紙の本
購入して良かった。
2021/05/26 21:22
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投稿者:ひでくん - この投稿者のレビュー一覧を見る
差別語・差別用語の解説だけでなく、
生まれた背景や
差別の歴史も書いてあります。
今まで発刊した著作本には
書かなかったエピソードもあり
面白く読めました。
私は、落語や芝居など文化・文学の世界では
「つんぼ」「めくら」などの言葉を
使用するのは
アリだと思います。
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偶然1個前に読んだ本の作者と一緒でした。
ただ前回読んだ異形の日本人は質と量がどっちつかずな感じで、読後に不完全燃焼感があったのに対してこっちは項目に結構な量が揃ってて良かったです。
子供の頃に大人たちから隠されていた事について、ある程度分別がつくようになった今だからこそ知るべきことが書いてある本です。
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この題名惹かれてしまった人には
ものすごく お薦めの 一冊
頭だけでなく
きちんと ご自分の足と手と目と耳を使われて
見事に 一つ一つの「差別語」に向き合われた
労作
この次の作品が楽しみです
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差別語(とされるもの)の成り立ちやその言葉が差別語とみなされるようになった過程などを期待して読むとがっかりする。
「差別語とは」という話じゃなかった。
本書は差別語(死語を含む)や差別されている人を表す言葉を小題に据えて、その言葉の対象について説明していく。
被差別部落に関する部分は悪くないけどこの人の別の本とかなり内容がかぶっている。
鉢屋や京太郎なんかは「日本の路地を旅する」(だっけ?)とおんなじエピソード。
半分は焼き直しで、残りはただの感想文にすぎない。
特に後半は差別語を論じた文章ではなく「言葉狩り」について思ったことを書いただけのエッセイであって、調べて考えたことじゃない。
他の本が売れたから急いで雑に書いたみたいな印象。
残念すぎていっそ悲しい。
差別用語を使わないようにすることが差別や被差別者を抹消する動きになってしまうという警戒はわかるけれど、この書き方では差別者目線の「なにがわるいの?悪気はないんだから別にいいじゃん」という言説と大差ない。
悪気も自覚もない蔑視なんていくらでもあるってことは「被差別部落」の部分で著者自身がさんざん言ってるのに。
差別語への糾弾が「その言葉を使うな」だけではなく「その使い方をするな」でもあったとか、蔑視の構造そのものを問うても「面倒くさいからこの言葉は禁句にしとこう」で流されてきた歴史はすっぽり抜け落ちている。
後半の障害関係部分は無いほうがいい。
ここは本当にひどい。私が著者に抱くイメージが良すぎて期待してしまったから反動で余計にひどく感じるという部分もあるだろうけどやっぱりひどい。
カースト関係であれだけきめこまやかな配慮を見せる人が、自分と無関係なことがらになると途端にここまで無自覚な部外者になってしまうのか。
たとえば「飛鳥田はびっこだし」の部分。「びっこ」という言葉が問題なのではなく「びっこだから」を理由にしたところが問題なの(かもしれないの)に言葉尻をとらえた言葉狩りとして片付けてしまう。
麻生太郎の「野中のような部落出身者を日本の総理にできない」と同じ種類の言葉だとは思わないんだろうか。
「五体満足」も手足がそろっていることが問題なんじゃなくて、そろっていて初めて一人前・完全であるという意味をともなうのが問題なのに、ただ「どこが悪いの?」で終わってしまう。
「おし」と「緘黙」は別のものなのに緘黙は勝手に唖の代替とみなされている。(緘黙は唖に含まれるかもしれないけれど唖=緘黙ではない)緘黙がなにかなんて辞書で調べただけ?
「どもりがうつるのは本当だ」と書くのは「ひどいどもり」の人と一緒にいたら自分もどもるようになったけど数年で戻ったよという話。そんなの関西人といたら関西風アクセントになったよってのと同じ程度の話だ。やめようと思えばやめられる。どもらない人は逃げられる。自分が逃げられる場所にいるってことが全然わかってない。
障害者の思い出にしても、「動けないかわいそうな障害者と違って僕は動けるんだからあの子の分までがんばろう」っていう見方が��れだけ失礼か。
難しい状況にあった子供がそうやってがんばってきたこと自体は人がとやかくいうことじゃないけれど、大人になって、しかも差別関係の言葉を生業にしている人がどの面下げてこんな言葉を吐けるのか。
代わりにがんばるっていったって自分の人生をちゃんと歩もうってだけで、その子のためになにかするわけじゃない。
「恵まれているんだからがんばろう」が「あっちよりマシだ」と同義だってわかんないのかな。
『日本の路地を旅する』の中で「いくら同じように自分の身を切ったとしても、路地の人にとって、それは所詮、他人の血であった。(p209)」と書いた同じ筆でこれを書けてしまうのか。
その他の項目も「だから何?」という思い出話が多い。
全然それぞれの対象を見てない。自分の問題しか見えてない。
「片親」の言い換え、シングルファーザーの使用頻度がシングルマザーよりも少ないのは子供を引き取るのは母親であることが多いからなのにそれは頭にないのか。
あるいは「ブス」のところ。「昔ブスって言葉をノンフィクションの中の本人が使った言葉として書こうとしたら編集者に噛み付かれた。過剰反応だと思うけどその編集者は顔に障害があったから気にしちゃうのも仕方ないよね」っていう話とか本当最悪。
「あの人だって使ってるんだからいいじゃん」が出てくるのも論理的じゃない。擁護として最悪。
黒人が自分をニガーと表現したからといって白人も使っていいってことにはならない。
差別的な奴が差別語を使うのは当たり前なんだから、石原慎太郎や西村賢太が使ったという事実はその語の使用を正当化する根拠にはならない。
「おわりに」で「差別語を悪、言い換え語を善とする二元論をやめることからはじめよう」とあるのがなんとも皮肉だ。
この本の中で書かれているのはイコールの場所が変わっただけの善悪語りなんだから。
これを読むなら「手招くフリーク」を読んで欲しい。
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ひとを、ひとそのものではなく、ひとの属性(性別とか、国籍とか、その他いろいろとか)で評価してはいけない。差別について知るべきはそれだけだと思う。「勉強しなければわからない差別」というのはそれだけでなんか変だ。その点、この本は声高に主張せず、「どういうのは差別」みたいな例示を上げるでもなく、たんたんと言葉(多くは死語)に刻まれた差別の歴史を追っていく、という構造で、素直に、興味深く読めた。「ぐれる」の語源をはじめて知った。
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差別されるものの中での支配と被支配の関係
江戸時代から裁判で地位確認を争っている
歌舞伎の屋号は「町人身分」であることを強調
競うように商店を出して屋号で呼び合う
一件を文書にした「勝扇子」は家宝
車善七と弾左衛門
関八州の路地に白山神社
忍びの者
長州戦争と身分開放
釣り○チ三平は特例?でOK
ミゼット、米ではダメでリトルピープルに言い換え
何かと不自由。
このレビューもちょっと書きづらい
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差別って難しい。蔑視を含んだ言葉はもちろんなくなるべきだと思う。しかし、言葉自体に蔑視の意味はなく、ただ客観的な事実を述べているだけの言葉までもが差別語としてタブー視され、キレイに解決しているとはとても思えない、よくわからない言い換えをしている。これが現状だ。それで解決するのだろうか。人権教育などで本当に教えなければならないことはなんなのか。
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最後まで読んでタイトルを見直したら「私家版 差別語辞典」と書いてあった。そうか私家版か。作者に興味があればもう少し面白かったか。
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「差別語」を集め、それらがなぜ差別語とされてきたか、その源流を探る。
この本に載っている差別語はほとんど聞いたこともないものだった。それだけ差別語がやがて消えていくものだということを実感させられる。
著者はまた差別語はその言葉自体が差別するものではなく、使用者の意図が差別的ならば差別語になると主張している。同感である。
全国水平社を皮切りに差別を糾弾する団体が多くでき、今でも残っている。それらは少々乱暴な手法だったが、当初は大きな成果を上げた。だが今では言葉狩りの原因になっている。
また興味深いのはそれまで穢多、非人として差別されてきた人たちの生業が、現在では通常尊敬を集める職業だということだ。彼らは職人として様々なものを作り、また牛馬の死体を処理した。刑場・牢屋での仕事にも携わった。
牛馬の肉を食べていたことからも、実は栄養状態は他の農民などより良かったのではないかとも考えられなくもない。(実際は知らないが)
芸術に関わる人達が被差別の層だというのも驚きである。古くから町民や権力者を楽しませた芸術が、最下層の人間なのだから不思議なことこの上ない。当然人気のある役者なら大変な金持ちもいたが、身分の上では下なのである。不思議。
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差別用語とされる言葉と、その歴史的背景を紹介したもの。
言葉狩りの問題にはとても興味があります。自分の親世代の人が普通に使ってる言葉が差別用語に認定されてたりして驚きました。
筆者が作品中で何度も主張している通り、差別する意図をもって使えば言葉は差別語になるし、何でもかんでも規制すればいいというものではないと思う。明らかに差別的な言葉は規制されて当然だと思うけど、行き過ぎた自主規制には言い知れぬ不気味さを感じる。とはいえ、テレビや雑誌では発信側が「差別的な意図はなかった」と言っても受け取る側が不快に思ったらもうそれは差別語になってしまうんだろうなぁ。そう考えると、余計なトラブルにならないように過剰に自主規制してしまう気持ちも分かる。難しい問題だ。ただ、過去出版された作品が規制されたり改変されるのは悲しいことだと思う。
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「同和」が「同胞融和」または「同胞一和」を略したものだってことすら知らなかった私としては、知らなかったことがたくさん載っている本でした。江戸時代の乞食が諜報活動をしていたとか。
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被差別部落の出自を持つ著者は「二本の路地を旅する」で幾多の賞を取り、西村賢太からも絶賛されている、
どんな無頼漢かと想像していたが、まっとうなルポ、まっとうな主張だ。文章はそこまでうまくない。
ただしルポの場合は、その拙さが逆に現場感を生み出している。本書は、差別語を著者の個人的体験や取材に基づき解説し、批評していく。
1)差別するのは言葉ではなく、人である。
2)汚いものに蓋をすれば、それは内向し鬱屈していく。
3)歴史的、慣習的な語句は残すべき
4)言葉は歴史であり、文化である
これが根本的な彼の考えで、言葉としてすでに差別的なものは消えていくべきだが、言葉は歴史を背負っており、つまらぬ人権意識で葬れば、本来言葉が持っていたまっとうな意味や知恵は失われていく。
「一度失った言葉を取り戻すのは容易ではない」と上原は語る。
逆に言えば、こうした禁句は禁句だからこそ実に生々しく、本来の姿から遠く離れた化物になってしまったのだろう。
ネット言論が飛び交うようになったため、言葉を言葉として使うのはますます難しくなる。
(著者はネットに疎いらしく「チョンは最近はめったに使われることはない」などと書いている。リサーチ不足ではあるが、ルポライターらしいネット下手が逆に信頼できる)
一方で、本来の意味で使用するケース自体が少なくなっている。エタヒニンももはやほとんど存在しないのだ。
だから、結果的に差別用語は消えていかねばならないだろう。ともかく、やはり被差別民がこうしたことを淡々と書いたことは意義深い。
知識として。
穢多と非人は仲が悪かった。非人は足を洗えば一般人に戻れる。江戸時代、乞食は諜報活動も担っていた。
幕末の内戦には身分を上げてやると言われて参加した被差別民が多かった。バカチョンのチョンは「一人前以下」の意である。
死体や興行が被差別と絡むのはよく分かるが、なぜ竹細工や石切までもがエタなのだろうか。
それは士農工商の工ではないのだろうか。