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なんとか最後まで読みました。はー、長かった。。
自分で自分を褒めてあげたいっ。(笑)
誰かが、「長くて途中挫折しそうになるけど、読み終わると自分の中の何かが変わるよ。」的なことを言っていましたが、、、
うーん、、、私は何も変わってないっす。。。
だけど、次に読む本は何を読んでもおもしろい!と思えそうな気がします。
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ようやく読み終わった。とてつもなく長く、恐ろしいほどに混沌とした小説だった。
この小説を読み始めたきっかけは、村上龍が『音楽の海岸』という小説内で、「ドストエフスキーの小説は、不良のために書かれたものだ」という内容の文を書いていたからだった。しかも物語が始まる前の見開きのページには、「故、中上健次に捧げる」というような文章もあり、これはもう読むしかない、と思ったからだ。
昔、村上春樹の小説を貪るように読んでいいたときから「ドストエフスキー」という名前は知っていたものの、読んでみようという気にはなれなかった。それはきっと、村上春樹の小説内でその名前が出てくる場面が、そう魅力的に感じなかったからなんだと思う。
村上龍の小説を初めて読んだのはたしか『限りなく透明に近いブルー』だったと思うが、そのときは読みづらく、そんなに衝撃は受けなかった。しかし『愛と幻想のファシズム』を読んだとき、大きな衝撃を受けたのを覚えている。その感想は紛れもなく「これは不良のための小説だ」というものだった。
『カラマーゾフの兄弟』に対して、そういった運命的な衝撃は受けなかった。それはおそらく、僕個人が、リアリズムの小説を好んでいるからであり、物語の竜骨とでもいうべき《信仰》や《恥辱》とかいった形而上学的な問題に対する探求を今は欲していないということなんだろう。
《神や不死》に対する考え方やそこから派生する《恥辱》の問題を一旦脇に置いて、この物語の構造に関して備忘をしておきたい。
まず、この物語は一言でいうなら『カオス』である。登場人物の一人一人がそれこそ【カラマーゾフ的な】極彩色の心を持っており、物語が進行していくにつれて、その色同士が真っ白のキャンパスの上で混ざり合っていく。赤と青が混ざれば紫になるが、それに数えきれないぐらいの色彩が混入していけば、遅かれはやかれ、それは真っ黒になってしまう。
『バタフライエフェクト』という映画にもあったが、人の人生というのは、カオス理論のようなものなのかもしれない。そしてそれが二人、三人、四人ともなれば、それこそ予測は不可能であり、何気ない誰かの一言や身振り手振りが、人を殺したり、人を救ったりするのかもしれない。
このような混沌の世界で、自身の精神を固定し、自立させるものは一体何なのだろう。一旦脇に置いたはずの《信仰》というものが、ここでふと浮かび上がってくる。
『カラマーゾフの兄弟』において描き出された現代の《神》は、今僕たちが暮らしているこの今の日本では、一体どういうかたちをしているのだろうか。それはある人にとっては青山の高層マンションかもしれないし、あるいは定期の付いたスイカかもしれない。
どういうかたちにせよ、それは今もしっかり存在するし、人間が生きている限り、きっとそれは生み出され続けるのだと思う。僕も考えてみたが、僕にとってのそれは、抽象的な概念のようなものだった。それを示すにはなにか具体的なかたちにするしかないし、その現実化の方法が、今の日本(少なくとも���が生きていく範囲)の、ある意味では象徴になるのかもしれないと思った。
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時間がなくてサーッと読んでしまったからか、面白くはなかった。
基本的に登場人物達の言動も含めた行動が、自分としては違和感だらけだった。
キリスト教とか当時のロシアの状況とか歴史とかの知識がほとんどなかったことも影響してはいる。
解説もざっと読んだら少しだけ読み直したい気もしたが、やはり長いので読むことはないだろう。
でも、書く前に著者が死んでしまって存在しないけど、続編は読んでみたかった。
罪と罰くらいは今度読んでみたい。子供の頃読んだけど忘れた。
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こんなにも人間の内面をえぐる本があるだろうか。。
印象深いシーンは数えきれないほどあるけれど、第2巻で、イワンがカテリーナに放った言葉は衝撃的だった。
個人的に、亀山郁夫さんの翻訳は合わないみたい。本編よりも、各巻末の読書ガイドの方が面白く感じてしまった。読者に内容を理解させることに特化した平易な文章を心がけた、ということらしく、確かに分かりやすいのだけど文章の面白味は全くと言っていいほど、、ない。本編は他の人の翻訳で読み直そうかな。
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書かれなかった第二の小説へ。
エピローグに出てくる少年たちとアリョーシャの姿は、それまでのドミートリーの荒れ狂い生き急ぐ転落や、イワンの高潔で誇り高いゆえに欲望に苛まれて幻覚を見る狂気に比べ、清らかで美しくその分先が怖い。亀山郁夫のいうように第二の小説が、テロリストとして皇帝暗殺を謀るアリョーシャ、その実行犯としてコーリャ、イワンという悪魔に魅入られたリーズの物語になるのだったら、このエピローグはすがすがしさに満ち溢れている分、不吉である。
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いろんな意味で、最後の最後まで先の読めないお話でした。エピローグは感動もしたけど、あんな能天気なラストってある?! 深読みする気力は残ってないので、シンプルに面白かったお話として記憶に留めておきます。「読書ガイド」には随分助けられました。感謝です。
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★4つなのは、まだ多分、読み返す必要があるから。
まず、そうだな。なんで読もうと思ったか。
村上春樹さんの「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」で、意識が消滅しゆく主人公が、カラマーゾフ3男のアリョーシャのことを思い出していた、という点と、村上さん自身がとても影響を受けていたという理由から。
自分がこの世から意識として消えてなくなってしまう時に思い出す人って、一体どんな人なんだろう、と。
はて。謳い文句がよろしくなかったな。「世界最高の文学」「傑作」これ以上無い接頭語のついた本を読むとき、少なからず人は(少なくとも私は)先入観を持ってしまう。「一体なぜそのように呼ばれるのだろう。」と。物語を楽しむ以前に、その理由探しに躍起になってしまう。
私はだからあまり、「評判がいいから。」と呼ばれる本を読まないようにしているのだけど、案の定わたしはその呪縛から逃れることが出来なかった。
でも、3巻からものすごいスピードで読み進めることが出来たことは、わたしがのめり込んで読んでいたのだということの確かな証明になる気がする。
でも情けないかな。まだそのくらいの段階なの。
読み直さなくちゃ、確かな感想はまだ得られないかな。
感想を持つまでには、きっとまだもう少し時間がかかる。
チープな感想しか持てなくて情けないけど、
面白かった。と綴っておく。
これだけの長いお話を、ものすごいスピードで読ませてくれたこの本に感謝。
追記
昨年のクリスマス、エンザにかかった彼氏に会えず、レーピン展を見に行った。
その絵を想像しながら、私はこの本を楽しみました。
フョードルは、イワン雷帝が息子を殺す(逆ですね)あの絵のイメージ。でっぷりした軍人の象、美しいロシア美人。わたしのなかの「ロシア」の映像を、美しく飾り立ててくれました。
追記の追記
このbooklogって、非公開メモとは別に感想を非公開にはできないのかな。
わたしは、読む本と生活がとても密接している。
困難にぶち当たれば、解決を本の中に求める。
だから、感想が、本の感想に留まらないことがある。
っていうかそのほうが多い。
でも、公に見られてるんだよね。わたし、その自覚薄かったなぁって、後悔してる。
この「カラマーゾフの兄弟」を読んで思ったことを絡めて、これを最後に、公開すべきことを今一度考えて行きたいと思う。
ここ半年ほど、わたしは「この人のこと、嫌いかもしれない。」って思ってしまった人がおり、思い切ってそれを認めてみた。レビューを読み返せば何度も自分が悩んでどうしたらよいものかが、1年半くらいに渡りちょこちょこ出てくる。もう、認めてみたら、楽かもしれないと、思ったのがここ最近。
でも、あんまり心が気楽になった、ということはなかった。
私は多分、その人��こと、「苦手」ではあるけれど、「嫌い」とはちょっと違うんだと思った。
具体的なことをあげたらきりがないし、まぁ過去のレビューを見れば嫌なことは自分の中で思い出せるので書きませんが、
押しなべて言うと、
「なんで今この人は、この発言をしたんだろう?」
もしくは「なんで今この人は、その行動をしたんだろう?」
と、ふとその人の行動を思い返して見るときに、
「人によく思われたい気持ち」やら「可愛らしく思われたい」「自己顕示欲」がその裏側にある気がして、なんかいちいちその人の行動に突っかかるような悪循環になってしまって、「もーやだ!」って思っていた気がする。
確かに他の人よりそういう面が大きいかもしれない。でも、
何がいやって、そういう行動を取るその人が嫌なんじゃなくて、「人に媚び売るような態度」や「自己顕示欲」みたいな、真っ黒でどろどろして、嫌な感じのすることに向かう自分の思考回路がきっと嫌なんだろうと思う。浅はかで、俗っぽくて、下卑た思考回路が。
もしかしたら、わたしの思考回路が向かう方向は間違ってないかもしれない。でもそうじゃないかもしれない。わたしは、「そうじゃないかもしれない」という選択を、あまりに軽視しすぎていたんじゃないかと思って、ここ最近、本当に自己嫌悪に陥っている。
このネットの辺境で私が書いたようなことを目にする人は、きっと間違いなく少数派だと思う。
でも。
私の書いた、真っ黒で、「あいつが嫌だ。あいつが嫌いだ」っていうような嫌な嫌な感情、わたしは過去に遡って消すことは、しません。自分の嫌なところ、隠すつもりはありません。なかったことになんて、したくありません。見たくないし認めたくないし、「公」であることを無視した恥ずかしさだって消してしまいたいし、ブログや何やらはそれが可能で、直接会ったこともない人とのコミュニケーションを可能にするツールな分、自分を美しく飾り立てることが可能だけど、
私の中に確かにある、感情です。それを、なかったことになんて、できない。わたしはそんなに「キレイな」人間じゃないってことから、目をそらしたくない。
ただ、自分が間違っていたということを認め、思考の修正を迫られ、それを直していくことだけは、認めて欲しいと思う。(誰に対する承認かはわかりませんけど、誰かに言わずにはいられません。)
アリョーシャは、ひたすら「よきもの」の象徴のように描かれていました。ドミトリーの犯行に対する弁護士の疑い方、それが私に、そのようなことを気づかせてくれました。
自分の嫌なところに、気づかせてくれたという点で、私は、私の隣人に感謝します。
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ついに読みきった。この第五冊はほとんど作品の解説といったものだ。でも、今までの各巻についていた読書ガイドとともに、この小説を理解するのに大いに役立った。中でも、ドストエフスキーが第二の小説の構想があったというのは、成程頷ける。何故なら、この小説の終わりが物足りなく、何か残尿感のようなものが残るからだ。この小説は世界の古典として確固たる地位を占めているのだが、この小説の本当の良さを知るには、あまりにロシアのことを知ら無さ過ぎる自分がいる。
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平易な文章を心がけたせいか、他の訳よりも底の浅さというか深みが伝わってこない印象を受けた。ただこの訳はそれを承知の上で読みやすさを重視した方針で刊行されていると思うので翻訳者の技量を批判するつもりはない。
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本当は、この『第2部』が構想されていたという。
読みたかったな・・・・・・・・。
34わたし、あなたを好きだだったのは、あなたが心の広い人だからよ!・・・わたしこそあなたの許しが必要なんだもの。・・・
61~のラストは感動的。なんとなくミュージカルの舞台を想像できた。
274口述筆記、の手段。・・・これなら私も書くとき使える気がする。
287ドフトエフスキー作品を周期的に大江健三郎、加賀乙彦は読み直すらしい。
360金原ひとみの言葉。「上巻半分を読むのに3ケ月。・・・中巻と下巻を私はほぼ3日でよみ終えた。」
これは、訳者の言葉の選定の努力の賜物らしい。
289作家の習性として、モチーフに対して始末をつける。
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やっと読破しました!ミステリアスな謎解きの要素もあり、個性的な登場人物たちが物語をぐいぐい引っ張っていくのですが、自分はロシア的なものの考え方というか世界観にあまり馴染めなくて、苦労した部分がありました。
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4部立ての小説が終わったあとのエピローグとして裁判以後の3章のみが5分冊になった文庫構成でした。最後がコーリャたちの「カラマーゾフ万歳」で終わるということも、未完成になった第2部への導入を示唆しているのですが、「カラマーゾフ」という言葉が、ここへ来て「アリョーシャ」のみを指していることに改めて気づいた次第です。イワンでもドミートリーでもないのは意外です。
そして文庫の大部分を占める訳者による解題が極めて内容の濃い迫力のある解説でした。象徴層、物語層、告白層に分類する考えは説得力がありますし、リーザ、コーリャの第2の小説で果たすであろう役割の説明は新鮮でした。特にリーザがアリョーシャに対する誘惑者として存在感が大きくなっていくことは全く考えたこともありませんでした。第2の小説がどのようなものであったかを想像することも大変ワクワク楽しいものがありますね。
そして登場人物の名前・地名などとドストエフスキー自身の人生やファウスト・歴史上の人物などに関連した説明の数々は謎解きに相応しく、巨大なパズルを解くような小説の面白さも痛感した次第です。
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カラマーゾフ家の使用人(コック)。てんかんの持病がある。この人物が4人目の兄弟。なんか、この名前のイントネーションだけは、ちぐはぐな印象を受けるんですよね。この人の名前を聞いていると不安になるというか、落ち着かなくなるんです。
ちなみに、スメルジャコフという名前は「クサいもの、悪臭」という意味だそうです。スルメじゃないですよ、スメルです。「におい」というのは、現代になってますます意識化されているように思います。スメルハラスメントなんて言葉がいい例です。
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終わった。これだけの大作になると読了の感慨もひとしお。1週間『カラマーゾフ』の毎日だった。さて、物語は4人の死が一種のキー・コードになっている。まず、ゾシマの死―それはロシア正教会の長老制の終り(制度としてではなく、精神的な意味で)だったのだろう。続いてフョードルの死―このことによって、兄弟の、また周縁の人々の本質と実態が大きく浮かび上がってくることになる。スメルジャコフの死―被支配階級の中から生まれてきた新しい階層の、あるいはテロリズムの死だろうか。イリューシャの死―それは愛と未来の希望への希求なのだ。
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終わったー!これで私もカラマーゾフ!(?)
エピローグと、ドストエフスキーの生涯、訳者である亀山郁夫氏の解題、後書き、という構成。
解題を読み、再読が必要だと強く感じました。
研究対象になるくらい深いのだ。
もしやこの物語の主人公は、プロローグで謳われたアリョーシャでもなく、派手にわかりやすくドラマティックなミーシャでもなく、一見地味だが苦悩と葛藤に苛まれるイワンなのでは、と思えて来た。
後書きは亀山氏の溢れんばかりのドスト愛。
本当に続きが読みたかった・・・
最後は大唱和で
「カラマーゾフ万歳!!」