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ガブリさんのレビュー一覧

投稿者:ガブリ

46 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

紙の本ニワトリを殺すな

2003/06/12 17:40

なるほどそのとおり!でも…

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

サラリーマンのファンタジーです。
読後に心地よい気分に浸れます。
「そのとおり、そうなんだよ、まったく良いこと言うなあ。よし! オレも頑張るゾ!!」
しかし、ハタと我が社に置き換えて落ち込みます。
「ウチの社長や上司がこんなこと言うわけないや…」
この本を現実にどうこうしようと考えてはいけないのです。
あくまでもファンタジーとして元気を出したいときに読みましょう。
この本を読んで「そのとおり!」と感じられるうちはあなたは正常です。

あなたが社長もしくは管理職で「よし、今度の朝礼でこの本の話をしよう」と思ったなら止めておいたほうがいいです。
朝礼なんぞをやっている会社がニワトリ会議をしてないはずなないのですから。
社員からあくびを引き出すだけです。

ニワトリ会議=傷ついた仲間がいたらつついて殺す=失敗は決してその通りに報告しない→失敗を恐れて新しいことをしない→会社がヤバくなる

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紙の本

対立の原因を推理する楽しみ?

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

世代という区切りで言えば私は新人類世代となる。新人類の中でもバブルに乗り損ねた先行新人類だ。
東氏のように繁栄の中で育ったわけでも笠井氏のようにイデオロギーの選択に迫られたわけでもない。むしろ宴の後の虚無感の中で自分探しをしつづける世代とも言えるかもしれない。そんな訳でたくさんの本に手を伸ばしているが、東氏の著作は興味深く読ませてもらっているし、笠井氏にいたっては「バイバイ、エンジェル」を読み終えたときの驚嘆は今でも忘れられない。
その二人の往復書簡だというではないか、これは読まねば!と手にとったが…その結果はまさしく9・11後のむなしさである。異なる思想をかみあわせようとすれば決裂しかないのだろうか?
対話を成功させようとするならば、年長の笠井氏が大人の度量を見せて東氏にあわせるという手もある。または年下の東氏が1歩下がるという方法もある。しかし二人は馴れ合いを恐れたのか自らの方法論に固執しついに実のある対話にはなっていない。
論争は面白い。しかし論争にも至っていない本書のかみ合わなさは何が原因なのだろうか? 果たして本当に世代の違いに起因するものなのだろうか? それとももっと深く思想の根源に至る違いによるものなのだろうか?
本書の中で二人が結論めいたものを出していないので、対立の原因を考えるという楽しみを与えてくれたといえるのかもしれない。現に私は知人に読ませて考えを聞こうとしている。

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紙の本

紙の本Ave Maria

2004/05/17 23:50

蒼ってそういう存在だったのね

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う〜ん、正直いって蒼の話はもういいやと思っていたのだが、いや、読んでよかった。建築探偵シリーズの謎が少しだけ解けたような気がする。
謎といっても未だに読者を悩ませ続ける主人公、桜井京介の秘密が解けたわけではなく、なぜ九作目に至るまで主人公の秘密を謎のままにしておけたのかという方である。
シリーズものの主人公はたいてい何らかの秘密を背負って現れるが4,5作目くらいになると、それもう秘密じゃないし〜、くらいに大体ネタバレされてしまう。なぜかというとシリーズを進めるために少しずつ秘密は明かされなければならないからだ。

この本で語られる事件はすでに五作目の『原罪の庭』で解明されている。著者自身が冒頭でシリーズ作品相互のネタバレを謝罪しているが、それでもこの本を書かなければならなかったのは桜井京介から蒼というフィルターを外さねばならなかったからだと思う。
蒼という少年が秘密を抱えて登場した第一作目から、蒼は京介を代弁する存在だった。主人公も秘密を抱え、サブキャラも秘密を抱えているという二重構造をどこまで意図していたかは分からないが、蒼の秘密を前面に出すことによって、桜井京介は秘密を明かしすぎることなく存在を際立たせることができたのではないか。
蒼の秘密が明らかになった『原罪の庭』は確かに物足りなかった。シリーズの他の作品は事件が解かれると同時に事件にかかわった人たちの重荷も解かれるというカタルシスがあるのだが、蒼は解放されなかった。その後も蒼は京介に被さった存在のままだったために成長させられないキャラクターになってしまっていたのではないだろうか。

著者はこのシリーズを三部各五作ずつと決めていたようだ。
三部に入れば京介のフィルターとしての蒼は必要なくなる。京介の秘密に迫る三部へ入る前に蒼の事件である『原罪の庭』にケリをつけ、蒼を解放する本書が必要だったのだと思う。
まだ少し足元がおぼつかないが、優しさと強さが調和したしなやかな青年に成長した蒼の活躍が今後は期待できるかもしれない。それに京介が今後向かう過去との対決を細やかに語れるのは同じように秘密を抱えていた蒼しかいないだろう。
十作目(来月出るそうです)より先に読んでおいてよかった。

蛇足ですが篠田氏の作品に職人のような生真面目な器用さを感じます。シリーズものって途中でだれるのにきっちりと計画通りに積み重ねていくところとか、蒼の話をあくまでも番外編で片つけるところとか…


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紙の本

東氏が何に苛立っているのかわかったような…気がする?

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この本の内容についてはすでに多くの方が書評をかかれているようなので省略して個人的な感想を言ってみたいと思う。
個人的な疑問の発端は東・笠井往復書簡だった。なぜこんなにすれ違ったのか? 何回か読み返してみた結果これは東氏の方がフェアじゃないと感じた。自らの基礎経験は80年代にありそれを足場にしていると言っているにもかかわらず、笠井氏の基礎経験である60年代は興味がないと言って切り捨てる。東氏は茶飲み話をしている場合ではないと言い切り、笠井氏を相手に選んだのは間違いだったと言う。
東氏は必死になって何かを求めているようなのだがそれは何なのだろう?
では往復書簡の失敗に比べてこの東・大澤対談が成功しているように見えるのは何故だろう?
確かに対談は成立しているが果たして東氏求めるものは得られたのだろうか?
東氏は満足気だが私には対談の要所要所で大澤氏が「趣味の違い」でかわしているところが気になった。
その「趣味の違い」こそが東・笠井のズレだったのではないかと思うからだ。
対談は終始思想的言語で語られているが(場所がジュンク堂と青山ブックセンターだから?)体験的言語で語ったら同じくすれ違いになるのではないだろうか。
序文にある現場からのボトムアップだという東氏の言葉に納得できないのはそのせいだろう。
東氏が今痛切に欲しがっているのは新しい言葉らしい。それを自分で造ろうとしているのかどこからか引っ張ってこようとしているのかそれはまだ分からないが、80年代的手法を採ろうとするのは間違いだしすでに不可能だということを東氏は分かっているように思う。その辺で苦悶しているのだろう。
この東・大澤対談は現在を俯瞰しているという点では確かに良書ではあるし、どこがどう問題であるかを顕わにしたともいえるが、新しい問題提起には至っていないと思うのだが?
むしろ気になるのは東氏が新しい言葉の創造を誰かに委託したがっているように見えるところである。確かに想像を絶する困難さではあると思うが是非自分でやって欲しいと願う。

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紙の本

紙の本古城の幽霊ボガート

2003/07/09 00:07

家付き妖精ボガード、欲しいような欲しくないような…

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ある日いきなりスコットランドの古城を相続したカナダのヴォルニック一家は揃って素敵な夢を膨らませてスコットランドへやってきた。
ところが城はボロボロでとても維持はできないと売ることにし、城の家具をいくつかカナダへ送ったのだが、なんと城付き妖精ボガードまで送ってしまったからさあ大変!
いたずらだけで生きているようなボガードがヴォルニック一家にもたらした混乱は笑ってしまうというよりハラハラドキドキ。
ボガードのいたずらは一家の二人の子供エミリーとジェサップがやっていると疑われるのだが、より災難だったのはエミリーの方だろう。
ポルターガイストを起こしていると思われてマッドサイエンティストみたいな心理学者に病院に閉じ込められそうになってしまう。
一刻も早くボガードを故郷に返さねばエミリーが危ないと二人は知恵を絞るのだがボガードは面白おかしくいたずら三昧。だがついに郷愁にかられたボガードがとった帰る方法がまたなんとも奇妙な!?
やんちゃで陽気で寂しがり屋で人嫌いなくせに人恋しい。人の頼みなんか聞く気もないし、人の都合もお構いなし。
なんかこんな妖精いたなあ、と思い出してみると沖縄のキムジナーに似てるかも? 最もこっちは南国、向こうは哀愁漂う北国という違いはあるけれど。
こんなボガードが家にいたらたまったもんではないが、読み終えた頃にはいないのが寂しいような気がするから不思議。

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紙の本

紙の本黒曜石3万年の旅

2004/11/14 17:04

黒曜石に宿る望郷の念

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黒曜石に対する望郷の念は、幼き頃に故郷の田畑を黒い宝石を探してさまよった記憶によるものなのか、それともDNAに記憶された縄文人の血のせいなのか。
タイトルを見たとたん中身も確かめずに即買いしてしまったのは、知的興味というより望郷の想いからだった。
故郷は黒曜石の産地から少し離れているので、この本によれば二次消費地といったところだろうか。豊富な原石からいくらでも道具がつくれた一次消費地では大きな道具が出土するようだが、第二次消費地では小さなものが多いとある。道具として完成された品を交換で手に入れたあとは、使用して欠けると削りなおし、作り直ししていたようだ。
確かに故郷の畑で拾ったのは小さな矢じりや削られたあとの小さな破片が多かった。小指の先より大きなものはほとんどなかったような気がする。

黒曜石は産地によって色も変わるというのも初めて知った。黒曜石は透明な黒だとばかり思っていたが、赤いものや縞模様、気泡入りのもあるようだ。それらの違いは産地によるものらしい。
黒曜石の産地は日本全国にあるが、以前は色合いで判断していたものが、分析技術が進んで産地特定はほぼ正確に出来るようになり、和田峠産のものが東北まで運ばれていたことや、神津島産のものが中部地方にまで来ていたことがわかった。

縄文王国長野県ではあっちでも遺跡発掘、こっちでも遺跡発掘が行われているので、地面の下は遺物でいっぱいという何ともありがたみのない感覚になるが、それらの発掘を学術的史料として通用させるためには多大な努力が必要だった。
それを行ったのが有名大学の教授ではなく、地元研究者や郷土史家たちであったというのも長野県らしい話だ。

今年9月に「黒曜石サミット国際研究集会」が長野県長門町で行われた。
日本でこれほど綿密な黒曜石研究が行われていることは、これまであまり世界に知られていなかったらしい。
研究の利点として、開発の際に義務付けられている遺跡調査があるが、痛し痒しなのは、発見された遺跡の多くが埋め戻されて道路の下、建物の下という現実である。

小さな頃に集めた黒曜石は今はない。成長して興味が移るにつれてどこかに失われてしまった。黒い輝きが記憶に残るだけで満足しておくべきか、故郷で宝箱を探してみるべきか。

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紙の本

紙の本初めての文章表現道場

2004/05/23 16:11

32編の自己との対話

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これは…『動物のお医者さん』ではないか!?
文章技術の本かな?と開いてみたら、獣医学部の学生が授業で書いた動物についてのエッセイが32編。な〜んだあ、学生の作文か、と棚に戻すまえに何篇かパラパラと立ち読みしてみた。はまった。
「歯医者」と名付けられたカメ、凶暴な弟のようなニワトリ、捨て猫騒動、ザリガニによる失恋秘話、いつのまにかなついてしまったヤモリ、拾ったハクビシン…等々
『動物のお医者さん』に出てくる人物が書いたのではないかと思うようなこだわりのある話のどれもが面白い。
この講座の佐藤氏のまえがきによれば、この学部は入試に国語がない、にもかかわらず少なからずの学生が文章講座を受講するという。そして上手い下手にかかわらず書かれた文章は面白いのだそうだ。
獣医という特定の動機と目的を持った学部の学生の書いたものだからかと言われるが、そうではなく誰しもが自分の中に大事なものがあるはずだ。書くという行為は自分の中のそれに対する問いかけであり答えであり、目に見える文字にして他者に投げかけるメッセージでもある。と佐藤氏はあとがきで書いてる。
「対話するように書こう」とモンテーニュは言ったが、書くとは自己との対話であるという基本を改めて気付かせてもらった。
出版すると聞いて書き直したいという学生が多かったようだが、「初めての」にこだわったそのままの文章がかえって基本を際立たせているのだと思う。
それにしても32通りの動物(生物)の話は面白かった。

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紙の本

ユーモアに満ちたアメリカ版「人生案内」

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本のタイトルからTVの「これって罪なの?」みたいなものかと思っていたら、どちらかというと読売新聞に長年掲載されている「人生案内」に近い。それも素晴らしくユーモアの効いたものだ。

「バスの中で成績をつけている先生がいてチラッと見たら名前や学校名、内容まで見えてしまった。学校に連絡すべきでしょうか?」
「おやまあ、過失はあなたの方じゃないですか。それにチラッと見たにしてはたいした情報量ですな。 〜 のぞきが止められないならFBIにやとってもらってはいかがですか?」

「よければ教科書にしてくれと出版社から送られてくる本を処分した代金は?」と尋ねた大学教授には「勝手に送られたものはどう処分しようが勝手。映画会社から送られてきた大量のプリントTシャツは猫の粗相に重宝しましたよ。気が咎めるなら寄付すれば?」これには三件の反論が載せられている。

ときには「えええ〜、それでいいの?」みたいな回答もある。
たとえば「自分の傘をもっていかれたら、私も他人の傘をもっていっていいか?」に対する返事は「その際は自分の傘より高くなさそうなのを選びましょう」
ロスの読者から「それはドロボーだ、善悪を金に換算するなんて」という反論くると「最後に傘が一本残って忘れ物になるよりみんなが濡れずに帰る方がいいじゃないですか。ロスでは雨がふらないんでしょうね」

モラルにかかわる問題は正解がないから困る、自由奔放にモラルを説いたジョンソン博士(しばしば引き合いにだされている)の言葉からインスピレーションを受けたいと願う、と著者は言っている。
正解のない問題はたいてい考えすぎて「ああ、もう、知らんわ!」と気持ちがよどんで自棄になるだけ。この本のユーモアのある快答を読んでいると、少しだけ気が楽になるような感じがする。だから人気があるんだろうな。

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紙の本

緑の育ちすぎも問題なのです

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「ベランダに置いて手入れが要らずに一年中花が咲く植物はない?」と、まあ半分冗談交じりで知人に聞かれた。(そんな花があればガーデニングするのになあと)
ペチュニア類だったら春から秋まで持つし、冬から春にかけてはパンジーがオススメだが一年中ってのはちょっとね〜。そもそも花って生殖器官なんだから一年中咲いてたら意味ないし。
「そうだよねえ。」と言ったところでちょいマジに「でも一年中花が咲いたコンテナ置いてる家あるでしょ?あれはどうやってるの?」と聞かれて困った。
あー、あれは別名いけばなガーデニングと言って季節ごとに前のを抜いてだね。苗を買ってきて植え替えてるんだよ。それだったら一年中花咲いてるけど。
「えー、捨てちゃうの〜! 次の年使わないの?」
う〜ん、溢れんばかりに花を咲かせたいのならそれしかない(キッパリ)
それだって手入れはしないとだし〜、水遣り欠かすと枯れるし〜、肥料はやったほうがいいし〜。
「やっぱり花は切花にしとくわ」と言われてしまった…

これが個人の勘違いのうちはいいんだけど、企業の緑化事業にまでメンテナンスフリーに踊らされてるとなるとかなり問題だと思う。
国や自治体による緑化条例ができて敷地面積や屋上面積の何十%かを緑化しなければいけないとなると、メンテナンスフリーの営業文句を真に受けて維持管理を怠り失敗したり、やはりメンテナンスフリーと謳われてワイルドフラワー法をやって維持管理を怠って空き地がただの雑草地となったり、整備したあとは維持管理せずに放っておけば本来の自然に戻ると勘違いしたビオトープ計画とか、この本の著者によれば結構多いらしい。
共通するのは植物は放っておけば育つという勘違い。たしかに高温多湿な日本は雑草は勝手に生えるが、目的を持った景観を維持しようとするならば維持管理は必要なのに。
もうひとつは枯れてしまうものに手間も金もかけたくないという勘違い。特に建設業にこの手の考え方が強いそうなのだがビルやマンションは建てれば仕事はおしまい。あとの維持管理は経験がない、というもの。
著者は東京農業大学の造園学の教授で緑化事業に関するこぼれ話が満載。都市の緑化は人の目も心も楽しめるものでなくてなならない、緑化ではなく「緑花」を目指そうと言う。これから都市緑花事業にはセンスも大事だというのには大いに賛同できる。デザイナーズの建築が流行りだしているから、次はデザイナーズの緑花事業かもれない。

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紙の本

水音のある風景

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庭があったら絶対に池が欲しい。そして、鯉を泳がしたい。
父が造園を趣味にしていたので和風の池の作り方はなんとなくわかるのだが、英国風のレンガや木で枠取りしてある池や、小川みたいに流れる池や、噴水や、石鉢から湧き出るようになっている池はどういうしくみになっているのだろう?
川から水を引けない都会の水はどういうふうに循環させているのだろう?
そういう疑問から探したのがこの本です。
造園を必要とする本格的な池作りから、既製品を使った手軽な日曜造園まで、水のある庭をつくるためのすべてが図解つきで堪能できます。
庭に野生の水生生物を呼ぶこむことができるちょっとしたビオガーデンの設計図も載ていて庭のある方におすすめです。
もうちょっと本格的にビオトープの概念から知りたい方には「野生を呼び戻すビオガーデン入門」(農山漁村文化協会)。庭はないけど水辺の清涼感は欲しいという方には室内でも楽しめる「はじめてのアクアガーデニング」(エムピージェー)があります。

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紙の本

スイレンと金魚の風景

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春になって汗ばむくらいに暖かい日が続くと水辺が恋しくなってくる。スイレンの花咲く水辺を思い浮かべるのもこの頃だ。そういえば去年衝動買いしたヒメスイレンはどうなっているだろうと覗いたら小さな芽が出てるではないか。去年は暇がなくて買ったそのまま水に沈めたが今年は植え替えたほうがいいだろうと、植え替えのためのガイドブックを探してみた。水生植物のガイド本は意外に少なくて、一番手軽でわかりやすいのがこの本だった。
この本は大きく三つの構成になっていて、テーブルで楽しむ場合、屋外で楽しむ場合、水槽で楽しむ場合に分かれている。
いずれも参考レイアウトから植え付けの方法まで写真つきで丁寧に解説されているのでちょっと手を出してみようかなという人には便利な本である。
コケの種類、水気に強い観葉植物、スイレン、水辺植物の説明が写真付きで、また、ホームセンターで手に入る用具が簡単な解説つきで載っているのでホームセンターの商品の前でよく迷う私にはありがたい。
水辺を作りたい場所がベランダのみとか、室内のみに限定されてしまう人には良い一冊です。
庭があって池作りに挑戦してみたい方には「手作り!水のある庭」(立風ベストムック09Do series)、もう少し本格的にビオトープをやってみたい方には広い公共の場所だけでなく自宅でもできる例の載っている「野生を呼び戻すビオガーデン入門」農山漁村文化協会をおすすめします。

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紙の本

深くて暗いドイツの現代伝説

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ドイツの都市伝説は日本それとはかなり趣きが違う。

たとえば、キイチゴムシ。
「どんどん痩せてっちゃって原因がわからずに何ヶ月もたった頃、胃を開けてみたらキイチゴムシがみつかったの。甲虫が卵を産み付けたキイチゴをたべちゃったのよ!」
これって海辺で転んで怪我をしたらヒザの甲羅の裏にフジツボが…がという話に似てるけど、キイチゴっていうところがさすがに森の国。

救援小包に入ったおばあさん
「戦争のあと、アメリカの親戚から届いた小包のなかに粉ミルクやコーヒーと一緒に立派な缶に入った粉があったの。最新の食品添加物だと思って料理に使ってたら、手紙が届いて祖母の遺灰を送りましたので故郷に葬って下さいだって!」
移民の多いヨーロッパでは故国に埋葬という話が多いようで類似の話が広域にわたってあるらしい。最近では旅行中に亡くなって…というバージョンになっているそうだ。

アンティーク泥棒に関する話はいかにもヨーロッパ的なモチーフだし、国境をまたいでいる話が多いのも陸続きの欧州を感じる。
定番の電子レンジの猫(犬)もあるが、よりグロテスクを感じたのは麻薬をやってハイになったベビーシッターが赤ちゃんをレンジで料理してしまったという展開。乾かすよりも…

この本の話はドイツのゲッティンゲン大学のゼミで学生によって採取されたもので、デマや誹謗中傷、エスニック差別に関するものは抜かれているので少々おとなしめの印象を受ける。しかし、それが却って都市伝説と昔話の関連性を明確にしているようだ。現代的な小物を除けばグリム童話とよく似ている。
ゼミを指導したブレードニヒ教授は現代伝説と昔話の類似を強く意識しているらしく、この本も研究書のようではなく民話採録のような雰囲気に仕立てられている。
教授による巻末の解説ではアメリカの民俗学者ブルンヴァンによる都市伝説(アーヴァン・レジェント)という命名では広範囲に広がる現代民話の特徴は捉えきれないとされている。

都市伝説にもそれぞれのお国柄が出るようで、ドイツのものは中世的な雰囲気を感じさせるものが多い。日本のものは怪談に近づくような気がするし、アメリカのものはテンポがよくポップなものが多い気がする。
一読者としては、いろいろと小難しいことを考えずに現代版グリム童話として楽しみたい。

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紙の本

表紙のエビはサルトルか?

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表紙の美味しそうなオマールエビを見てサルトルを連想した方は正解です。サルトルは甲殻類が神経症を起こすほど大嫌いでした。
朝吹登水子の「サルトル、ボーヴォワールとの28日間—日本」を読んだときにサルトルの甲殻類嫌いを知りました。大阪を案内したときにカニ道楽の巨大なカンバンが目にはいったらどうしようと心配したそうです。日本の作家との歓迎会で料亭に行ったらカニの絵が正面に飾られていてどうか気がつきませんようにと祈ったとか…
この本は哲学者の食生活の本ではありません。ゴシップネタの本でもありません(ちょっと期待はしていましたが)。真面目な哲学の本です。少し変わってるのはそれぞれの哲学者の食によって彼らの思想を紹介しようと試みたところです。
初めにギリシャのディオゲネスが生のタコとやってきます。火による文明を否定し野生への回避を主張しました。
次はミルクを偏愛し、農夫の食事を理想としたルソーです。そして、食にも規律を求めながら実際には満たされなかったアルコール中毒のカント、美食を哲学しようとしたフーリエ(ブリア・サヴァランが義兄弟では…)。
人間の理想を問いつつ現実には満たされなかったニーチェはドイツの料理を否定し食の理想を問いつつ実際にはおふくろの味からぬけだせませんでした。イタリアのマリネッテイはパスタは人を愚かにすると言いました(米を食べると馬鹿になると似てる?)。現在への不満が新しい地平を夢見るのかもしれません。それがたとへ歴史の繰り返しであっても。
最後のサルトルとカニの確執は非常にわかりやすいかもしれません。サルトルに直に会った人は例外なしに、遠まわしにせよ、言わずにおられないらしい身体的欠陥による甲殻類忌避症らしいのですが、その印象をズバリ言ってしまったのは開高健です(中公文庫のエッセイで書いています)。偉大なる精神に必ずしも健全な肉体が伴うわけではないことは古今共通かもしれません。
しかし、食生活を通して各人の哲学を捉えなおすと哲学は実学であるというのが素直に納得できます。

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紙の本

まことに残念ですが…大笑いさせていただきました

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この本をケタケタと笑いながら読んでいてハタと我にかえったとき困ってしまったのが、自分は何に対して笑っていたのだろう?という疑問

この本は副題の通り『不朽の名作への「不採用通知」160選』。
例をあげると、

「火星のプリンセス」エドガー・ライス・バロウズ
 ヴァージニアの傭兵がこともあろうに火星に送られるなどという話が、わが社に利益をもたらすとは絶対に考えられません。

「大地」パール・バック
 まことに残念ですが、アメリカの読者は中国のことなど一切興味がありません。

考えてみると断られるというのは嫌な出来事だ。もし知り合いがそういう目にあったなら笑うなんてとんでもない、断った相手をこきおろしながらせっせと慰めているだろう。
じゃあ見る目のない編集者を笑っているのだろうか? そういう面も確かにある。
小説云々をぬきにしても選ばれる選ばれないという悲喜劇はだれにでもあるものだからそれらを投影させている面はあると思う。
じゃあ、この面白さは単なる憂さ晴らしなのだろうか?
そんなことはない。さすがに文章を読むこと書くことを専門にしている人たちの断り状だけあって味がある。
この中ではどこの出版社が断ってどこに拾われたか等は書かれていない。
そのあたりの事情をくだくだしく書かずに短くツボにはまった断り状が160篇も並ぶと警句集にも似た人間喜劇の様相をみせはじめる。

編者の前書きに「おおむねの断り状に書かれている文句は“わが社には不向き”といった、おもしろくもなんともない文句だ。 〜中略〜 いくつかの断り状は、はじめから世に出る運命だったとしかおもえないほどの傑作である。」とある。
その通り〜! 今夜もこの本を読みニタニタ笑いながら眠りにつくことでしょう。

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紙の本

有意義だけれど金太郎飴の危険性は?

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この人文書のすすめは何重の意味でもおもしろい。
一読者としては、中規模書店の人文書コーナーに一定の割合で同じ本があるのは何故だろう?とか。図書館でこの本があってあの本がないのは何故だろう?とか

10年位前に近所の小さな駅前書店で一冊の本を買い、その中に出てきた関連本をまた一冊、また一冊と一週間くらいの間に4〜5冊同じ書店の棚から買ってしまったことがある。買わされてしまったというべきか。
書店の人が自分でセレクトしたのか、流通元からのオススメだったのかがひどく気になった。この本を読んで(目録を見て?)わかったのは多分個人的セレクトだったろうということ。流通元からのオススメというのは範囲が広がりすぎる傾向がある。読書で喚起される広がりはもっと偏った個人的なものなのだ。
興味の水脈が著者と合えば大海原までも連れ出されて途方にくれるはめにも陥るのだが…

10年前は東京都内にいて30分でどこの大型書店へも行けたので本代に金はかかったが探す苦労はなかった。今は都内まで1時間かかる郊外にいて利用するのはもっぱら図書館である。
正直に言おう。この本も実は図書館で見つけた。
刊行された直後からチェックはしていたが本屋ではみかけないしわざわざ注文するほどでもない。本を買う基準として、<本屋にあったら買う>というのがある。猫を拾うときみたいに目が合っちゃたらしかたないよね、という意味で。

この本に載っている200ページにわたる5200点すべて揃えるられる書店は一握りだろう。中規模書店向けの○印さえどうだろうか?
このようなガイドラインがあることは有意義だと思うのだが一読者としては近所の書店すべてが金太郎飴になることだけは勘弁してもらいたいのだが。

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