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タールさんのレビュー一覧

投稿者:タール

21 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

本村さんの持つ力が起こした奇跡

13人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 2012年2月20日の死刑確定を機に再読。

 テレビ画面を通して見る本村さんは、感情が昂ぶっている時ですらそれをきちんと言葉におさめて繰り出す沈着さを備えており、その冷静さにこそ怒りの強さが見てとれたけれど、それにしても、と感じていた。なんという人格者なのだろう、と。事件そのものも気になったが、そんな本村さんの人となりを知りたくて手にした本だった。

「僕は、絶対に殺します」
 人格者・本村さんのことを知りたくて手にした本の、しかし冒頭には、こぶしを握りしめ身体を震わせる、怒りの感情に身を任せた青年の姿があった。青年、本村洋氏はこの時、司法の壁のことなど何も知らなかったという。
 1999年8月のこの日から、著者は本村氏に添い、丁寧に事件を追い、過程を微細に検証して、すべてをつまびらかにする。本村さんの見たもの、感じたこと、周囲の人々の想いなどが、わかりやすく描かれて感情移入に難くない。

 個人的な感情の波にのまれ、自殺まで考え遺書を書いた本村さんが、「司法を変えるために一緒に闘ってくれませんか」と涙で訴えたひとりの検事によって、初めて「使命」という意識を持ち、変わって行く。この後半部分からの本村さんこそ、冷静沈着なイメージの彼そのものだったが、ここに至るまでの慟哭を、この本で初めて痛感した。

 使命を負い、成し遂げる。そんな尋常でない力を発揮できたのが、本村さんご自身の力というよりも、いやそれはやはりご自身の思いの強さや元々の人柄のゆえだと思うが、周囲の人の強力なサポートがあってこそだったことにも、感動を覚えた。本村さんという人がそもそも持っていた人格+事件の日までの生き様+周辺環境などが、事件後急速かつ強力に結束し合って、それまで泣き寝入りに近かった被害者の立場を、堅固な司法相手に是正させていく過程には、神がかり的な力が働いている気さえする。

 この本は、単行本の最後で、元少年(ここでは)Fが、死刑判決を受けた翌日に「憑きものが落ちた」かのように「無期懲役では足らない」「命は命で償うべき」と著者に語る。文庫本ではその後さらに「本村さんに裁かれたい」「会って謝りたい」と言う。これらの部分を読むと、本村さんと違って、被告の元少年の声は常にマスコミ経由で、そんなマスコミを嫌いだという彼自身の心情というものが、逆にわかりにくくなっているのがじれったい気もする。

 けれどそこを擁護したいわけでは私もない。彼が変わったとしてそれは「死刑」を実感してのことであろうし、もし少年法に守られていたなら、例の手紙を書いた幼さのままきっといつまでも「命」の重みが理解できずに犯罪を繰り返したんじゃないかとどうしても想像してしまうから。

 本の最後の部分から読み取れる彼の様子からは、むしろ本村さんを崇拝しているような、支援者に近い感覚があるように感じられる。同化しやすい性質だといわれてもいるけれど、それを鑑みても、最終的に本村さんによって、加害者である彼は救われたんではないだろうか。

 被告の実名をタイトルにした本を書いてみせた女性ルポライターや、無茶苦茶な弁論を展開してむしろ死刑判決を呼び込む結果となった弁護団と記者会見で泣いてみせた弁護士。彼らが、あまりに幼く見える被告に対して「なんとか(死刑を回避)してあげたい」とした甘さは、被告本人にとっては何にもならない隣人のお節介であって、本村さんが行った断罪こそが、被告を芯から救う肉親の愛になったようにさえ思う。

 本村さんという人が負った「使命」とは、天から与えられたものなのではないか。それを運命と呼ぶにはお二人の犠牲がむごすぎるけれど。

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紙の本

紙の本告白

2010/05/16 17:53

断罪と懺悔

13人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

――娘は事故で死んだのではありません。このクラスの生徒に殺されたのです――
 この引用部分をこれまで何度目にしてきたことか。読みたくてたまらなかったこの作品の待ちに待った文庫化に狂喜乱舞して購入。噂にたがわぬ面白さ、期待に背かぬ、いやそれ以上の仰天の展開に一気読みを果たした私だった。

 舞台は中学。終業式のホームルームの場で、担任の女性教師が自らの辞職を告げると同時に語り始めたのは、自分勝手な生徒や我が子しか見えない保護者の実情、携帯小説に安易に飛びつく若者への警告、そして10代が引き起こす現実味の乏しい理由による残忍な犯罪についてと、そうした理不尽な犯行をおこして英雄気取りでいる犯人に対する思い切った断罪の方法の提案など、それこそ教職の身ではストッパーがかかるであろう本心の吐露だ。それらを含めた長い話の果てに、いよいよ彼女の用意した恐るべき復讐開始の場面が生徒たちの前で披露され、いったん幕がおろされる。

 この第一章のラストにすら言葉をなくすほどだったから、この部分のみが、もとは短編として発表されたと知った時はなるほどと深く頷かされた。引き続いてさらなる驚異の結末までつきつめ書き上げた力量にも感心するが、それにつけてもここでの多岐に渡る問題喚起ぶりと、容赦のない断罪ぶりには驚かされっぱなしだった。なにしろ新聞やテレビで見聞するたび、対処法を模索しようもなくこめかみを押さえる思いを抱いてきた事柄が一刀両断されていくのが爽快なのだ。クールな女性教師の口を借りた作家自身の憤りの声として聞こえて、共感することしきりだ。ところがその爽快感をも打ちのめす、教師が生徒に向けて行った手加減のない仕打ち。ここから最終章ラストに向けて読み進めながら必死に追い求めていたのは、この女性教師に対して共感と反感のどちらに自分の気持ちを振ればいいのか見極めることだったように思う。

 教師、生徒、犯人、親族ら、次々に語り部を変えながら常に一人称で語られるこの作品では、主観によるストーリー展開が、個人の思惑を照らしだし、それぞれの考える原因とそれぞれだけが知る結末を見せつける。他人の脳内を経由して映り込む世界を見せられていると、愛する・嘆く・取り乱すといった母性も、情感・熱情・安らぎといった本来求められるべき人の象徴であるはずの感情も、それらすべての結晶のような存在である4歳の幼女の死によって封印されてしまったことがわかる。自分を取り巻く狭い環境にのみ感覚を研ぎ澄ませる対人関係が一人歩きを始めた無機質な殺人ロボットを思わせて、この上なく不気味だ。そしてこの不気味な無機質感に似た感情を、別世界のことだと切り捨てたいと願う自分の中にも見つけてしまう。読了後あらためて感じる奇妙な爽快感は、残忍さに動揺しながらもどこかで当然の断罪であると静観している感情を自分の心に見つけてしまった息苦しさを積極的に認めてしまおうとする懺悔の気持ちなのかもしれない。

 ところでこれは文庫で読んでこそだと思うが、この作品の映画化によせて文庫に掲載された映画監督の言葉から、合いすぎる辻褄の裏には嘘が隠れているということに気づかされたことはまたひとつの大きな衝撃だった。「告白」という形態を取っているこの作品で、作家は「決定的なことをまったく書いてない」のだ。

 人の本心に触れた時、そのあまりの思いがけなさに愕然とすることがある。自分が信じてきた道程が全否定されるその瞬間、しょせん人とは己の思惑で作り上げた都合のよい妄想の中で生きているに過ぎないのだと思い知らされる。そうした思いに立ち返ってこの作品に対峙する時、そこには共感も反感ももはやなく、ひたすら孤独に己と向き合わされる懺悔の部屋にいる心地がするのだった。

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紙の本

紙の本森に眠る魚

2009/03/16 09:24

虚ろにたゆたう深海魚の孤独

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 母親にとって、子育てという道のりの中で最も長く果てしなく感じられるのは、子供が乳幼児期にいる頃だろう。初めての出産と育児に戸惑いながらも懸命にわが子を正しい道にいざなおうと、「善きもの」を与えられる[善き母親]であろうとする女たち。答えのない子育てに答えを求めようとして悩み迷う不安な日々が、同じような悩みや迷いがあるように見える母親同士を、複雑に入り組んだ迷路の中でやっと見つけた人影を追うように追わせ、心細い魂同士を寄り添わせるようにして近づける。

 この本の母親たちもまた、積極的に、あるいはおどおどしながら、それでも子供のため、善き母親であろうとする自分のために声をかけ合い、付き合い始める。だが、急速に親密さを増しながら育っていく関係は、「ママ友」という一見健康的に見えるその裏側で、少しずつ姿形を変えていく。

 たとえどんな生い立ちだろうが、どんなキャリアを持っていようが、子供を産んだ女が自分に求められると感じるものは、「母親としての評価」でしかない。ここに登場する母親たちもまた、「母親同士」という要素の中でのみ付き合う関係の中では「本来の自分」というプライドがふと目覚めてもその発露する先が得られなかった。そこに受験という大きなストレスが起爆剤として関与した時、迷路の中で寄り添っただけの心細い魂同士の関係は持ちこたえられずに軋轢を生んだのだ。

 きっと誰のせいでもなく、もしかすると何かが起きたわけでもない。そうと知りながら奈落へ向かって落ちこんでいく自分を止められない女たちの焦燥と苦悩が、それぞれの負う環境や性格から否応なく生じるものとして、日常生活のリズムでリアルに迫ってくる。

「つねに正しいものを選んできたはずだった」し、「頑丈なまでのくり返しに疑問を持ちさえしなければ、日々がこちらをふり落とすこともしないと」と「知っている」はずなのに、いったい「何がどうなってしまったのか」「まるでわからない」まま、「こうするべきだと頭で考えることと、体が動いてしまうことの、あまりにも大きな溝」に引き裂かれていく女たち。

 恐ろしいのは、その究極の孤独感だ。理由のわからない焦燥に塞がれる心の内は、親にも旧知の友にも打ち明けようがないばかりか、良き伴侶である夫がたとえどんなに妻の様子に心を砕こうとしてもなお、「わかってはもらえない」という絶望感が先に立つ。

 母子の関係というものは、この時期、とてつもなく閉鎖的だ。自分の体から生まれてきた小さな命をすなわち自分の分身として感じる母親は、母親としての任務を遂行しなければと焦りながら、気付かぬうちに本能のままそこにいる幼い子供に自分自身を映し見、そして依存してしまうのではないか。時に抱きしめ、時に残酷なまでに突き放すのは、自己愛と自己嫌悪の果てに顕れる、母という名の女のどうしようもないエゴなのではないだろうか。
 この本の中で、母親たちは自分の子供に依存しながら私物化もし、操作しようともする。自分とは別の生き物であることを、この頃の母親たちに考え及ぶ余裕は少ない。そして、それは、母親間に生じた軋轢からくる弊害が、直ちに子供の身に及ぶということなのだ。

 子育てという道のりの中で、かくも深い孤独に落ち込んだ女たちは、いつしか深い森を一人さまよっていることに気付く。その時、声は遠いところからしか聞こえず、景色は暗すぎて見えない。鬱蒼とした森の中、無表情にたゆたうばかりの深海魚となった女たちを襲う得体のしれない圧力が、もがけばもがくほどその身を沈めようとする蟻地獄となって襲いくる時、「彼女」は底なしの恐怖からはいあがりたい一心で自分以外のものに原因を探し、標的を見据える。
「終わらせなきゃ。終わらせなきゃいけなかったんだ」
 見開いた目は、真っ暗なままの景色をうつすのか、それとも光はさすのだろうか――。

 5人の母親たちを含め、登場する女たちはみな、身近にいるようにも、あるいは自分自身でもあると感じられるほどの息遣いを持って描かれており、そのことが余計に、誰の心にも森のように深い闇があり得るのだと知らしめる。

 この本を、99年に文京区で起きた女児殺害事件を想起しながら手に取ったわたしは、むさぼるように読む、という体験を初めてしたように思った。子育ての最中の閉塞感と、それに拘わる母親間の複雑なしがらみを体験していたわたしは、事件の概要を知った時、罪を犯した女性の心理について思いつめた経験があるからだ。
 いつか決着をつけたいと望んでいた、自分の中に見つけた闇の空洞に押し込めるようにしながらむさぼるどころか丸のみするようにして読み、そして、泣いた。決着などつくはずもなく、闇は闇のままであっても、自分の中の深いところにとどまるしかなかったものが姿形を伴ってやっと表出した、その安堵感のようなものに泣けた。

 そもそもこれは小説だから、事件と直接結びつけて考えるべきではないのだろうが、閉鎖的になりがちな母子関係がもたらすひずみから多くの事件が起きているのは確かだ。孤独な心で森をさまよっているのは、身近な人かもしれず、もしかすると自分自身なのかもしれず、まずはそれに気付くことから始めなければならないと、この本は教えてくれているのだと思う。

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紙の本

紙の本秘密の花園

2010/04/16 11:38

不思議に思えるほど繰り返し読んでしまう本。彼女たちを好きになって、離れがたくなってしまったのかも。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『(学校という)閉鎖空間に押しこめられて少しずつ狂っていく』。そんな空気の中で、自分の持つ「狂気」を自覚する少女たち。性格の異なる3人の少女それぞれの感性によって紡がれる物語は、「繊細な10代」というくくりを突き抜け、驚くほど濃く、粘度が高い。

 カトリック系女子高校に通う、那由多、翠、淑子。まったく違う性格を持つ三人の中でも、ストイックな翠と激情型の淑子は、那由多を介してしか近寄ることすらままならない。けれど、学校を『変化を憎む牢獄』だと感じ、そこに閉じ込められることが罰であるなら罪は何だろうという思いを抱く淑子もまた、翠と那由多同様に、表出しようにもその方法すら見つからないほど鬱屈してしまった魂の存在を自分の中に見つけている。

「仲良し」にすがりつき痛みを和らげてもらうことを望まずに、あえて孤独な時間を選択する彼女たち。『どこまでが草原で、どこからが他人が足を踏み入れてはいけない牧草地帯なのか』『その境界線がよく見える』。冷酷に見えるほど淡々とした距離感には、甘美さすら感じられる。

『ノアの方舟』と『パンドラの箱』について語り合う那由多と翠。たとえそれが厄災なのかもしれなくても、残された「希望」を信じたい。そう思わせてくれるラストでした。

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紙の本

紙の本悪人 下

2010/09/09 23:15

誰が本当の悪人なのか?

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

上巻ラスト近くでやっと約束を交わした祐一と光代が初めて出会うところから始まる下巻は、上巻でその人となりを充分浮きあがらせた周辺の人物達を主要な二人に絡ませながら急展開を見せていく。

祐一から殺人を告白された光代が、祐一を励まし自首させるため警察署前まで行きながら、「何かが決定的に終わろうとしている」感覚に襲われ、『逃げ切れるわけがないのに』「一緒に逃げて!」と叫び、『幸せになれるわけがないのに』「私だけ置いてかんで!」と祐一に懇願し泣きじゃくる場面が下巻の山だ。そして切なすぎる二人の逃亡生活が始まる――。

ところが、始まったと思ったら次の頁はもう最終章なのだ。メインストーリーが「殺人を犯した男と彼を愛した女の逃避行」であるにも関わらず、二人の逃亡生活を含め、出会いの瞬間からみていっても二人の場面は少ない。けれど、あっけないように感じながらラストまで読み終えた時、全てが腑に落ち、そして唸った。この作家はやっぱり手ごわい、と。

吉田修一の作品を読むのはこれがまだ3作目なのであまりどうこう言ってもいけないかとも思う。でも、最初の「最後の息子」ははっきりいってどう受け取ればいいのかわからず終わってしまったし、「パレード」では衝撃を受けはしたがどうにも感想を持ちにくい作家だなと感じた。そしてこの「悪人」では、つい右往左往してしまう心地を持てあましながらも、少しはわかってきたのかなという気がしたのだ。

吉田作品を読んでいて右往左往させられてしまうのは、登場する「現代の若者たち」の行動描写に、予測も分析も許されないまま対峙させられるからだ。気がつくと、どこかわからない遠くへひとりぼっちで放り出されている自分を見つける。それはまるで「何考えてるかわからないヤツ」と親友に評された祐一のような男に遭遇した時のように、理解したいと念じて頑張れば頑張るほどますます相手のことがわからなくなっていく虚無感に似ている。「悪人」が教えてくれたのは、こうした突き放し方からこそ「人」の中に潜む混沌とした精神世界がほぼ正確に映し出されるということだった。

「人の気持ちに匂いがした」――淡々と突き放した描写の中、ある意味で本当の悪人として描かれる立場にいる増尾をよく知る鶴田が今回はっきりと言ってくれていた。人の気持ちの匂いに気づくことができるかどうか。すなわち人の感情そのものを肌で感じることができる人間かそうでないか。わかりやすく言えばそれが「本当の悪」の境目になりえるのだと。「1人の人間がこの世からおらんようになるってことは、ピラミッドの頂点の石がなくなるんじゃなくて、底辺の石が一個なくなることなんやなぁって」。それに気づけば、どんな理由だろうと人が亡くなったことを笑うなどできるはずがない。気づけないまま人を傷つけ自分が傷ついても気付かずにイラついている多くの人。それが現代の病巣をなすのだろう。

「誰が本当の悪人なのか?」帯にはそう記されているけれど、この物語にあるのは悪人でも悪でもなく、単なる「人」であり、人が行う「行為」だ。人の気持ちの匂いを本能的に求め続けたにも拘わらず、悪の行為を通してしか救われようとしない祐一が、ひとりよがりな男のようにも、底知れぬ愛を持つ人にも感じられる。光代の叫びが心に痛く残った。

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紙の本

紙の本償い

2008/10/30 16:20

心の泣き声

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「伊達ちゃん」という通称でホームレス生活を送る、名前も過去も捨てた「男」はかつて大学病院の脳外科医として熾烈な出世レースの中にいた日高英介だった。勤務中だった日曜日、妻から子供の様子がおかしいという電話を受けたのに手を打たず、結果、3歳の子供は病死。その後、妻もまた自殺をはかって命を落とす。出世コースからもはずされた日高は、絶望から日高英介という名も医師という肩書も家もすべてを捨てて、コンビニのゴミ袋から期限切れの弁当を漁る生活をするようになったのだった。

 冒頭、日高という固有名詞を捨て、「男」という普通名詞として生きる彼の、なりふり構わずゴミを漁り酒を求める姿が哀れで、大きな悲しみを背負ってしまった彼の心の痛みが伝わる。そうでいなければ生きていられないというギリギリの苦悩が切ない。
 そんな日高の苦悩に呼応するように現れるのが、15歳の少年、草薙真人だ。彼を支配する心の空洞とも言うような底の見えない暗さが正体を隠し、その謎が、続けざまに起こる殺人事件に翻弄される日高をさらに追い詰めていく。かつて日高は、偶然にも幼い真人の命を救ったのだった。
――自分が救った命のせいで、罪もない人々の命が失われたのではないか。自分がしたことはなんだったのか。
 
 日高と真人。この二人の、絶望に支配された孤独と苦悩が呼び合う様子には、胸をつかまれる思いがする。小さな体に精いっぱいの思いを抱えて持て余し、大切なものをとりこぼしてしまった小さな生き物が、似たような思いでいるものと道端でふと出会い、互いに伸ばした触角で感じ合うような、ささやかで切ない空気に心が打たれる。
 「人の心の泣き声が聞こえる」という真人の耳に響いたのは、日高をはじめ、犠牲者や容疑者、刑事やホームレスたちの、ささやかなしあわせを求めようとして得られない切実な痛みを伴う苦悩の涙であり、それはまた、真人自身が流したくても流せない涙そのものでもある。読んでいる間、常に涙声の連鎖が終始聞こえてくるような物哀しさを感じる。

 「少年犯罪」「ホームレス」「連続殺人」というキーワードから想像できるミステリー色は確かにあるし、謎解きや犯人探しの面白さもあると思うけれど、描かれているものの中心は、家族という単位の中でどうにもならないやるせなさや絶望、その底辺に存在するはずの温かみだ。だからこそ痛いけれど、矢口敦子はそんな痛みを放置しきらず追いこまずに感動をもたらした。ミステリーというよりも、ドラマ的なストーリーを楽しめた一冊だった。

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紙の本

情けは人の為ならず

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「たった7ヵ月で個人売上一億円」を引き寄せた、
「学校を卒業したばかりの弱冠22歳のフリーターだった」著者が
「『売上を爆発させる感謝の法則』のすべて」を書いたビジネス書
であるところのこの本。

『地位もない。
 知識もない。
 経験もない。』
 大学を卒業したばかりのこの時点で著者は、内定していた就職先を辞退し、販売コンサルタントの起業を目指す。
「お客様に愛される販売員の教育がしたい」
「お客様が笑顔になれるような店舗・サービスを増やす支援をしたい」
 彼の目標は最初から明確だ。
 目的達成のため前進し続けた彼は、「入社7ヵ月で売上一億円を達成」し、「販売コンサルタントの起業」という目的をも、早々に成し遂げてしまった。

 それら過程を余すところなく描いたこの本からは、
「夢や希望を持ち続けること」
「家族を大事に思うこと」
「目的を達成するための努力を惜しまないこと」などなど、さまざまな場面で耳にし、ごく当たり前に感じていながら、だからこそ持続し達成することが難しいこうした「大切な事柄」を改めて考え直し、努力しなおす気にさせてくれる。

 たとえば「日々の決め事をしっかり守る」ということを彼は説く。
「小さな目標を達成できない人に、本当にやりたい大きな目標を達成することはできない」からだ。
「達成したらご褒美を」設定することが重要だという。「達成後の感情が明確になる」からだ。
 こうしたノウハウは、ここ数年、自己啓発やスキルアップのための方法論として示されることも多いけれど、それを彼はこの本で、ごく身近な例を示して具体的に教えてくれる。著者のもつ、近所の気のいいお兄さん的なムードもあいまって、彼自身がすぐ傍に立ち、身振り手振りを交えて教えて手ほどきしてくれるように感じる。

 この本には、単なるビジネス書という括りからでは得られない何かがある。それは著者が"意見の押し売り"をしていないからであり、行動の根本がいつも「お客様を幸せにすること」にあり「感謝」にあり、それが著者自身の力として還っている様子がみえるから。つまり『情けは人の為ならず』ということだろう。

 人のしあわせを達成することで自分自身が幸せを得、その幸せを元手にしてさらに幸せの輪を広げる。著者が成し遂げようとし続けていることは、お金儲けでも成功することでもなく、そんな哲学を実現していこうとすることではないだろうか。彼の口から出る「一億円」や「起業で成功」に、少しもいやらしさを感じずむしろ潔さを思うのも、彼の「感謝の心」の純粋さのせいではないだろうか。

 彼の才能は、周囲の情を敏感に感じ得ることであり、その情をまた周囲にふるまう能力こそが彼を成功に導いている。こうした「情」こそが、今の殺伐とした世の中を変える唯一の力となる気がする。そんなふうに思うとますます、これをビジネス書としておくにはもったいない、そう思う。

 著者の年齢の若さと、タイトルから予想できる説得力から手にしたこの本には、よりよく生きるヒントが詰まっていて、読んでみて良かったと思わされる一冊となった。

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紙の本

紙の本まぶた

2008/10/30 09:34

夢のはざまに鳴るメロディ

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 軽々と手なずけた悪夢に現実を易々と取り込んで、独特な皮膚感覚を醸し出す小川洋子作品。8編の掌編からなるこの「まぶた」では、ミイラ化したヤモリは命を灯し、光る植物は死を奏でる。朽ちた腕は躍動し、卵巣から生えた髪は癒しをもたらす。そして、切り取られたまぶたが身じろぎをする。

 身体の裏側をぞわぞわとなぞってくるようなこうしたものたちが、不穏感もそのままに日常にスライドし融合する世界で、死の影は命を照らし、暗闇に惹かれる心が普遍をもたらすことを知った気がした。見えない物やありえない事こそが日常を支えているという証明を見たような思いだった。

 小川洋子の描く不穏感は、死を認めて生を見据える力を持って、ヒトという生き物の闇を的確にとらえ、じわじわと効く魔力で悪夢を幻夢に誘引する。

――はざま、あわい、夢うつつ。

「まぶた」の幻夢に吸い込まれ、いくども反すうしていたら、細い葉を何枚も集めて確保した寝場所に繭を張り、その中でじっと眠る青虫を見つけた時のことを思い出した。白く儚げに見える繭は、どんなに葉を揺らしても、破れることも落ちることもなく、命を託して眠る幼虫を守る。
 ほっこりとした綿の中、細長い体を丸くして動かない青虫を見ているうちに、ふいに繭を破り命を引き裂く夢想が湧いて、それは瞬時に破壊されるものこそが自分であるという悪夢に変わった。幻夢の中、わたしは繭に包まれた青虫だった。

 不快な害虫と、聖なる命。儚げな白い繭と、強靭な魂。
 美しい卵型に均整を保つ純白の膜の中の青虫が、わたしの中の闇を照らした。

 小川洋子が見せる幻夢は、破壊と構築を繰り返しながら生と死の連鎖を静かに奏でる。骨董品店の隅からチリチリと聴こえる古いオルゴールの音色に似たそのメロディに吸い寄せられ捉えられれば、もの哀しくて切なくて、ヒトの弱さや命そのものがたまらなく愛しく感じられてくるのだった。

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紙の本

紙の本ジャンヌ・ダルク暗殺

2010/06/30 18:20

二人のジャンヌ

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

図書館でナニゲに手にして読んでみたらすごく面白かった。神の存在を信じその声を聞き真っすぐに進もうとするジャンヌと、神など信じないと豪語し手段を選ばずしたたかに生き抜こうとする娼婦ジャンヌ。広場の刑場にさらされる乾いた遺体が「どこでもみる光景」という時代を背景に交錯する二人のジャンヌの思想と生き様が、奸計に長けた貴族に翻弄されながらも多大な影響と変化を周囲に与えていく様子が生き生きと描かれる。推し量ることができないくらいに残酷な時代の残酷な一幕が、緻密な心理描写によって描かれて、はるかな時代の人々に見事に感情移入させられる。

藤本ひとみという作家を知らなかったこともあり、てっきり藤本義一氏の縁者(娘さんとか)をイメージしながら読んでしまった。コバルト文庫でデビューし少女小説家としての氏の支持者も多い作家さんのようだし歴史小説家としての活躍も目ざましいとのこと。ジャンヌ・ダルクについて「昔からなんとなく興味があって」程度のままでいたのが、この小説のおかげでずいぶん実像に近づけた気がする。ラ・ピュセル(=ジャンヌ・ダルク)が聞いた神の声が何だったのか。彼女はどんな人物だったのかが、人智に長けた娼婦ジャンヌの洞察力によって見事なまでに明らかになっていく。西洋史であるというのに、登場人物をこれほど身近に感じながら読めるのも、藤本氏の綿密な取材と深い造詣のたまものだろう。翻訳ではこうはいかないに違いないし、個人的にはきっと読む気すら起きないと思う。

宮廷での権力争いの凄まじさも生々しく、どこか現代の政治の世界を思わせる。そんな時代の闇から浮かび上がる二人のジャンヌの、翻弄されてなお自分自身を失うことのなかった姿が輝かしい。読み終えた時初めて知る「暗殺」というタイトルの意味と共に、二人の輝きが深く心に残る作品だった。

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紙の本

紙の本ぶたばあちゃん

2009/10/26 10:39

命の継承

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「ずっとながいあいだ」助け合って暮らしてきた、ぶたばあちゃんと孫むすめに近づく別れの日。 別れの予感に怯え、駄々をこねずにはいられなかった孫むすめが、少しずつ聞きわけがよくなっていく様子に、切なさよりも頼もしさをより感じるのは、さすがぶたばあちゃんの孫、とばかりに、成長を喜ぶ気持ちになるからだろうか。ぶたばあちゃんが「ごちそう」と呼んだ生の輝きを受け取った後、「ひとりぶんの」調理をし、「ぜんぶ食べ」「きちんとかたづけ」る孫むすめの覚悟もまた、ぶたばあちゃんの確かな導きを思わせ、厳かな悟りの世界を彷彿とさせて神々しいほどだ。
 やがて確かな親愛と尊敬の心を持って、送り送られる二人。ぶたばあちゃんと孫むすめから与えられる荘厳な清々しさは、死が悲しい別れではなく、命をつなぐ自然の成り行きであるということを、しっかりと教えてくれる。

 版の大きさ、装丁、優しい色合い、そしてなによりこのタイトルと、"いかにも絵本"ではあるけれど、うっかり幼児向きなどと決してい侮ってはいけない奥深い内容に感心させられる。
 最近になって、今まで食わず嫌いっぽかった絵本を手にし、読むようになった私。侮りがたい絵本というのは、絵本好きのみなさん知っての通り数多く、死別をテーマにした絵本もまた比較的多いように思うけれど、この「ぶたばあちゃん」は、悲しみを乗り越える、というような、いったん表出させて収束させる描き方でなく、生の豊かさ素晴らしさをそっと諭すことで、自然の別れそのものを「悲しいことじゃないんだよ」というメッセージとして心の内側にすりこんでくるような、大きな力がある。

「ふたりが知っている、いちばんいいやりかたで、さよならをいいあいました」
 読み終えた時、裏表紙の言葉がこんなに心に沁みるとは思わなかった。自分なりの「いちばんいいやりかた」を知りたい。命の継承について考える力を与えられる思いがした。

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紙の本

紙の本

2004/10/11 16:38

恋、その力

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

小池真理子の耽美の世界は、昼メロチックな泥沼劇になりそうな
ストーリーであっても、少女マンガの夢物語のイメージが絵として
見えてくるほどに美しい。
ところがそれと同時に、現実味のある皮膚感覚や手厳しい精神分析を
自分の体験のように痛く感じることで、“作り物”であることを忘れさせられ、
そのリアルな物語の世界に没頭するしかなくなってしまう。いったん
読み始めると、すべてを知るまでどうにも自制が効かなくなる。

冒頭近く、「この話には重大な“秘密”がある」ということが明かされる。
そのため、読み薦めながら後半深くになるまでずっと、登場人物の性格を探り、
出来事を反芻し、いったいその先にどんな秘密の暴露が可能であろうかと、
必死になって推理をしている自分に気がついた。「秘密」というキーワード
ばかりが頭から離れずにいたため、この本のタイトルは『秘密』だっただろうか、
などと考えたりもした。もしかしてこれは恋愛小説ではなく、推理小説だったの
だろうか、とも思った。
ところが、タイトルである「恋」の意味がわかった途端、
「秘密」というキーワードはその強い拘束力を失ったのである。
秘密は確かに衝撃的だった。予想のつかないものだった。ところが、
この作品に描かれる「恋」の前では、「秘密」はもはや二の次となっていた。

これは、やはり『恋』だった。愚かで浅ましくてやりきれないのが恋心であり、
人を破滅に導くまで暴走を止められないのが恋である。
耽美と退廃の小池文学極まれり。そんな迫力で迫る大作だった。

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紙の本

紙の本横道世之介 正

2012/08/24 17:59

世之介の魅力がずば抜けていて大好きな本になりました。ネタバレ注意。本を読む予定の方はどうかこの書評を後回しにしてください。

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『この若者、名前を横道世之介という。大学進学のため、たった今東京へ出てきたばかりの十八歳』

 上京してきたばかりの若者のコミカルな行動と心理を活写する冒頭。ほんわかした空気感に、なんとなく民話や股旅物を思ったりする。こと世之介に関して、こうした描写はラストまで徹底されるのだけど、読み始めた時は首を傾げた。なにせ書き手は吉田修一だ。この、ただですませてはもらえないはずの作家が、このあとしかけてくるものが何なのか、あっけらかんとした明るさの影の部分に仕込まれた狙いは何なのかと、ついガードを固めたものだ。

 ところが、読み進むうち、「呑気」で「隙だらけ」な世之介の持つずば抜けた魅力にすっかりはまってしまった。ガードを固めようと取っていたファイティングポーズは、早々に、読み終えたくないと強く願う、祈りの組み手に取って代わっていた。

世之介は、大理石の置時計をバッグに入れて持ち運んでしまう。
世之介は、人ごみに流されまっすぐ歩けない。
世之介は、怒るとヘンな敬語を使ってしまう。

 生真面目で邪気のない性格から発散されるのは、世之介と過ごした若い日を思い出す人々の心を揃って温かくさせ、ほほえませる力を持った強いオーラだ。
 世之介の恋人、祥子もまた世之介といい勝負の、ちょっとヘンな人だけど、世之介の良さを見極める感性がとてもいい。そんな彼女の口から語られる世之介も、すごくいい。
――いろんなことに『YES』っていってるような人。

 何に対しても、基本姿勢である『YES』に総身を預けて、ノーブレーキでつっこんでいく世之介。ストッパーを持たない彼は、人との垣根を取り払うだけでなく、生と死の境界線をも"うっかり"越えてしまいそうな場面にたびたび出くわすのに、元来の「呑気」と「隙」とを保ったまま、自己防衛の優先順位は甘い。「優しい」し「いい人」には違いないのにそうは言われない世之介は、危うさを伴いながら、どうしようもなくそういう人、なのだろう。

 衝撃は、中盤を過ぎた頃に訪れた。完全にガードを解いて油断しきっていたから、まともにパンチをくらってしまった。衝撃の中で、けれど、ものすごく納得した。他者に紹介しようとするのに似た観察者の視点の理由が、理解できた。これが出発点だったんだ、と、いろんなことが腑に落ちた。

 あの事故を知った人の反応の多くは、「なぜ?」だったのではないか。「なぜ?」の行き所が美談に落ち着かせたのではないだろうか。形式的になりがちな美談の種子は根こそぎ省いたその上で、『YES』『大丈夫』の反射神経を駆使することのできる力を持った彼らの人となりを知ってこそ、悼むべきだったのではないか。

 美談にすがることなく「なぜ?」の答えを探ることが課せられた小説なのだとしたら、そうした吉田修一の選択と視点がうれしい。求められてもいないのに、他人の手助けをうっかりしてしまうような危うい反射神経を自分にも認めるせいか、取り上げられることの少なかったあの事故のあの人を世之介として、スポットライトを当ててくれたことが、僭越だけど、個人的にすごくうれしい。

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紙の本

紙の本ちょんまげぷりん

2010/05/23 14:31

たった一言「面白かった!」

12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

180年前の江戸時代から現代へタイムスリップしてしまった木島安兵衛が、SEを職とするシングルマザー・ひろ子と保育園児友也の元で暮らし始める。住まわせてもらう「恩義を返す」という大義名分を掲げて家事を請け負った安兵衛が、完璧に家事と育児をこなす中、それまで受けていた家事と育児による制約から解き放たれたひろ子は仕事に打ち込み、次第に認められていくのだが、ついに家事の範囲を超えた安兵衛の料理の腕もまた、彼の使う侍言葉の斬新さとも相まって一気に人気沸騰、時代の寵児となっていく。

 冒頭、ちょんまげに袴、日本刀を二本差ししてたたずむ安兵衛を友也が見つけて騒ぐと、急いでいてそれどころではないひろ子の慌ただしい視線でその奇妙な姿がこちらの脳に焼きつけられ、あとは本を持つ手が離せなくなる勢いで最後まで読み終えてしまった。
 文政時代の草原から平成の30階建高層マンション前に突然放り出され、困惑の極みで歩き回る安兵衛が、現代の「見て見ぬふりにたけた人々」によって放置され、命からがら、ひろ子の元にたどりつくところが哀れだ。本当にこんなことが起きていても、『身元不明の変人、のたれ死に』というニュースとして扱われるだけなのかもしれないと思わせる。

 「うち向きのことは女、勤めに出るのは男と決まっているのでござる」と言いながらも「(恩返しを)ほかにやりようがない」からと「うち向きの用事はすべて拙者がお引き受けいたす」と宣言した安兵衛が、「包丁のつかを日本刀みたいに握って」いた当初から、生真面目に習得に励み、あっという間に超一流の料理人の腕を持つに至るのも、なるほどと思わせる流れと説得力だ。
 江戸時代の男が持つ正論と対比させながら、共働き夫婦の家事分担についてや、シングルマザーの生きにくさという現代社会の問題が、さらりとしかしきちんと深刻に描かれる。そんな中、「うち向きのことは女」と唱えながらも己の役割を果たすことに忠実に真摯に家事に打ち込み、友也との遊びにも手を抜かない安兵衛の家人ぶりが感動的だ。
「やらせなければいつまでたってもでき申さぬ」と、保育園児の友也に対して丁寧に手ほどきし手伝いをさせる安兵衛の度量の大きさが、忙しさのせいで手抜きせざるを得なかったひろ子の元で欲求不満に陥っていた友也の感情を安定させ、みるみる成長させていく様子など読んでいる時は、手抜きに慣れてしまったわが身に突き刺さって痛かった。

 タイムスリップということで、よくある設定とも評されているようではあるが、現代のさまざまな問題を考えさせると同時に、文政の世の生きがいの見つけにくさにもまた思いを馳せさせられるところは目新しいと思うし、ラストに向けて、登場人物のほとんどがどんどん魅力的に変化していくのがすごく爽快。
 感動の場面と明るいテーマソングが頭に浮かぶようなラストが、つくづく映像向きと思わせる作品。清々しい気持ちで本を閉じることができること、請け合いです。

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紙の本

家事ノートは生き方ノート

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「シンプルに暮らしたい」。そんな思いを持って、生活スタイルに合わせて幾度も暮らしを見直し「シンプルライフの達人」となった著者の創意工夫が詰まった本。

『家事を「手品のように簡単に片づける方法」は、「モノを減らすこと」と、「家事はためないこと」の二つに尽きる』。というプロローグの言葉通り、使うたびすぐにちょこっと掃除をする、掃除しやすいようにモノは床に置かない、70%のゆったり収納を守る、などなど、快適な空間を保つためのノウハウが、すぐにできることがらに合わせて書かれていて、読みやすく共感しやすい。方法論もシンプル、文体もシンプル、サッと家事をこなす手早さそのものの早業で会得できる方法を伝授してもらえる家事ノートだ。
『「住」が整っていれば、「食」も「衣」もそれなりに快適さはついてくる』という、『衣食住』の三つから『住』ひとつを切り離してくれる一言に説得力があり、私のような面倒くさがりにやる気を起こさせてもくれる。

 ただ、その方法に目新しさはない。あまりにもシンプルな分、どこかですでに見知っているやり方にも思えるし、「断捨離」が脚光を浴びる昨今、手にする前から「またか」と思う向きもあるかもしれない。それに、家事のノウハウ本として、新しい生活を始める若者や新婚さんにプレゼントすることを考えてみても、ちょっとはばかられるように思えた。"早業で会得できる"とは書いたが、無限の家事仕事のしんどさを味わい、自分なりに工夫を凝らした経験のある人でないと、そのレベルには到達できないかもしれないと思うからだ。シンプルというのは、決して易しいことではない。

 けれど、いいのだ。この本、すごくいい。読み終えると、著者の手によってこちらの気持ちが片づけてもらえたみたいに、すっきりと爽快になってしまう。
 この本の魅力は、方法論ではないところにあるように思う。著者は、声高にモノを捨てなさいとも言わず、上から目線で片づけなさいと指南するでもない。こっそり耳打ちでもするように控え目に、日々の暮らしの楽しみ方を伝えてくれているだけだ。それでいて、いや、それだからなのか、著者の気持ちの良い生き方そのものが、静かに身に沁み入むように感じられてくる。

 モノを持たないというのは、ものすごく難しい。第一、どんなに頑張って自分のモノを捨てても、家には自分以外の家族のモノが溢れているし、どうしても捨てられないモノもある。「どうしても」が溜まって溢れて、「片づかなくても仕方ない」になっていく。そうして「今は仕方ないけど、いつかはすっきり片づけたい」と常に願うことになる。思いを馳せるところは、「いつか」の自分ということだ。つまり、片づけたいと願う心に一番強くあるのは結局、「どう生きたいか」ということではないだろうか。

 モノにまみれ雑念にまみれている自分に気づくこと。やがて著者のように、雑多な事柄に決着をつけてすっきりとした生き方ができるようになりたいと願うこと。そんな、生き方の方向性を教えてもらえた気がする。この上なくシンプルな家事ノートは、この上なく豊かな生き方ノートでもあるんだろう。

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紙の本

紙の本みんなのなやみ

2009/12/24 11:44

「なやみとの付き合い方」を重松氏が一緒に考えてくれる本

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 わたしがちょうど10歳になった年、平屋だった住まいが建て替えられた。与えられた二階の個室から西の空が見渡せるようになると、耐え難い暑さがふとゆるむ頃から、窓を閉め切るようになる厳寒の季節までの間、夕暮れの空を長いことぼうっとただ眺めていることが多くなった。暖色の空、影をつけて立体的な雲、見ているうちにも沈みきってしまう太陽。夏の終わりは命の終わりを予感させた。刻々と変化する景色が止められぬ時の流れを思わせた。いつものことと思いながら空をみることをやめられず、切なさに身悶えた。秋の気配が濃くなる季節はもの哀しさが募るものだと知ってしまった、あの頃。
「みんなのなやみ」を読んでいたら、悶々とした思いにとらわれながらその正体を掴めず苦しい思いで夕陽を浴びていた昔の自分を思い出していた。

 10代の悩みは切実だ。成熟しない心は未熟な言葉に翻弄されて、思い詰めたまま打開策をどこに求めていいのかわからずに黙りこむ。傷ついた心を癒す術がわからない彼らは、SOSを発したいギリギリの心を隠してふざけて笑い、さらに傷つく。早急に解決しなければならない問題を常に抱えて生きる大人たちからすれば、取るに足らない悩みかもしれない。けれどシゲマツさんは、彼らの発する言葉ひとつひとつを重大なSOSとしてきちんと受け止め耳を傾ける。未熟な言葉を組み直し、彼らの思いを明確にし、同じ目線から、"一歩、その先へ"と促す姿勢がとてつもなく、いい。
 たとえば、「マジで頭に来る!!」と訴える高一に対してシゲマツさんは「マジで頭に来てOKだ」と答える。そして続けるのだ。「ただ、マジで頭に来て――きみは、そこからどうする?」と。

 的確なアドバイスをしようとするのではない。そもそも答えなどはないということを前提とした上で、悩める10代の気持ちにぴたり寄り添い、その手を取るシゲマツさん。ほんの少しだけ顔をあげてごらん、と声をかけ、こっちを向けばほらこの先にキミの求める答えのありかが隠れているかもしれないんだよと教えてあげるその言葉は徹底して温かく、同時にゆるぎなく逞しい。

 まえがきに「なやみを消し去るための本ではありません」とあるように、あとがきには「なやんでいても、よし !」と示しているように、シゲマツさんはこの本での言葉を「なにかになやんでいる自分を肯定するため」のものであると説明する。そして繰り返される「刹那的にはなるな」「キレてしまうことで何もかもを失うな」というメッセージ。
 大いなる自然の包容力と、大切なものを見失わさせたくないという強さを持つシゲマツさんの言葉が、絵本の中で奇跡をおこす森のようにきらめき、すべてを許す海で得られるのと同じ勇気を誘って、心を癒し傷を治す"人間力"を向上させてくれるのだと思う。

「人生は長い。長い人生であってほしい」
 人生をマラソンにたとえ、自分の言葉を水にたとえて「よかったら飲んでみてください」と謙虚に語るシゲマツさんは、けれど最後に思いを込めてこういうのだ。
「完走しような、それぞれの人生」と。

 ICレコーダーを前に、話した言葉をほぼその通りに本にしたというこの一冊。シゲマツさん=重松清氏が、腕を組んで考え込んだり、頭を抱えていたり、時に自嘲の笑みを漏らしたりする様子が手に取るように感じられる。氏が渾身の力で答えているのは、10代だけではない"みんな"で、悩める親への解答もまた真摯で心打たれる。夕陽を見ては曖昧な憂鬱に苛まれているヒマなどない大人にこそ、手に取ってほしい一冊です。

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