紙の本
労作です。こんな会社があったんだ、って思います。いや、それだけではなく今も昔とは違うけれど、残っている。埋もれる、っていうことはこういうことなんだな、戦争の影響は当然、こんなところにもあったんだな、と色々勉強にもなりました。
2012/01/16 22:09
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投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
まず、ヤマナカってなんだ、って思います。サブタイトルの「東洋の至宝を欧米に売った美術商」がなくて「ハウス・オブ・ヤマナカ」だけだったら、最近、鹿島茂のパリ娼婦の館、シリーズに嵌っている私としては、これもまたその手のお店の一つで「東洋の美女を欧米に売った館」ではないか、なんて思ったことでしょう。もしそうだとしたら、私はこの本に手を出すことはなかった。
確かに朽木ゆり子の本は読んでいます。フェルメール本を一冊。楽しみはしたけれど、何をおいても朽木を追いかけさせるほどの力はなかった。まして「ハウス・オブ・ヤマナカ」、全く知りません。そう、私はこの二十年ばかり、色々な画廊を覗きこんだり、画商さんと話をしたり、美術館にも出入りをし、画家さんと食事をしたりすることもあります。でも、そのどこからも「ヤマナカ」という名前は出てきませんでした。
そう、冒頭で朽木がいうように、ヤマナカ、こと山中商会はその輝かしい歴史にもかかわらず、現在では殆ど忘れ去られた存在なのです。といっても、知る人は知る。特に欧米の名のあるコレクターや美術館であれば、直接その名を知ることはなくても、美術品の購入記録のどこかにその名前を刻みつけているに違いない、そういう存在です。その歴史を、日本にある資料以上に海外にあるさまざまな記録から見事に描き出した労作がこの本『ハウス・オブ・ヤマナカ 東洋の至宝を欧米に売った美術商』です。
同族会社である山中商会がニューヨークに最初の店を出したのは、明治二七年(一八九四)のことですが、朽木は単純にそこから筆を起こすようなことはしません。序章 琳派屏風の謎、はちょっとミステリタッチの雰囲気を漂わせながら、NYのメトロポリタン美術館が所蔵する「渓流花木図屏風」(六曲一双)入手の経緯から始まります。これを美術館に収めたのが海外でヤマナカ&カンパニーという名称で知られた山中商会。
とはいえ、メトがその時入手したのは左隻のみ。そして右隻は後にH・O・ハヴマイヤー・コレクションとして寄贈され、左右一組のものとして一体化されます。実は、謎はこのルートにあるのではありません。実は、ヤマナカがハヴマイヤーのために落札したのが、もともとメトロポリタン美術館に収めた「渓流花木図屏風」の左隻だったという記録があるのです。では、なぜそれがメトにあり、そうでない右隻がハヴマイヤーのところにあったのか、そうこれがミステリ。
あとは、アメリカの店を構えた山中が、時の日本美術ブームにのって言い顧客を得、アメリカはもとよりロンドンにも店を構える、そして日本美術が一段落すれば、売るものを中国のものを中心とした東洋美術に切り替え、順調に経営規模を拡大していく様子が、アメリカの美術館やコレクターである富豪たちの購入控えなどから浮かび上がってきます。
そして、見えてくるのは山中商会の手堅い販売と、そして気持ちの良いような商品の調達です。とはいえ、今であれば許されないような埋蔵物や美術品の海外持ち出しが大目に見られていた時代のこと。視点を変えれば、あこぎ、と受け取られかねないこともあるかもしれませんが、朽木の立場はあくまで告発ではなく、そのような商行為で美術品を、それに相応しい価格で収めていった真面目な美術商の姿です。
しかし、その順調な発展に影を落としたのが世界恐慌であり、幕引きを始めたのが満州事変、そして止めを刺したのが太平洋戦争です。といって、ここでも朽木の筆はアメリカの非情を暴くことには費やされません。山中商会を悲劇の主人公に仕立てることもしません。アメリカの店が抱えていた商品を、アメリカ政府の監督のもとで販売し、従業員たちに給料を支払いながら店を畳んでいく、その様子を極めて中立的な立場で描いていきます。
これは、よくある立身出世譚でもなければ、アジアで美術品を集める冒険譚でも、ましてアメリカの陰謀譚でもありません。一つの企業の消長を、その内部の記録というよりは外部の記録から描いた、極めて良質のドキュメンタリです。だから、ノンフィクション書籍であるにも関わらず、巻末にかなりの量の注がついています。これは、あとがきで朽木が述べるように、あとに続く人々が原典に当たることができるようにという配慮からのものです。
朽木が山中商会のことを知ったのが2000年、ほぼ同時期にフーリア美術館のアーカイヴに美術品購入記録があることを知り、いろいろ想を温めながら研究を始め、そしてこの本を書くうえで不可欠な敵国資産管理局の年次報告書を入手したのが2007年、まさに10年をかけた労作です。鹿島茂のパリ風俗にかんする書物を抜きに、20世紀のフランスを語ることができないように、朽木のこの本無くして山中商会、そして東洋美術が海外の美術館などに収まっていった話は語れないだろう、そういう本です。本当に御苦労さまでした。最後はデータの羅列。
カバー表写真は
山中商会ニューヨーク店正面
表紙写真
山中商会ニューヨーク店1階
扉写真
山中商会が扱った美術品
写真:全て株式会社山中商会提供
装幀は新潮社装幀室
目次を写せば
序章 琳派屏風の謎
第一部 古美術商、大阪から世界へ
第一章 「世界の山中」はなぜ消えたか
第二章 アメリカの美術ブームと日本美術品
第三章 ニューヨーク進出
第四章 ニューヨークからボストンへ
第二部 「世界の山中」の繁栄
第五章 ロンドン支店開設へ
第六章 フリーアと美術商たち
第七章 日本美術から中国美術へ
第八章 ロックフェラー家と五番街進出
第九章 華やかな二〇年代、そして世界恐慌へ
第十章 戦争直前の文化外交と定次郎の死
第三部 山中商会の「解体」
第十一章 関税法違反捜査とロンドン支店の閉鎖
第十二章 日米開戦直前の決定
第十三章 開戦、財務省ライセンス下の営業
第十四章 敵国資産管理人局による清算作業
第十五章 閉店と最後の競売
第十六章 第二次世界大戦後の山中商会
終章 如来座像頭部
注
資料と参考文献
表
あとがき
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明治時代から第二次世界大戦まで、東洋美術商として世界的に有名であった山中商会。メトロポリタン美術館、ボストン美術館、フリーア美術館、大英博物館など、大規模な東アジア美術コレクションを持っている美術館へは、相当数の作品を供給していたという。二〇世紀初頭にあっという間にビジネスを拡大した山中商会は、ニューヨーク、ボストン、シカゴからロンドンまで活動範囲を広げ、英国王室からも用命を受けていたほどだ。本書は、今では知るものの少なくなった、その興亡を描いた一冊である。
◆本書の目次
序章 琳派屏風の謎
第一部 古美術商、大阪から世界へ
第一章 「世界の山中」はなぜ消えたか
第二章 アメリカの美術ブームと日本美術品
第三章 ニューヨーク進出
第四章 ニューヨークからボストンへ
第二部 「世界の山中」の繁栄
第五章 ロンドン支店開設へ
第六章 フリーアと美術商たち
第七章 日本美術から中国美術へ
第八章 ロックフェラー家と五番街進出
第九章 華やかな二〇年代、そして世界恐慌へ
第十章 戦争直前の文化外交と定次郎の死
第三部 山中商会の「解体」
第十一章 関税法違反捜査とロンドン支店の閉鎖
第十二章 日米開戦直前の決定
第十三章 開戦、財務省ライセンス下の営業
第十四章 敵国資産管理人局による清算作業
第十五章 閉店と最後の競売
第十六章 第二次世界大戦後の山中商会
終章 如来座像頭部
江戸末期以来、日本国内でも活発に古美術商として活躍していた山中商会が、日本国内の美術ビジネスに与えた最大の功績は、”展観”という販売スタイルを持ち込んだことにあるという。それまでは顧客と一対一で販売するのが通常だったのだが、欧米の画廊に倣い、会場で品物を展示してから販売するという方式に変更したのである。今でいうフリーミアムモデルのようなビジネスモデルが、百年以上も前に行われていたことになる。
ニューヨークに最初の店を出したのが、一九八四(明治二七)年。明治日本のナショナリズムが高揚し、日本としても熱心に対外貿易を促進していた時代である。その当時、日本の美術工芸品のレベルの高さは群を抜いていたという。遠近感を無視し、植物や動物の描き方も誇張され、遊び心やデザイン感覚に富んでいたのである。そんな中、山中商会は、美術工芸品に限らず、盆栽、狆、金魚から”だんじり”まで幅広いラインナップを取り揃え、日本文化を知らしめる役割を果たした。今風に言うとキュレーションということになるだろうか。
今でも海外のソーシャルメディア事情などを、日本国内に伝えるためのキュレーターは見かけるが、日本国内の情報を世界に発信しようとしているキュレーターには、あまりお目にかかれない。また特筆すべきは、山中商会のキュレーションが、美術に関して目の肥えた正真正銘のキュレーター(美術学芸員)達に対して行われていたということだ。つまり彼らはキュレーターから情報をもらうのではなく、情報を与えることでビジネスを行っていたということなのだ。
彼ら��取っての最初の転機は、明治後半に訪れる。日本の美術品が品薄になり、値段も高騰してきたのだ。そこに国内が政情不安に陥った中国より、安価な美術品が大量に出回って来た。まるで現在の世界情勢を彷彿とさせる出来事だ。そこで、山中商事は仕入れの中心を一気に中国へと舵を切る。多少非合法なこともあったようではあるが、大量の買い付けを行い、アメリカでの中国美術品ブームも牽引する美術商へとのし上がったのである。ここでの成功のポイントは、文脈形成ということに尽きる。自らが主催する講演会で、中国美術と日本美術を、ギリシャ美術とローマ美術のように相互に入り組んだ「同じひとつの芸術的活動」として取り扱う視点を提示したのである。
本書の副題には、「東洋の至宝を欧米に売った美術商」と書かれている。おそらく当時の人が、山中商会の商いを国内からの「流出」という否定的なニュアンスで捉える傾向が強かったことも受けてのことだと思う。これは、美術というものを目的と捉えるのか、手段と捉えるのかによって、賛否の大きく分かれるところでもあるだろう。
山中商会の商いが、あくまでも「手段としての美術」であったことは否めない。しかし、欧米に追い付き、追い越せと叫びながら、海外を模倣していた時代に、欧米を相対化することで文脈を形成し、日本、そしてアジアという文化を広く知らしめたということは紛れもない事実である。その商魂には、今でも学ぶべき点が多いのではないだろうか。
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明治から第二次大戦前まで、美術商としてその名を轟かせた山中商会という会社があった。ニューヨーク・ボストン・シカゴに拠点を置き、東洋の美術品の流通に務め、時代の流れに飲まれていった1つの会社の足跡を追うノンフィクション。
東洋美術が欧米のコレクターの手に渡るには、その蔭に仲介する美術商が必要だった。山中商会はその役割を果たした会社で、隆盛期はニューヨークの繁華街に立派な店を構え、高い知名度を誇っていた。フリーアやロックフェラーを初めとする多くの顧客に、数々の名品を売り、美術品の国際流通に大きな役割を果たした。そうした品々は日本のものだけでなく、中国から入手したものも多かったという。
順調に商取引をし、顧客との関係もよかった会社が跡形もなくなり、歴史の中で忘れ去られた存在となったのは、第二次大戦で米国政府に接収されてしまったためである。
筆者は、公文書や手紙、電報などを丁寧に読み取り、「ヤマナカ」の歴史を丹念に綴っていく。
保存状態によっては、読めない箇所もあるような文書を辛抱強く読み取っていく筆者の姿勢は、誠実で好感が持てる。わかったところ、わからないところ、筆者が憶測したところ、そしてそう憶測した理由が、整理された形で提示されている。
抑えた筆致であるが、こうした形でまとめるのは、対象への愛と熱意がなければ出来ないことだろう。その姿勢は、東洋美術を欧米に売るという形が確立されたいなかった時代に、アメリカに渡り、手探りで商売を拡大していった山中定次郎らの姿に重なる。彼らもまた、美術品への愛と熱意を持った人々だったのだろう。
個人的に専門外の分野なので評価は控えるが、1つの会社が興り、そして終焉を迎えたドラマを興味深く読ませてもらった。
*筆者の名前はどこかで見たな、と思ったら、『フェルメール全点踏破の旅』(集英社新書:現存するフェルメールの全作品を見て回った記録)の人だった。熱意の人なんである。
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歴史に埋もれ、今や知る者も少なくなった美術商「山中商会」の実像を発掘してみせた執念(読んでみるとわかるけれど、これは正しく「執念」というしかない)にまずは敬服。膨大な資料を丹念に読み込み、山中商会の軌跡を再構築する作業。その果実としての本書は、それだけで一読の価値がある。ひとつだけ難を言えば、調べ上げた資料が膨大であるが故に、本来なら切り捨てても構わない部分まで書き込んでしまっている憾みはある。ま、著者の気持ちは分かるんだけど、もっと思い切って捨てるべきを捨てれば、もっと読みやすく面白くなったんじゃないかな。蛇足を連ねれば、マンハッタンに支店を構えた山中商会の取引記録が米公文書館に残されていたという事実がまことに興味深い。公文書保存の取り組みに関して、彼我の差は大きいのだなあと改めて実感。日本もどげんかせんと。
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明治から第二次世界大戦まで、日本の美術品の価値を知り欧米の富豪たちに仲介した美術商のお話。決して歴史の表には出て来ないけれども、大きな役割を果たした人たちがいる。労作ではあるが本書は足跡を辿るだけで終わっている。
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芸術には興味はないのだが、有名な美術商の話だということで読んでみた。独自の視点というモノが理解でき楽しく読めました。
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戦前アメリカにあった山中商店のお話。史料を丹念に調べ上げてあるのがすごいと思った。一般書であるが、史料の典拠が示してあり、その点が個人的には好印象。
ただ、史料量が少し多すぎて、やや読みにくい気がする。
今までにない側面からの視点を気づかせてくれたのがもっとも参考になった。
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興味が無い分野の本を読んで、楽しめることはたまにはあるが、興味がある分野の本を読んで楽しめないこともたまにはある。
古美術、ニューヨーク、昭和初期等興味深い内容のはずなのにあまりのめりこめなかった。よくできた本だとはおもうけれども。
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日本と東洋の美術品を欧米に販売し、第二次大戦で解体された美術商の歴史を、米国公文書館にあった87箱もの資料ほかから読み解いた労作。索引が無いのが惜しい。
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日本を含む東アジアの美術品の価値をヨーロッパとアメリカに広く伝え、当時の(とくにアメリカにおける)美術文化交流の要でありながら、第二次世界大戦を契機として解体させられ、消滅してしまった山中商会の興亡史。当時の社員達の気概や商魂を知る為にも興味深い一冊。
ただし、著者が断っている通り、ヤマナカの「アメリカにおける」興亡しか追いかけていないので、ロンドンにもあったというヨーロッパでの商売についてはほとんど分からないというのが、やや画竜点睛を欠くという感じ。1920年代、ロンドンで王と王妃からそれぞれロイヤル・ワラントを賜り、その栄誉に浴していたのがイギリスの全ブランドも含めてヤマナカだけだった、とさらりと書かれているけど、これは実はとんでもないことだと思います。そんな栄光の歴史があるのであれば、あと100ページ増えてもいいからヨーロッパにもう少し目を向けて欲しかった。
中盤から終盤にかけては、完璧に戦争に翻弄されたヤマナカの消滅までの歴史書。その中で意外だったのは、戦争で敵となった日本の会社を解体させるにあたり、当時のアメリカ政府が敵対的な手段ではなく(強圧的ではあったと思われるが)、それどころかヤマナカがそれまで半世紀にわたってアメリカの美術分野に与えた影響と、商売を通じて蒐集家との間で育まれた関係や心情を斟酌して、非常に寛大な処置をとりながら財産の処分をしていた、という点。
普通、敵の文化だったらヒステリックに排斥したり、もっと悪ければ単純に破壊したり焼却したりしそうな感じだけど、当時のアメリカ政府はその点については非常に「文化的」だったんだと思います。
さて、これが21世紀の戦争・紛争・内戦で行われているかどうか。その辺を考えると、今の政治の方が品が無いような気もします。まぁそもそも、戦争する時点で知性は欠けてんだけど。
終章で、著者は「美術商には自国や他国の文化を流出させているというマイナスイメージがつきまとうが、そうではなく、それまで注目されていなかった美術品の価値を認め、広く普及させ、他国との文化交流の先駆けとなる存在。ヤマナカも、当時のアメリカにおいて殆ど知られていなかった東アジア文化を伝播させたという意味で、民間文化外交官の様な役割を果たした重要な存在であった」と述べています。
それは確かにそうだろうと思うけど、じゃあなぜ本のサブタイトルに「東洋の至宝を欧米に売った」という、穿った見方をすれば挑戦的で侮蔑的とも取れてしまう言葉を並べたのか。実際には、ニュートラルに事実を書いているだけではあるものの、そこからマイナスイメージを想起する読者もいるはず。
そこまでヤマナカの価値を認めているのであれば、せめて著者ぐらいはヤマナカ贔屓のサブタイトルをつけても良かったのではないか。そんなことを、読み終えてから表紙を眺めてつくづく思った次第です。
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アート好きなら読んでみたいドキュメンタリー。
明治から第二次大戦前まで、名の知られた美術商・山中定次郎と山中一族が経営する山中商会。その足跡を丹念にたどる。
導入部の琳派屏風の左右をめぐる記述で、美的感覚にやや違和感を覚えたが(空白のある構図のほうが美しいと思うので)…読み進めると、すばらしい労作であったと感じた。
1890年にNYに出店、以後、英国にも進出。
ロックフェラー財団や名うての蒐集家、エリザベス1世までの御用聞きとなり、日本含む東洋美術の至宝を世界に売りさばいた豪商。義和団事変で中国美術の需要に目をつけ、美術品とは言えないようなインテリア雑貨もまぜつつ、販路拡大。しかし、1920年代後半の金融恐慌、30年代の中華事変、さらには第二次大戦直前の関税法や在米資産凍結令で、解体されてしまう、山中商会。
戦後はもと社員の協力で復活の兆しも見られたが、日本が経済復興しても忘れ去られてしまう。
著者は資料の乏しさにもひるまず、無数のコレクターや美術館、公文書にあたり、膨大な調査によって本書をまとめあげた。財務情報や当時の物価などの引用考察は、並みの美術史家ならば思いもよらない視点で、読み物として面白い。学術書ではないが、研究として価値がある。
日本美術の海外流出を嘆き、高額な競売ばかりがセンセーショナルにとらえられがちな風潮に異議申し立てし、東洋の文化価値を世界へ広めた「民間文化外交官」としての美術商の価値を再認させる狙い。目から鱗が落ちる。
『武士の家計簿』もそうだが、生活や経済感覚と結びつく教養系学問はもっと推奨されるべきであろう。
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明治から第二次世界大戦までの50年間ニューヨークに店舗を構えた山中商会は戦前のアメリカでは最も有名な日本企業だった。当時の東アジア美術商としては世界最大規模でニューヨーク以外にもボストン、ロンドン、シカゴに支店を開きロンドンではイギリス国王ジョージ5世とメアリー王妃から二つの王室御用達を認定され、1917年にはNY5番街の53stと54stの間に新築されたロックフェラービルの5番街に面した1−2階にギャラリーつきの店舗を構えている。設立にロックフェラー夫人が関わった近代美術館がすぐ近くに移転して来たのは1932年のことだ。狂騒の20年代にはアメリカの美術界も活況を呈しヤマナカも大いに繁盛したが29年の世界大恐慌、31年に始まる満州事変から暗転し第二次大戦で資産没収をへてアメリカの支店は解体されていく。
日本の美術品がアメリカに受け入れられるようになったのは1876年のフィラデルフィア万博がきっかけで、例えばヤマナカ以前に陶磁器を輸出した中には森村商会などがある。その後ノリタケ、TOTO、INAX、日本碍子などを生み出す母体となった森村の発展のきっかけが陶磁器の輸出だった様だ。ヤマナカは1905年くらいまでは日本原産の骨董品や雑貨を販売している。1880年の対米輸出高では扇子が17万弱と陶磁器や漆器にならぶ輸出品目だった。ちなみにこの時緑茶が600万台で生糸が300万台である。骨董品だけでなく雑貨も人気が出始めていた。
しかし、1908年あたりから輸出品目はほぼ中国産になっていく。日本で文化財保護が言われ始め、また茶道具を中心に美術品の価格が値上がりし始めたのに対し、清朝の崩壊に伴い美術品を手放す資産階級が増えたのと、略奪や盗掘などで不法に持ち出される美術品が増えた。例えば龍門石窟の仏頭なども石窟から取り外され持ち出されているが当時はそれは違法とはされていなかった。そしてアメリカではヤマナカも中国美術品の講義を後押しした。
1941年7月アメリカは日本資産凍結令を公布し、日本との貿易が禁じられた。この時点ではまだ従業員への支払いや日本の家族への送金など個人資産の凍結解除はできた。12月7日真珠湾攻撃の直後にヤマナカの支店は財務省により閉鎖され管理下に置かれる。解体の手順が興味深いのだがAPC(敵国資産管理人局)がヤマナカの発行済み株式を接収し、在庫の90%を占める中国美術品は友好国の資産と言う名目で販売している。このときヤマナカの経営陣は追放されたが従業員は日本人も含め美術品への理解が深いという理由で雇用されちゃんと給与も支払われた。既存顧客や家主のロックフェラーとの関係も開戦前後も基本的には友好的だったようだ。
戦後、山中商会は接収された資産の返却を求めて嘆願書を出しているが返還要請の期限が49年の4月30日であることを理由にすでに時効として聞き入れられなかった。戦時請求法の財源として使われてしまった様だ。日本の美術品の国外流出というと否定的な意見が多いかも知れないが、海外のコレクターが集めることで美術品の価値が再発見されたり高まったりしている側面もある。包み紙として使われていた浮世絵がヨーロッパで人気になったのもよく知られた話だ。著者の杇木氏がインタビューした中国��ジャーナリストに「中国の美術品が、かつて日本や西欧の美術商、学者などによって国外に大量に持ち出されたことをどう思いますか」と聞いたところ「美術品は貧乏な国から逃げていくものですよ。価値があるとわかったときに、とりもどせばいいんです」と言われている。そういうものかも知れない。
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途中で放り出そうかと思いました。
どうも俯瞰的な記述ばかりで、細かい人物も美術品も見えてこないので、ドラマ性がないし、焦点が絞れていません。史料としては一級なのかもしれませんが、読み物としては退屈です。
戦中戦後のアメリカによる山中商会解体の経緯は面白かったですが、基本的に山中商会の年次収支報告書といった感じです。
この本を読んで面白いと思う人はたぶん、時刻表を見て面白いと言う鉄っちゃんのような、通な人だけです。
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再読になる。
依然読んだときに比すれば、ぐぃっと気持ちが入り込み、速読しつつも、流れを含め政治的な社会情勢・空気が感じられた。
このところ、観るようになったネトフリ。
仕方なく契約したのだが、これまで見ることがなかったベネルクス3国、東欧諸国(特にポーーランド)を中心に観ている。
育されてきた世界情勢と私なりの感覚がいかに視野狭窄だったか痛感する・・最も映画、ドラマだから差っ引いてとはいえ。
朽木氏の論評は淡々と、それでいて論点を外さないしっかりした語り口。読んでいても頭に入りやすく、下手な感情論がないこともあり、好み。
これまで数点を読んできたこともある。
200年続いた山中商会(大阪八尾にあった)の7代目があめりかに3か所の支店をおいたのは19~20C
もともとは骨董店だった(美術商は日本込みならず、表具や、骨董店などが前身となっていることが多い)
副題にある通り”東洋の至宝を欧米に売った美術商”
が額面通りに読むと、国際犯罪化と思ってしまう・・匂わないでもないが。
WW2の前にはひと塊もなく解体となり知る人も消滅~が2008年、とあるオークションで登場した石窟の仏塔で世界はさざめく~中国が買い取ったことも理由。
今後も着々とかの国は自国から流出した文化財を買い戻す魂胆であろう。
当作品を読んで山中商会が歩いてきた道のりは賛否両論があるはず・・しかし、若冲、琳派が世界に冠たる芸術であることは、今や、論を待たないが、その一端を担った功績がこの商会の働きであることは否定できない。
ニューヨーク五番街から始まったアメリカの進出、もっぱら対応してきたのはAPC局。WW2による解体の終結時でも山中商会の社員との関係は極めて好印象だったと記録にある。
実験的庭、だんじり、種々の日本文化が海を渡ったが大半は中国文化財だった。博物館は美術品の墓場と論ずる向きもあるが、山中商会のメンバーは大半、とてつもないビジネスマンだった事が伺える。
美術品の作品鑑定技術が確立したのはWW2といわれる。日本の重要美術展が行われた背景は混迷を吹き編めて言った日米、そして中国がイメージ好転戦略という遠望があったはずとある。
1944、山中商会解体へ向けての契約更新が贈られたとき、その3日後にパールハーバーが・・歴史は日時を選ばない!
世界を複眼で見る事の重大さ、面白さを味わえた。