アルテミスさんのレビュー一覧
投稿者:アルテミス
紙の本
紙の本スターリーテイルズ DIGITAL FINE ART
2003/10/05 08:09
レイアウトをした人に拍手。
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
KAGAYA氏はラッセンやシム・シメールの絵が好きな人ならきっと好きになるだろう日本人画家。ジグソーパズルなどでおなじみの人もいるかもしれない。美しい色彩で、天体とギリシア神話のキャラクターとを重ね合わせて描く人である(ちなみに、本書にはアルテミスの絵も載っている)。
この画集を手に取ったとき、実はちょっと危惧があったのだ。オリジナルの絵の方を知っていたので、あのサイズが大きく描写の緻密な絵をこのサイズに印刷したのでは、細部がつぶれてしまうんではないかと。
表紙を開いてみたら、全体図の他に細部拡大図(というか細部実物大図?)がふんだんに載っていて、わたしの危惧を無用のものとしてくれた。おかげで本書はKAGAYA作品の魅力を堪能できるものとなっている。
が、全体図と細部図とに同じようにページを割くということは必然的に掲載作品数が少なくなるということである。最後のページを繰ったとき、あれ、これだけ?という感じがしたことは否めない。ページ数を増やすという手段もあるわけだが、知名度の高さがよほどのレベルに達した画家でないと、分厚い画集は売るのが困難だろう。
ともあれレイアウトをした人(画家本人か編集者か造本デザイナーか知らないが)に拍手。
最後に、評価が星三つなわけを。星が減った理由のひとつは、上記の「あれ、これだけ?」という食い足りなさ。もうひとつは画風が最初に述べた二人に近すぎるので、もう少しオリジナリティが欲しいということ。画風が私の好みと外れるということでもうひとつ減らそうかとも思ったのだが、そういう主観的な理由では申し訳ないので結局星三つ。蛇足だが、私の好みと外れるということは作品の優劣を意味しない(私はルノワールを嫌いだがすごいと思うし、すごいと思うが嫌いである)。
紙の本
紙の本秘密 トップ・シークレット 2
2003/10/03 00:25
面白い。だけど…。
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
清水玲子さんといえばほとんどの作品がSFなのだけれど、どうもいくつかの短編を除けばSFを読んでいる気がしない。
面白くないわけじゃない、というより面白いんだけど。
このシリーズも、MRIスキャナーという新しい技術に初めて接した人間の戸惑いを描いた1巻の第1話はSFの秀作を読んだ気になったのだ。が、第2話では確立された技術に対する初心者の葛藤にとどまり、この第2巻ではもはや単なる舞台装置となってしまった感がある。
しつこく言うが、面白いとは思っているのである。ただし、その面白さがストーリーテリングのうまさによるものであって、いわゆる「SFマインド」によるものではないのだ。
舞台設定はSFだがストーリーはSFでもなんでもない作品しか書いていない漫画家には、始めからSFマインドを期待していないので素直にストーリーを楽しめる。だが、清水玲子さんの場合、時に「やるなあ」とうならせてくれるSFを書かないわけではないので、もどかしくなってしまうのである。
デビュー以来この著者の作品発表の場のほとんどが少女漫画誌(それも、読者年齢層があまり高くない)であったので、ストレートなSFが編集者に歓迎されなかったとは推察できる。
漫画家を契約で縛りこんで、本来あるべき作風を自誌向けにたわめてしまう日本の漫画出版界の問題点が清水さんにも及んでいるのだろうか。それとも、もともと主眼がストーリーテリングに向いていてSF設定はその手段でしかないのか。
かつて、ひょっとしたらこの漫画家は少女漫画家の枠を超えて、SF漫画家として大化けするかもしれない、と期待していたのだが。
できれば、初期の短編「ノアの宇宙船」や、このシリーズの第1話のような、これぞSF、という感じの短編集にチャレンジしてみて欲しい。
紙の本
紙の本奥多摩・奥武蔵・秩父人気の山50 日帰り&山小屋泊 2017
2017/12/10 19:21
初心者には手頃。ただし、更新できていない地図があるのは問題。
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
こちらの本の旧版である2010年版を愛用していて、奥多摩は行ったことがないが、奥武蔵・秩父は28コース中ほぼ半分を歩いている。同じコースを2度3度と歩いていることもあるので、本書の利用頻度は高い。
とはいえ前記の通り奥多摩のページは開いてみることもまれなので、以下の評は本書の後半の奥武蔵・秩父についてのものとして読んでいただきたい。
掲載の地図の標高線は薄い色で見づらいが、最近のガイドブックでは廃止の傾向のある高低表がついており、コース中どのあたりが急な坂になるのかがぱっと把握できる。
ガイドブックとは別に地図を持つのが基本ということを考え合わせれば充分である。
コースの説明も過不足なく、また入手も容易なので初心者には手頃である。
さて、旧版と新版との違いで最も大きいのが次である。
旧版で「飯能アルプス」と紹介されていた25番のコースが、「子ノ権現」と名称を改められ、コース中の「板屋の頭」「高反山」「六ツ石の頭」と固有名詞で紹介されていた地点がそれぞれ「522mピーク」「532mピーク」「540mピーク」と愛想のないものに変わっている。
まあ、飯能アルプスといえば天覧山から天覚山、大高山、子ノ権現、伊豆ヶ岳をへて正丸峠までのロングコースであるので、その一部でしかないこのコースの名称を改めたのはわかる。(飯能アルプスのうち、前坂~子ノ権現間は歩いていないので固有名詞の数字化の理由は不明。)
一方、改訂していなければならないのに旧版のままの地図がある。
26番の「関八州見晴台」のものだが、上記25番の地図ではちゃんと「休暇村奥武蔵」と変更されている施設(経営が変わり2013年に再オープン)が、こちらでは以前の「奥武蔵あじさい館」のままだ。また、廃業となった黒山温泉もそのままである。
他のコースでは本文に変更がないのに地図の中の文字だけの訂正がなされている箇所もあるので、修正できなかったはずはない。
本書の前年に改版された山と渓谷社の「分県登山ガイド10埼玉県の山」ではむろん「休暇村奥武蔵」とした上で、「以前は奥武蔵あじさい館という名称だったので、道標には旧称が残っていることがある」とあるくらいなので、これは手抜きと言っていいだろう。あるいは、製版の際の地図の差し替えもれか。
この更新もれが登山者の危険に直結することはないと思うが、街歩きのガイドブックであれば多少の情報の古さが危険となることはなくとも、山歩きの際はそうでないことがあるので極力最新の情報を入れるよう心がけるべきであり、こうした手抜き、あるいは不注意は厳に改めて欲しいものである。
紙の本
紙の本魔宮の攻防
2004/01/02 13:41
本文に対する評ではなくイラスト評です。星の数もイラストを対象にしています。
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
いつもグインの新刊を手にすると、イラストを見る間も惜しんで一気に読んでしまうので、はじめて読んだときには気づきませんでした。正月休みの間に本棚を整理していて、ついパラパラとめくったときに(これだからなかなか片付かない)おや? と思ったのです。
丹野さんの絵は、単に絵としてみる分には好きです。が、パロの町並みが本文の描写とちょっと違いませんか?
架空の世界の建築様式をうんぬんしても仕方がないのですが、口絵の正面に描かれている建物はどう見てもルネサンス様式、でなければそれよりも更に後の時代の新古典様式でしょう。
ひとつ前の90巻の表紙もよく見れば、背景の町並みに並ぶクーポラ(丸屋根)は、ルネサンスの都フィレンツェを思い起こさせます。
物語がヨーロッパ風異世界を舞台にしているので、ヨーロッパの町並みを参考にするのは妥当だと思います。が、参考にするなら、文化程度が近い時代を参考にすべきでしょう。
ルネサンス期は、まだまだ中世を引きずっていたとはいえ、人間の知性というものを肯定的に捉え、宗教に縛られていた人々の意識を理性にもとづくものへと変えさせて、近代を準備した時代でありました。
魔道と魑魅魍魎の実在を人々が疑っていない(まあ、物語の中では実在しているわけですが)世界の町並みとしては、ルネサンスは不適当だと思います。
本文にも塔が立ち並ぶ様子が描写されています。これは、ルネサンスよりも前のゴシックの時代のものでしょう。
繰り返しますが、独立した作品と見る分には、丹野さんの絵は好きです。
しかし、本というものを総体的に見るとき、装丁が重要であることに異論を差し挟むつもりはありませんが、主であるものはやはり本文であってイラストは従です。従であるべきイラストに従でない部分があるのは、欠点と判断されるべきでしょう。
もっとも。
イラストはイラストで独自の世界を構築することによって、本文と競い合って物語世界を拡大させてゆく、という効果をもつ場合もあることはあります。
天野喜孝さん描く、イスラム世界のミナレットのような塔を持つ未来都市のごときクリスタル・パレス(23巻口絵)を最初に見たときには、正直な所これはないだろう、と思いました。
しかし、この物語の世界は私たちの住む地上のどこにも存在したことはないし、これからも存在することはない。ならば、実際の建築としてはありえない、夢想をそのまま描き出したような宮殿も、またよしと思うようになりました。
ただし、その域にまで達するには、本文に負けないだけの確固とした世界を構築しうる創造力と技量、本文とのつばぜり合いを演じることへ覚悟がなければなりません。
そのどれが欠けていても、上記の効果は望めないでしょう。
創造力と技量の有無は横に置くとしても、丹野さんには、自らが創造したグイン・サーガ世界をもって、栗本さん描くグイン・サーガ世界に真剣勝負を挑むつもりはあるでしょうか?
それがないのならば、本文から外れた描写を持つイラストは、やはり欠点を持つものと言わざるを得ません。
紙の本
紙の本山師カリオストロの大冒険
2003/10/19 13:08
怪盗ルパンでもルパン三世でもなく、実在した「カリオストロ伯爵」の生涯。
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
おそらく、カリオストロという名に聞き覚えのある人はたいてい映画版のルパン三世からで(私もその口である)、残りの大半は怪盗ルパンであろう。実在した「カリオストロ伯爵」について知っている人はほとんどいないのではあるまいか。
しばらく前、チェーザレ・ボルジアの事跡を追ってイタリアはロマーニャ地方を旅した、その事前調査のとき。あまりメジャーな観光地ではないので(日本人にとっては)、この地方に関する記述のある本が乏しくて難儀したが、そのひとつにカリオストロについての記述があった(「イタリア歴史の旅」朝日選書444)。
それによると、カリオストロとは新興宗教の教祖のはしりのような人物で、マリー・アントワネットの首飾り事件に巻き込まれ、最終的にはローマ法王庁から終身刑の判決を受けてサン・レオの監獄で獄死した、ということらしい。
私はどちらかというとサン・レオの城塞についての描写に惹かれて足を伸ばしたのだが、カリオストロの入れられていた独房を実見して、その狭さと窓の小ささ、むき出しの石積みに、こんなところに入れられていた人って、いったいどんな人物だったのだろうと興味を持った。
で、本書である。
タイトルだけ見ると実在の人物に材をとったピカレスクロマンかと思ってしまうが、そうではない。
残っている資料を丹念に調べてそれを客観的に構成してあり、自称カリオストロ伯爵、本名ジュゼッペ・バルサモの生涯がわかる限りにおいて追えるようになっている。
ところが、その業績がどうも支離滅裂である。
一目ぼれした美貌の妻を結婚直後から娼婦として仕込んで女衒と化す、各地の宮廷やサロンに神秘の霊能者として入り込んでは金を巻き上げる一方、奇跡の医者として庶民の病を無償で治してやる。フリーメイソンとかかわりがあったのは確かなようだが、その主要な構成員であったようでもあるし、組織の指令で動く末端の実行者に過ぎなかったようでもある。首飾り事件に関してはどうやら濡れ衣らしいがやりかねない人物と目されてもいて、その一方、収監されたカリオストロを救おうとバスチーユに庶民が集まったのは、結果的に、数年後に勃発するフランス革命の予行演習となった。
それで、私の一番知りたい、結局のところどんな人物だったのか、となると。
書いていないのである。
少なくとも、著者の見解として明確に述べることはしていない。300ページ近くを費やして書かれていることは、わかる限りの当人の言動、および当時の社会のカリオストロ評価の賛否両方、の羅列なのである。
どうして独自の見解を展開することをしていないのだろうと思ったら、その理由があとがきにあった。
聖人と悪人との両方が同一人物の中に同居し、それはあたかも表をたどっていたら裏へ、再び表へとたどり着くメビウスの輪のような共謀共犯関係であった、という。アイデンティティーというものに固執しては得られない肖像の持ち主だったということらしい。
はたして、カリオストロ伯爵という偽名でヨーロッパ中を妻とともに渡り歩いたジュゼッペ・バルサモなる人物は、善も悪もともに成した巨大な個性の持ち主であったのか、それとも、口の回転がよくたまたま時流に乗っただけの卑小な詐欺師に過ぎなかったのか。
実像をつかもうとすれば、途方にくれるしかなさそうである。
紙の本
紙の本ミラージュの罠
2007/08/12 11:24
「目指せ一般市民」はそろそろあきらめたらどうだろう。
11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
『デルフィニアの姫将軍』以来、「王女グリンダ」「デルフィニア戦記」「スカーレット・ウィザード」「暁の天使たち」そして現在の「クラッシュ・ブレイズ」とシリーズ名を変えながら続いてきた一連のシリーズ。
40冊以上に渡って続いてきたのは、作品にそれだけのパワーがあり、また、それが読者に支持されてきたからだろう。
だが、15年も読み続けてきたファンとしては、「クラッシュ・ブレイズ」となって以降の作品の停滞に残念でならない。
それ以前のシリーズには、大団円に向かうべき流れがあった。
「デルフィニア」では大華三国平定。
「スカーレット」はクーア財閥の掌握。
「暁の」ではキャラクター全員の復活。
しかし、「ブレイズ」にはそれがない。
最大の原因は、リィと、そして著者が「目指せ一般市民」にこだわっていることにある。
キャラクターのパワーが命のキャラクター小説で、主人公が一般市民となって埋没していく大団円などありえないだろう。
人の情緒の変転を深く描き出す純文学作品ならありえてもだ。
結果、悪人たちが主人公たちにちょっかいを出しては撃退されるというパターンの繰り返しとなる。
私が今のところ「ブレイズ」でもっとも面白いと思っているのは『ヴェロニカの嵐』なのだが、これが面白いのは、リィが誘拐犯と対決する話ではなく、無人惑星に置きざりにされた学生達の中でリィが久々にリーダーシップを発揮する話であることにある。
「目指せ一般市民」はそろそろあきらめたらどうだろう。
紙の本
紙の本舞闘会の華麗なる終演 暁の天使たち 外伝1
2004/04/02 08:30
読んでいる間の楽しさなら星3つ。読後に評価すると星1つ。しょうがないので星2つ。
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
困ったものだ。
茅田作品をずっと読んできた人なら、読んでいる間はたのしいし、事実私は数箇所で笑った。
しかし、同人誌でもあるまいに、舞台裏というか内輪ネタというか、前巻で書き落としたこぼれ話だけで1冊書いてしまうというのはいかがなものか。しかも1冊では書き足りなくて、まだ出すつもりであるらしい。
著者が空想の中でキャラクターと遊ぶのはいくらでもやって欲しい。著者自身が遊べないようなキャラクター小説は、読者にとっても楽しくはないだろうから。
しかし、それを垂れ流すのは、プロの作家のすることとは思われない。
本編のストーリーと離れたところでの登場人物の物語という、「ちゃんとした外伝」ならばいくらでも書いていいと思う。が、本書は別のストーリーが展開するわけでもないし、既出のキャラクターの意外な側面が現れるわけでもない。
読んでいる間の楽しさも、既刊とくらべてレベルが低い。
当然である。茅田作品の面白さはキャラクターの暴走の爽快さにあるのに、本書は暴走の後始末のみで構成されているからだ。
たちが悪いのは、こぼれ話だけでもそこそこ楽しいことである(既刊よりは落ちるにしても)。
「楽屋ネタはいい加減にしろよなー」と文句を言いつつ、また読んでしまうであろう自分が想像できるからだ。
まったく、困ったものである。
紙の本
紙の本ハリー・ポッターと賢者の石
2004/03/20 13:32
この作品の大成功は、ファンタジー界にはマイナスだった。
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
流行り過ぎてると読む気をなくすという性分のせいで、この本を読むのが遅くなった。
で、遅ればせながら読んでみて。
しまった、もっと早く読むんだったとは、残念ながら思わなかった。
いや、流行っているだけのことはある、とは思う。読書嫌いな友人の息子がこれだけは一生懸命読んだ、というのもわからないではない。少なくともページを繰らせるだけの力はある。
子供を夢中にさせる筆力というのも、才能の一種であるとは思うし、その意味での才能は、著者に備わっているとも思う。
本作は、魔法など現実には存在しないが読んでいる間だけは存在するのだと子供をだますことができる、非常に上手い「子供だまし」だ。(この場合の「子供だまし」は、ほめ言葉として使っている。)
でも。
この本に、何か新しいものがあるだろうか?
先人達の創造した数々のファンタジーの名作の、ヴィジュアルなわかりやすい部分だけを抽出して、子供向けに提示しなおしただけのしろものではないか。
子供ならともかく大人でこの本を傑作だと思っている人は、たぶんファンタジーになじみがなかった人なのだろう。
そして、そういう人たちはこの本によって、ファンタジーとは子供向けの本であるという認識を新たにするのだろうな、と思うとがっくりくる。
たいていのファンタジー好きの人は、子供だましな本が好きなんだな、と思われることにうんざりしているのではないだろうか。(この場合の「子供だまし」は、当然ながらけなし言葉である。)
大人も楽しめるファンタジー、という言い方には心底腹が立つ。ファンタジーが子供のものであるという前提に立ってのものであるからだ。
そのせいで、ある程度の年齢に達しないと味わい得ない大人向けのファンタジーの市場が不当に小さくなり、日本人の創作の出版も海外作品の翻訳もされにくくなっているような気がしてならない。
この作品の大成功は、日本のファンタジー界にはマイナスだったと思う。
紙の本
紙の本日本海海戦かく勝てり
2012/05/21 05:31
お二方とは逆の結論に傾いている私だが、本書を読まなければ、日露海戦への興味がこれほど深まることはなかった。
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
この本を初めて読んだのは日露戦争に興味を持ち始めて間もない頃。定説自体が私の中ではまだ定説になっておらず、といって本書にも納得しきれず、丁字戦法の有無の判断は私には出来なかった。
しかし3年ものあいだ史料を読みあさってくれば、多少は自分なりの意見も出て来る。
現在のところそれは、丁字戦法はあった、である。
最初にそのヒントとなったのが吉田惠吾氏の『創出の航跡』であった。吉田氏は、優速を活かした並航戦が敵の嚮導艦を圧迫するのに有効であることをこの著書で証明している。
以来、丁字戦法の有無は、丁字戦法という言葉の定義を、丁字の陣形を描くことと、敵の頭を押さえることのどちらに比重を置くかによって判断することと考えるようになった。
戸高氏と半藤氏は前者を採っているので「丁字戦法はなかった」と言っているわけだが、問題は当事者達がどう考えていたかである。
それは、後者であった。
三笠艦長の伊地知彦次郎が旗艦の戦闘詳報に、「敵ノ前面ヲ圧ス」「更ニ敵ノ前面ヲ圧ス」と繰り返した後に、2時47分「敵艦隊ニ対シテ丁字形ヲ描キ」と明瞭に書いているのである。
この詳報は極秘戦史にも収録されているのだが、戸高氏と半藤氏は何ゆえこれを無視しているのだろう。
また、お二方が重視している奇襲作戦だが、これは当日の天候を見るまでもなく実質廃案であったとする論考も出た。(これを述べた木村勲氏の『日本海海戦とメディア』は、奇襲作戦のほか開戦劈頭の仁川沖海戦でも浅間を派遣するなど、厚い信頼関係があったとしか思えない秋山と八代に不和があったように書くから評価を下げたが、戦策の変化についての論考は検討に値する。)
お二方とは逆の結論に傾いている私だが、本書を読まなければ、日露海戦への興味がこれほど深まることはなかった。読んでよかったと思っている。
付記。
現在、極秘戦史は国立公文書館アジア歴史資料センターのHPで閲覧できる。
また、P97の『朝日の艦橋から見た日本海海戦』は国会図書館のHPの近代デジタルライブラリーで閲覧可能。ただし、正確な書名は『朝日艦より見たる日本海海戦』である。
紙の本
紙の本問題な日本語 どこがおかしい?何がおかしい?
2005/01/10 09:56
目新しい論点はないが、ひとつだけ納得
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
書名の「問題な日本語」とは、「問題があるとして既にあちこちで議論されているような日本語」の略であるようだ。そう思ってしまうくらい、目新しい論点がない。
本書の目的は誤用を指摘することにあるのではなく、なぜその誤用をするようになったかという「誤用の論理」の究明にあるということだが、それも、問題があることに気づくことができる程度の国語力がある人なら、国語学者ならずともしばらく考えれば分かりそうなことばかりである。
本書に意味があるとすれば、議論され尽くしているにもかかわらず、一向に改善の方向に向かう気配のない誤用のうちの代表例を挙げ、原因を整理してわかりやすく提示しなおした、という点にあるだろう。
言い換えれば、本書で挙げられている「問題な日本語」を使っている人々は「え! これ、変だったの?」と驚くかもしれないぐらい頻繁に耳にするようになってしまっている言い方ばかりが並んでいる。
本書の普及で、これらに問題があることが、少しでも認知されればいいのだが。
ただしひとつだけ、本書で「あ、なるほど」と思ったことがある。
「全然」の用法についてである。
「全然」のあとに否定を伴わない言い方に引っかかりを感じる人はまだ多いと思う。数年前まで私もその一人であったが、かつて「全然」は「全く」や「完全に」と同じ使い方をされていたと知ってからは気にしないようになった。
が、ここ半年ばかり明治の文章を集中的に読んでみて、明治時代の「全然」と現代の「全然」とは使い方が微妙に違うと感じはじめていたところだったのである。
それが、本書で解決した。
現代の「全然」は、二通りの用法があり、ひとつは「あなたの思っていることとは違って」という限定で使われるのであり、「全く問題なく」という意味を表す。そしてもうひとつは比較の際に「断然」との誤用で使われる、ということである。
さて、このまま定着するのであろうか、それとも、明治時代の使い方にまで回帰するのであろうか。
紙の本
紙の本チェーザレ 5 破壊の創造者 (モーニングKCDX)
2017/05/28 18:17
あえて低評価
1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
まずお断り。
現時点で、このシリーズは11巻まで刊行されている。
このレビューは11巻までの全体についてのものだが、下に述べるエピソードが5巻のものなので、こちらへの投稿とする。
ほかにレビューが全く投稿されていないのであれば、私は星四つをつける。
高評価の理由は、ほかに既に挙げられている多数の星五つのレビューと重なる部分が多いので割愛する。
ここでは、あえて本シリーズの欠点を挙げて見よう。
絵柄が緻密で重厚なのはこの作品に合っているのだが、しかし、アクションシーンとなるとそれは欠点となり、躍動感が得られない。特に本巻で描かれるような騎馬戦のシーンでは顕著である。
そしてそれはストーリー展開にも当てはまる。
丁寧にエピソードを積み上げて社会の仕組みや国家、人物の相関関係を読者に理解させていくのはよいが、そのため物語にスピード感がない。
一触即発かという緊迫感あるべきシーンであっても時がゆったりと流れているような感じで、一言で言えば盛り上がりに欠ける。
私はこの著者のほかの作品を読んだことがないので、それらがこの著者の作風であり味であるというのであれば、単に私の好みに合わないということなのだが。
ただし、私の好みの問題とは別に、明らかに誤りである記述が本巻にある。
騎馬試合の後のチェーザレとアンジェロの会話、カテリーナ・スフォルツァについてのチェーザレの台詞である。
「果たしてゴンナ(引用注:スカートを意味するイタリア語)をはいた女が城壁をよじ登れるものかどうか
第一あんな所でゴンナをめくられても下からは何も見えやしないぞ
もちろん声だってまともにはききとれん」
私はラバルディーノ城塞の下に立ち、城壁を自分の目で見上げたことがある。
残念ながら非公開であったので中へは入れなかったが、同時代の同規模の城塞ならいくつか見ている。
第一に、カテリーナは城壁を「よじ登る」必要はない。
城壁の中から登ったのだから、彼女は当然、城壁の内部に設けられた守備兵のための階段を使ったであろう。
また、城壁は外からよじ登るのであれば確かに苦労しそうな高さではあるが、ここ一番のハッタリを効かせようという時であれば、高所恐怖症でもないかぎり狭間の上に立つのをためらうほどのものではなく、従って城壁の縁ぎりぎりに立てばスカートの中を見せるのは不可能ではない。
同様の理由で、ある程度の声量があれば城壁下の敵にもその台詞は聞き取れよう。
同時代の人々であればカテリーナのエピソードに無理があれば容易に判断がつくはずであり、不自然と思われれば今日まで語り伝えられることはなかろうと思う。
従って、ここでチェーザレが「風評」と断じている方が間違いである。
巻末の参考文献を見ても、またその内容の緻密さを見ても著者が大変な調査の上でペンを取っていることはよくわかる。
しかし、一般に言われていることに異を唱えるのであれば、せめて現地を見てからにするべきではないか。
これほど力を注いで紡いでいる物語であるのに、不用意に主人公に誤りを語らせたがために、私のこの作品に対する評価は星二つ分落ちた。
以後はこのようなことがないように願いたいものである。
紙の本
紙の本日本海海戦一〇〇年目の真実 バルチック艦隊かくて敗れたり
2008/02/26 03:41
これは書評ではない。告発である。
15人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
私が日露戦争における海戦に関心を持つようになったのは、2004年6月。
ちょうど日露戦争開戦100周年ということで関連本が山のように刊行されていたが、その中で菊田氏の肩書きは目を引いた。
防衛大学校卒。元・防衛研究所戦史部主任研究官。現(刊行当時)・防衛研究所調査員。
こういう著者であれば、当然その内容は信用できると誰でも思うだろう。私も思った。
推測というよりは憶測まで用いて秋山真之を貶める文章の連続に正直なところ嫌悪感さえ覚えたが、それでも、史料に基づく事実として書いている部分だけは、事実なのだろうと思っていたのである。
しかし、こちらに知識がついてから読み返してみれば、著者は前著『坂の上の雲の真実』で『黒船の世紀』を参考文献に挙げながら水野広徳の『次の一戦』を佐藤鉄太郎の著作として一段落を書くという信じられない見当違いを犯しており、また、有名な『三笠艦橋の図』の絵は焼失後に描きなおされたものだが、オリジナルに秋山は描かれていない、などという間違いも書いていた。
(私の所蔵する明治44年刊行の水野広徳の『此一戦』にはオリジナルの写真が載っている。秋山は現存するものとまったく同じポーズで描かれている。)
それでも、前著での誤りは枝葉の部分であり、根幹部分だけはちゃんと史料に基づいて書いているのだろうと思っていた。
著者は本書で、「ロジェストウェンスキー提督の弁明」を根拠に、日本の主力艦隊とバルチック艦隊が会敵したとき、バルチック艦隊は単縦陣であったと書いている。
「弁明」の公表の日付がないのだが、明治39年3月の論評に対する反論であるから、まあ同年の4月頃と見ていいだろう。すなわち、日本海海戦の十ヶ月後頃である。
ところが、ロシア海軍の公式戦史『千九百四、五年露日海戦史』に掲載のロ提督の一年後の陳述には、「アリヨールハ(略)オスラビアノ右舷外ニアリタリトノ事実ハ今日ニ至リテ殆疑イナキモノノ」とあるのである。
ロ提督はなおも、それはアリョールまたは三番艦の過失と言い張っているが、ロシア海軍軍令部はロ提督以外の証言の一致をもって「ロ中将ノ企画シタル陣形変更ガ戦闘開始ノ瞬間ニ於テハ未完了セサリシニ因ルモノナリ」と結論づけている。
著者は戦史研究室にいたのであるから、『千九百四、五年露日海戦史』は当然読めたし、読んだはずである。2作目はロシア側の記述が中心となるのだから。しかし、巻末の参考文献一覧に、同書の書名は無い。自説の著述に不都合だからわざと載せなかったのだとすれば、あまりにも陋劣である。(ちなみに、次作『東郷平八郎』の巻末には載っている。)
また著者は「捕虜の証言を勘案した第四戦隊司令官瓜生外吉中将から、会敵時ロシア艦隊は単縦陣形だったと報告されたが、なぜか秋山参謀はこれを黙殺した。」とも書いているが、私は上記やアリョール乗組の造船技師の手記『捕われた鷲』などによりバルチック艦隊は単縦陣ではなかったと結論付け、瓜生提督の所からはそう見えただけだろうと思っていた。
昨年、『極秘 明治三十七八年海戦史』がネットで公開されていると知って以来、時間を見つけてはそれを閲覧しているのだが、その備考文書として各戦隊、各艦の戦闘詳報が収録されていた。
第一戦隊の六艦の敵の陣形に関する記述は以下のとおりである。
<旗艦三笠>「……先頭ノ二列主力ニシテ其ノ右翼列ハ「ボロジノ」型四隻ヲ以テ成リ左翼列ハ「オスラービヤ」、「シソイ・ウエリーキー」……」
<ニ番艦敷島>「……(二時)十分(略)敵ノ左翼列嚮導艦……同二十分頃敵ノ左右両列共ニ少シク右転シ従テ其ノ左翼列大ニ後レ不規則ナル単縦陣ヲ形成シ……」
<三番艦富士>「左ノ如シ」と右翼列がやや前に出た二列縦陣の図を示したあと、2時19分に「此ノ時「オスラービヤ」隊ハ「ボロジノ」型隊の後尾ニ入リタルモノノ如シ」
<四番艦朝日>「敵ノ陣形ハ二列縦陣ニテ……」
<五番艦春日>「敵ハ二列縦陣ニシテ……」
<六番艦日進>「敵艦隊ハ戦闘艦四隻ヲ先頭トシ其ノ少シク後方ニ「オスラービヤ」ヲ先頭トシテ左翼列ヲ作リ……」
これで秋山が連合艦隊の戦闘詳報に単縦陣と書いたら、艦長たちから猛抗議を受けるだろう。
しつこく、それでも、と書くが。
瓜生提督だけは単縦陣と書いているのだろうと読み進めて、愕然とした。
第四戦隊の詳報には、
「我ガ触接隊ノ通報及ヒ捕虜「ドンスコイ」副長ノ言ト我カ目撃セル所ニヨレハ概略左ノ如キ隊形ヲ以テ航行シ来リ」
との文の後に陣形図が載っているのだが、どう見ても敵艦主力は二列縦陣であって単縦陣ではない。
単縦陣ではないのである。
いやしくも戦史研究者を名乗るものの書いた文章なら、最後の最後ぐらいは事実が書いてあるだろうと期待していたおのれのナイーヴさを笑いたくなった。
史料をあたるまでもなく、本書162ページや176ページの陣形図と、この著者の次作の142ページ、161ページのそれとを見比べるだけで、本書がいかにでたらめであるかくらい、わかりそうなものなのに。
前作に書評を書いた後、この著者のものにはもう書くまいと思った。
批評ではなく批判になるのが目に見えていたからである。
だから、これは書評ではない。史料と異なって記述しながら「真実」とうたっていることの告発である。
紙の本
紙の本日露戦争物語 第21巻 天気晴朗ナレドモ浪高シ (ビッグコミックス)
2006/09/28 04:38
残念である。
9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
16〜17巻あたりから作品に物語性が失せて、変に著者の主張ばかりが目立つようになってしまった。
日清戦争では主人公の秋山真之が活躍しないので、物語の核が定まらなくなったのだろう。日清戦争は基本的な経緯がわかる程度に留めておくべきであった。
どうしても日清戦争を省略したくないのだったら、真之を再登場させられる局面となるまで、陸と海にそれぞれ一人ずつ仮の主人公を立ててその人の視点を中心に描くなどの工夫をしたり、細部を割愛する断を下したりするべきだったのだ。
ところが、とにかく何でもかんでも描こうとし、著者の主張を加えようとした結果、ストーリーが拡散してしまった。
漫画に著者の主張が入ってはいけないというのではない。
ただ、主張するのならば、魅力的で説得力のある物語を構築し、それへ読者を惹きこむことによってするべきなのだ。
仮に著者の見解と読者のそれとが合致しなくても、物語として面白ければ読み続けることはできる。
そして、それは本作の途中までは、ある程度はできていたと思う。だからこそ、12巻に書いた書評では絶賛したのである。
ところが、巻が進むにつれて著者はそれを怠った。
多数のキャラクターがみな中途半端に描かれた挙句、ナレーションの総括で著者の見解を滔々と述べられても、読者はついて行けないし、行かない。
漫画という表現形態は本来エンターテインメントであるはずなのに、著者はそれを忘れてしまったのだ。
しかも、ただでさえ上手くない絵に手抜きが目立ち、コマ割りは単調となり、キャラクターデザインもどんどん崩れていく。山県有朋の顔なんて、ほとんどバケモノである。
19巻あたりからは読むのがしんどくなってきたのを、とにかく主人公が戻ってくればとの忍の一字でいたのだが、雑誌連載の方が「第一部 完」と「休止」してしまった。
おそらく、本当のところは「打ち切り」なのだろう。
残念である。
紙の本
紙の本最高支配層だけが知っている日本の真実 真実はやがて世の中に、ザワザワとひろがる。
2007/12/23 22:11
先に投稿なさっているお二方の触れていない、収録の「日本海海戦はイギリス海軍の観戦武官が指揮していた」一編に限定して評価する。なぜなら、これを読んだら他の文章を読む気が失せたからである。
9人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
著者の須藤喜直氏は、本書を編著している副島隆彦氏の主宰する民間シンクタンクの、ウェブ管理と事務の担当者。
この文は副島氏が以前に書いたものを下敷きにしているのだが、両氏がもしこれに書いたことをこれに書いてある論拠だけで本気で信じているのなら、今すぐシンクタンクなど閉鎖してしまった方がいい。こんな薄弱な状況証拠と推測だけでこれが真実だと言い切れるなら、世界に歴史は無数のバリエーションが存在してしまう。
以前から観戦武官について書いたものがないかと探していたので、掲載書籍の書名に危惧を覚えながらも読んでみたが(私には「~の真実」という書名の本に説得力のある本は少ない、という持論がある)、冒頭に東郷や秋山の後ろにはイギリスの観戦武官がいて指揮をしていたと断言する副島氏の文章を掲げながら、日本海海戦当時三笠に観戦武官がいたという事実を示す資料をあげることすらできなければ、もちろんその観戦武官の名を記すことも出来ない。
仮にこれに書いてあるように「T字戦法」や最新の砲術がイギリス海軍により伝授されたものであり、また東郷たちの背後に観戦武官がいたというのは比喩的表現であったとしても、表題は「指揮していた」ではなく「指導していた」でなければ不適当だろう。
なにしろ、「指揮していた」論拠を挙げることができているのは、第一戦隊の殿艦(一番うしろの艦)日進のマヌエル・ドメック・ガルシアだけなのである。
その論拠というのが、彼の孫が「日進の艦長たちが負傷した後に指揮をとった、国際法違反だから黙っていた」という彼の言を伝えていることなのだが、さて、孫がそれを聞いたのはガルシアの「ひざの上」である。
いかに頑健な軍人で体力的にそれが出来たとしても、成人した孫をひざにのせて話をするという状況は通常ありえない。話を聞いたときの孫は明らかに「子供」と呼ばれる年齢だったろう。
おじいちゃんというのは、幼い孫には見栄を張りたいものである。抱っこしている孫から「すごい海戦だったんだね。それで、おじいちゃんは何をしてたの?」と聞かれて、つい悪意のない冗談を言ったら孫がそれを真に受けてしまった、というのはありそうな話ではないか?
すくなくとも私は、この証言以外に、公式な文書なりガルシアの指揮の現場に居合わせたものの証言なりがひとつでもない限り、これを可能性のひとつとして留保することはしても、これが真実だと断定する気にはなれない。
またこれが事実であったとしても、指揮官が負傷してしまったので指揮をしたのであれば、それはあくまでその場限りの暫定的なものであり、日露戦争はイギリス人の主導の元で戦われたという著者の主張とは意味合いが異なる。そもそもガルシアはイギリス人でなくアルゼンチン人である。
また「丁字戦法・乙字戦法」は「T字戦法・L字戦法」の表記を改めただけだという文章を菊田氏の『坂の上の雲の真実』(この本もまたいくつかの間違いを指摘できるのだが)から引用しているが、秋山真之による改称は、戦法の出所を隠すためではなく、日本人は日本語を使うべきだという彼の持論によるものだろう。「ブリッジ」を「艦橋」に、「ボート」を「端艇」にあらためたように。
さらにL字戦法に限って言えば、この場合のL字形というのは筆記体大文字のLの形なので、漢字の「乙」の方が陣形をよく表しているのである。
副島氏は陰謀史観がお好きなようだが、日露戦争はロシアを叩きたいが自分ではやりたくないイギリスが日本をそそのかしたのだ、という見方はそれこそ日露戦争当時からある。戦っていた兵士達自身が、それを風刺した芝居を自分達で演じて戦闘の合間の娯楽にした、という資料さえある。
何を今さら、というものだ。
紙の本
紙の本坂の上の雲の真実
2007/04/19 00:39
これでは評論とはいえない。
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
著者は、海上自衛隊で護衛艦に乗務していた若き日に『坂の上の雲』をわくわくして読み、秋山真之にわが身をダブらせていたが、戦史研究の結果、日露海戦の実像が小説のそれとは異なることに気づき、本書を著すことにしたのだという。
崇拝した対象が自分の思っていたものと違っていたと感じると、一転して激しく攻撃する人がいる。著者はまさしくそのタイプのようだ。
しかも、この著者の場合、文章が戦史研究者のものというよりも、小説家のそれである。それも描写が秀逸だとかいう話ではなく、「講釈師、見てきたようにものを言い」の文章なのである。しかも、いちいちねちっこく秋山を貶めるような書き方になっている。
「坂の上の雲」のファンならずとも、この文章には辟易するのではなかろうか。
それでも、本書を最初に読んだ当時は、菊田氏の説の大筋そのものは、そういうこともありうるかもしれないと思っていた。
著者は職業上、一次資料を好きなだけ閲覧できるはずであり、また、文中にしばしば参照した資料を示す注があるからである。著者の判断にバイアスがかかっていたとしても、拠って立つ資料が多ければ、導き出されるものは自ずと真実に近づくだろうと考えたのだ。
ところが、著者は資料をきちんと読むことすら怠っていた。そう思わざるを得ない間違いがあるのである。
199ページに「北原鉄雄氏があらわした『次の一戦』(金尾文淵堂、大正三年刊)」とあり、次ページに「文章表現の特徴などから、北原鉄雄なる著者は、佐藤鉄太郎であると信じられる。」とある。二重に間違いである。
私の手元に大正3年刊の『次の一戦』の現物がある。
函にも本文冒頭にも「一海軍中佐著」と記されており、「北原鉄雄」は著者でなく編集者である。
また、「一海軍中佐」の正体だが、これは『此一戦』の著者、水野広徳である。日露海戦を研究していて『此一戦』を読んでいないことなどなかろうに、こんなによく似た題名を連想しなかったのだろうか。1982年に「水野広徳著」で再刊されているのだが。
それでも、大正版の『次の一戦』しか読んでいないのであれば著者がわからなくても仕方ないかもしれない。
だが、同じ章の注に、猪瀬直樹氏の『黒船の世紀』が挙げられている。『黒船の世紀』は戦前に刊行された日米戦予想の本を包括的に紹介した著作で、『次の一戦』の著者である水野が記述の中心となっている。
これをたとえ斜め読みでも一通り読んでいれば、『次の一戦』の著者を佐藤鉄太郎と思い込むなどは、絶対に、100パーセント「ありえない」のである。
評論とは、資料を精読して、客観的かつ冷静に書くべきものである。
これでは評論とはいえない。