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  3. Living Yellowさんのレビュー一覧

Living Yellowさんのレビュー一覧

投稿者:Living Yellow

164 件中 31 件~ 45 件を表示

海の向こうの。アイスクリームはいかが?

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 中学生の頃だったろうか。とある夕方、NHK主催の新人ミュージシャンオーディション番組で、忌野清志郎氏と見まごうかのような。派手な衣装でステージを我が物顔に歩き回っていたローザ・ルクセンブルグ、どんと氏をはじめて目にしたのは。
 高校生の頃だ。卒業を控えて、とあるライブスペースで彼らをはじめて生で見たのは。
 とある大学の学園祭だ。ゼルダのライブ中に突然どんと氏が乱入してきたのは。

 数年前、夏の図書館。大槻ケンヂ氏の連載エッセイで彼の死を認識した。
 数ヶ月前、この本を近所の本屋で手にとった。

 おそらくは、どんと氏、生前の活字化された文章としては最後期にあたるであろう、「どんとの沖縄宣言」(95年6月)で始まる。そして2000年1月の彼の死に至る5年間に執筆された、ゼルダの元ベーシストであり、彼の妻、小嶋さちほ氏による連載エッセイ「竜宮さいじき」、ライブ・バー、沖縄そば屋、ビーチスポットに至る、美しいカラーページに丁寧な案内と。どんと氏の愛した各スポットにまつわるエピソードも綴られた、これから「バカボンの島」に向かう方必携の「どんとツアー」。
 そして「町田町蔵と人民オリンピック」などの時代からのバンド仲間でもある作家・ミュージシャン町田康氏と小嶋さちほ氏の対談など、盛りだくさんな内容である。

 妖気と陽気に満ちた「民謡酒場」、NHKそっちのけの「沖縄」の「紅白歌合戦」、かき氷ののった「ぜんざい」など、一読、楽しい驚きに満ちた「竜宮さいじき」は、居ながらにして、彼の地の熱気を感じさせてくれる。

「どんとツアー」のカラーページをめくれば、「何とかして、行ってみてえ!」(食いたい。聞きたい)という気分がかき立てられる。

 町田氏と小嶋氏が静かにどんと氏を語る対談には。ふと江戸アケミ氏(「暗黒大陸じゃがたら」)をはじめ。夭折した「彼・彼女」達の面影を想起させられた。

 「何はともあれおれはこれから独りで一匹狼ならぬ一匹象としての~んびり生きて好きなことをやるよ。」(「どんとの沖縄宣言」,本書p.11より)

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紙の本ホーリーランド 18

2008/08/03 11:51

コミュニケーションとしての「暴力」

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 男だったら素手でタイマン、は理想ではあるが、なかなか、そういうシチュエーションというものは意外とない。ギャラリーの無言の圧力、介入は致命的な影響を及ぼすし、そもそも本当に二人きりになったら、「ども」「ども」と軽く挨拶して通り過ぎるのが、本来の当事者の関係であったりする。「素手でタイマン」を理想化しているときの自分というのは、やはりギャラリーの中の一人である。「素手でタイマン」でも大けがはするし、死に至る危険も大きい。やはり、「暴力」は避けるにこしたことはない。

 しかし、原始・古代に遡る、自分の中の、ギャラリーとしての欲望、と闘争本能、二つの矛盾する欲望が相まって。スタジアム:格闘場は存在する。多分スポーツの本質は、ストリート・ファイトを安全に囲い、「二人きりの関係」を純化したあたりに起源を有するのではなかろうか。

 そのスタジアムが、個々の選手の方々の本意に反して、どんどんバラエティ化していく中、ギャラリーの欲望はまた、その原点、決して現実には現れない(その場を欲望するギャラリーの存在自身がその場を消し去る、という矛盾をはらんでいる)、『ホーリーランド』を求め続ける。
 数年前、テレビ東京系で放映された、金子修介監督(『1999年の夏休み』)監修の『ホーリーランド』(DVD入手可)も秀作であるが。本巻を読み終えて、マンガの「腕力」を思い知らされた。

 故梶原一騎先生ばりに著者が(腕組んでたりはしないけど)、語り手として時折現れ、技と関連武術、ストリート・ファイトについて詳細な解説を加えてくれる、本作品。ついに完結を迎えた。『ヤングアニマル』(白泉社)誌上での完結から、予想以上に早い増ページ・単行本化。関係者各位の熱が伝わってくる。

 ひきこもりの少年が孤独なトレーニングを経て、身につけてしまう体「力」。その力を使ってコミュニケーションを計ろうとする彼が選んだ、選ばされたのは、ある街を舞台にしたストリート・ファイトの日々であった。

 強くなればなるほど、彼のカーストは向上し。安定する。

 だが、その平和を守るためには、さらに強い相手、そして邪悪な、ギャラリーを操る術と己の身体を操る術を兼ね備えた相手たちとの、「格闘」が待ちかまえている。

 本作品では、かつて、ある種のマンガを悩ませた、「強さのインフレ」は、幸いにも最後まで生じなかったように思える。登場する相手の強さには、ケレンのない、実証的かつ人間関係の力学に基づいた、きちんとした伏線が張られている。そして、主人公の身体は強く闘う身体であるとともに、具体的に絵に現れるように、読み手に痛みを与えるほど脆く、傷つく。その心、主人公が目ざし、関わる、相手の拳もまた、強く、かつ脆い。

  だからこそ、彼らが己を賭けるのは、「未成年」という、期限付きの、安全地帯=戦場での、ストリート・ファイトという、矛盾。ファースト・フードをパクついて、だべっていることに満足できない、ギャラリーでいることに耐えられなくなった少年たちの、身体を張ったコミュニケーション。

 全ては絵空事、それ故に、美しい。
 

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紙の本江戸の知識から明治の政治へ

2008/05/22 23:50

周回の憂鬱

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 校庭での長距離走。十何周も走ったあげく。続々と後続のランナーには追い抜かれて、今自分が何周目かも分からない。もうろうとして記憶もあてにならず、教師の叱咤だけをたよりに、なんとかゴールにたどり着く。恐ろしいほどの差を付けられて。

 明治維新以降の日本の歴史は「追いつけ、追い越せ」だったとはよく言われるところである。しかし、果たして、当時の英国を初めとする先進国と日本は「同じ校庭」を走っていたのだろうか。世界でも有数の人口を擁する大都市江戸とそれを支える経済を運営していた日本が、立ち止まっていた、居眠りしていたとは思えない。そして「トップランナー」英国は自分が「トップ」だと思って、安心して走っていたのだろうか。互いに霞の中、おぼろげな足音=風聞を耳に、必死に走っていたと言うのが実情ではないだろうか。
 「歴史」にゴールのある保証などなく、「スタートライン」などなおさら。誰も実際に見たことはない。言い方を変えれば、意識の上で。周回遅れだと思いこむのも勝手。優越感に浸るのも自由である。互いにモノの流れ=経済の波に呑み込まれない限りは。

 本書において据えられた前提は、英国を初めとする「先進国」にとっても、江戸・明治にとっての「日本」にとっても、経済のグローバル化を前提とする「近代」・「近代化」は、ほぼ同時代における未知の課題であったということであろう。「近代」を相対化するスタンスではない。避けられない「危機」であり、「変革」として「近代」が両者に等しく、新たな対応を迫ったのである。日本に開国を迫った「黒船」=米国にせよ、優越感から、やってきた訳もない。欧米諸国間の政治・経済の抗争を激化させた「近代」にその黒い船もまた、南北戦争の予測される米国内政もまた危機的な時期に押し流されてきたのではなかったか?開国させる方にとっても、保証がない賭けだったのではなかろうか。

 本書は、そのような開国期・明治維新期の「同時代世界」において、日本の政治思想家たちは英国、中国などの「諸先輩」をにらみつつ、下記の二つの問題にどのように対処したのかという、問いを煮詰めていく。

 まず、「近代」政治において要求される人間にとって、「近代の知識」、「思考能力」はどのような意味を持ち、「近代」以前とどのような違いを踏まえねばならず、その「人格」とどう関わるのか?第一章「「政事」と「吏事」」でていねいかつ明瞭にしめされる十年単位の前後はあるにせよ、ほぼ同時代の政治学者バジョット、政治家グラッドストン、歴史家マコーリー、そしてJ・S・ミルが取り組んだ英国内での議論とほぼ、同じ構造の難問に、「儒学」と「洋学」を駆使しつつ立ち向かう横井小楠、会沢正志斎の姿は、「追いつく対象」など決して存在していなかった、当時の「現在」を活写している。

 そして、その「同時代」において彼らは祖国「日本」をどう位置づけたのか、である。
 「我々」は「神国」で偉いのか?「野蛮」なのか?
 「封建的」で遅れているのか?「封建」だからこそ、優れているのでは?
 一体、「我々」は「亜細亜」の「一員」なのか。その「亜細亜」とは?

 そして、本書において、この二つの問いをつなぎ、江戸と東京を渡り。「公と私」の間の中間的存在を模索する、重要な結節点として立ち現れるのが、『アメリカのデモクラシー(全四冊:現在、第二巻(下)まで刊行)』(アレクシス・ド・トクヴィル著・岩波文庫)を繙く『分権論』の福沢諭吉の姿である。 
 「古の民は政府を恐れ、今の民は政府を拝む」(『学問のすすめ』五編より)
 「日本人」の「自意識」を相対化に陥ることなく描いた好著。著者の足音が聞こえる。 コース上、ゴールもスタートも見えぬとしたら。
 実際に聞こえる足音ほど確かで、心強いものはない。

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紙の本軍事とロジスティクス

2008/04/30 21:10

航空母艦の甲板が避難者を運んだヘリコプターで埋め尽くされる。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 やがて、次から次に飛来するヘリを受け入れるスペースを作るため、甲板の兵士たちが人力で、数億円はくだらないであろうヘリを甲板から押し出し、海中に投げ捨てる。そんなベトナム戦争終結時のニュース映像が、数年前、深夜のブラウン管に、プロコル・ハルムかルイ・アームストロングの曲をバックに、『60年代名曲CDセット』かなにかのCMのイメージ映像として繰り返し映しだされていた。
 戦争。内実においては、あらゆるヒトとモノの移動と運搬、整理整頓、収納、処理がその過半を占めているといっても過言ではないだろう。
 「戦いにおいて、第一にして最も重要なこと」(本書「はじめに」より)として「ロジスティックス」を捉える著者はその語を、「兵站、後方、後方補給」と日本語に置き換える防衛省・自衛隊の訳に含まれる、「後方」という感覚に強い違和感を表明している。
 「極端な話、人間は鉄砲の弾がなくても(弓矢や竹槍などで)戦えるが、水と食料がなければ戦えない。だから何をするにも。まず考えねばならないのはロジスティクスである」(本書p.13、同上より)と。
 本書は先のベトナム戦争での苦い経験を踏まえ、湾岸戦争での試行錯誤、ITテクノロジーの彼我における急速な普及、民間・軍を問わないグローバリゼーションの中で、現在、イラクとアフガニスタンにおいて(そしてその「周辺地域」:ほぼ全世界においても)歴史上かつてない量の「ヒトとモノ」そしてデータを日夜、運用している米軍(とその委託先である民間会社)の現状、彼らを支えるRFIDタグをはじめとするテクノロジー、その現状分析、将来への戦略を中心に、NATO所属の旧西側欧州諸国の対応にも充分言及した、緻密かつ網羅的であり、読みやすい労作である。
 立場を問わず。現下の世界情勢に関心を持つ方々に手にとっていただけたら。シンプルな装丁から著者の、力ずくとも呼ぶべきストイックな姿勢が伝わってくる。
 とにかく。様々な数字が強く印象に残る。
 「米バージニア州のBDM社は1996年1月に米陸軍と1170万ドルの契約を結んで、500人の通訳と翻訳者をボスニアとハンガリーに送り込んだ」(本書p.182、第3章 軍事ロジスティクスの民間委託」より)
 「米国では国防基本法によって、米軍への支援活動支援中に命を落とした外国人にも死亡保険が支払われるが、2003年3月1日から2006年9月30日までの間で、この支払い申請がなされた数は650件であった」(本書p.189、同上より)
 「(米)海兵隊のMEU(一個強化大隊を中心とする、航空支援部隊も含む独立先頭部隊)は、洋上の艦船から最大200海里(370キロメートル)離れた場所での作戦を意図している」(本書p.288、第4章「米軍海外展開戦略とロジスティクス」より)
 「空母の場合、補給物資を受け取る場所に80人、さらに艦内の所定の場所に運び込む作業に約400人が従事する。(中略)合計5700人の一割近くが補給作業にあたらなけらればならない」(本書p.319-320、同上より)
 「米軍で一体、どれだけの量の空コンテナ(民間会社所有の)が「借用」された状態になっているのかすら把握できていないが、その借用料だけでおそらく数億ドルになるのではないかと推測されている」(本書p.343、第5章「軍事輸送システム」より)
 サム・ペキンパー監督の傑作『戦争のはらわた』、その主題歌は『Haenschen Klein』、邦訳で『蝶々』としてひろく知られている、あの童謡である。

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紙の本族譜・李朝残影

2007/09/25 22:41

手持ちぶさたな土曜日。ひとりで歩く夜の街。輝くネオン。薄い財布。

8人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

そんなとき、目に飛びこんでくるのは、名画座のオールナイトの看板。そこにならんでいた常連タイトルで思いつくのは、『暁の脱走』(谷口千吉監督・黒澤明共同脚本:DVD発売中)とか『安城家の舞踏会』(原節子出演・吉村公三郎監督・新藤兼人脚色:未DVD化)、そして1960年代初頭、ベストセラーとなった本書著者:梶山李之氏原作(同名原作本・角川文庫:品切中)による『黒の試走車』(田宮二郎主演・増村保造監督・DVD発売中)である。前記二つは見た。傷だらけのフィルムの中の山口淑子(=李香蘭)そして、原節子の美しさ。しかし『試走車』は見ないまま。そのうち、夜の街も、映画館の看板も、すっかり変わってしまった。 
 日本の産業スパイ小説の草分けともいうべき「黒の試走車」で娯楽小説家として成功を収め、1975年、45歳の若さで香港に客死する著者は、しかし、15歳で外地の故郷・ソウルにおいて敗戦を迎えた、日本人引き揚げ者である。71年の休筆宣言後は「日韓併合前後から、朝鮮戦争前後までを、日本人の家庭と、韓国人の家庭を通して、眺めてみたい」(本書解説、p.231より)と語っている。そのテーマでのライフワーク執筆の途上での急死だった。
 本書収録の三作品は、その幻のライフワークに連なる、美しく、真摯な、かつ後の流行作家としての成功を十分に予感させる、読みやすさと魅力にみちた、日本占領下の半島を舞台にした粒ぞろいの中編群である。
『族譜』(初出『広島文学』1952年:加筆後61年『文学界』掲載)
傑作と呼ぶべき『風の丘を越えて -西便制』、『祝祭』が90年代、日本でも公開され、好評を博したイム・グォンテク監督によって、韓国で78年、映画化され、日韓で大きな話題を呼んだ。
 1939年に本格開始される「創氏改名」政策 (人々への日本名の付与の「強力」推進)を現場で担当する、画家崩れの一青年。彼の職場では。ある一現地有力者の問題が持ち上がっていた。彼は誠実な親日派であり、戦争協力にも積極的である。しかし。彼は上記政策だけは穏やかに拒否しつづけする。そしてその影響は村人たちにも及んでいた。青年にその案件が押しつけられる。しかし彼は説得のため、何度も訪ねるうちに、その有力者の佇まいに惹かれていき、自分の「宙ぶらりんの」状態を痛感する。しかし上司からの圧力は増す一方である。そして彼らはそれぞれ、別々の形である選択を行う。
『李朝残影』(1963年『別冊文藝春秋』掲載)
 ソウルの日本人有力者の息子として、育った青年画家。彼は「近代化」で失われていくソウルの美に惹かれ、「滅び行く美」を求めていくうち、ある最高位の「日本人の座敷には絶対行かない」いう誇り高き「最後の」妓生(かつてはトップレベルのものには貴族の位階さえ与えられていた伝統を持つ、舞踊はじめ諸芸に通じた、「大名道具」とも称された江戸・吉原の花魁・太夫に比肩すべき存在)とも呼ぶべき女性と出会い、彼女と彼女の舞を描き始める。そしてその作品の題名をめぐって。彼もまたある選択を行う。
『性欲のある風景』(1958年発表)
 ソウルの旧制中学。「戦争一色」の世の中だが、日本人主人公(=童貞)の頭のなかは「アレ」でいっぱいであり。「あいつ、優等生だし」と思ってた彼の友人が実は。そして1945年8月15日。彼は「重大発表」もフケて、歓楽街の近く映画館、暗闇の中で一人悶々としたあと、「今日こそ!」と出てきたところ。出くわした日本人の友人に怒鳴られ、彼は叫ぶ。
「ポストコロニアル」という言葉を最初聞いた時、真っ先に、本書の登場人物のような人々が思い浮かんだ。とんでもない誤解だった。
 しかし。この誤解、改める気はない。

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8月23日付「新聞 資本と経営の昭和史」(朝日新聞社)についての拙稿において重大な事実の誤記を犯してしまいました。この場を借りて、読者・著者の方々をはじめ、皆様に謹んで訂正お詫び申し上げます。ただ本書「さんさん録」は星5つでも足りない名著です。お時間が許せば後半にお目通しいただければ幸いです。このような形で選ばせていただくことになってしまった、「さんさん録」様にも深くお詫び申し上げます。

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

表題の通りです。掲載していただいて気づきました。先ほど、BK1の担当者様に訂正をお願い申し上げ、受理いただきましたがシステム上、どうしても多少時間がかかるようです。以下訂正箇所を再掲させていただきます。☆で囲まれた部分が狭義の誤りの箇所です。先に訂正要旨を述べます。関東大震災前、大阪で覇権を誇り、震災をきっかけに東京で部数を伸ばしたのは大阪朝日・大阪毎日新聞の両紙の勢力でした。追記しますと当時の読売新聞は逆に震災で大損害を被り、正力松太郎氏に買収されるにいたり、正力氏のもとで新生・読売新聞の猛烈な拡販が行われます。以下当該部分を再掲します。
 「本書によると。関東大震災(1923年)までは、当時アジアの商業都市として、現在とは比べられないほどの存在感を誇っていた商都大阪では大阪朝日・☆X東京読売X(正→大阪毎日)☆の二大紙による独占が完了(その背景には競争相手同士の両者による販売店との販売協定「あらたな新聞が創刊されても朝日・☆X読売X(正→毎日)☆以外は販売しない」の力もあったことが本書に記されている)。アジア経済との関係が重要だった商都大阪での風潮を受け、☆両紙(朝日・毎日)☆とも中国には協調的であった。そして東京では「都新聞」(現在の東京新聞)などのかなり小さな新聞社が群雄割拠している状況であった。そこに大震災。事実上マスコミの中心が新聞だった当時、人々が情報を最も必要としている東京に本社を置く各新聞社は人的にも物理的にも致命的な損害を受ける。そこで大阪に本拠を持ち、安全な大阪で印刷した大量の号外・新聞を廃墟と化した東京に輸送することが可能であった大阪朝日・☆X大阪読売X(正→大阪毎日)☆が、飛躍的に東京でのシェアを伸ばし、現在に至る朝日・☆X読売X(正→毎日)☆二紙による全国制覇が本格化していく。」以上です。まことに申し訳ありませんでした。
 さて、「さんさん録」自体のストーリーについては、前評者、胡蝶氏が丁寧にまとめられていますので、ここでは「さんさん録」の中にでてくる「さんさん録」という家事手帳を軸に、この作品について補足説明させていただきます。それは主人公(定年後、妻を不慮の事故で失い、息子夫婦とその小学生の娘の三人家族に加わることになる)参平が息子の家への引越に際して、妻の遺品を整理していて、発見した彼女の残した(自らの死後を想定した)詳細かつ丁寧な家事メモです。「さんさん」とはおそらく「参さん」、夫婦同士での彼の呼び名でしょう。まず、彼の目に飛び込んで来るのはゴミの収集・分別についてのくだり。そして彼女からの最後のメモです。
 「この世でわたしの愛したすべてが、どうかあなたに力を貸してくれますように」
 そしてまず参平は「肉じゃが」に挑みます。わざわざ砂糖・醤油(当然息子の家にあります)を買ってきて、でもコンロをどうやったら点火したらいいのかもわからない参平。「さんさん録」が彼を助けます。完成品を味見、「うまい!」と叫ぶ参平。しかし、所要時間は…。本書p.40~p.42で丁寧にストーリーと調和させながら、「さんさん録」が教え、参平が成功するボタン付けは、「やったことない」人には必読でしょう。家族が風邪を引いた時も「さんさん録」に従って「おかゆさん」を参平が炊きます。こうして彼は少しずつ新たな家族の一員となっていくのです。最後に本書で個人的に刮目した知識を。
 「布団干しはだな 前日が雨でなかった日の十時から十四時が最適なのだ 叩くとワタの繊維が切れるのでなでるだけにすべし」(参平談、本書p.126より)
 「さんさん録」は参平の妻が生きている時は、参平にとっては、なにげないあたりまえのの日常に過ぎませんでした。しかし、妻の死後、参平は妻のただの、しかし思いの詰まった「家事メモ」を辿ることにより、日常を「妻」と再びつくりあげていくのです。その妻の「玉露のいれかた」などの「具体的な」メモを、参平が自らの身体で実践し、そこに「妻」のいれたお茶が再現される。その時。本当の意味で彼は「身体ごと」妻を知るのです。

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紙の本一六世紀文化革命 1

2007/08/19 12:18

DOSとパソ通の頃

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98と言えばPC9801だった。わずか十数年前のことである。技術的なことに詳しくないので、95年ごろ、インターネットでのHPをはじめて見た時の印象は「画像」があるということにつきた。それまではパソコン=文字の世界に感じていたのだ。
 本書を正面から論じることはスペックを超えている。しかし、第1章が16世紀当時、まだ職人と未分化だった画家=画工たちの業績からはじめられていることから、本書の力点の一つが、印刷技術の発展における、図版の存在に置かれていることは読み取れる。
 本巻で扱われている諸科学:技術のうち、数学:商業数学・簿記を除いて、建築、医学:解剖学・本草学、化学:冶金術、工学:武器製造など、は全て、文字だけで説明することは難しい。いわぬものがなだが、正確な解剖図、設計図などが不可欠なのである。
 グーテンベルグたちの活版技術の発明・発展で、文字データの正確な複製は可能になった。哲学、法学、文学など当時のアカデミックな学問の一般への普及にとっては、それのみで大きな福音である。しかし、しばらくは図版は従来通り、手書きの版で複製され続けたらしい。手書きで何度も写し続ければ、最終的には、致命的なオリジナル図版からのズレは生じてしまうことはさけられない。
 その問題を解決し、本書の「十六世紀文化革命」を準備するインフラの一部を造りあげたののが多くの、本当に名前を探ることさえ不可能に近い印刷現場の職人さんたちの地道な努力だった。その積み重ねの結果、正確な図版と活字を組み合わせた印刷が可能になったことが、大量の技術マニュアルの普及を支え、それまでの「秘術」を「技術」を変える要因となった。本書を読んで、一番印象に残った論点である。

 もし、突然の戦乱の中、モビルスーツに潜り込んだ、あの少年の目の前に、マニュアルが落ちて来ていなかったら。やっぱり、あの話ははじまらなかった。

 「やれるかもしれない。」とマニュアルをめくりながら少年は言ったと思う。

当時の時代背景は(高校生レベルの目線で)懇切丁寧に説明されている、図版も豊富な、読みやすい作りの一冊です。

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紙の本実録・アメリカ超能力部隊

2007/08/05 06:36

カリフォルニアから吹く光る風

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TBS系の毎日放送のアニメ枠というのは、結構メジャーでカルトな作品が多い。最近で言うと「鋼の錬金術師」、「BLOOD+」とかがそうだ。たしか80年代前半、この流れの最初期に放映されたのが有名な「超時空要塞マクロス」である。
 強大な力を誇るが「文化:サブカル」を持たない異星人に対して、地球人が行った必殺の作戦、それは地球(実際は巨大な戦艦マクロスに住んでいる)のアイドル、リン・ミンメイ(声優・歌:飯島真理。彼女はファーストアルバムのプロデューサーは坂本龍一氏である)の歌・ホログラムを浴びせかけながら、攻撃するというものだった。そして地球は勝利する。ああ。
 ベトナム戦争の敗北を受け、士気も下がり、予算も削られた70年代後半のアメリカ軍。その中にベトナムで心に深い傷を負いながらも、その苦い経験を踏まえて「敵を武力で傷つけることのない愛と平和の軍隊」を夢見るある幹部がいた。
 彼は、おそらく彼自身の心の癒しも求めつつ、カリフォルニアを中心に150ものニューエイジ(ヨガ系、気功系、アロマ、ヒーリングミュージック!)の団体を経巡り、リサーチを重ねた。1979年、彼の提案により、「第一地球大隊」が結成される。部隊は、後に廃止されたが、その125頁の詳細な作戦マニュアルは今も米軍の心理戦の心理戦部門に読み継がれているようだ。
 2003年、イラク・シリア国境の米軍捕虜収容施設(密閉されたコンテナ)で捕虜に対して、昼も夜も何百回も繰り返し大音量で、「メタリカ」(アメリカのヘヴィメタルバンド:「タモリ倶楽部」の名物コーナー「空耳アワー」によく登場する)の曲や「セサミストリートのテーマ」を聞かせるという、「非暴力的」拷問が行われていることが明るみに出る。灼熱のコンテナの中で大音量の同じ暴力的な曲。その苦痛。
 しかし著者は、さらに難儀な事実を知る。ある捕虜(無実で現在は釈放されている)は、フリートウッド・マックの女性バンドによるカバーやマッチボックス・トウェンティ(カントリー系のバンド)を聞かされたというのだ。
 フリートウッド・マック。クリントン元大統領のお気に入りで、彼の式典にも招かれたことのある「クラシック」なロックバンドだ。何百回も聞けばきついが、ちょっと「大音量でアニメタル」とは根本的に何かが違うのだ。単なる拷問ではなく。何かもっと積極的なコントロールを目指す方向性の存在。
 そして著者は「羊をにらみ殺した男」、「9・11テロ犯人を弟子にしてしまった男」「ヘブンズゲート集団自殺事件を起こしてしまうきっかけを作った男」など、さまざま「第一地球大隊」出身者を追跡していく。
 訳者あとがきで述べられているように、本書の全てを信じるのはかえって危険だろう。著者の文体にもそこらへんをすりぬけていく微妙なスタンスを感じる。しかし、70年代カリフォルニア発の「ニューエイジ思想」+「米軍」という組み合わせの存在にはリアリティを覚えた。
 吉田秋生先生の「BANANA FISH」の愛読者だった方々、かつて土曜の午後二時にTVの前に座っていたことのある方、ピーター・バラカン氏のプログラム・著作の愛好者の方々には、本書を強くお勧めします。
 ただ「トンデモ」本になれてない方は、注意して読んでください。ノンフィクションもまたフィクションであり得るのです。

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末は博士か大臣か

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そんな言葉を聞かなくなって久しい。理系の大学院生でさえ、大変なのに、ましてや文系、それも哲学などときたら。留学とかのコストや、バイト先(近年、難解な「小論文」入試問題は減少傾向にあり、少子化で予備校自体も経営が良くなる見込みはない)を探すのも難しいし、常勤への道は。  「諸君」2007年8月号で「ラバーソウルの弾み方」、「J-POP進化論」(共に平凡社・刊)の著者:元東大教授・佐藤良明氏は、「人文系の学問を志願したばかりに陥ってしまった日本の秀才君たちの吹きだまり的状況については、嘆く言葉も見つからない」と述べている。
 とはいえ哲学を志してしまった。そういう方。今の大学教官の多くは、未だにかなり、無責任に大学院への進学を勧めてくる。それに自分では学生しかやったことがない。多くの場合、自分の専門分野の事以外は知らない。進路の相談相手には全く適さない。
 とりあえず。この「哲学の歴史」を全巻読んでみて(まだ4冊しか出てないけれども)、検討してみるというのはどうだろうか。
 大昔、田中康夫氏が高校生に対して、珍しくストレートにまじめなことを言っていた。「世界史をやるなら、中公の「世界の歴史」全巻をざーっと読んでしまえ。覚えようとしなくいいから。流れをつかまえることの方が大事なんだ」というような意味のことだった。かつて「世界の名著」シリーズをベストセラーにした中央公論社、現在の中央公論新社は、一般向けの教養系全集には定評があり、今なおその流れを維持している数少ない出版社の一つである。本シリーズもその流れをくむ正統派である。
 本書を例にとると、まず主要人物の顔写真と生没年からはじまる。次に、これが重要なのだが、「ダイアグラム」と題された人物・学派相関図が見開きで、大きく掲載されている。修士くらいになれば、つっこめるかもしれないが、門外漢や学部生にとっては、大きな助けになるだろう。本書の本文は670頁で、飯田隆氏による総論に続いて、フレーゲ、ヴィトゲンシュタインからクーン、クワインに至るまでの言語哲学・論理学・科学哲学のビッグネーム・主要学派を網羅しているが、一章は平均60頁、丁寧なページ内の脚注、要点・キーワードをまとめた欄外小見出しなど、あきらかに受験参考書も意識した、親切・丁寧な作りである。短く簡潔で易しい文章でまとめられているので、食い足りない章も多々あるかもしれない。しかし、全部の章に不満を覚える人は、哲学専攻でも、学部には、そうはいないだろう。
 巻末には、丁寧な哲学史年表(世界史年表と並行して作られている)、クロノロジカル・チャート(誰が誰の同時代人かが、すぐ分かる)が付され、特筆すべきは、主要人物:学派別にまとめられた、原文・邦文の最新の原典・研究論文・一次資料・二次資料を網羅した参考文献リストである。これだけのためにでも、手に取る価値はある。
 半分以上わかんなくても、とにかく飛ばして読み進んでみて、読み終えることができるかどうか。どうしても、いつまでたっても手に取る気力がおきなかったら。とりあえず院はやめておいてほしい。教官にどんなに勧められても。できれば、専攻するのも。学問など自分一人で、できるときにやればいい。これからは、人文系の学問は、良い意味でも、「野生の学問」になるのだろうから。
 「月が笑う夜に 導師はいない」(1996年のアルバム 『ソウル・フラワー・ユニオン/エレクトロ・アジール・バップ』3曲目タイトルより)

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知事たちと東幹久と平成の御代

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90年代後半の「ワンダフル」というTBSの深夜番組をご記憶の方が、今どれだけいらっしゃるだろうか。司会を務めた東幹久氏は歴代アシスタント、原千晶にも、辺見えみりにも頭が上がらず、元気のいい女の子たちに囲まれて、居心地がいいんだか悪いんだかよくわからない、いい味を出していた。その後、しばらく見かけたり、見かけなかったりする内に新世紀。
 しばらくして、レンタルビデオ屋で90年代初頭、彼が、チーマー出身を売りに主演したという「オクトバス・アーミー:シブヤで会いたい」という映画のビデオを見つけてしまった。公開当時この映画を上映するために、たしかスペイン坂近辺に臨時の映画館まで建てたということが記憶に残っていたのと、ジャケットの「音楽:フリッパーズ・ギター」にも少し興味がわいて。借りてしまった。いやあ。某アイスクリームチェーンの帽子を被った女の子が出てきて、クラブかディスコが判然としない場所で踊ってまくってたのと、スケボーがやたら出てきたのと、チキンランで根性試しをするあたりと…。フリッパーの曲はコピーバンドが演奏するだけという珍品でした。
 そして2007年現在、彼はNHK朝ドラの「使えない」若旦那役でお茶の間に着実な人気を固めているらしい。
 本書は太陽族(石原慎太郎都知事の56年芥川賞受賞作「太陽の季節」に由来する)を起点とし、以下、みゆき族(60年代前半、銀座みゆき通りに集まった)、フーテン族(60年代後半、新宿が拠点。瘋癲という言葉は古い言葉であるが「フーテンの寅」はむしろフーテン族に由来するのかもしれない)、アンノン族(雑誌「anan」、「nonno」から)、暴走族、クリスタル族(田中康夫元長野県知事:現参院議員の81年文藝賞受賞作「なんとなく、クリスタル」から」、おたく族(大塚英志氏編集の雑誌「ブリッコ」誌上で83年、中森明夫氏が大きく取り上げた)、渋カジ(80年代後半、雑誌「POPEYE」と親密な関係にあった)、渋谷系(パーフリとか…)、コギャル(小田原ドラゴン先生「コギャル寿司」あるいはこしばてつや先生「天然少女萬」:共に90年代末ヤングマガジン連載)、裏原宿系(なんか小島聖とか微妙な女優が流れ着くとこ?)、以上11の日本の「若者文化」=ユース・サブカルチャーをアーヴィン・ゴッフマンの「Flames Analysis」(未訳)を一つの参照点として、若者を取り巻く社会的枠組に於いて彼らがどのように規定されるか、彼らがどう「われわれ」を規定するかを踏まえつつ、「階級」「場所」「世代」「ジェンダー」「メディア」、この5つの視角から、記述・分析している。
 宮台真司氏の「サブカルチャー神話解体」では暗黙理のうちに「都内私立高校文化」がヒエラルキーの頂点に据えられていた(おそらくかなりの面でそれは事実ではあったと思えるが)のと異なり、本書の著者は膨大な文書資料を中心に、価値・趣味判断を完全に括弧にいれ、フラットに、あえていえば、年表的描写に徹している。この姿勢は本書の資料価値を大きなものとしている。しかし、現在、このテーマを扱うにはこのようなフラットな扱い方しかできないとも言えるのかもしれない。多くのサブカルチャー受容者にとって、過去と現在、特定の場所が、ネットの普及・データベース化によって、「おすすめ」の一つとしてしか現れてこなくなった現状では。著者が「アキバ系」を独立して扱わない背景はそこにあるように思える。
 本書で、あまり重点的に扱われていない、地上波TVこそが、現在、唯一残った「生の」場所なのかもしれない。もう、新宿武蔵野館という「場所」で「さらば青春の光」を見るという経験はできないだろう。しかし。TVの中で東幹久氏は今も生々しく変わり続けている。

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紙の本未完の明治維新

2007/07/18 00:51

富国VS強兵の時代

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「富国強兵」とひとくくりに覚えさせられた言葉だったが、本書を読んで、当たり前の道理に気づかされた。立ち上げたばかりの明治新国家にとって、強兵=軍備拡張には多大な財政負担が生じる。まだ徴税システムも確立していない中、まず富国=国家財政基盤の確立は、強兵=軍備充実=対外拡張を目指す流れとは対立せざるを得ないのだ。
 本書第一、二章では幕末に「強兵論」の基本理論を確立した、「和魂洋才」というよりも「一割東洋、九割西洋」の自然科学的合理主義者、佐久間象山の流れと、「富国論」の基本理論を打ち立てた、西欧文明の吸収による「殖産興業」を儒教の本来の伝統「各物究理」の伝統に位置づける、越前藩、横井小楠の流れから説き起こし、それらが幕臣、大久保忠寛を代表とする「議会論」(諸大名と藩士を中心にした公議会=武士デモクラシーの基盤)の支持者と絡み合いながら、(その時点では「憲法」論は具体化していなかった)、幕府、薩長土を中心とする有力諸藩との「新国家の政体」をめぐる闘争が、鳥羽・伏見の戦いを経て薩長主導の新政府樹立にいたるまでが活写されていく。
 第三~四章では、「富国論」の牙城としての大蔵省の成立、初期の大蔵トップ伊藤博文、井上馨、渋沢栄一と陸軍省、文部省、司法省(江藤新平)との抗争(予算争い)、そして上京した薩長土藩士を中心とする御親兵(近衛兵につながる流れ)、各主要都市に置かれた、諸藩士を中心とする鎮台、そして徴兵令(1873年)によりそこに加わった農民兵の三つの官軍の存在を描きだし、従来の「征韓論者、西郷隆盛」像を再分析し、一般に流布しているイメージに反して「情に厚い」欧化主義者、合理主義者であった西郷隆盛と麾下の薩摩グループはむしろ、「征韓論」を抑え「征台(湾)論」に積極的であったことを描きだしていく。
 第五~六章では「立憲政治派」:「議会設立派」=民主派というイメージを覆し、前者を「漸進派」(木戸:長州グループ)、後者を「急進派」(板垣:土佐グループ)と位置づけ、彼らの共通のライバル「強兵」派(薩摩グループ)と対峙しつつなかなかまとまれないところに、もう一人の薩摩の巨頭、内務卿大久保利通が仕切る「富国派」=「開発独裁派」が主導権を握るが、同じく薩摩「強兵派」による西南戦争に直面するまでを分析する。
 第七~終章。これまでの主要人物が相次いで様々な形で世を去った後、「富国」派(開発独裁)と「立憲派」の対立と双方の妥協:挫折、その中で地租改正と西南戦争前の減税、戦後の米価高騰で力を得た農民層の政治化、「志士」から「実務官僚」への明治政府の構造変化という「未完の明治維新」の「終了」にいたる。
 読みやすい、生き生きとした描写、要を得た豊富な一時史料の駆使、「幕末ロマン」に得てして目を奪われがちな流れに、「新たな体制を整備していくことの重要さ:大変さ」伝えてくれる一冊である。  
 戦前を「暗黒」とするのも。明治を「栄光」で包むのも。もう。
 そのころの当事者がきちんと「仕事」をしていたということが重要なのではないだろうか。
 「幕末維新期にも明治年間にも昭和初期にも、自由主義や民主主義は単なる思想ではなく、政治的実践の課題だった」(本書p.245、あとがき、より)

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紙の本万葉集の〈われ〉

2007/07/04 02:17

タチアゲテメールナキヨハホンヨミテタダカキアゲテヒトリカモネム

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 万葉集など縁がないと思っていたが。本邦歌道・研究者の重鎮とも言える著者のお名前は俵万智さんのお師匠筋にあたるということで気にはなっていて、本書ではじめて手にとってみた。実にわかりやすく、現代的な課題も軸に据えられた名著である。
 柔らかいなタッチとはいえ、手堅く当時の歴史社会、民俗の解説を加えつつ、万葉集を中心に数々の名歌を取り上げ、ていねいな解釈を加え、万葉集における「われ」とはどのようなものか、どう表現されていたか、どのような社会背景、人間関係、権力関係に位置づけられているのか、歴史の中でどう変容していったかをやさしくかつ冷静に分析していく。そして現在の「われ」にいたる萌芽をも万葉集に「読み」こんでいくのだ。
 まず、本論と引用する各歌のバランスが良く、本論に引き込まれる一方、門外漢にもわかりやすい全訳と背景説明付きの万葉集の名歌も楽しく味わうことができた。
 まず「なぜ短歌は一人称詩なのか」という根本的な問いかけで始まり、作歌者<われ>と読者<われ>との相互関係、7〜8世紀の中央集権国家、都市社会の成立における社会的<われ>の成立、明治維新後、日本人のナショナル・アイデンティを支える文化装置として、それ以前長らくごく一部の人にしか読まれてこなかった「万葉集」が脚光を浴びた経緯の紹介(品田悦一氏の「万葉集の発明」を取り挙げている)、そして著者自ら、万葉集に出てくる<われ>を検索して精査していく(万葉集の<われ>=1780(4500歌のうちの39.5%) 、古今集の<われ>=140、(1100歌のうちの12,7%))、第一章「はじめに」からしてスリリングだ。
 第二章「万葉集の<われ>の現場」では宴席歌、旅の歌、葬歌から挽歌への変容、相聞歌などを扱い、関係性や場面においてある種要求されて演じる「キャラ」としての<われ>の存在、当時一般的だった、代作をすることが(額田王などの)、歌人にとって、相手の内面描写をより意識的に行うという、純粋詩への契機になったことという山本健吉氏の指摘(「詩の自覚の歴史」の紹介など、なめらかな文章と引用される美しい和歌の流れの中で、門外漢にも刺激的な論が展開されていく。
 第三章「万葉集を考える」では万葉集の歌の中に孕まれている、「内と外」の意識、「神」の下での歌語の制度化が日常から離れた詩的表現を可能にしていくさま、万葉集の編集者=読者としての柿本人麻呂、大伴家持の存在などが活写され、第四章「終わりに」に至る。
 二〇〇六年六月まで雑誌「短歌」に一年半にわたって連載されていたものをまとめたものが本書であるが、リアルタイムで読めていたら、もっとワクワクして、次回を待っていたのではと思うと少し残念である。
 理に走りすぎず、情に流されすぎず、読みやすい書物であり、数多くの万葉集の名歌も楽しめる、日本史、詩歌に関心をお持ちの方にはお勧めしたい一冊です。是非。

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紙の本旧制中学入試問題集

2007/06/20 02:17

「旧制中学」のお受験の☆

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 教育論議の盛んな中、「旧制中学」を理想化する流れが目立つ。中高一貫校の流行もそこらへんから来ているのだろう。デビューに失敗して6年間いじめられる子や、最上級生と新入生の恋愛とか、どうすんのという気もするが、個人的にも「旧制中学」への憧れはあった。
 本書は大まかに二部構成になっている。第一部では明治三十五年から昭和十四年までの国語、算術、歴史・地理、算術、理科の中学入試問題を、当時の受験雑誌・参考書などに取材してピックアップしている。特筆すべきはできるだけ、参考書著者などによるものとはいえ解答がついているということ。これはありがたかった。特に歴史・地理では当時の「常識」、「建前」が反映された解答がないと、きちんと理解するのは難しい。まあ解答つきなら、すらすら読めるというのは、今の入試問題集も変わらないが。
 第二部「あの人が受けた入試問題」では宮澤賢治、岸信介(安倍首相のおじいさん)、井深大(ソニーの創立者)、丸山真男、鶴見俊輔、瀬戸内寂聴、各氏をはじめ十七名の各界の著名人が受験したはずの旧制中学・旧制高校の入試問題の抜粋を掲載している。残念ながらこちらには基本的に解答は付いていない。
 もちろん本書はあくまで「旧制中学」の入試問題を取り扱っているので、「旧制中学」の内実を本書で知ることはできない。しかし、そこに繋がるいくつかのイメージを得られたことは勉強になった。
 まず、著者も指摘しているように、とにかく小学校の国定教科書をそのまま題材にした問題が多いこと。特に坪内逍遙の流れを汲む大正前期までの国語がひどい。そして歴史と国語が、皇室関係の事績、戦争の物語を軸に結びついていること。楠木正成や日露戦争など両方で取り扱われる題材がけっこうある。
 算術では、編者のセレクトにも多くを負っているのだろうが、時事、特に軍事、領土に題材を求めた問題が目立った。たとえばこんなの。
 昭和二年 長野県立松本中学校 算術
 日露戦争は明治三十七年二月より始まり十六カ月間続いてその費用は十九億八千二百二十万円なり、しからばこの戦争中一時間平均いくらづつ使ったことになるか、ただし一ヶ月を三十日とし千円未満は切り捨てよ。(本書原文カタカナ)
 理科は不思議なほど貧弱な印象を受けた。まあ当時、国語・算術以外は半分いわゆる選択科目のような性格が残っていたようであるが。歴史に比べると質の貧弱さが目立つ。
 全教科おしなべて、漢字がとにかく難しいのは、時代の違いだろう。時代が現代に近づくにつれ漢字もやさしくなってくるのも読んでいて分かるし。
 政治的なことはともかく、第二部に記されているそれぞれの人物の当時の対応を見ると、みんながみんな学校教育や教科書を頭から信じ込んでいたわけでもないことが分かる。まあ、だからこそ非凡な方々なのだろうが。
 結論としては、過剰な「旧制中学」の理想化対しては一定の鎮静剤になる書物だろう。とにかく、政治的なことは抜きにして、純粋な「悪問」が目立つのだ。
 今の入試問題は数十年後、どう見えるのだろうか?

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江戸時代から投げられた、「普通」と書かれた直球!

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 江戸時代の本、と言えば「八犬伝」とか「奥の細道」とか国語のキョーカショに載っていた本が思い浮かぶ。でもそれは「ブンガク」だ。でも世の中には「ブンガク」になんて教科書でちょっと読んだだけ、それでおさらば、という人も多いはずだ。江戸時代の農村ならなおさら。でも彼らが本を読んでいなかったわけじゃない。むしろ出世や修養のためにたくさんの人々が一生懸命本を読んでいた。何を?「キョーカショ」、独力で当時の実学であった漢籍を読めるようになるための、わかりやすい、ひらがな入りの「キョーカショ」だ。
 普通であったがゆえに、この「キョーカショ」の代表格で1786年に出版されて明治初期まで版を重ねた「経典余師」など、ろくに古書価もつかず、その流通・読者など研究の対象になりもしかった。本書はこの「経典余師」など普通の本を「普通」にきちんと調査して分析した、もっと「普通」に読まれて良い本だ。
 普通が一番難しい。当時の一般人の意識を知るにはその作業こそが必要だった。それに「普通」の本はコンスタントに売れるので、その動きを軸に据えて当時の出版流通を緻密に分析。19世紀初頭から当時の出版流通が、江戸・大坂を中心に、松本(本書の分析例)など各地方都市に拡がり、それからまたさらなる田舎に流通を拡大してゆき、小間物屋の隅っこに置かれていた一ジャンルに過ぎなかった「本」がだんだん売れるようになって、地方にも「本屋」の形ができ、その流れをくむ書店が現代にまで生き残っていたりするという全体像が生き生きと描き出される。
 そして、ブンガク・ガクモン弾圧(普通の学問はもちろん奨励した)のイメージが強い、松平定信の「寛政の改革」が実は、きちんと一般人、特に地方・農村の人々に「学問」への興味をかきたたせ、「わかりやすいキョーカショ」のブームを起こし、その流れが19世紀を通じて明治まで拡がっていくさまを活写する。いや、むしろ、その流れがこそが明治を準備したのかもしれない。
 またこれらの「キョーカショ」において、一般人は林羅山に代表される「〜流」の家元っぽい学統の権威に飲み込まれることなく、独学の書物の上で、もっと自由に「この人はこういう立場で、あの人はああいう立場で、学問されています。どなたになさいますか」といった感じで学問に接することができるようになったらしい。「経典余師」はそこから生み出される無名の人々の自由な学の可能性を「田舎より出る宝」と呼んでいる。
 あとがきで著者が述べているように「…煩雑な考証、また史料の引用を端折っていただければ、一時間で読み終えることも可能」な、まさに「普通」の、しかし、剛速球である。

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マンガがマンガに踏みとどまるために

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 地下鉄サリン事件以前にオウム真理教への疑惑をいち早く指摘し、一般にも影響力を有する一マンガ家として戦ったのは小林よしのり氏だ。オウム信者によるVXガスによる攻撃を受けた時点でそれは彼にとって本物の戦争に変わった。それを抜きにして現在の氏の営為は語れないだろう。9・11テロは、アメリカンコミックスの本拠地であるNYで起きた。アメリカンコミックス作家たち、出版社、書店関係者たち、そして読者にとって、それはまぎれもなく戦争だった。
 本書は三部から構成されている。第一部では日本では「スーパーマン」など映画化されるような有名作や、一部の突出した作品しか一般には日本では知られてこなかったアメコミの歴史(新聞漫画との関係、マッカーシズムの下での統制の功罪なども丁寧に解説)、どんなジャンルがあるのか(新聞の付録から発展したいわゆるメジャーとヒッピー文化から生まれてきたアングラコミックの織りなす関係、それ以後)、制作体制(脚本・作画・レタリング・カラーリングをそれぞれ別の人間がやるのが普通)、作家の立場(作品と内面のドライな関係)、流通(近年まで一般書店では扱われず専門店のみで扱われていた)、出版社、契約関係と網羅的に、日本のマンガとひとくくりに並べて語れないアメコミの全容をわかりやすく解説している。これだけでも一冊の単行本が成立するぐらい凝縮された内容だ。
 しかし第二部「9−11」、第三部「戦時下のマンガ表現」が本論といえるだろう。
 第二部はテロ直後の作家や関係者、ファンたちの様々な反応をインターネットへの書き込み(空想の世界にいた自分たちへの困惑・否定)、作家たちの作品(9・11テロに一番早く反応したのがアメコミだった)などを通して分析し、彼らの混乱、困惑、さまざまなプロパガンダに巻き込まれて行く動き、現実に向きあうことの困難な営みを活写していく。
 第三部ではまず9・11以後の日本のマンガ・アニメ界にも「テーマ」として「戦争・テロ」が「代入」されていく現象を(浦沢直樹「PLUTO」、TVアニメ「ガンダムSEED Destiny」などを例に)分析している。そして9・11テロ後の戦時下の米国で、テロを一つのきっかけとして活性化するアメコミ市場の中、事件を契機にテーマを見いだして自意識の悩みから抜け出す作家、逆にヒーローを自由に扱えなくなってしまい沈黙に陥る老練な作家、「子どもを作る」ことに希望を見いだす作家など、様々なアメコミ作家たちの葛藤を取り上げ、そんな作家の内面などお構いなく、大統領選挙などに彼らを利用しようとして二転三転するリベラル派文化人の言動をも追いかける。
 綿密な調査に基づく、力作であり、丁寧な脚注、豊富な図版、構成・文体もわかりやすい。
 日本マンガ・アニメの世界的人気は事実であるが、それは無制限ではないという当たり前の事実。そしてマンガは社会(戦争)と無関係な場所には存在できず、しかしそれゆえにマンガはマンガとして日常に踏みとどまるべきであるという著者の実直な立場に深く共感した。サム・ライミの凄さも再認識しました。
 「そしてぼくらは赤ちゃんをつくることにした…」(James Kochalka「THE CUTE MANIFESTO」、ALternative Comics刊、2005年、本書より再引用)

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