サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

  1. hontoトップ
  2. レビュー
  3. Living Yellowさんのレビュー一覧

Living Yellowさんのレビュー一覧

投稿者:Living Yellow

164 件中 16 件~ 30 件を表示

紙の本高い城の男

2007/09/13 08:45

はるさめに ぬれつつやねの てまりかな(与謝蕪村:本書p.66より再引用)

20人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

私は今、安部晋三氏の辞任の新聞記事を読み終え、本書を久々に取り出した。本書を、文字通り、喜びに胸震わせつつ、手にとって、もう二十数年。今も昔も乱雑な部屋の中、さらに混乱を極めた本棚ではあるが、机に向かって左手を伸ばせば、本書だけは目をつぶっても取り出せるようにしてある。裏ディック(神秘主義)・表ディック(ストーリーテラー)双方の長所が最大限生かされた彼の最高傑作である。安部氏を批判する資格も意志も私にはない。ただ彼ないしは彼の身体がいちはやく気がついただけだ。日本の世間の一部が気がつかないうちにはじまっていた世界戦争(文字通りの戦争である)が、彼の意志を超えた動きを見せ、彼自身の物理的存在さえもおびやかしはじめたことに。私もまた抵抗できない大きな流れの中の、ほんの小さな芥子粒として巻き込まれつつあるのだ。まだ飯の後始末もしていないのに。でもやるんだよ。流し台で意味もなくピカピカにシンクを磨こう。
 本書は独・日・伊:枢軸国が第二次世界大戦で勝利し、地中海地域をムッソリーニが比較的穏健に統治する新ローマ帝国(この辺のディックの、「身体を愛する」一独裁政治体制であるイタリア・ファシズムと「身体を抹消する」本質的に政治体制ですらないナチズムのさりげない区分は見事である。「天皇制ファシズム」などという、戦前のコミンテルンの用語を使ってしまう方々には、この意味でも本書をご一読されたい)、ユーラシアの大部分、アフリカ(ホロコーストのさらなる発達・拡大)、南米、北米大陸の半分を支配し、さらには、月面にも手を伸ばす(V2ロケット技術の継続)、ヒトラーの後継者、ボルマン率いるナチス、そして戦前からの議会制に復帰し、民生品生産技術を発達させ、ユダヤ人をも許容する穏健な統治を環太平洋地域・北米の半分で布く日本(買いかぶりすぎではあるが、日本の戦前「デモクラシー」との連続性のディックの認識はここでも的確である)、この三つの戦勝国で三分割された世界が舞台である。そんな状況下、2冊の書物が人々の間で流通している。中国の古典『易経』(実在の書物である:岩波文庫刊)、そしてもう1冊は地下出版のベストセラー、『イナゴ身重く横たわりて』というアメリカ:連合国側が勝利した後の世界を描いた『SF小説』である。
 米国駐在の一日本人中年官吏田上氏(戦前アメリカ小物オタク)、一ユダヤ人失業者フリンク氏、彼の離婚した妻ジュリアナ、戦前アメリカ骨董店の店主チルダン氏は、それぞれに平穏とは言えないが、普通に悩み、職探ししたり、ナンパされたり、商売に励んだりしていた。幸福ではないが凡庸な日々。
 しかし、ある一人の男の死が、薄皮一枚で隠蔽されていた戦争状態を露わにする。ボルマン・ナチス総統の死去の噂:次期総統を巡る権力闘争:日本側の介入の試みが、一官吏田上氏、そしてそれぞれの平凡な人生を大きく動かしていく。そして彼らは、全体像も見えぬ、目的も定かではない、流れの中で、限りなく小さく、はかない存在として、懸命にもがき続ける。
 「われわれは自分の生命を守るために、悪の権化が政権につくのを後押ししなければならないのか?それがこの世の状況のパラドックスなのか?」と田上氏は自問する。(本書p.284より)。しかし。彼は一官吏として、そこから逃げずに踏みとどまり、苦しみを引き受ける。 
 「ほんとに、輪タクだったかい?運転手がペダルをこいでいたかい?」(本書p.353より)
 そして、ジュリアナは歩き出す。
 「動くもの、光り輝くもの、生きたもの、彼女をモーテルまで運んでくれるものを探し求めて。」(本書p.391)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

「夕張市の失敗」は「彼らの失敗」だったのだろうか。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

映画好きなもので。タランティーノ監督もいらっしゃって、故石井輝男監督をはじめとするカルトな映画の話をしまくるという「ゆうばりファンタスティック国際映画祭」にいつの日か参加してみたいものだなあ、と思っていた。どうやら関係者の奮闘で、縮小して存続が決まったようで、ほっとしている。
 しかしTVで映し出される「夕張市」の「無駄遣い」したお金はどこに行ったのであろうか?夕張のおじちゃんおばちゃんがみんなして、持って行った訳でないだろう。
 東京の「代理店」、「プロデューサー」、「コンサル」に膨大な金が流れ込み、それが「ゼネコン」に配分され、札幌あたりの下請けに回されて、ワゴン車で市外から兄ちゃんたちがやってきて、寒い中セメントこねて一生懸命「ロボット博物館」とかを作っていたんじゃない?無論問題はそこに十分に外部のお客さんが来なかったことであるが。
 でも、それ本当に「夕張市」だけのせい?たしかに「ロボット博物館」は行く気もしない。しかし本当にそれは「夕張市」が自分で発案したものだろうか。上に挙げた中央の人たちが、十分な収益予想も立てず、うまく「夕張市」をから「コンサル料」とかを引っぱり出して、カニ喰って帰ってそれっきり、今頃どっかで「ロハス」なイベントとか、「あなたも~ソムリエ」フェアとか仕組んでんじゃねえの?という感じを消せないでいる。 市民の税金を委ねられながらだまされる方は勿論悪い。 でも炭坑がなくなった「夕張市」が立てた、「観光振興」(ハードからソフトへ)という大枠では正しいはずの方針に、つけ込んだ人々がいるはずだし(全部の施設・イベントがじゃないと思うけど)、今後「官から民」、「地方の自立」の流れの中で彼らがますます「活躍」するんじゃないか?という懸念が本書を読んで、高まってきた。
 前置きが長くなりすぎました。本書は「需要が供給を生む。生産力が向上する中で現代では、需要が不足する事態が発生する。そうすると非自発的失業者が発生する。その余った労働力を吸収・活用するには、「やる意義」のある公共投資が必要である」という、昨今では旗色の悪いケインズの根本テーゼの再評価を試みている。
 ケインズの著作自体にある「消費関数」、「乗数効果」や「穴を掘っても意味がある」などの現在では通用しない概念と整理し、「供給が需要を生む。自発的失業者は市場原理によって吸収される」という現在、支配的な新古典派のテーゼと丁寧につきあわせ、「流動性の罠」(低金利政策の元では、資産を「現金」(流動性資産)のまま、持っているほうが、物価の下落と相殺してプラスになるので、充分に「国内」に投資が向かわないか、高金利の海外に流れていくという現象)などの現在の日本の「奇妙な好況」の背後にある現象の分析を通して、近年一般的な「公共投資」=NO、「構造改革」=YESという論調にていねいな、数学的記述をなるべくおさえた(ここは逆につっこまれてしまうところかもしれない)、部外者にもわかりやすい記述で異議を呈し、今現在の日本における「有効な公共投資」の必要性を訴えている。
 わかりやすい上に、脚注などを見る限り、理想論者の根拠に無関心な立論とは、距離を取った手堅い一冊である。朝日を読んでも日経を読んでも、それぞれに腑に落ちないモヤモヤを抱えた方にお勧めしたい一冊。
 しかし、紙幅の関係であろうか、国際経済への言及が少ない。できれば本書の視点で「グローバリゼーション」を分析した続編を待望します。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本若者たちはなぜ自殺するのか

2007/06/13 22:02

ネットの樹海の中、細い糸をたぐりよせる。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 最近、私的な外出のときはなるべくJRを避ける。「人身事故」のアナウンスにいらだつ人々を見るのが不快だから。お互い忙しいけど、人が死んだんだよ。本書では「人身事故」=「飛び込み自殺」のケースはない。
 本書は、著者が2000年からおそらく5年以上、自ら、足を使い、ネットも駆使して取材を重ねた、10代後半から30代までの、5人の自殺者・8人の自殺未遂者の記録とその考察である。
 自殺者と書いた5人は第2章「自殺した若者たち」を構成する5人の女性たち。ネット・自助グループを通して、リストカット・摂食障害・自傷癖・薬物依存などと闘っていた彼女たちを、著者は見守っていたのだが、突然、彼女たちの死をネットなどを介して間接的に知ることになる。あとがきで著者自身が吐露しているように、多くが女性である取材対象との関係において、冷静さを保つため、適切な距離を保つことにしている著者にとって、彼女たちの死を止められなかった痛みは深いものだろう。
 しかし、彼自身が取材を通して認識しているように「深い関係」の存在が自殺を止めることができるわけではない。例えば第2章に登場している自殺した女性は、信頼できる彼氏を得たことで、かえって「いつか見捨てられるのではないか」という不安にさいなまれ、自分を追い込んでしまった。あるいは自分の所属するサイト・自助グループの中などで「話して(カキコして)すっきりしたら」、そのグループのなかで、「私の方がもっと苦しい」などと負の競争が起きてしまって、事態を一層悪化させてしまう例も挙げられている。
 第1章「若者たちはなぜ自殺するのか」で「いじめ自殺」を競って報じるマスコミなどの姿勢に疑問を呈し、ネットと自殺・自傷行為の関係や自殺の原因を個人の人格に求める「心理主義」など、現代の若者の自殺を総合的に分析している。そこに浮かびがってくるのは、この社会に蔓延する「生きづらさ」の意識である。
 最終章「試行錯誤と(人間関係の)選び直し」は、主に当事者を念頭に置いて書かれたのだろう。色々試みて、どうしてもだめだったら、親も教師も捨てて、「人間関係」を選び直すことを、著者は提起する。
 第2章と第3章「自殺したい若者たち」で登場する13人のケースはさまざまだ。いじめられ経験、性的虐待・児童虐待の経験、親の過剰な管理、学校社会での過剰な競争など、共通することが多い要素もある。しかし。スカウトされてすぐ死んでしまう少女、ゴスロリ少女、剣道少女、フーゾク嬢。失恋青年、マッチョな公務員。優等生。ラフィン・ノーズが好きだった女性。それぞれを、外見でくくれる共通点はない。みんなきちんと演じていたから。表であれ裏であれ、社会がそれぞれに求める役割を。
 あとがきで、著者が述べているように、また本書を通読しても感じたことだが、自殺の原因でもっとも多いのは、やはり経済問題である。「生きづらい」社会構造とリンクした集団・家族の構造の問題もきりはなせない。当事者への単純な「呼びかけ」で減らせることはないだろう。
 著者は、多くの死に接しながら、本書の最後まで、上から自殺を禁じる「神」の視点に立とうとはしない。その姿勢に深い感銘を受けた。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本囚人のジレンマ

2007/06/13 17:09

ディズニーランドから出られなくなったお父さん

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は1988年に発表された。おそらくは1980年代初頭、アメリカの郊外に住むホブソン家。第2次世界大戦中に青春を過ごした、歴史の教師であった父は「心」の調子を崩している。彼は、妻によれば「アメリカ最後の、借金ができない男」だ。妻は「美しい書体で書いた献立メモを冷蔵庫に磁石で貼り付け」、家事にベストを尽くす。法科大学生の長男、高校生の次男。地元では優等生だったがいまは出戻りの長女、大学中退後、バリバリキャリアアップして「勝ち組」になった次女。この6人家族だ。
 ホブソン家の父はいつもおしゃべり好きだ。でも、いつもうんちくとかたとえ話とかだじゃれとか。本当の気持ちを口にすることはない。そんな父の、お気に入りのうんちくの一つが、この「囚人のジレンマ」だ。
「囚人のジレンマ」とは20世紀前半に生まれ、現在も強い影響を現実社会に与えている、経済学のゲーム理論の基本的な概念のひとつだ。A、B二人の囚人=プレイヤー(互いに連絡は取れない)に対し、互いに不利益を与える選択をすれば、双方にとって最悪よりほんの少しましな、互いに利益を与えれば双方にとって最良の結果をが与えられるという規則のゲームを設定する。そして片方だけが相手のことを思いやり、もう片方が裏切った場合。思いやった方には「死」、裏切った方には「完全な自由」が与えられることになる。このゲームの中に放り込まれて、自分自身のみの最大の利益を「合理的」に追求するとどうなるか。二人とも常に「相手の裏切り」を考えて行動するので、結局、双方にとっての最良の結果ではなく、二人とも最悪より少しましなだけの結果を招いてしまう。
 そして父をめぐる危機の最中、真夜中に目覚めた、長男アーティはこのジレンマを突破する「単純で恐ろしい方法」を見いだすのだ。
 ①1980年代のホブソン家、②父ホブソンの過ごした太平洋戦争時のアメリカ、③息子たちの回想する一家の過去・父の過去。この3つの時空の物語が交互に語られ、収斂していく。②の登場人物は多彩だ。ミッキーマウス、スティムソン国務長官(日系人の強制収容を指揮した人)、日系人アニメーター、B29、ウォルト・ディズニー、などなど。そしてある一つの激しい光が、②を、そして①、②、③、全てをまとめ上げてしまう。
 昔、野間宏が「全体小説」という理想を掲げたことがあった。「青年の環」などでのその試みはみごとに失敗したけれど。しかし、本書こそは、歴史・政治・家族・人間・哲学全てを扱った「全体小説」の名に値する傑作である。
 一見取っつきやすくはないが、一つ一つの章は短いし、柴田元幸先生を筆頭とするグループによる名訳である。映画、音楽、商品名など頻出する固有名詞への脚注も丁寧だ。是非。 本書を読み終えて味わった、さんざん考えさせられて、最後に浮かんでくる涙というのも、良いものでした。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

死をやりなおすということ。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 若き日のドストエフスキーは政治犯として死刑宣告を受け、執行直前に中止された経験を持っている。それは執行者にはあらかじめ分かっていたことだった。しかし当事者である彼には例えようもない「死」であった。飛行機に少し詳しい人ならばご了解頂けるだろうが、平常時でさえ飛行機の製造・整備には多大なマンパワーを要する。特攻が立案・実行された戦争末期の日本の状況(生産体制、整備体制、保有機数、燃料事情、パイロットの熟練度など)を考えると、特攻そのものを否定するにせよ肯定するにせよ我々がTVなどで見る出撃映像のその前後にすさまじい困難があったことは明らかだ。つまり大西中将はじめ上層部がたとえどんなに悲壮な決意で決定した作戦にせよ、人間的な感情を抜きにしても、無理のある作戦だった。
 天候不良、機体の故障、技量不足などで「軍神」とあがめられて飛び立った特攻機のうち一定数のものが不時着・帰還せざるを得ないこともその一つである。本書はその帰還者たち(厳密にはその一部が)がどのように特攻に臨んだか、どうして還ってきたか、どう扱われたかを、陸軍福岡第六航空軍の参謀、その麾下の振武隊の隊員たち、素人同然の技量で全力で機体を組み立て、整備し、隊員を見送った女学生たちなどへの綿密な聞き取りのもとに、描きだした。このタイプのルポルタージュに欠けがちな軍事的背景、飛行機・兵器の構造について比較的まともな目配りがなされているのも好感が持てる。軍記としても読むに耐えるノンフィクションである。
 私は特攻に命を散らした方々を「犬死に」と呼ぶことには単純に怒りを覚える。しかし本書に描かれる帰還者の方々への扱いには、より深い怒りを覚えた。さまざまな物理的な事情で帰還してきた彼らを面罵し、幽閉し(「軍神」は生きていてはいけないから)、軍人勅諭を清書させる。そして再出撃のプレッシャーを強いる。
 たとえ、強い決意で臨んだとしてもニ度やれることとやれないことがある。
 そして「結局、死に損なった人間には共通の話題というものがない。」(本書p.221)
 しかしその現場責任者・帰還者からひどく憎まれた参謀自身(彼への聞き取りの成功が本書の深みを増している)さえも、本来海上目標(艦船)への攻撃を目的としていない陸軍の特攻隊の訓練体制整備・部隊編成に奔走する中で飛行機事故にあい、頭部重傷を負った身体で指揮を執り、帰還者からの復讐を恐れて戦後50年近く80歳までピストルと軍刀を手放せなかった。彼は参謀の中で唯一の現場パイロット出身者だった。
 IWGP。キングはあの時、一度、本当に何かを見たはずだ。今、彼に読んでほしい一冊である。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本独身女性の性交哲学

2008/09/01 19:30

覗き見ること。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 大昔。とある雑誌のコラムで、橋本治氏が、「少女マンガというものの本質は、少女にとってのポルノグラフィーであり。それを男がありがたがって読む、というのはどうか?」という問題提起を為されていたように、記憶している。
「男にとって女は謎」という本当に言い古された紋切型は、依然、というか、ますますもって力を有している。
 
 その女性の「内面」をめぐるさまざまな試みが、男性の手になる文章の多くに影を落としている。その流れが女性の手になる文学的営為と無関係、とは言えない。少なくともまだ日本では数の上(紙ベースでは)、男性「専業」作家の方が多数派であろう。
 
 「女」を覗き見る男たち。その眼差しの先には「女」は存在するのだろうか。

 そんな、「覗き」を、金銭的な対価を代償に、許容する、というより「許容するというプレイ」を「許容する」のが、「娼婦」という、「人類最古」というより、「貨幣経済の発生」と密接に関係したはずの「商売」ではないだろうか。

 本書はその。なんだかんだいって「男性の無責任な好奇心」と括らざるを得ない「覗き」の欲望を満たしつつも、深い困惑に陥れてくれる、快著である。

 「娼婦」をテーマにした「文学作品」、「映画」、「評論」、etc。山のように存在する。これからもどんどん生み出されていくだろう。

 しかし、「娼婦」として平成を生きた著者の手になる本書は、階梯を異にする。
 とにかく、「好奇心」を抱かれた方には是非、手にとっていただきたい。

 「娼婦」も「人間である」、という当たり前のこと。
 「娼婦」も「本を読む」。ガンガン読んでいる。
 「娼婦」も「モノを考えている」。凡若の大学人よりも深く。

 そして「娼婦」から「特別なロマン」は紡ぎ出せない、という、厳然たる現実。

 その最低限の出発点を、本書は提供してくれる。

 男性著者による、男性向け恋愛論に納得がいかない男性の方にも。

 しかし、読後。途方に暮れた。

 「幸せって何だっけ?」

 「だからこそ、本当に大事なのは、色恋なしの信頼できる人間関係なのだ」(本書あとがき、p.227より)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

唯一無二の、あのかんじ

10人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

とでも言うべきものを感じる俳優。個人的には、宮崎あおいさん(来春、映画『陰日向に咲く』出演)、男優では草なぎ剛さん(来年『山のあなた』主演←戦前の名匠清水宏監督の名作『按摩と女』のリメイク)である。いつか二人が兄妹役か、あるいは十年後『死の棘』の夫婦役で共演していただけたら、とそんなことを勝手に夢見ている。
 さて、このお二人には、とある共通点がある。本来の「崎」と「なぎ」が基準外の書体で、一般のコンピューター上の文字コードでは対応していないのだ。一般人なら名字だから、変えるわけにはいけないが。関係のない第三者にとっては、「もっと普通の漢字を選び直せばいいじゃん、芸名にするとか?」としか受け取られないかもしれない。しかし、お二人にとってはやはり、この一文字は唯一無二の大事な何かを伝えてきたものだろう。

 戦後。「日本社会の民主化」=「自由と平等の実現」のために様々な施策がとられた。その一つが当用漢字に代表される、漢字制限である。今なお意見が大きく分かれる問題である。
 しかし、「開戦の詔書」。そして「玉音放送」。これらは新聞で読んでも、ラジオで聞いても。特に後者は、国民の多くにとって、独力で趣旨を完全に把握するのは難しかったようである。それこそこっそり「先生」や「ご隠居」に聞いたりして確認する作業が不可欠だったのではなかろうか。戦後の「国語:漢字改革=簡素化=標準化=平等化」への動きには、それなりの理由はあったように思える。

 だが、その先頭に立って「漢字改革:平等化」の旗を振っていた新聞が、思わぬところから、と言うより真っ正面から、故林達夫氏(岩波文庫の初期の中心ブレイン)のツッコミを受けてしまう。今でも誰にでも可能なツッコミです。もしお手元に朝日新聞があったら。第一面。右上端。題字をじっくり見ていただきたい。その「新」はどういう書体だろうか?(本書p.31「漢字題字問題」)

 この前の月曜日。行きつけの「郵便局」はえらい混雑だった。しかし名前が変わっていないのにはなんとなくほっとする。田中真紀子氏の父であり、かつての自民党最大の実力者、田中角栄氏は1959年、39歳で、戦後最年少での大臣ポストを獲得している。郵政大臣である。在任期間は十一ヶ月しかなかったものの、彼は、それまでNHKしか全国TVネットを確保していなかった状況を根本的に変える。全国のテレビ局四十三局に一括して予備免許を交付したのだ。そして彼は郵政省の名称を戦前の「逓信省」に変えることを含む「郵政(強化)改革」を試みる。しかし「逓」の字は当時の当用漢字に含まれていない。そして新聞各社の反応は?(本書p.50 「郵政省改名騒動」)

 昭和の社会を文字通り揺るがした、「漢字」たちをめぐる歴史を20ページぐらいの短い章で、その中のトピックごとに読み説いていく本書は、構成、文体ともに非常に読みやすい。そしてそのトピックを手で縫いつけていくように、本書を、一本の糸が貫いている。「自由と平等の矛盾」という名の糸である。
 戦後の「漢字の平易・平等化」はしかし。同時に「好きな漢字を使う自由」を抑圧する過程でもあった。そして高度成長期を経て。人々の漢字をめぐる欲望は「自由」の方に大きく、方向を変えて現在にいたっている。
 ワープロの普及を皮切りにした情報処理技術の発達で、好きな漢字をいくらでも使えるようになる「自由」が確保されるのも、そう遠い将来の事ではないだろう。

 しかし。ある日、@子と届け出る女性が現れ、「それじゃあ俺は?男っす」「わしは*#じゃ」と続々と後に続き、それぞれ「そんざいのば・こ」、「えいえんのといかけ・お」「ヨネイじゃよ、ヨネイ」などと勝手に自分の文字を選び、自分勝手な「読みカナ」を要求しはじめたら。入口においては、現在の技術はそれらの願い、そして果ては「自分文字」を流通させる「自由」までもを受け入れることができるだろう。

 妄想と一笑に付していただければ幸いだが。一時期流行った、ケータイメールの「ギャル文字」はそんな「妄想」を加速させた。
 そしてそのたどり着くところは、「私による私のための私だけの文字」かもしれない。そこに至った「自由」は、その基盤にあるインフラ:コミュニケーションを構成している「平等」という(フィクションであるが、すくなくともIPアドレスは表面上「平等」に見えている)前提を自己破壊するにいたるのではないか。

 バンバ・バン  バンバ・バン 見たか 侍ジャイアンツ
 (『侍ジャイアンツ』(作詞 : 東京ムービー企画部 作曲 : 菊池俊輔 唄  : 松本茂之、より)

 番場蛮。故梶原一騎先生の生み出した、空想読売巨人軍最高の投手です。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本日中戦争下の日本

2007/09/24 01:19

そうむやみにあやまるもんじゃない。

9人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

とよく言われる方である。事実「すみません」と言葉を発し、さらにお詫びの品、羊羹か何かを選んでいる時、確かに私は自ら「すみません」といったことをすまそうとしている。そしてその繰り返しにはある種の快楽さえ伴うことさえある。マゾヒステイックとはあえて言わない。強いて言えば一人で腹筋運動を繰り返して、目標回数をクリアしたあとの充実感に近いのかもしれない。ここまできて、前の湾岸戦争の頃、とある友人に「国を人にたとえちゃあいけないよ。話がクリアになるように見えて、余計こんがらかっちゃう。国は人から成り立ってるし、国が人を支えている、そこらへんで訳がわからなくなります」と真顔で諭されたことを思い出した。
 「殺される側の論理」(本多勝一著・朝日文庫)というのはやはり訴求力を持った力強いタイトルである。どんな背後事情があるにせよ、被害者(国ではない)からどんな形であれ、出されるメッセージには「すみません」と心からお詫びすることができたらとは思うことがある。だが。一時期の日本での事情は「そんなんじゃ謝り方が足りん」、「もっと誠意を」ときりのない「謝り競争」を生み出し、それは多くの場合、関心を共有するもの同士の幅広い実務的な連絡・相談とか、「被害者」のダメージを具体的にどう回復するか、というきちんとした「仕事」につながってこなかったのでは?という気が昔からしている。どんな形であれ「ごめんですんだら、警察はいらんわ」というのはやはり真実であり。具体的に不承不承でも相手との最低限の関係を維持するためには、きちんと仕事をする主体を、かなり無理をしてでも立ち上げなければならない。「解体」とか「裂け目」とか言われても相手も正直困るだろう。
 本書は日本にとっての国内問題としての昭和中期:「日中戦争」をわかりやすく、分析・解説した読みやすい一冊である。「殺される側の論理」に拘泥しすぎると、わからなくなってしまう真実もある。本書の大前提は戦前(戦中にも影響力を保つ)における「昭和デモクラシー」の存在である。(この点では『昭和史の決定的瞬間』坂野潤治氏:ちくま新書との併読をおすすめしたい)
 かつては治安維持法とセットと常に語られてきた普通選挙法(1928年成立)であるが、この法律に基づく成年男子による「昭和デモクラシー」は基本的には大政翼賛会の成立まで機能し(むしろ翼賛体制を生み出したといってもよいかもしれない)、戦時下もある程度(労働組合的機能・農民組合的機能・政党政治的機能を含む)し続けた事実を本書で繰り返し指摘する。そして(中国の人々にとっては本当に勝手極まりないことであるが)「日中戦争」が「自由」(自由経済:格差)より平等(統制経済:銃後の「福祉」)」を選択した民意を受け、数々の知識人(三木清、尾崎秀実(ゾルゲ事件被告→日ソ最終決裂後処刑)、文学者(火野葦平、林芙美子(森光子氏「放浪記」原作者)、小林秀雄)に様々な「理想」を夢見させ。政治家たち、たとえば「合法左派」社会大衆党(一部は現在の民主党の流れに連なる)は「戦時下」、「戦争遂行」と「銃後の福祉」を具体的に立案、得票数を増加させ、翼賛体制成立においても大きな役割を果たす。
 そして、過酷な戦場体験を持ち帰る兵士たちの抱く、出来合いの慰問袋(「なでしこ」が自分で作るのが理想だったのが、日中戦争の長期化につれ。現在の「特製おせち」のように百貨店から、送り主の名も代筆で、戦線に直送されるというコンビニ産業化現象さえ一部にあったらしい)に象徴される、「銃後の祖国」への違和感。貧しさが生んだ戦争がもたらす好景気。しかし、そのゆがんだシステムのひずみがやがて、「銃後の日常=命がけで守るべき国内平和」を自己破壊する地点にたどり着いてしまう。その地点に至る流れの著者の描写は平易かつ冷徹である。
 ただ、都市と地方、北海道・沖縄などの「準前線地帯」との温度差など、おそらくあえて捨象されているだろう部分が個人的には気になった。
 しかし、何もかもみんなでひっかぶるのも、逆に一部の人々におっかぶせるのも、相手にとってはおそらくはどうでもいいことである。内外においてどういうスタンスをとるにせよ、最低限の足場は必要だろう。本書はその一助となる一冊である。「デモクラシー」を見つめ直すためにも。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本権力の読みかた 状況と理論

2007/08/24 01:08

ブルースは加速していく

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

そんな青い歌声がまだ街角に流れていた頃、会話が煮詰まってしまい、ふと思い出した、下記のようなうろ覚えのアイヌの昔話をしてお茶をにごしたことがあった。
「昔、熊になった女の子か、女の子になった熊、を裏切って。呪われた男が、こんな罰を与えられたんだってさ。上半身を思い切り前方にかがめられてしまうんだ。男の口が自分の尻の穴にくっつくほど。その後一生その男は、そうやって自分で出したものを食って生きていかなきゃならなくなった。飢えることはないんだ。でも食べ続けなきゃならない」引かれました。
 本書読了後、その昔話(自分が勝手に捏造したかもしれぬ)の男の姿が思い浮かんだ。
 本書は序論・状況1・状況2・理論の4部から構成されている。
 「序論」においては、国家権力と切り離されて捉えられがちだった、フーコーの「権力論」:「身体の政治的テクノロジー」(身体をとりまく戦略的で工学的な仕掛けのもたらす権力:例えば「メタボリック」の現在の拡がりだろうか?)と法に基づく暴力(に対する合意の確保)を主導力とする国家権力が、別の水準に位置しながらも、互いに補完しあっていることを、平易かつ丁寧な、端的に言えば漢字や造語が少ない文章で解説する。
 「状況1」、においては、アメリカの対テロ戦争下の状況を「通常の法が執行停止される」例外状況として捉え直し、ヨーロッパに代表される主権国家システム(まず国境が存在し、それを挟んで主権国家同士が対立するという枠組)とは根本的に異質な、脱国境的なアメリカの「例外的」本質を指摘する(なぜキューバに米軍のあのグアンタナモ基地:収容所が存在するのか?)。その「例外的」アメリカと、「死の恐怖」を中心として構成される欧米的価値観と根本的に対立するかのように語られてしまう「自爆テロ」を行う人々の「例外性」がどのように絡み合っているのかを分析する。それに続く章では、その「例外的」アメリカを中心としたグローバリゼーションの進行に対応した、小泉前首相「郵政民営化」に代表される「構造改革」をイラク等における「戦争の民営化」にも通底する「権力の再編成と利権の回路の再配置をめぐるひとつの運動」として、批判的に捉えている。
 「状況2」、においては、「フランス暴動」→「サルコジ政権」に代表される、自らの失われつつある拠り所を、自らを排除しつつある国家そのもの:ナショナリズムに求めざるをえなくなっている人々自身が支え、現在ヨーロッパにおいて、勢力を増している、左右を問わない「ポピュリズム」がどのように機能しているかを、諸国の情勢を踏まえたうえで、分析する。  「理論」、においては、フーコーにおける「知」と「権力」を巡る理論を、諸事情もあって難解であることでしられる「知の考古学」に取り組み、明快かつ簡潔にそのエッセンスを腑分けすることを試みている。(ただ本章はさすがに他の章とは異なり、難解である。個人的な理解力の限界だと思う。ただこのような、正面からフーコーに取り組んで、ここまでかみ砕き、かつ、マジックワードに逃げ込まない論考は、これまで読んだことのないタイプのものだった。)
 フーコーという名が気になっている、特に若くて元気な方には、お勧めしたい一冊です。
 しかし、上記の昔話ではないが、本書が描き出す、この「全体」に「呪われている」ようにも思える、閉じた「回路」としての世界を、このように明快に提示されると、正直たじろいでしまう。
 たぶん。心の弱さが。「誰か」に呪われていると考えたがり、その「誰か」を特定しようと走り出してしまうのだ。それが熊であれ女の子であれ、熊になった女の子であれ、女の子になった熊であれ。あのアイヌの昔話のオリジナルを読んだのは、確か「ひとつぶのサッチポロ」という本で、だったと思う。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本国のない男

2007/08/04 11:09

ボコボコノンノンノン~ヴォネガット読んだか?じゃあまた来世!

9人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

太田光氏の奥さんが経営する彼の所属事務所「タイタン」はヴォネガットの傑作「タイタンの妖女」(早川文庫)にちなんで命名された。
 本書あとがきの訳者解説によれば、現代アメリカの高校生にとっては、サリンジャーの「ライ麦畑」よりも彼の「スローターハウス5」(早川文庫・第二次大戦中、彼がドイツ軍捕虜として経験した英国軍によるドレスデン大空襲を軸に構成されている。「明日に向かって撃て!」のジョージ・ロイ・ヒル監督によって映画化。DVD未発売)の方が親しみ深いという。
 本書は2005年に本国で発売され、彼の最後の著作となってしまった。 本書はエッセイ集といえばエッセイ集だが。個人的に何よりも嬉しかったのは、おそらく20年以上前、彼が来日したとき、NHK教育で「平和な世界と世界の平和」と題されて放送された彼の講演とほぼ同じ内容の、シンデレラからハムレットまでを「論じる」、彼の「物語論」ともいうべきエッセイが収録されていたことだ。(本書p.34~46)
 もう一つは彼が連載を持っていた、シカゴの「In These Times」という新聞の存在を知ったこと。その名で検索してHPに入ってみた。面白い。当たり前のことだが、アメリカは一つではなかった。
 本書はもちろん、読みやすく、ほろ苦くも楽しい、喫煙者には最適のエッセイ集だが、とにかく、何でもいいから、彼の作品を読んでいただけたら。
 少し長くなるが、本書から下記、引用をお許し願いたい。
<数年前、ミシガン州イプシランディの懐古的女性から、一通の手紙が送られてきた。(中略)彼女はこう書いていた。「わたしはあなたの意見を聞きたいのです。わたしは四十三歳で、ようやく子どもを産もうと思うにいたりました。でも、不安でしょうがないのです。こんなに恐ろしい世界に新しい生命を送りこんでいいものなのでしょうか」
  絶対にやめたほうがいい!とわたしは書くところだった。(中略)
 しかしわたしはこう返事をした。生きていてよかった、と思わせてくれるものが音楽のほかにもあります。それはいままでに出会った聖人たちです。聖人はどこにでもいます。わたしが聖人と呼んでいるのは、どんなに堕落した社会においても立派に振る舞う人々のことです。>(本書p.114~p.115より)
 ありがとうございました。ヴォネガットさん。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本北一輝論

2007/07/27 05:23

「俺の話を聞け」「じゃあ、まあ、投票所に」:明るい選挙推進協会

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ある夜、ふと、TVドラマ「夜王」を見たころからだったろうか。北村一輝さんがかなり気になっている。芸名からして2・26事件のイデオローグ、「北一輝」じゃないですか。そして「十四才の母」での戦場カメラマンくずれの週刊誌デスク(昔だったら林隆三が演じてたような)というシニカルな役どころもかなり気に入ってしまった。
 さて、「国民の天皇・華族制の廃止・貴族院の廃止・普通選挙の実施・治安警察法などの撤廃・私有財産・私有地・私生産業の限度・労働者権利の擁護・国民教育の実施」。これが真性右翼:北一輝氏の「国家改造法案」の改革案である。ほとんど今の憲法じゃないかと思ってしまう。しかし重要なポイントが潜んでいることを著者は指摘する。
 「俺にやらせろ」この一言が隠されている。
 「つまり、天皇=国家に対して国民=国家を対峙させる北の方法は、極めて民主的であるとともに、天皇絶対主義に対して自己絶対主義をもって叛逆するという反動的性格をも内包していたのである。」(本書p.108「唯一者とその浪漫的革命」より)
 著者は強烈な個人主義者で有り続けた彼の個人史・思想の形成過程を本書で、ドストエフスキーの「罪と罰」のラスコリーニコフをしばしば比較対象にして描きだす。
 しかし。一個人が徹底して、自分を鍛え上げ、叫ぶことは、やはり、美しく正しい。と思えてならない。ぐっとこらえて、投票所、力一杯鉛筆握りしめ。×と描いて帰ってくる。そんな選択肢しかないように思える昨今だが。
 本書のもう一つの読みどころは、明治三十六年、彼が若干二十一歳で地元、佐渡の新聞に連載し、すぐ中断せざるを得なかった「国体論」をめぐる、地元での論争:抗争を描いた「国体論伝説への照明」という一章である。政友会(自由党の流れを引く)系と対立勢力との、互いの支持する新聞紙上での活発な論戦の描写は、当時の地方での知識人層の活発な行動を活写して、戦後、急に「民主主義」が始まったかのような幻想を払拭してくれる。無論限られた層においてではあれ。
 さて。ここまで読んでいただいた方。今、上記「明るい選挙推進協会」(総務省の外郭団体)のサイトで先頃カンヌで栄冠を掴まれた、河瀬直美監督による、奈良の田舎の小学校での生徒会選挙風景を描いたセミ・ドキュメンタリー短編が無料上映中です。途中から北村一輝さんも出演してて。「なんで投票しないの~」という子どもたちを前に、彼はどう答えたか?
 選挙に行くか、どうか、まずは、ちょっと考えて見るのもいいんじゃないでしょうか。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

「もう!わたし、あんたのママじゃないのよ」と「自然」レイに怒鳴られた夜に

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 やさしくしたつもりが、大事にしていたつもりなのに、相手には最大の怒りをかき立ててしまう。そんな見苦しい思いを避けて、歳を重ねるのは難しい。私たちが、自分を自然と一体であると思っていても、「母なる自然」は何も答えてくれない。突然暴れ出したり、この上もなく美しい朝日を与えてくれたり、突如大学を休講させまくったり。
 本書は、米国の遺伝子工学・バイオテクノロジー研究の現役バリバリの権威である著者が執筆、2006年に原著が刊行された。「遺伝子工学と生命倫理の関係」をテーマとした全五部構成の大著である。とはいえカール・セーガン先生の流れを汲むであろう、優れた科学啓蒙書として、多くのわかりやすい実例・エピソードを交えた読みやすい書物だ。
 第一部「霊魂」では、霊・魂の存在を巡って、科学者たちと一般世間の人々たちが、これまでどんな議論を重ね、現在どんな感覚を共有、あるいは対立しているかを、丁寧に解説しながら、脳内物質にたどり着き、現在の研究の最前線をわかりやすく解説してくれる。
 第二部「人間」。アメリカを筆頭とするキリスト教圏の科学界で、研究面でも、倫理的論争としても、もっとも熱い問題になっている「胚」を巡る問題。人間の「胚(受精卵が細胞分裂をはじめた状態)に魂・ないしは人権はあるのか」、ひいては「胚を利用して病に苦しむ人を救うか、それとも胚の魂・人権を尊重するのか」という大問題に、多くの実例、議論を紹介しながら取り組む。ブッシュ政権の下では、多分に、政治的・宗教的にややこしくなっているテーマだ。
 第三部「自然」においては、「母なる自然」の名のもとに自己調和的なイメージを抱かれがちな自然の意外な面(木星の運動がサハラ砂漠の「砂漠化」の原因だったなど)を、最新科学の知見から語り、いわゆる「有機農業」、「自然食品」の実態にも迫っていく。 第四部「バイオテクノロジーと生物圏」ではバイオテクノロジーが生物圏と人類にどんな影響を与え、食糧問題、地球温暖化問題に、どのような貢献をもたらすことができるのか、その可能性が追求されていく。
 そして最後の第五部「人類の最終章とは」では、人類の肉体そのものにバイオテクノロジーがどのような可能性をもたらすかが、検討される。
 本当に面白い。ン十年前にSF者だった人間にはたまらない書物だ。「科学は万能ではない」などという台詞は本来「科学の限界」に挑戦している人間が口にしてこそ重みがあるのだ。
 しかし、ちょっと楽観的すぎるんじゃあないの、という感は否めない。
 自然を母に例えるのは、勝手な思いこみだという著者の意見には全面的に賛同する。しかし、著者のように、自然を基本的に科学で「操作可能な対象」としてとらえるのには抵抗がある。どうしても、自然を「本質的には理解不能な他者」としてとらえざるをえないと思うのが、文系の限界だろうか…。
 ところで、著者はすてきな奥さんと三人の子どもたちに恵まれている。
 やっぱり、強引過ぎるぐらいのほうが、自然にもモテるのだろうか?
 北方先生…。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本タータンチェックの文化史

2007/06/21 00:32

ふりむかないで、今ね、

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 スカート直してるのよ、あなたの好きなタータンチェック」というザ・ピーナッツの歌声(「ふりむかないで」ザ・ピーナッツ:作詞/岩谷時子、編曲:宮川泰)を聞いたのは、遙か昔山下達郎先生のNHKFM「サウンド・ストリート」のゲストに「EACH TIME」発表間もない大滝詠一先生がいらした時だったろうか。そういえば「のだめカンタービレ」の上野樹里さんもタータンチェックだった。いやいや「キャンディ・キャンディ」の「丘の上の王子様」は?そもそも「ギザギザハート」の「チェッカーズ」!
 本書を読んで自分でも知らないうちに、様々なタータンチェックに触れ、思い入れを抱いていたことに気づかされた。
 豊富なカラー図版に映し出されるチェック柄がまず楽しい。そしてその前提となる、タータンチェックの故郷ともいうべきスコットランドの歴史にも、もちろんタータンチェックを軸に、簡潔かつ丁寧に解説してくれる。
 一番驚かされたのは、1745年ジャコバイトの乱で、スコットランドの王党派を制圧したイングランド政府によってタータンチェックが禁じられたのにもかかわらず、現地軍装への採用を経て、当時流行のロマン主義の風潮の中で、敵であったスコットランドのハイランダー(高地人)たちの「素朴さ」、「高貴さ」が憧憬の対象になり(スコットランドの文豪ウォルター・スコットの作品「ロブ・ロイ」など)、彼らの着用していたタータンチェックの人気も高まっていったことだった。戦いで多くの古いタータン柄が失われたというのに。
 そして1822年の国王ジョージ四世のスコットランド:エジンバラ訪問を一つの転機としてタータン人気が確立される。その式典の演出(ウォルター・スコットが関わっていた)においてタータン柄が重用され、それに目を付けた最大手の業者がクラン(部族)ごとにタータンを揃えれば儲かることに気づいたのだ。こうして「部族に伝わる」クラン・タータンが量産・普及していく。「創られた伝統」…。(エリック・ホブズボウム)
 他にもタータン工場見学、現代のクラン・チーフやキルト・メーカーへのインタビューなど盛りだくさんな内容を、多いとはいえない紙幅に、やさしく読みやすいタッチで詰め込んだ、なにより、著者のタータンチェックへの思い入れが伝わってくる一冊である。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

失われる人々。

8人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 刑務所といっても。石井輝男監督の『網走番外地』シリーズ、ジャック・ベッケル監督の『穴』、スティーブン・キング原作の『ショーシャンクの空に』などなど、映画では親しんできたが、体験はしないで済んできた。
 しかし、子どもの頃、ニュースで禁固、懲役と耳にするたびに。どう違うのかが分からず、親に聞くのも憚られた。そして上記の映画でも。その辺は分からない。

 つまり、映画・ドラマで描かれる現代の刑務所では(一部の映画、例えば松方弘樹氏・若山富三郎氏主演の、山下耕作監督の秀作『強盗殺人放火囚』(1975年)などを例外として)、教育・訓練風景は描かれることはあっても、懲役=刑務所内の労働は余り描かれてこなかったように思える。

 数年前の深夜、ふとTVで見たピーター・バラカン氏解説の『CBSドキュメント』を見て文字通り、瞠目した。アメリカの民営刑務所のレポートだった。日々、囚人達に十数時間の労働(コンピュータ部品の組み立てなど民間大企業の本格的下請け)が強制される。自らの「滞在」費用を弁済するためノルマが課され、そのノルマを達成できず「家賃」を支払えなくなった囚人は。「滞在」が延長されるのだ、という。

 当たり前、とおっしゃる方もおられるだろう。
 自分の食い扶持を自分で稼ぐのは。
 ましてや「悪いこと」をしたのだから。

 しかし、「貧・病・苦」が犯罪の温床であることは、無視できない事実ではないだろうか。
 例えば、100円相当の盗み。100円分盗むくらい貧しいのだから、それをはるかに上回る罰金が払えるわけもない。当然懲役を選択せざるを得なくなる。そして、そこに民間企業が力こぶを入れて、「囚人のジレンマ」どころか、上記のような競争原理が導入されたら。

 そして、残された家族は。まるで昔の戯れ歌のような展開だ。
 「母も来ました、母も来る、父も来ました、父も来る」

 本書は。アメリカにおける、そんな刑罰政策が、レーガン政権期以降、一貫して、「貧困を刑務所に閉じこめることで解決を図る」本来、学問的にあやうい「学者たち」と互いに協力・利用し合った事実を指摘していく。
 貧困(者)を罪と同一視する政策が、はじめに結論ありきで、政府や民間「企業」からの補助金による「調査」によって「立証」された上で、「政策」として具申され、それが「実現」されていった、背景と過程。
 さらにはその「成功」が、英国を中継点にフランスをはじめ、欧州に影響を及ぼしている現状を、簡潔かつ丁寧に描写、分析した、一冊である。

 斜め読みに耐える、しっかりした日本語で翻訳されている。
 膨大な原注に加え、親切な訳注も巻末に備えられていた。

 40数年前、『革命の中の革命』(晶文社)を目ざし、南米に渡り、自ら「囚人」となった経験を有するレジス・ドブレ氏までもが。欧州の左派、第三の道グループの多くがこの流れに対して、とっている態度には。一体、なんと言ったら。
 旧ソ連:ロシアには。この政策の輸出の必要もあまりなかった旨、本書でも触れられている。

 「貧困」に対しての選択肢としての「兵舎」か「監獄」。

 かつて。『監獄の誕生』の著者、ミシェル・フーコーは「囚人の権利」のための動きに自ら、携わっていた。
 
 そんな彼の営みにも関わる、一冊の書物が、2008年3月、物故された、「もの書き」の本の山の中に、あった。
 当方もまた。今、その山の中に入り込んでいるところである。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本上方漫才入門

2008/08/26 22:43

バッチ処理。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 と聞くと、分かっていても頭に浮かんでしまう、幼い頃に見たTVCMがある。間寛平師匠(ということは岡八郎師匠もだろうか?)出演で、「ご家庭で寛平ちゃんのバッチが手軽に作れます!」というようなコピーとともに。ざらざらと寛平師匠の顔写真入りのカンバッチが画面を埋め尽くす内容だったような。心から欲しかったのだが、心から恥ずかしくて言い出せなかった。なんという商品名だったのだろうか。気になる。

 そんな「アホ気」の濃い幼少期を送ったもので、オール阪神・巨人師匠をセンターにベタベタ、コテコテの上方漫才の師匠方のにぎやかなイラストが、表紙を彩る本書にも思わず、引き寄せられた。

 しかし、本書。看板に偽りない、きちんとした「漫才入門」書である。
 
 1章.「漫才基礎編」では、漫才の定義、として「1-2.コントと漫才は違います」、「1-5.まねし漫才こそ漫才の本質です」、「漫才の歩み」、として「2-3.御殿萬歳と三曲萬歳」(太夫と才蔵の定義なども)、「2-8.東京のトリオブームとコント集団」、「漫才の分類」として、「4-1.俗曲漫才」から始まる漫才10分類、などなど。
 
 確かな歴史的学識と、現場経験に裏打ちされた文章、短くかつ分かりやすい章・節立てで、つい、知ったかぶりをして済ましてしまいがちな、「漫才」の歴史、基礎知識、基本定義などが、中高生の方々も射程に入れた、かなりの若年層の方々でも学べるよう、注意深く構成されている。

 2~3章.の「演者編」で「紹介される」方々の錚々たること。あの、のこぎりをして歌わしめる「横山ホットブラザーズ」、「砂川捨丸・中村春代」、「島田洋之介・今喜多代」(島田紳助氏、島田洋七氏・洋八氏、今いくよ・くるよ師匠に連なる山脈の源である)、そして「人生幸朗・生恵幸子」、「上方柳次・柳太」、そして「横山やすし・西川きよし」!簡潔な紹介文にもただ、うっとりするだけである。

 4章.「漫才演者・漫才作家入門編」、この章だけに頼ってしまっては、時代の変化に対応しきれないであろうが、基礎資料として、いまなお有益な章である。
 特筆すべきは、この4章の章末に付された、「3-2.漫才の著書にはどんなものがあるでしょう」という12ページに渡る節である。『漫才太平記』(吉田留三郎著・三和図書)から『まいど!横山です』(横山やすし著・徳間書店)にいたる硬軟取り混ぜた、貴重な基本文献を親切な内容解説つきで網羅した、本節はこれから漫才に取り組む方々にとって、重要な足がかりになることは、間違いない。

 そして圧巻は本書の4分の1以上を占める、5章、「演芸小辞典」。(寄席)芸人の方々の、スラングが、日常会話に浸透してきている現在、この章が持つ意味は非常に大きい。

【さわり】
 もともと義太夫とか新内などの伝統的邦楽で聴かせどころのことを「さわり」と言いました。そこから、いろいろな演芸でポイントの所、ハイライトの所などをさわりと言うようになったのです。(本書、p183、演芸小辞典、より)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

164 件中 16 件~ 30 件を表示
×

hontoからおトクな情報をお届けします!

割引きクーポンや人気の特集ページ、ほしい本の値下げ情報などをプッシュ通知でいち早くお届けします。