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投稿者:やま - この投稿者のレビュー一覧を見る
目の前にいる他者は、絶えず老いる。愛撫により物理的に距離が縮まっても、指先からこぼれ落ちる、その悲しさ。私にはどうすることもできないその無限性が、絶えず倫理を呼びかけ続ける。
入門で有るけれど簡単ではなかった。
レヴィナスの施策の懐深くまで案内してくれる超・入門書
2001/02/22 21:02
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投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
世に「入門」の語を関した書物は数多くあるけれども、本物の入門書にはそう滅多にめぐりあえるものではない。本書はその希有の例だ。少なくとも私は本書を通じて、これまで敬して遠ざかっていたレヴィナスの施策の懐深くまで案内された。その意味では、本書は入門書を超えた入門書だと思う。以下、その香りだけでも抽出しておこう。
「レヴィナスの第一の主著がこころみるのは、ひとことでいえば〈具体的なもの〉の思考である」と、熊野氏は書いている。『全体性と無限──外部性についての試論』は「生の具体的な細部において、〈他なるもの〉が到来するさまをえがきだす」ものであるというのだ。
ここでいわれる「生の具体的な細部」について、熊野氏は、「目から手へ」(フッサールからハイデガーへ)を「手から口へ」(あるいは「道具」から「糧」へ)と突きぬけさせ、さらに「口から手へ」「手から目へ」と、世界における生を「始原的なもの」「身体であること」から説き明かしていくレヴィナスの叙述を紹介している。
手によって触れられ目によってかたどられるもの、それが他者の顔である。というより、顔においてこそ他者が、無限に超越的な他者が世界の内部にあらわれる。『全体性と無限』のレヴィナスにとって、顔は他者の「顕現」(エピファニー:「公現」とも)である。
しかし第二の主著『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』で、レヴィナスはある「転回」を遂げる。熊野氏はこのことを「現前から痕跡へ」と定式化している。ここで、現前するのはいうまでもなく他者の顔であり、痕跡として語られるのもまた他者の顔である。
第一の主著で「享受する身体」を論じたレヴィナスは、第二の主著では「ひび割れる」身体──いくつもの孔を穿たれ、その開口部で外部性へと曝されている身体、あるいは可傷性(ヴルネラビリテ)の契機をもった傷つきやすい身体、老いる身体──を論じている。ここで強調されているのは「感受性」の(享受=消費とは異なった)別の側面なのだ、と熊野氏はいう。
感受性とは「近さ」である。近さは生きられるものであって、認識されるものではない。このような「近さ」は他者において典型的である。以下は、第二の主著におけるレヴィナス自身の文章。
《その「近さ」とは、接近した顔であり、皮膚の接触である。つまり、皮膚によって重みを課せられた顔であり、変質した顔が、そこで淫らなまでに息づいている皮膚なのである。そうした顔と皮膚は、すでにじぶん自身にとって不在であって、過去の回収不能な経過のうちに陥っている。》
皮膚はつねに顔の変容であり、顔はいつでも皮膚の重みを課せられている。顔も皮膚もともに現在であって現在にない。すなわちそれは痕跡、しかも自分自身の痕跡である。いま現前しているものが同時にみずからの痕跡であるとは、しかしどのようなことがらでありうるのか。──熊野氏はこのような問いをたて、そこに「老いゆく顔」「死にゆく顔」を導入することでレヴィナスの解を要約している。
冗長さは否めない
2001/06/05 02:30
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投稿者:呑如来 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「他者」の存在を前提とした倫理を構想し続けた哲学者レヴィナスの思想を、その生い立ちや影響を受けた思想家に触れつつ、時代を追って詳しく解説している。ただ、比喩が的確でなく、文体も読みにくいため、せっかくの入門書がその意味をなしていない。これなら初めからレヴィナスの著書に触れてしまった方が誤解がないかもしれない。
「こういう読みもあるのか」と参考にする程度が良いだろう。
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おそらく日本で一冊であろう、レヴィナスの入門書。
レヴィナスはハイデガーやフッサールのもとで現象学を学んでいて
パリ5月革命は肯定的ではなかったあたりが、
自分の知らなかった、いくぶんか興味深いレヴィナスを知れた。
確かに一言でレヴィナスを語り尽くすのは難解であるが、
非常によくレヴィナスのエッセンスを取り入れつつ、熊野氏の味も出ていると感じた。
最終章になるにつれ、レヴィナスの論理が彼の人生とともに変わっていくさまも見る事ができて、
感慨深かった。
他者論には欠かす事の出来ない偉人。
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いやはや、久しぶりに自分の読解力をはるかに超えるものを読んだ。入門書でこれだから、オリジナルを読んだらどうなってしまうのだろう。
よくある自己―他者という軸なのだが、複雑すぎる。が、一つだけ、性愛についての説明は、大変よくわかった気になっている自分がいるから不思議である。
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―砕かれた世界、親しい者たちという中心を喪失してしまった世界がなお在る。
世界から意味がこぼれ落ち、しらじらと漂白されてしまってもなお、世界は単にあるのだ。
親しい者たちの死すら、世界に穴を穿つことはない―
『世界内では、あらゆる涙が乾いてゆく』
世界とは何か?
私の中でずっとくすぶり続けている命題。
私にとって、世界とは《自分》だった。
私というフィルターを通して捉え、認識する領域。
だから、私が死んだときに、私の世界は終わるのだと。
そう思っていた。
けれど、誰かが死んだあとも世界が在り続けているのも事実。
それは、外界世界と内在世界との葛藤。
世界とは、なんだろう。
世界とは、
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[ 内容 ]
フッサールとハイデガーに学びながらも、ユダヤの伝統を継承し、独特な他者論を展開した哲学者エマニュエル・レヴィナス。
自己の収容所体験を通して、ハイデガーのいう「寛大で措しみない存在」などは、こうしたおそるべき現実の前では無化されてしまう、と批判した。
人間は本当はどれだけわずかなものによって生きていけるのか、死や苦しみにまつわる切なさ、やりきれなさへの感受性が、じつは世界と生を結びつけているのではないか、といった現代における精神的課題を、レヴィナスに寄り添いながら考えていく、初の入門書。
[ 目次 ]
個人的な経験から―ばくぜんと感じた悲しみ
第1部 原型じぶん自身を振りほどくことができない―『存在することから存在するものへ』を中心に(思考の背景―ブランショ・ベルクソン・フッサール・ハイデガー;存在と不眠―私が起きているのではなく夜じしんが目覚めている;主体と倦怠―存在することに耐えがたく疲れてしまう)
第2部 展開「他者」を迎え入れることはできるのか―第一の主著『全体性と無限』をよむ(享受と身体―ひとは苦痛において存在へと追い詰められる;他者の到来―他者は私にとって「無限」である;世界と他者―他者との関係それ自身が「倫理」である)
第3部 転回:他者にたいして無関心であることができない―第二の主著『存在するとはべつのしかたで』ヘ(問題の転回―自己とは「私」の同一性の破損である;他者の痕跡― 気づいたときにはすでに私は他者に呼びかけられている)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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芸術がなりたつのは一般に、世界からこの隔たりのゆえである。芸術は、あたえられた世界をひとつの「異郷」として手わたす。
しかも世界をその「裸形」において、その異邦性をあらわにしつつてわたすのである。ロダンの彫刻にみとめられる荒々しい魂の存在感、セザンヌの絵画における剥き出しの形態、「色と線との純然たる戯れ」、あるいは「存在の膨らみ」の表現、それらがあらわしているものは、物質があ'る'ということ、世界が存在するということそのものだ(『存在することから存在するものへ』)
問題となっているのは、世界が私とはなんのかかわりもなく、た'ん'に'存'在'す'る'ということである。芸術は、その意味でおしなべて「異郷的(エキゾティック)」であり、異郷としての世界をこそあらわにするものである。芸術によって開示された世界のまえで感じられるものは、この世界そのものが異郷であることにほかならない。
私とはなんらかかわりもない裸形の世界のただなかに、私もまた身ひとつの裸形で投げだされている。それは一箇の悲哀だろう。この世にあることの、底しれない悲惨でもあるようにおもわれる。だが、この悲惨のゆえに、他者へと私はひらかれているのではないか。
生還してつぎつぎと耳はいるのは、失踪が<連行>であったこと、返信の途絶が<絶滅>によるものである。親しい者たちの決定的な不在がたしかめられる。生き残ったものは生きてゆかなければならない。死者が占めていた場所を、やがて生者が埋めてゆく。喪があければ、日常がはじまる。死者の不在そのものが存在のなかに紛れ込む。
このことは、とはいえ、どこか底なしに恐ろしいことではないだろうか。死は空虚を穿つ。「イリヤ」のざわめきが、やがてそれを満たしてしまう。「たったいま死んだものによって残される空所が、志願者のつぶやきによって充たされる」。つねに「存在の否定がのこした空虚を、あ'る'が埋めてしまうのだ。
なにもかも消えてしまって、なおた'ん'に'あ'る'。イリヤの経験は、灯あかりひとつない夜の闇の経験、しかも子どもが経験するそれに似ている。
闇に目を凝らし、微かな音に耳をそばだてようとしても、なにも見えずなにも聞こえない。にもかかわらず「あたかも空虚がみたされ、沈黙がざわめきだっているかのように」感じられる。闇があ'る'。それはしかし「存在者」でも「無」でもない。
ベッドに入って、なお眠れず起きつづけているとき、私の意識はしだいに闇そのもののなかに溶け出してしまうように感じられる。私じしんの身体の輪郭さえ闇のなかであいまいとなり、意識は透明に冴えわたっていながら、透明となることでむしろ夜そのものと溶け合ってしまう。私'が'おきているのではな、もはやない。「目醒めているのは夜じしんである。<それ>が覚醒している」。そうなってしまえば、私はもうどのようにしても眠ることができない。私'が'そう意志して眠らないのではい。なにものかが覚醒しつづけているのだ。その意味で「夜の目醒めは無名である」。あるいは匿名的であり、非人称的ある。「この無名の目醒めのなかで、私は存在に残るくまなく曝されている」
意味を剥奪された不眠が、イリヤの恐怖に囚われる。
悪夢のように長引かされ、死ぬことも禁じられた、身動きひとつとることのできない生そのもののようである。死ぬことではなく、死ぬことすらできないことが恐ろしい。
はじまりも終わりもないイリヤは、その意味で永遠の恐怖である。
引き裂こうにも引き裂けない「無名の存在のざわめき」が告げるのは「人には存在する義務がある」、ということである。
私が存在するかぎり、私は存在そのものに曝されつづける。イリヤの恐怖は止まない。だが、そうであるとすれば、私が存在することには、た'ん'に'あ'る'こと以上の、イリヤ以上の意味があることになる。
だとすれば、しかし<私>はどのようにして存在しはじめることになるのだろうか。
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コンパクトなレヴィナスの入門書。とくにハイデガー哲学と対比することで、レヴィナスの哲学が従来の西洋哲学における存在論を反転させて、まったく新しい光景を私たちに見せてくれるものであることを教えてくれる。
ハイデガーによれば「存在は存在者ではない」。したがって「〈それ〉が存在を与える」(Es gibt das Sein)といわなければならない。著者はここに、「存在とは贈与である」という発想を読み取っている。「存在論的差異」を主張するハイデガーには、「存在のあり-がたさ」ないし「存在者が存在することそのものという、稀有なできごとへの感覚」が働いていた。
だが、あの戦争から生還したユダヤ人レヴィナスにとっての存在の感覚は、ハイデガーのそれとは異なっていた。それは、世界がいまだに存在していることに対するいぶかしさである。何もかも変わってしまったのに、親しかった者たちは皆いなくなってしまったのに、なお世界があるのはどうしてなのか。存在とは贈与どころか、むしろ意味の徹底的な剥奪なのではないか。こうして著者は、レヴィナスの「イリヤ」を、彼が抱いたはずの独特の存在への感覚と結びつけている。
さらに著者は、〈同〉の中の〈他〉を追求する『存在とは別の仕方で』のレヴィナスの思索の内に、〈喪失〉への感覚を読み取っている。私は息を吸い、息を吐く。かつてレヴィナスが「享受」という言葉で描き取ったこの事態を、後期のレヴィナスは、私が息をするごとに〈他なるもの〉にさらされ老いてゆく自己喪失のプロセスとして理解しようとする。その意味で、「生とは生に反する生なのである」といわれる。
私はそのつど世界に直接することで傷ついている。私にはすでに逃げ道がなく、この世界に対していつも決定的に遅れてしまっている。このことを、著者はレヴィナスの性愛についての叙述の内に確かめている。「愛撫されているものは、ほんとうは触れられていない」とレヴィナスは語る。彼が触れようとした他者の現在は、すでに過ぎ去った若さである。若さの内にすでに老いがきざしている。ここに、〈同〉の内に〈他〉を、現在の内に「現前」ではなく「痕跡」を見ようとするレヴィナスの後期思想の特徴が示されている。
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非情に面白い人物だ。楽観的なのか悲観的なのかまるでわからない。悲観しているのかと思えば、かなり楽観的に理論を構築し始める。しかし、彼の中では一貫したものがある。それが哲学者なのだろう。レヴィナスの名前はそれほど広くはきかない。それは、カントやニーチェ、ヴィトゲンシュタイン、フッサール、ベルクソン、ハイデッガーなどと比べればという次元でしかないのだけれど。そうでありながら、なぜ、レヴィナスに焦点が当たりつつあるのか?その問いにはある程度本書で回答を得られたように思われる。彼はユダヤ人というアナクロニズム的な考え方に縛られていることを自覚していたのだろう。それゆえに経済性という観点を用いている。確かに経済学は近代的な概念であるのだけれど、経済学ではなくて経済性という観点でアナクロニズムに駆られていると言えようし、サルトルがマルクス主義を取り入れたのは解決策のようなものであって、あくまで彼の哲学観自体がマルクス主義によって構築されていたというわけでもない。レヴィナスは彼の哲学観自体をそうした観点で構築しようとしている。しかし、出発点は違う。出発点が非情に悲観的かつ、独自である。基本的には誰しもが自らの存在を肯定的に捉えようとしている、あるいは存在の可能性に迫ることで真理を獲得しようと努めている。だが、レヴィナスは「存在することに疲れる」と述べている。あるいは、主体も現在も全ては「存在に従属せざるを得ない」といった点に絶望している。彼はベクトルが異なるのである。彼の出発点は悲観的である。終着点もある種悲観的と言えよう。だが、その過程には楽観的要素が入り混じる。それゆえに彼の哲学は倫理とも言われるのだろうし、なんとも捉えがたい性格を持ちうるのだろう。
ちなみに彼の系譜的に言えば、フッサール、ベルクソン、ハイデガー、サルトルの影響があるのだろう。フッサールの現象学、ベルクソンの時間論、ハイデガーの現存在、サルトルの実存、まなざし、その全てに影響を受けた上で、彼は「他者」あるいは「他我」にたどり着いている。現在は存在に従属している。現在に対して我々は悲観的にならざるを得ない。ならばその救い主は?他者である。超越論的主観性、しかしそれぞれの超越論的主観性を結びつけるものは?(ここで、超越論的主観性が超越的な絶対的な一つとすればその間は消えるかもしれないが、実際に一つとは言い切れないだろう)、だとしたら、それを結びつける超越論的間主観性とは、つまり超越論的他我性なのである。存在、現存在、しかし、それらのそれぞれの境界は?世界でいいのか?いや、他者であるべきだ。サルトルの影響は存在に疲れる、という言葉に直に表れている。サルトルはまなざしに嘔吐感を覚えたのだけれど、レヴィナスはそれをより直裁に表現している。故に、彼はそれぞれを一応評価しているのであろう。とはいえ、彼はハイデッガーに対してはかなり批判的であったようだが、それはハイデッガーのユダヤ人蔑視にもあったのではないか?しかし、レヴィナスは自らがアナクロニズムに捉われていることを自覚しているのだ、もっと言ってしまえば、人間、現存在はアナクロニズムに捉われなければ生きてはいけないのだ。このあたりはどう���もヴィトゲンシュタインを髣髴とさせる。ヴィトゲンシュタイン以外は、他者と区別される<わたし>を想定しているが、ヴィトゲンシュタインだけはその一方上、つまり他者と区別されないこの、<このわたし>というある種独自なところまでのぼっているので永井の評価の理由もなるほどなとうなずけるものだ。さて、レヴィナスにとって他者とは救いにも悲劇にもなりうる。他者のおかげで我々は、我々でありうる、というこれは救いかもしれないが、他者に常に圧迫されて傷つけられることで我々は成立しているというのは悲劇なのかもしれない。我々が自己を強烈に意識させられるのは、それだけ他者によって圧迫されたからではないか?著者は述べていないが個人的にはこう読める。自己が同一性の敗北、あるいは破損でありうるならば間違いなくそう言えよう。更に、我々は身体に拘束されるが、その身体が他者に削られることで存在できているとしたなら、我々は絶えず自己喪失しているとも言える。このあたりの解釈は現代的な現象学解釈に近しいのかもしれない。鷲田、竹田あたりである。これを肯定的に捉えるとそうなるのだろう。これを悲観的に捉えるならば確かにそこに生産性はないかもしれないが、しかし、そこから迫れるものはやはりあろう。だが、個人的には永井ヴィトゲンシュタインに触れてしまうと一抹の物足りなさを覚えるのも事実だ。それは、つまり、他から切り取ることで自己を確定しようとする営みがどうにも個人的には気持ち悪いからである。それは妥協とは言えまいか?あるいは、簡単な便宜的な解決策なのでは?より本質に迫れるのではないか?言語のテクニカルな周辺的議論にならずに、迫れる術はないのか?そこが個人的にはかなり気になる場所である。しかし、「存在に疲れる」このフレーズだけでも、レヴィナスに触れた意義があると断言できる。その一言を求めていたように思われる故に。
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けっこう前に書かれた本なせいか、入門と言うにしては難しい……震災を経験したあとの日本の哲学者たちのレヴィナス評ができれば読んでみたいな。
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レヴィナスの思想のエッセンスは何となく理解出来たという感じか。
ところで、現代思想は比喩表現や造語が多い気がする。言葉が違うだけで同じことを言ってるだけなのでは勘繰りたくなるとこもある。
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レヴィナスの思想について、判りやすくゆっくりと解説した入門書。
中身はしっかり詰まっているので新書だからといっても読むのに時間はかかるが、先に読んだ物よりも判りやすい印象を受けた。先に読んだせいかもしれないが、年譜と思想を交互に読んでいくせいか。
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フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスの哲学を存在論の視点から描き出した入門書。フッサールやハイデガーになじみがないとやや難解な部分もあるが、全体としては読みやすい作りになっている。
詳細に立ち入ることはやめておこう。
ここに書き留めておくべきことはひとつ、レヴィナスは極めて繊細な感受性をもった哲学者だった、ということだ。
リトアニアに生まれたユダヤ系のレヴィナスはフランスに留学した後、第二次世界大戦に巻き込まれ、捕虜として収容所に入れられる。本書に「奇妙な戦争」とあるように、しかしその収容所生活は穏やかだったようだ。「夜と霧」を著したヴィクトール・フランクルの過酷な収容所体験に比べると非常に恵まれた境遇だったようだ。けれども収容所から解放され、戦火に巻き込まれて何もかもなくなった故郷を見た後、レヴィナスの「存在」や「私」、「他者」の思考が展開していく。
レヴィナスの繊細な感受性はそれを受けてこう記す。
“たったいま死んだものによって残される空所が、志願者の呟きによって充たされる。存在の否定がのこした空虚を、あるが埋めてしまうのだ”
哲学書を読む醍醐味は、こうした繊細な感性に捉えられた事象とそれを解きほぐしていく力強い思考をたどることにあると思っている。哲学者が語るのは真理ではない。彼ら彼女らが語るのは自らの感受性なのだ。その意味で言えば、哲学は芸術でありうる。
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「存在」「主体」「身体」「糧」「世界」「他者」「女性」等々のキーワードを、レヴィナスの思想の展開をたどりながら、説明していく。彼の思想を捉えるための手がかりが得られるように思うが、一読しただけでは、それもなかなか難しい、というのが正直なところ。