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誰のどんなススメで読もうとしたか忘れた。
見城徹の『読書という荒野』あたりで取り上げられていたろうか。時代的に、団塊の世代から自分の親父の世代が青春時代に読んだ作品だろう。
なんの前情報もなく読みはじめ、最初は、私小説どころか、著者の青春回顧録と思った。「大橋」という名前が出てきても、「あぁ、本名は”大橋”なのか」と思っていた。それほど、現実感のある話だった。まだ自分が生まれる前の時代の話なのに、近年の作品よりもリアリティに満ちていたのが不思議だ。
おそらく、時代の空気感、若者としての感性が、今どきの作家の作品よりも自分には近いからなのだろうなあ。
そして、読後感は、当時の芥川賞作品は力作だ、という素直な想い。読者のレベルも高く、求める内容も深かった。それに応えるべく作家も筆を揮ったに違いない。
今の芥川賞作品を云々言うつもりもないけど、作家もひとつの職業だ。求められない作品を書いても売れない。ならば、その時代の読者の求めに応じた作品になっていくのはしかたないこと。作家のレベル、作品の方向性は、読者にも責任があるなと(自戒を込めつつ)しみじみ感じた。
当時(自分が二十歳前後の頃)、読むこともできた作品だった。あの頃、読んでいたらどう感じたろうか。 いや、むしろ、今、二十歳前後の息子世代が読んだら、どんな感想を持つのだろうか。
時代が変わっても、人の悩み、青春の蹉跌感は変わらないもの、なんて話も聞くが、いやいや違うんじゃなかろうか。
確かめようがないが、息子に訊いてみたい気がする。間もなく、息子21歳の誕生日。この本をプレゼントしてみるかな?!(笑)
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「私、こうやって、一生あなたのお食事、作って上げるのかしら」
節子の声は、少し物憂げにきこえた。
「奥様稼業が嫌なら、一生勤めていたっていいよ」
私はそう答えながら、少し無造作すぎたと思った。私が節子にやさしくしようとすると、どうしても、そういう風になるのだった。
「ううん。やっぱり私が作って上げる。おいしいものを食べさせて上げるわよ」
節子は、別に私の無造作を怒りもせず、節子らしい優しい口調でそう言ってくれた。
私たちは概して頑ではなかった。私たちは大体において、できるだけ相手に優しくしようとしたし、また事実優しかった。私たちは、頑になり、相手に対する優しさまでを犠牲にして守るべきものをも、持っていなかった。
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学生運動に翻弄された若い男女の恋愛と人生の吐露。
つい「吐露」と書きたくなるような赤裸々な青春が描かれていた。
自分を納得させるため色んな言い訳をする登場人物たちを哀れに思ったり、学生たちの未熟ともいえる感性に与える社会の影響の大きさを恐れたりした。
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1964年の芥川賞受賞作
学生運動を離脱した男が婚約者にふられる話だ
彼女は、何が不満なのか自分でもよくわからないまま
男に困惑する暇さえ与えず、北国へ旅立ってしまう
フロイト的に考えれば
家父長制に対する依存と嫌悪で宙吊りになったことへの「不安」だと
簡単に説明できるだろう
しかし説明できたからといってどうなるものでもない
そういう悲劇なんだ
それを解決するには何を持ってくればよいか
本当は誰もがうすうす気づいてるはずだ
マッチョイズムである
洗練から遠く離れた熱狂と共に
わがままを包み込んでくれるであろう優しい遊技的世界の実現だ
けれども、近代的理性の側に彼女らが立つ以上
そんなことストレートに口から出せるはずはなかった
だからさびしい
作中の時代背景は、共産党の路線変更に関する記述から察するに
1950年代の終わりごろと思われる
ここに書かれたようなことはおそらく
この時期の「優しい左翼」に普遍的な問題だったのだろう
しかしそれはまた
山岳ベースの大量殺人に行きつく流れでもあった
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今さらって感ですが、ストーリーを例によって忘却、で、もう一度読むとまあ、こそばゆくなんか気恥ずかしい。
斎藤美奈子さんが『文庫解説ワンダーランド』に「党」だの「六全協」だのの解説ぬきでは現代の若い人にはわからないだろうと書いているが、それはわたしにはないけども(やや同時代なので)でも、革命的暴力にあこがれながらもそこまで没入できない弱さがあったのに、党が路線変更したので肩透かしをされ悩む、なんて言ってる不甲斐ない弱さはわからない。
そんな語り手(大橋文夫)がアンニュイになって大学に戻り普通の就職を目指して、あげく幼馴染と普通に婚約までして、でもなんだかぎくしゃくって、甘ったれもいいところだろう。その婚約者が自立してしまうのは当たり前なんだよ。(婚約者の名は節子!この時代よくヒロインに使う名だよね、と気がつく。例、三島由紀夫『美徳のよろめき』)
『チボー家の人々』のような大河小説で、登場人物の目線が多岐にわたっていれば一場面としてよいのかもしれない。それに構成が自殺と離別の後、手紙で知らせる形式というのは、漱石『こころ』でも無理っぽかった気がするしね。この作品が芥川賞で当時ベストセラー・・・。それでわたしも読んだのだけどね。まあ、作品丸ごと昭和のやわな青春のかたみ。
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読了感は不快、気持ち悪さが残る作品、学生運動には絶対反対の視点だからかも。
他人のことを顧みない若者だらけ、各々が自分自身の理想や夢など追い求めてばかり。協調性とか社会性はないのかな。妥協を知らないのかな。酔った様に理想を語ってばかりなのは醜い。
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「されど我らが日々」
始
私はその頃、アルバイトの帰りなど、よく古本屋に寄った。
終
荷物を送り出してがらんとした部屋の中に、夕暮れが入ってきた。この部屋で暮らすのもあと一日二日だ。だが、それでいい。私たちは毎日毎日全てのものに別れ、それによって、私たちの視野はなおのびやかになるだろう。
少し湿っぽくなってきたようだ。窓を閉めよう。東北の方は、まだきっと寒いのだろう。雨の日など、節子の傷の痕は痛まないだろうか。もし痛むのなら、抱いて暖めてやりたいのだが_。
「ロクタル菅の話」
始
ねえ、君。君はロクタル菅を知っているかい。
終
「アノトキノオマエハドオシタカ」
「アノトキノオマエハドオシタカ」
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【内容】
本作は、1950年代の極左冒険主義と称されるような暴力行使による現状変更(革命)を目指す学生たちを描いた作品である。
ただ、彼らは六全協(日本共産党本部が軍事革命路線の変更を決めた会議)によりその目的、彼らの日々の生活における「充実」そのものを失うことになる。
本作はむしろ、六全協後の彼らの「人生の意味」の崩壊、物語性が失われた空虚な茫漠とした日々を描いている。
【感想】
当時の若者が、闘争や革命を標榜し、それに対して燃えるように身を焦がしていた様子が伝わってくる。また、そのイデオロギーが崩壊した後の身を空にするような虚無感も、同時によく伝わってくる。
当時の若者は、自らが吸う空気(共産主義)の確かさを信じていた、あるいは信じようとした。その憧憬にも似た感情を、本作はセンチメンタルに、そして美しく描いている。
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夏目漱石の「こころ」を読んだ時の感覚に似ている。大学闘争という事象を経て、さまざまに内面と向き合うその心の在りようが、ナルシズム的と言ってしまえなくもないが、それを超えて真摯で辛辣で読んでいて胸が震わされる。それでいて、恋をすることの喜びや哀しみのみずみずしさが端々で描かれ、そこにもまた胸を震わされる。
少し前の本にはなるが、全くもって色褪せない名作と思う。
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今まで読んだことのないような種類の本を初めて手にしたきっかけは池袋のジュンク堂の一角にあった本棚だった。
本音屋と書かれたその本棚には黒い本が立ち並び
自分の本音と向き合うため、タイトルも見ずに本を買うというものだった。
読んでみての感想だが、
今までの自分だったら第1章の途中で
積読と化しているだろう。
どうしても文章が馴染まないのは
知識に乏しい想像しずらい時代の話だからだろうか。
それでも最後まで読破できたのは
ところどころ共感のできる、または、
言語化できていなかった気持ちを表してくれていた
ことに感動できたからだろうか。
この本を読み終えた時に初めて表紙と帯をみたが、
この本を読み終えてマッチングアプリを
登録できる人はどのような解釈で
この本を閉じたのかがとても気になった。
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“ 私はその頃、アルバイトの帰りなど、よく古本屋に寄った。そして、漠然と目についた本を手にとって時間を過ごした。”
このあらすじから想像していた物語とは違う展開でした。本好きの人の生活をえがいているのかと思いきや、人生の転換期をえがいていました。
生き方・考え方が違う者同士が結婚してもうまくいかないので、それぞれが正しいと思う道を歩んだほうが良いと思います。わたしが言えるのはそれだけです。
(以前の読書記録は消えてしまったので途中から)
2024/02/23 p.130-184
p.135
“生きることの空しさ、それを知っても、知らないでも、その中で生きるしかない空しさが、和子の胸をついた。”
生きるしかない。しねないなら、生きるしかない。
どう生きたら良いかなんて考えていなかったのに……わからないのに……。
p.157
“あの元気だった女の子。いつも何かに胸をときめかせ、生きていることが、とても大好きだった女の子。”
(中略)
“それはもう、今となっては本当だと思われない位です。”
遠い日の自分が自分だとは信じられないくらい、遠い存在となってしまいました。しにたいと苦しむ前の自分がどんな子だったのか、あまり覚えていません……。
あのまま育っていたら、どんな人間になっていたのでしょう。どんな人生だったのでしょう。
ひとつわかるのは、何もかも捨てようと決意することはなかったのだろうなぁ、ということ。家族との縁を自ら切ることはなかったのでしょう、きっと。
……そんなことを考えても、いま生きている時間とは違うのですから、意味ないのですけれど。わたしはわたしの人生を大切にします。
p.169
“はじめてのようなやり方で、あなたに愛してもらいたかったのです。”
けれど、本当に初めてだったら、満足しないのでしょう? 手慣れているからこその優しい手つきがお好きなのでしょう?
p.170
“それは、そうした感覚を通じて、私があなたと結ばれているという歓びでした。それは、むしろ精神的な歓びでした。”
これは、わかる気がします。行為そのものが好きなのではなくて、お相手の気持ちが通じるような気がして、ひとりじめできているような感じがして……すきです。
p.174
“人間にとって、過去はかけがえのないものです。それを否定することは、その中から生まれ育ってきた現在の自分を殆ど全て否定してしまうことと思えます。けれども、人間には、それでもなお、過去を否定しなければならない時がある。そうしなければ、未来を失ってしまうことがあるとは、お考えになりませんか。”
(中略)
“これからの生き方を、過去の規制によってではなく、過去の否定の上につくり変えようと試みて、何故いけないのでしょう。”
すべての過去を経て、いまの自分があると思っています。ひとつでも違っていたら、「いまの自分」とイコールの存在にはならないだろうと思います。
だから、過去を否定することはむつかしいと感じていました。何もかも受け入れるのが良いと、悪いところも足���ないところも自分だと、思っていました。
けれど……そうですね、自分で自分を縛り付けてしまった考えは、否定しても良いのかもしれません。間違っていた、と気づいて訂正するのは当たり前のことです。
わたしはしあわせになってはいけない、と思い込んでいました。けれどいま、とてもしあわせです。しあわせをしあわせと受け止めることができるようになりました。
わたしもしあわせになれる。手元のしあわせを大切にできる。
いまは、そう、感じます。
そのしあわせを壊すのなら、血縁であっても、敵です。わたしはわたしを守ります。わたしの人生を大切にします。
2024/03/25 p.184-190
p.184
“ただあなたの中にのみ何ものかを求め、それをそのまま私たち二人のものとして共有したいと願っていた、あなたの持つその何ものかに身をまかせ、それによって自分を支えようと怠惰な願いをかけていただけであった、”
求めるばかりでうまくいかないのは当たり前だよなぁ……と思ってしまいます。テイカーは永遠に心が満たされないと思います。自分から与えられる人にならなければ。
あげる一方で、すり減ってしまうのも違うのですけれどね。程よいバランスで、お互いに満たされるのが一番です。
p.185
“そこでは、私は必要な人間なのです。そこには、私の仕事があるのです。”
仕事をすることで誰かのお役に立ち、ようやく自分の存在意義を感じること、身に覚えがあります。とても強く、わたしもそう感じてしまいます。
本当は、そのままの自分を肯定できるほうが良いのですけれど。
2024/03/26 p.190
「されど われらが日々──」 2024/03/28 読了
2024/03/30 p.196-254 読了
「ロクタル管の話」
p.196
“ねえ、君。君はロクタル管を知っているかい。”
まったく知らないのですけれど、知らない人を相手に説明してくださっているので、時代が違ってもわからないなりに想像できます。
p.198
“例えば、「この7F7、いくら?」というふうに訊く。親爺は「八百五十円」とか、なんとか言う。”
(中略)
“元々ぼくら中学生の小遣ではロクタル管は到底買えないことは知りぬいていたのだった。”
(中略)
“何かもののはずみということもあるのだから、二百円、あるいは精々三百円ということもあるかも知れないと、つい、かすかな希望を何辺でも持ってしまうからだったし、”
当時の物の値段もわからないですけれど……当時の彼が出せる範囲の値段を言ってくれるので、ありがたいです。そりゃ、何倍もする物は買えないですよねえ……。
p.204
“あの頃ぼくらはよくしゃべり、そのおしゃべりは大抵他愛もないものばかりだったけれども、そういうおしゃべりは、いわばさざ波なので、そのさざ波の下にはぼくらだけが互に判り合う、深く、広く拡がる青い水の透明な厚みというようなものがあることを信じていた。”
さざなみのおしゃべり。良いですね。好きです、この文章。
p.218
“何しろ7N7はひどく高価な球なのだ。新品なら九百円することだってある。普通で七百五十円、ここがいくら安いにしたって、五百円以下ということはある訳がない。”
これ、本物ですか……? あるいは盗品?
本当に大丈夫なのか、気になってしまいます……。
「解説」
p.229
“はじめて読んでから十年以上の時が経った。その十年余の間、最初私がそれを眼にしたのと変わらないままにこの作品は存在しつづけていたわけである。活字に付された小説である以上、そのことは当然なのではあるけれども、”
本はずっと変わらずに本である。それは優しいと感じます。
本はずっと待っていてくれます。わたしが変わるまで。理解できるまで、何度だって付き合ってくれます。