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  3. MESSYさんのレビュー一覧

MESSYさんのレビュー一覧

投稿者:MESSY

29 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本龍のかぎ爪 康生 上

2012/04/10 01:16

毛沢東の悪行を支えた男の生涯

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「中国のベリヤ」と呼ばれた男の伝記です。
 ベリヤとは言うまでもなく、スターリンの大粛清の執行役をつとめた、悪名高い人物です。
 ベリヤが最後は死刑になったのに比べ、康生はいわば畳の上で往生したのですから、もっとワルかもしれません。
 ともあれ、毛沢東の手先となって大活躍(?)した男の生涯ですから、面白くないわけがありません(不謹慎な言い方で恐縮です)。
 まず強い印象を受けるのは、権力に対する触覚ともいうべきものです。共産党が政権を握る前の党内抗争のなかで、王明から毛沢東にあっさり乗り換えた変わり身。
 文革を引き起こした毛沢東の心理状態への洞察。
 中国の伝統的な書画を愛し、自らも優れた書家、画家でありながら、政治的に必要と判断すれば破壊をためらわない、節操のなさ。
 そして、毛沢東が亡くなる10カ月前に病死し、断罪される憂き目を避けることに成功した、タイミングのよい死に方。
 とにかく、すさまじい男です。
 もちろん、毛沢東が死に、4人組が逮捕されて文革が終わった後で、断罪はされました。共産党からの除名処分も受けました。しかし、すべて彼が亡くなった後のことで、いわば後の祭りです。かつての愛人だったとみられる江青ら4人組が裁判にかけられた末路に比べ、この男が天寿を全うしたのは、なんとも承服しかねる気分になります。
 もっとも、さらに承服しがたいのは毛沢東、その人の扱いでしょう。文革のときの康生や4人組の悪事も、大躍進の惨禍も、おぞましい反右派闘争も、すべて毛沢東が根源です。にもかかわらず、中国のWTO加盟を控えた1999年から、中国の紙幣の図柄がすべて毛沢東になりました。
 本書と同時に、昨年出た「毛沢東の大飢饉」や「毛沢東最後の革命」、あるいは最近出た「毛沢東大躍進秘録」などを読むべきでしょう。毛沢東の数々の悪行を支えたのは康生と4人組だけでなく、劉少奇や周恩来、トウ小平ら、当時の共産党の指導部にいた人たちだったことが、よくわかります。つまり、共産党は政権を維持するために、毛沢東の罪をいわば不問にしたのです。康生と4人組を断罪しただけで済ませている共産党政権は、本当の意味で歴史に向き合ってはいないのです。
 そのせいもあって、いくつかの謎が浮かびます。共産党が政権を樹立したあと、康生の活動はしばらく低調ですが、それはなぜなのか。同じころ、林ピョウの活動も比較的低調だが、それは偶然なのか。康生と仕事仲間だったこともある陳雲は文革の政治抗争に巻き込まれるのを上手に回避した印象があるが、それは康生とのつながりに負うところはないのかーーなどです。

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紙の本漢文と東アジア 訓読の文化圏

2012/04/08 02:18

東アジア人必読のメウロ本

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 学者さんの仕事はしばしば「目からうろこが落ちる」(略称メウロ)快感を味わわせてくれる。本書もそんな1冊だ。日本人のみならず、東アジアに暮らす人々、東アジアの文化に関心のある人なら誰でも、必読だろう。2年近く前に出版されたときに読んで感激したのだが、最近、改めて読み返して感動を新たにしたので、遅ればせながら紹介したい。

 まず、メウロの例をいくつか。

1)漢文の訓読は日本だけでなく、朝鮮、ベトナム、契丹、ウイグルなどの人々もおこなっていた。
2)少なくとも日本と朝鮮の場合、漢文訓読は漢訳仏典に淵源があるとみられる。
3)サンスクリット語(梵語)の仏典を漢文に訳すという作業の存在そのものが、日本や朝鮮の漢文訓読を正当化したとみられる。
4)アラビア語以外の言葉に訳されたコーランを聖典と認めないイスラム教や、ラテン語以外の言葉に訳された聖書を長らく認めなかったキリスト教に比べ、仏教は仏典を梵語以外に訳すことに寛容な宗教だった。
5)著者は明言していないが、以上の議論を踏まえると、東アジアで広く行われた漢文訓読の文化は、仏教という東アジアの外で生まれた宗教の基本的な性格を強く受けたと考えるべきだ。

 へー、という例もいくつか。

1)日本人の漢文の一般的な水準は、江戸後期から明治初期がピークだった。
2)日本の仮名は自然発生的に生まれたが、朝鮮、契丹などの民族文字は唐朝崩壊後の激動を背景に人工的に創造された。
3)正規の漢文でない変体漢文の文化は今ではあまり省みられないが、東アジアの伝統文化の中で占める比重は大きい。

 とにかく知的刺激たっぷりで、面白い。漢文訓読といえば高校の古文の授業の一環で多少触れる程度だが、当時この本があればもっと身を入れて勉強したのではないか、と思う。
 また、日本の思想史も含めた東アジアの思想史、ひいては世界の思想史は、本書が示した視点を踏まえなければならない、とも考える。つまり、既存の思想史をすべて、根本から相対化する視点を与えてくれるような気がするのである。
 本書の議論は東アジア全体の文化に対する見方を一新させる。日本以外の国々にも紹介されてしかるべきだとおもうのだが、現実はどうなのだろうか。もしまだ紹介されていないとすれば、日本語を読める喜びをかみしめるべきかとも思う。

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紙の本巨流河 上

2011/11/25 01:45

台湾を第二の故郷とせざるを得なかった中国人の大河のような自伝

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 著者の故郷は、かつて満州と呼ばれた中国東北地方である。ここを流れる遼河という大きな河川の古い呼び名が、書名の由来だそうだ。歴史の大きなうねりを思い起こさせる名前は、確かに本書にふさわしい。
 1924年に生まれた著者の自伝である。父親の齊世英は、当時「満洲王」と呼ばれた張作霖に反旗を翻した郭松齢に同調して、追われる身となった。東北地方を逃れて国民党に加わり、長女の著者を含む一家は国民政府の首都・南京に落ち着いた。
 やがて日中戦争が勃発し、新たな流浪が始まった。南京から漢口(現在の湖北省武漢市の一部)へ、次いで湖南省、貴州省、四川省へ。その途上、著者の妹の一人は病死した。生き延びた者たちも命からがらの逃避行だった。
 ひとまずの終着点となったのは臨時首都とされた重慶。ここで著者は中学校から高校、大学へと進んだ。それは日本軍の爆撃に日々おびえながらの青春だった。
 生涯の仕事となる英文学の研究への情熱。戦争のために悲劇に終わった初恋。人と人の触れ合いを政治的な関係へとはめ込んでいく共産党の活動――。女性らしい細やかな筆致は、空襲下の重慶の様子と、そこに生きた若い女性の生活をみずみずしく描き出す。
 日本の敗戦が著者にとって大きな喜びだったのは当然だろう。だが、中国大陸ではすぐに国民党と共産党の内戦が勃発した。さなかに台湾に職を得て海を渡った著者が、再び故郷を目にすることができたのは、実に半世紀後。国民党が内戦に敗れ共産党政権が大陸にできたからである。
 本書は自伝であり、鵜呑みは禁物だろう。特に日本に関しては、自ら味わった苦難や国民党の歴史観などの影響で、首をひねるような部分があるし、共産党や張学良などに対する見方や評価も独特の偏りがある。しかし、そうした偏りを踏まえたうえで、できる限り多くの日本人に読んで欲しいと思う。むしろ、そうした偏り、見方があることをわきまえるためにも。
 戦後に日本の首相になる吉田茂をめぐるエピソードは、面白い。郭松齢の張作霖に対する叛乱が鎮圧されたとき、当時奉天総領事だった吉田は追われる著者の父を匿い、一夜歓談したという。当時の関東軍と張作霖に対する吉田の態度がうかがえる、武勇伝である。
 日中戦争が始まる前の中華民国と首都・南京についての描写は、胸に沁みる。そのころの南京は「全国から若き精鋭らが集い」「至る所で建設ブーム」に沸いていた、と記す。日本軍の侵略がなければ、中国はずっとすばらしい国になったのではないか。共産党政権の下での幾多の悲劇は避けられたのではないか。台湾を第二の故郷とせざるを得なかった中国人の、そんな苦い思いが伝わってくる。
 原著の出版は2年前の2009年。国民党が内戦に敗れて60周年のこの年、台湾では歴史を振り返る本が多く出されたが、本書は評判を読んだ1冊である。満州事変から80周年という年に日本語版を出した訳者と出版社の努力に、敬意を表したい。

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紙の本遊牧民から見た世界史 増補版

2011/08/29 00:45

目から鱗が落ちまくる面白さ

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 前々から読みたい、読みたいと思っていた本で、増補版が出たのを機に、ついに読みました。期待にたがわない面白さです。次から次に目から鱗が落ち、歴史を、そして世界を見る目が変わってしまうような気にさえなります。たとえば・・・
 10世紀から割と最近までの世界史は「テュルク・イスラーム時代」と呼びうる時代だった(P80)。
 「陸と弓矢の時代」と「海と銃器の時代」が並存していた時期があった(P82)。
 漢字文化圏で「漢楚の攻防」と理解されている東アジアでの覇権争いは、匈奴も交えた三つ巴の覇権争いとして理解すべきであり、そのことを司馬遷は読む人が読めばわかるように「史記」に書いている(P152)。
 漢の武帝のときの匈奴との戦争は異様な長期戦で、それは武帝という異様な帝王の個性によるところが大きい(P190)。
 中国の24の正史のうち三分の一は唐の太宗の時に編まれた(P253)。太宗ほど歴史の中での自分の演出に長けた帝王は少ない(P255)。唐の建国を支えたのは東突厥だった(P289)。
 いろいろ書き出すと限りがありません。要するに、中国の正史や欧州の歴史観の観点を超越した、歴史ひいては世界の観方ともいうべきものを、学べるような気がします。そして、より深く、世界を理解しよう、という意欲を掻き立てられます。
 たとえば、冒頭の「追記」のなかで著者は、ロシア・ソ連がカザフスタンにもたらした悲劇を少しだけ紹介していますが、その具体的な実像は本書ではわかりません。おそらく、日本人でカザフの歴史を多少なりとも知っている人はごく少数でしょう。
 1997年にこの本の初版が出て以来、遊牧民、あるいは中央アジアについての情報はずいぶん多く日本でも流通するようにはなっています。しかし、まだまだ足りないのが実情という気もします。
 
 

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紙の本巨人たちの落日 上

2011/07/15 19:19

20世紀の「戦争と平和」

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 大河小説という言葉がこれほどぴったり来る物語も少ない。多彩な登場人物が歴史のうねりに翻弄されながら辿るドラマチックな人生は読者を飽きさせないが、その中で主役を一人あえてあげるとするなら、歴史そのものとしか言いようがない。

 下巻のオビが「20世紀の罪と罰」という推奨の言葉を掲げているが、そうではなくて「20世紀の戦争と平和」と呼ぶべきだろう。

 舞台は主に英国、ドイツ、ロシア、米国。時代は第1次世界大戦をはさんだ10数年。初めて「世界大戦」と呼ばれたあの戦いを軸に、ロシア革命、ドイツ帝政の崩壊、英国における特権階級の衰退=労働党の台頭、そして超大国としての米国の登場といった世界史的な事件を、手に汗握る人間ドラマを通して読者に提示する著者の「わざ」は、さすがに見事だ。

 さりげなく書き込まれている歴史的な事実も、気が利いている。たとえば、大戦終了後のパリ講和会議で結ばれたヴェルサイユ条約がドイツに過大な賠償金を課したことを、20世紀最大の経済学者であるケインズが厳しく批判したこと。あるいは、パリ講和会議で日本代表の牧野伸顕が人種差別の撤廃を訴えたこと。

 著者の公式HPによれば、本書は「20世紀3部作」と呼ばれるシリーズの第1部。第2次世界大戦を軸にした続編は来年、冷戦に時代を移した第3部は2014年に出版すると、HPは明記している。翻訳を待ち切れなくて、原書を買い込んでしまいそうだ。

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たちの悪い半可通の中国論

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

p163:(内モンゴルでは)チベット自治区やウイグル自治区のようには「民族衝突」が起きていない
p167:内モンゴルは名目的には自治区になっているが、今日的にはほぼ中国社会内部に組み入れられていると考えて良いように見える。ここは価値観抜きで、以上のように描写するしかないわけである
p178:ある日本人に会った際に、延辺から見て日本はどう見えるか聞いたときには、なるほどと思わされた。「拉致問題」を大きくしている勢力はそれをクローズアップすることで既得権益を守ろうとする人々ですね、と。

 以上、わかりやすい例をあげた。要するに本書は、中国共産党を含めて権力についての洞察力がなく、弱者への共感を持たず、わかりやすい文章を書こうとする意思のない人が書いたとしか思えない文章にあふれている。
 1年近く前にこの本の書評を投稿すると約束してから、長い時間がたってしまったのは、思い出すのも不愉快な本だからだ。書きたいことはいろいろあるが、果てしないので、一言。たちの悪い本。

追伸:筆者はこの本のあとも精力的に活躍しておられるようだが、案の定、問題が起きた。劉暁波の本に付した解説が厳しい批判を浴びている。当然だと思う。

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中国共産党に向き合う気構えが必要だ

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 中国共産主義青年団の機関紙「中国青年報」に「氷点週刊」という特別編集版がある。2006年に中国共産党の歴史教育を批判する学者の論文を掲載して一時停刊処分となり、世界的なニュースとなった。その編集長だった李大同氏が、現役だった時代に「氷点故事」という本を出したことがある。
 日本では「氷点は読者とともに」という題名で日本語版が出ているようだが、私が読んだのは中国語版の方で、その冒頭部分に李氏が中国青年報の内モンゴル駐在記者として経験したエピソードが出てくる。それは以下のような内容である。
 1980年代の初め、内モンゴルの首府であるフフホトで少数民族の学生たちが「中央政府のある内モンゴル政策」を改めるよう求めてデモをした。デモは1カ月におよび、「有力な政治的背景」があるに違いないと判断した李氏は「中央メディアの駐在記者として『内参報道』としなければならない」との義務感から取材に着手した。その過程で学生たちのリーダーに取材した際、モンゴル語で質問したところ、その学生はモンゴル語が理解できず非情に周章狼狽した、という。
 ここで出てくる「内参報道」というのは「内部参考報道」の略で、要するに一般読者向けの記事ではなく「内部」つまり「党の限られた幹部向けの報道」のことである。報道と言うよりも報告と言うべきかもしれない。
 さて、李氏はその後取材を深め、そして送った「内参報道」は高い評価を得た。社内では「内参記者」というニックネームまでいただいたという。
 このときのデモに関する記述が、本書「墓標なき草原」に出てくる。李氏の説明では「中央政府のある政策」としかわからない問題もはっきりと説明してあり、なぜ学生たちがデモをしたのかが理解できる。
 李氏は中国のマスメディア界では数少ない硬骨漢だ。氷点停刊事件が示すように、共産党政権との対決もいとわない。だが、そんな人物でも、民族問題に関する記述はあいまいで、核心の問題をぼかしてしまう。
 さらに残念なことに、こうした報道を「内部参考」としてしか報じられない中国メディアのあり方にも、深刻な疑問を抱いているようではない。
 もっと言えば、モンゴル語を話せないモンゴル族学生の存在を、民族政策や教育政策への疑問へとつなげてもいない。むしろ、自分がモンゴル語で語りかけ学生が周章狼狽したことを、自慢している印象がある。
 以上のことから推測できるのは、中国共産党の下で公になっている文献をいくら読んでも、中国共産党の幹部の説明をいくら聞いても、中国の民族問題は理解できないおそれがあることだ。むしろ誤解してしまうおそれがある。
 とにかく中国共産党と向き合うには、尋常ではない気構えがないと真実に気づけない可能性が大きい。
 だからこそ、本書の存在は貴重である。
 上巻に続いて下巻にまで書評を投稿するのは初めてだ。それほど、この本を強く推薦したい。
 なお、今年出た本に「内モンゴルには民族問題が存在しない」と指摘した迷著がある。真実に気づいていない典型例だろう。次回はその本についての書評を投稿したいと思う。 

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日本人とモンゴル人、漢人、ロシア人、米国人は読むべし

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 辛い本です。歴史の真実に迫る本はえてしてそうだと言えばそれまでですが、やりきれない思いはどうにもなりません。
 まず、中国共産党政権による内モンゴルのモンゴル人たちに対する仕打ち。特に文化大革命の時の民族虐殺は、おぞましいとしか言いようがありません。
 次いで、この民族虐殺のことがこれまでほとんど具体的に語られてこなかったこと。共産党政権は文革を否定した後も、自らの悪行について真摯に反省してはいないことがよくわかります。そしてわが日本の学界、ジャーナリズムも、はっきり言って怠慢のそしりをまぬがれません。内モンゴルから日本に留学したモンゴル人の著者が、この本を日本語で出したことに、心からの感動を覚えました。
 第3に、内モンゴルと日本の深いかかわり。かつて日本の跳ね返りたちが「満蒙は日本の生命線」と唱え、モンゴルの民族主義者たちと様々な連携を進めていたことは知識として知ってはいましたが(たとえば川島芳子とモンゴル貴族の縁組)、それがこの本を読むことで脈絡のある理解に深まったと思います。安彦良和さんの「虹色のトロツキー」の理解を深めるのにも役立ちました。裏返すと、近代日本についての理解がまだまだ浅いことを実感してしまうことになりました。
 さらに、国際政治の非情。内モンゴルの民族主義者たちの夢を粉砕したのは、なによりもまず中国(国民党と共産党)ですが、それに同調したソ連と米国の影響もありました。そして、外モンゴル(当時のモンゴル人民共和国)の、いわば裏切りも。
 できればモンゴル語やロシア語、英語、そしてとくに中国語に訳されて、世界中の人たちに読んでもらえたらと思います。
 前回、「鹿鼎記」の書評をマンガ版「射ちょう英雄伝」につけてしまうミスをして以来、新たな書評は控えておりましたが、とにかくこの本はできるかぎり多くの人に読んで欲しいと思い、矢も楯もたまらない気分でこれを書きました。

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紙の本鹿鼎記 1 少年康煕帝

2010/01/20 02:19

中国語圏の風太郎

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ずっと読みたくてうずうずしていたのに、読み出すとほかのことが手につかなくなるのではないかと恐れて控えていた金庸に、ついに取り掛かってしまいました。で、1月1日から読み始めたスターターがこれ。以前にチャウ・シンチー主演の喜劇映画(日本では「ロイヤル・トランプ」という変な題名になっていましたが)を観たことがあり、傑作な主人公のキャラクターに魅了されていたので一番とっつきやすいだろうと思ったのです。
 で、期待にたがわず、最終巻まで一気読みでした。荒唐無稽、波乱万丈、とにかく面白いです。金庸といえば「武侠小説」、「武侠小説」といえば香港映画のワイヤーアクション、と即座に連想できるほどに奇想天外な武術の技が次々に出てくるわけですが、この武術を忍法に置き換えればこれはもう山田風太郎の忍法帖です。
 歴史的な背景についての用意周到さにも、風太郎と同じ匂いを感じました。舞台は清朝の初期、少年だった康熙帝が即位間もない時期です。当時の宮廷の権力構造がどうだったのか、その中で康熙帝がどうやって独自の権力を樹立していったのか、明の残存勢力の征伐、そして呉三桂をはじめとする三藩の制圧という歴史の流れをしっかり踏まえつつ、実は康熙帝の父(順治帝)は生きていたとの大胆な設定を施しています。
 もっと大胆に、李自成は生きていた、との設定もあります。こういったさまざまな仕掛けによって、読者は明末から清初にかけての中国大陸の激変、大げさに言えば世界史的な激変を追体験することになります。ロシア史の一部まで勉強してしまいました。
 さらに、筆者の視点が民族的な偏りを脱している点も嬉しいところです。漢族と満州族が相互に警戒しあい、あるいは嫌いあうのをごくありふれた感情として自然に描写しながら、時には民族の壁をも越える友情と愛情を魅力的に描き出しています。おそらくは世界史上でも稀な聡明さと果断を備えた絶対君主、康熙帝(もちろん満州族)の描写も読ませます。
 そして何より、主人公。訳者の解説によれば本書の主人公のキャラクター(うそつきのお調子者で享楽家)は金庸の小説のなかでも異色ということですが、とにかくこのキャラは絶品です。チャウ・シンチーが最高のはまり役なのですから(なお映画は2部作で、2部の方には林青霞=ブリジット・リンも出ていて特に好きです)。
 金庸についてはまだ書きたいこともありますが、とりあえず「中国語圏の風太郎」と呼びたいです(両方から、あるいは両方のファンから非難を浴びそうですが)。
 そして恐ろしいことに、本書を読み終えて1週間経たないうちに、買ってしまいました「射雕英雄伝」の1巻を。こちらは宋末元初が舞台。現在は速くも4巻。やばいです、マジに。

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いま1番好きなマンガ

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 待ちに待った第6巻。期待は裏切られず、5巻までと同じように何度も読み返しています。
 どうしてこんなに好きなんだろう?いろいろ考えてみました。
 最初に「読んでみるか」という気になったのは、シンプルだけど力強く、しかも不思議でさえある題名に魅かれたからです。次いで1巻の表紙をみて、力強いけど美しい絵柄に魅かれました。
 それからは読めば読むほど好きになっていきました。
 まず登場人物たち。中心になるのは高校1年生の女子バレー部員たち6人ですが、それぞれに心に抱えている傷を乗り越えていく過程が丁寧に描かれており、感情移入してしまいます。
 作者の芸の細やかさを感じさせるのが、6人の間の呼び方。日本人にとって(実は世界中のどんな民族でも多かれ少なかれそうではないかと思うのですが)相手をどう呼ぶかはその人との距離感を表す重要な問題ですが、作者はこの変わり方を(変わらないぶりも含めて)とても丹念に描くことで、登場人物の性格や距離感の変化を鮮やかに浮き彫りにしています。青年マンガですが、この辺のセンスは女性の作者ならではと思います。
 物語はいかにもマンガらしい荒唐無稽なところがいっぱいありますが、それでも作者の強いメッセージが十分に補っていると思います。人と人の触れ合い、人としてのあるべき優しさ、といったことについて、作者は読者に盛んに語りかけていると思います。
 もっとも、私は作者についてほとんど知りません。他の作品も読んだことがありません。偉そうにコメントできる立場ではないとも思いますが、それでもこのマンガは傑作だ、という気持ちはまったく揺るぎません。絵柄を含めて登場人物もストーリーも心に沁み込んでくる、そんなたぐい稀な傑作だと思います。
 この6巻では、作者の自負も感じ取れました。作中で重要な役割を与えられている少年マンガを原作とした映画について、登場人物の一人に「女の子にこそ観てほしい」と言わせているのは、作者の本音だと思います。そういう意味では、私のようなおっさんが書評を書くというのは作者にとって不満かもしれません。
 次の巻が出るのはまた先になりますが、とにかく楽しみに待ちたいと思います。マンガで次巻がこれほど待ち遠しいのは、今年刊行が再開した「西遊妖猿伝」くらいです(本当は中断したままの「カムイ伝」と「青龍」も出てきたら同じほど熱狂するとは思いますが)。

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知的刺激にあふれた一冊

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 偶然です。明石書店さんから出ている本を2冊続けて紹介することになったのは。私は決して明石書店さんの回し者ではありません。
 「日ごろの乱読で触れ合った書物のうち、特に他の人にも読んでもらいたいと感じたのを取り上げる」のがここでの私の基本的な方針で、例外として「ごく稀にこれだけは読まない方が得だと感じた本についても、警告を込めて取り上げる」ことにしています。
 この前者の方の方針に、本当にたまたま明石書店さんの本が2冊、連続ではまってしまったのです。まあ、前回が12年前に出たミャンマーに関する本で、今回は昨年出たインドに関する本なので、南アジアへの関心の高まりの反映ではあるのですが・・・
 さて、本書はアジア人で初めてノーベル経済学賞を受賞したセン博士による、一般向けの読み物です。訳者の解説によれば、インド史の専門家からは「薄っぺら」で「皮相」な書物だとの手厳しい批判も出ているそうですが、門外漢の私にとっては実に知的刺激にあふれた一冊でした。読み進むうちに、次のような意欲と思いが湧いてくるのです。
 1)インド史をもっと学びたい
 2)タゴールの詩集を読まなきゃ
 3)カーリダーサも読みたい
 4)サタジット・レイの映画はどうしたら観れるのか?学生のときはあん    なに機会があったのに、見逃したのが悔やまれる
 5)ラーマーヤナ読んでねー(本棚にあるのに!)
 6)マハーバーラタ読みたい
 7)イスラムの歴史をちゃんと学ばないと
 8)やっぱりロールズ読まんといかんか・・・・・
要するに、著者が惜しげもなく披露する知的蓄積に圧倒されかかっているわけですが、それにしても読者をこれほどやる気にさせる本は少ない。早速手元にあったロールズの「公正としての正義 再説」を読み返しています(ただ、こっちは難しすぎて思うようにいきせんが)。
 もっとも、この本の最もすばらしいところは別にあります。それは著者の真摯な姿勢、人生にも社会にも世界にも正面から向き合い、少しでもよりよい状況への改善を目指す姿勢を感じ取れることにあります。対話、あるいは対話を基礎とする自由と民主主義への熱い共感、その裏返しであるヒンズー至上主義への静かな闘志、こういった点こそ私が本書に五つ星をつけた最大の理由です。著者はノーベル経済学賞をとったことできわめて有名になりましたが、先ごろ亡くなった加藤周一の石川淳の芥川賞受賞に関する言い回しを借りるなら「セン博士にとっての名誉というよりノーベル経済学賞にとっての名誉」だと思いました(特にマンデルとショールズの受賞や最近の金融危機でこの賞の評価下がっただけに)。
 長くなったので、最後に本書の中の大好きな一節を引用して終わります。
「沈黙は社会正義の強力な敵である」

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ミャンマー(ビルマ)理解の基本書

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 12年も前に出た本(原書はもっと古い)ですが、ミャンマー(ビルマ)に関する日本語の書籍としては依然として、最もまとまった1冊だと思います。
 この国を理解するうえで最重要なのは少数民族問題でしょう。多数派のビルマ族による支配を受け入れず、分離・独立や高度な自治を求める少数民族勢力がいくつもあるうえ、その相当部分が武装して事実上の自治を実現しているのです。
 中央政府の立場からすれば、ウイグル族やチベット族が時々暴動を引き起こす程度の中国の民族問題よりずっと深刻な状況だと言えるでしょう。
 本書を読めば、むしろアフガニスタンの一歩手前、という印象を受けます。イスラム過激派やタリバンこそいませんが、一つの国としての一体感が極めて弱い点が共通しているのです。
 独立後しばらくはアジアで最も輝かしい民主国家のひとつだったこの国で軍人によるクーデターが起きたのも、民族問題が大きな要因だったと言えるでしょう。
 軍人というのは、国の分裂とか領土の喪失を特に嫌悪する人たちだと思います。まあ、領土のような問題では結構ふつうの人たちまで強硬で硬直的な意見に傾きがちですが、軍人の場合ははほとんど生理的な嫌悪感につながるような気がします。
 つまり、ミャンマー(ビルマ)の軍事政権の指導者達にとって権力維持の最大の理由が、少数民族を押さえ込んで統一を維持することにあると思えるのです。アウン・サン・スー・チーさんが率いる民主化勢力への締め付けも、その一方で来年に向けて進む総選挙の準備もすべては権力維持が目的ですが、それを正当化する「大義」が統一の維持なのだと思います。
 本書は12年も前の本なので古びてしまった部分も相当あります。それでも、この国の未来を展望するには、特に軍事政権の政策を考えるには最適です。ただ、神保町のアジア文庫ではまだ初版が並んでいました。売れていないんだろうなあ・・・

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筑摩書房さん、頑張って!お願い!!

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ひょんなことから久しぶりに「エドの舞踏会」を読み返して改めて感動し、書評を書こうと思ったのですが・・・。絶版状態なんですね。で、本書の書評を投稿することにしました。
といっても、山田風太郎の明治小説が珠玉揃いなのは周知のことだし、本書について今更ぐたらぐたら褒め称える書評を書く必要もないでしょう。で、以下は明治小説集に関連していくつか気づいたことを。
1)風太郎は川路利良が好きなんだろうなあ:明治小説集には数多くの歴史上の人物が登場し、いろいろ活躍するのですが(本書の冒頭に神田の半七親分が出てくるのが、なかなか笑えます)、そのなかでも登場回数や役割の重要度では川路が一番だと思います。もちろん「日本のフーシェ」とまで呼ばれた男のことでもあり、風太郎の視線には厳しさがあるのですが、それでもなんとなく好意を抱いているような印象です
2)風太郎は軍人も好きなんだろうなあ:「エドの舞踏会」では山本権兵衛が、「ラスプーチンが来た!」では明石元二郎が狂言回しの役をつとめます。日本の近代を、というより歴史とそれを織りなす人間という存在を、冷徹なまでに突き放して見ていた風太郎は、日本の軍にきわめて厳しい視線を向けていました。にもかかわらず、近代日本を支えた優れた軍人に対しては後世の目で一方的に断罪することなく、一定の尊敬の念を抱いていたように思います。司馬遼太郎の小説が好きな人々に、複眼的な歴史観を養ってもらうための解毒剤として最適でしょう(司馬遼の歴史観が単眼というわけではなく、あくまで読者のことです)
3)復刊すべきでしょう:漫画「バジリスク」がヒットしたおかげもあるのでしょうが、忍法小説集は現在かなり容易に手に入ります。しかしながら、明治モノは困難です。近所の図書館にもほとんどありません。これは日本の文化の悲劇であす。次代を担う青少年の教育上も好ましい状況ではありません。個人的にも、手元にあるのは文春文庫と新潮文庫で既にかなりボロボロになっており、しかも全巻揃えたわけでもないので、筑摩さんには是非、復刊をお願いします

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紙の本百年の誤読

2009/02/03 03:36

楽しい書評漫才だけど・・・

16人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

20世紀の日本のベストセラーを次から次になで斬りにする快著らしい、というので期待して購入し、実際途中までは楽しく読んだのですが、ずっこけました。
理由は「日本人とユダヤ人」に対する評価。これがトンデモ本であることは浅見定雄さんが「にせユダヤ人と日本人」で完璧に論証したと理解していたのですが、岡野さんと豊崎さんは名著と評価しているようです。何しろ筆者であるイザヤ・ベンダサンこと山本七平氏を「博覧強記」とたたえているのですから。
悲しいのは、文庫化に先立って雑誌での連載、単行本化と二度にわたって世間の目にさらされながら、なおトンデモ書評が改まらないことです。二人の筆者(つまり岡野さんと豊崎さん)の本読みとしての能力にも、この連載とこの本の読者の方々の能力にも不安を覚えざるを得ません。
私には浅見さんのような緻密な論証はできませんが、それでも「日本人とユダヤ人」の胡散臭さは読み始めてすぐに感じました。何しろパレスチナにおいてイスラエルが蛮行を繰り返しているさなかに、ことさらにユダヤ人と日本人を比較し「日本人は水と安全をタダだと思っている」と決め付けるのですから。間接的にイスラエルの蛮行を正当化しかねないロジックで、非常に巧妙なユダヤロビーの仕事と感じました。
同時に、戦後日本の平和主義を貶めようという意図も感じました。実際の歴史を振り返れば日本でも農民の水争いはあったし、現代の都市生活者は水道料金を払わなければ水が入手できなくなることをわきまえているのですが、妙にもっともらしいロジックで「日本は能天気だ」と訴えているのです。まあ、日本がイスラエルより水が豊かなのは確かでしょうが、逆に多くの地域は水害で苦労してきたのです。「安全」にしても1940年代には根底から脅かされた歴史があるのです。
結局、岡野さんも豊崎さんも政治的なセンスが欠けているのではないでしょうか?書評の本を書評するのはあまりに非生産的と思いつつ、毒舌漫才のノリで楽しく読めるだけに捨て置けないと感じ、投稿します。

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理科と英語の教科書にすれば楽しくなること請け合い

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ずいぶん前に出た本を2009年最初に取り上げたのには、理由があります。
 第一に、文句なく面白いからです。面白い科学エッセイは多く、面白い歴史エッセイはいくらでもありますが、本書はその両方の面白さを完璧なまでに兼ね備えています。
 まず、科学が明らかにした自然の不思議と、科学が到達できない自然の奥深さを、軽妙な文章でこれでもか、これでもかと紹介しています。
 ついで、科学史を飾る人々のユニークな人柄や珍奇なエピソードの数々。歴史エッセイを読んで「へエー」と感じるあの爽快感を、存分に堪能できます。特に作者は、科学史上のスターもさることながら、スターの陰に埋もれてしまったような科学者の偉大な成果をしっかりと拾い上げて紹介しようと勤めていることがうかがえ、敬服しました。
 第二に、実はこの本の原著というか英語版を昨年末に読み上げたからです。日本語訳を読んでから英語版を読むという順序になったのは少々恥ずかしいのですが、それだけの価値はあったと思います。ひとつには、面白いエピソードが満載されているので、再読によって改めて知的好奇心を満たせる部分が多かったからです。そして何よりも、作者のすばらしい軽妙な文章を原文で堪能でき、英語の勉強にもなったからです。
 日ごろ英字紙などを読んでいても、つい政治経済関連の記事に目を奪われ、科学に関する文章とは疎遠になり勝ちなので、本書の英語版をじっくり読むことは科学に関連する単語を仕入れるだけでも大きな意味がありました。しかも、読むのが面白いのです!
 英語版を読んだことで、訳者の力量にも改めて感服いたしました。
 理科にしろ歴史にしろ英語にしろ、学校の授業はつまらないものです。その一因はつまらない教科書にあります。本書を教科書に使えば、理科も歴史も英語もずいぶんと面白くなるのではないでしょうか?
 
 

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