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  3. 片岡直子さんのレビュー一覧

片岡直子さんのレビュー一覧

投稿者:片岡直子

84 件中 16 件~ 30 件を表示

紙の本赤瀬川原平のブータン目撃

2000/10/13 00:15

「考える時間は長い方がいいのだろうが、感じる時間は短いほうが強力である」。力まない眼差しと言葉が崇高

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 もう本当に見て、読んで、気に入ってしまった。
 ブータン「目撃」だし、激写ならぬ「軟写」だし。
 赤瀬川原平は、そこらへんにいる詩人よりも、ずっと詩人だ。実は、必要に応じて、本書と並行して、某詩人の詩集を読んでいた。息苦しくてたまらなくなって、本書に逃げ込んだら、ずっとずっとオリジナルで、風通しの良い「言葉」に出会えた。
 「ブータン街道で見かけるトラック野郎。満艦色の雄姿。ヘッドライトのところに、必ず魔除けの目が描いてある。運転席を飾るのも、何かしらの宗教図像であるところが、日本と異なる」。後ろの方にもトラックの写真は出てくるけれど、目をこらして見ると、全部、ライトの上に目が描かれており、そういえば、以前こんな、大きくて垂れ目の男の子に会ったことがあるなどと思い出して笑ってしまうくらい、愛嬌がある。
 「寝ているような人びと。実は信仰のための五体投地の人なのだけれど、よく見ると手前の人は本当に眠っている」と、普通ならここまでだけれど、赤瀬川氏だと、「それもまた、修行の一つか」というのがくっつく。「よくご覧ください。入口の両側を飾るのは見事な男根。ブータンでは家の神聖な守り神とされている。魔除けの意味もあるらしい」ときて、またまた「そんなこと、当たり前の子供たち」という言葉がつけ加えられる。
 対象に入り込んでいるというか、対象の身体をくぐって戻ってきたような言葉。
 写真と並ぶ言葉が、写真に沿いながらも、独立した味わいを放っている。
 「ブナカゾンの脇に咲くライラックの花が、たまらなく綺麗だった。写真を何枚撮ったかわからない」そして、「ぼくはずいぶん長生きしている……、そんな感覚に、包まれる」「ティンプーの外れでこの美味しい水の輝きを見た後、ぼくは高山病になってしまった。天国に着いてから息を引き取る、そんな境遇を想像する」「もう、何もいうことはない」
 これらの言葉を、軟らかく写したブータンの写真と一緒に受けとめる時、ただの、「幸せ」だけではない、もちろん「不幸」でもない、本当のこと、本当の真実(少しおかしな言葉だけれど)を、ほいっと手渡されたような気持ちになる。
 本書の真ん中あたりのエッセイの冒頭に、「とうとうブータンで朝を迎えた」とある。往復に四日かかるブータンでの、一週間弱という短い滞在を、一冊の本にするのに、無理をしない、肩肘張らない方法が、「目撃」であり、「軟写」だったのだろう。けれど、滞在が長くても短くても、赤瀬側氏の味わいをしっかり伝えている。「短いだけに、その輝きは凄かった。考える時間は長い方がいいのだろうが、感じる時間は短いほが強力である」(「あとがき」より)。とてもおすすめの一冊。 (bk1ブックナビゲーター:片岡直子/詩人・エッセイスト 2000.10.13)

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紙の本いつもひとりで

2000/07/10 20:49

幼少の頃、着物を着た女性を見ると、「オヨメー」と叫んでいた阿川佐和子の「やはりひとりで」エッセイ集

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 「物心ついた頃から、自分は将来、お母さんと呼ばれる存在になるものだと信じていた」という阿川佐和子のエッセイ集。

 本書の中の、「不安定好き」には、「『肩書きは何ですか』と聞かれるのがいちばん苦手」とある。アガワさんの肩書きは、「阿川佐和子」なのだと思う。マルチと言われる人の中にも、ただ多方面なだけで、本体に魅力がない人は沢山いる。けれど、アガワさんの輝きには、何か信じたいものがある。日本の女性の、あるひとつのかたち、やや伝統的な方に属する、心の「有りよう」を、現代的に具現化しているのが、彼女のように思う。

 本書と並行して、文庫本や、『ウメ子』等を読んだ。
 檀ふみとの往復エッセイ『ああ言えばこう食う』の読後に考えたのは、「このひとたちに、性生活は無いのか。大人なのに」ということだったのだけれど、文筆する分泌物が全て性とともに転がり出てくる私の常識で世の中をはかってはいけないと思った。『ああ言えば』の「おわりに」には、「ビフォー・アガワとアフター・アガワ」という檀ふみの、お手製の年号が出てくる。檀ふみが、アガワに会う前とそれ以降という意味なのだけれど、アガワさんの場合、「いつもアガワ」である。

 本書のタイトルの通り、「ひとり」のアガワさんは際立っている。知人といて、あれこれ、すったもんだして、揉めたりしている時以上に、「ひとり」のアガワさんは、きらきらしていて、痛快で豪快。勢いがある。

 子供のアガワさんもすごい。
 小さい頃のことを書くと、筆が、より活き活きする。「涼の夢」では、「小さい頃から部類の汗かきだった私は、母にジョウロとあだ名をつけられた。」「『水風呂、小っていーい?』/台所の母に向かって叫ぶときは、すでに半分、裸である。「パシャンと水音高く小さな風呂桶に飛び込む。水しぶきが上がり、」「その瞬間の快感といったら、思わずケラケラ笑い出したくなるほどだった」。

 和田誠のカバーにも描かれている、「雨降りお月さん 花嫁の謎」では、「ままごとや人形遊びなど、女の子らしい遊びにことごとく関心の薄い私が、花嫁願望だけは幼少の頃から強かった。着物を着た女性を見ると、電車のなかだろうが道端だろうが、あたりかまわず『オヨメー』と叫ぶので、母は閉口したという」。

 はっきりした性格のひとは、好きと嫌いが激しい。
 だから、読むひとが、アガワさんの好き嫌いと、自分の好き嫌いとを、読みながら比べてみるのは面白い。私の場合も、ある部分までは、すごくよく似ている気がするのに、あるところから全然違っていってしまう。地図を見るのが好きとか、音楽へのアプローチの仕方とかは似ていると思ったのに、風呂が嫌い、子供の頃から本を読むのが苦手とか、なで肩を両面テープでとめた肩パットで調整している等の話は、とても遠い。「人生の最終目標は平凡な結婚のはずだった。なのに」と帯にあるのを読むと、これが一番遠い。私は母親にだけは絶対にだけなるまいと思っていたのに、親になってしまった。それで、母親になると思っていたアガワさんが、ひとりでいるのは、不思議だ。人生はイメージしたことの反対になるものなのだろうか。

 タイトルの「いつもひとりで」から思うのは、一人でいる時間が、これほどまでに活き活きとしているからこそ、沢山の人のなかにいても、魅力的な存在なのだということ。様々の媒体に発表されたエッセイなので、全体で見ると、やや散漫な感じはあるけれど、親譲りの、ただでは済まさない文体が読む者を放さない。 (bk1ブックナビゲーター:片岡直子/詩人・エッセイスト 2000.7.11)

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紙の本辻希美・加護亜依写真集

2002/07/02 22:15

ベイビィであることを義務づけられている、そのことによく答えてあげている彼女たちの、飛ばない写真集

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 幼さが求められるところで思いきり幼くするのは、容易いけれど、いつか本人たちが、それに飽きてしまう。2人は、すでに飽きているかもしれない。中身は15歳だけれど、小学生やそれ以下の存在として、あることを求められている。
 いつも2人一緒にいることは、彼女たちに、どんな未来をもたらすだろう。タンポポ派の私は、そこにいる加護と、そこにはいない辻について、時々考える。
 アクセントのような天使姿が可愛らしい。写真だと、加護の頭が絶壁なのも、よくわかる。上を向けられて、安眠していた赤ちゃんだった加護を想像する。本当に天使だったことだろう。今は「太るぞ」などと突っ込みを入れながら、見ているけれど、あとほんの少しで、そんな突っ込みもできない、美しい女の人になってしまうだろう。
 朝礼台の上で、S字になって踊っているジャージ姿の加護が、一番好きなのは、おそらくそれが一番年相応に見えて、彼女たちの息苦しさを感じずに済むからかもしれない。
 常に、ベイビィであり続けた彼女たちの今後を想像する。マリリン・モンローのように、時代のニーズに答え過ぎた人の悲劇を産むだろうか。そんなことを、考えさせる。それは、写真の彼女たちが、はじけ飛んでいないから。精一杯の若さではなく、常に抑圧されたベイビィであり続けるからなのだろう。
 辻のふくらはぎの筋肉は、バレーボールで培われたものか? 加護の薄さとは対照的だった。風船が割れたときの加護の顔は真顔だろうか。タキシード姿の辻は、ほとんど加護だった。一緒にいると顔までが似てしまう。サッカ−ボールの中、「知恵の頭」としてしゃがんでいる2人。子どものファンも安心して買うことができる。けれど視線によっては変な大人が、楽しめるものでもある。 (bk1ブックナビゲーター:片岡直子/詩人 2002.07.03)

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紙の本動物園で撮った家族の写真

2002/06/13 15:15

読み進むにつれ、自らの動物園物語に浸りこんでしまう。その懐に抱かれた記憶は、お腹の底で温かい

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 息子が、動物園や牧場で発した言葉というのは、意外に印象深く、その時の口調も、幼かった身体の線と一緒に覚えている。「シマウマぁ、はやちゃんのところへ、おいでぇ!」と声をかけたり、手で草をやってから、ほっとして、「お母さん、牛、噛まないわぁ」と歓びの声を上げながら、こちらへ走ってくる様子とか。今の四分の一ほどの身体で、動物と相対していた幼かった、別人のような息子が思い出される。
「上の動物園があるなら、下の動物園もあるんでしょ?」といったのは、幼い頃の私なのだけれど、本書の後ろのエピソード集を読んでいたら、24歳の女の人も同じことを言って家族を笑わせたとあり、いったい何人の子どもが、対義語としての「下の動物園」を思い描いたのか、知りたくなった。
 新聞の広告に寄せられた写真と手記をもとに構成されている。時代を映すエピソードを読み進めるにつれ、読者も自らの動物園物語に浸りこんでしまう。実際どこかの写真の背景にあなたが写っているかもしれない。「私の後ろの二人は恋人同士のよう。動物園がデートコースの時代」などというコメントを読むと、その二人は今どうしているのだろうと思う。
 写真の年齢が今の歳であるところもミソで、はつらつとした若いパパに「70歳」、乳母車の赤ちゃんに「38歳」などとついていると、つい笑ってしまう。平成11年の写真のエピソードには、動物園の人の多さも書かれていて、改めて動物園の不思議を思う。そういえば私は、ある時期から頭で考える動物園が嫌いになっていたことを、今頃思い出した。けれど、こうして本も取り寄せ、感想を書いているところを見ると、その懐に抱かれた感覚というのは、おなかの底の温かい記憶として残っているものらしい。 (bk1ブックナビゲーター:片岡直子/詩人 2002.06.14)

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紙の本少女スタイル手帖

2002/06/12 18:15

世の中への最初の媚が可愛らしいお色気になっている。時代を背負ったものだけが持ちうる美しさ

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 決め手になったのは、「ぱっちんどめ」という言葉だ。
 個人的には黒いピンのほうが好きだった気がするのだけれど。本を取り寄せてみてまず、表紙のビニル靴に引き寄せられる。これは妹がはいていた靴ではないか! 母がごしごし洗って、いつも月曜日には新品のような靴で、私も妹も出かけていた。
『昭和30〜40年代 少女の想い出大百科』は、『クレヨンしんちゃん』に出てくる大人でなくても、懐かしさに狂ってしまうだろう。著者の宇山あゆみさんの写真は美人だ。美人だけれど、どぎつくない。それは本書に取り上げられているおもちゃを見るように眺めることのできる大人の写真だ。
 首をかしげる人形は、友達の家でもピアノの上で私たちを見おろしていた。それらは、「ポーズ人形」というのだそうで、かなり目つきの怪しいのもある。ちょっと美しすぎるけれど、当時の茶の間を再現した写真や、ベランダの様子を外から写した構図の写真、赤ちゃんの部屋の写真も、なかなかだ。「動物柄のふとん」の解説欄に、「どの動物も顔が大きく描かれていて、まつげの長い目にはどこか色っぽさがあります」とある。これが全てという気がする。可愛くて年少用なのにすごく色っぽい。こんな可愛い色っぽさは今のおもちゃからは消されており、大人向けのフィギュアなどには、別のどぎつい色気が加わっている。世の中に対する初歩的な媚が可愛らしいお色気になっている。オルゴールメリー、子供用タンス、まんが運動靴、チャーミングバッグ、プリントおりがみ、ぬりえ、着せかえ人形、こづかいちょうに、アクセサリーシール。それにしても、現在撮影するものは、どんなに古くても、新しくきらきらしてしまうのだろうか。いや、やはり時代を背負ったものだけが持ちうる美しさなのだろう。 (bk1ブックナビゲーター:片岡直子/詩人 2002.06.13)

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祖母っ子だった人、ママっ子だった人。妙に納得のいく女優さんのエピソードから、人生を見渡す一冊

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 この本には私の嫌いな女優がいない。そういうのは珍しいことだ。たいてい嫌いな女優も2〜3混ざっているというのが普通だと思うのに。特に好きなのは、稲森いずみ、菅野美穂、吉川ひなの。米倉涼子は嫌いにすれすれだけれど、読んだら変わるかもしれないと思って読んだけれど、そうでもなかった。『ドラえもん』のジャイアンみたいな子だったという菅野美穂。面白いのは、埼玉の普通の女子高に通っていたという彼女の周りには、アクが強くて面白い、タレント性のある友達がいっぱいいて、自分は平々凡々でいたという話。人生というのは要所で締めるもので、いつも無駄に目立っていても、菅野ちゃんにはなれないということだと思う。
生年順に並べると、こうなる。
1972 藤原紀香 稲森いずみ
1974 水野美紀
1975 相川七瀬 米倉涼子
1976 木村佳乃 観月ありさ
1977 菅野美穂 宝生 舞
1979 奥菜 恵 吉川ひなの
1980 田中麗奈
 こうして年表のようにすることは無いので、何だか新鮮。稲森いずみの章は、幼稚園の時に、織姫様に選ばれたのを嫌がっていたら、発表会当日に友達が来て、いきなり代わってくれた話や、大好きなおばあちゃんが亡くなったときの話が載っている。
 こうして読んでいくと、彼女たちの独特の雰囲気の裏づけを見るようで興味深い。稲森いずみのあのふわんとした感じはおばあちゃん子だったせいとうなずけるし、吉川ひなのが、ママっ子だったことも、納得がいく。女優さんも生身の女性。そういう目で本書を読むと、応用編としての女の子の人生が見えてくる。 (bk1ブックナビゲーター:片岡直子/詩人 2002.06.12)

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青少年に一番有害なのは性でも暴力でもなく政治家の愚行。無視、拒否、反対では解決しない問題の鍵

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 FMの番組審議会に、6年間出席している。次の議題が、「メディア規制法について」になったので、古紙回収に出していなかった一か月分の二種類の新聞から、関連記事を集めてファイルし、読み進めていくうちに、それまで茶の間で読み過ごしてきた私にも、何が問題で、どういうことが行われようとしていて、どうするべきなのかが、おぼろげにわかってきた。スキャンダルを嫌悪する政治家がいて、それを逃すまいとするマスコミがあり、個人情報を流されて迷惑する一般庶民がいて、不幸にして犯罪の関係者となった本人またはその家族への、不躾な取材を横目で見ながら、これってあんまりだと思っている視聴者がいる。この問題には、さまざまなメディアが触れているけれど、新聞やテレビの報道は場当たり的で、深めて考えるには、自分の無い頭を絞らなくてはならない。その導き手として、本書がある。まずは、「敵を知る」ことからとして、「官」が市民に依頼されて市民の権利を守る保護者として現れてくることに注意を促す。「第二章 最高裁が誘導した慰謝料の高騰」では、巨人の清原と、女優の大原麗子の慰謝料と、その時のマスコミの反応から始まって、裁判官の自立心の無さを説く。
 第四章は「青少年有害環境法案は何をねらっているか」だけれど、青少年に一番有害なのは、性でも暴力でもなく政治家の愚行なので、彼らが率先して規制される法ができない限り問題は解決しないだろう。他の試案に納得がいかないなら整然とした代案を出すしかない。守られるメディアとそうではないメディアがあり、それは、政府の側に立てるのか否かによって決められる。今日、人はほとんど戦い方や駄々のこね方を忘れてしまった。ソフィスティケイトされた行いばかりを心がけていると、大変なことになる。そうなってしまう前に本書を読んでみる。 (bk1ブックナビゲーター:片岡直子/詩人 2002.06.11)

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この情報量、見やすさと軽さが、本書の最大のポイント。コンサイスの歴史をふまえ快適に使いたい

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 これだけ厚くてこの軽さはすごい。ソフトカバーと、真っ白ではない紙による本文。左手だけで十分扱える。勿論活字は大きいのだけれど、左右の余白も、すっきり感を与えるのに役立っている。全体にスペースが許されているため、丁寧な解説がなされている。最初に、この辞書の改定の年が記される。
    1923 1932 1940 1950 1952 1957
    1959 1967 1975 1985
 巻末には、「コンサイス和英辞典の歴史」が載っている。
書名も、「袖珍コンサイス和英辞典」「新コンサイス和英辞典」「最新」「最新(新語篇つき)」「最新 改訂版」「最新 増補版」再び、「最新 改訂版」「最新 第8版」「新コンサイス和英辞典」「新 第2版」と変遷し、そして、今回が、「コンサイス和英辞典 第11版」。
辞書というのは、不動の存在のように思えるのに、このような、ネーミングにおける戸惑い、というのか、紆余曲折があるのも、なかなか読ませるし、定価も、2円50銭から、今回の3100円と、順調に(?)変遷してきている。
「羊皮革装 842ページ」や、「テキソン合成皮革装、1136ページ」などというのを見ていると、実際に触りたくなってしまう。どこかに陳列されていたら良いのに。
 そして、総項目7万3千、用例4万7千収録のため、私が知らなかったのでは、例えば「アイモ(携帯用映画撮影機)」という項目や、韓国の地名の表示なども収録されていた。最大の特徴としては、今まで、ローマ字アルファベット配列していた見出し語が、ひらがな・カタカナの五十音順表記に変わったことだろう。文字は読んでもいるけれど、視覚でいっぺんに把握するものなので、普段受け止め慣れていないローマ字表記よりずっと、速く引けるようになることは間違いない。けれども、和英といえども、英語の辞書であるからと、今までローマ字で配列してきたという矜持に逆に感動してしまった。 (bk1ブックナビゲーター:片岡直子/詩人 2002.05.29)

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道路を造った全ての人々への敬意を胸に、懐かしい道ばかりで満たされた本書の美しい写真風景を堪能した

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 道路には、全てそれを造った人がいる。そのことを強く思ったのは、大学時代の自転車部の時なのだけれど、こんな当たり前のことも、アスファルトや砂利の道を踏みしめてペダルをこがなければ、私の頭の中で言葉になることは無かったかもしれない。
 当たり前のようにそこにある道で、人は時々思ってもみない経験をする。道路が海へ飛び込んで行くように思える坂を下り始めた時や、或いは反対に、坂を登りに登って登りつめた時に現れる、より高い山に驚いたり。その変化を起こしたのは、車であれ、自転車であれ、移動してきたこちら側であるのにもかかわらず、あちらからやってきたような衝撃に、胸を衝かれる。富士の裾野では、いつも富士が見えているわけではないのに、常に富士に抱かれている感覚があるし、海に近いというだけで、そのなんにもなさに胸がすく。
 ページを繰っていても、走った道路ばかりが現れるので嬉しくてわくわくする。私の二十代は、国内のほとんどの土地に足を運ぶことに費やされた。もともと、一人旅をしたりして、そういう旅体質だったのだけれど、それ以上に、旅には異様なフットワークを発揮する配偶者の存在の大きさは、認めなければならないだろう。ほとんど旅のプロといっていい人といると、ましてや私の傍らに子どもらもいると、私は子どもの世話をしているだけで、どこへでも行けてしまうので、却って、こちらの旅の勘は鈍っているかもしれない。
 著者が写真家なので、いつもの自分の写真の、現地の良さの半分も写っていない隔靴掻痒の感じが無くてほっとする。「横波黒潮ライン」など懐かしすぎて涙が出る。「おまけ」には、「島の道」もあり、石垣島の最北端を望む峠からの写真も載っている。結局は、道といっても風景なのだ。山と海と空と雲と。全ての道を造ってきた人々に感謝の気持ちを込めて、本書を閉じようと思う。 (bk1ブックナビゲーター:片岡直子/詩人 2002.05.23)

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紙の本「飽きない」散歩術

2002/05/21 22:15

思い立った時なら散歩も楽しいけれど、コンスタントにとなると辛い。それを飽きずに続けている人たちの工夫

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 このごろよく歩く。今日も仕事帰りに川越の街を歩いてきた。川越は高校時代を過ごしたけれど、そういう者の常として、駅と学校との間以外はほとんど知らないという、情けない状態だった。今日行ったのは市立中央図書館。見てみたかった古い建物は、18年も前に解体されたという。駅に戻ろうと歩いていると、「時の鐘」が現れたりして、こういう道でも十分散歩になると思った。帰りはバスにしたけれど満足だった。
 娘が愛用している万歩計では、二人で歩いても、まあせいぜい一万歩というところ。元体育会の弱みで、あまり運動をすると食べて太ってしまう私としては、久し振りに画期的なことをしている。ほぼ十年間じっとしてきた。幸いまだ体は動くし、ようやく10歳になった娘と、よぼよぼして行く私とで、ちょうど釣り合いはとれている。
 シニアと一口に言うけれど、本書に登場する人々はとても多彩。
 島倉千代子、種村季弘、天本英世、不破哲三、有馬稲子、松永伍一ら、計29名。
「青い山脈」を歌いながら、散歩地点までタクシーの力も借りながら、家族揃って、途中で温泉に入るなど、工夫の仕方は、それぞれだけれど、一番驚いたのは湯川れい子さんで、靴に一キロずつの錘をつけながら、歩く。散歩といえば呑気、漫然、リラックスとしか思っていなかった私は、短時間で効果的にという発想に戸惑い、尊敬してしまった。他にも、それぞれの方法で、飽きない散歩を楽しんでいる人々が登場する。
 巻末には、「元気になる歩き方」も載っていて、姿勢のことなど我が身を振り返る。街歩きの好きな人ならたくさんいる。東京で生まれ育った人よりも、遠くから移住してきて、東京という街への興味の薄れない人が、多い。その街歩きよりも、もっと身近で日常的で慣れていて普段着な感じ、それが散歩。一年たっても歩いていたい。 (bk1ブックナビゲーター:片岡直子/詩人 2002.05.22)

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紙の本世界のサインとマーク

2002/05/20 22:15

一目で解らせようとしたデザインの押しと引きと単純化の味わい。中には解説で初めて理解できるものもある

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 世界各国の非常口や、鉄道、ホテルなどのサインとマークが、一冊にまとめられている。帯には、「110種の図記号がJISに登録されました!」、監修者紹介には「サインデザイナー」「2001年JIS案内図記号原案作成委員会委員長となる」とある。絵文字には誰もがお世話になっている。海外の空港でまず探すのは、トイレのマークだし、その国それぞれのサインを解読することが、言葉の不自由な旅を勢いづかせる。
 日本のピクトグラムデザインは優れていて、非常口を示すサインは、日本案が世界のスタンダードになっている。確かに、愛嬌もあり、飄々とした、あのデザインは印象的で、昨年は、娘の小学校の運動会の緑チームのマスコットにもなっていた。「非常口左衛門」という名前は彼らの作ったオリジナルなのか、受け売りなのかは知らないけれど、いつも安易なキャラクターで満たされる学校行事の中で、異彩を放っていた。
 けれどこの非常口のサインひとつをとっても、例えば、千日デパートの火災などの教訓から、漢字を大書したものを消防庁が義務化したところ、外国人にはわからない、解決になっていないと非難されたとのこと。おそらく反応が無い時には、デザインがうまくいっていて、反応があるときには批判であることが多いのではないだろうか。
 また面白い話として、JIS案内用記号では、6つの乗り物が側面から見たフォルムでデザインされており、どちらを向いているのか判断できる、航空機、バス、船舶、ヘリコプターのうち、右を向いているのはヘリコプターだけだけれど、これらのマークは反転して使用することもOKなため、左向きで用いられる可能性もあるなどという解説も載っている。今新しく確からしいとされるデザインは、その国ごとでずれて現れる。それらはまた巡回して元に戻ることもあるだろう。あれこれ考えながら、眺めて楽しい一冊。 (bk1ブックナビゲーター:片岡直子/詩人 2002.05.21)

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紙の本レイクサイド

2002/05/10 22:15

恋愛に長けた人にしか書けない男女が、そこにいる。体内に血の流れる人間の、滑らかなミステリ

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 独特のしっとり感を、いつも味わっている。
 あまりに何の味もしないような、文学作品を読みすぎたからかもしれない。
 本を読むとき、創作意欲をかき立てられるものと、思考停止にさせられるものとがある。東野圭吾の場合は、明らかに後者で、自分の創作のためには役に立たない。けれど、彼の短編は少し違っていて、『怪笑小説』や『毒笑小説』には、詩に通じるポップさがあり、読んでいて、おなかのどこかが、とても刺激された。
 彼の作品の落とし前のつけ方には、いつもうならされる。人生何にも知らないんですボクみたいなものばかり読んでいた目で読むと、血がたぎっていて、人情味があって、納得がいく。実際のところ、書き手が本当に生きているのか、わからないような作品は、純文学でも何でも駄目だと思う。
 ミステリはほとんど読まずにきたのに、ここのところで、東野圭吾を20冊くらい読んだ。NHKのドラマがきっかけだった。それで、彼の新刊が出るのを待っていた。
 登場人物の名前が、いつもながらに、気取っていて、格好が良い。著者略歴にあるホームページを見たら、三十分間も読みふけった。『あのころ僕らはアホでした』を読んでも、世の中の人はこんなに面白かったかなと、思ったくらいだ。
 けれど多分、そんな風に思うのには理由がある。作品はこうだし、著者の写真を見るとなんだか格好も良いし、それから、身長は180cmもあるそうで、そういう人がなぜここまで、こんなに、楽しませてくれて、サービスしてくれるのかと感心してしまうのだと思う。
 そういう予備知識が、余計に、面白く思わせるというのもある。 (bk1ブックナビゲーター:片岡直子/詩人 2002.05.11)

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黒く光る古い家具の落ち着き。時を経たものだけが演出できるくつろぎの空間を味わう予習を、本書でする。

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 和の味わいに、若い人も夢中になっているとしたら、それはちょっと素敵なことかもしれない。
 2002年春の連続テレビ小説「さくら」は、高山の古民家が舞台になっていて、黒々とした柱に囲まれた家を、毎朝見ることができる。ハワイ生まれのヒロインの活躍も良いのだろうけれど、主役は高山の家や町並みだと思って一日に何度も見ている。
 部屋は散らかっているのにインテリアには興味がある。
 まだ、実家にいたころは、小さな部屋をいろいろと模様替えして楽しんでいた。
 今住んでいる家の自分の仕事部屋は、すでに私の手には負えなくなっており、何をどうこうするという意欲に欠ける者としては、こういう本を見て刺激を受けるしかない。
 かつて生活から排除されていった、古いものたち、実家の家具の中でも、一番古い箪笥は、80年程前のものであるらしいのだけれど、一度はすみに追いやられそうになったものの、今はまた、仏間で静かに役目を果たしている。
 色の渋さと落ち着き、使い込まれたものだけが持つ風合い、それらはすべて目に優しい。高い買い物を間違ってする前に、本書で、見る目をつけてゆくのも良いだろう。「骨董市へ行く前に知っておきたいこと」というコーナーでは、ちょうどいい時間帯や、準備していくと便利なものや、気をつけたいこと、配送手段、骨董市のいいところと悪いところなどが、質問に答える形で載っている。
 本書を読んでいたら、隔週で通っている川越の町でも、骨董市が開かれていることがわかった。そういう骨董の素人にも、親切な本。黒く光る家具の落ち着き。以前はいかめしいものであったのかもしれないものが時を経て、くつろぎを演出している。 (bk1ブックナビゲーター:片岡直子/詩人 2002.05.10)

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紙の本図説死刑全書 完全版

2002/05/07 22:15

人の営みとしての死刑を考える。死刑と言えば即、廃止ではなく、どのようにそれは行われてきたのかを直視す

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 なんだかんだ言ってこうして亡くなっていった人がいたということだ。
 それでもって見ていると、ほとんどが死ななくても良かった人なんじゃないかと思えてきて、そういう人たちのためにも、こういう本はあらねばならないのかなと思う。
 動物刑、喉切りの刑、腹裂きの刑、突き落としの刑、飢餓刑、檻に閉じ込める、幽閉、首をつられる、体を裂かれる、死刑直前のインタビューなどなど、壮絶だ。
 序文には、弁護士、ゴオー・ブリソニエールの言葉がある。「私がこの社会人類学の著者の序文を書くことを引き受けたのは、冷静かつ粘り強くこの問題を理解することにより、読者を力づけることができると期待したからであり、『邪悪な心と悪意に奉仕する人間の才能』がどこから生じるのか明らかにしようと思ったからである」とある。
 今まで「なぜ?」はあっても、「どのように?」は無かったというこのジャンルの分厚い一冊の誕生といえるだろう。
 成長する過程で通過してきてしまった体重を再び経験するには、飢餓刑にでもしてもらうしかないなどと、ふざけて言っていたことがある。本書を読んでしまうとちょっとそういうことはいえなくなる。どのページを見ても痛そうだ。そこに転がっているのは、さっきまで、この胴体に結ばれていた頭だ。絵の時代はまだしも、そこはかとないユーモアも漂うけれど、写真となると、逃げ場がない。
 以前私は絶対的な、死刑廃止論者だったけれど、今はとても微妙。この先も日本で、死刑が廃止になることはないのではないかとも思う。それなら、他の国では今どうなのか、それをまとめた、「どこで何を」の章も最後にある。人々の営みとしての死刑という見方で本書は書かれている。興味本位の本とは異なっている。 (bk1ブックナビゲーター:片岡直子/詩人 2002.05.08)

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紙の本イタリア式クルマ生活術

2002/04/25 22:15

クルマ事情もわかり、真面目だけれど解放的な著者夫婦と一緒に、イタリアのクルマ生活の広がりを楽しむ一冊

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 イタリアについて語ろうとする人は、どうしてこう陽気なのだろう。いろんな無駄や、一見馬鹿らしいことが、人々を陽気にするのかもしれない。
 本書は、イタリアのバス事情や交通事情に、楽しみながらも、苦しめられて、ついにクルマを買うことにし、複数のイタリア人の指南役のお陰もあって、イタリアの車社会に馴染んでゆく夫婦の体験談。
 それにしても、イタリア人のメンタリティには、親近感を覚える。AT車や冷房車が非常に少ないことや、それらをイタリア人は必要としていないと考える人が多いと言うのを読んで、自分のことかと思ってしまった。何年か前のアンケートで、イタリア一住みやすい町として名前があがったシエナを拠点に、夫婦の生活が広がってゆく。それまで人任せだった交通手段を手に入れた途端に、自由になってゆく彼らの心の広がりや解放感を自分のことのように楽しめる。クルマに放置しておくと盗まれてしまうので、ポータブルになっているラジオとか、それについている肩掛けストラップや、「ディスコ・オラーリオ」といわれる駐車時間表示の札など、とてもかわいくて気に入った。助手席にいると、だんだん自分がいないような気がしてくるけれど、運転している場合に限って、車の旅は本当に楽しい。自分で道を踏む感覚、感触までが記憶され、よみがえってくる。海外ではいつも人任せにしていた運転を、そろそろやってみようか。でもイタリアではちょっと心配かも。(bk1ブックナビゲーター:片岡直子/詩人 2002.04.26)

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