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とみきちさんのレビュー一覧

投稿者:とみきち

45 件中 16 件~ 30 件を表示

紙の本

紙の本パンク侍、斬られて候

2004/10/17 21:47

負のエネルギーがパワーアップ!

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

町田康の小説が好きな人には、本書の異常なパワーアップぶりに快哉を叫ぶに違いない。根っこはいつもの町田康なのだが、小説の登場人物数はいつもの100倍ぐらい、そしてあろうことか時代はお侍の時代。そして、いつものように、暗く、場違いで、鬱屈した主人公たちが、ぶつぶつ言いながら、あれよあれよとおかしな事柄に巻き込まれ、右往左往する。ベースに流れる悲哀感と疎外感。
『くっすん大黒』を初めて読んだとき、どひゃーーー、何とおもしろいのだろうと度肝を抜かれ、早速周囲に触れ回ったところ、「嫌いじゃないけど、読んだあとどうしていいかわからない」とか「いまひとつ合わなかった」などの反応が多く、この人のおかしみというのは万人受けしないものなのだ、ということを深く心に刻んだものでした。

私が好きなのは、著者が大得意とするところの鬱屈した自己分析。今回もありますよ、たっぷりと。もちろん言葉遊びに至っては、これでもか、これでもかと、やりたい放題。

筋なんぞ説明するのもばかばかしいほどだから、読みたい方は読んでくださいという感じだが、私が感心するのは、異常な自意識の過剰さから、鬱屈し、神経をとがらせて世の中に相対している人間の心の描きっぷり。著者自身、彼らを笑いのめしているけれど、心が寄り添っていることが感じられるのが、こちらの心に響く鍵だろう。町田康自身も多分、徹底的にパンクな人。徹底的に反体制の人。徹底的に卑屈で、世の中逆恨みで、ネガティブな方向にしか物事を見ない人。

そして最も大事なポイントは、そんな自分を突き放して観察することのできる人。こうでなくちゃね。

何かに向けてエネルギーが発散するときに、それが生産的であったためしがない。世のためになど全然ならない。負のエネルギーを暴発させるだけ。それがパンク。それが自己哀惜の小説。どこにも行き着かない。何も救えない。何も約束してくれない。何の光も見いだせない。

でも、その自分を知って、悲しみを抱えて、格好悪くうろうろする心が描かれた小説を読むことで、読んだ側の心は何かの化学反応を起こすんだ。小説を読むって、そういうことなんだろうって思う。

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紙の本

紙の本重力ピエロ

2003/06/02 01:59

「おもしろい本ない?」と聞かれたら薦めたい本

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「おもしろい本ない?」と尋ねられて困ることが多い。普段から本の情報を交換している友人になら即座に答えられるが、何を読んでいるのかもよくわからず、一体本など読むことがあるのだろうかと思われる人に「おもしろい本」と言われて、何を薦めればよいのだろうと。が、しかし、この本はその答えとして最適だ!と読み終えてすぐに思った。読み物としておもしろいので、読書習慣のない人にも薦められるし、力のある作者だという点で、本好きの友人の感想も聞きたい本であるからだ。
 弟の春から「兄貴の会社が放火に遭うかもしれない」と電話を受けた翌日、実際に放火が起きた。春の言によれば、壁にスプレーによる落書きがあれば、その近くで放火が起きるというルールがあるらしい。兄弟で、放火犯人を捕まえようと謎解きを開始する。
 「春は俺の子だよ。俺の次男で、おまえの弟だ。俺たちは最強の家族だ」と断言した父親は、「地味で、目立たず、特技もないが」、凄いと春の兄である私は感じている。そう、このストーリーの核となるのは、母親が未成年にレイプされたことで生を受けた春の出生事情なのである。主人公の勤務する遺伝子の関係の会社、性的なものを嫌う春の性質等と絡んで展開していく。
 というと、くらーい話のようだが、どっこい、全体のトーンは読者サービス満載の劇画調の読み物になっている。目次を見てみれば、それは一目瞭然。細かく章立てされたそのサブタイトルは、例えば「ジョーダンバット」「トースト」「父の憂鬱とシャガール」といった具合。
 極端に性格づけされた多くの人物が作中に登場するが、人間として上質の人と下等な人とに大きく二分されており、上質な人間が下等な人間に最終的に勝利するという、単純な勧善懲悪の冒険物語とも言える。ストーリーを書くとおもしろみが半減するので控えるが、個人的な感想としては、ガンジーを愛し、哲学的な言葉をはき、社会の何からも言動が規制されない、芸術的センスを持った春という人間への作者の強い憧憬が感じられて興味深かった。

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紙の本

紙の本Pay day!!!

2003/05/28 00:21

「別れ」の意味

2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

テーマは、ずばり、大切な人との「別れ」。

 舞台は、アメリカのニューヨークとサウスキャロライナのロックフォート。主人公は、アフリカ系の父親とイタリア系の母親を持つティーンネージャーの双子。兄の通称ハーモニーと妹のロビン、趣味も、感覚もまるで違う2人が、つらい別れを体験し、心の中でしっかりと受けとめていくまでのストーリー。

 彼らの経験する別れは、まず両親の離婚。ハーモニーは父、ロビンは母との同居を選択することにより、彼ら自身も別々に暮らすことになる。家族なんて会わなくても何てことないと思っていたのに、9.11のテロによる母親の死を境に、大きな衝撃を受け、別々に暮らしていることとこの世からいなくなることの決定的な違いを思い知る。家族の意味を問い直し、自分にとってほんとうに大切な人とはだれなのかと苦しむ。

 それぞれに恋人との出会いがあり、さらには、父親の恋人の出現、祖母の病気など、さまざまな試練のたびに、悩み、心は揺れる。同じような顔をした双子なのに、お互いの気持ちがわからない、考え方が納得できない。心がよりどころを求めてさまよい、ぶつかり合い、すれ違う。

 しかし、母の死以後、彼ら家族は一緒にいることをやめなかった。

 ある時、いつも庭を横切るアライグマらしき死体が見つかった。ラッキーと名付けて気に入っていた重度アルコール依存症のウィリアム伯父が、アルコールを全く口にせずに気落ちしている。

 ロビンがハーモニーに言う。「きっと、ラッキーは、彼にとって何かの象徴だったのね」。
 それを聞いてハーモニーは「ロビンの頭を抱えて自分の元に引き寄せた。誰もが、誰にも解らないものを心の奥に持っている。目に見える世界に存在するものが、時に、それを代弁する。声も言葉もない会話が、自分の内と外で交わされる。そのひそやかで親密な時間は、どんなに心を許し会った人とも共有出来ないものなのだ。」(p.297)

 人種問題、テロ、戦争が個人に残す爪痕(アルコール依存症)など、現代社会のテーマをさまざまに織り込みつつ、作者の視線は、現代に生きる普通の人々に注がれている。そこに描かれるのは、熱い血が通い、温もりがあり、不格好に、しかし、今を真剣に生きている人間たちだ。彼らは、それぞれの心に自分にしかわからないものを抱えながら、大切な人と寄り添い、理解し合い、許し合って暮らしていく。

 相手のすべてを知らなくても、相手を理解することができる。それに気づいたら、相手がこの世からいなくなっても、別れが訪れることなどないのかもしれないとロビンは感じることができるまでに成長する。

 あ、タイトルの意味? それは読んでのお楽しみ。

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紙の本

紙の本ブラフマンの埋葬

2004/09/23 18:35

死のにおいに満ちたおとぎ話

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一見、軽いおとぎ話のようだ。しかし、そこは小川洋子の世界、タイトルによる暗示が、小説全体を支配している。日常からかけ離れ、時間のとまった、死と隣り合わせの世界。大事件は起こらず、声高に主張する人もおらず、しんとした、生と死のみに支配される現実。そんな中、僕の一人称で描かれるのは、ブラフマンがやってきて、ブラフマンと別れるまでの短い時間。

舞台はこのように描写される。

『〈創作者の家〉は村の中心から車で南へ十分ほど走った、田園の中にある。畑と草地が広がる風景の中に、所々こんもりと茂った林があり、たいていその中に一軒ずつ農家が建っている。このあたりの土地特有の季節風を避けるためだ。〈創作者の家〉はそうした古い木造の農家を改装して作られた。』

ぼくは、〈創作者の家〉の管理人である。

この小説には死が満ちている。ぼくが心を寄せる雑貨屋の娘が、列車に乗ってやってくる恋人と手をつないでデートをするのは、古代墓地である。ぼくが唯一心が通じ合って話をすることのある相手は、〈創作者の家〉に工房を持つ碑文彫刻家である。来る日も来る日も墓石に碑文を掘るのである。ぼくは、骨董市に出かけ、身寄りのない年寄りのところから集めてきたという、アルバムからはがしたような、変色した写真を一枚買って、部屋に飾る。既に死んでしまったであろう見知らぬ家族の、古ぼけた写真を部屋に飾るぼくの、壮絶な孤独感。

ぼくの日常は、どこにも向かっていない。ブラフマンがやってきたこと、そして娘に淡い心を寄せること、このことだけがほんの少しだけ生きていることを感じさせていたのに、その二つが皮肉なことに最後には……。

根拠のない人生礼賛や、明日が同じように訪れることを徹底的に否定する、死のにおいに満ちた閉じた世界。ブラフマンに寄せるぼくの愛情の深まりが、孤絶した精神世界を際立たせている。

小川洋子ワールドがまた一つそこに。


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紙の本

紙の本潤一

2004/05/23 23:04

何の役割も要求せず、「女」であることだけを無条件に認めてくれる美しい男が、女にとって魅力的でないわけがない

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気持ちを封じ込めることにあらがい、性欲を封じ込めることにあらがい、決めつけられた役割に息苦しくなる、そんな女達が潤一に吸い寄せられるさまを描く荒野の筆は冴えている。

連作短編集である。14歳から62歳までの9人の女性が、潤一との出会いを語る。そして最後の一編は、26歳の潤一の一人語り。潤一を描いているようで、描かれているのは女性の内面であるという構図は、荒野の特色だろう。

誰もが潤一と偶然に出会い、ほとんど理屈なく潤一を欲しいと思う。潤一はそれに応じ、短いかかわりを持ち、去っていく。潤一は一人の人間として描かれているわけではない。自分を確かめたい、自分の足りないところを補ってほしい、自分の空虚な隙間を埋めてほしい、何に向かっているかわからない焦燥を受け止めてほしい、そういう願望を持って女達が潤一に、それが運命であるかのように近づき、大概は性的関係を持つ。互いのことは、最初から最後までほとんど何も知らないまま、束の間の時とベッドをともにして別れていく。

女達は、潤一に主張すべきアイデンティティーがないことを、本能的に察知する。潤一が「女らしさ」や「母親としての貞節」や「恋人としての愛らしさ」や「従順さ」など一切求めないことをも、本能的に察知する。大概の男がこだわっているような「メンツ」や「プライド」なんて何一つ持っていないことも、察知する。自慢話もしないかわりに、こちらのプライバシーにも一切立ち入らないことも、好ましい。目が合って、「私たち、寝るんだわ」と自然に了解するだけ。誘ったり誘われたりの手練手管も、面倒な手続きも何一つ要らない。必要な時にそばに来て、不要なことはしゃべらずに、あとくされも何もなく去っていってくれる。

こういう構図はどこかで見たことがある。そう、男と女をさかさまにしてみれば、掃いて捨てるほど描かれてきたような男女の関係だ。意味を求めない、役割を求めない、束の間の関係。こういう関係で一番大切なのは、潤一のからだも、太極拳を舞うその動きも美しいということ。

この小説を「すごく面白い」と言う女性読者が多いのは、うなずける。何の役割も要求せず、「女」であることだけを無条件に認めてくれる美しい男が、女にとって魅力的でないわけがない。

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紙の本

紙の本奈良登大路町・妙高の秋

2004/04/01 20:16

信頼する読み手に導かれて

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島村利正。知る人は少ないかもしれない。1912年生まれ、1981年没。未知谷という出版社から没後20年の2001年に全集が出版されている。今、この紹介文を書くに当たり、bk1に既出の書評があるかと調べてみたら、なんと故ヤスケンの書評を発見した。私は、堀江敏幸の『いつか王子駅で』を読んで作家を知り読んでみたわけだが、上記ヤスケンの書評の中にもやはり堀江氏が登場していた。信頼する読み手の紹介だからこそ、読んでみようという気持ちになるのである。何においても、水先案内人の存在は不可欠。その意味からも、ヤスケンの死が大いに惜しまれる。

本書におさめられているのは8篇。いずれも島村利正らしさが十分堪能できる、玄人好みのいい作品ばかりである。回想記のような作品もあるが、小説は、ほんの小さく囲われた世界の中で、日々を生きる市井の人々の生活と人情を細やかに描くものばかり。淡々として味わい深く、静かに人生の哀感を写し取る。

薄幸な母娘二代の菊売りの生涯を描いた「残菊抄」。隅田川近くの下町で菊車を轢くおちか、お澄の眼に映った世の中と、そこに生きる人々の様子が匂い立つように描かれている。

戦争末期、志賀直哉、瀧井孝作との交わりを描いた「焦土」、若き日、家を継がずに飛び出して、古美術雑誌発行などを手がけていた「奈良飛鳥園」で働く中での忘れられない出会いを描いた「奈良登大路町」などを読むと、作家の人柄や生き様が見えてくる。

連作「神田連雀町」「佃島簿暮」は、世話をしているうちに情も通じるようになった義理の叔父のもとを逃げ出してきた主人公佳津子の、女である自分の生きる道と人情との狭間で、そして、肌合いの違う犬吠と都会の人間の狭間で揺れ動く心の機微を、細やかに描いた佳作。木訥な作家のように見えるだけに、驚くばかりの密やかな官能のにおいのする作品。

日本文学のすそ野の広さが感じられる貴重な一冊である。

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紙の本

紙の本光ってみえるもの、あれは

2004/03/23 00:01

もったいないけど読みました。

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 川上弘美の小説を読むのはもったいない。だから、いつもなるべくずっととっておく。ほかに読みたい本がなくなると、ああ、遂に番が来ちゃったと思いながら読む。途中でやめられないのがわかっているから、一気に読み終える時間が確保できるときを選ぶ。読み始めれば、一瞬でワールドへ。ゆるやかなテンポ。浮き世離れした日々。主人公は大概、声高な主張はしないけれど、理屈ではなくて感覚で自分の行動を選択し、計算高くなく、でも、無理もしないし嫌なこともしない。失敗をしてもそのまま受け入れる。はやりの上昇志向、目標達成、自己実現的生き方とは正反対の、いまどきでない人たち。ぎらぎらしない。日の当たる場所にいない。その日その日だけを見つめて生きている。浅ましさや欲深さが一ミクロンもない。飲む。食べる。ぶらぶら歩く。何かを拾ってくる。何かあるいは誰かに出会う。会話を交わす。別れる。そんな世界。エネルギッシュであった試しがない。でも、そこに描かれる心の触れ合いに、深く心が動かされる。大切な時間が広がっている。ざわざわとした日常の音がみるみるうちに遠ざかっていく。
 川上弘美が出始めた頃、「いいよ、いいよ」とさんざん人に勧めた。でも、蛇やら、熊やら、河童やら、苦手と言う人も多かった。お隣に住んでいる礼儀正しい熊さんとピクニックに行ったりするお話って、特に男性には受けないみたい。そこで、「川上弘美ってかなり好きなんだ」という言い方に変えた。『センセイの鞄』が出たとき、「いいよ、いいよ」が復活した。苦手と言っていた人たちも「いいね」と言った。川上弘美の名前は知れ渡り、「いいよ、いいよ」は不要になった。今度は、自分だけのためにとっておきたい気持ちになった。
 本書は、『センセイの鞄』に続いて、人間だけが出てくるわかりやすい長編小説。ほんの少し普通じゃない家族関係を中心に、友情、愛情などが描かれる。みんないい人。世間的にはちょっと変わり者。誰もが自分に正直で、自分らしくあろうとして、人の気持ちをわかろうとして、それぞれに不格好だけど、懸命に生きている。川上弘美は、不器用な生き方しかできない人間の、饒舌でない人間の、ナイーブな心の動きを書くのがほんとに上手。
 川上弘美に限っては、小説としての出来の善し悪しなんて私にとっては問題じゃない。著者が大切にしている形のないものが、いつも心に届くから。

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紙の本

紙の本お母さんの恋人

2004/03/11 00:28

異次元の「閉じた宇宙」におけるロマンス

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確かに「お母さん」をめぐる恋の物語なのだ。そして、男同士の友情や、ティーンエージ特有の先の見えない焦燥感や無気力感なども、懐かしく、切なく、そしてテンポよく描かれている。

しかし、この物語は、単なる恋物語として書かれたのではないだろう、と思う。作者が巻末の「ノートと謝辞」において、この同じまちを舞台にした自著、『濁った激流にかかる橋』に言及しているからである。ガルシア・マルケスの『百年の孤独』を意識して書かれたとも言われているその作品は、登場人物などが微妙に重なり合いながらも、全く別の作品として書かれた複数の中編がまとまって一冊の本になったものである。そこに生きる人々の土俗的な結びつきや血脈が色濃く感じられる一方、どこかSF的な雰囲気をもたたえている作品であり、かつ、各中編を悉く異なった話者や文体で書くという実験的な書でもあった。

 『濁った激流……』を読み始めたときに私は、その土俗性と血族の濃密な匂いのせいか、著者にとってのこの舞台は、中上健次にとっての「路地」に相当する性格のものではないかと感じた。が、読み進むにつれて、この舞台は作者の創造した、過去も、近代も、未来をも閉じ込めた、強烈な磁力を持つ「閉じた宇宙」であると思うようになった。

 『お母さんの恋人』は、作者が繰り広げてみせた、その「強烈な磁場」における可能な限りセンチメンタルなロマンスなのではないか。そういう目で見ると、『濁った激流………』の登場人物が、どこか妖怪じみていたり、戯画化されていたり、偽悪的な性格付けをされているケースが多いのに比較して、本書のほうは、共感しやすく、リアリティーを感じる人物が多いと気づく。よくよく読めば、「現実」からはほんの少し宙に浮いた場所におけるファンタジーであることに気づかされるのではあるが……。まだ生まれていない娘が、異次元から見ていたかのように、語り手として時々登場するという、最終的にリアリティーを拒絶する仕掛けになっているのは、「閉じた宇宙」が舞台であることを思えば当然である。

 『濁った激流……』を読まずに、本書を一つの独立した恋愛小説として読むことも可能であるが、両書によって描かれているのは過去も包含したSF的叙事詩であり、『お母さんの恋人』は、その中の一つのロマンスであると読んでも面白いのではないか。血脈、場所、時代という大きな枠組みの内側で、時にグロテスクに、時に力強く、時にセンチメンタルに続けられる人間の営みを人間以外の目で俯瞰したような、異次元の視線が見え隠れする、その感覚に私は注目した。

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紙の本

紙の本博士の愛した数式

2004/01/04 21:45

まさに小川洋子の世界。でも広く受け入れられやすい設定。

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「彼のことを、私と息子は博士と呼んだ。そして博士は息子を、ルートと呼んだ。息子の頭のてっぺんが、ルート記号のように平らかだったからだ。」

わくわくする書き出しだ。

特殊な事情を持つ人間と、その人間にある役割を持って接することになる人間との関わりを描いているという点で、同じ著者の『余白の愛』がすぐさま想起される。本書の場合の「特殊な事情」とは、数学の天才である老齢の博士の脳が、交通事故の後遺症によって1975年の時点で停止しており、新しい記憶については80分ごとにリセットされ、新たに定着することがないこと。この設定を思いついた時点で小説は完成したと言ってもよいほど、まさに小川洋子の世界にぴったりの設定である。

あけぼの家政婦紹介組合から派遣された家政婦である「わたし」とその10歳の息子が、博士との間に、数式と阪神タイガース、特に江夏豊への思いを手がかりに友情を築いていく、優しくてせつないストーリーである。数式やタイガースなどの小道具の持つ意味合いについては、他の評者の方々が既に十分過ぎるほど説明されているとおりなので、ここでは繰り返さないことにする。

自身の持つ想像力の種類を自覚し、それをふんだんに行使するための舞台づくりの的確さは、小川洋子独特の最強の武器であり能力であると思う。その能力は『密やかな結晶』においても、既に存分に発揮されている。

彼女の想像力が最も自由に羽を広げるためには、その舞台は、外部に対して開かれることのない世界、閉ざされた世界でなければならない。そのようにしてある種完璧に囲い込まれ、想像力のみによって構築された世界と感性が合うか合わないか。その相性によってこれまでの小説の読後感というものは大きく左右されてきたに違いない。

本書について言えば、その世界が相変わらず閉ざされてはいるものの、これまでの作品よりもより普遍的で共有しやすい設定になっている点が、これだけ広く受け入れられる理由なのではないかと感じる。息子「ルート」の存在が、一般的な世界との間に風穴をあけている点も見逃せない。

小説とは豊かな想像力の産物であるということを、改めて堪能できるという一点においては、他の作品同様、全く変わりない。

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紙の本

紙の本デッドエンドの思い出

2003/10/14 15:28

書きたかった「ただ一つのこと」

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 傷ついた心がいやされていく時間を描く短編集。

 ばななが『キッチン』でデビューしたときのことだったと思う。ある編集者(私の記憶ではヤスケンなのだが)が幼い頃のばななに会ったときの印象を記していた。吉本隆明を訪ねたときに、娘の少女ばななに出会い「将来は何になりたいの」と尋ねたところ、にこりともせず、何のためらいもなく「小説家」と答えたという。

 ばなな自身も、「私はただ一つのことを書きたくて、ずっと小説を書いている」という趣旨のことをどこかに(これも出典が定かでなくてすみません)書いていた。幼いころからそれを書くために作家になると心に決めていた、その「ただ一つのこと」が、この短編集には凝縮されている。

 ぽかりと穴のあいた心を癒すのは何か。人はどうやって立ち直り、再び生きる喜びを見つけていくのか。ばななの世界にはこれまでも、そしてこの短編集でも、死者、別れと同時に、セックス、食べ物、植物が満ちているが、この短編集で特徴的なのは、どの作品の中にも、主人公が、自分の生きている世界が大きな一つの時の流れの中に組み込まれたもの、大きな世界に包まれたものであると自覚する、象徴的なシーンが挟み込まれていること。これこそがばななのメッセージであり、かつまた、生きる力の自覚を象徴する心象風景なのだろうと感じる。そのメッセージをストレートに表現している点が新しく、また、ばなな自身の感傷があらわれているとも受け取れる。

 最も象徴的なのは『デッドエンドの思い出』の中にあるいちょう並木のシーン。「光が降り注いで、しかもそのあたりには他にほとんど人がいなかったので、本当に雪景色か天国にいるような神聖な感じがした。私のすねまでを埋めるほどの枯葉は、いくら踏んでも減ることはなく、乾いた音をたてて舞った。(中略)そこには、過去も未来も言葉もなんにもなくて、光と黄色と陽を受けた枯葉のいい匂いだけがあった。私はその間じゅう、すごく幸せだった」。

 「これが書けたので、小説家になってよかったと思いました」とのあとがきの一節が本の帯に使われているが、書きたかった「ただ一つのこと」を書き上げたばななが、新たな世界に踏み込んでいくことを期待させるやさしい短編集であった。  

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紙の本

テクニックを知ることは心に余裕を持つこと?

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 ビジネスシーンにおける究極のテクニックというものが世の中にあったとして、それが書籍で発表され、しかもベストセラーになれば、何十万人もの人がそのテクニックを知ってしまう。それにもかかわらず役に立つノウハウ、テクニックの条件とは何か。それは、相手がそのテクニックを知っていても、色褪せないテクニックたることである。

 「はじめに」の中で著者は、「どんな人でも、その演出法さえ間違えなければ、十分に権威的、魅力的なイメージを与えることができるんだというテーマを筆者はずっと考えつづけて」きたと述べている。

 『パワープレイ』の続編である本書は、「自分の心をふるい立たせる心理テクニックを数多く収録した」とあるとおり、実践するのは「心」を持った人間であり、相手にするのも「心」を持った人間である点に注目している点が、紋切り型のハウツー物と一線を画している。

 「言葉は丁寧にし、しぐさでは『怒り』を見せる」のセクションでは、「『本音を出さないほうが美徳』という常識は、パワープレイには通用しない。むしろ、言葉では慇懃すぎるほど丁寧にし、しぐさで怒りをあらわしていこう。言葉が丁寧であれば、相手は何の文句もいえない。」(p42)
 そのほか、「まばたき=弱さ」であるから、「緊張しても『まばたき』は我慢する」「『笑顔を見せないこ』とでパワーを感じさせる」など、テクニックを行使した際、相手がそのテクニックを知っていたとしても何のマイナスにもならないが、自分が知らなければマイナスになる、そういうたぐいのテクニックが、具体的に、目的別に、数多く挙げられている。

 具体的で、平易で、しかも心理学や科学的データの裏打ちのある点が、この書から何らかのヒントを得たいむきには好評な理由であろうし、パワープレイを使わなければならない弱い人間を対象にしており、「人間」の視点が抜け落ちていない点が、マニュアル本にありがちな無味乾燥さの陥穽に陥らず、読み物として耐え得るだけのものになっている理由であろう。

 ビジネスシーンのみならず、日常の人間関係の中でも、一つ二つ、試してみたくなる。「テクニック」を知っていることによる心の余裕が、結果として態度の余裕を生み出す。この副次的な効用が実は大きいのではないか。これが、ビジネス書通でない私の読後感である。

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紙の本

紙の本日本近代文学の名作

2003/06/29 01:58

すぐれた書評とは…芋蔓式書評遍歴

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 読書は往々にして芋蔓式につながる。このたびの芋蔓の旅は、故ヤスケンの『乱読すれど乱心せず』から『文士の魂』(車谷長吉)に行き、本書へと流れてきた。もちろん合間に、それらの書で言及された小説をぱらぱらと読み、うーんとうなり、そして、また、書評を読んでは刺激を受けるという終わりのない、しかし、幸せ至極なアリ地獄状態。自力脱出はもはや不可能。

 読者あるいは一ファンの立場に立って、「しびれる」「たまらない」「イモ」「ぼけたのか」などと直裁な感想を主体に、良くても悪くても、エネルギッシュに筋を説明してくれるヤスケン。そして、ある切り口でしっかりと解剖して評し、みずからの小説観を披瀝する私(わたくし)小説家の車谷。

 詩人でもあり、評論家でもある吉本氏の場合、その評論活動が文学にとどまらないと同様に、小説を論じるときでさえ、文学の枠の中で論じることはない。作品の生まれた思想、文化、宗教などの背景に目を向け、そこから論じる点が特徴であり、それこそが上記2人と決定的に異なる点である。文学史的あるいは思想的な発想から作品を眺め、論じるとも言いかえ得るだろうか。

 さらに、それぞれの作家の本質をつかまえる力は独自で、しかも卓越している。「川端作品では性の物語を書いても、性欲の葛藤が物語になるのではない。男女が互いに浸透し合う姿が、作品の主眼になると言える。」(p66)とし、岡本かの子の「生命力」と比較する。「岡本かの子も性を性欲の葛藤としては書かない。生命力の問題だととらえる。男女の生命力が同じぐらいの強さだと相性がよくて恋愛が起こるし、生命力の強さに違いがあると浮気をしたり、別れたりすることになる。岡本かの子は仏教に造詣の深い作家なので、その思想が背景にあるのだろう」。(p67)見事な切り口に、またまたうーんとうなるばかりである。

 こんなふうに本質をつかみとれる力があれば、小説を読む喜びが増すであろうとため息が出る。さまざまなスタイルがあるが、結局すぐれた書評とは、その小説なり作家の本質をしっかりとつかみとって見せることなのだと思い知るのである。

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紙の本

紙の本黄色い目の魚

2003/02/23 01:43

10代の頃ってしんどかった

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 胸がきゅんとするお話。10代の頃ってすごく大変で、しんどかったことを、大人になっちゃって感受性の鈍ったかつての少年少女にくっきりと思い出させる本。

 好き嫌いの感情ははっきりしていて、人に対してとんがった態度しかとれなくて、私って何っていつもぐるぐる考えていて、ちょっとしたことで傷ついて。表現力がないから自分をあらわせなくて、それでまた自己嫌悪で。見透かされたくないから突っ張ってもがいてる。そんな男の子と女の子の日々が描かれている。

 何をしてる時が自分は幸せで、誰と一緒にいるとあったかくなれるのか。それが見つかりさえすれば強くなれる、幸せな気持ちになれるってことをこの本は教えてくれる。でも、そう簡単には見つからないっていうことも教えてくれる。

 木島悟も村田みのりも、自分の好きなこと、自分の好きな人が見つかって良かった。

 見つけた自分の幸せを忘れずに、手放さないように努力して、大人を続けていかなきゃいけないんだって、大人になっちゃった私は強く思った。 

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紙の本

紙の本グッドラックららばい

2003/02/09 01:25

どたばた家族喜劇のように見えるけれど

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長女、積子の卒業式の日に、信用金庫に勤める父、信也に「ちょっと家出しますからね」と電話で連絡して、母、鷹子が家出した。積子は、付き合っている男との関係が何よりも大切で、母の家出にも特に感情が動かない。次女、立子は貧乏くさい家を嫌い、下層階級を抜け出すための第一歩として名門女子高校に受かったばかり。母の家出は、家族の恥。ステップアップを目指す自分の足を引っ張るものだから許し難いと感じる。父は節約が趣味で、会社では、そこにいるだけの人の意味で「文鎮」と呼ばれているような小心者。妻の家出にも、十八番の「様子を見よう」の態度で、深刻な事態はなかったことにする方針を貫く。

この作品が、筆致の軽さにもかかわらず、単なるどたばた家族喜劇に終わらないのは、登場人物皆が、家族や周囲の人間から「こういう人」と張られているレッテルとはひと味もふた味も違う内面を持っているからである。彼らは皆、鷹子の家出を通じて、それぞれが割り当てられていた役割とは違う自分を獲得し、そして、もう一度家族の絆を確認し合うことになる、長い長い年月をかけて。

鷹子の家出後の状況が明らかになり(これがまたかなりオイオイという設定である)、さて、家族は崩壊するかと思いきや、それぞれがそれぞれの価値観を驚くほど頑固に貫きながら、鷹子不在のまま崩壊もせずに続いてゆく。おせっかいな信也の姉や、立子がお金目当てで結婚したゲームクリエイターの恭平、はたまた、家出した母があちこちで出会う人たちの価値観や性格の設定も巧みで、「うんうん、こういう人、いるいる」とうなずきながら、とにかくおもしろくて途中でやめられない。こんなことってあるかいなというぐらい話の展開は誇張気味なのに、出てくる人物描写にリアリティーがあるから、ぐいぐいと引き込まれて読んでしまった。

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紙の本

紙の本あたりまえのこと

2006/06/18 15:28

もっと長生きして毒を吐いてほしかった著書の小説論

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2005年6月に69歳で亡くなった著者の小説に関するエッセイ集。自分の書くものには「毒」があると著者が言うとおり、歯に衣きせぬ物言いには、その主張に賛成であろうと反対であろうと、思わず居住まいを正さずにはいられない。
前半部分の「小説論ノート」は1977〜79年にかけて新潮社の雑誌「波」に連載されたもの。著者曰く、「小説に関連したさまざまな観念についての私流の定義集か自家用倫理規定のようなもの」を書いていたのが、「やっているうちに、悲憤慷慨とはいわないまでも小言幸兵衛的発言に偏するように」なった、という。後半の「小説を楽しむための小説読本」は、具体例を挙げてスパスパっと見事に斬っていく、痛快を通り越すほど厳しい文章の数々である。
さて、倉橋由美子をインターネットのWikipediaで引いてみると、「一貫して言い得ることは知的かつドライな視点を持ち続けたことであり、イマジネーションの重視と文体の鍛錬を常にエッセイなどで主張していた。特に私小説など作家本人の身の回りを描いた作品には極めて批判的なスタンスであった」とあるが、本書においても、私小説に対する批判は痛烈である。
「小説では何を書いてもよいということになれば病気のことを書こうと思いつく人間も出てきて、病気またはその一種である狂気について書き、それで画期的な小説ができあがることがある。その徹底したものに、最初から廃人である人間をつかまえて公衆の面前でその醜悪な裸体を鞭打って見せるという趣向の小説があり、叩かれるにつれてこの廃人は言葉を吐く。」
その反吐のような小説の一例に挙げられているのが、『人間失格』である。そして、問題は、このような小説が世の中に受け入れられること自体であるというのが著者の言。「汚物もまたそれを必要とする人間にとっては甘美な救いの糧なのである」。
旗幟鮮明。斬り捨てるものは徹底的に斬り捨てる。いささかの妥協もなく、自ら信ずる小説論を主張する。文壇や先人や世の中の評価など、他人の顔色を伺うことのない堂々たるスタンスは、反論したい向きには厄介極まりない。もっと長生きしてにらみを効かせ、小言幸兵衛あるいはいじわるばあさんぶりを振りまいてほしかった。

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