狸汁さんのレビュー一覧
投稿者:狸汁
反転 闇社会の守護神と呼ばれて
2007/08/27 00:07
「歴史書」と言うほかない
13人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
本を置くことができず、明け方までに一気に読み通させられるおそろしい本だ。アウトローと政治家の癒着、検察・警察の闇、「闇社会」を流通するめまいがするような巨額のカネ、そうした事実に圧倒されるだけではない。本書は、バブル、ひいては日本の「戦後」に落とし前をつけた驚愕すべき「歴史書」であり「民族誌」となっているからだろう。本書はもっとも近い歴史のもっともなまなましい記録であるのだ。
本書の概要を紹介しておこう。著者は、元大阪地検と東京地検の特捜部のエースとして、ロッキード事件以来の政治家逮捕にいたった「撚糸工連事件」や、現職警官を摘発した「大阪ゲーム機汚職」などを手掛け、平和相互銀行事件などで政治家の圧力に屈する検察にいやけが差し、弁護士となった後は一転して山口組や許永中らバブル紳士のみならず清和会など政治家の代理人となり暗躍した。そしてかつての検察の上司に狙いうちされ、石橋産業詐欺事件で実刑判決を受けた後、自分がかかわってきた「闇社会」の克明な事実を、まさに「洗いざらい」告白したものだ。
著者は自決するつもりではないか、と思うほど事実は生々しい。裏社会からわいろをうけとる政治家、政治の圧力で事件を潰す検察幹部、自分の絵図通りに事件を捏造していく検察・警察、そしてバブル時代の想像を絶するようなカネと欲望のありさま。それがすべて実名で明かされている。
思わず唸るような事実は読んでいただいたほうがいいが、印象的で象徴的に思えたのは、大阪の焼き鳥チェーン「五えんや」の中岡信栄のエピソードだろう。小学校もでていない中岡は松下の社員食堂に勤めたころ松下幸之助に気に入られ、1本5円の焼き鳥屋からはじめ、金融で成り上がった。字も読めない自分がエリートや有名人とつきあえるうれしさから、あいさつをすれば100万円をわたし、お祝いには1000万円をわたし、彼に政治家、大蔵官僚、芸能人、有象無象が群がった。
著者も中岡にどこか思い入れをもって書いている。それは自らもそうであった「成り上がり」への共感でもあり、同時に深い自嘲でもある。しかし、成り上がりとは「ハングリー」から生まれたものであって、その時代精神を描写しきった…が、本書をすぐれた歴史書にしたのだと思う。
著者は長崎・平戸の貧漁村で漁師の長男として生まれた。まさに赤貧洗うがごとしの暮らしが記されている。苦学、というよりサバイバルのような苦労の末、検事となる。弁護士として巨額の収入を得るようになって、7億円のヘリコプターを購入する。しかし、乗ったのは故郷の平戸に凱旋するための1回だけだった。これが絶頂であった。
戦後とは、貧困という厳然たる現実から人々がはい上がる時代だった。そんなことは当たり前だと言われるかもしれないが、若い世代は実はよくわかっていないだろう。それが「歴史」になったとき、つまり「現代」をつくった理由がはっきりとするから、ぼくたちも骨身にしみることができる。
著者はこう総括している。「日本人は、高度成長による経済発見の結果、金銭や物に対する欲望を全面的に肯定する社会になったように思えてならない」、そして「堀江貴文や村上世彰のようにバブル紳士以上に金儲けに貪欲である、実際に信じられないような大金を手にしている。しかし、その裏側で年収100万円にも満たず、公立の小中学校に通うこともできない子どもが増えている」「異常事態である。しかし異常な状況だという危機感すらない。そんな社会になってしまっている」。
おそらく、多くの人々が語ってきた陳腐にも聞こえる結論かもしれない。しかし、本書でバブルという究極の欲望に溺れ死に、それをすべて記した著者が言うとき、重みはまた違ったものになるだろう。
バブルの本当の落とし前は、本書でかなりの部分がついたような気がする。バブルとそのしっぽの何年かで終わりを告げた戦後が、「遠景」となり「歴史」となった音が聞こえたようだ。
「歴史」となったというのはどういうことか。戦後の欲望を振り返り、総括していない現代の日本とは何かという問いがそこから現れてくる。著者が指摘する通り、「ワーキングプア」の問題をはじめとして、時代の欲望の裏側にひろがる「新しい貧困」とは何かが突きつけられるのだろう。
ちいさな哲学
2009/12/30 07:16
ちいさな哲学の“強さ”
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
世の中はどうも、スターになったり人に勝ったりすることが価値の中心になってしまって、有名な人はずいぶんと出てくるのですが、「偉い人」というのがめっきり少なくなってしまったように感じます。「エラい」人とも違います。きちんと漢字で「偉い人」です。
偉い人には、欲がありません。そして穏やかです。自然なかたちでその人の話を聞きたいと、人が集まってくる。そして、満足しながら帰って行く。そういう人です。「市井」とか「在野」という言葉もあまり聞かなくなりました。でも、市井や在野には偉い人がちゃんといるのです。
そんな偉い人だな、と思うのが、この本の著者の長谷川宏さんです。長谷川さんは大学院を出たあと、埼玉県で小さな学習塾を経営しながら、ヘーゲルの研究をしている哲学者です。ヘーゲルの「精神現象学」の翻訳でドイツの賞も受けていて、日本で最もヘーゲルに詳しい人とも言われています。しかし、長谷川さんが偉いのは、超一流の哲学者でありながら、生業をもちながら、静かにものを考え、時代におもねることなく研究と著作に取り組んでいることです。「この人だったら、どう考えるのだろう」という質問をしたい数少ない人の一人です。
題名がとてもいいと思います。『ちいさな哲学』。哲学はコトやモノの本質や原理を追究する学問ですから、どうしても大きくなりがちです。でも、「ちいさな哲学」は日々の暮らしのなかにもあります。というか、われわれはみな、知らず知らずのうちに、自分の哲学をもって生きているのだと思います。気づかなかったり、意識しないだけで。
本書は長谷川さんがさまざまな媒体に書いた短いエッセイを集めたものです。話題はもっぱら身の回りのことですが、随所に「ちいさな哲学」が現れています。
例えば学習塾の塾生やOB・OGが参加する合宿を、長谷川さんは30年も続けています。山奥の分教場をつかった使った合宿ですから、みなが平等で自炊や掃除をする。そうして人が協力することで、子どもも大人も生き生きとしてくる。「帰りたくない」という子もいるようです。集団生活ですが、長谷川さんは最大限に自由を導入しています。行事への参加も就寝時間も自由です。参加者は自由のなかで初対面の人とも仲良くなり、本当に解放されたような気持ちになるそうです。
長谷川さんはここで「自由」の問題を考えます。自由というのは「近代社会の成立とともに広く人びとの心をとらえるに至った観念」ですが、合宿の様子をみると、「人びとは近代のはるか以前から自由を希求していたのではないか。近代文明に背を向けたような山奥の集団生活で、自由の原理が人間関係を温かくゆたかなものにするさまを身近に見てきて、わたしはそんなことを思うようになった」と長谷川さんは考えます。
長谷川さんは普通の人たちとヘーゲルを原書で読んだり、文学書について語り合う会も長年続けています、その様子はとても知的充実感にあふれているそうです。ハーバーマスは、システム化された官僚制に対抗する民主主義として「生活世界」という概念をだしています。簡単にいうと「アマチュアが議論することが最もよい結論がでる」ということです。長谷川さんの会はそれをまさに実現しているようです。
本書では、エッセイのほか書評集と、水俣についての論文が納められています。水俣病が解決したように扱われた「空白の8年」についての論考で、だれもが背を向けたときに、自分だけは正面から考えるという「ちいさな哲学」の“強さ”も感じました。
長谷川さんの哲学的な生き方は、日々日常を暮らしている私たちに、ゆたかに知的に生きることを教えてくれると思います。
兄弟 上 文革篇
2009/05/16 18:45
中国現代史のすべてが詰まった過剰で豊穣な物語
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
「我らが劉鎭のスーパーリッチ、李光頭」が、とどまることのない欲望を初めて発揮したのは十四歳の時に、公衆便所で町一番の美少女の林紅の尻をのぞき見たことだった。捕まった光頭は大人たちにこっぴどくお仕置きをされた上、自分の亡父も便所をのぞき見し、肥だめで溺れ死んだことを知る。しかし光頭はけろりとして、林紅の尻の話を聞こうと擦り寄ってくる大人たちから、対価としてごちそうの三鮮麺にありつくのだった。
ちびではげ頭、憎まれ口と奇想天外なアイデアと行動力に恵まれた光頭は、日本でいえば「がきデカ」のようなキャラクターのようだ。この魅力的な主人公が文化大革命から改革開放までを、ありあまる悲劇とありあまる喜劇を経て大富豪となり、ロシアの宇宙船で遊覧するまでを描いた大河小説である。舞台は上海からバスで数時間の片田舎の劉鎭。中国のどこにでもある、ありふれた町ゆえに、文革騒動から改革解放後の拝金主義までの中国人が経験した長い騒動の時代の舞台にふさわしいのである。
圧倒的な物語の力がある小説だ。ヒステリーで頭痛持ちの母親は、優しく頼もしい宋凡平と再婚し、光頭は義父の息子の宋鋼と、生涯強い絆で結ばれる兄弟になる。幸福は文革によって引き裂かれる。劉鎭も紅衛兵の暴虐が吹き荒れ、宋凡平は惨殺、母親は心を失う。みなしご同然になった光頭と宋鋼は餓死寸前のなかを生き延びる。しかし、家族の悲劇の周囲を、著者は喜劇の手法で描く。理髪師は革命的理髪師となり、かじ屋は革命的かじ屋となり、アイスキャンディ売りは革命的アイスキャンディー売りとなる。彼らは後に、光頭の天才的商才によってリッチの仲間入りをするのだが…。
前半の「文革編」に続く「改革開放編」で、光頭は破竹の勢い、いや荒唐無稽(むけい)の勢いでスーパーリッチへの階段を駆け上っていく。国営工場の工員から、光頭を崇める障害者たちを引き連れて工場長となる。金を集めて縫製工場を作ろうとして失敗するも、ごみの山を売り払って長者となり、日本で仕入れた大量の古着を売りさばき中国でも屈指の金持ちとなるのである。
革命から金もうけへと中国の民衆が一八〇度転換する激動を体現するように光頭は、狂乱とも言える起業家人生を突き進む。スパーリッチとなった光頭は全国美処女コンテストを華々しく開催するが、処女は一人もおらず、光頭たちは女たちとセックスをしまくる。尻を見たときから恋い焦がれていた林紅が、弟の宋鋼と結婚したショックでパイプカットをした光頭は性欲のおもむくままに女を漁り、物欲のおもむくままに高級車や黄金の便器を買う。しかし、林紅に振られ、弟と疎遠になったことは、光頭の孤独と哀しみを決して癒やさないのだった。
中国の経済的熱狂を光頭が現している一方で、その影の物語は宋鋼が担った。堅実に一工員として生きようとすることを改革開放後の中国は許さなかったのだ。光頭の援助を拒み、宋鋼は詐欺師とともに海南島で出稼ぎをし、ニセ豊胸クリームを売るために、みずから豊胸手術を受け街場の行商に立つ。しかし、貧困のなかで患った病気には勝てず、息を引き取る。
一九六〇年代から一九七八年の毛沢東死去に至るまでの文革という狂乱と暴力の時代から、改革開放後の市場主義の熱狂へ。その中で中国の人々の「欲望」とは何だったのか。それを知るためのテキストを一冊挙げるとしたら、迷わずこの「兄弟」と言っていいだろう。ばかげたこと、耳を疑うこと、残酷なこと、醜いこと、それでも美しいこと。過剰なエピソードが横溢したこの物語こそ、中国のこの四十年を一気に語り尽くしている。
十四歳の時に光頭は、「小さな尻、太った尻、二つの痩せた尻と痩せても太ってもいない尻」を見た。いまや光頭の目には「ありとあらゆる尻が勢揃い」している。「輸入尻に国産尻、白いの黄色いの黒いの茶色いの…ツルツルしたのザラザラしたの…逸品がずらりと並び、いちいち全部に目を通せやしない。いまやむき出しの女の尻ごとき、もはや何の価値もない」と。
五つのシンプルな尻は、無数にあふれていながらも「何の価値もない」ものになった。この「尻」こそが中国の激動の歴史を振り返った時に小説家が見た“虚無”だったのかもしれない。過剰にして豊穣な物語が、その空虚な「尻」に収斂していくとすれば、いよいよこの小説が瞠目すべき作品だと思い至るのである。
近所の景色/無能の人
2010/01/02 02:48
本当の貧乏とは何か
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
つげ義春コレクションがちくま文庫で配本中です。これは第4回目の配本で、「ねじ式」と並ぶ名作とされている「無能の人」が収録されています。「無能の人」は竹中直人主演で映画化もされましたね。ブログの噂では、つげさんはこのコレクションの配本がはじまったことで、極貧の生活から少し楽になったそうです。
寡作で、生きながら伝説になってしまった作家です。何年か前に毎日新聞の記者が、電話もないつげさんを探し当てて、インタビューをしていたのを思い出しました。奥多摩とか、そういう東京のへき地だったとおもいます。コレクションの著者近影はなぜか横を向いた姿です。
「おれは とうとう 石屋になって しまった」「ほかに どうするアテも なかったのだ」
「無能の人」と連作になっている「石を売る」の書き出しです。暗いです。とにかく暗いです。読者を物質的なものがなにもない別世界へと連れ出すような出だしです。絵は、河原で「石」と書かれた汚い幟の横で半身になって横たわる男。つげさんの分身でしょう。
男はいろいろと算段をします。石の本を買って研究をしたり、石がだめなら渡し船をしとうと思ったり、しかしすべてが現実的ではなく、妻に「虫けら」とまで言われます。男は怒りません。自分がダメでダメでしょうがないことを、よく分かっているのです。そして、どこか諦めている。
「石を売る」にせよ、「無能の人」にせよ、どう読み解いたらいいのか、とても難しいと思います。たんなる貧乏経験をもとにした私小説漫画だと片付けていいのか分かりません。とにかく、つげさんの描く「貧乏」を目の当たりにすると、「貧乏」とは何なのかという問いが大きく立ちはだかるのです。
作品は淡々としています。その淡々さにつられながらも、ふと気が付くと、主人公の男の苦悩がするっと顔を出したりします。しかし、「醒めた目で自分を見ている」というような表現では伝えきれない、「乾き」があるのです。ニヒリズムなのでしょうか。そう簡単にカテゴライズするべきではないでしょう。
作品が描かれたのは1980年代半ばですので、多くの日本人は成長と中流の豊かさを享受していました。しかし、書けない漫画家である作者は貧困のなかにいます。周囲に現れるのも貧乏で一風かわった人ばかりです。つげさんにとっての「貧乏」とは何か? もし会うことができれば一番聞いてみたい質問です。
こういうことではないかと思い至りました。「貧乏」は概念ではなく「実存」だということです。働くことができなかったり、働き口がなかったり、借金を背負ったり、会社が倒産したり、人が貧乏になるコースはいろいろとあります。しかし、貧乏になったとき、それは物理的な重さや形のある「実存」として人間は認識するのではないかと思いました。
貧乏をつらいのです。昨今、貧乏を礼賛するような言説も注目を集めていますが、やはり貧乏はつらく寂しいのです。そして心が乾ききってしまうのです。つげさんの作品はその「実存的な事実」をレポートしているのではないかと思うのです。
貧乏や貧困の問題が大きなテーマになっている現在、つげさんの描く「貧乏」は、貧乏を軽々しくファッション化する傾向への、強いアンチテーゼとなるような気がします。だからみんなまじめに働いてお金を稼げ、とは言いませんが、本当の貧乏のことを、まずつげさんの作品から教わってみるべきだと思います。
大阪で闘った朝鮮戦争 吹田枚方事件の青春群像
2004/07/18 14:28
埋もれた歴史を発見、人間ドラマに圧倒される
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
大阪・十三に「一平」という、在日の老夫婦が営んでいる焼き鳥屋さんがある。焼き鳥だけではなく、韓国(朝鮮?)家庭料理も出している。個人的な経験で恐縮だが、焼き鳥が本当においしくて、大阪に住んでいたころ、時々行っていた。このマスターの夫徳秀さんが、こんな激烈な過去を持っているとは知らなかった。
本当に凄い本だ。ジャーナリスト魂にあふれた素晴らしい仕事と賞賛したい。
1952年に朝鮮戦争への反対闘争として二つの事件があった。ひとつは、労働者・学生・在日朝鮮人が、吹田で大規模なデモ行進をした吹田事件。もうひとつは、枚方の旧陸軍工廠でダイナマイトが爆発したのが枚方事件である。吹田事件では大量に逮捕されて、十年以上の裁判闘争の末に騒擾罪では無罪になるのだが、事件の真相については当事者たちがあまり語らず、いわば闇の中にあった。
著者は毎日放送の記者で、在阪のマスコミ関係者たちと吹田事件研究会というものをつくり、勉強会や証言者探しを共同で行う。夫徳秀さんは吹田事件のリーダーの一人なのだが、最初は事件のことを語ろうとしはしない。しかし、研究会の熱意にうながされ、重い口を開いていく。
事件が当時武力闘争路線をとっていた共産党の指導で動き、その後路線変更した共産党が事件の被告を見捨てていくことなどが明らかになっていく。共産党の学生リーダーがイムジン河のプロデューサーだったり、詩人金時鐘もデモに参加し、研究会をきっかけに済州島の四・三虐殺の証言をしはじめるなど、衝撃的な事実もある。
歴史的発掘のみならず、事件の後の人間ドラマも、胸を打つ。吹田事件の被告のなかで、ひとり「転向」(といっても仲間は売っていない)した活動家がいた。本人は釜ケ崎の労働者となり、実家の寺に預けられた息子は、吹田事件の関係者の家族として、左翼への風当たりがきつい大阪・泉州で「決して目立たない」ことを子供から選ぶという痛々しい人生を送り、世界放浪の後にようやく仏教的な精神の安寧を得るなど、歴史がさまざまな人の生き方を変えていったさまが、じつに丁寧で情熱のある取材で明らかになっていく。
日本人そして在日の若者たちが、歴史とたたかい、そして運命に翻弄されていった青春の重みに圧倒される。
マンガの深読み、大人読み
2004/09/26 03:46
盛りだくさんのマンガ論
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とても盛りだくさんの本である。さらに、著者がマンガ論という、その市場には似合わず発展していない分野で、ひとりで何役もこなす獅子奮迅の活躍をしているのだと、強い尊敬を覚えざるを得ない。なにしろ、マンガ独特の文法(コマ割りや図像論)、『巨人の星』『あしたのジョー』の作者や関係者へのインタビュー、輸出文化としてのマンガ産業論など、批評家、インタビュアー、ジャーナリストの仕事を一人でこなし、それぞれが高い水準をクリアしている。論があり、歴史の発掘があり、産業としての将来への考察もある。それぞれは分量的にあっさりしていて、本来はもっと大部のマンガ論になってもいいのだが、著者自身がいまもマンガへの視点が拡散、深化しているようで、過渡的な作品として出版したようだ。
過渡的とはいえ、随所に鋭い指摘が満ちている。興味をひかれたのは、70年代における少年漫画の劇画化=大人への成長物語へのマンガの変遷だ。手塚治虫は子どもマンガ的な楽園性へのあこがれを持ち続けつつも、『ブラック・ジャック』などへの劇画化を避けることはできなかった。子どもマンガの登場人物は成長しないことが約束である。ドラえもんののび太は成長はしない。ところが、『巨人の星』『あしたのジョー』は、ストーリーにおいても絵の表現においても主人公は成長し大人になっていく。それが高度成長期の青年の共感を呼び、一方では市場の拡大をするのだが、アングラ的表現であった劇画がメジャーの中心を撃つという現象は、よど号事件の「おれたちはあしたのジョーだ」発言や寺山修司が扇動した力石徹の葬儀など、マンガの「社会化」の道筋をつけた。
本書で取り上げられている作品は80年代の『ドラゴンボール』ぐらいまでである。キャラクター化してしまった90年代のマンガ・アニメ状況は、著者は語っていないが、どうやら断絶があるようだ。著者が近代以前の黄表紙などとの同質性よりも断絶を強調するように、マンガは近代の所産である。しかし、狭義の「近代」のマンガはすでに終わり、ポストモダンのキャラクター文化になったということか。
『あしたのジョー』論は圧巻の出来だ。著者は再読後に、力石徹が死んでからの方がだんぜんストーリーが面白くなることに気づく。力石の青年への成長が主人公の丈に乗り移り、そこからが丈本人の成長のスタートになる。しかしその成長は明るい物語ではなく、運命や死の陰影にいろどられている。表現論的にも力石が致命傷となった倒れ方と、後の丈のダウンの仕方が酷似しているというのは説得力がある。力石から引き継いだ「青年の美学」によって丈は、運命との絶望的なたたかいに挑み、そして燃え尽きる。それゆえにこの作品は時代を超えて神話化していった。
私が『巨人の星』を再放送でみていたのは70年代後半だった。子供心にこんな頑固オヤジが子どもを支配する時代がかつてあったのかな、と思っていたのだが、意外にも当時としても、それはフィクショナルな設定だったという。つまり高度成長期の父親は仕事に追われ家庭をかえりみない。おっかないけれど、強い父親がそばにいることは子どもの読者に満足を与えると作者側は考えたのだという。すでにアナクロだったのですね。
意外ついでに、星一徹が卓袱台をひっくり返したのは、実はたった一回だけだったそうだ。一方、原作者・梶原一騎(高森朝雄)の妻へのインタビューによると、梶原一騎はしょっちゅう卓袱台をひっくり返していたそうである。
ドリーム・キャンパス スーパーフリーの「帝国」
2004/07/30 20:18
若者の「荒れ野」を見事に浮かび上がらせた
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スーパーフリーのことなど語るに落ちる、まだバブルの狂宴のようなことをしているには時代遅れだな、と事件の発覚の時に思った。しかし、本書を読み終わって、スーパーフリーに吸い寄せられた若者たちが、「割れ鏡」(著者)のように現代の精神の荒野を映しだしていることが分かり、愕然とした。
丹念な取材で浮かび上がってくるのは、つまり「スーフリとはオウムである」ということにつきるのではないか。著者も大澤真幸の「虚構の時代」論を引いているが、目標や実感をうしなった若者たちが魅せられたのは、オウムの場合「教義」だったように、スーフリでは「カネと女」だった。オウムが「救済」をねつ造をしたように、スーフリは「女とやりまくる」という夢をねつ造した。
オウムはさまざまな方法で同化させ服従される「儀式」を行ったが、スーフリの場合、それは輪姦という行為だった。和田真一郎は法廷で、輪姦をしたのは、変態性欲ではなく、「仲間を楽しませ、つなぎとめるためだった」と言っている。それまでおたく的だったメンバーの一人がセックスができるということで、スーフリの地獄に堕ちていったりもした。
また隠語の充満もオウムを思い出させる。強姦は「無理打ち」であり、和姦は「和み打ち」なのだという。セックスをさす「打つ」という言葉が、どこかオウムの「ポア」をほうふつとさせる。
オウムのどこかうらさびれた感じと、スーフリはまた似ている。「まがい物」感である。「さらなる高みを目指す」というのが、せいぜい毎月ヴェルファーレでパーティをすることだったり、女の子たちを集めるための芸能界とつながっているようなイメージをつくっていたことなどだ。「スーフリってなんか芸能界にもコネあるみたいだしい」と女子大生は言うが、実態は芸能界の末端とかろうじて面識がある程度である。学生ローンをメンバーに強いて、パーティを続けようとする姿は、情けないということを通り越して、うらさびしい。
しかし、そうしたうらさびしさは、この社会もメディア状況の映し鏡であることは間違いない。道徳家を気取るつもりはないが、著者がふんだんに手に入れたスーフリのチラシや、関係者の男女の証言をみていると、彼らはまさに、民放テレビ的な「まがい物」文化をみずからのリアリティーと感じているのだ。芸能人のばか騒ぎ、恋愛とセックス、うそくさい癒し。そして実はもっとも如実にその正体を示しているのが、深夜に垂れ流されるサラ金のCM…。その殺伐した世界が、当然に生み出したのが、スーフリだった。
スーフリ本人たちの罪が重いのは言を待たないが、もっとも指弾されるべきは、彼らのパーティに協賛した企業、そしてそれをつないだ代理店だろう。すべてをマーケットとして世界を捉えたときに、どれだけの倫理と正常さが失われることか。
「荒れ野」を描き出したという点で、出色のルポルタージュ。ほぼ同じ年の和田を自分のことと対照しながら考えていく姿勢も誠実さがある。
アダルトメディア・ランダムノート
2004/07/19 12:22
文明批評としても興味深いアダルトビデオ論
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「噂の真相」の読者には、エロの世界の現在を報告した名物コラムとして記憶に残っているだろう。連載で読んでいた時は、アダルト業界というなじみがない世界の動向ぐらいにしか感じなかったが、こうして12年分を通して眺めると、アダルトビデオの歴史が「男の欲望を映す鏡」として非常に興味深いことが分かる。きわめて文明批評的な読後感があると言ってもよい。
浮き彫りになるのは、男の身体がだんだんと「受動的」になっていく歴史だ。エロ劇画、ピンク映画、初期のアダルトビデオで表現されていたのは、極端な場合にはレイプという表現方法をとる、男の暴力性である。女性を支配し、組み伏せることにエロスを見いだしていく傾向が強かった。しかし、90年代以降、男のエロスの傾向に劇的な変化が起きる。著者はいくつかのメルクマールを挙げる。それは「性感」(90年代前半)→「痴女」(半ば)→「筆おろし」(後半)→「熟女」(現在)というブームの流れだ。
性感というのは、女性が男性の肛門に指を入れ前立腺を刺激し、性行為やオーラルセックスという過程を経ずに射精に至らせるというものである。男はなすがままであり、主体的身体からの乖離していく。「痴女」は。女性が受け身のセックスではなく、淫乱という形をとって主体的に性に没入する姿が描かれる。性行為は行われるのだが、男は女が主導するセックスに身を任せることになる。「筆おろし」とは、攻撃的な痴女というより、いかに性に練達した女性にやさしく初体験をさせてもらうかだ。もちろん、ビデオを観る側は童貞君を観ているわけではなく、女性の優しさにエロスを感じる。そして、現在の熟女ブーム。性的に成熟しきたた熟女はセックスを存分に享受し、「撮影すらも性感度を増幅させる触媒」としてしまう、おおらかささえある姿として現れて、男はその大いなる癒しに完全に身を任せる。
消費者の欲望を映し込んでいるAVの歴史から読みとれることは、男の身体は受動的になり、「異化」され、「メディア化」されていく傾向だ。そして、著者はその仮説をふまえ、アダルトメディアとして、AVの後に現れる未来像についても興味深い指摘をする。ポストAVとは「風俗」なのだという。引用すると、
「われわれ男性が“現実”と“虚構”(あるいは“妄想”)を実に簡単に切り替えられるようになった、その意識の変化の問題である。風俗店に気軽に通い、恋愛感情を細切れにして女性と交接するとき、われわれは自己の身体が日常と連続しているものとは考えない。まるでスイッチをON/OFFで切り替え宇るように、風俗店の扉を押した瞬間、われわれを別人に返信し、AV男優のように立ち振る舞えるシステムを獲得してしまったようだ。(中略)実は変革されたものは風俗のシステムではなく、われわれの身体そのものだったのではないか。すなわちAVがわれわれを『メディア的身体』の持ち主に変えた−それが最も重要な『ポストAV』現象だったのではないか。」
現在は「平成元禄」といわれるほど風俗業界は隆盛を極めているという。たしかに豊かな社会がひろがり、衣食住のレベルで非日常的な快楽は得られにくい。だから、いきおい性の享楽に向かっていると言うこともできるかもしれない。しかし、おそらくローマ時代や本当の元禄時代だってそうだろう。現代的な特徴として「身体のメディア化」、つまり身体が実体性を失っていく過程だとしたら、その事態をどう受け止めればいいのだろうか。退廃や爛熟という概念だけでは捉えきれない文明的な問題が含まれているかもしれない。
おたく男性の性意識の変化を考察したササキバラ・ゴウ「<美少女>の現代史」(講談社現代新書)とも、きわめて論点がリンクしていると感じる。合わせて読むと、男を取り巻く状況がかなり分かるのではないか。
らも 中島らもとの三十五年
2007/09/03 00:59
愛と孤独がせつなすぎる
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中島らもさんの奥さんの美代子さんが、らもさんとの35年を語った本だ。早逝した希代のトリックスターの夫婦の物語は、あまりにもせつなく、読み終わったあと涙がとまらなかった。
二人が出会ったのは1970年。美代子さんは短大生、らもさんは灘高の3年生。恋愛時代のことは、フランス映画のようにメランコリーでうつくしい。
<高校時代、授業をボイコットし、シンナーを吸い、睡眠薬を飲み、酒を飲み、音楽と活字に耽溺して毎日をようやく生きのびていたらもは、誰から見ても将来に何の希望も抱いていないのは明らかだった。心の中に大きな虚無が巣くっていたらもは、不安と、怒りと絶望の塊だった。>
そんならもさんが、美代子さんに一目ぼれする。美代子さんはお嬢さんだったが、中2で初体験をすませたすすんだ娘。一方、らもさんは突っ張って頭でっかちで、うぶだった。
<私が風邪で寝込んだとき、…らもはガイコツの灰皿をはにかんで差し出した。お見舞いにガイコツの灰皿というのもどうかと思うが、らもは大真面目にそれを選んできた>
<その年の暮れ、私はらもに連れられて、一軒のラブホテルの入った。らもの実家の二軒隣にある「喜楽」だ。「何でここにしたの?」「ここしか知らなかった」 こういうところは、らもは、ほんとにピュアというか衒いがないというか、子供っぽい>
らもさんらしいエピソードだ。鬱屈した優等生のおぼっちゃんは、どんどんドロップアウトしていくけれど、彼女との恋愛が若き日のらもさんのすべてだったのだろう。ヌーベルバーグ映画のように、自分勝手で理屈っぽくて、でも自由な青春が輝いている。
しかし、らもさんが世にでていくにつれ、二人のあいだには泥沼のようなものが広がってくる。面白いもの、あやしいもの、わけのわからないものを無防備にのみこんでしまうらもさんと、美代子さんのある意味でのいいかげんさが泥沼のまねきこんだのだろうけれど、あまりにも痛々しい。
解放区のようになったらもさんの自宅では、終わることのない宴がつづいていくが、精神の自由はときに性のほうらつさをともなう。中島家も例外ではなく、いつからか二人がほかの異性とセックスするようになり(というか、らもさんが提案している)、スワッピングのような殺伐な状況もあり、らもさんは自由をいいながら、美代子さんがほかの男性と関係をもてば修羅場となり、二人の心はぎしぎしとぶつかり合っていく。
本の後半は、美代子さんからすれば、らもさんを支配し、利用し、捨てた、わかぎゑふさんへの複雑な思いで占められている。
演劇をやりたいというわかぎさんのために、らもさんは劇団リリパットアーミーをつくるが、楽しかったのは自分のギャグでみたされた最初の3、4作ぐらいで、あとは起承転結のある芝居をつくりたいわかぎさんにひきずられ、お金もどんどんつぎこんでいき、最後は少しのコントコーナーしかない平団員となり、劇団をぬけていく。女帝として劇団を支配するわかぎさんの手前、らもさんは美代子さんをみんなの前で激怒し、わかぎさんも美代子さんをなじる。夫の恋人の話だから、一方的であり、わかぎさんの反論もあるだろうが、なまなましい。
<「延命はしないでください」。私は、らもの最後の願いを叶えるために、先生に告げた>
階段から転落し脳挫傷で危篤となった中島らもさんは、事故から10日後に人工呼吸器が外され、息を引き取った。享年52歳だった。生前、繰り返し自分の死を語り、延命措置はしないでほしいというらもさんの意思どうりに美代子さんは決めた。
わかぎさんとたもとをわかち、ほとんど視力をうしなうような状態で自宅に戻ったらもさんは、美代子さんに口述筆記をしてもらう。ぼろぼろだけれども、美代子さんにとっては晩年の静かな生活がもっとも幸福だったという。
<うん、五十歳を過ぎて、らもと過ごす時間はなんだか静かな輝きに満ちていて、幸福だった。あの七月十六日の未明に電話が鳴るまでは>
この本で、美代子さんはらもさんとの思い出のすべてをうつくしいものととらえようとしている。理由は、らもさんがいかに悪くても、自分はらもさんの才能を尊敬し、愛していたからだという。しかし、行間からは、美代子さんのらもさんへの激しい愛とともに、強い孤独もにじんでいる。
常識からすれば、あまりにもひどすぎるDV夫だし、インモラルな夫婦の物語だ。作家とその妻の特権がはなもちならないという読まれかたもされるだろう。しかし、死後に妻が語ったものさえ、リアルというよりファンタジーのようであるのは、やはり破天荒で才気にあふれ、破滅と死を友にした、ある意味では「最後の文士」だったらもさんならではだと思う。
『西遊記』XYZ このへんな小説の迷路をあるく
2009/12/30 21:51
西遊記を徹底的に「探偵」
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
「西遊記」の解説本と思って購入したのですが、これは「解説」ではなく「解読」といったほうがいいでしょう。さすが中国文学の第一人者で、西遊記を翻訳した方だけあり、まるで探偵のような緻密な推理力で、西遊記という大伝奇小説を探究しています。3章からなりますが、第一章は、三蔵法師、孫悟空、沙悟浄、猪八戒の主要メンバーを考察しています。
なぜか日本のテレビや映画では、故夏目雅子さんをはじめ、深津絵里さんや牧瀬里穂さんら「女優」が演じています。なぜそんな「女々しい」というイメージが出来上がってしまったのか、本書はその考察から始まります。
三蔵法師はインドの向かってお経を手に入れるため長い道のりを踏破したわけですから、いってみれば冒険家です。業績をもとにイメージすれば、強く、いかつい男でも不自然ではありません。著者は莫高窟の石像や昔の図版をもとに、時代ごとの三蔵法師像を探ります。すると、「ハンサムで女々しい」というイメージではない時期もあったことが分かりました。虎を連れたむくつけき法師の姿もあったのです。
詳しい説明は本書に譲りますが、女々しいというイメージになったことは、物語として伝承される間に、従者との関係性から女性的いなっていったようです。力強さは孫悟空に。俗人性は猪八戒になどとイメージが「譲渡」されていったというのが、著者の推理です。西遊記は史実をもとにして、長い間に脚色され、明代に小説として成立するまでに、それぞれがキャラ立ちしてきた、と著者はにらんでいます。
孫悟空については、こう書いています。「『西遊記』を注意深く読んでいくほどに、『孫悟空』はサルかな?という疑問が次々と生まれてきました。そしていろいろ考えているうちに、孫悟空は龍でもあり、石でもあり、金属でもある、と結論づけることができました」。孫悟空にまつわる伝承をひもときながら、孫悟空のイメージの多様性をたどっています。
ほかの2章は「『ならべる』世界」「『もぐりこむ』世界」とユニークなタイトルがついています。なぜ西遊記は、百科事典のように羅列が多いのか、洞窟や瓶のなかかに「もぐり込む」というエピソードがたくさんあるのか、なぜ猪八戒はダジャレばかり言うのか…楽しい話題が続いています。
西遊記は単なる娯楽作品ではなく、「迷路」のようだと著者は強調します。「家一軒を建てるような建築思考なしには『西遊記』の世界は成り立たず、いかにもエピソードを「ならべた」だけの並列構造であるかに見せながら、じつは建築物にも似た緊密な立体構造になっている」という分析をします。
西遊記研究では右の出る人のいない碩学であり著者が、西遊記を「迷宮を探偵のように探っていく」という一冊。読者もわくわくするような迷路・迷宮のなかに連れていかれることでしょう。
安息日の前に
2009/12/25 19:33
現代にこそ生きてくる哲学
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
「沖 中氏の哲学者」と呼ばれたエリック・ホッファー(1902-83)が、晩年に自らの老いと死を意識しながら書いた日記です。ホッファーは長い放浪生活と港湾労働者の生活のなかでテキストを書き続けました。テキストにはそのデラシネ(根無し草)の生活の様子が書かれているわけではありません。ローマの哲人皇帝マルクス・アウレリウスの「内省録」のように、みずからの純粋な思考を記述し、一方で世界について描写しようとしています。
ホッファーの魅力は、最近気がついたことですが、なにごとも「自分なり」に「定義」をしようとする思想的営為にあるのではないでしょうか。彼はほとんんど教育らしい教育を受けていないだけに、知的訓練を受けたインテリのテキストと似ているようで似ていません。かれは、世界で起こっていること、あるいは自分の心のなかに想起したことに、ゼロの段階から「定義」づけをしようと、ノートにテキストをつづっているのでないかと思います。
本書は、1974年と75年の日記が収められています。東西冷戦真っ盛りのころですから、政治的な記述が多いです。なかでも社会主義と資本主義についての考察が目立ちます。
「社会主義社会で暮らしている自分の姿など想像もできない。私の情熱は放っておかれるべきであり、そうしてくれるのは資本主義社会だけである。資本主義は物を支配する理想的な力をもっているが、人間を支配するのは得意ではない。人間は放任されても、それなりに行動するという前提の上に資本主義は成り立っている」
その後、社会主義への批判が続きますが、興味深いのは資本主義を賛美しているのではなく、彼が自分に自由を与えられること、「放っておかれる」ことにもっとも執着をしていて、体制そのものの是非について意見を述べているのではないのです。通常のインテリであれば、社会主義を批判するジャーゴンを持っていますが、彼にはそれがない。それだけにユニークで、類をみない哲学者たりえたのでしょう。
未来がみえないグローバル資本主義のなかで、ホッファー的な「自分だけで考える」という姿勢は必要なのかもしれません。この日記のなかには、まさに箴言というべきものが詰まっています。
大搾取!
2009/12/24 19:12
悲惨なる米国の労働現場
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
日本の労働現場にもひどい搾取やハラスメントが蔓延していると思いますが、この本を読むと、アメリカも労働者に対し随分とひどい扱いをする国なのだな、とびっくりさせられます。著者はニューヨークタイムズの労働問題担当記者で、じつに丁寧な取材によって、アメリカの非人間的な労働現場をリポートしています。
ひどいと言えば、世界にも展開しているスーパーマーケット・チェーンの「ウォルマート」。万引き犯を捕まえたのにけがをして出社できないためにすぐにリストラ、そして驚くべき低賃金。ある町にウォルマートが進出してくると価格競争にならざるを得ず、ほかの良心的な店は苦境に陥ります。ウォルマートの超安売り戦略を支えているのは、低賃金と過酷な労働ですから、怒りを覚えます。
他企業でも、むりやり残業させるために倉庫の外から閉めたり、トイレの時間まで管理して秒単位で減給するなど、「自由の国」アメリカでは、本当に企業が自由を謳歌しています。
本書に深みのあるところは、かつてのアメリカはそんなに労働者に冷たかったのではないと歴史的にたどっていることです。労働組合は、いろいろと問題はありますが、労使協調によって職員の待遇を維持してきました。
別の本で経済学者のポール・クルーグマンも指摘していましたが(『格差はつくられた』、いい本です)、アメリカでは企業が労働者を比較的優遇することで、ボリュームのある中産階級をつくりだし、内需も拡大させていたのです。ところが新自由主義時代になると、大金持ちは一握り、中産階級であっても病気でもすれば貧困層にまっさかさま、それに法律で定められた最低賃金ではとても食べていくことはできないのですから。
日本では、小泉竹中路線がそういう新自由主義社会をつくろうとしましたが、政権交代でいまは一応ストップされています。でも、アメリカの周回遅れで社会が変わる日本ですから、民主党政権であってもどうなるか分かりません。世界の趨勢からは日本とて逃れることはできませんから。
いずれにせよ、絶対にアメリカ人にはなりたくない、と思わせる一冊です。
貧乏人の逆襲! タダで生きる方法
2008/06/17 17:11
楽しく生きるモデルには大賛成
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
ちょうど秋葉原の事件の直後に読んだので、まずはこう考えた。加藤容疑者も高円寺に住んでいれば、孤独じゃなくて、人を殺さずにすんだかも、と。
でも、しばらくして、またちょっと考えた。「高円寺にいても加藤容疑者はああなったかな~」というのが正直な感想だ。
その理由はちょっと後で。
内容はというと、高円寺のリサイクルショップ「素人の乱」を運営し、「貧乏人」のアジテーターとして知られるようになった筆者の、ざっくりといえば「貧乏でも勝手に生きられるぞ!」という“啓蒙書”だ。
本書中で対談をしている雨宮処凜さんの言うとおり「スカッとした本」であることは、私も賛成だ。格差社会は、「政治が悪い」「いや非正規労働が悪い」「いや若者も怠惰だ」など、今風にいえば「上から目線」で語られてしまうテーマなのだが、筆者はわきめもふらず、実践、実践であって、人生そのものがユーモアにあふれている。お上や社会の矛盾はまず笑い飛ばすことが武器だと思う。
安く住む方法、メシ代をただにする方法…ここらへんは貧乏指南としてよくあるとして、おもしろいのは、「町内会とつながろう」と「選挙に出てみる」だった。
自分の住んでいるところで楽しく生きようと思っても、じつは厄介なのが地元の中高年対策だ。「地域を活性化したい」と思う半面、「面白がり」の幅はかなり狭い。「向島学会」なんていうのが典型的だったけれど、かっこつけてよそ者が地域活性なんて乗り込んでくると地元住民と(若い人も含め)主導権争いなんかも起きてしまう。
その点、高円寺の筆者は成功したようだ。実はだれでもうまくやれるはずだとは思う。中高年にも礼儀正しく、オープンに接すればいいのだから。
それから選挙で遊んでしまうこと。これはいままでのきまじめなサヨクの人たちにはできなかったことですね。隣の区で筆者に投票してしまう知り合いとか、最高です。なんだ、投票率を上げるのは簡単じゃないかと、感心してしまった。
いい本だし、悩んでいる人を明るくしてくれる本だと、おすすめします。これはホント。
でも、筆者とその周辺の人たちの方法に少しだけ疑問的も示しておきます。「貧乏人の反乱」にたいしては、大賛成です。家賃がこんなに高いのもおかしいし、雇用構造の変化もひどいことだし、みんなが鬱になっているのもいったいなんなんだ!と思う。
でも、筆者とその仲間をみると、やはりある種の「線引き」をもっているように感じてしまう。その線引きとは、貧乏人の仲間に入るのにも、一定のコミュニケーション能力が必要なのでは?ということだ。また、ある種の「政治性」も気になる。やはり都内の大学の左翼系サークル、中央線沿線のサブカルチャーという揺りかごがあるからできたことなのではないかと思う。
あえて加藤容疑者をひっぱりだすことはいけないかもしれないが、ああいう人は、筆者の仲間に入れただろうか? 楽しそうなつながりだけど、自分に「ネタ」がないと尻込みする人は多いような気もする。これは難しい問題。
でも、格差社会を食い物に貧乏人の味方のようにアジる大学の先生とかに比べれば、とっても健全な人だと思う。
って、私も「上から目線」か…。
読む価値はとてもある本だと思います。だって、いまの世の中で楽しく生きるモデルを示しているのですから。それは大変すばらしいことです。
階級社会 グローバリズムと不平等
2004/07/28 23:07
公正な世界を求めるために
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
グローバル・リッチ・リスト(http://www.globalrichlist.com/)というサイトがある。自分の年収をドルあるいはポンド単位で入力すると、自分が世界で上から何%の金持ちなのかが分かるというものだ。サラリーマンである私の年収を入れてみると、なんと上から0.7%だった。そんなに金持ちだったのか。だいたい4万ドルぐらいでも1%には入るという。試しに1万ドルで13%、1千ドルでも44%。世界はいかに貧困が満ちていることか。同時に「世界の大金持ち」である自分の立場に複雑な気分になってくる。
本書でも、「グローバル・リッチ」について言及されているが、もちろん私などとはレベルが違う。現在の貴族階級とは何か。「ITや生命科学、その他の最近の技術開発の恩恵に浴したニュー・リッチ、スポーツ選手やメディア関係のスター、ミュージシャンやタレントなど」である。その下位に多国籍企業の社員や官僚など「力を得て急増するグローバルなミドルクラス」も存在する。本書が的確に言い当てている現代的特質とは、たとえば芸能人やスポーツ選手という「ドリーム型」の成功モデルは、アンダークラスから「闘争」の契機を奪う「装置」であることだ。アメリカが欧州とちがって階級が強く認識されなかったという歴史的事実が示すように、「ドリーム」は、巧妙に階級の存在を隠蔽していくのだという。
一方で、貧困は暴力的に圧倒的に拡大し、そして貧富の差は固定化の度合いを強めている。それは発展途上国だけの問題ではなく、先進国の国内でも「アンダークラス」と呼ばれる人たちが増大している。
しかし、彼らは不平等に対して、政治的な行動はとらなくなった。ひとつには社会主義の失敗で階級闘争的を志向する勢力が壊滅的に後退したこともあるが、さらに高度消費社会としての特徴も見逃せない。「貧者は富者のイメージに合わせてその姿を変えつつある。彼らは、何を買うか、何を持つか、どのようにカネを遣うかについて、どこにいても執拗な広告、同じ勧誘に晒されている。彼らの欲求は煽られる。彼らの現世での現世での物欲はかき立てられる」。しかしながら、「貧者にとっては、市場に参加するためのカネは手の届かないところにある」のだ。
中産階級が多いとされた日本も例外ではないだろう。フリーターなどの労働市場での弱者は増大しているし、また地方の荒廃は著しい。それでいて、地方都市の郊外にでてみると、ジャスコとマクドナルドの巨大な店舗が並び、覇気のない家族がハンバーガーを囲み、偏食という「飢餓」のなかで、病的な肥満の姿をみせている。これは、日本のアンダークラス、あるいは予備軍の絶望的な風景ではないか。
アカデミズムの中でも、「階級」は「階層」と言い換えられ、「不平等」という抽象的な概念によって、貧富の差が語られていく。著者が言いたいのは、それが「まやかし」だということだ。階級はマルクス主義が敗北しても、厳然として存在するし、さらに絶望的なことに、そのことに対する異議申し立ては、かつてに比べはるかに弱くなっている。「左翼の歴史的課題が無効になったからといって、公正な世界を求めて活動する人々が幻滅することはない」と著者は訴える。「たとえプロレタリアート独裁が死を迎えたとしても、それはおそらく、人類の幅広い解放のために道を譲っただけのことである」とも。それは宣言に過ぎないとしても、耳を傾けるべき言葉である。
さて、「世界の大金持ち」である私が、左翼でいられるにはどうしたらいいか。弁解じみるかもしれないが、やはり公正さに対する想像力と、できる範囲での行動しかないとは思う。
ロッキン・ホース・バレリーナ
2004/07/17 19:44
青春ロード・ノベルのスマッシュ・ヒット
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
いやーサイコーでした。大槻ケンヂ、ありがとう。
あとがきで想定読者のひとつである「かつてのバンド少年、ところが気がついてみたら『えー? ○さん昔バンドやってたんスか? しんじられない!』と若いもんにきっぱり言われてしまったロック・オヤジの皆さん」のひとりとしては、堪能しまくりました。 読了後、ツェッペリンの「天国への階段」を聞いて、弾いてしまった。楽器店で試奏しよっかー。「天国への階段」禁止でも、あはは。
「十八歳で夏でバカ」。ギターの耕助、ベースのバン、ドラムのザジのパンクバンド「野原」は、おんぼろハイエースにのって初めてのツアーに出る。マネジャーは、「目的は金だー領収証きっとけー」と叫ぶ三十八歳の得山。旅の途中で巨大花「ラフレシア」にみえたゴスロリ少女の町子を拾ってしまう。キレた少年少女とキレたオヤジの、ドタバタ珍道中。やがて野原にのメジャーの魔の手が忍び寄り、「ツアーでガンダムを集めるように女とやりまくる」はずだった耕助と、「博多でビジュアル系バンドのメンバーに食われに行く」はずだった町子の二人の間には…。
バカバカしくも、やがて切ない青春ロード・ノベル。いまの若者の描写だけではなく、80年代の青春を経験した「オヤジ」のセンチメンタルもあり、それが奥行きを出している。
甘酸っぱさが欠乏している人には、是非。