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yukkiebeerさんのレビュー一覧

投稿者:yukkiebeer

917 件中 31 件~ 45 件を表示

紙の本

紙の本西洋美術事件簿

2004/12/04 13:48

「事件簿」と呼ぶのは大仰ではないですか?

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 日本人にも名の知れた西洋画家たちの人生にまつわる事件事故を集めたエピソード集に、各画家に関する著者の論評をまぶしたといったつくりの本です。

 「事件簿」という題名がついていますが、読者をそれほど驚愕させるような事件は登場しません。自らの耳を切り落としたゴッホだの、自動車事故で死んだポロックだの、小児性愛の嫌疑で拘留されたシーレだの、西洋美術史に関する知識がちょっとばかりある読者ならばこれまでも何かの機会に読んだことがある挿話がほとんどではないでしょうか。それ以上の新発見はこの本には特段見当たりませんでした。

 タイトルが、羊頭狗肉とまでは言いませんが、少々内容を誇大に見せる恐れがあると思います。

 ただ、これから美術史についてちょっと覗いてみようと思っている中高生にはこういう本もありかなと思います。その意味では単行本ではなく文庫本だったらなお良かったでしょう。

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紙の本

紙の本ウェディング

2004/11/27 11:51

力のない編集者が素晴らしい写真の数々に頼ったお手軽本

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

△オードリー ヘップバーン、カトリーヌ ドヌーブといった往年の女優からハル ベリー、ジェニファー アニストンといった最近の女優までの結婚式写真を集めた一冊。さすがに美女揃いで、そのにおい立つような美しさにはため息が出ます。

▼しかし、この本はそうした素晴らしい写真に安易に寄りかかっただけの手抜き本という印象があります。誤りがいくつも目につきました。

17頁:ジャクリーン ケネディが「デビュタント オブ ジ イヤー」に選ばれたことがあると書かれていますが、正しく表記するなら「…オブ ザ イヤー」。「ear(耳)」なら定冠詞theは「ジ」となるでしょうが、「year(年)」なら「ザ」です。

21頁:花嫁が身につけるのは「サムシング ボロー」ではなく「サムシング ボロード(something borrowed)」。

23頁:ケネディ家の3兄弟「ジョン、次男ロバート、三男エドワード」が「非業の死を遂げ」た、とありますが、ロバートは三男、エドワードは四男、しかもエドワードはこの本の出版時(2003年6月)には現役の上院議員として健在です。

26頁:「ローマの休日」をヘップバーンの「初主演の映画」と書いていますが、彼女には「ローマの休日」の前に「We Go to Monte Carlo」という主演作があります。

46頁:ドヌーブがマルチェロ マストロヤンニとの間に「息子をもうけている」とありますが、二人の間に生まれたのは娘のキアラ マストロヤンニだけです。

65頁:ジェニファー ロペスとベン アフレックの写真が掲載されていますが、二人はこの本の出版時点では結婚していません。この二人が「ウェディング」という表題の本に登場する意味がわかりません。

 出版社がこういう不完全な商品を販売して読者からお金を徴収しても良いのでしょうか。

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紙の本

紙の本悼む人

2009/02/16 22:35

物語に入り込めなかった

10人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 命を落とした人々を悼むために全国放浪の旅を続ける坂築静人。ふとしたことから彼と行動を共にすることになった奈義倖世には、夫殺しで服役していた過去がある。さらには静人の行動に興味を持った雑誌記者の薪野抗太郎、そして静人の母で末期がんに冒されている巡子。これは彼らをめぐる物語。

 400頁を超えるこの直木賞受賞作を読み通しても、私には静人の行動に気もちが近づくことがありませんでした。
 彼が見知らぬ人を悼むための手がかりとするのは雑誌や新聞の記事。つまり彼が悼むのは、事件や事故で命を落とした見知らぬ人々ばかりです。だからこそ、病気によって今まさに命がついえる日を迎えようとする実母のように、報道されることのない身近な死から彼は遠いところにいます。
 病気で死ぬ人よりも事件事故で落命する人を選択していくという彼の行動指針をどう解釈すればよいのかが私には分からないのです。
 彼はドラマチックでスキャンダラスな死をえり好みして放浪を続けているという事実が私にはどうしても生理的に受けつけないのです。

 おそらく作者は、日々報道される死が数字や記号に落とし込まれている気がし、その多くの死者に「顔」や「肉体」をもった人間としての存在を感じてほしいと考えてこの物語を紡いだのではないでしょうか。その出発点は必ずしも間違ってはいないと私も思います。
 しかし、必要なのは見知らぬ死者を悼む行為をとることではなく、私たち市井の人びとがそうした数値化されてしまった報道上の死を痛ましいと思う健全な心を持つことではないでしょうか。静人の行動は「悼む」という外形はとっているには違いありませんが、彼がそれを「痛ましい」と内面で感じている様子が伝わってこないのです。そこに私は生理的な不快感をいだいてしまうのです。

 また静人の随伴者として登場する倖世が夫殺しに至る経緯もさっぱり理解できません。
 殺された夫・朔也の豹変ぶりが現実離れしている上に、倖世に憑依し続けるさまがあまりに人智を超えているとしかいいようがないのです。

 その一方で私の心に残ったのは、闘病する母・巡子の終末期医療の詳細ぶりです。
 50代という若さで死期を迎える巡子の心の内は強く読む者の胸に迫ってくるのです。それは彼女のような平凡な人物こそが、今の私にもっとも近い存在であり、感情移入が容易な対象であるからでしょう。

 ひょっとしたら巡子の、そして彼女の夫・鷹彦と、二人の娘=静人の妹である美汐、この3人の家族の物語だけで、人の心を揺さぶる物語が十分に構築できたのではないでしょうか。
 静人や倖世、そして抗太郎という存在はむしろ物語の夾雑物にすぎなかったのではないか。
 そんな思いが残った読後感でした。

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紙の本

紙の本ナラタージュ

2005/07/27 07:18

主人公に心が重ならなかった

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

主人公の工藤泉は婚約者と新居を見に来ている。そこでふと思い出した大学生のころのあの思い出。高校時代の演劇部顧問の葉山先生、そして演劇を通じて知り合った大学生の小野君。あの頃は子供だったから愛とは違うのかと思っていたけど、子供だったから愛していることに気づかなかっただけなのかもしれない…。

 最近マスコミが盛んに取り上げる二十歳前後の作家の中ではきちんとした文章が書ける人だなという印象がまずあります。途切れ途切れの感覚的なケータイ日本語を使っていない点は好感が持てました。

 しかし、この主人公が恋する葉山先生と小野君はどちらも私の目にはひどく幼い人物に映りました。大学生の小野君は仕方ないかなとは思います。相手の女性の気持ちなどよりまず自分の欲望、という態度の性行為など、二十歳そこそこの学生はそんなものです。そこに若干の既視感を覚えないでもありません。
 ですが、葉山先生は三十二という年齢には似つかわしくないほど地に足がついていません。妻との痛ましい過去があるということを差し引いても、理解する気にはなりませんでした。

 ことほどさように、この切なくほろ苦くあるはずの若い恋の物語は、私に擬似恋愛感を与えてくれませんでした。主人公とともに惑い悩みながら歩むこともなく、あまり魅力的ではない男性二人の間で揺れる泉を、私はただひたすら冷静に傍観し続けていました。

 読了後、この小説で最も魅力的な言葉は実は冒頭の頁にあったのだということに気づきました。

 「きっと君は、この先、誰と一緒にいてもその人のことを思い出すだろう。だったら、君といるのが自分でもいいと思ったんだ」(4頁)

 この言葉を口にするのは泉の婚約者です。泉は結果的に素晴らしい人と出遭ったのだということです。それならばこの物語には救いがあると思いました。

*「エル・スール」の監督名はエリセです。エルセ(24頁)ではありません。

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紙の本

紙の本ひとりぐらしも9年め

2010/01/21 21:59

著者の以前の作品ほど楽しむことができなかった理由

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 「上京はしたけれど。」「ひとりぐらしも5年め」と私は著者の東京シングルライフを読み継いできました。地方都市から出てきて不安と焦りを抱えながらの一人暮らしに、かつて同様の心細さを感じた者として強い共感と懐かしさを覚えながら頁を繰ったものです。

 ですが、本書は上京生活もさすがに9年目となり、著者は要領も随分と良くなり、気ままな独身生活を満喫しているといった風情です。
 その意味では、著者を応援しながら読んだ前著に比べ、今回は安心して読めるし、そのぶん感じるところは少なくなったなという淋しい思いもしています。

 少々辛辣な物言いをさせていただくならば、著者の「ひとりぐらし」には商品価値がなくなってきたように思います。経験も知識も、そしてひょっとしたら勇気すらないけれど、夢を持って上京してきた若者への応援歌にもなりえた過去の著作に比して、本書はどうしても“おひとり様”のお気楽面白エッセイの域にとどまってしまったように思えるのです。

 頼りなげで小さな存在にすぎない若い著者の姿の向こうに、なにかしら飛躍の未来を想像できた以前の作品にはワクワクできたのに、その落ち着いてしまってこれ以上はさほど大きな跳躍を見られそうもないと思わざるをえない今。

 少なくとも私には、そろそろ著者の作品と別れを告げるときが来たのかもしれません。

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紙の本

紙の本世にも奇妙な遺言集

2005/09/18 08:18

心に響かせる工夫が足りない書

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

アフリカの古王国ヌミディアのユグルタ王から電気椅子で処刑されたジョン・エルドン・スミスまで歴史上の人物およそ300人の辞世の言葉を集めた本です。

 という具合に、本書に掲載されている多くは日本人読者にはなじみのない人物が大半です。しかも簡単な肩書きと死んだ年が記されているだけですから、それぞれの人物に思い入れをもってその辞世の言葉を読むことができません。いまわの際に残した言葉は、その人の人生のあれやこれやを背負ったものであるはず。そのあれやこれやを知らないまま読んでも言葉の重みは伝わらないものです。

 たとえば本書152頁に載っている“ジョルジュ・クレメンソー”の言葉:
  「私をドイツのほうへ向け、立ったままの姿勢で埋葬してほしい」
この言葉をどう読むべきでしょうか。本書はクレメンソーをわずかに「フランス首相。1929年没。」と説明しているだけです。
 そもそもクレメンソーというのはフランス首相クレマンソーのことでしょう。本書の訳者はClemenceauを英語風に読んでしまっています。つまり訳者自身がこの人物のことを十分に理解できていないということです。

 私なりに補足しておけば、クレマンソーは第一次世界大戦終結時(1919年)のフランス首相。敗戦国ドイツに対して厳しい制裁を要求したことで知られます。つまり彼の辞世の言葉は、愛する祖国に災禍をもたらしたドイツに対して彼が最後まで毅然たる態度を取り続けたことを表しています。そうした人物プロフィールや時代背景と併せて読んでこそ、はじめてその言葉が心に響いてきます。

 もともとが海外で出版された書で、そもそも翻訳して紹介するに値する書であったのか、出版元はもっと慎重であるべきだったと思います。

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紙の本

紙の本ザ・ロード

2009/07/20 07:04

ピュリッツァー賞受賞の全米ベストセラー小説とはいえ、日本人には少し遠い話だと思う

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 近未来のアメリカ。父と幼い息子は南へと徒歩で向かっていた。周囲の建物は激しい熱でやわらかくなった後でまた固まり、歪んだ姿で立ち残っている。動物の姿はもはやなく、灰が積もった街々で缶詰の食料を探しながら、父子は道を歩き続ける。

 しかとは書かれていないものの、おそらく核爆弾によって崩壊したのであろうアメリカ大陸を南下する二人を、淡々と描写し続ける小説です。現代版「渚にて」ともいえるこの物語の中には、人類に対する希望はありませんが、それでも父親の息子への深い愛情と、息子を通して未来に託す思いが描かれていて、最後に胸が詰まる思いがしました。

 とはいうものの、そのエンディングへとたどり着くまでの読書の道のりは、私にとって決して平たんではありませんでした。
 ひとつには訳文に不思議なある特徴があるためです。
 この訳者は、読点を打たないのです。読点とは「、」のことであり、大辞泉の定義を引けば「文の意味の切れ目を示したり、文を読みやすくしたりするために、文中に施す記号」のこと。ですから読点が必要な場所で打たれないと、文の意味の切れ目が示されず、文が読みにくくなります。
 コーマック・マッカーシーの英語原文が必要なコンマを省いていて、それを日本語文でも忠実に踏襲しようとしたのかと思って原文にあたってみましたが、どうもそういうことではないようです。

 もうひとつ読書の道のりを険しく感じさせたのは、なぜ物語の中の世界が引き起こされたのかについての説明がないことです。それはおそらく核戦争的なものによるのだろうと想像させる描写はあるのですが、それならばいっそう、広島・長崎の被爆体験を持つ日本人にとってこのマッカーシーの描写は、やはり生ぬるいと言わざるをえません。核戦争後数年もたった時期に徒歩で南下する父子という設定には無理があり、どうしてもアメリカ人の無邪気さを感じないではいられませんでした。

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紙の本

紙の本テレビの青春

2009/05/12 21:27

著者のテレビ番組を見ていない世代にどこまで理解されうるのか

8人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 ちょうど半世紀前の1959年に著者がTBSにディレクターとして入社した時から、日本初の番組制作プロダクションであるテレビマン・ユニオンを立ち上げた1970年代までを振り返った記録です。

 まさにその黎明期にテレビに携わった若者たちが、「テレビとは何か」、「テレビは何を目指すべきか」という命題に頭と体で精いっぱい格闘していた様子がよくわかります。テレビを追究する姿は、私の目にはときに観念的にすぎるように映りますが、おもしろければいいじゃん、というスイスイした考えで番組制作に取り組んでいたわけではないということに少なからず驚きを感じると同時に、果たして今の若いディレクターたちは同じように思い悩みながら番組作りに携わっているのかなという意地悪な疑念も抱きました。

 しかし、私はこの500ページを超す大部の著を必ずしも十全に味わえたという実感を残念ながら得ることができませんでした。
 それは、実のところ私がこの著者が作った、テレビ史に名を残したと考えられる作品群と全く縁のない人生を歩んでしまったからでしょう。
 「七人の刑事」「遠くへ行きたい」「欧州から愛をこめて」「オーケストラがやってきた」…。どれひとつ見たことがないのです。おそらくこうした番組を多少なりとも見たことがある世代なら、どんな熱い理念の上に番組が拠って立っていたのかを本書で知って、格別の思いを味わえるのかもしれません。しかし、私には、若いディレクターたちの熱い気持ちはわかるとしても、その気持ちが番組としてどう結実したのか、理解の手が届かないもどかしさが残るのです。

 もうひとつ言えば、かつてはタクシー券の偽造が横行していたことが、「現在のようにコンプライアンス一点張りの世の中では、もう見られなくなった風景である。(142頁)」という言葉とともに無邪気に綴られている箇所があり、あまり気持ちが添いませんでした。

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紙の本

紙の本利休にたずねよ

2009/03/16 21:47

高麗の女人が美しくなければ、利休はどうしたかということが頭から離れない

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 千利休は秀吉によって切腹を命じられ、今まさに自決のときを迎えようとしていた。
 利休は肌身離さぬ緑釉の香合を持っていた。それは利休若かりし頃の想い人の形見であったから…。

 物語は利休切腹の日から時間を逆のぼり、彼が十九のときに女人としでかした出奔騒動へと帰っていきます。
 その時間遡行の途上で著者は凛とした日本語によって利休の類いまれなる美意識を紡いでいきます。茶の湯の器のひとつひとつ、手前の所作、二人の妻との閨(ねや)の情景にいたるまで、読者は数々の美しさに触れていくことになります。

 しかし、物語の核心である高麗の女人に若き利休が想いを寄せ始める場面には、私は胃の腑に落ちるものを感じませんでした。
 利休は言葉も通じぬ外国人女性を一目見て、ずいぶん高貴な生まれにちがいない、そう思わせるだけの気高さ、優美さがそなわっているとして、恋に落ちるのです。
 確かに人が恋に落ちる理由やきっかけは様々です。利休がこうした形で恋に落ちるわけがないとはいえません。
 ですが、どうもこのときの利休の様子を見るに、人を愛することと茶器を愛でることとを利休が同次元でとらえているような気がして心が寄り添いません。人を愛すること、人の命を愛するということは、そういうことではないと思うのです。

 十九の利休がこうした出来事を恋と理解したのもその若さゆえのことかもしれません。
 ですがそれならば、その若気の至りを生涯反芻し続けて齢(よわい)を重ねた末に、その想いをもうひとつ上の段階へと昇華させることはできなかったのでしょうか。特に、器という命のないものと、人という命あるものを愛することの違いに彼は目を向けるべきだったのではないでしょうか。

 この小説の利休は何か大切なことに気づき損ねている、私にはどうしてもそう思われて仕方ないのです。

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紙の本

紙の本ルポ貧困大国アメリカ

2008/11/08 08:49

もう少し手を入れればもっと良い書になったと思う

8人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

【刮目すべきところ】
(1)貧困が肥満を生み出すからくりを、事例をもとに説得力もって描いている点。
 アメリカに肥満体の人が多いのは高カロリーの食事を無批判に食べている人が多いから、という単純な話ではなく、経済的条件によって高カロリーの食事をとらざるをえない一定階層が生み出されているという構造を浮き彫りにしている点は大変興味深く読みました。

(2)貧困層の若者を狙い撃ちにした軍隊への勧誘活動のおぞましき実態を明らかにしている点。
 国家による大規模な詐欺行為がまかり通っているアメリカの実態は恐怖に満ちたものです。またそうした詐欺行為に対して貧困層があまりにも無力であることにやりきれなさを感じました。

【読む上で注意が必要なところ】
(1)構成にムリがあったり舌足らずだったりする点。
 58頁で貧困層の子弟が高校を卒業したら軍隊に入るというくだりがありますが、なぜそういう選択になるのかが、アメリカ社会の仕組みが分からない読者には不明だと思いました。ようやく100頁を超えたところで、軍へ入ることで学費免除が得られ、市民権取得に有利な場合があるようだということが言及されます。ここは構成を逆にしなければ、理解が進まないと思います。
 なぜこういう分かりにくい構成になっているのでしょう。本書が別々の媒体で発表された論考の寄せ集めであることが一因ではないでしょうか。一冊にまとめる上で加筆修正したとありますが、十分ではなかったと思います。

(2)行政サービスの民営化に反対する上で必ずしもアメリカの貧困が好材料とはいえない点。
 日本の過去30年の経済史を振り返っても行政サービスの民営化によって効率化・低価格化が進んだ事例はいくつもあります。本書は盛んに民営化の弊害について触れていますが、それは是々非々でやるべきことであって、何が何でも民営化反対という論調には必ずしも賛成できませんでした。

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紙の本

紙の本世間のウソ

2005/11/20 07:29

物足りなさが残るばかりの書

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

_ 紙幅に制限のある新書であるためでしょうが、各章のテーマが深みのないまま小さくまとまっている気がします。
_
_ 例えば、実体がないにもかかわらず「民事不介入」という言葉を警察が伝家の宝刀のごとく振り回して、多くの犯罪を見て見ぬふりをしてきたというお話。
_ 「民事不介入っていうのがあるんです」と警察官が口にするのを私も耳にしたことがありますので、この「世間のウソ」はなかなか興味深いお話だと思います。ですが本書のようにわずか3頁程度の扱いでは十分に語り尽くせているとは言えません。
_
_ また児童虐待を取り上げた箇所で、「母親が実の子を殺す率が父親の五倍も多い」と書いています。しかしその理由についてはなんら触れられていません。
_ 私が思うにこれは、一般的に母親のほうが子供と接している時間が父親よりも長いからで、その結果として母親による虐待死の件数が多くなるだけではないでしょうか。本書はそうした分析もないまま「子殺しは『母』が多い」と書いて意味もなく放り出しているようにしか見えません。
_
_ さらに「人身売買」を扱った章では、中国人女児が人身売買の対象になっているという新聞記事から、これは一人っ子政策下で生まれた二番目以降の子供が裕福な外国人夫婦の元で育つようにという親心がもとになっているのではないかと著者は推理しています。しかしそれはあくまで推理でしかありません。著者自身が中国の人身売買の現場に足を運んで取材したわけではありません。
_ この推理はおそらくそれほど外れてはいないのかもしれませんが、だからといって親心を汲んでこの人身売買は決して一方的に非難されるべきことではないかのように筆を進めている点には疑問が残りました。売買の対象となる子供の視点が欠けているように感じるからです。
_
_ 取り上げるテーマを半分にしてそれぞれをもっと掘り下げたなら、さらに興味深い読み物になったことでしょう。
_
_同様の書に「反社会学講座」(パオロ・マッツァリーノ著/イースト・プレス刊)があります。手放しで褒められる書とまでは言いませんが、この「世間のウソ」よりは読める内容だと思います。

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紙の本

本当にそうなのか?と思う箇所がある

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 著者は大阪大学大学院言語文化研究科の准教授。
 本書前半で西洋における文化記号としての金髪について、そして後半では日本におけるそれについて論じています。
 金髪に対する憧憬と懐疑について古今東西の文学作品や映画、絵画など膨大な資料にあたって論を進めた労作として、大変興味深く読みました。

 しかし著者の論の進め方、資料の当たり方に私は「若干、疑義なしとしない」のです。
 それぞれの資料の読み方に、そういう見方もないことはない、という程度の納得しか得られなかったのです。それは言い過ぎではないかと、首をかしげることが一度ならずありました。
 
 例えば、第十三章「ロシアのブロンド女たち」の書き出しは以下の通りです。
 「今日の日本人(男性)にとっての『金髪女性』は、まず誰よりもロシアン・パブで働くロシア人女性のことかもしれない。」(171頁)
 さらに著者は「どこの盛り場でも見られるようになった『金髪』ロシア人ホステスが、今日における日本人の、金髪白人女性像の典型を生みだしてきたのだとすれば…」(182頁)と筆を進めます。これは牽強付会のそしりを免れないと思います。ロシアン・パブに足を踏み入れたことがある読者がどれほどいるというのでしょう。
 著者は1994年の雑誌「FLASH」の記事に首都圏に約300人のロシア人ダンサーがいるとあることを手掛かりにしていますが、首都圏にいる300人のロシア人ダンサーと一般の日本人男性とが接する機会など、たかが知れています。現在の日本人の金髪白人女性像を形づくっているのはやはり多くの人が見る銀幕の中の女優たちだと考えるほうが自然でしょう。

 マリリン・モンローについてはわずかに語っているものの、まさにいみじくも著者自身が「あとがき」(226頁)に記すように、メグ・ライアンやカトリーヌ・ドヌーブが出てこないことに、私は「多くの不満が残って」しまいました。

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紙の本翻訳という仕事

2010/01/11 09:39

翻訳家の地味で地道で経済的には厳しい現実が見える

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 1960年代からアメリカのミステリー小説を翻訳してきた著者が自らの生業について綴ったエッセイ。

 第一章「翻訳作業の実際」ではどういう手順で翻訳作業が進むのかを解説しています。地味で地道な作業が続く様子は大変面白く読みましたが、著者はゴルフ好きとみえて、ゴルフの翌日は体がきつくて「丸二日休業」などと書いているのには苦笑しました。私のようなサラリーマンは遊びで疲れたから翌日仕事を休むなんて贅沢は許されませんから。
 
 第二章「翻訳家ができるまで」では、サラリーマン勤めしていた駆け出し時代から翻訳家として一本立ちした現在に至るまでの自らの半生を振り返っています。

 第三章「職業としての翻訳業」にあるように、なかなか経済的には自活するのが厳しい翻訳家の世界では、よっぽど「好き」でなければ続かないというところもあるのでしょう。著者は翻訳学校で教えた経験がありますが、生徒の中にはすぐに気楽な印税生活が待っていると思い込んでいる、ちょっと英語が出来るので翻訳でもやってみるか程度の人が珍しくないように書いています。

 付録として巻末に「翻訳のコツ」が書かれています。そのいくつかは私のように翻訳をなりわいとしているわけではない一般読者にも日本語で物を書く際には大いに参考になるものです。
 しかしいかんせん、本書はそもそも1985年に別の出版社から出された書籍がもとになっているため、この「翻訳のコツ」の中には少々古臭い印象を与えるものもあります。
 「ドライブする」ではなくて「ドライブをする」というほうが良いとか、「マッチする」(調和するの意)と表現するのは軽薄だとか、確かに四半世紀前にはそうだったかもしれませんが、2010年にこうした指摘を読むと、やはり一昔前の世代の苦言という気がします。

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紙の本片眼の猿

2007/06/16 10:48

タイトルになったあの寓話の扱いを間違えているのではないだろうか

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

盗聴が専門の私立探偵・三梨幸一郎が引き受けたのは、ある楽器メーカーがライバル社にデザインを盗まれている可能性があるかもしれないという事件。デザイン盗用の証拠を探すうち、三梨は殺人事件に巻き込まれ…。

 本格ミステリーとするには意外感やワクワク感を得ることはできませんでした。ハードボイルドものとみなすには、文体に味がありません。巻末の記述によれば、もともと「新潮ケータイ文庫」として<配信>されたものであり、そのためか若い携帯世代におもねったような青さが文章ににじんでいて、人生も半分済んでしまった年齢にある私の心には添いませんでした。

 ストーリー展開も後半は少々ご都合主義的で、悪役との対峙場面はマンガのようです。
 著者がこの小説を使って指摘しようとすることが、私たち読者が抱える差別や偏見、無垢ではあるけど無知な思い込みなどであることは理解できますが、小説としてのレベルは期待していたほど高くないというのが率直な感想です。

 そもそも「片目の猿」という寓話の解釈が誤っているのではないでしょうか。
 私はこの寓話を10年以上も前に職場の先輩に聞かされたことがあります。当時の職場は仕事をする能力も意欲もない同僚が溢れていて、懸命に職務に取り組もうとする私とその先輩のほうが職場で浮いた存在になっていました。そんな私たちの状況を指して先輩は寓話を引きながら、「俺たちは<片目の猿>たちに囲まれた<両目の猿>なんだ」と評したのです。
 しかしこの小説では、主人公たちこそが<片目の猿>で、周囲のほうが<両目の猿>として描かれていると解釈するほうが自然な配置になっているのです。ここでこれ以上その詳細を述べるのは、これからこの小説を読もうとする読者の興をそぐことになるので控えますが、小説の題名となった寓話の扱いが適当ではないと感じる読者は少なくないと思います。

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紙の本

紙の本ジプシーを訪ねて

2011/04/29 14:34

研究書でもなくルポルタージュでもなく、なんとも中途半端な印象が残る書

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 著者は商社勤務を経てジプシー研究や音楽評論に携わってきた人物。大学の非常勤講師として音楽マネージメントを教え、ジプシー関連の著書もこれまでいくつか物しています。
 これまでの10年、ヨーロッパ各地や北アフリカ、トルコなどを歩いて著者が出会ったジプシー社会の現状を綴った一冊です。

 著者はこの本の中で「私は研究者としてジプシーを追いかけてきた訳ではなく、むしろジャーナリズムに根ざした現場報告をしたいと思っていた」(140頁)と書いています。
 確かに研究者然とした衒学的な趣はこの書には全くありません。しかし一方で著者が言うほどジャーナリスティックな書であるとも感じられませんでした。

 比較的近代化されていない国や地域を、通訳や移動手段に苦労しながら訪ね歩く様子は、取材過程の苦労話として多少の興趣を添えていますが、その裏話的要素にばかり健筆をふるったあげくに、たどり着いたジプシーたちの生活の描写が思いのほか淡白に終わってしまっています。
 著者が確かに相当数の地域を回っていることは分かりますが、それぞれの地域に充てた紙幅は非常に少なくて、なにやらジプシー社会の広く浅い描写のパッチワークを見せられただけと感じてしまうのです。事実、著者は「浅くとも広く『現代のジプシーたちの暮らし』を見つめる」(79頁)旅を目指したと記しています。
 しかし果たして多くの読者の賛同を得られる書物に仕上がったのでしょうか。

 また著者は多少の英語は出来るのかもしれませんが、スペイン語とドイツ語の知識はないようで、それぞれの言語のカタカナ表記が間違っています。
 スペイン語の「踊り」のことを「バイーレ」(152頁)と記していますが、baileはむしろ「バーイレ」のほうが原音に近いと思います。カタカナ表記するのなら「バイレ」で十分だと思いますが。
 また、「コンテスト」を意味するスペイン語を「コンクルーソ」(154頁)としていますが、これも「コンクールソ」のほうが原音に近いでしょう。
 ドイツの都市名を「ハンブルグ」(158頁)と表記していますが、原音は「ハンブルク」です。Hamburgと綴っても、ドイツ語ではこの場合の語末の「g」は無声子音です。

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