」という語の親しみやすい代替案として「つっこみ力」を提唱していたりもする。また対象があまりに広範囲にすぎる「メディア・リテラシー」によりも、統計やアンケートのデータだけに対象を限定した「リサーチ・リテラシー」の方を好んでいると述べる一方で、逆に「メディア・リテラシー」が対象をメディアだけに限定することへの不満を隠さなかったりする。(デ、結局「ツッコミ力」ッテ何ヤネン?)
 本書の前半は理論編、後半が実践編となるが、残念ながら本書の中では「つっこみ力」を身につけるための具体的な修練方法が書かれているわけではない。しかし、後半部分を読めば、「つっこみ」を入れるポイントを見つけるコツはわかってくる。そのコツとは、ふたつの現象の間に因果関係が認められると主張する何らかの仮説に対し、他に有力な仮説がないか考える、ということではないだろうか。(ダカラ、ソレガ論理力トチャウンカイ)
 たとえば相関関係が認められそうなふたつの現象があり、それらの現象の間に因果関係を読み取って仮説を組み立て、さらにいくつかのデータでこの仮説を裏づけようとしている言説があるとする。こうした言説に対して、ふたつの現象の間に一見したところ相関関係があるように思われるのは単なる偶然なのか、あるいはふたつの現象が共通の原因によってもたらされているのか、それとも原因と結果の関係が転倒している可能性はないかなどと吟味しながら、現象をよりうまく説明できる代替仮説を考える姿勢を身につけるということだ。(ソウイウノガめでぃあ・りてらしいチャウンカイ?)
 そもそも本書が「つっこみ」を入れているタイプの本のスタイルを真似て、講演の口述筆記の文体による新書版で出版し、そこに『・・・力』というタイトルを冠した著者もおかしいが、それ以上に巻末の「好評既刊」に本書が「つっこみ」そうな本を並べるという編集部の手の込んだボケぶりはさらにおかしい。しかし著者の本意は案外真面目なもので、前半では自己目的化した社会科学に「つっこみ」を入れながら、後半でデータばかりを追うのではなく、もっと身近な人間との関わりに眼差しを向けよ、というメッセージを発している。そのために、まずは「つっこみ力」を、ということだ。いずれにせよ、本書は気軽に読めるメディア・リテラシー、あるいはリサーチ・リテラシーの入門書と言えるのではないか。
(ホナ、サッソク130ぺえじノ職別年間賃金一覧表カラ、ツッコミイレテミヨカ!)

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紙の本歴史の想像力

2011/06/19 23:51

過去と現在の隔たりをこえて

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 『二十世紀のプリズム』(角川書店・1999)の新装版ということらしいが、かなり大幅に再編集されているようだ。奥付を見ると、2001年10月の発行となっており、巻頭の「はじめに」の日付は同年9月となっている。この中でイスラムとアメリカという「偉大な両文明が『文明の衝突』といった誤った水路に迷い込まないように願わざるをえない」と記している。

 同時多発テロ当時、著者はしばしばTVのコメンテーターとして登場していた。本書が絶版となったのは、企画としてはずっと以前から準備はされていただろうが、こうした時事的な側面を強調して、あるいは時事的な読み物として編み直されたからか。とはいえ、そのまま絶版となるにはもったいないと感じる。

 全体は5つのパートに分かれていて、前半の大佛次郎や辻邦生らの歴史小説を論じた「歴史・文学論」、歴史上の人物や歴史学の先達を論じた「人物論」と、後半のグローバリゼーションが進行するなかでのイスラム圏情勢を中心に論じた「民族関係論」と現代史の方法論を論じた「現代史論」に挟まれて、著者の歴史叙述に関する基本的なスタンスを述べた「史論」が置かれている。試みにそこから引用する。

もともと、歴史を意味する「ヒストリー」(history)とは、物語を指す「ストーリー」(story)にほかなりませんでした。よく歴史と文学の性格が比較されることもあります。たしかに、歴史と文学には大きな共通点があるかもしれません。この二つは、自然への愛や人間の可能性に対する信頼に加えて、〈叙述〉という表現手法を重視する点でも似ているからです。英語のヒストリー(history)の語源であるギリシア語のヒストリアには、「歴史叙述」の意味もあるといわれます。この意味で、ヒストリー(歴史)は、ストーリー(物語)に通じる、といってもあながち間違いとはいえないでしょう。(「ストーリーとしてのヒストリー」)

 その上で、ヘロドトスとイブン・ハルドゥーンの歴史観を比較しながら、

歴史とは、文学や年代記の素材にもなった事件を優雅に記録し、ときには詩文で感興を飾り立てながら、われわれに人間関係の機微を理解させてくれる営みである以上、何よりも読書の楽しみに堪えるはずのものなのです。歴史の変化と不変が人間関係の機微にいかなる影響を及ぼしたのかという問いは、いかにして国家の盛衰が進んだのかという問いと同じくらい重要なものです。(「ストーリーとしてのヒストリー」)

と結論する。

 こうした観点から書かれた本書の諸篇は明快な論旨で読みやすい。しかも一気に読み通しながら、さらにいくつかの歴史書を読みたくなる。本書でも取り上げられているヘロドトスでもよいし、あるいはブルクハルトやホイジンガでもよいだろう。

 ただし、引用した「ストーリーとしてのヒストリー」にも見られるように、著者にとっての歴史叙述(学)とは、「かつて」という異質なものを「いま」において何らかの必然性をもつ、理解可能なものとして提示するものとして捉えられている。現在と過去とのあいだにある絶対的に隔たりを解消し、そこに何らかの連続性を見出す作業といってもよいだろうし、「いま」と「かつて」を「ここ」と「よそ」と置き換えることも可能であると思われる。

 著者はホブズボームの西欧中心主義を批判しているが、著者自身の思考の前提となっているものも普遍的な人間性というヨーロッパ的理性の産物であることも確かだろう。それゆえか、サイードなどについては、本書の端々で批判を加えることになる。

 もっとも、こうしたことを思ったのは、「歴史」と「想像力」という二つの概念を結びつけている点に、擬似科学としての歴史学へのラディカルな問題提起がなされているのではないかと勝手な思い込みをしたからなのだが。

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紙の本青の美術史

2003/03/30 21:27

「青」をめぐる逍遥〜彼らは何を表象したのか

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

≪「青」という色をただひとつの手がかりにして、美術の世界を、あるいはもう少し広く人間の文化を、さまよい、散歩してみる。さまざまな青の世界に入ったり、出たりしながら、たぶん究極的には、人間の、そして人間が世界を表象することの不思議さを感じ、考えてみる。≫

冒頭でこのようにその狙いが語られた小林康夫の『青の美術史』は、古代オリエントからイヴ・クライン後まで、主に西洋美術史における「青」の変容の歴史を概観するという一冊。


 それにしてもなぜ「青」なのか。

自然界に青いものはほとんどない。なるほど空や水も本来は無色透明で、その青さは「光の効果としての『青』」だった。さらにヨーロッパの源流たるギリシアにあっては、世界は黒と白と赤と黄」からなっており、「青」はむしろ夜と死の色、辺境の色、野蛮な色とみなされていた。そこにキリスト教がヨーロッパ文明に超越神的な「運命の色」としての意味づけをもたらす。青の顔料の稀少性という当時の事情もあり、こうして「青」は「遠い、近づきがたい色」と位置づけられ、やがて人はそのような「青」に形として捉えがたいもの、たとえば理想や夢や世界理解の表現を託していったのだ、という。それゆえ「青」の世界を探索しつつ、「人間が世界を表象する仕方の歴史」を辿って旅することは、「人間の魂の根源にある限りないものへの憧れを分有」する試みともなる。


旅のはじまりは神聖な「青」の系譜を辿る旅。フラ・アンジェリコが描く聖母のマントの「信仰の色」から、一旦時間を遡り、ビザンチンのデーシス(代願図)を彩る「無意識の部分に浸透してくる」青と「聖堂を奇跡の場とする」シャルトルの荘厳な青を訪ね、この東西の「青」の合流する地点として、ジョットの「聖なるものが出現する場」に至る。

次に一気に時代を下ると、プルーストともに、「黄」の対比を軸に「日常の事物が周囲の空間や空気に与える色」として見出された光の中に内在するフェルメールの「青」や、「性格、現在の感情」を映し出す色としてのシャルダンの「青」に出会い、ヘルダーリンやノヴァーリスともにフリードリヒとルンゲの「呪われた運命の象徴」としての青の系譜を辿りつつ、そこからマラルメの蒼空への憎悪を連想し、マラルメの同時代人マネの「欲望の戯れ」としての青へ、あるいは画家自身の「感覚」を色に翻訳したセザンヌの「青」へと旅はつづき、そこからマチス、ピカソ、サム・フランシス、ポロックらの「青」を経巡って、「空間の向こう側」へと「行って」しまったイヴ・クラインの「青」に辿り着く。

このイヴ・クラインによって、「現実に存在しない」がゆえに様々なものを表象してきた「青」は、「事物の意味にも、人間的な意味にも還元されない純粋状態で凝縮された」「青」へと変容したが、著者は、それがまさに人類が「青」を自らにとってもっとも根源的な色であったことを知った同時期の経験 —ガガーリン飛行士が宇宙船の窓から、つまり文字通り「空間の向こう側」から、地球が「青い惑星」であったことを発見した経験! — と呼応していると指摘する。「青」は「色のなかにあり、また、色の外にある」。思えば、「青の歴史とは、現存と不在のこの根源的な二重性の絶えざる変奏」でもあったのだ。


 著者とともに「青」の世界を逍遥する時間に私は心踊らされた。本書は、すでに見たように「青」の表象史の大まかな見取り図といったもの。より網羅的な「青」の美術史を望むなら、あとは読者それぞれが自ら「青」の世界を探索し、それぞれの地図を描けばいいだろう。その場合にも、本書はよき旅のガイドブックとなるはずだ。惜しむらくは、カラー図版が少ないこと、またもう少し判が大きくてもよかったのではないかということか。

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書物のあとに〜ハーバーマス嫌いの思想家が語る「記憶はあるが、思い出したり忘れたりすることのできない」メディアがもたらす知のかたち

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 グリーナウェイの映画『プロスペローの本』の中でとりわけ印象的なのは、プロスペローが「本は一切無用」と宣言した途端、天使たちが宮殿内に巨大な音を響かせながら本を閉じていく場面だった。あの天使が本の上に腰を降ろしているスティル写真を表紙にあしらった本書の中で、ボルツが提示するのは、活字メディアに代わるハイパーメディアによって形成される新たな知のデザインの設計図だ。

 けれども、この新たな知のデザインを語るに先立って、ボルツはまずコミュニケーション、インターフェース、メディア美学という三つの鍵概念を通じて、この新たなメディア環境がもたらす人間の認識の変容を素描する。それは次のようなものになる。
活字メディアによって形成された知(グーテンベルク銀河系)の線的な合理性は、新たなメディアによって、相対的な配列の中の思考にとって代わられる。たとえば因果律に代わって再帰性へ、分類に代わってパターン認識へといった具合に。また新しいメディアは人を情報の支配者ではなく、メディア同士の結節点として、ユーザー・インターフェースという表面に向き合う存在にする。さらにこの新たなメディア環境は、異なるメディア間のブラウジングを可能とする。

 では、ハイパーメディアが可能にする「新しい知のデザイン」とはどのようなものなのか。原著の刊行が93年とのことで、今ならもう少し違ったものになるかもしれないが、ここではテッド・ネルソンのドキュヴァース構想を参照しながら、「何度もパースペクティヴの変更が行われ、再解釈が繰り返される」多元的なハイパーテキストとして描き出される。ボルツは、このようなハイパーテキストが実は注釈や学問論争の蓄積によって編まれたテキストであるタルムードのようなテキストとして既に実現していたと指摘する。つまりハイパーテキストとは古くて新しいテキストの形態だというのだ。

 また、サイバースペースを近代における知覚(とくに視覚)の拡張の歴史に位置づけようとする議論も興味深かった。すべてを見るという夢を実現する装置、遠方を室内に封じ込めるファンタスマゴリの装置であるパノラマにサイバースペースの起源を見るボルツは、今やサイバースペースにおいて、観察者がイメージの周囲の枠組みを破壊し、自ら視界の中に入り込むことで、すべてを見るパノラマ的統覚が完全なものになりつつあるという。ただし、ボルツは、パノラマ的な遠方や過去が異質なものに開かれているわけではなく、ゆえに世界を平板で閉じた影像としてしまうものであると付け加えることも忘れない。

 ルーマン、ベンヤミン、アドルノ、ドゥルーズ、デリダといった思想家やマレーヴィッチ、モホイ・ナジ、グリーナウェイといったアーティストを自在に参照しながら展開するボルツの議論は、刺激的で魅力的な細部に充ちている。もっともボルツが示す、活版印刷機のプレス(=抑圧)から、サイバースペース上の自由で多次元的なテキストへの解放という(余りにも割り切った)図式を前にして、それでも<書物>という形態が完全になくなるわけでもあるまいという感想をついもらしてしまうのは、私が書物を読むという行為が、単にそこに印刷された文字を目で追いつつ情報を得るだけのものではなく、物としての書物や紙自体の触感や質感への偏愛をも喚起させるものだと考えているからだろう。

 ついでに付け加えておくと、本書の第3章でボルツはゲーレンの「豊富な知識を与えられた無知」という言葉を引用しながら、マスメディアがもたらす大量の情報の無方向性を論じているが、最近邦訳の出た『世界コミュニケーション』では、これを出発点とし、さらに多岐に渡って検証され、考察が深められている。

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ネット生活のお伴に

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 ネット掲示板を見ていたり、メーリングリストに参加していると、極端な意見が飛び交ったり、特定の見解が場を圧倒して多数派意見のように錯覚され反対派を沈黙に陥らせたり、ある種の話題が他の何にも増して当面考えるべき問題であるかのように見えてしまったりする光景に遭遇する。本書ではこれらをリスキー・シフト現象、沈黙のらせん現象、メディアの議題設定機能といった社会学でマス・メディアや流言を分析する用語を用いて説明する。筆者は、ネット上のコミュニティもまた人が集まる空間であるという認識に立っているがゆえに、このように社会学的な分析理論を駆使してヴァーチャルなコミュニティを考察することが可能だという。しかも、こうした認識によって、現実世界とヴァーチャルな世界を分離して考える視点からは設定しづらい、ネットを通じた市民の育成とコミュニティ形成の可能性といった課題が取り出されることになる。

 インフォアーツとは、「市民として自律的に思考し、行動するのに必要とされる基礎的な教養・教育」であるリベラルアーツを源流としていて、インフォテック(情報技術)の対抗概念として提示されている。が、両者は単に排他的な関係にあるのではなく、後者を前者が包含するものとして捉えればいいだろう。本書では、メディア・リテラシー、情報調査能力、コミュニケーション能力、シティズンシップという四つの柱からなるインフォアーツという概念を駆使して、ネット・コミュニティ、情報教育、市民的公共圏といったテーマが取り扱っていく。

 最初の二章では、初期のネット・コミュニティがガバナンス原理に基づいて一種の市民主義的文化を合意形成してきたものの、それが匿名性の増大、統制主体の欠如、大量性によって崩壊しつつあることが指摘される。次に冒頭で紹介したネットの言説空間の諸現象を説明しているくだりが続くが、この部分はメーリングリストや掲示板の管理者にとって大いに参考になる視点を含んでいるのではないかと思う。第三章では高校の情報教育が俎上に上せられ、それがインフォテックに関する教育に限定されることへの危惧が表明される一方で、初期のネット社会が有していた市民育成の機能をインフォアーツの理念に基づいて情報教育に託す方向性が示唆される。
 筆者の考えるネット社会を生きていく「市民」のあるべき姿(眼識ある市民)が具体的に論じられるのが第四章であり、これに続く二章がこの「市民」像の具現化の手段、つまりインフォアーツの実践のための具体的な提案に充てられている。著者はインフォアーツ教育の場として対面集団を想定していて、そこから、大学であれば授業クラスごとのメーリングリストの開設や掲示板などの活用、さらに一般社会では生協、PTA、NPOなどのローカルな組織がふさわしいと提案する。さらにネット・コミュニティにおける「専門家」の果たすべき役割についても言及される。

 ネット・コミュニティの現状に対する分析は、私たちが日頃感じていることを明確に指し示してくれる。それよりも興味深いのは筆者の提示するネット・コミュニティの未来像で、いつでも参加者が対面できるローカルで小規模なグループを「苗床」としてインフォアーツの育成に活用するという筆者からの提案は、充分に実現可能なものだと思われるし、「苗床」が成長すれば次にそれらを相互にネットワーク化することで「分散的知性」の連鎖を実現するというヴィジョンも楽しい。
 本書は情報教育に携わる人、あるいはこれから携わろうとしている人にとって大いに示唆されるものが含まれていると思う。また、メーリングリストや掲示板の運営者だけでなく、その参加者、多くのネット・ウォッチャーにとっても、特にメディア・リテラシーの面で刺激をもたらすだろう。

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紙の本ムーミン谷のひみつ

2011/06/20 21:09

孤独と自由

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 『ムーミン』シリーズに登場する個々のキャラクターを紹介しながら、このシリーズの独自の世界観を概観する一冊。個と共同体をめぐってあれこれと考えさせられる本でもある。

 著者は、まずムーミン谷の住人たちの生活に「伝統や安定を是とするブルジョワ的なものと、自由や気楽さを重視するボヘミアン的なものが、かなり無頓着に混じりあっている」と指摘した上で、ムーミン谷という空間そのものが閉じているようでいて、多様な来訪者を迎え入れる開かれた場所としてある、と述べる。実際、ムーミン屋敷は家族のための空間のほかに、定住者たちの空間や来訪者のための空間も用意されている。そしてムーミン一家は、たとえば永遠の放浪者であるニョロニョロに魅入られたかのように父親が家出してもとりたてて騒ぐこともない。それは「どうでもいいと考えているからではない。互いの意志や自由をたいせつにしているから、いらぬ手出し口出しをしないだけだ」からだ。

 いうまでもなく、<私>とは、他者に対する何者かとして定義される。<私>が<私>であるために、他者の眼差しを媒介する。忌むべき冬を象徴する存在として誰からも排除されていたモランもまた、ムーミントロールの親密な眼差しを受けて喜びの舞を舞う。しかし、ことさらに誰もが仲良くあらねばならぬという奇妙な圧力も存在しない。

 自由な空間としてのムーミン谷。それは、ひとりでいることを許容しつつ、必要とあらば、相互に承認し合い、共感し合う共生関係が成立している空間ということだろう。あるいは「孤独」であることが、負の価値であろうとは見なされない空間ともいえるだろう。いうまでもなく、ここでいう「孤独」とは、 “solitude” としてのそれであり、 “loneliness”としてのそれではない。そして、このような「孤独」を許されることもまた自由であることの条件となる。

 ただし、こうした個と共同体のあり方を安易に北欧的な社会思想と見なすのは慎まなくてはならない。外の強力な力の抑圧は、内にその相似形を生むこともあれば、それに抗する強力なナショナリズムも生む。そのいずれもが内部の少数者の抑圧に転化しうる。フィンランドには人口の6%ながら、スウェーデン語を話す住民が居住する。トーベ・ヤンソンはこのスウェーデン語系フィンランド人の作家であり、『ムーミン』シリーズは、こうした言語的少数派によって書かれた作品だという。つまりムーミン谷とは、言語的マイノリティによって描かれた、一種の理想郷であるとも考えられるからだ。

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紙の本地図のない道

2002/08/17 21:09

場所が人々の記憶を呼び覚ます

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 『地図のない旅』には二つのエッセーが収められていて、表題作はイタリアのユダヤ人たちの悲劇を、「ザッテレの河岸で」は、ヴェネツィアの娼婦たちの末路をそれぞれ主題としている。
 何よりも心惹かれるのは流れるような記憶の連鎖のリズム。筆者のペンは、様々な場所や事物をめぐるひとつのひとつの記憶をひとりひとりの人物の記憶と結び合わせ、縒り合わせる。たとえば1943年のローマでのユダヤ人強制連行に関する本の思い出がローマのゲットの記憶につながり、それがユダヤ系の青年とその家族の思い出や、筆者にヴェネツィアのゲットを案内した看護婦の思い出を呼び起こし、ヴェネツィアの幾多の橋の記憶が『心中天の網島』の橋づくしと呼応して、道頓堀に住んでいた祖母の記憶を呼び覚ましていく。さまざまな「場所」の記憶とさまざまな生の断片の記憶。その生の記憶は充分な手ごたえと鮮やかさをもって描かれている。
本書でもっとも痛切で、しかも筆者の対象に向かうスタンスをよく表わしていると思われたのは次の一節。ローマのゲットのレストランで賑やかにふるまう人々を見ながら、ナチによって絶滅収容所に向かう列車に追い立てられていくユダヤ人たちへの思いを綴って、筆者は次のように書く。

「あの悲劇の主人公たちも、かつてはこの若者たちとおなじように満ち足りた愉しい時間を、人生のどこかで持っていたのだろうか。そう考えると、いくつかのせまい部屋にわかれたこのレストランの白い壁を爪で掘ってでも、あの日、ここで起こったことどもを、尋ねたかった。人間の歴史が生んだ、そして私たちがなんらかのかたちで自分のなかに抱えつづけている、無数の《パオロ四世》や《ヒットラー》たちのことを、ゲットの白い壁はだれよりもよく知っているはずだった」。

 須賀敦子という人は、なにげない通りの一筋や建物のひとつひとつにも、そこに生き、暮らした(あるいはそこを訪れた)人間の記憶が封じ込められていることに深い思いを寄せる人だ。さらに、上の引用箇所で筆者は安易に自己を弱者に語ろうとはしない。つまり、絶対に自分は弱者の立場には立ち得ないことを自覚し、ただ人々の発する声に耳を澄ませようとするだけだ。そうした姿勢がこの美しい文章とこの筆者に対する信頼の拠りどころとなる。

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紙の本安土往還記 改版

2011/06/15 00:49

孤独な絶対の探求者の肖像

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 この作品は、辻邦生の他の作品にしばしば見られる、ある人物の生についての証言という形式となっている。証言者は室町末期に宣教師について日本に渡ってきたジェノヴァ出身の水夫であり、彼は京都や安土の教区で宣教師たちの補佐をする傍ら、「尾張の大殿(シニョーレ)」に軍事顧問のような立場で接する。そしてこの小説はそこで見聞したことを故郷の友人に書き送った手紙という体裁となっている。むろん南仏の蔵書家の書庫から発見されたというこの書簡は作者・辻邦生による創作であり、巻末の改題によればフロイスやロドリゲスらの文書や『信長公記』などを題材として、それらを作者独自の視点で再構成して書かれている。(そのことは手近なところでは岩波文庫のルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』などで確かめることができる。)

 そして何よりユニークな点は、この書簡の書き手である話者をスペインのコンキスタドールに従ってメキシコに渡った経験もある、技術者に徹した世俗の人間としたことであり、しかも話者が書簡を送る友人がマキャベッリを容易に想起させる「フィレンツェ、ヴェネツィア、ナポリ公国における政体比較研究」なる書物の著者とした点だろうか。ここに描かれているのは合理主義的な精神の持ち主の共感に満ちた眼差しによって捉えられた合理主義的精神を徹底する政治家の肖像となる。

 すなわちここに描かれた「尾張の大殿」は「自分の選んだ仕事において完璧さの極限に達しようとする意志」の持ち主であり、「力の作用の場において力によって勝つ」という政治的原則のもとにあらゆる戦略を組織し、異常なまでの好奇心と探究心をもって「この世における道理」に執着する。そしてフロイスやオルガンティノら、「信じるもののために危険をおかし、死と隣りあって生きて」きた者へは友愛と信頼を寄せ、わけても巡察使ヴァリニャーノに対しては、「仕事のなかに自分のすべてを燃焼させ、自己の極限に生きようとしている」者同士の「寡黙のなかの友情」を結ぶ。

 しかし、その一方で己れに課した「事が成る」ための不断の克己と緊張、そして「理にかなう」方法の徹底を周囲に対しても過酷なまでに要求することで諸将との間の距離が広がり、次第に孤独の影を深めていく。「明徹な理知」によって「事物の理法」を見抜く眼をもつ一方で人間の弱さに対する愛情をも併せもつ「明智殿」との対比を通じて「大殿」の孤影を色濃く描き出していく。

 そうして深い信頼と共感を寄せられながら「孤独な虚空へとのぼりつめる」ことを要求されつづけることに疲弊した「明智殿」の謀叛によって、この「理法の王国」が音もなく崩れ去ったことへの衝撃とそれに続く無為の十年が語られて話者の証言は締めくくられる。言うまでもなく、「尾張の大殿」によってほぼ完成されようとしていた「理法の王国」の崩壊とは話者にとっても「大殿」を通じて実現しようとした理想の挫折を意味する。

 この孤独な絶対の探求者によって安土の城下に出現したつかの間の祝祭空間がこの作品のクライマックスとなる。闇の中に無数の松明によって浮かび上がる壮麗な安土城とやはり松明を掲げて疾走する黒装束の騎馬武者たちの奔流。そして彼らと同じいでたちで馬を駆り、ヴァリニャーノに別れの挨拶をする「大殿」。このとき合理主義的な精神を徹底することによって絶対の探求者となった「尾張の大殿」の相貌は、作者・辻邦生がしばしば主人公とした芸術家たちの相貌に近似する。

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日本語で世界と関わるということ

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 人は言語によってのみ世界内に存在し、言語という森の中に深く住まう。それゆえ、かえって自らが発する言表を客観的に捉えることが困難になる。だから日本語を母語とする者にとって日本語はあまりに自明のものとして映る。ところが多言語を母語とするものからすれば、それは尽きせぬ問いを誘発する。
 なぜ「行ってきます」という言表には「行く」と「来る」の二つの動詞が含まれるのか。「ちょっと待った」という言表のように、どうしてまだ実現していないことについても「た」がつくのか。フランス語を母語とする著者のひとりフランス・ドルヌは日本語という森の中で、日本語を母語とする者が何故そのように言うのか気にも留めない表現やそういうものなのだとやり過ごしている表現のひとつひとつを注視する。そしていくつもの不思議を見つけては目印をつけていく。観察の対象は日常的な日本語の会話文であり、それらを品の良いユーモアを交えながら、肩の凝らないレポートとしてまとめている。それは日本語を母語とする者にとっても日本語という森を散策するための良質なガイドブックとなる。
 バンヴェニストの流れを汲む発話操作理論の言語学という立場に立つ著者の狙いは、日本語(とフランス語との比較)を通じて、人間の言語能力のあり方を探ることにある。より詳しくいうならば、人間は、何らかの発話をするたびに、発話する主体である自分と外界との間にどういった操作によって関係の網を構築していくのかを探っていく。
 したがって本書の目的はあるべき日本語の姿を見定めたり、その文法体系を確立したりすることにはない。しかもこの案内人はヨーロッパ言語を規範として日本語を特殊性の枠に押し込めるようなこともしない。ただ人間の言語能力の中で一般化可能なものが異なる回路を通じて現れているに過ぎないのではないかと考えている。
 以下、本書が示す日本語の森の散策の経路を簡単に辿りなおす。
 まず「奥のほうへ進んでください」や「玄関先で失礼します」といった言表に見られる空間表象の仕方にはじまり、そこから空間表象においても重要な役割を果たす格助詞と動詞の述定関係が「表参道で降りる」「先生に本をもらった」という言表を通じて観察され、次に「行ってきます」「助けて!」という言表とともに時間に関する表現とともに、複数の発話主体をもつ発話状況が分析される。
 述定関係と発話状況の分析は「お湯を沸かして」「捻挫は治った」という言表を通じての自動詞・他動詞やアスペクトの分析につながり、また一方で「よくまあいらっしゃいました」「よく言うよ」といった質と量に関する表現の観察からモダリティの問題が取り出される。それが「ちょっと待った!」「しまった!」という言表における時間表現のシステムとともにより深く分析されたところで、最後に前述定関係を含む「いたっ!」という言表や終助詞を用いた「すごいよね」という言表の観察を通じて主体と発話の関係を探り、感覚や感情といった「原初的な領域」に分け入り、社会的な要素も含んだ日本語の発話空間の特質に迫り、話を締めくくる表現を取り上げた最終章で総括される。こうして読者は著者とともによく考えられたコースを辿りながら、自分が日本語を通じてどのように世界と関わりあっているのかを知ることになる。
 なお、アスペクトやモダリティといった述語についても本文中に噛み砕いた説明が加えられている。
 「おあとがよろしいようで」とは寄席で、噺のおわりを告げるとともに、次の演者に引き継ぐ言表だった。この言表は次のフランス語の言表に置き換えられる。
 Toute fin n’est jamais qu’un commencement.
(どんな終わりもなにかのはじまりにすぎない。)
この言葉とともに日本語の森の探索のつづきは読者に委ねられる。

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紙の本生きられた家 経験と象徴

2007/02/04 18:04

人間を読み解く鍵

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 家は、そこに人が住まうことで家である(人が住まぬ家はやがて廃墟となる)、ということは、しかしそれが余りにも自明のことであったせいか、しばしば見落とされてきた。そこで多木浩二は本書の表題を『生きられた家』という日常的な語感からすれば、ともすれば違和を覚える語句とすることで、このことを読者にあらためて印象付ける。
 家とは「外化された人間の記憶であり、そこには自然と共存する方法、生きるためのリズム、さらにさまざまな美的な基準となるべきものにいたるまでが記入された書物」であり、(より簡潔にまとめるならば)「人間によって生きられた空間と時間の性質があらわれた記号群」であると考える多木浩二にとって、家というテキストを読解することは人間を理解することに通じる。つまりこの『生きられた家』という書物は、単なる建築論・住宅論として書かれているわけではなく、家とそこに住まうことの意味を問うことで人間とその文化を問い直すための試みということになる。
 もう少し違うまとめ方をしてみよう。
 空間と時間とを創造したことは、道具を手にしたこと以上に、人間にとって決定的な意味を持っていた。この空間と時間を分節化、あるいは統合することで人間的な時空間として創造するのは、言語として構成される欲望や知覚や無意識であり、しぐさや身振りといった文化的に構成された身体であり、つまり一言でいえば、文化であるということになる。文化的コードの差異は空間の表象の仕方や操作の仕方の差異となってあらわれる。たとえば(西洋のように)遠近法的な奥行きをもつ空間を表象する文化もあれば、(日本のように)「おもて/うら」という心理的な奥行きをもつ空間を表象する文化もあるといった具合に。
 この出来事(行為)として表出される言語能力や身体能力と一体化した空間化能力によって表象され、操作される家を読むことを通じて、私たちは言語や身体に刻み込まれた文化の特質を理解し、場合によっては、ある個人がアイデンティティを模索した痕跡を辿ることが可能となる。それが家を読むことは人間を理解することになるという意味だ。
 多木浩二の他の本と同様、本書もまた具体的で読みごたえもある事例に事欠かない。そうした具体的例の分析を読むだけでも愉しい本なのだが、ここで筆者が人間を読み解くツールとして現象学的な観点から発想し、記号論的な分析を通じて提示した「家」という概念そのものも、様々な着想をもたらす。

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紙の本もののたはむれ

2007/09/11 23:57

主体が主体たりえぬその場所で

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通りをひとつ外れたところにあるうらぶれた一画に「どことも知れぬ仮の空間」(「並木」)が不意にあらわれる。時間はおおむね黄昏時から深夜にかけて。どこか湿り気を帯びた空間とも感じられるのは、しばしば水を連想させる語彙が用いられるせいだろうか。ほかに人影はないか、あってもまばらなその空間には、その代わり人を惑わすあやかしの類が住まうようだ。そこで主人公たちは知性や理性などといったものではおおよそ測りえない体験をする。
 たとえば日頃ほとんど関わりを持たなかった叔父の家に虫の好い依頼と引き換えに留守番として泊まることになった「一つ二つ」の有紀子は、深夜、月明かりに照らし出されていずこからか現れた浴衣姿の女に遭遇する。その女との奇妙に生々しいやりとりを通じて、有紀子は日常的な知覚によって把握しうる空間の枠組みから外へと踏み出してしまうのだが、この浴衣姿の女を妖怪変化の類ではないかと訝りながらも、読む側が拍子抜けをするほどにあっさりとそこで起こった事態を受け入れる。この有紀子がそうであるように、彼ら、つまりここに収められた十四編の掌編小説の主人公たちは、主体化への意志をあっさりと放棄してしまい、ひたすら受身の存在として日常性の外の世界に身を委ねてしまう。
 たとえば「胡蝶骨」の「わたし」は象牙の蛇の化身であるかのような和服の美女に誘われるままに乗り込んだどこへ向かうとも知れぬ列車の中で頭蓋骨の奥にある胡蝶骨を女にかき鳴らされながら、「この電車が奥へ奥へと突っ走ってゆくのは、六羽の蝶が乱れ舞っているわたしの頭の中の暗い野それ自体なのかも知れぬ」と考える。内部と外部とが反転しあいながらつながっている奇妙な空間のイメージの中で主体は崩壊する。(もっとも理性による把握の及ばぬ世界ゆえに主体は崩壊せざるを得ない、ともいえるだろう。)
 ここに書かれているのは既に書いたように、理性や知性の支配する空間ではないことはもちろんのこと、非合理な感覚によって支配された空間でもないだろう。むしろ、そうしたあらゆる認識の外にある世界といえばよいのだろうか。そして、たとえば「千日手」では、夜毎うらぶれた「**将棋倶楽部」で榎田の下手な将棋の相手をしていた隆司少年が不意に「本当は僕はいないんだよ」と呟く。

 少し間を置いてから少年が「おじさんもでしょう」と言ったときそれこそ背筋にぞおっと鳥肌が立ったのは今度は榎田の番だった。するとそれをきっかけに隆司君の顔の全体が徐々にその哀しそうな目と同じ色になってゆき、榎田がうろたえているうちに、さらに少年の躯の輪郭そのものが不意にすうっと薄く透き通ってその背後のアパートの壁が透けて見えるようだった。それに続いてその壁や柱や屋根もまた薄く薄く滲んでいって、こんもりした緑に覆われた廃墟の街の光景が四方八方から迫ってくるようなのだ。そう言えば榎田はこの廃屋のような建物の玄関や廊下で誰かとすれ違ったためしがないし、「**将棋倶楽部」以外の部屋に人が住んでいる気配を感じたこともない。こうして野ざらしになって、俺はこの子と永遠に将棋を指しつづけるのか。いや、この子はいなくて、俺一人でか。いや、本当は俺もいなくて、街も何もなくて、「永遠」だけが実在して……。何億年も続いて、それからその何億年の何億倍も続いて、それでもまだその千日手には終わりがなくて・・・・・・。(「千日手」より)

 こうして主体が主体たりえぬその場所で言葉だけが生々しい実在感をもって、生と死、存在と時間の形而上学を紡いでいく。

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紙の本供述によるとペレイラは…

2007/03/03 00:07

ひとつの信仰告白として

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 この作品の魅力についてはk.m(夏バテぎみ)さん、中村びわさん、お二人の書評に語りつくされている。そこでお二人とは、少し異なる角度から(そして少々個人的な関心から)書いてみようと思う。
 須賀敦子という人は、その文章の中で自らの信仰について語ることは、ほとんどなかった。信仰の言葉は神に向けられるもので、読者に向けるものではないと自制していたのだと思う。ところがこの作品の訳者解説の中では主人公ペレイラの行動の背後にある信仰のあり方に対して深い共感を示す文章を書いている。
 そのことに触れる前に簡単に(私なりの理解にもとに)物語の内容をまとめておこう。
 人生も折り返し点を過ぎて、ふと死というものについて考えるようになった中年男の安穏とした日常が確たる理由もなく若い男女と関わりつづけることで次第に変化に富むものに変わりはじめる。その代償として時代の圧力が徐々にその強さを増しながら彼にのしかかっていく。
 にもかかわらず、「これまで生きてきた人生への郷愁」と「これからの人生への深い思い」に捉われながら、主人公は「過去」とつきあうことをやめ、「未来」とつきあうことを選択する。彼がそのことでどうなるのかは、この作品が主人公ペレイラの供述調書という体裁をとっていることから理解される。
 ペレイラは冴えない中年男で、ことさらにヒロイックに振舞うこともない。むしろ若い男女に引きずられるようにずるずると彼らの活動にコミットしていく。解説の中で訳者は、ペレイラたちの会話の中でも言及されるベルナノスの『カルメル会修道女の告白』における意志の強さとは無関係な信仰のあり方という視点を提示している。カルドーソ医師に倣うことも可能だったのに、そうはしなかったペレイラの場合と比較しているのが興味深い。
 小説の中でベルナノスをはじめとするフランスのカソリック作家たちの動向が言及されるくだり(とくに神父との会話)を読めば、それがヴァティカンですら誤謬からまぬかれえなかった現代における、ごく普通の人間にとっての信仰の問題として扱われていることは明白だし、訳者もそうした文脈で取り上げていると思われる。
(ここに見られる訳者・須賀敦子の信仰の問題については、たとえば『地図のない道』でも感じたが、かつてここに投稿した書評ではあえてそれに触れなかった。) 
 ただし、こうした問いは単に宗教的な問題系にのみ属するものでもなくて、準拠すべき規準が見出しえないとき、人は何を規準として判断すべきなのかという問いに置き換えることも可能だろう。その問いに対するヒントは「私の同志は私だけです」というペレイラの言葉の中にある。この言葉は、言うまでもなく他者との関わりを喪失し、世界から見捨てられることを意味する“loneliness”ではなく、自覚的に選び取られた“solitude”であることを意味している。

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紙の本溺れるものと救われるもの

2002/08/19 20:43

消え去らない過去の証言

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 「ある人物を、その人自体でなく、たまたま属している集団を理由に裁くという考えは、私には理解できないし、耐えられない」と考えるレーヴィは、アウシュヴィッツにおいて被抑圧者(と抑圧者)に何が起こっていたか、あるいはアウシュヴィッツの後、何が起こったのか、なぜあのとき私は/彼はそうしたのかを「証言」し、考察していく。
たとえば、「特別部隊」と呼ばれた、数週間後の確実な死と引き換えに、それまでの間の確実な生と特別待遇を選択した人々がSSの指示にしたがって行った「特別な」任務が語られる。「犠牲者に仕事の一部を、それも一番汚い部分を負わせる」ことで「罪の重荷を負わせ」、自らの「良心の呵責をいくらか軽減するのに役立」てたのではないかと想像しながら、こうしたシステムを考案したことこそ、アウシュヴィッツの「最も悪魔的な犯罪」であるとレーヴィは言う。その一方で、ガス室で偶然生き残った少女をSSから匿おうとしたり、アウシュヴィッツにおける唯一の、悲劇的な叛乱を起こした「特別部隊」に属した人々のエピソードも紹介する。それによって、被抑圧者(善)−抑圧者(悪)という単純な二元論的把握に収まらないこうした「灰色の領域」の考察は、「犠牲者を堕落させ、体制に同化させる」システムへの倫理的抵抗の困難さという問題を浮かび上がらせる。権力が良心をいかに「腐敗」させ、「堕落」させるかということ告発するレーヴィの筆致は静かだが、厳しい。そして、アウシュヴィッツが、怪物たちによって行われた類を見ない蛮行ではなく、私たちの日常と延長線上の出来事であったことを嫌というほど思い知らされ、読み手は愕然とするほかない。
 レーヴィは、また収容所で経験した意思疎通の欠如による苦痛について「証言」する。それは命令や禁止を理解できずに被る暴力によるものにとどまらない。「『話しかけられない存在』であることは、迅速で破壊的な影響をもたらした」と。これは、古代ローマ人において、「生きる」ことが「人々のあいだにある」ことと同義であり、「人々のあいだにあることをやめる」が「死ぬ」ことを意味していたということを思い起こさせる。この場合、「人々のあいだにある」というのは、言葉を通じて「ある」ということなのだが。
 収容所からの生還後、自ら命を絶った人々も多い。レーヴィは、同じアウシュヴィッツの生き残りである哲学者ジャン・アメリーが自らを死に追い込んだ思考を辿りつつ、それに批判を加え、「私はアメリーが辿った道を行く気はしない」と述べる。しかし、この本を刊行した翌年自ら命を絶つ。レーヴィがなぜ自死を選んだのか(選ばなくてはならなかったのか)を考えることは、レーヴィが言うように、それは「他人の経験を認識することの困難性」にゆえにつきあたることになるけれど、私たちが生や倫理といった問題を考えていく上でひとつの課題となる。
 レーヴィの「証言」は、ここに挙げた以外にも多岐に及び、それぞれが様々な思考を喚起する。だからこれからも折に触れて手に取ることになるだろう。いや、手に取らねばならない本だと思う。
 生き残った者たちが一様に感じる恥ずかしさや罪悪感の意味を考察する部分については、同じイタリアの哲学者G・アガンベンの、『アウシュヴィッツの残りのもの』というアウシュヴィッツの「証言」の考察も併読することをお薦めします。

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新たな知の枠組を編成するために〜かすかに諦念に彩られた問い

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 技術をめぐる問いは、古くて新しい問いであり、技術の進展は人間の業のようなものでもある。ここでの著者は楽観的な技術礼賛にも悲観的な反技術主義にも与しないという。技術の進展を、人間の内的欲求に従っているがゆえに不可避なものとして受けとめる。
 しかも技術とは知識によって構築された媒介のシステムであり、むしろ技術と知の組織化の形態とは不可分の関係にあるという。したがって人間の内なる知と外部環境としての技術を対峙させる二項関係で捉えることは意味をなさないということになる。
 なぜか。文化はもともと生命内部の情報処理のオーバーフローに由来する外部の処理装置であり、しかも記号システムによってしか世界を触知しえない人間の第二の皮膚でもある。したがって技術という「非本来的な」外部システムの支配に対して知を擁護する批判は的外れなものとしかならない。
 では、私たちはどのように技術に向き合うべきなのか。著者は、技術が自走的なシステムとして個々の生命を圧迫するものであってはならないという条件を付けるが、それを一概に否定しようとはせず、(諦念まじりではあるが、)逆に新しい技術が扉を開くかも知れぬ新たな外部空間へと期待を寄せる。
 近代以降、人は加速度的に増大する知識の一部分にしか関与できず、その全体像は誰にも捉えられない。そして今や技術の主体はあくまでもプログラムにあり、人間もまた装置の一部として機能する時代となった。現代はまた知の情報化が進行する時代でもある。当然、人間と世界との間の記号システムを介した関係も変化し、近代以降の知の枠組も通用しない。
 しかも現代の新たな技術はあらゆるものを情報として扱い、その編集可能性を提起した。これらの技術は人間の知覚や意識の形成を通じて、新しい知覚回路の創出や生命の根源に触れうる可能性をもたらした。
 本書の狙いは、こうした現代における主体とコミュニケーションの編成とのあり方を考察し、新たな知の枠組を構想することにある。その考察はコミュニケーション・テクノロジーとメディア編成の変化を踏まえてなされる。
 最初の問いは人工的なシステムが主体を呑み込み、人間を支配する自走システムと化した中で、人が新しい情報を創出しうる主体となる可能性についての問いだ。著者の考えによればそのような主体とは、プログラムを熟知し、それに隷属することなく、オリジナルなものを生み出すサイボーグ的な主体ではないかということになる。
 次にコミュニケーションの再編の問題だが、ネット型コミュニケーションを情報生産の場とする工夫は存在するのか、存在するとすれば、それはどのようなものか、そして言説と対話の構造にもう一度「意味」を取り戻すことは可能かという二つの問いの形をとる。これに対しては分散的かつ非中心的なメディアによるシステムの無効化というヴィジョンを提示する。ただし、一方で分散したコミュニケーションが相互不干渉的な閉鎖的回路に封じ込められる危険性があることも認めている。そして、いずれの問いについても、対象となるものの帰趨がいまだ定かならず、それゆえ著者自身、明確な解答を出しえていない。
 それでも本書は高度情報化社会論、メディア論として今なお興味深い視座を提供しているし、いくつかの興味深い着想が含まれている。たとえば、著者は新たな知の枠組の編成に向けて、「文化の気象学」という観点を提案する。文化と気象現象とがその複合性や複雑性、そして境界をもたないという点において共通していることに着目したアイディアなのだが、本書の中で詳述されているわけではない。しかし、こうした視点が今後どのような展開を示すのか、著者の仕事をフォローしていきたいと思わせるものはある。

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