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小池滋さんのレビュー一覧

投稿者:小池滋

90 件中 16 件~ 30 件を表示

鉄道線路の水子地蔵を建てる

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 同じシリーズの中に『鉄道廃線跡を歩く』という本が何冊もあり、廃線跡ウォークが最近流行になっている。でも、ともかく一度は生きて活動していた鉄道線路は、まだ幸せものと呼んでよかろう。もっと哀れなのは、計画され免許まで与えられながら、結局生まれることなく葬られ、その形跡すら残っていない路線である。

 本書はいわば「鉄道線路水子地蔵」とでもいうべき本で、夢破れて消えた計画線へのレクイエムである。なにしろ具体的証拠に乏しく、資料を集める──どころか、所在を突きとめることすら至難のわざだから、著者の努力と執念はなみなみならぬものであったろうと脱帽する。

 「東京山手急行電鉄」とか「名古屋急行電鉄」とか、名前だけはご立派だが、結局陽の目を見ることのなかった会社が日本全国に数多くある。マニアならぬ一般の人でも、見ようと思えばいつでもその夢の跡を見ることができる。ひとつだけヒントを紹介しよう。京王井の頭線明大前駅のすぐ北の甲州街道と旧玉川上水の下をくぐるところに、線路は二本なのに、四本分のスペースがとってあるのはなぜか。あとは本書を読んでのお楽しみとしておこう。
 当然のことながら、鉄道建設計画免許をとりつける陰には、数多くの汚職事件があった。もっとも有名なのは1929年(昭和4年)の五大私鉄疑獄だ。政友会の田中内閣当時、副総理とか金庫番とか呼ばれた小川平吉鉄道大臣がワイロを受取ったという疑いで、田中内閣が倒れた後に起訴された。贈賄側は北海道鉄道から博多湾鉄道汽船まで全国にわたっている。

 詳しくは本書に譲るが、政党政治に対する一般国民の不信感を強めたことは事実で、これに右翼が便乗して、5・15テロ事件にまで波及する。単なる鉄道史の一挿話ではなく、昭和史の重大事件なのであった。 (bk1ブックナビゲーター:小池滋/英文学者 2001.11.06)

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紙の本メイド・イン・トーキョー

2001/10/31 22:15

建物がくりひろげる異種格闘技

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 最近「建築探偵」の類が流行で、東京の中を歩きまわって興味ある建築を探す本がよく見られる。この本がそのひとつであるが、著者がいずれも1960年代後半生まれの若い建築家だけあって、従来のものと大きく違っている。
 都市建築から過去を掘り起そうとするノスタルジックな姿勢ではなくて、(著者のひとりの言葉をかりると)「自分たちには今の都市がどう使えるか」「実際に東京で建物を作ろうとする」「未来へのパースペクティヴを描きたかった」から生まれた成果なのだ。

 文化が薫る「建築」ではなく、事物としての「建物」を求めて歩いた。「機能だけ、あるいは他者を意にも介さない欲求が、脚色なしに提示されたような、欲望の零度、常識の外部ともいうべき建物」が関心の的となっている。

 そのような70の物件の写真と線画による絵が、見ひらきに展示され、コメント(しばしばユーモラスな)が付けられている。字だけで紹介したのでは、その面白さを伝えることはできないが、実例をいくつか挙げよう。
 07番「パチンコカテドラル」は新宿歌舞伎町にある3つの別々のビル。中央の尖塔型のパチスロタワーの両側に、サラ金関係のテナントが多く入るペンシルビルがぴったり寄り添って、まるでパリのノートルダム寺院を思わせる。ゼニ信仰の大本山だ。
 70番の射撃墓地は新座市にあり、自衛隊の射撃練習場(東京オリンピックの時に競技場だった)を墓地がとり囲んでいる。墓から射撃は見えないが、銃声は聞える。

 東京という大都会では、とんでもない異種のものがごっちゃに混じり合って、誰もが気づかぬし、気づいても平気でいる。まさに「異種格闘技」のリングであることを、目の当たりに見せつけられる。英文説明も付いているから、全ページにあふれるブラック・ユーモアは外国人にも理解して貰えるだろう。 (bk1ブックナビゲーター:小池滋/英文学者 2001.11.01)

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文学にとってアルプスとは何だったのか

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 文学の専門家向きの本であるから、決して読みやすいとは言えないが、一般の読書好きの人にもぜひおすすめしたい刺激に充ちた本である。
 そのために、まず表題の説明をしておかねばならない。「アルパイン」は英語で「アルプスの」という意味、「フラヌール」はフランス語で「ぶらぶら歩く人」の意味である。
 19世紀の近代都市が文学の舞台として適わしくなったのは、フラヌール、つまり、目的もなくぶらぶら歩く人の視線で見たものを描いたからである、とドイツの批評家ベンヤミンが言った。彼は詩人ボードレールのことを言っているが、日本文学でも永井荷風の作品(例えば「日和下駄(ひよりげた)」)を読めば、このことが理解できよう。
 しかし、フラヌールは都市だけを歩くとは限らない。イギリスのロマン派の詩人たち、例えばワーズワースは、自然を愛し、自然の中に住み、自然の中をとくに目的もなしにぶらぶら歩いた。
 また、国内に高いけわしい山のないイギリスの人びとにとって、初めて見たヨーロッパ・アルプスの山々はまさに文化ショックであった。普通の人にとっては交通の障害、苦しい憎むべき敵であるアルプスだが、ある種の芸術家にとっては憧れの的、わざわざ見るために出かけて行く価値のある聖地ともなった。そこに神を見ることさえできた。

 イギリスの文人たちがアルプスをどう眺め、それをどう文学として表現したか。さらにそれだけではなくて、アルプスがイギリス・ロマン派文学者の自意識の深渕をどのようにあばいたのか。
 いまでは観光地として世界中に知られているアルプスであるが、自然を観光産業の資源にしてしまった現代のわたしたちは、この本で取り上げられている文学作品をもう一度読み直して、考えを新たにする必要があるのではなかろうか。 (bk1ブックナビゲーター:小池滋/英文学者 2001.10.18)

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わが国最初の評伝書がやっと現れた

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 佐々木邦といっても、いまでは知る人はそう多くはなかろう。明治16年(1883)に生まれて昭和39年(1964)に81歳で死んだユーモア作家である。
 戦前の月刊雑誌『少年倶楽部(クラブ)』に『トム君サム君』『村の少年団』『苦心の学友』などを連載して、多くのファンを作った。少年だけではない。大人のためにも多くの小説を書いた。講談社発行の大衆月刊雑誌の『キング』に連載された『ガラマサどん』は大評判で、その後ロッパ(古川緑波)が主演して劇化され、さらに『ロッパのガラマサどん』と題して映画化された。記憶しておられる人もいるだろう。
 アメリカのユーモア作家マーク・トゥエインの『トム・ソーヤーの冒険』などの名翻訳家としてもよく知られている。

 主として戦前の東京の山の手の中流知識層の家庭が舞台となっていて、明かるい少年少女の活躍がいきいきと描かれている。英米風のユーモアが、日本の風土の中にうまく取り入れられている。
 これでもわかるように、鬼畜米英の叫び声が高まった戦争中は、佐々木邦の作品は完全に無視されてしまった。佐々木自身が、時局に迎合するような見っともない真似はせず、ほとんど何も書かずに、無言の抵抗の姿勢を貫いたのは立派である。
 だから、戦後になって再び活躍の場が戻って来た。しかし、年齢(とし)もとったし、戦争中の空白もあって、とても戦前のような人気は出るわけがない。いまではその名前さえ知る人は少ない。

 佐々木邦の評伝が書かれたのは、本書が最初であると聞いて、わたしは複雑な気持になった。「ひどいじゃないか」と不満を感じる一方で、「やっぱりそうか、でも、いまの時代によくこんな本を出す会社があったものだ」と感心しないわけにはいかなかった。まさに苦いユーモアというものか。 (bk1ブックナビゲーター:小池滋/英文学者 2001.10.17)

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歩くよりゆっくりした船旅の楽しさ

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 イギリスの鉄道の旅を紹介した本は日本でもいくつか出ているが、運河を船で旅する楽しさを教えてくれる本は、これまで知らなかった人も多かろう。

 運河というと工業地帯にあるもので、楽しい船旅とはおよそ無線と考えるのが日本の実情であろう。ところがイギリスでは田園地帯に四通八達している。18世紀後半から19世紀前半にかけて、鉄や石炭など重量貨物を運ぶために、全国に運河建設ブームが起った。馬車で運ぶのに比べて、時間はかかるが、大量を安く運べるからだ。

 ところが、その後、鉄道が発達し、さらに自動車による輸送が一般化すると、運河は見棄てられ、荒れるがままに放置されてしまった。第2次世界大戦後に、産業文化財保存活動のひとつとして、運河を整備しなおし、観光資源として復活させる動きが高まった。
 というと、何かものものしいように思えるかもしれないが、実は簡単なのだ。ナローボートという幅2メートルちょっと長さ20メートルほどの底の浅い船を借りて、自分で動かして、全国で3000キロ以上もある運河を自由自在に旅できるのだ。

 動かすのに免許なんかいらない。船の中には寝室、台所、トイレなどが完備しているから、何日でも(お望みなら)何か月でもいられる。時速4〜5キロというから歩くよりも遅い。気に入った場所があったら岸につないで、陸上を散歩したりパブへ行ってもいい。

 イギリス留学中にこの運河船旅の魅力にはまってしまった著者は、奥さんや好きな仲間とともにイギリスからアイルランドにかけて、何度も楽しんだ。
 外国旅行というとセカセカ急ぎ足で距離ばかりを誇りたい人には向かないが、たまにはこんなのんびりした旅もよかろう。詳しい情報も載っているから(1人で乗れるホテル・ボートもある)日本から申込もできる。 (bk1ブックナビゲーター:小池滋/英文学者 2001.09.13)

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六十にして老子の道を知る

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 著者の加島祥造さんは1923年(大正12年)に東京の神田に生まれた、ちゃきちゃきの江戸っ子。アメリカ文学を専攻して、いくつかの大学で教え、その方面の著書、訳書も多くあるが、老子の思想にひかれてタオ(道)についての本を書いている。いまはすべての職から退き、伊那谷に小屋を建てて住んでいる。

 この本に収めた随筆はすべて、自分で書きたいことを書きたい時に書いたものだと「あとがき」の中で言っている。長さとか締切日とかを決められてではなく、もちろん原稿料も貰わずに書いた文章を、自分で『晩晴館通信』という題の8ページのパンフレットにして、印刷も発送も全部自分でやって、年に4回発行して知人に配っている。

 「晩晴館」とは、横浜の山手にある加島さんの自宅につけた名前である。中国の古典詩から取った言葉で、「雨上がりの夕方の景」という意味だそうだが、加島さんは日本流に「梅雨(つゆ)晴れの夕方」の意味にとっている。といっても、「港が見える丘」(その名の公園は近くにあるが)なんてシャレた家ではなく、陽当りのよくない湿っぽい木造二階建てとのこと。

 60歳を過ぎてからの加島さんは、人生のベクトルを考えなおし「アメリカ文学から老子へ、知識を使った著作から詩と画作に転じてきた」(「あとがき」より)本の中やカバーの絵も自分で描き、カバーを飾る表題と著者名も自分で墨をすり筆をとって書いたものである。

 このように書くと、ひどく年よりじみた仙人めいた内容のように思えるかもしれないが、実はそうではない。若い者への説教なんかまるでない。いや、文章自体が若々しい。まさに手づくり菜園でとれた新鮮な野菜をご馳走になっているような読後感を持つ。

 加島さんの説明によると、老子の教えというのは、決して古くさい固苦しいお説教ではないとのこと。例えば「足ルヲ知ル者ハ富ム」という一句は、「貧しさを我慢する精神」を教えるものではない。「富ム」とは「内なる自由、心の自由」のことであって、しゃれた洋館に住み、外国旅行を楽しみ、グルメ・レストランに毎日通うというような──つまり、いまの日本人の多くが満足とか富裕とか考えているものとは正反対のものだ。

 これもよく聞かされる「怨ニ報イルニ徳ヲモッテセヨ」の一句についても、新しいことを教えられる。「徳」とは外から押しつける倫理的規制とか道徳律とかのことではなくて、人間のみならず万物に宿るパワー、自然のエネルギーのことなのだ。

 加島さんが上のことに気づいたのは、ある日おつながりのトンボの群にも、嫉妬や羨望の行動があることを知ったからだった。

 ヤキモチは人間だけの醜い感情ではなくて、命に対する愛の感情と同じく、すべての生物共通のものだと悟ったのだった。 (bk1ブックナビゲーター:小池滋/英文学者 2001.07.28)

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紙の本乗り物の博物館

2001/07/09 15:15

リピーターの足と目と手で書いたガイドブック

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 日本全国で乗り物の博物館はいくつくらいあるのだろうか? 乗り物といっても、鉄道、自動車、船、飛行機などなど多種多様。その一種類については物知りと自負できる人でも、乗り物全般となると、お手上げになってしまうだろう。本書の目次を眺めただけで、エーッ、こんなにたくさんあるの! と驚くに違いない。一度ずつ行くだけでも大変だと、ため息をつくだろう。

 この本の著者は、自身いくつかの交通博物館に勤務した体験の持ち主であるばかりか、ここに示されている博物館に、一度ならず、何度も足を運び、自分の目で見て、自分の手でカメラのシャッターを押してから、この本を書いた。
 そうした体験から得た結論を、序章「博物館というところは」の中で記している。つまり「博物館には完成はないのだ」と。だから、博物館のよい利用法は、何度も足を運ぶこと、よいリピーターになることだ、と。

 本書のもっともすぐれた価値は、著者自身が「よいリピーター」であることだ。それは本書の隅々にまで、ちょっとした記述によっても証明される。著者のそれぞれの施設についてのコメントは、決してきれいごとの外交辞令ではない。かなり手きびしい、辛口の注文があちこちに見られる。しかし、それは現場に足を何度も運んだ上での評価だから、読者は納得できる。

 一般読者は日本全国の乗り物の博物館のよいリピーターになることはできないのだから、本書のような信頼のおけるガイドに頼るしかない。その点で本書を多くの人におすすめしてもよいと思う。写真や図が盛りだくさんなのもありがたい。

 乗り物の博物館というと、また、そうした施設のガイドブックというと、一般の人はともすればマニアックなものばかりと敬遠しがちであろうが、本書は決してマニアだけのお楽しみ本ではない。また、各施設についての説明も、マニアだけを満足させようとしたものではない。むしろ、そうしたかたよりをなるべく避けようとした努力があちこちに見られる。

 著者の個人的思い出、感想などが散りばめられているのも、そうした努力のひとつとわたしは評価したい。事実とデータの羅列ばかりでは、筋金入りのマニアは喜ぶかもしれないが、この分野に初めて興味を覚えた読者は敬遠したくなるだろう。
 といっても、データについて不備があるわけではない。巻末にある「乗り物が数多く見学できる博物館施設」のリストは、驚くほどの充実ぶりである。本書でとり上げていない施設が、まだまだ全国にたくさんあることを教えてくれる。

 本書を読むことによって、乗り物マニアではない(とくに若い)人が、「よいリピーター」になりたいという気持を抱くようになるだろうと、わたしは信じている。 (bk1ブックナビゲーター:小池滋/英文学者 2001.07.10)

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紙の本小野二郎の書物論

2001/07/06 18:15

美しく読みやすい芸術品としての書物

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 著者の小野二郎については、知る人ぞ知るで、熱烈なファンもかなりいるが、広く知られてはいないので、簡単に記そう。
 1929年の生まれで、東京大学卒業後、明治大学教授をつとめ、ウィリアム・モリスや民衆芸術についての著書がある。出版社晶文社の編集顧問として、多くの個性的な本の刊行に貢献した。教師とか学者とか編集者とかいう狭い枠におさまりきれぬユニークな活動により、多くの若い後輩を育てたが、1982年に53歳の若さで死んだのが惜しまれる。

 小野は生涯「書物とは何か」にこだわり、それについての書物を書き続けた。書物にとって大事なのは内容であって、本そのものは単なる手段、媒体でしかない──こう考えている人が多いのではあるまいか。でも、本がそれ自身美しい芸術品であってもよい──いや、そうでなければならないと考えたのが、ウィリアム・モリスという19正期末イギリスの芸術家であり、小野もその考えに共感した。

 といっても、いわゆるデラックス版、値段が高くて稀少価値のある骨董品のような本がよいというわけではない。本書の中の一章「書物の『読み易さ』について」を読むとわかるように、見て美しいだけでなく読むに快い本が大事なのだ。そのためには、活字の「面(つら)」、字間、行間、ページの上下左右の余白、などなどといった具体的な点についての職人芸的なデザイン感覚が必要だ。

 本とは成り金が装飾品として誇るものではあってはいけない。あくまで実用品であって、一般民衆の手の届くところにあって、なおかつ美しい芸術品でなければならない。かつて小野は、
 「書物が書物たりうるのは、その内容ではなくして、その形式によってである」
 と書いた。本人は「舌たらず」と反省しているが、今日ではこのことはある程度の共通感覚として認められている。エディトリアル・デザインという言葉も、そう突飛なものではなくなっている。実は、そうなったのはウィリアム・モリスの主張が広くわが国に紹介されたからであって、小野はその先駆的功労者の一人と言っても、決してほめすぎではないと思う。

 それ以外にも、日本の書物独特のものである「題扉」と「奥付」について、あるいは、書物芸術におけるケルト的伝統について、などなど、多様な問題についての発言が入っている。出版社社員のための実用的マニュアルとしても使えるし、普遍的・哲学的論考として読むこともできる。このような点でも、小野の人柄と同じく、ひと筋縄でいかないのがその文章の魅力である。

 といっても決して読みやすい内容・文体ではない。すいすいと斜読みできる本ではない。しかし、格闘して読んだ後には、ずっしりしたものが心の中に残るはずである。 (bk1ブックナビゲーター:小池滋/英文学者 2001.07.07)

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名訳のみが歴史を作っていくわけではない

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 表題だけを見た人は「八代亜紀の演歌などをこよなく愛する翻訳の老大家が長年の楽屋話を披露した本」と思うかもしれない。だが、本書によって著者の実像を描いてみると、現在53歳の現役大学教授(東京工業大学外国語研究教育センター)である。
 高校時代から澁沢龍彦の本や『チボー家の人びと』の邦訳を読み、東大に入ると教養語学の授業はサボりにサボッて、試験の前に教科書の訳本を探す。英文科に進んで、卆業時に一流放送局や新聞社の入社試験に合格したのに、もったいなくも振ってしまい、比較文学の大学院に入院(?)した。
 退院後4つほどの大学の教師を渡り歩いて(一つの大学の平均勤務期間が4年なので「国体選手」と陰口を叩かれた)から現職。『現代アメリカ文学を翻訳で学ぶ』などの著書、『翻訳の方法』の編書があり、本書の内容も、もともと翻訳や語学に関係する雑誌に発表したものであった。

 というわけで、将来プロの翻訳家になりたいと願う若い人が、この本を精読すれば、訳者に必要な心得を多く学ぶことができるだろう。とくに、二葉亭四迷のツルゲーネフ、森鴎外のゲーテ、坪内逍遥のシェイクスピア、堀口大学のフランス詩などのような「名訳のみが歴史を作っていくわけではない」という教えは貴重だ。著者自身が若い頃接したB級翻訳が、著者にとってよい肥料になったことがよくわかる。それにしても具体的にあげられている例の何と幅の広いことよ!
 だが、そのようなハウツーもの、役に立つ教科書として読むだけではもったいない。著者が担当しているある大学の「翻訳──理論と実践」という授業で、聴講生に「改善すべき点」を書けといったら、「脱線と余談が多すぎる」というのがダントツに多かったそうである。
 同じ感想を本書について述べる人も多いだろう。だが(少なくともわたしは)これは欠点であるとは思わなかった。著者のこれまでの人生航路で得た(真偽の保証はない)多くのゴシップ、逸話、ユーモラスな冗談などなどがあるお陰で、前に述べた著者の翻訳についての教えが生きて来る。説得力をもって読者に迫って来るのだ。
 実例を紹介したら紙数が足りなくなってしまうから、目次にある章のタイトルの中から「ハラスのいなくなった日々」「愛とは──公開しないこと」の二つだけをあげておこう。後者が「後悔」にひっかけたダジャレであることに気づく人は多かろう。では、前者のどこが笑えるのか?
 中野孝次の本の表題に気づいた人は、かなりの文学好きとお見受けしてもよかろう。だが、中野孝次とドイツ文学の関係のことかと思ってこの章を読み始めると……お後は言わぬ方がよかろう。本書を読んでのお楽しみとしておこう。最後に──イラストの面白さをぜひ満喫していただきたい。 (bk1ブックナビゲーター:小池滋/英文学者 2001.06.07)

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パリだけがフランスではない

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 表題だけを見るとフランスの路面電車を紹介した、鉄道ファン向きの本だと早合点したくなるが、そうではない。フランスの都市づくりの最新情報を教えてくれる本で、著者は鉄道ファンではなく、都市計画の専門家である。
 フランスは日本人にとって、いつもあこがれの地であった。いまでも、ヨーロッパ観光旅行というと、フランスは大きな目玉で、ほとんど欠かすことのできない土地となっている。
 ところが、見るのはパリだけ、あるいは、せいぜい地中海沿岸のリゾート──ニースやカンヌくらいで、それ以外の地方都市に関心を持つ人は少ない。
 フランスに勉強に行く日本人も多いが、やはり大多数は芸術がお目当てで、都市行政の勉強に行く人は少数派となる。この本の著者はまさにその少数の一人で、日本人にとって、なぜフランスの新しい都市づくりがよい参考になるかを、熱っぽく語ってくれる。

 フランスは伝統的に強力な中央集権国家であったが、1980年代ころから地方分権化政策が積極的に進められて来た。フランスの地方自治体の最小単位は「コミューン」と呼ばれ、日本の市町村に相当する。都市計画ではこのコミューンの長が大きな権限を持つことができるようになった。
 連合王国であるイギリス、連邦国家であるアメリカやドイツは、日本にとって本質的に違うので、なかなかお手本にしにくいが、

「強力な中央集権的社会から地方分権に移行し成功させたフランスの経験は、われわれ(日本人)の社会制度と近かったからこそ参考になるに違いない」(39ページ)

と著者は言う。大都市の悩みの種といえば、都市公害──大気汚染、交通渋滞などなどであるが、フランスの各都市は、いろいろな形で答案を出している。多くの都市が中心部と郊外を結ぶ新しい高性能路面電車(フランスでも英語をそのまま使ってトラムと呼ぶ)をとり入れている。

 日本では路面電車というと「チンチン電車」とか「下町の人情」とか、何か古いものへの郷愁ばかりが連想されるが、欧米では最新の技術を導入した交通システムとなっている。騒音もなく、大気汚染もなく、低床でバリアフリーの車体は、老人、子供連れ、車椅子使用者など、これまで「交通弱者」と呼ばれて疎外されて来た市民に歓迎されている。(日本では広島、熊本などで見られる。)
 他にも、電気自動車の使用、自動車乗り入れ制限、VAL(東京のユリカモメのような無人交通システム)など、各都市の詳しい紹介が見られる。またフランス語は日本人に耳慣れないので用語解説がつけ加えられているのも親切である。今度フランスへ行ったら、地方都市にもぜひ足を向けたくなった。 (bk1ブックナビゲーター:小池滋/英文学者 2001.06.03)

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骨董ではない、日常生活に根ざした雑貨を求めて

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 いま日本でもアンティークへの興味が広まり、イギリスへ出かけたついでに、いや、わざわざその目的のために出かけて、アンティーク探しをする人もかなり増えている。
 この本の著者はもう10年以上も前から、イギリスに住んだり、日本とかの地との間をまめに行き来して、最初は生活費を安くあげるために古着や古雑貨を探していたが、そのうちにその魅力にとりつかれてしまった。
 文筆と並行して、アンティークの買いつけ担当をしたり、カルチャーセンターの講師をつとめたりもした。これまでにもその方面についての本を何冊も出している。

 本書は一般向けに書かれていて、カラー写真も多く収めてあり、ページの下に親切な注や説明も多く出ているから、これからやってみようと思っている人に最適である。
 まず、かなり根強く残っている誤解を正すところから、この本は始まる。アンティークを日本語に訳すと「骨董」となるので、古くて高価なもの、博物館や特別な店の棚に大事にしまい込まれていて、日常の生活とは無縁のもの──と、こんな風に思い込んでいる人がまだ多いのではなかろうか。
 ここで扱っているのは、そのようなものではない。もっと生活に根ざしたものである。芸術的価値や歴史的価値なんかなくてもよい。コレクター、マニアが好きで求めるものを含む。
 そうしたものは英語で「コレクタブルズ」と呼ばれる。「ジャンク」とか「ブリック・ア・ブラック」などと呼ばれるもの。これも英和辞典には「ガラクタ」「ゲテモノ」なんぞと書いてあるが、ちっとも構わない。
 100年も昔のものでなくてもよい。20世紀中頃の品物、当時は町にあふれて、誰も目もくれなかったものが、いまでは貴重品になっていることもある。
 といっても、お値段は千差万別、下は数百円から、せいぜい数十万円どまりあたり。値段にあまりこだわると楽しみが減ってしまう。だから、買う場所も有名店や有名オークションではなく、ロンドン、あるいは地方のフェアなどにまめに足を運び、見てまわるのがよい。気に入ったものがなくても、見るだけで楽しい。そこで出会う人びととのふれ合いが何ともいえぬ味わいがある。

 もちろん最近はインターネットによるオークションが流行で、自分の部屋にいながらにして世界中のアンティークの取引きに参加できるが、値段が均一化して来て、掘り出しものを見つける喜びが減りつつあるとか。
 この本にはアンティーク雑貨についての情報だけでなく、イギリス田舎の旅の楽しさ、イギリスの食べもの(よくまずいと悪口を言われているが、おいしいものがたくさん紹介されている)などなどについても、教えられることが多い。アンティークには興味ないが、イギリスは好きという人にも、ぜひおすすめしたい。 (bk1ブックナビゲーター:小池滋/英文学者 2001.06.02)

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紙の本北海道の鉄道

2001/04/05 18:15

開拓の主役をつとめた鉄道の歴史

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 日本最初の鉄道は明治5年(1872年)開業の新橋・横浜間であることは多くの人が知っている。二番目は? 答えられる人は少なくなるが、おそらく関西の大阪あたりだろうと見当をつける人はかなりいる。それが正解である。では三番目はどこ?
 こうなると答えられる人はもっと少なくなるが、答えは北海道である。明治13年(1880年)に手宮(現在の小樽市内)から札幌までの鉄道が開業した。この線は翌年にはもっと東へ伸びて、炭坑のある幌内(ほろない)まで全通した。

 というわけで、北海道の鉄道は120年以上の歴史を持つ。ところが本書を読むと、もっと意外なことを教えられる。これまであげて来た鉄道は、すべて公共交通機関、つまり金を払えば誰でも利用できるものだ。ところが、炭坑や工場内の専用鉄道までを含めると、日本最初は何と北海道は岩内近くにある茅沼(かやぬま)炭坑内に、明治2年(1869年)設けられた、鉄板をはりつけた木製レールの軌道とのこと。石炭を積んだ車は坂道を自転して下り、空になると牛が引張り上げたそうだ。

 これを鉄道と認めるかどうかは議論の分かれるところだろうが、北海道の鉄道が石炭を運ぶ目的で誕生したことは間違いない。都市を結ぶ目的で生まれた本土の鉄道とは大きな違いがあった。また本土の鉄道がもっぱらイギリス人技術者の指導で作られたのに対して、北海道ではアメリカの技術者の助けをかりた。義経号や弁慶号のような、純アメリカ・スタイルの蒸気機関車の第一号が北海道にお目みえしたのも当然であった。

 以後の発達については、本書に豊富に収録されている写真を見るだけでもわかる。だが、特に注意すべきなのは、北海道にしか見られなかった「殖民軌道」である。(第4章第3節を参照)

 北海道の中でもとくに不便だった北部や東部の開拓民の生活の足として、大正13年(1924年)以来、道庁が殖民費を使って建設した軽便軌道である。ゲージ(左右のレールの間隔)は省線のそれより狭い76.2センチが多く、最初は馬が引いたが、後に蒸気やガソリンの動力に変った。建設して10年間は地元住民は無料で利用できた。運営は道庁または地元の運行組合が多い。

 昭和20年(1945年)までに全部で33線、全長660キロも作られたが、戦後道路の改良が進み、モータリゼイションが広まるにつれて次第に消えて行き、昭和47年には全滅した。


 著者は北海道生まれのもと国鉄マン、北海道の開拓にはなくてならぬ存在だった鉄道の歴史を書くには適任者である。図表やデータも豊富に盛り込んである。わが国の中でも鉄道斜陽化がもっともひどいのは北海道で、読んでいてつらくなることが多いが、後世に残す文献としては貴重である。 (bk1ブックナビゲーター:小池滋/英文学者 2001.04.06)

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友はつくるが組織にはよらず

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 内田魯庵(ろあん)といっても、文学に関心のある人でも名前すら知らない人が多いだろう。明治元年(1868)に生まれ昭和4年(1929)に死んだ評論家である。東京の下谷で旧幕臣の子として生まれ、若くして英語を学び多くの翻訳を手がけた。24歳でドストエフスキーの『罪と罰』を英訳本から邦訳して、多くの文学者に感銘を与えた。

 洋書店丸善の顧問をしたほど洋書好きで、エッセイスト、書誌学者として知る人は知る存在だったが、文壇や学界の流行児となることは一度もなく、徳富蘇峰が評したように、「友人はよく作ったが団体は作らなかった」──つまり、組織に頼らぬ一匹狼だった。

 だが、文化人類学者として多彩な活動をしている著者、山口昌男がこの600ページを越す大著の中で試みているのは、内田魯庵の伝記でもなく、その仕事の紹介でもない。著書の終りの3分の1くらいで、その作品の一部を紹介しているが、本書の主題はもっと大きなものである。

 内田が交際を持った明治・大正期の多くの人びとの「ネットワーク」を詳しく調べて、不当に無視されてきた日本人の知の伝統に注目しようとしたものである。文人、学者、趣味人、コレクターなどなどで、今日名前すらろくに知られていない人(外国人もいる)がほとんどだが、官学からお役人といった出世街道を嫌って、「藩閥政府の作った階層秩序を前提とした教育ピラミッドをやりすごし、学問を娯しんで生涯を過ごそうとする人びと」(第4章)が次から次へと登場する。いまだったらディレッタントとか、あるいはもっとひどい「オタク」のレッテルを貼られてしまいそうだが、山口に言わせれば「路地裏の江戸という異界から這い出て来た群像」「街頭のアカデミー」を作った文化人である。

 山口のこれまでの著作、とくに『「敗者」の精神史』などを知る人なら、本書もそれに列なる視点から書かれていることに気づくだろう。内田魯庵の随筆には、今日の記号論を先取りするもの、ベンヤミンのいう「複製芸術論」と同じものを発見することができると主張する。

 内田こそが真の意味での文化人類学者の日本における第一人者であるという──これでわかるだろうが、官学ピラミッドを駆け上った柳田国男とは正反対の人物ということであって、山口は柳田に対してかなり手きびしいことを書いている。

 こうした点についての意見は、読者ひとりひとり違うだろうが、内田魯庵とそのネットワークに属する人物について、実に細かいことまで教えてくれる本書には脱帽してもよかろう。学問・芸術・風俗・文化の広い領域に遊んだこの人たちに言わせれば、今日「インターディシプリナリー(学際的)」なんぞと偉そうに口にする連中など「片腹いたい、いや、両腹いたい」のではあるまいか。 (bk1ブックナビゲーター:小池滋/英文学者 2001.03.07)

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紙の本B6回顧録 国鉄編

2001/01/26 18:15

裏方の力持ちとなったSLの履歴書

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 「B6」と言われても何のことかわからない人の方が多かろう。「本の大きさのことですか」というのが常識的な答えではあるまいか。
 鉄道に興味を持つ人なら、かつて英国で作られて日本に輸入されて、長いことはたらいていた蒸気機関車の通称か愛称だと思っている。かなりの年齢の人なら、現役で動いていたのを見た記憶を持つ人もいる。でも、C57とかD51というのは見たことあるが、B6などという番号がついていたのは見たことない、数字が4つ並んでいただけだと言う。
 わたし自身が、小学生だった戦爭中から大学卒業後の昭和30年ころまでの長い間、東京のあちこちで入れ替え作業をしていた小形のSLをよく見かけることができた。裏方の力持ちという印象がいまでも残っている。

 本書によって、このグループの機関車の履歴と活躍ぶり、幕が下りるまでの運命を、文字通り1両1両について教えられた。かなりのマニアと自負している人でも、知らなかったことが満載である。著者と背後から支えてくれた多くの情報・写真・図面提供者に深い敬意を表したい。
 明治23年(1890年)に英国で作られ、日本の官営鉄道(当時は鉄道作業局と呼ばれていた)で使われたのが最初の6両であった。そこでは、シリンダーから伝えられた力を棒によって受けて回転する車両(これを動輪と呼ぶ)が、片側に2つあるのをA、3つあるのをBと名づけた。Bの6番目の形式ということでB6と名がついた。1両1両には数字による(105番から)番号がついていた。
 重いので、どこの路線でも使えるわけではなかったが、力が強いので、重い貨物列車や、坂のきつい区間でのすべての列車を引くのに適していた。スピードよりも力強さによって重宝がられたのである。
 官鉄だけではなく、当時の私鉄でも使われた。家族の数はどんどん増えて、当時としては珍らしいことだが、1形式で100両を突破した。そこへ明治37年(1904年)の日露戦爭である。スピードよりも力で評判をとったB6は軍事輸送にもってこいの機関車と評価された。
 急いで英国に大量発注したが、それだけでは間に合わないということで、同じ設計図をドイツとアメリカの会社に示して追加注文した。戦爭が終ると、満州に送られて帰国した187両を含めて、家族総数はなんと528両に達していた。
 明治39年に、日露戦爭で鉄道の持つ軍事的役割を痛感した政府は、全国主要幹線の国有化を実施した。その結果大世帯になり、機関車の改番をすることとなった。B6の初期の英国製は2100、その後の英国製と10両の国産は2120、ドイツ製は2400、アメリカ製は2500と形式が改められて、全国にばらまかれ、昭和30年代初期まで生きのびることとなったのである。 (bk1ブックナビゲーター:小池滋/英文学者 2001.01.27)

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大家族のSLがたどった運命の明暗

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 まず明かるい話題から。力持ちの長所をかわれて、全国の官鉄線の山坂の多い路線の全列車、平坦な路線の貨物列車、大きな駅の入れ替え用などが主な職場となった。


 昭和に入って国産の蒸気機関車が主流となり、外国製がどんどん陶汰されるようになっても、B6一家は長寿を保ち、東京などの大都市での入れ替えの仕事を、ディーゼル機関車にとって替えられる昭和30年代初期までつとめた。他に類を見ない生存率である。

 よほど性能がよかったのか、現場の人たちによほど愛されたのか、と考えたくなるが、本書を読むと、必らずしもそうではなかったらしいとわかる。運転する人、保守する人にとっては、扱いにくい点が多かったとのことである。

 家族の数が多かったことがよかったのだろう。例えば、部品の新調、交換などの際に便利だった、経費がかからなかった、などが生き残れた原因らしい。そうした点を評価されて、官鉄から引退した後、全国の私鉄その他に引きとられて、第二の人生を送ったものの数が、これも抜群に多い。

 私鉄といっても、客を乗せて走る線、つまり普通の時刻表や路線図に載っている線だけではない。工場や炭鉱などの専用線、工事用線でも活躍した。面白いトピックとして、官鉄でゲージ(左右のレールの間隔)を、欧米なみ(現在の新幹線がそうである)に変えようという意見が出て、大正6年に横浜線の町田付近に実験線を設けた時、使われた機関車が、この一族のひとりだった。

 暗い話もある。アメリカ製の2500形には欠陥車が多く、改造されたり、厄介払いのために私鉄などに譲られたものが多かった。落ちこぼれを早いとこ民間に押しつけようという、お役人気質は昔からあったことがこれでわかる。

 戦後になって電化区間が増えると、電気機関車が引く列車が多くなる。客車に暖房用のスチームを送ることができないので、専用の暖房車を機関車の次につけなくてはいけなかった。そこでB6のお古のカマを貨車の台枠に乗せ、お古の客車の台車をはかせて急ごしらえした。戦後の物資不足時代を思わせるエピソードである。

 完全に絶滅したかと思ったB6一家の中で、いまなお1両だけが健在で、埼玉県の日本工業大学の博物館に保存されて、年に何回か火を入れて動いているという朗報も書かれている。動かない状態で保存されているものも、青梅の鉄道公園などに数両ある。

 豊富な写真によりこまかな違いがよくわかるのもありがたい。日本全国にわたって調べ上げた著者と、その背後の協力者となっている多くの人たち(物故者もいる)に、深い感動をこめたお礼を申し上げる。 (bk1ブックナビゲーター:小池滋/英文学者 2001.01.27)

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