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  3. 南波克行さんのレビュー一覧

南波克行さんのレビュー一覧

投稿者:南波克行

25 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本ブレードランナーの未来世紀

2006/01/07 04:19

ハートフル80年代映画の裏側で起こっていたこと

14人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ハートウォーミング・ドラマの代名詞として、合衆国では国民的な映画として知られる、1946年のフランク・キャプラ監督作品『素晴らしき哉!人生』。これは、人生に絶望した主人公が、自分など生まれてこなければよかったと思いつめたところ、天使が現れ、彼がいなかった場合の世界に連れていく。するとそこは、まるで地獄のような悪の街と化しており、恐れおののいた主人公が、「生まれてこなければよかったなどともう言いません!」と叫ぶと、街は元通り。彼の苦悩はすべて解決し、友人たちの慈愛に包まれるという、究極のハリウッド・ハッピー・エンディングである。
 しかし本当にそうだろうか。楽観主義の究みと言われる、この作品が描く地獄は、どう見ても尋常ではない。主人公が被る災難のいちいちも、あまりに悪意がすぎる。こんな作品がハッピーでなどあるものか。そう思った映画人がわずかながらいる。そして、彼らの作ったいくつかが、80年代を代表するカルトムービーとなった。それが、本書で扱う『ビデオドローム』、『グレムリン』、『ターミネーター』、『未来世紀ブラジル』、『プラトーン』、『ブルーベルベット』、『ロボコップ』、そして『ブレードランナー』というわけだ。
 確かにこれらが80年代を代表する作品だとすることに異存はない。しかし、そのいずれもが、『素晴らしき哉!人生』のネガティブなリメイクであるというのが、本書の驚くべき着眼点だ。そんなことこれまで考えたこともない。これにはとにかくぶったまげた。
 さらにこの8作品がいずれも(『グレムリン』以外は)、ハリウッドのメジャースタジオ以外からの資本で製作されているという指摘が、さらに斬新で抜かりのない視点だ。当時のレーガン政権下における、「保守的で能天気な」80年代ハリウッド映画の傾向の中では、これらの作品はまともなやり方では製作され得なかったからだ。
 本書は、豊富な情報を積み重ねながら、これらの作品の成立過程を詳しく紹介していく。そしてなお驚くべきは、そこで描かれた世界像が80年代アメリカを風刺すると同時に、21世紀現在をも幻視していたという事実だ。『ビデオドローム』が描いたように、ビデオ映像と現実の一体化という悪夢世界が、ネット社会として現実となり、テレビ伝道師を導師と仰ぐ男がホワイトハウスの頂点に座り、その支援企業はメディアを独占支配し、政府は放送倫理規制を強化、の形で現実化したという本書の指摘には、恐怖すら感じるだろう。
 しかしこんな書き方をすると、「現代」をするどく抉った「社会派」の映画作家たちを支持する本なのかと疑われそうだが、まったくそうでないところが、本書の真に価値ある点だ。これらの映画を作った監督たちは(『プラトーン』のオリバー・ストーンは別だが)、社会悪を糾弾しようとか、現実を風刺しようなどというケチな了見など1ミリもない。あくまでも、自分の本能的なヴィジョンを、どこまでも頑固に押し通していった結果(その狂気ぶりを描く『ロボコップ』の章は、ことに秀逸である)、たまたまそうなっただけなのだ。だからこそ彼らは作家としてすばらしいのであり、そんな彼らの妥協なきヴィジョン追求の姿こそが美しい。筆者のそんな強烈な主張が、全編に鳴り響いているのである。
 中でも『グレムリン』のジョー・ダンテが、自身の趣味を作品に反映するのに、いかなる努力を重ねてきたかの論説が白眉だ。「幼稚だ」、「俗悪だ」という心ない思い込みは、近作『バック・イン・アクション』や、屈指の傑作『マチネー』を葬り去った。筆者は客観的な事実を説明するようにみせて実は、そうした無理解によって、映画界がいかに多くの傑作・秀作を見失っているか、怒りをこめて糾弾している。そんなところにまで目配りを行った本書は、内容のみならず、その志においても超一級である。

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紙の本失恋論

2006/03/11 02:33

失恋の効用

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 最初、『失恋論』というタイトルのこの本のことを知ったとき、てっきりたくさんの老若男女の失恋エピソードに取材したものなのだろうな、と思っていた。そして、そこに筆者ならではの味のあるコメントを加えつつ、「失恋」という「事件」について語った本なのではないか、と思いつつ読み始めたのだった。ところが、驚いたことに第一章でいきなり、
 「10年ぶりぐらいの恋だった」
 と、こう来る。さらに続けて「もう恋なんてしないかもしれないと思っていた」、と。
 なんと、筆者自身の打ち明け話から本編が始まるのである。正直度肝を抜かれた。こういう本が許されるのは、ゴシップ性のある芸能人や、ごく一部の有名人だけではないのか?
 しかし、そんな気持ちが落ち着くのに、それほど時間はかからなかった。いったい何を書き始めるのだろうと思う間もなく、本書はすぐ「失恋図書館」という章に話題を転じてしまう。これは著者が共感を覚えた、恋愛にまつわる映画、コミックなど、ジャンルを問わず紹介するコーナーだ。第一章から、ほんの10ページ読むか読まないかのことである。
 「失恋図書館」は、筆者が「10年ぶりくらいの恋」と語る大恋愛の道行きを綴る章と章の間に、サンドイッチの具のようにはさまれている。そして、著者によるこの紹介文があまりに出色であるが故に、思いがけない読書体験を得ることになる。
 信じられないことだが、映画やドラマについて語る文章を読みながら、なぜか著者「切通理作」に感情移入してしまうのだ。その秘密は、この文章が作品紹介をしているようにみえて、実はしっかり筆者が自分のことを重ね合わせて書いているからだ。
 たとえば恋する2人の主人公が、さまざまな決断をくだせなくて、迷いに迷う韓国ドラマ『冬のソナタ』からの一文だ。
 「自分がその相手と何をしたいのかがわからなくなってしまうのが恋愛の醍醐味なのかもしれず、それをたっぷり描いているのが『冬ソナ』の大きな魅力のひとつかもしれない」
 一見、『冬のソナタ』のことを書いているようだが、きっと筆者自身も「何をしたいのかがわからなくなって」いたんだろうな、と思わされる。
 筆者は、この恋心=失恋の気持ちを「成仏」させるために書いたという。そのために、竹田青嗣から果てはヘーゲルまで、あらゆる書をひもときながら、自分の心情に言葉を与えようとする。映画や小説のことを書きながらも、一番気持ちにミートするフレーズを探しているかのように見える。
 そうしてふと気づく。恋を成仏させるとは、自分の様々な心の動きに対して「言葉」を与えることではないのか、と。それを著者はたとえば「第三の関係」と言う。友だちでも、恋人でもない、「その相手を通して自分が豊かな生を送っているという実感を日々得られる存在」。このように、著者が自分の傷をさらして、試行錯誤しながら、これらの言葉をひとつひとつ見つけていく過程を読むと、自分がかつて失恋したときも、こうして言葉を拾い集めることで、少しずつ気持ちを昇華=成仏させたよなあ、ということを思い出す。
 相手からのメールに対して、「あの人からのメールより文字数の少ない文面で返事を出した」とか、ある人の「今の思いをずっと持ち続けていれば、5年後につき合えるかもしれません」という言葉に対し、「恋する心に即して言えば、五年後につきあえても仕方がないのではないだろうか」といった、共感のあまり思わず拳を握り締めてしまうような著者の言葉。
 そんなフレーズと共に、きっと現在恋をしている人なら、一緒に言葉を探求していくかのような気持ちになれるのではないだろうか。だからこそ、この『失恋論』という本は、堂々と『論』の名にふさわしくある。きわめて個人的な体験を語った本でありながら、万人の胸に届くように書かれているからだ。その驚くべき達成に、唸ってしまう本である。

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理論から実践への道の険しさ

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 近代文学の終わり。それは書中の言葉を使うと、「今日の状況において、文学(小説)がかつてもったような役割を果たすことはありえない」という意味である。そしてその役割とは、文学が「政治から個人の問題までありとあらゆるものを引き受ける」ということだ。
 こうした柄谷行人の議論の集大成として結実した書物が、『日本近代文学の起源』である。その起源において、文学が担っていた役割とは、その国の俗語(口語)に基づいた、「国語」を作り出すことだった。それが言文一致であり、その作業を担ったのは小説家だ。
 つまり、文学がネーション=ステートを形成した時代が、かつて確かにあった。そして、文学が与えたネーションとしての同一性が、すっかり資本主義的に確立し、完成しきった今、文学の役割はなくなった。それが近代文学の終わりが意味するところであり、代わりに残ったのは、経済的な利害だけだというわけだ。
このように、文学の起源と終焉の理論が、国家の形成と接続し、重ねあわされたとき、私たちの柄谷行人を読む試みは、次のステップへと進む。それが『ネーションと美学』であり、そして『トランスクリティーク』である。
 本書において柄谷は、「現在の日本には何もない」と言いつつも、「私は望みを捨てていません。これから、私は根気よくやろうと思っているんです」と語る。ここで望みを托されたのは、もちろん文学ではなく、アソシエーション(もしくは「X」)という一つの「ユートピア」に対してだ。
 資本による簒奪が進み、これ以上はもう地球がもたない。しかしそれでも資本主義は進み続ける。アソシエーションとは、そんな現状への対抗運動のことである。その行動のアイディアとして、たとえば不買運動、非暴力の徹底、くじびきでの投票、そして地域通貨など、さまざまに述べられる。破綻したとはいえ、その最大の試みがNAMであったわけだ。
 しかし、それにもかかわらず、本書巻末の浅田彰、大澤真幸、岡崎乾二郎との座談会で、全員が柄谷に迫り、柄谷がそれに答えられなかったように、アソシエーションの具体的行動とイメージは、まだ明確化されていない。アソシエーション、Xとは何かを具体的に伝える作業が、今のところ大きな宿題として残されているのである。柄谷は、道筋さえ示せば、それがどういうものかを考える必要はないと言うが、やはりそれでは未完成なのだ。
 そのことに柄谷は現在行き詰っている。武装解除や、くじびき投票など、いくつか示されたアイディアは、知的遊戯としてはすこぶる面白い。正論としてそれが正しいことも十分わかる。けれど、いかんせん夢物語にしか聞こえないのが現実だ。今すぐできるアクションとして、不買運動なら可能なようにも思えるが、グローバリズムを動かすほどのムーブメントとなると、いかに形成しようというのか。
 もしかしたらそれは、現在、季刊『at(あっと)』に連載中の『革命と反復』で明らかにされようとしているのかもしれない。読者としてはそれを期待したいが、ただはっきりしていることは、私たちに柄谷行人による回答を待っている時間はないということだ。
 本書は、膨大な『定本柄谷行人集』(岩波書店)に取り組む上での、ガイドラインである。『定本』全5巻を貫く、柄谷思想の順番と背景を、一挙に概括している。だから、この本だけを読んでも柄谷行人を読む作業は終らない。あくまでも『定本』に取り組む予習として扱うべきである。まずは本書を読んで震撼し、柄谷行人の問題意識を共有しなければならない。ささやかに過ぎるかもしれないが、共闘はそこからしか始められないのだと思う。でなければ終ってしまうのは、「文学」だけではないのだ。

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待望!「デクパージュ分析」を学ぶ最良の書

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『汚れた血』や『ポーラX』などの天才監督レオス・カラックスは、その修行時代に、師にあたる映画監督パトリシア・モラーズの家に入り浸り、ヴィデオで映画を見ながら、静止画を使って多くを語り合ったという(鈴木布美子『レオス・カラックス』筑摩書房)。
 そんな話をきくと、こういう人たちは、私たち素人にわからぬどんな事柄を、映画の画面から読み取っているのだろうと、強い好奇心に包まれる。ひとつひとつのカットから読むべきことは何なのか。画面構成だけを基準にすると、どんな読解が可能になるのか。
 そうした作業を、デクパージュ分析という。デクパージュとは「カット割り」のこと。映画は必ず、複数のカットの集積からできている。その個々のカットに、何がどのように写っていて、どんな動きで、何秒続くのか。写っている人物の大きさや動き方。そしてそれをキャメラはどう動いて、どのように撮っているか、といったことなどを、細かく読解することで、作品全体に何らかの意味評価を与える試みである。極論すれば、物語を読み解くなら、採録シナリオで事足りる。しかし、それでは映画の喜びを享受し尽くしているとはいえない。そこに物が映っていて、かつ動くという映画の特権。そこに意味を見出すことが、映画だけに与えられた楽しみなのだ。
 ところが悲しいかな、このデクパージュ分析のノウハウを、独学で身につけるのは至難だ。実際に目の前でやって見せてもらわないことには、なかなか実践のイメージがわかない。一般的には学校やセミナーなどで、映画の講義を受ける機会はない以上、頼りは書物だけなのだが、これまで小文を所収したわずかな例外以外は、そんな本は皆無だった。
 そこへ天からの授け物のように登場したのが本書だ。著者の加藤幹郎はこれまでも、四方田犬彦編『映画監督溝口健二』(新曜社)所収のエッセイで、溝口作品の精緻なデクパージュ分析を行うなど、その道の権威だ。その加藤が1冊まるごと使って、1本の映画の冒頭からラストまでの全ショットを読み解く、まさに待望の1冊である。
 デクパージュ分析には、分析者によっていろいろな視点があり得るが、本書の中心を占める課題は、映画『ブレードランナー』を正当なフィルムノワール(便宜上「犯罪映画」と定義する)として位置づけることである。読者はまずこの一点で、軽いショックを受けることになる。まったく新しいタイプの「SF映画」として見られ、それ故に支持の高いこの作品が、その画面構成から見れば、まったく古典的なハリウッド映画の1ジャンルを踏襲していることが、緻密に証明されるのだ。
 さらに『ブレードランナー』は、初公開版の他、リドリー・スコット監督の意図に沿った形で再編集されたディレクターズ・カット版があることも有名だが、本書の分析では、初公開版の方が、フィルムノワールのセオリーとして、より妥当性が高く、映画として高水準であることが実証される。つまり、監督が思い通りに作ったとしても、それが必ずしも映画的にベターであるとは限らないことに、読者はヘビーなショックを受けるだろう。
 さらに、加藤はこの映画の真の主人公が、タイトルロールのハリソン・フォードでなく、悲劇のレプリカント、ルトガー・ハウアーであると記す。それが単に、よりかっこいい役柄だからという、よくある感覚的で曖昧な理由でなく、この映画が眼球をめぐるドラマであるという実証を通じ、かつ画面からの読み取りのみによって、そのことを証明する。そこまで聞くと「いったいどうやって!?」と、強い興味がわくのではないだろうか。
 これまで物語解釈にとらわれた映画鑑賞をしてきた者、またはそれに飽き足らず、よりよく映画を見る方法を模索している者。そんな人にとっては、まさに1ページ読むごとに、ぼろぼろ目からうろこが落ちていく1冊である。

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KUROSAWA以外の日本映画もあるのですか?

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「映画」に貢献するにはいろんな方法がある。一番簡単なのは、せっせと劇場に通って作品を可能な限り観まくること。一番困難なのは、もちろん実際に作品を製作することで、やや肩身の狭いのは孤独に映画評を書くことだ。ここまではすぐ思いつくのだが、さらにもう一つ。実際に映画を見せること、というのがあった。これは大切なことである。どんなに傑作を作っても、それを見せる人がいなければ、誰の目にも触れることはないのだ。
 この本の著者は、その中でもひときわ高い次元で活躍して来た。多民族都市ニューヨークには、各国文化を紹介する公営施設が多くあるが、そのひとつを運営するジャパン・ソサエティという団体で、長年日本映画を上映・紹介し続けたのである。選択作品は、小津・溝口・成瀬ら巨匠の古典のみならず、最新の若手監督の新作まで幅広い。
 その作品の選択が著者の腕の見せ所。加藤泰や神代辰巳など、個別の作家特集はもちろんのこと、ユニークなものでは、日本の温泉が舞台の「温泉映画特集」や、映画に表象された「日米ステレオタイプ比較特集」など、多くの成功を飾ってきた。
 そして、最大の話題企画は、シネフィルとしても一級の社会学者スーザン・ソンタグのセレクトによる日本映画特集である。ソンタグがどんな作品を選んだかは、ぜひ本書にあたってほしいが、非営利とはいえ観客があって初めて成り立つのが映画というものだ。筆者がこれらの企画を練るに当たっての様々な困難や、越えねばならぬ壁を突破していくエピソードの数々はなにせ読ませられる。満員なら満員で、何とか入れろとクレームをつける客もあり、それらも裁かなくてはならない。日本映画が海外に紹介されるにあたっては、こうした努力が影にあったのだ。
 それにしても、本書を読んでいてつくづく不明を恥じたのは、映画を上映することの困難さの最大の要因が、フィルムには移動を伴うという、ごく基礎的なことだったことだ。劇場用映画のフィルムはロール状に巻かれており、1巻分は上映時間にして約20分。2時間の映画なら6巻のフィルム缶で保管されているわけだ。けっこうなかさである。
 これをフィルムの所有元から借り出し、確実に手に入れる。ところが、これが上映日までに届かないことや、他の映画のフィルムが紛れ込んでいたり、同じ映画の中でも順番が違っていたりする。しかもそうした「事故」が、上映中にわかったりして肝を冷やす。観客の我々は、映画は普通に上映されて当たり前と思っているが、その裏では神経をすり減らす、綱渡りの作業が繰り広げられているのだ。さらに、本書の場合はアメリカでの上映なのだから、英語字幕つきであることが必須だし、その所在探しにも苦労は尽きない。
 そしてこれほどの困難の中、請われれば他所での上映に便宜を図ることもある。組織としては何の利益にもならないので、多くの場合は著者の好意だ。それもこれも一途に、よい日本映画を少しでも多くの目に触れさせ、何とか海外への門戸を開こうという情熱に支えられてのことである。これを「映画」への最大の貢献と言わずして、他になんだろう。
 仕事に対する誠意や姿勢について、著者の行動からは得るものが多いし、外国の習慣の中で外国人を相手に立ち回るといった、文化論的な側面など、読むべきポイントがきわめて多彩な本だ。映画に特別な関心のない読者でも、1人の女性の海外での奮闘記として、波乱万丈、興味のつきない本となっている。
 著者は東京大学で蓮實重彦のゼミナールを受講した初期の学生のひとり。同級は四方田犬彦や松浦寿輝ら。それにしても蓮實ゼミというのは、立教からは黒沢清や青山真治らの実製作者など、いったい重要な映画人をどれだけ輩出しているのか底が知れない。

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紙の本雨月物語

2006/08/27 12:52

普遍の妄執の物語

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 映画作家であると共に、作家としても旺盛な執筆活動を続ける青山真治の新刊は、上田秋成『雨月物語』の翻案だった。時代物であることに、まず軽いショックを覚える。
 溝口健二監督の代表作として世界に知られる『雨月物語』について、「溝口『雨月』が必ずしもその最高傑作とは思え」ないと「あとがき」で語る作者が、溝口作品に感じた不満とはなんだろうか、と愚考する。それは人間の持つ圧倒的な妄執というものの濃厚さが、溝口のそこには希薄であるということではないか。あくまで相対的な判断であることを前提にするが、死してなおとも言うべき、人間の苔の一念を描いた、よりすさまじい達成は、戦前なら『残菊物語』、戦後なら『山椒大夫』、『西鶴一代女』、『武蔵野夫人』といった作品にこそ軍配があがるべきで、より審美的に過ぎる『雨月』ではやはりない。同感である。
 従って、青山真治は自らの版による『雨月物語』を著すにあたって、人間が本来持つグロテスクなまでの執念を、徹底的に深める必要があったのではないかと思う。そこに『雨月』をリメイクし得る糊しろを発見したのではないだろうか。
 そこで本書では、溝口『雨月』が上田秋成の原作から取捨して翻案した「蛇性の婬」、「浅茅が宿」に加え、「菊花の約」を加えたという。その結果、物語の濃度は一層深まって、胸狂おしいほどの混沌が支配する、偏執の物語となった。
 剣の士として兄とも慕う赤穴の帰還を待つ左門。その死を知るや、魔剣に導かれるままに、その死の遠因となった邪神を切るための不帰の旅に出るという、一つの妄執。
 そして、強力の猟師である兄に比して、お家の役にはたたず日陰者だった学究肌の弟が、生まれて初めて身も命も賭けて愛しぬいた女が(二度までも)、実は蛇の化身であったが、それでもなお、その魔性にすがらずにいられぬ豊男。そして、まさにその妖蛇が、左門の狙う復讐の邪神であったという、この運命の痛苦。
 豊男の幼馴染みの陶芸の士で、作品を金銭に変えようと京に出るが、身ぐるみはがれて堕落の日々を送る勝四郎。その帰りを信じて、死してもなお良人を待ち続ける妻。そしてその彼女は豊男の初恋の相手でもある。
 そうした交差に交差を重ねる、執念の物語を読み進めて、ふとこれが現代の物語に通じもする、より正確には、現代の物語として読み取るべきだと感じたのは、結局のところ21世紀になってもなお、大きなところでは民族と民族との抗争はやまず(やめさせず)、私欲・国欲の両面から、地球の環境破壊も辞さぬ政策を続ける超大国。卑俗なところでは、独特の意固地さから、近隣諸国との関係を害してもなお、足を向けるべきでない場所に足を向けようとする某国首脳にいたるまで、不可解きわまりない人類の行動は、この物語によってこそ、説明がつくように感じたからだ。
 人間が持つ思い込みの強さ。ひとたび方向付けされてしまったら、梃でも動かぬ人間の精神の頑迷さ。「業」というには、あまりに深い人間の運命のやるせなさ。しかしだからこそ、かくも長きにわたって人類が地球の支配を続け、生存してきたのではなかったか。であるが故に、妥協などあり得ないのではないだろうか。実際、死んでもなお良人を待ち続ける勝四郎の妻は、その穿ちがたく硬い人間の精神力の象徴ではないか。
 作者は、左門は救えないと思ったが、豊男は救いたいと思ったという(「文学界」9月号)。両者の違いは、その執念の方向である。左門は血に濡れた人物である。剣を握り、その斬るべき相手が仮に魔性であっても、武器を持つ者は決して救われることはない。豊男は愛を胸に秘めることに執念の強さを示した。救われるべきがどちらかは明らかである。そのことが、青山真治が秋成に読んだ、倫理の表層上の一枚ではないだろうか。

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紙の本熱い書評から親しむ感動の名著

2004/05/04 03:45

「私」を排除せよ!

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 自分自身が僭越にも、本書の執筆者の1人である以上、さらにこの本の書評者の1人になるのはマズイのではないか、と思っていました。それでもやはり、言いたいことがあるなら、それを言わないことはかえって、「熱い書評」者の端っこに名を連ねる者としての、理念にもとるのではないか。書くべきことがあるなら、それは直ちに言葉にして表明する。それが「熱い」書評者なのだ。そう考えたので、改めて投稿を決意しました。
 本書を最初に手にとり、そのまま一気通読。最後のページを閉じた時に感じた最大の感想は、「いかにも『私』が多い」ということでした。
 つまり、この本に収録されている66編の書評のうち、その多くが書評書と共に、何らかの形で「書評者自身」のことが、書かれているということだったのです。ある筆者は、作者ないしは登場人物と、自分自身を重ね合わせている。ある筆者は、取りあげた本を読んだ当時の、自分自身の精神状態や社会的状況を語っている。また、ある筆者はその本の現在の自分自身にとっての意味を述べている。つまりは「私」、第一人称の氾濫です。
 そのことは決して否定しないし、その本への熱い情熱が伝わるならば、それでまったくOKだと思います。実際、本書に収められた書評のすべて(いや、自分のは別か)が、そうなっており、だからこそ通読に耐えるものになっています。十分以上に熱かった! しかし、うっかりすると「自分のことをずいぶん語っているが、ところであなたは誰?」と、この本を読んでくれる、不特定多数の読者には思われかねない、一歩手前ギリギリでの綱渡りであるように思いました。ここにネット書評の弱点を垣間見た思いがします。それは、本書がネット書評から生まれた活字の本という、ある意味画期的な形態であるために、見えたことかもしれません。
無名人でも発表できるネット書評は、有名と無名の境界線がありません。そこでは有名も無名もなく、執筆者が誰であれ同じ土俵で読まれるのです。従って、読者の執筆者の「私」に対する興味など、ハナからないはずです。これはネット情報そのものの本質でしょうが、そうであるからこそ、ネット上での書評や批評のあり方としては、どこまで「私」を書いていいのか、非常にシビアな見極めが必要です。
 これは今日開設されているHPの多くが、個人日記の形式であるブログであることに、あるいは関係するのかもしれません。その延長で、ネット書評にも「私」が流れ出しているのかもしれない。しかし、評されるべきはあくまでも書物と作者であり、「私」ではないように思うのです。そしてそのストイシズムの有無が、「書評」と「感想文」とを隔てる大きな溝ではないでしょうか。
 誤解のないよう、繰り返したいのですが、本書に収録された66編のすべて、そうした「私」の無自覚な流出が慎重に避けられており、だからこそ「熱い書評から親しむ感動の名著」という書名に値するものになっています。けれど、これまで手にとった書評アンソロジーにはあまり感じなかった、どこか微妙な齟齬の感覚がその点だったのです。
 もちろん、聡明な形での「私」の提示は、次の瞬間「顔の見える」書評へと転じます。たとえば、本書に収録されている中でも、スティーブン・キングでは、代表作『IT』でも『キャリー』でもなく、なぜ『ドロレス・クレイボーン』か。あるいは、漱石は『門』が扱われ、村上龍では『どこにもある場所とどこにもいない私』。いずれもその本を扱った必然がよくわかる書評で、そこにも本書を読む面白さの一つがあります。
 ネット書評において、自堕落な「私」の流出をいかに禁じるべきか。本書は期せずしてその模範回答になったように感じました。まだ必ずしも成熟しているとは言えない、ネット書評に対するこれは大きな一石です。

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誰がために銃を持つか

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 改めて、優れた書物が持つ強靭な説得力というものに驚かされる。小熊英二は、本書に収録された2編の文章で、アメリカ合衆国における銃武装の起源、そして「人種のるつぼ」などと、むしろ好意的にイメージされることの多い、文化多元主義の実際を論じつくす。
 たとえば、合衆国の銃社会について批判的な目を向けた映像作品として、マイケル・ムーアのドキュメンタリー『ボウリング・フォー・コロンバイン』を対比させてみる。興業的に成功し、アカデミー賞も得たこの映画の、質と意識の高さにまずは最大の評価を与えたい。この映画を見る多くの観客は、合衆国の病理に驚き、「恐怖」をもって国民を操作する「何者か」への怒りをかきたてられるだろう。行動への勇気だってわくかもしれない。
 けれど、直接感情に訴えかけるそれは、やはり一元的なもので、だから世の中の風向きが変われば、あっという間にその熱は冷めてしまう可能性がある。たとえば、マイケル・ムーアという人が実は悪い奴で、政府(特に民主党)からたくさんお金をもらって私腹を肥やしていました、というような噂が出たらどうなるか。たぶん、彼が今後どんな「真実」を訴えても、もはや人は聞く耳もたないに違いない。ここに、より多くの層への伝達が可能な映像作品の優位がある一方で、決定的な欠陥に思い当たる。
 それに対して、本書のように、怜悧な論理に基づく理論書は、そうしたもろさとは無縁だ。より少数の目にしか触れないかもしれないが、読んだ者の理性と知性には、強く働きかける。実際、本書を読み終えた今、胸にずんと響いて今なお重たい。
 本書前半は、なぜ合衆国民はこれほど銃所持に固執するのか、ということの歴史的起源を洗い出した論文である。武装権については、合衆国憲法修正第二条にその論拠を求められるが、その条文の前半と後半、どちらに着目するかで、銃規制の肯定・否定が分かれるのだという。
 すなわち前半の主語、『民兵』に注目すれば、これは独立革命当時の民兵組織を念頭においており、今日においては時代錯誤の条文だとして、銃所持の否定につながる。
 一方、後半の『人民の武装権』という語に重きをおけば、これは純然たる国民の権利として、銃規制反対の論拠となる。なるほど、そこまでなら普通の展開だ。しかし、本書が俄然、読者の興味をひきつけるのは、「実際には、この憲法修正第二条が生まれた当時の事情は、この双方の主張どちらからも微妙にずれている」と、語り始めるあたりからだ。
 この濃密な論文を要約するのは不可能だが、さわりだけを述べるなら、その思想背景は、規律や忠誠心に乏しい、傭兵を中心とした従来の戦争から、「経済的に自立した自由市民が、自らの意思で武器をとって参集する市民軍」という近代戦の構想にあるということだ。つまり、自分の土地は自分で守るという、開拓時代の典型的な考え方である。
 小熊の筆は、独立戦争から南北戦争にかけての戦術の変化をあまさず描写し、合衆国における武装権がどのように進展したかを説明する。読み進めながら、「こりゃあ合衆国から銃がなくなることはあり得ないな」、と悲観的な気持ちにもなる。しかしさらに恐ろしいことには、もし市民が武器を捨てた社会が実現するなら、今度はその反動として、国家権力の武装力が増すだろうという、より悲痛な見通しなのだ。
 そうした問題分析の後、小熊が問いかける「歴史上一度として市民の蜂起で君主を倒した経験がない国の人間が、それを一片の冷笑をもってかたづけてよいのかは、別問題のはずである」という言葉が何とも深い。
 超ヘビー級の書物ばかりの小熊英二にあって、200ページに満たぬ比較的ライトな本である。ともかく必読の書といっておきたい。

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「ときめき」の効用

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 クリスマス論というと、時期はずれと思われるかもしれない。けれど、これは「ときめきクリスマス論」である。「クリスマス論」ではない。だから季節は無関係。「クリスマス」というのは話のきっかけで、むしろ本書は「ときめき論」と呼ぶべき本だ。
 「サンタ服の女の子はかわいい」。こんな単純で素朴で、きわめて真っ当とはいえ、ある意味乱暴な動機から、この本は生まれた。では、なぜそれが動機となり得るのかというと、それを見ると「きゅう〜ん」という気持ちになるからだ、という。
 話のメインは、実際にサンタ服を(自分で作って)着た少女たちの恋物語。冷めた彼氏の感情をもう一度たかぶらせ、自分もたかぶろうとサンタ服を着る。こう書くと単なるコスプレのようだが、サンタは「ときめき」の象徴である。「ときめき」を失ったとき、心は死んでゆく。けれど「ときめき」は決して死なない。それは忘れられているだけだから、思い出しさえすればよいのである。そのためにひと役かうのが、サンタ服というわけだ。
 もちろん、筆者はそれが単なるコスプレだとしても、決して否定はしないだろう。それによって「ときめく」ことが重要なのだから。実際、本書には筆者の教え子によるコスプレ論さえ収められている。そのうえ筆者は、大胆にも自身のSM体験まで披露している。けれど、そこにちっとも淫靡さの印象がないのは、その体験がどこまでも「ときめき」という感情に根ざしているからだ。
 「ときめき」という感覚は、筆者の表現を借りれば、おそらく「自由になれる」ということなのだと思う。規範や、固定観念や、自己抑制といったものから解き放たれて、自分の気持ちを解放するということではないか。
 こうして、この本にはたくさんの「ときめき」コンテンツが紹介される。クリスマスの行事はまさにそうだろう。あるいは男にとっての女の子の部屋。そう、ときめくのは何も女の子だけの特権ではない。筆者の主張はむしろそこなのだ。
 「僕と一緒に女の子の世界を覗き見ることによって、内なる乙女回路をぶんぶん回して、きゅう〜んとなろうではありませんか」と促すのは、それがすなわち「救い」となるからだ。筆者はレヴィ=ストロースを引用して、人は「あらゆる恐れ、あらゆる妬み、あらゆる苦悩が棚上げされる」そんなひとときを望んでいるのだと語る。「救い」が必要な主体に男女の差などないはずなのだ。その救いを求める気持ちの象徴が、筆者に言わせるとクリスマスであり、サンタクロースというわけだ。もし時代や国を超えてそうした気持ちがないのなら、サンタはいつしか淘汰されたはずだと。筆者はたぶん、そうした「ときめき」を感じる気持ちにブレーキをかけていませんか? と問いかけている。だからあられもなく自分の子どもの頃や、自分がときめいたことについて、あけすけに語る。人によっては、この本を読んで少し正直な気持ちにさえなれるかもしれない。それは共感と呼ぶべきものである。
 ここで、ふと思い当たる。筆者の前著『失恋論』もやはり、きわめて個人的な失恋話だったことを。けれどそれがちっとも他人事と思わなかったのは、その書き方がどこまでも、あなたの場合はどうですか? という自己対話を促すものだったからだ。それは、本書も同じである。「きゅう〜ん」と思う気持ちに蓋をしないこと。それが自分を救い、自分に関わる他者を救い、ひいては世界を救う極意なのだ。
 筆者の筆にかかると、誰もが魅力的だ。「セサミストリート」のエルモ、映画『アメリ』のヒロイン、そして・・・女の子サンタ。いずれも自分の感情に枷などはめない者たちである。この本はその意味で生き方論でもある。ステキなもの、かわいいもの、それをあえて「乙女心」と総称するが、そうした気持ちに目覚める方が、いわゆる「自分探し」なんかより、よほど現実的で手っ取り早いのではないだろうか。

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紙の本ホテル・クロニクルズ

2005/05/13 01:26

畏怖と抵抗の間

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「グランド・ホテル形式」という言葉がある。これは、次々と登場する人物たちが、ひとつのホテルを舞台に、多くのエピソードを積み重ねて全体を構成する映画スタイルで、1933年の名作『グランド・ホテル』から来たものだ。そして今日まで様々な映画作家が、ホテルを舞台に作品を作ってきた。それほど、ホテルと映画は親和性が高い。
そのせいとは言わないが、映画作家でもある青山真治が、その連作短編集を著すにあたって、ホテルに舞台を設定したことは不思議ではない。ホテルは孤独になり、だから自慰を施し、人と会い、だから性交し、食べ、語り、そして眠ることができる。それらが一過性の時間であるが故に、日常とは違う思考を編み出す空間でもある。だから、言葉が沸いて出る。そのため、ホテルは小説との相性もとてもいい。
まるであふれ出てきた言葉の連鎖のようなこの本は、キーボードではなく、まるで昔ながらの万年筆でごりごりと書かれたかのような印象を与える。明らかに作者本人である「私」自身や他者の、ホテルでの出来事や想念(情念)、または他人との関わりあいを綴った、その内容から感じられる、いらだちの深さと強さがそう思わせるのだが、それによって、作者は創作者として何かに必死に抗おうとしているかのようだ。その何かとは、先行する巨人たちの仕事であり、彼らに対して、自ら映画を撮り、小説を書く者として、断じて屈するまい、絶対に挫折するまいと、堅く決意しているように思えるのである。
その巨人とは、第4編の「Radio Hawaii」で、作者が太字で「あの人」としか書けぬ人物である。なんだか、その名前をひとたび書きつけてしまったら、その瞬間作者は「あの人」にひれ伏してしまいかねない切迫感が漂っている。
執拗に書かれたその「あの人」は、第1編の「ブラックサテン」ではっきり「中上健次」と記されており、その作品発表年代が、ゴダールやマイルス・デイビスのそれと対照される。作者にとっては、この3人が「しまいにはただ独り不可避的に宇宙へ舞い上がる」偶像なのだ。そして「Radio Hawaii」ではブライアン・ウィルソンが言及される。呪詛か何かのように、ウィルソンに関する考察を書き綴り、しまいに「ずっとナンバーワンでいるってどんな気分だい?」といささか自虐的に語りかけるが、そうした先行する創作者たちに対する過酷な精神的抑圧が、本書の全編に漲っている。
そして、そのような巨人たちが巨人であるために支払った代償の高さを熟知する青山は、彼らと対等たるべく同等の孤独を求めつつも、それとは相反するかのような面ものぞかせる。たとえば第2編「交響」で、わずかなセンチメンタリズムとともに、自らの結婚に関する心情を告白する。そこでは「誰かと「秘密」を育み、共有したかった」と言う。
そして第6編「地上にひとつの場所を!」。どこがとは言えないが、なぜかアンゲロプロスの『ユリシーズの瞳』を思わせるこの名編では、韓国に赴いた作者が、奇妙なフィルムを見せられたあと、「あなたはひとりではない。わかりますね」と諭される。
決して大きな本ではないのに、本書の読後はまるで大作を読み上げたかのように大きな疲労におそわれる。創作に携わる人間はかくも大きな抑圧の下に、作品を産み出しているのか。抑圧と開放、孤独と関係性を同時に求める青山の、分裂的な意思は、「地上にひとつの場所を!」の次の一文に集約される。
「・・・私が獲得した唯一の価値基準は、好きか嫌いか、ではなく全てか無か、というより全てと無の両方を同時に手にすること、にあらゆる判断を集中させること、だった」
青山真治は世界と「断絶」しつつ、しかもその全体像把握のために、今もその方法を模索し続けているのである。中上やゴダールらがそうであるように。

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紙の本死の谷’95

2005/12/18 01:48

映画と文学の間のタイトロープ

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 優秀だが人間味のない兄と、定職のないぐうたらな弟。ほとんど交流のなかった2人だが、ある日、弟は突然の兄の訪問を受ける。久しぶりだというのに、自分の妻を尾行して、浮気の証拠をつかんでくれというのだ。あきれつつも、手数料に目がくらんでそれを引き受ける弟。しかしホテルでの嫂の行状を盗聴しているうちに、彼女は自殺。後に残ったのは切断された腕だけだった。その10年後、成り行きから弟は探偵家業についている・・・。
 探偵、ホテル、女の偽装自殺・・・など、映画的記号に満ちているが、「映画作家」から今や「作家」となった青山真治による本書は、どこまでも文学である。文学だというのは、読み込むことで初めて浮かびあがる何かが、ここに書かれているということだ。
 すなわちここでのそれは、「どんな顔をしていいかわからない」という状況と、その空気である。この猟奇的ともいえる物語には、それこそ「どんな顔をしていいかわからない」場面がたくさん出てくる。仲違いをしていて、何年も音信普通だった兄が突然訪れ、妻の素行を調べろなどと言われたら、いったいどんな顔をすればいいというのか。
 この場面を仮に映画にしたとする。2人の男優がいて、兄役の俳優が神妙な、しかしよそよそしい顔をして相談をもちかけるだろう。話を聞いた弟役の俳優は、驚きあきれて言葉を失った表情を作り、それに答えるに違いない。おそらく、2つの顔の切り返しによって撮られるだろうそのシーンを、観客は表情のドラマとして見るはずだ。久しぶりだというのに人情味のない兄と、それに拍子抜けする弟という、表情のスペクタクルである。
 しかし、これは文学だから、その様子をこんな風に表現する。
 「次郎には兄の考えていることがすぐにわかった。他に頼める人間がいないのだ」
 「自分は兄にとって、身内でもなく他人でもない、どこの馬の骨とも知れない、百円均一ショップで売っている使い捨ての道具だ」
 この場面には、あきれた気持ちや怒り、相手に対する軽侮と、さらには自嘲、そして血のつながった者ならではの洞察といった、たくさんの感情が貼りついている。優秀な俳優ならあるいは、そんな複雑な表情を作ってしまうのだろうが、そうした言葉の生み出す執拗さと、心の中に渦巻く情念を伝えきることは不可能だろう。
 念のために言い添えると、それは映画に対する文学の優位を意味するものでは断じてない。「作家」であると共に「映画作家」でもある青山真治は、おそらくこの作品を執筆するにあたって、場面のひとつひとつが、映画化した時の「画」として頭に浮かんでいたのではないかと想像する。
 文学に寄り添ったら映画作家として尊敬しかねるし、映画に寄り添ったら文学者としては生きられない。映画で飽き足りぬ余白を文字が埋め尽くし、文学表現の及ばぬ間隙を映像がバックアップする。最近の青山真治の仕事が興味深いのは、そんな映画と文学の間のタイトロープを歩んでいるからなのだ。
 本書の主人公は、ドラマの終盤で偶然の導きによって(ピーター・ブルックスの定義通り、全てのメロドラマは偶然に起こる)、思いもよらぬある驚愕の再会を果たす。それこそ、互いにどんな顔をしていいかわからない場面であり、きわめて映画的であるにもかかわらず、これほど濃密な心理描写を可能にするのは、やはり文学の特権だ。
 この本を読んで思った。青山真治の野望のひとつとは、それを映画にしても最高のものになるし、文学としても無上の表現である、そんな創作をやってのけることではないか。そして、そうすることで、ついに真の『作家』たることを狙っているのではないか、と。

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紙の本映画覚書 Vol.1

2004/09/02 00:26

映画の新たな語り部として…

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 『シンセミア』で、小説家としての成熟期に入りつつある阿部和重の、これは映画論集。たぶん、これまで書かれた映画に関する全文章が収められているのではないだろうか。「Vol.1」というからには、当然2、3を想定してのことだろう。早く書きためてほしいと思う。
 もっともっとと願うのは、映画批評のあり方を根こそぎ変え、かつ率いてきた三朋輩(青山真治による)、蓮實重彦、山田宏一、山根貞男の後裔が何としてもほしいからだ。だって、映画についての総合的な発言者として、いつまでも彼らに頼れないぞと思うではないか。
 かれこれ20年以上も蓮實・山田・山根に頼りっぱなしだった映画評論の世界は、もう十分彼らの世話になったはずだ。だからこそ、次の20年を牽引してくれる批評家が必要なのだ。映画の実見が豊富で、ゴダールからカーペンターまでをカバーし、蓮實流批評術を十分身につけた上で、映画の新しい見識を期待できるとすれば、阿部くらいなものだ。
 他の2人は青山真治と黒沢清を挙げたいが、彼らと旧三朋輩との決定的な違いは、阿部・青山・黒沢が映画の実製作者だということだ。もちろん青山と黒沢は今や国際的な映画作家だが、阿部は職業的な映画監督ではない。けれど映画学校の出身者で、しかるべき機会があれば、監督をやりかねぬ人物だし、それをほのめかす発言もあるので、それに準じるものとみなしてしまおう! それだけでも、後継者としての期待が持てるというものだ。
 本書は「文学界」連載の映画時評を中心に編まれている。映画紹介をやっていれば、来日予定の(2002年)ゴダールに会えるかも、という不純な(?)動機から連載開始となったものだそうだ。(9ヶ月後、結局会わせてもらえなくって嘆き悲しむ文章が、情けなくも可笑しい。ま、どっちにせよ会えない我ら一般人には、申し訳ないけど少々痛快。)
 本書における阿部の主な問題意識は、90年代以後のアメリカ映画のあり方だ。映像表現におけるスペクタクルが増す一方で、物語が貧弱になる。必然的な帰結は企画のネタ切れということである。そして、それをいわば補完する形で進行する、擬似ドキュメンタリーの流行だ。すなわち、「粗雑で浅薄な物語であろうと」、ドキュメンタリー・タッチで撮れば「リアリティは保証されてしまう」ということである。
 この指摘はあまりに正しい。この基準にのっとり、ジョン・カーペンターの『ゴースト・オブ・マーズ』を絶賛し、ジョン・ウーの『M:I−2』は保留付で批判する。そうして、アメリカ映画の今が浮かび上がる。今さら目から鱗が落ちるような指摘では無論ないが、彼の批評は今にも失われようとする、アメリカ映画の評価に対するものさしとなるのだ。
 最後に1つだけ苦言を言っておきたい。本書の目玉は、阿部和重×蓮實重彦の新旧2人による「徹底討論」だ。ここで、蓮實は「無条件に好きで」、新作には「一目散に駆けつけ」るというトム・クルーズへのエコひいきを延々と語るのだが、阿部はあからさまに無関心を通している。話題がクルーズからはずれ、別のテーマに移っても、話題がオリバー・ストーン監督になると、蓮實はすかさずクルーズ主演の『7月4日に生まれて』を持ち出し、嬉々として話を戻すのだが、阿部は同じストーン作品でも『エニイ・ギブン・サンデー』の方に話を転じてしまい、冷たく蓮實の口を封じてしまう。
 今やアメリカ映画の水準を、俳優の立場から1人で支えている、トム・クルーズに対する無関心ぶりも問題だが、全般的に阿部はスタアに対する共感と関心が弱い。我らはクルーズの擁護まで蓮實に頼らねばならないのだろうか。その発言に一層の見通しと総合力を獲得するために、彼には映画スタアへの感受性をもっと磨いてほしい。決してないものねだりでなく、次世代の評者として最も期待するだけに、ここはあえてしておきたい注文なのだ。

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紙の本映画女優若尾文子

2004/05/30 22:47

誰が女優を「読んで」いるか

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 ファンが思いを綴ったエッセイ集や伝記本、または写真集ならたくさんあるだろう。けれど、1人の俳優を、今あるフィルムのみを通して、分析的に論じた書物となると、これはほとんど皆無ではないか。
 本書は若尾文子という、時代を担った大女優が何を画面に刻んだのか。そしてそれが今日の観客にも与え続けている、共感の秘密は何なのか。また、彼女を育てた監督たち、主に増村保蔵が、若尾を素材にどんな女性像を表層したのかを読み解く、これまでありそうでなかった試みだ。その意味で、本書は今後の俳優論のスタンダードとなるだろう。
 全体の構成は前半と後半に分かれている。前半は男性である四方田犬彦が論じ、後半を女性の斉藤綾子が受け持つ形である。ただし論じる対象が何であれ、それがその時代や国にとって、どんな意味があるのかについて、常に強く意識的な姿勢は、四方田の著作の常であり、本書全体を貫く方向性は100%彼のものだと思う。
 けれど、ここで「男性」、「女性」という区別をあえて示したのは、男性からと女性からという、両方の視点を組み合わせることで、より複合的な見方を実現する本書の意志を伝えたかったからだ。この本が持つスキのない客観性は、それが一番の理由である。
 1952年にデビューした若尾文子は、日本映画史でほとんど初めて、男性観客にとって、リアルで切実な性的欲望の対象となった女優ではないだろうか。たとえば原節子は高貴すぎるし、田中絹代にセックスアピールは皆無。高峰秀子や香川京子なら健全すぎることを考えると、若尾の顔や肉体は、まともに男の性欲を直撃する。つまり、男性的芸術論の対象にはなり難く、女性観客には忌避の対象となりかねぬ女優だったということだ。
 そんな若尾を、当時の大映社長・永田雅一は、誰にも手が届きそうな存在として、高嶺の花ならぬ「ヒク嶺の花」といったそうだ。その「ヒク嶺の花」が、イタリアに映画術の基礎を学び、「頑固な意志と欲望をもち、確固とした個人として人生を肯定的に生きていく女性」を描くことが日本映画の急務とした、増村保蔵監督の手によって、どのように戦後の時代と切り結ぶことになったか、これを四方田の稿が精緻に分析していく。
 そして、女性観客の忌避の対象どころか、同性ながら否応なしに魅了されてしまう、若尾文子の重力の秘密にせまるのが、斉藤の稿である。「自らが愛するのと同じくらい、あるいはそれ以上に、彼女は愛する相手に「自分を愛してもらう」ことを執拗に望む」若尾が演じる女性像の、一つの達成を『夫が見た』(1964)に求め、増村作品としては必ずしも傑作とはされていないこの作品の、閉鎖的な画面構造や、若尾の身体的表現を細かく例示しつつ、いかに女性観客との同一化(「同一化のエロス化」)を図ったかを解き明かす。
 その結果、四方田は若尾の本質を「欲望と民主主義の結合」と喝破する。つまり、旧体制からの離反を前提に、個人の原理を追及すること。そしてそれを、男女の別なく支持を得ながら実現することである。欲望と民主主義。原節子はこのどちらも所有せず、吉永小百合は民主主義はあっても欲望はなく、二つをあわせもちながら神話化に成功したのは若尾文子だけである、と論を進める四方田の筆は圧巻の一言で、知的興奮がみなぎっている。
 そうした四方田の結論が、先に触れた斉藤の「同一化のエロス化」という主題と結びつくとき、若尾文子という女優の、映画史における全体像が浮かび上がる。そんな「読み」を補強するかのように巻末におかれた、若尾本人へのインタビューは貴重な資料である。美しい日本語で、愛嬌豊かに語る若尾の人柄を、読者の印象にさわやかに残して、本書は閉じられる。高度に学術的なのに、読後には感動すら覚えてしまう、見事な一冊である。

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『映画的!』ふたたび

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 ポーリーン・ケイルは、一昨年の9月に、惜しまれつつ亡くなったアメリカの名物評論家である。大衆に広く知られた映画評論家というと、どこかの国のようにタレントまがいで、いささか信用できないのだが、ケイルはまさに一級品。いわゆる印象批評とはいえ、見るべき場面のおさえ方とその再現力、そしてそれが映画全体に与えている意味を語る技において、比類ない冴えを見せてくれる。邦訳は、これまで『今夜も映画で眠れない』、『映画辛口案内』、『スキャンダルの祝祭』があるものの、もうひとつ訳文がこなれておらず、その味を伝えきっていなかった(いや、もともとの原文が固いのでやむを得ないのだけど)。
 しかしながら、そんなこれまでの不満を吹き飛ばす、決定的なケイルの邦訳本がついに登場した。監修:山田宏一というだけでも買いなのだが、注目すべきは畑中佳樹・柴田元幸・斉藤英治・武藤康史という、訳者の顔ぶれだ。柴田は言うまでもなく名翻訳家として大活躍中だが、中でも強調したいのが、畑中・斉藤である。彼らは80年代末における革命的な映画書、『映画的!』の共著者である(他の著者は沢田康彦・宇田川幸洋)。『映画的!』は、映画が完全に生活の一部になった人たちによる、いかに映画から喜びを見出すかのノウハウにあふれた、映画批評全盛の時代の最高の書物だった。
 そんな畑中・斉藤と共に、80年代始めに「キップル」という手書きの同人誌を作っていたのが、訳者の残る1人武藤康史である。「キップル」は、『映画的!』の前身ともいうべき評論誌で、私はかつて人を介して苦心の末バックナンバーを手に入れたのだが、「語らずにいられない!」というパワーと、内容の面白さに、とことん影響されたものである。
 それから時はたち、畑中・斉藤の文を眼にする機会もいつしかなくなってしまった。そこで突然不意打ちのように登場したのが、本書である。息もつかせず一気に読んだ。あの頃の熱気そのままの訳文である。特に巻頭に置かれた畑中訳のケーリー・グラント論。『映画的!』のタッチで、ケイルの濃い論文を読める幸せ! これまでのケイルの訳本にあった生硬さは少しもなく、しかもなお彼女の筆致を味わえる至福の文である。それはつまりどんなものなのか。それは映画ファンとして大いにはしゃぎながら、映画史的に確かな知識で次々と話題を転じ、作品またはスターについて、ついには1つの大きな映画的イメージを作り上げてしまう豪腕だ。実はその方法論は、『映画的!』という書物がそうであったのと同じであり、80年代最高の映画書が、実はケイルこそ出発点であったという事実確認となった。
 それもそのはず、あとがきによるとこの本のもととなった文の翻訳を始めたのは、83年か84年。そのままになっていた当時の原稿がようやっと出版の運びになったものだという。訳者たちの、まさに全盛期の仕事だったというわけだ。当然だが取り上げられた映画はやや古い。『未知との遭遇』、『ジュリア』、『ディア・ハンター』、『1900年』…。いずれも70年代後半から80年代前半にかけて、映画ファンの胸を熱くした作品群である。それは、映画とはビデオではなく映画館で見るものという、ごく当たり前のことが普通に実行されていた時代の作品だ。
 ビデオやDVDという、冷めた鑑賞メディアから生まれる批評に、熱などこもるはずはない。映画館という、熱く息苦しい場所から生まれる批評にこそ、勢いと情熱が宿る。この本はそんな遠い贅沢な時代からの、記憶のリバイバル上映である。

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批評的な、あまりに批評的な

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 批評家とその批評対象が、ほとんど一体となり、まるで同一人物であるかのような錯覚までしてしまう。そんな奇跡のような批評家と作家との出会い。それが実現された世界でも類のない例が、山田宏一とフランソワ・トリュフォーの関係だ。
 たとえば、淀川長治とチャップリン、蓮實重彦とフォード、山根貞男と加藤泰…。その映画作家を語らせたらこの人をおいて他になし、という組み合わせはいくつも思いつく。けれど、トリュフォー/山田宏一ほど幸福な結びつきが他にあるだろうか。トリュフォーという対象を全人格的にとりこみ、まるでその作品世界の中に生きているかのように批評する。そんな美しいつながりは唯一無二である。これはいわば、批評家と作家との結婚だ。600ページをゆうに超える大部なこの本は、その結婚生活そのものの軌跡なのだ。
 処女長編『大人は判ってくれない』から、『逃げ去る恋』までの4作で、主人公アントワーヌ・ドワネルを演じたジャン=ピエール・レオーが、作者であるトリュフォーその人と、同一人物に錯覚されていったように、トリュフォーと山田宏一もいつしか一体となっている。いや、むしろ山田宏一とは、初期の「カイエ・ドゥ・シネマ」誌の最も先鋭的な批評家であったトリュフォーが、映画を作らずに批評家を続けていた場合のもう1つの姿なのかもしれない。
 よい批評文とは、決して作品の持つ意味内容を解きほぐすものとは限らない。その作品に惜しまぬ愛を捧げ、その綴られる言葉がいつしか作品そのものを、実際以上に輝かせてしまう。かつて蓮實重彦は、そんな山田宏一の文章を「映画語」と呼び、誰にも使えるものではないと断言した。
 たとえば、トリュフォー作品としては批評面でも興行面でもふるわなかった『暗くなるまでこの恋を』について、作品中にちりばめられた映画史的引用を逐一挙げていきつつ、最後にその出来の悪さ加減をこんなふうに語ってみせる。「あまりにもなまなましく引用が露呈しすぎているのである。それが邪魔してミステリーとしてのサスペンスにかけ、「いささかなまぬるい」展開になっているのである。愛すべき失敗作なのである!」
 このように、映画から受けとった客観的な判断を、いったん作者本人の人間性に投げ返し、その反応との総体で批評の言葉が紡がれるのだ。
 山田宏一によるトリュフォー批評の素晴らしさの秘密はそこだ。『恋のエチュード』の場合でも、五月革命以後の政治性の喪失をひきあいにだし、「フランソワ・トリュフォーの映画は「裏切り」の芸術なのである。しかし、トリュフォーの場合、いかに成功したとはいえ、裏切りは裏切りだ。甘い香りなど放つわけがない。『恋のエチュード』は、(中略)まさにダメ男の行為のエチュードなのである」と、その本質をすくいとってみせる。
 作品と作者を決して切り離さず、その人となりを愛するが故に、その作品も愛しまずにいられないというのが、山田宏一のトリュフォー批評の真骨頂だ。いや、作品を愛するが故にその人となりも愛さずにいられないというべきなのだろうか。そしてそれが、山田宏一という人の人柄なのだ。
 この本は、トリュフォーの全作品評と、その作品に関するトリュフォー本人や関係者のインタビューを交互にセットして構成しており、まるで二本立ての映画館に入ったような楽しさだ。きわめて映画的な本作りだと思う。何度でも参照したい永遠保存版の書物だ。
 最後に、巻末のトリュフォー本人から山田宏一に送られたという、トリュフォーのサイン入りポートレートが、胸撃たれるほど感動的であることを付け加えておきたい。なんというか、これほど曇りなく晴れやかで屈託のないトリュフォーの笑顔は、かつて見たことがない。素晴らしい表情だ。

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