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  3. 吉田照彦さんのレビュー一覧

吉田照彦さんのレビュー一覧

投稿者:吉田照彦

33 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本フェルマーの最終定理

2006/06/02 21:14

数学音痴のために書かれた数学的感動の物語

30人中、29人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 一九九三年六月二十三日。ケンブリッジのニュートン研究所で開かれた専門家会議において、アンドリュー・ワイルズという数学者が、360年もの間、誰も解くことの出来なかったフェルマーの最終低利と呼ばれる難問の証明方法について講演する場面から、この物語は始まる。
 実質的にいって、本書はピュタゴラスの定理に始まり、フェルマーの定理が解かれるに至る二千年に及ぶ学問的過程を紐解いた数学の歴史書といっていい。しかし僕は敢えてこれを「物語」と呼んだ。
 実際、本書を楽しむのに、それほど高度の数学的な知識は必要ない。確かに、僕のような数学音痴には理解不能の数式も数々並べられてはいるが、たとえその部分を読み飛ばしたとしても、この「物語」の感動を十分に味わうことができる。
 インターネットの検索エンジンを使えば、この定理が最終的に誰の手によって証明されたかはすぐに分かってしまう。少し数学に詳しい人なら、一般教養レベルとしてその知識を有しているだろう。しかし、もし本書を手にする前に、それが誰によって証明されたかを知らない人がいるとしたら、知らないままに読んだほうがより大きな感動を手にできると思う。すなわち本書は、数学音痴のために書かれた数学的感動の物語なのだ。
 わずか10歳のときこの定理と出会い、以来、その半生をこの難問に捧げた数学者アンドリュー・ワイルズは、果たして歴史上の勝利者たり得たのか。
 本書は、冒頭の講演の場面に至るワイルズの生い立ちと、フェルマーの最終定理を巡るピュタゴラス以来の数学的な歩みとを平行して描きながら、何者かによって歴史的勝利が手にされる瞬間までを見事に描ききっている。
 300年余の歴史上、この定理の前に登場する数々の天才数学者たちの生涯はどれも劇的である。なかでも、おそらく僕ら日本人読者の関心を強く惹くのは、のちにフェルマーの最終定理を証明するための大きなヒントとなる「谷山=志村予想」という仮説を考え出した日本人数学者、志村五郎と谷山豊の二人だろう。志村が大学の図書館でどうしても借りたいと思っていた本を谷山が先に借りていたことが縁で友人になった彼らは、一九五五年九月、日光で開かれた数学の国際シンポジウムでこの仮説を発表、本格的な共同研究に取り掛かる。しかし一九五八年十一月十七日、谷山は突然、自殺を遂げてしまう。死後、彼の机の上に残されていた書き置きには「自殺の原因について、明確なことは自分でも良く分からないが、何かある特定の事件乃至事柄の結果ではない。ただ気分的に云えることは、将来に対する自信を失ったということ」とあった。その数週間後、彼の婚約者も後を追うように自殺している。
 その35年後、フェルマーの最終定理の証明に関連して谷山=志村予想が証明されたという報道が出たとき、専門家の中には、フェルマーの最終定理が証明されたことよりもずっと大きな快挙と見る者も多かったが、ジャーナリストたちは「フェルマーにばかり焦点を合わせ、谷山=志村には軽く触れるだけ——あるいはまったく触れないことになりがち」だった。このとき志村はいった。「谷山=志村予想のことは書くのに、谷山と志村については誰も書かないというのは、奇妙なことですね」と。
 本書は、フェルマーの陰に隠れた人類の功労者たちの人生に光を当てる物語でもある。

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日本の鉄道の正確さは我が国の社会が抱える宿命的病巣である

26人中、26人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

——君のところでは列車が遅れると社員を死刑にするのか?
鉄道の国際会議があると、日本の鉄道人はこうきかれるそうである。日本の鉄道の正確さが世界的に驚きをもって迎えられているひとつの証拠である。
我々日本人は、ものの5分も列車の到着が遅れると「なんだどうした」と騒ぎ出し、また海外へいっては、当たり前に10分15分と遅れる鉄道を見て「おかしい」と呆れ返るが、世界水準から見ると、在来線の平均遅延時間わずか1.0分(99年度)という驚異的な数字をたたき出している日本の鉄道の正確さのほうがよほど「おかしい」のである。
本書では、その第Ⅰ部において、日本の歴史的風土・文化・地理的環境から説き起こして、日本の鉄道の正確さがどこに由来するものであるのかということを多角的に検証している。日本人は古く江戸時代から、定時に鳴らされる寺の梵鐘などによって欧米の庶民などよりもよほど早くから比較的鋭敏な時間感覚を養っていたこと、足で歩ける距離に「鈴生り」に発達した宿場町が鉄道の駅間を短くし、鉄道運行における微妙な時間調整を可能にしたことなどを挙げ、それら日本の文化風土のもつ固有の要因が生物学上の「アミノ酸のスープ」のようにその後の正確無比な鉄道運行を生み出す土壌になったのではないかとする著者の説は非常にユニークで面白い。
続く第Ⅱ部では、世界一を誇る正確な鉄道ダイヤというものが実際にどのようなシステムで運用されているのかということが科学的・技術的に分析されている。「一つの駅のブレーキ扱いでだいたい五秒縮められるのです」と語る山手線のベテラン運転手の言葉は特に印象に残ったが、精巧な巨大建造物の図面を引くように綿密に作成される鉄道ダイヤの緻密さ・壮大さ、そのダイヤに仕組まれた「遅れない鉄道」「遅れてもすぐに回復する鉄道」を作り出すための神がかり的な工夫や技術にはため息が出る。
そして第Ⅲ部では、社会構造の変化を見据えながら、日本の鉄道の未来図を展望している。日本の鉄道の正確さは、正確さに対する顧客の要請という側面もさることながら、実は欧米諸国に比べて狭い駅舎、少ない架線という限られた施設・設備の中で可能な限り大きな輸送力を生み出さねばならないという日本の鉄道事情の抱えた宿命的な所産であった、しかしいま、日本の鉄道がダイヤの正確さという形で増大する輸送需要に応えるという時代は大きな転換点を迎えていると著者はいう。
先に起きた尼崎の大列車事故は、列車のスピード化やダイヤの正確性という形で、輸送の利便性を追求したいという顧客のニーズに応えていくことの限界を明確に示すものとなった。マスコミは、事故を起こしたJR西日本が列車の発着状況を秒単位で調査していたことなどから、その企業としての体質の異常さを必要以上に喧伝しているけれども、上述の山手線運転手の言葉の中に、我々はすでに、秒単位での鉄道運行というものが各所で日常的に行なわれている事実であるという証拠の一端を見ている。輸送安全軽視といわれても仕方のないJR西日本の経営姿勢は黙視あたわざる事実であるけれども、これまで大きな事故を起こしたことのない他の鉄道会社といえども、ダイヤの正確さに縛られているという点において、多かれ少なかれ、内在的に同様の問題を抱えている。一方、過度に輸送の正確さを求める我々鉄道利用者の意識もまた、いくぶんかの修正を迫られているのではないだろうか。
今回の事故が我が国の社会に投げかけた問題は、事故という目に明らかな形で噴出した病巣をもぐらたたき的に叩いて済むような、そんな単純な問題ではないような気がしてならない。

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紙の本模倣犯 5

2005/12/24 15:37

僕らもまた同じ穴の狢なのだ

13人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 僕はずっとアンチ宮部だった。名作の呼び声高い『火車』も、直木賞受賞作の『理由』も、ちっとも面白いと思わなかったし、少しも素晴らしいとも思わなかった。どこが良いのだろうとずっと疑問に思っていた。何年か前に『龍は眠る』を読んだあとだったか、もうこの人の作品は二度と読むまいと思った。それほど彼女の作品は僕にとって面白くなかった。
 僕の眼には、宮部みゆきという作家は泥をかぶらない作家と映っていた。社会問題を積極的に取り上げ、ミステリという形式の中でそれを掘り下げていく手法は評価できるとして、「被害者も加害者も関係者もみんなこの社会の被害者だ」みたいなオチのつけ方がずっと気に入らなかった。
 ある人がいった。世の中に語ってはいけないことなどない、語り方が問題なのだと。しかし現実問題として、語ることそのものが批判の対象となる場合がある。宮部みゆきという作家は、被害者の立場にも加害者の立場にも積極的に立とうとしないことによって、あらゆる批判の矛先を巧みにかわすズルい作家だと思っていた。だから嫌いだった。しかしこの作品によって、彼女もついに泥をかぶったなと感じた。それが著者自身の作為によるのか不作為によるのかは知らない。ともかく、泥をかぶったと感じた。
 本書はいわゆる劇場型犯罪の顛末を描いた作品である。その中で、著者は主犯格の男に対する強烈な憎悪を描ききるとともに、劇場型犯罪の舞台装置の一部としてのマスコミのあり方や、観客としての一般大衆のあり方を痛烈に批判している。小説家といえども社会問題を扱う以上、自らもまたマスメディアの一端を担う人間であるという自覚が著者にはあると思う。その著者が社会の病理を切り裂くメスをマスメディアに向け、また自らの著作の読者層にも向けていることは非常に興味深い。この物語は純粋なフィクションであるが、宮部みゆきという作家の描く劇場型の犯罪小説に没頭させられてしまった時点で、僕ら読者は知らず知らずのうちに逃げ場のない場所に追い込まれ、後ろ指を指されていたのだ。おまえたちも他人の不幸を対岸から愉しんでいる大衆の一人なのだと、同じ穴の狢なのだと。

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正義のよろめき

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

以前から、「スター・ウォーズ」シリーズには割と東洋的な要素が多く含まれているように個人的に感じていた。
例えば、エピソード5(帝国の逆襲)の作中に、ジェダイ・マスターのヨーダが若きジェダイ、ルーク・スカイウォーカーにフォースの神秘について語るこのような台詞があったように記憶している。
——フォースはこの世界にあまねく存在しておる、あの木や石塊のあいだにもフォースは満ちておる、ほらそこにも、あそこにも……。
一連のサーガにおいて、フォースは普遍的な宇宙の法則として説明されるが、これを宗教的な「神仏」と似たような概念と置き換えて考えるとき、そこに、西洋世界の一神教的な思想とは異なる、東洋的な汎神論思想が垣間見える。
概して、東洋の宗教的善悪の価値観が相対的、流動的であるのに対して、西洋の宗教的善悪の価値観は絶対的、固定的である。神という絶対的に動かない善の存在があって、それに対置される悪もまた、動かない価値観としてがっちりと規定されている。
スター・ウォーズ旧三部作における善と悪——正義と悪は、どちらかといえば、この西洋的な価値観に沿った描かれ方をしているように思われる。それは主として、ジェダイ率いる反乱軍の絶対的な正義とダース・ベーダーに象徴される帝国軍の絶対的な悪との明確な対立構造の中で語られる物語である。作品の中で、ルークが時に強い憎しみや怒りに身を委ね、フォースの暗黒面へよろめこうとするとき、そこに表象されている彼の精神的なよろめきは、あくまで絶対的な正義から悪への明確なよろめきである。
それに対して、新三部作の最終章に当たる本作品において主に描かれる、アナキン・スカイウォーカーの暗黒面への大きなよろめき、そして転落は、アナキン自身の精神的なよろめきであると同時に、ダース・シディアス卿の仕掛けた巧妙な罠によってもたらされた共和国の正義そのもののよろめき、揺らぎ、自壊をも内包していたという描かれ方は、個人的には非常に興味深い。
これはある種、逆説的な描かれ方なのかもしれないが、正義は正義それのみとして絶対的に存在するものではなく、常に自らの存立基盤の対置として悪の存在を意識し、見つめていかなければ、いつしかその存立基盤を見失ってしまうことになるという、それが本作における大きなメッセージのひとつであり、謎かけであり、神秘、魅力であったようにボクには思われる。
一方で、終局的にアナキンを悪の道へと引きずり込むことになる力——それが彼の妻・パドメに対する愛であったという点にも多くの示唆が含まれている。そして、ひとたび悪の道に転落したアナキンがやがて二人の愛の結晶である自らの息子たちの手によって滅ぼされ、善の心へと帰っていくというこのサーガの結末は、本作品において描かれるアナキンの悲劇的な運命を知ることによって、より大きなカタルシスを生むことになる。
この作品にどれほどの政治的なメッセージが含まれているのか、あるいは含まれていないのか、僕には分からない。28年の歳月をかけて完結したこの長い長いサーガに、現在の世界のあり方を透かし見るのは、ちょっと穿ち過ぎた見方であろうか。

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紙の本海辺のカフカ 上

2005/04/11 08:46

春樹の「んだ」語尾と猫の客観性

11人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

たぶん多くの人が感じていることだと思うのだけれど、村上春樹の小説というのはどれもたいへんに読みやすい。読んでいると、なにか静かな山奥の小川のせせらぎに身をひたしているような、とても快い気分になれる。本書を読みながら、それはなんでかな、ということをずっと考えていたのだけれども、少なくとも僕個人が彼の小説において最も心地よく感じるのは、作中の登場人物たちがしばしば口にする「んだ」という、科白の語尾であるということに気付いた。
「君は絵の中の少年に嫉妬しているんだ」
「(略)自分でも信じられないくらいなんだ」
「いつそれを言ってくれるか、ずっと待っていたんだ」
「(略)君はなにかとくべつな部屋を探しているんだけど、その部屋はぜんぜん見つからないんだ。(略)私は叫んで、君に注意を与えようとするんだけど、私の声はうまく届かないんだ。(略)それで君のことがとても気になっていたんだ」
「君は正しいことをしたんだ」
実際、こうしてざっと抜き出してみただけでも語尾が「んだ」になっている科白(ここでは仮に「んだ」語尾の科白と名づける)というのが結構ある。もちろん、「んだ」語尾でない科白もたくさんあるし、他の作家の小説にも「んだ」語尾の科白というのはたくさんあるはずなのだろうけれども、僕にはなぜかこの著者の小説の中の「んだ」語尾だけが非常に強く印象に残り、特に好ましく感じられるのである。
言語学的に言って、「んだ」語尾というものに何か普遍的な意味合いがあるのかどうかは僕の知るところではないけれども、少なくとも僕が村上作品における「んだ」語尾から感じるのは、非常に夢見がちな口調であるなあという感覚である。たとえば上記の例でいうと、「君は正しいことをしたんだ」なんという科白は、本来、それを口にする人物による「君は正しいことをした」というひとつの「宣言」であると思うのだけれども、これが「んだ」語尾になっていることによって、その宣言性とでもいうようなものがうまいこと和らげられて、なんというか、夢見るような、歌うような口ぶりに変化しているような気がする。単に「した」でもない、「したんだよ」でも「したんだぜ」でもなく「したのだ」でもない、「したんだ」というまさにその語尾が、一切の押しつけがましさを排して、水のようにすうっと心の中に染み入ってくるような心地よさを感じさせるのである。
このことはもしかするともうすでにどこかで誰かが指摘していることかもしれないし、あるいは逆に僕だけにしか感じられない極度に個人的な印象の問題に過ぎないのかもしれないけれども、ともかく僕が村上作品に感じる好ましさの最大の要因がこの「んだ」語尾であるということはどうも間違いないことのような気がする。
ところで、本書には猫と会話が出来る人間というのがいて、猫が人間の言葉でいろいろとしゃべる(というか、その人間が「猫語」を解する)のだけれども、これが猫であって犬ではないというのは、僕にはとても重要にというか、面白く感じられる。話は違うけれども、たとえば夏目漱石の『吾輩は猫である』が『吾輩は犬である』であったとしたら、ちっとも面白くなかったろうと僕は個人的に思うのだけれども、どうも猫というのは人間にとって客観的な存在であり、犬は逆に主観的な存在であると、これは漱石や村上氏にとってだけではなくて、一般的にそのように捉えられているのではないかという気が僕にはする。それはおそらく、彼ら動物自体が人間に対して取っている(と人間が感じる)スタンスを反映しているのだろうと思う。

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紙の本旭山動物園のつくり方

2006/12/09 16:45

日本一の動物園に見えてくる可能性

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 小学3年生のころからずっとセキセイインコを飼っていた。ペットショップで買ってきた番が子供を産んだり、またその子供が子供を産んだりして、かれこれ10羽以上、飼育したように思う。大学1年のとき、最後に残っていた一羽が急死した。空っぽになった鳥かごを見て、僕はその小さなかごの中で一生を終えてしまった多くのインコたちの人生の残酷さを知った。
 以来、僕は長い間、動物園の存在とかペットの飼育というものについて、あまり肯定的な考えを持ってこなかった。
 実は今年の九月、夏期休暇を使って嫁さんと二人、旭山動物園を訪れたことがあった。そのときは、主として動物の見せ方の面白さとか、バリアフリーの徹底というあたりに他の動物園との決定的な違いを見て、「なるほど。日本一の入場者数も肯ける」と思ったものだった。
 しかし、動物園というものそのものに対する違和感というものはやはり消えなくて、例えば、金網の上で休んでいるヒョウを真下から観察するコーナーなどを見て、「あんなおかしな位置から見られたら、動物たちも精神的にたまるまい」と考えたりしていた。
 その点について、本書では、動物たちが精神的優位性を保てる場所を選んで観察スポットを配置しているのだと説明している。ヒョウの例でいえば、野生において樹上でからだを休める彼らにとって、金網の下を通る人間というのは一向に気にならないのだそうである。
 動物たちに出来るだけ自然に近い形で生活してもらい、そのありのままの姿を見てもらおうというのがこの動物園の最重要コンセプト。特に「食べる」ということは、彼らの生活の中で最も大きなウェートを占めるものであり、それがあまりに容易に、短時間のうちに済んでしまうことは、かえって彼らのストレスになる。そのため、動物たちができるだけ時間をかけて餌を食べられるような工夫もしている。
 動物園の動物たちの生きかたの中に、人間たちの生きかたが見える気がする、ということが本書の中で述べられている。最も野生から離れてしまった人間が生命について学ぶための場としての動物園。そこから僕たちは実際に何を学ぶことができ、そこで生命を終える動物たちの生活はどこまで尊重され得るのか、ということについて、僕はまだ懐疑的である。ただ、ここに描かれる飼育員たちの情熱には、一抹の希望と可能性を感じる。しかも面白いと思うのは、彼らがたまたまそこに配属されてきただけの公務員だということである。

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紙の本俺たちのR25時代

2005/11/12 16:52

結局は自分

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書は、20代後半から30代前半をターゲットに、首都圏で60万部を発行するフリーマガジン『R25(アールニジュウゴ)』に連載中の「つきぬけた瞬間」という著名人へのインタビュー記事26本を収録したインタビュー集である。
その中で、特に印象に残ったいくつかの言葉。
○糸井重里—「嫉妬だと思ったところをそのままにしておけばいいんです」
高校時代からの親友がどんどん高いところへと昇りつめていくのを横目で見ながら、僕自身、ときに嫉妬を覚えることがある。でもそんなとき、「偉くなりゃいいってもんじゃないよ」なんて強がりを誰かに向かっていってしまったら、自分はもう終わりだと思っている。嫉妬で胸苦しくなるとき、僕は敢えて口に出してそいつを誉める。うちの嫁の前でも、友人の前でも、そして本人の前でも。あいつはすごいよ、おまえは偉いよと。そうすると、少しだけ気持ちが楽になる。そして初めて、「自分は自分」という言葉が腑に落ちてくる。そんな気がする。
○ガッツ石松—人生はとにかく競争なのよ。マラソン競争。勝ったり負けたりしながら進んでいくの。負けてもいいのよ、心まで負けてなけりゃ。
近ごろ密かにクイズ番組に引っ張りだこという観のあるこの人。いつもトンデモない回答をして、みんなに笑われたり馬鹿にされたりするけれど、僕がこの人を偉いと思うのは一生懸命に見えること。いつもクソ真面目に見えること。クイズで答えを間違えるときもクソ真面目。気の利いたことをいったり、ギャクをいって人を笑わせようとするときもクソ真面目。たとえ若手芸人に馬鹿にされても、怒った顔をしたりしない。いつでも「OK牧場」。この人、案外面白い人だと思う。
○江川達也—要は他人には期待しないかわりに、自分でやるということ。
「人を信用しない」とこの男はいう。僕も実はそうだ。「信用しない」というより、「期待しない」。信頼していた誰かに裏切られたとき、頼りにならなかったとき、人は肩透かしを食らって普通よりもずっとずっと大きく転んでしまう。そして、信頼を裏切った相手を「なんだよ、コンチクショウ」と恨む。でも、初めから人に期待していなければ、そんな気持ちになることもない。苦しいときに助けてくれたらありがたいけれど、基本的には自分がやる。自分で出来なければそれは自分の責任。誰のせいでもない。こういう生き方のほうがほんとは楽なんだと思う。この人も、僕も、楽をして生きている。
本書に収録された26人のインタビュー集はどれも独特で、それぞれに面白い。山あり谷ありの人生を越えてきた成功者たちの声は、読者の将来を明るく照らすように見える。でもここに書いてあることをそのとおり実践しても、おそらく駄目なんだ。そこはすでに誰かが通ってきた道だから。成功するなら、自分で自分の道を見つけなきゃならない。そんなことを思った。

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紙の本その名にちなんで

2007/11/11 11:36

自分は何者であるのか

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 インド(ベンガル地方)出身の両親を持つ、ロンドン出身、ニューヨーク在住の女性作家。文庫版のカバー折り返しに掲載されている写真を見るとなかなかの美形だ。99年、『病気の通訳』(短編集『停電の夜に』収録)でO・ヘンリー賞を受賞している。本作は著者初の長編になる。
 前作『停電の夜に』の文庫版(新潮文庫)が出たのが2003年3月となっていて、確か僕はこれが出てすぐに買って読んだような覚えがあるので、この人の作品を読むのはおよそ3年半ぶりということになる。正直なところ、前作の短編集を読んだときはそれほど深い感銘は受けなかったのだが、日本では接することの珍しいインド系の新進作家ということで、名前はよく覚えていた。
 インド・ベンガル地方からアメリカに渡ってきたアショケとアシマの夫婦。その二人の間に、待望の赤ん坊が生まれる。その子供につけられた名前は「ゴーゴリ」。ドストエフスキーをして「我々はすべてゴーゴリの『外套』から出た」といわしめたロシアの著名な作家ニコライ・ゴーゴリにちなんだ名だ。それは父親アショケの愛する作家の名であり、彼がインドで列車事故にあったときにその著作のページを握り締めていたお陰で救われた作家の名でもあった。子供はこの名とともに成長する。インド系なのにインド的ではない、アメリカ在住なのにアメリカ的でもないこの珍奇な名前――しかもそれは作家の名前ではなく苗字のほうなのだ!――は、やがて彼の心を悩ませることになる。
 ゴーゴリの我が名との心理的距離感はそのまま、アメリカに住みながらなおインドでの習慣から脱しきれない両親との心理的距離感と繋がっていく。成長期にある子供たちの多くがそうであるように、彼は自らを取り巻く世界の在り様と両親の在り様とのギャップに違和感を覚え、次第に距離を措くようになる。それと同時に、ゴーゴリという奇妙な名前にも次第に嫌悪を抱くようになる。高校の授業で教えられた作家ゴーゴリの風変わりな来歴もまた彼を自分の名前から遠ざける要因となって、やがて裁判所の正式な手続を経て「ニキル」と改名することになる。
 純粋にインド的である両親と、多分にアメリカ的でありながら一方でインド的なものを完全に捨て切れないゴーゴリ。ゴーゴリという名は、そのように宙ぶらりんな彼の存在を的確に表した名だ。彼の名との格闘は、己が何者であるのかという問いかけでもある。その問いかけの中で次第に変化していく息子と、その変化に寂しさと憤りを覚えつつも時の流れによってゆっくりと自らも変化し、息子の変化を受容していく母親との関係などは、日本に住む自分の親子関係にもどこか通じるところがあってとても面白く読んだ。
 全編を通して、さして大きな山場があるわけではない。アシマとアショケがアメリカに渡ってからの30数年を描いた本作は、あたかも大河ガンジスの流れのように、ゆっくりと穏やかに、しかし確実に時を刻んでいく。昨年、米英合作で映画化され、日本でも今秋公開されるそうだが、まさに暗い上映室でゆったりとシートに腰を沈めながら観る一編の上質な映画のような作品だった。

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紙の本龍時 01−02

2006/06/12 19:33

サッカーをフィクションで楽しむならどの媒体?

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 例えば僕らの世代でサッカーを扱ったフィクションというと、テレビアニメ化もされたコミック『キャプテン翼』などがすぐに思い浮かぶのだけれど、コミックとアニメとを比べて、どちらによりリアリティを感じ、面白く感じたかというと、僕の場合はコミックのほうだった。
 なぜか、ということを明確に言葉にすることは、ちょっと難しい。実際の話、僕はコミックの『キャプテン翼』を6巻から19巻まで、内容的にいうと、少年サッカーの全国大会決勝トーナメントが始まった回から、全国中学校サッカー大会の南葛中対ふらの中の準決勝が終わった回まで読んでいた一方で、アニメのほうはそれほど熱心に観ていた記憶がないので、公平な比較ができないということもある。ただ、当時のアニメ制作の技術のせいなのか何なのか、コミックよりもダイナミックな動きを見せられる分、アニメのほうが逆にリアリティや臨場感を欠いている、という印象を持っていたのは事実のように思う。
 ではドラマはどうかというと、残念ながらサッカーをドラマ化した番組は観たことがない(そういう番組があったのは知っているものの)のだが、『エースをねらえ!』のドラマ版などを観る限りでは、あまりそういった方面に明るくない女優や俳優が使われる場合には特に、リアリティや臨場感を出すことはなかなか難しそうな気がする。
 なぜここでこんな話を長々としているかというと、今回初めてサッカーを題材にした小説を読んでいるからなのである。それが本書。
 例えば野球の場合、基本的にセットプレイなのでプレイとプレイとの間合いが長く、小説化するに当って選手の心理描写をするのは比較的やりやすいのではないかと想像する。一方サッカーの場合、セットプレイといえば、スローインやフリーキック、コーナーキック、ゴールキック、PKなど、場面がかなり限られており、むしろセットプレイ以外の流れの中からドラマが生まれる確率が高いように思うので、選手の心理的な緊迫感を盛り込みながら、自然な文脈の中でプレイを流すのには難易度の高い分野であるように思われる。
 フィクションとしてのサッカーの醍醐味は、現実の試合では知ることのできない、プレイ時の選手の心理や思考を追うことができる点にあると思う。もし、プレイの流れだけを忠実に追ったフィクションがあったとしても、それを面白いと感じるかどうかは、個人差もあるだろうが、かなり微妙な線であるように感じられる。ノンフィクションならともかく、フィクションでそれをやって面白いとは僕は思わない。
 プレイの流れを切ることなく、いかに細かな心理描写を挟み込むか。コミックならば線描の仕方などでスピード感やダイナミズムを保ったまま心理描写を盛り込むことができるが、小説でどうそれをやるか。その辺のところを、本書の著者野沢尚氏はかなり巧みにこなしたと僕は思う。脚本家でもある野沢氏ならではというべきか、描いている場面の映像が著者自身の目蓋にしっかりと描けていると感じた。最初、プレイの描写に慣れないうちは、ボードゲーム版サッカーゲームの対戦を見ているようなぎこちなさを感じたが、著者の描く選手の動きが次第に自分の脳裏に像を結ぶにつれ、加速度的に臨場感が増していった。
 ちなみに本書は、無名の高校生リュウジがスペイン・リーグのユースチームからスカウトされて単身スペインに渡り、異国での生活や文化の違いに懊悩しながらも、次第にプロ・プレイヤーとして成長していく姿を追ったシリーズ作品第一弾である。緻密なプレイの描写とともに、思春期の少年特有の繊細な心の揺れを追った青春小説としても存分に楽しめる。「目下のところ日本人作家による史上最高のサッカー小説である」という解説の金子達仁氏の賛辞は決して過言ではない。

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紙の本博士の愛した数式

2005/12/03 21:49

素数やゼロを愛する心は神仏への信仰に近い

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 交通事故の後遺症から記憶が80分しか持たない「博士」と、彼のもとに通う家政婦「私」とその息子「ルート」との心の交流を描いた作品。第1回本屋大賞受賞作である。
 前にも何かの書評で書いたことがあるけれど、本との出会いというのは恋に近いと思う。最初に交わすわずか数言——本でいうならば、最初の数ページを読んだだけで、第一印象の好き嫌いが決まる。ちなみに僕はこの小説の20ページ目で恋に落ちた。
 「素数を愛する数学者」というのがある種のブームにでもなっているのだろうか、最近、小説の中で「素数を愛する数学者」を描いた作品を、僕は本書を含めて二冊読んだ。確か、いしいしんじ著の『麦ふみクーツェ』にも、素数を愛する数学者の父親が出てくる。
 主人公の「博士」の言葉を借りれば、数学とは、「神の手帳にだけ記されている真理を、一行ずつ、書き写してゆくようなもの」だそうである。また「神は存在する。なぜなら数学が無矛盾だから。そして悪魔も存在する。なぜならそれを証明することはできないから」とも。これは「難しい名前の数論学者の言葉」だそうな。
 自然界に存在する個々の数字の関係性にある種の法則性を見出し、それを愛する心は、西洋的合理主義に合致した心理のように思える。僕もどちらかというと、混然と並べられた数字の羅列から一定の法則性を見出すことに快感を覚える性質だ。
 一方、素数を愛する心は、人智を超えた存在を愛する心だ。人智によって容易に法則づけられることのない神秘性をこそ愛するのだ。「素数の性質が明らかになったとしても、生活が便利になる訳でも、お金が儲かる訳でもない」、故に、「数学の秩序は美しい」と「博士」はいう。またゼロについてこういっている、「無を数字で表現したんだ。非存在を存在させた。素晴らしいじゃないか」と。無を顕現化し、人智を超えた存在を認め、美を希求する心は、神仏への信仰と似ている。
 僕ら法則性を愛する合理主義者には不合理にも見える。しかし、その不合理さ故に、信仰者は、そして世界は美しいのかもしれない。

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紙の本神々の山嶺 上

2006/05/06 16:37

情熱とは何か

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 情熱とはいったい何だろうか。
 明治時代、文豪の二葉亭四迷は英語の”I love you.”に「私は死んでもいい」という訳語を当てた。仮に、誰かを愛することもまたひとつの情熱であるとすれば、情熱とは、自分がこれと思うもののためには死んでも構わないというほどの強い気持ちを指すといえるのかもしれない。
 強い情熱は猛烈な感染力を持つ。誰かの燃えるような情熱は、それに共感する人びとの心に火をつける。火のついた心は、感動という心の動きだけに留まらず、ときに、その人の人生そのものをさえ左右してしまう。ナイチンゲールが戦地における傷病兵の看護に傾けた情熱は多くの心優しき女性たちを看護の道に志させ、また有名なスポーツ選手の競技に賭ける情熱が多くの少年たちをその道に志させてきた。
 しかし一方で、そうして感染した情熱は、元の持ち主のそれとは異質のもののように僕には思える。いうなれば、それは狂熱とも呼ぶべきものだ。
 情熱と狂熱の違いについて、僕はこのように考える。情熱とは、人とある対象とが直接的・個別的に結びついて成り立つ関係であろう。例えばキリスト信仰において、神と人とが直接的・個別的に結びつくように。一方狂熱とは、他人の情熱を媒介にして成り立つ関係であろう。情熱の対象ではなく、情熱を持つ人との間に結ばれる関係、人そのものに対する情熱、それが狂熱なのではないか。
 では情熱は狂熱しか生まないのか。それも違うと思う。情熱は確かに次の情熱を生む。しかしそのときそこには、新たに情熱を持った人とその対象との間に、新しい直接契約関係が成立している。他人の情熱を媒介して対象と結びつくのではなく、その人が直接その対象と関係を結ぶのだ。偉大な情熱家に感化され、自らも立派な志を遂げる人たちの持つ情熱はそのようなものだと僕は考える。
 テレビのスポーツ中継などで「感動をありがとう」という言葉を聞くたび、何を馬鹿なと僕は思う。選手たちの競技に賭けるひたむきな情熱が人びとを感動させるとでもいいたいのだろうが、それは情熱に対する感動ではなく、単なる狂熱だ。情熱が人とその対象との直接的・個別的な結びつきである以上、同じ情熱を他人が共有することはできない。情熱とは本来、神聖不可侵なものなのだと思う。巷で安っぽく口にされる愛なんてものがそこら辺に転がっているものではないように、情熱もまた、安っぽく人びとに配って回られるものでもない。その人の賭ける情熱はその人だけのものだ。
 しかし、そうした情熱とは無縁の僕らにも、誰かの情熱を通して何かが見えることがある。原稿用紙1、700枚に込められた本書の著者の情熱は、主人公の羽生という男が独りエベレストの絶壁に取りつく姿を確かに僕に見せてくれたように感じる。情熱とは、そんな夢を見せてくれるものであるのかもしれない。そんな気がした。

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紙の本ブエナ・ビスタ

2004/02/26 19:57

萬月の衝撃

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 本書は、殺人の罪を逃れて修道院兼教護院に逃げ込んだ青年・朧(ろう)を描いた芥川賞受賞作「ゲルマニウムの夜」の続編である。
 花村氏の小説は、いままでに何冊か読んだことがあるが、これと言ってぴんとくるところはなかった。一年ほど前、そのデビュー作であり第2回小説すばる新人賞を受賞した「ゴッド・ブレイス物語」を読了したとき、僕はこの人の作品を二度と手にすることはあるまいと思った。もちろん、駄作だというつもりはない。ただ単に、この人の描く世界が僕の感性と合わないと感じたからに過ぎない。最近になって、なんとなく本書の前編である「ゲルマニウムの夜」を手にすることになったが、そのときもさほどの感慨は抱かなかった。
 だが、本書の次の一節に、僕はガツンとやられた。

「(前略)たとえば君が私を殺したとしよう。そして女性を孕ませたとしよう。新たな生命である君の子供は、失われた私の生命となんら関係がない」
「ああ、しかたがないですよ」
「しかたがない」
「ええ。どうでもいいことです。瑣末なことっていうんですか。些細なことです。だって僕は、神の視点に立っているんですから」
「君は神になったつもりか」
「ええ。聖職者用図書室に入り浸ってあれこれ読み耽っているうちに、人は神の視点に立つこともできるってことに気づいてしまったんですよ(後略)」(40ページより引用)

 なんということもない文章だと思うかもしれない。が、僕には、これほど現代日本人の深層心理を抉り出した一節はないと思える。現代人はなぜ斯様にモラルを喪失してしまったか。なぜ信仰を失ったか。なぜ多くの少年たちが「人を殺してはいけない理由」を問うてくるのか。それらの“なぜ”を、この一連の会話はあまりに無造作に、あまりに簡便に説明し尽くしてしまっている。——それは、多くの現代人が“神の視点”に立っているからであると。人が“神”の視点に立つとき、モラルや信仰は当然に、その力を失う。なぜならそれは、人が自らをそうしたものの中心に据えてしまうことを意味するからだ。そして、自らを神に擬してしまった人間たち、少年たちに、人を殺してはならない理由が分からないというのも、また当然のことなのだ。
 もしかすると、これは、自らクリスチャンでもある著者が自らの信仰をかけて問おうとしていたこととはまったく無関係かもしれない。だが、上記の一節が、深く、深く、僕の胸に突き刺さったことは間違いのない事実だ。おそらく、僕はこの衝撃を生涯忘れることはないだろう。
 故に僕は声を大にして言う。花村萬月はスゲェ!!

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紙の本風と共に去りぬ 改版 1

2004/04/28 23:36

永く読み継がれる作品には読み継がれるだけの理由がある

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 僕がこの小説を最初に手に取ったのは大学3年生の夏だったと記憶している。高校時代はアガサ・クリスティーを初めとするミステリー一辺倒で通し、大学1年次には吉川英治を初めとする歴史小説、2年次にはスティーヴン・キングのホラー小説に傾倒した末に、政治学の教授の勧めでアーネスト・ヘミングウェイの「武器よさらば」を手を伸ばしたのが切っ掛けでようやくにして純文学に目が向き始めたのがその頃だった。
 いまとなっては確かな理由は思い出せないが、当時の僕にとってこの作品はあまり魅力的な小説には映らなかったようである。母がこの作品の大ファンで、すいぶん薦められたのを覚えているが、僕は全5巻のうちの第1巻を読み終えた段階で、この小説を放り出してしまった。たぶん、年齢が若かったせいかもしれない、主人公スカーレット・オハラの鼻っ柱の強さがどうにも鼻についてならず、また、南部アメリカの社交界の様子を克明に描いた場面の数々も、僕の興味の対象からほど遠かった。「これは女性が読んで面白いものであって、自分のような男性が読んで面白いものではない」と一人勝手に結論付けたのを思い出す。
 それから9年余り。縁あって、僕は再びこの作品を手に取ることになった。これほどに文学的な格調を保ちながら、かつ読んで面白い小説というのもなかなかないな、というのが読後の率直な感想である。
 巻末の解説にもある通り、この作品はトルストイの「戦争と平和」に比すべき大作であるが、「戦争と平和」ほど理屈っぽくなく、その分、通俗的ではあるかもしれないが、南北戦争を背景とする当時の社会風俗をリアルに描き出している点はやはり圧巻であり、読みやすさとドラマ性の点で群を抜いている。
 9年前、あれほど鼻について仕方のなかったスカーレットの鼻っ柱の強さがかえって強烈な魅力として映じるようになったのはおそらく過ぎ去った9年という歳月のせいだろう。彼女が、波乱に次ぐ波乱の末にレット・バトラーと結ばれる場面——バトラーの偽悪的な包容力が悍馬の如きスカーレットをついに“屈服”させる瞬間はなんといっても劇的であり、一男性読者としてとても痛快である。また、“女性の世紀”の黎明を告げるが如きスカーレットの男勝りの活躍もまた、この小説の大きな魅力のひとつであることは間違いない。
 僕がこの小説を読んでいて思い出したのは、数ヶ月前に読んだなかにし礼の「赤い月」という小説である。映画化もされ、こんどテレビドラマ化もされる話題作であるが、構成的にこの二つの作品は良く似ていると思った。違うのは、「赤い月」における主人公の女性(なかにし氏の母親をモデルにしていると言われているが)の男性遍歴に、どこかいい訳めいた注釈が付けられている点であり、僕はそこに大いなる不満を感じたものだが、その点、すさまじいまでの男性遍歴を重ねながら「それが何だ」とばかりに胸を張り通すスカーレットの女丈夫ぶりは際立って美しく、とびきり魅力的に感じられた。
 永く読み継がれる小説にはそれだけの理由がある。そのことに、9年かかってようやく気づいた次第である。

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どうじょうの、はくしゅは、いらないのですね

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 私事にわたるが、僕は先日、足掛け8年にわたって付き合ってきた女性と婚約した。実は彼女は白内障の障害を持って生まれた視覚障害者なのだが、その彼女と長い間付き合ってきたことで、僕は障害者に関しては、普通の人よりは理解があると自惚れていた。だが、その僕の後頭部に、本書は強烈なドロップキックを見舞うことになる。
 ドッグレッグスというプロレス団体が本書の舞台である。それはただのプロレス団体ではない。障害者のプロレス団体である。障害者対障害者の対戦はもちろん、障害者対健常者の対戦も行われる。そこには、何らの手心も加えられない。健常者は重度の障害を持った相手にも全力でぶつかっていく。実際に彼らの試合を見たことはなくとも、障害者が健常者によって容赦なく痛めつけられるという構図は、想像するだに痛々しく、嫌悪すら覚えかねないもののように思える。だが、この団体の主催者である著者の思惑はそこにこそ存在する。
 世間ではしばしば簡単に「健常者と障害者は同じ」と言われる。それはあたかも耳に心地いい言葉である。だが、実際の社会における障害者の扱われ方はどうか。効率最優先の社会の中で、彼らは爪弾きにされている。健常者たちは「健常者と障害者は同じ」という美辞麗句に身を任せるだけで、実際には彼らに対する関心も優しさも失っている。そうした社会の障害者に対する無関心や冷淡さに対して、障害者プロレスは強烈な「ノン!」を突きつける。健常者と障害者が対等に対決するのは不平等だ、ひどい、と言うけれど、実際の社会の中であんたたちが障害者に対してやっていることはこれと同じことではないのか。メンバーのある者は試合の痛みに耐えながら、ある者は弱者を痛めつけることに対する良心の呵責に耐えながら、ただ一心にそのことを訴えようと、プロレス興行を続ける。
 映画にしろドラマにしろ小説にしろ、障害者を扱った作品はどれも障害者を美化するものばかりである。人々はその美しいだけの作品に“感動”の涙を流し、「生きる勇気をもらった」などと奇麗事を口にしながら、次の瞬間には障害者の存在などすっかり忘れてしまっている。彼らにとって障害者とは、所詮、自分とは関係のない存在に過ぎない。自分はオンリー・ワンであるという美句には共鳴しえても、隣の見知らぬ障害者もまたオンリー・ワンの存在であるということにまでは考えが及ばない。現代人のヒューマニティはそうして虚構の世界にのみ局限的に横溢し、あの映画を見て泣いた、この小説を読んで泣いたという人間が世に溢れるほどいるというのに、弱者に対する思いやり度では世界でも最低ランクの国家が形成されているという大矛盾を引き起こしている。
 そうした現代日本の風潮に痛烈なウェスタンラリアットを撃ちつける本書は、解説を書いている香山リカ女史の言葉を借りるまでもなく、誰にも薦めたい良書である。間違いない。

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紙の本赤ちゃんは殺されたのか

2003/12/06 20:38

こんなことがあっていいのか!?

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 ドラマ「3年B組金八先生」の中で、教師・坂本金八はこう繰り返す。——子供を愛していない親はいない。しかし、この本を読み終えたいま、僕の中でその名台詞には大きな疑問符が付いている。
 ある名もない夫婦のもとに一人の赤ん坊が生まれる。だが、その赤ん坊は生まれて1年余にして「不慮の事故」でこの世を去る。赤ん坊には多額の保険金がかけられていた。赤ん坊の父親は支払われた保険金で新車を購入した。その数ヵ月後、二人目の赤ん坊があとを追うようにしてこの世を去る。死因は「乳幼児突然死症候群(SIDS)」——医学的には自然死である。父親はこの赤ん坊にも保険金をかけており、赤ん坊の死後、それを受け取る。数年後、この夫婦の間に生まれた三人目の赤ん坊もまた世を去ってしまう。死因はSIDS。父親に対する「疑惑」は当初からあった。だが、捜査当局には彼を「殺人者」として告発できるだけの証拠がなかった。「事件」はこのままやみに葬り去られるかに見えた。だが、数年後、この父親が別の事件で逮捕されたことをきっかけにして、事件は明るみに出る。父親は赤ん坊の殺人容疑で逮捕・起訴され、ついに有罪判決が下される。——
 この一連のエピソードはフィクションではない。アメリカにおいて実際に起きた事件を基に書かれたノンフィクションである。実の父親が幼い我が子に多額の保険金をかけて殺していたという事実、父親の殺人行為が「SIDS」の名のもとに自然死として扱われていたという事実……これだけでも、内容的にかなりショッキングである。
 だが、本書においては、これはほんの序章に過ぎない。
 この事件を担当した検事が裁判の証拠集めの過程で、たまたまSIDSの専門医からある衝撃的な事実を耳にする。それは、二十数年前に、ある一組の夫婦の間に生まれた5人の乳幼児が相次いで「SIDS」の診断の下に死亡しているという事実だった。しかも、その赤ん坊たちの死は、SIDSの原因を睡眠時の無呼吸であるとするある研究者の論文を根拠付ける重要な症例として公に発表されており、その学説は十数年の長きにわたりSIDS学会において有力説の地位を占め続けてきたという。
 「ひとつの家庭で3人以上のSIDSが出た場合、それは殺人である」という専門医の言葉に、検事は二十年という時間の流れの中に埋没していた「事件」の掘り起こしを決意する。……
 本書は、事件の発端から容疑者の特定へと至る第1部、容疑者の生い立ちから5人の赤ん坊の一連の死の経緯、その死をSIDSの症例として研究発表した研究者の経歴までを描く第2部、容疑者の尋問・逮捕・起訴・裁判、そして陪審員の評決までを描く第3部という3部構成によって、この衝撃的な事件の顛末を丹念に追っている。殊に、刑事裁判の模様を中心として構成される第3部は非常にドラマチックであり、手に汗握る展開は息を付かせない。
 読者は本書によって実に様々なことを考えさせられるだろう。赤ん坊を産んでは殺し産んでは殺したとされる容疑者の母親の心理、赤ん坊の原因不明の死が「SIDS」というブラックボックスの中に安易に葬り去られてしまう医学的な問題点、「母親が赤ん坊を殺しているのではないか」という医療現場の疑念に耳を傾けず、研究データを捏造してまで己の学説に固執した研究者の姿勢、二十年という長い時間の経過の後に裁きの場に事件の当事者を引き出して法の秤にかけることの妥当性、などなどなど……。
 そして本書の結末は、この事件の結末が決してすべての問題の解決ではないことを如実に示すものとなっている。

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