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高校の頃の読書感想文は『山月記』でした。ちょっとでも物書きとか絵描きといったことに、いや,、なんであれ何かに打ち込んだことがあるひとならばすごく身にこたえる作品です。相変わらず涙腺のゆるい私は初読で泣いてしまった…高校の授業中にもうるっときた…。これは李徴に感情移入したばかりではなくて、我が身と照らし合わさずにはいられないものがあったから。
李陵、司馬遷、蘇武の三人を描いた『李陵』。男とはこういうものだ!ズギャーン!みたいな派手さはないものの(ないのか)、でも私にはそう感じられたなあ。三者三様の男たち、それぞれの運命に苦悩し、生きていく。もしくは、生きざるをえない。男とはかくも生きづらい生き物であるのか。
歴史上あまりに偉大なる学匠、孔子。その高弟子路を主人公とした『弟子』は、中学や高校で漢文、論語だとかをやる前に読んでたらもっと見方が変わったんじゃないかと思いました。特に孔子。若かりし頃の私にとって、孔子はとにかく胡散臭いおじさんだなぁぐらいにしか考えられなかったもの…はずかしいことだ…。子路を見つめる孔子のたしかなまなざし、美しいほどの純粋のあまり孔子という大人物の傍にありながら何をも求め欲することのない子路。この、弟子というには不思議な、しかし孔子との出会いより片時もかのひとの弟子たることをやめなかった、ある珍しい男の話。
中島敦の文体は、漢文を訓読したような、硬さっていうわけじゃあないな…しっかりとした堅さのある文章だと感じます。読み応えがあって、でも文章そのものはごくごく簡潔にできてる。登場人物に対して贔屓がない。でも愛情がないわけではなくて、公平で平等、真摯に綴られた文章は気高くて胸に真っ直ぐ届く。響く。こんな文章が書ける人はそういないだろう。すごい。
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何年か前にまとめてたくさんの小説を読みました。多くは手放し(駅の○×文庫に寄贈)、ほとんど手元に残っておりませんが、気に入って残っているものの一冊です。「弟子」・・・孔子の弟子子路のついての物語。
今でもとても強く印象に残っており、自分の行動について一つの指針となっております...少し大げさですが..
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「山月記」が名作であることは置いといて、好みはやはり「李陵」「弟子」だ。この岩波文庫くらい注釈がしっかりしていると、注釈をめくるのも楽しくなってしまうが、やはり、「論語」「漢の武帝」「史記」あたりを読んでから出会うのがよいのか、原典を読んでからの再読でもよいのかちょと読書指導には悩む作品ではある。
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山月記はやっぱりおもしろい。
個人的には狼疾記が、読みながら苦しくてしょうがなかった。
地下室の手記と近い。
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2012/06/01
「名人伝」まで読み終わり。前二つの「李陵」「弟子」もだけど、思っていた以上におもしろい!
中島敦の文章って好きだ。
2012/06/04
読了。
「山月記」の「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」に上手いこと言うなこの人と思ったのは、中学生の時の国語の授業。
やはり名文であった。
「悟浄~」における悟浄の自我への懊悩は、後半を読むと中島敦の自身の懊悩と重なる。
「西遊記」は好きな作品だからもっと読みたかったな。悟浄の目を通して描かれている悟空や八戒が魅力的なキャラクターであっただけに、とても残念。いやホントに。
とりあえず、「論語」を読もう。
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『李陵』
『弟子』
『名人伝』
『山月記』
『文学禍』
『悟浄出世』
『悟浄歎異』
『環礁』
『牛人』
『狼疾記』
『斗南先生』
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有名な李陵や山月記、文字禍を始めとして名人伝、弟子、牛人、悟浄出世、斗南先生、環礁などを収録している。漢語系の文章が多いが、自身の短い人生の中の出来事由来の文章もあって多彩。
特に飽きることなく読めた。個人的にはやはり山月記と西遊記2つがおもしろい。
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読みやすいと思う(〃'∇'〃)ゝドヘヘ
自分から逃げられない
誰だって一度は思う「世界とは」とか「私が死んだら」とか、そもそも「私とは」
大人になる内に折り合いをつけていくものを、考え続けて燻り続けている
頭でっかちな秀才
身体が先に動くような天才にはなれないんだな〜
そんな中救いがある、わが西遊記が好きです悟浄のヤツね
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ふと思い出して「文字禍」を再読。
前にいつ読んだのか忘れてるくらいだから、内容もラスト以外ぼんやりとしか覚えていなかったけど、さすが中島敦だと改めて思いました。
物事を(文字を通して)深く知ろうとすればするほど、文字に潜む「何か」に侵され、素直に物事を捉えられなくなってしまう文字禍と言う病。それでも「何も知らない方が良かった」と思えるかどうか。
きっとそれでも人は貪欲に何かを知ろうとする。
そうであるならば厳しい取捨選択が迫られるはず。それが出来ないのであれば、いつか文字(情報)に押し潰される。
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「山月記」が短いけど含蓄があって耳に痛い話でした。
真理を探究し懊悩する「悟浄出世」も自分が知ってる西遊記とは全く視点の違う話で面白かった。
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改めて読んでみたくなって、中島敦を手にとった。
本書を編纂するにあたり、解説を書いた氷上英廣氏は李陵に代表される中国物、悟浄出世に代表されるユーモアと哲学を交えた短編、環礁に代表される南洋物とおおまかに3種類に分けている。それぞれに趣の異なる作風だが、私自身としては、やはり中島敦の代表作「李陵」が良かったと言わざるを得ない。わずか50ページと非常に短い小説だが、凝縮された内容に、長編を読んだほどの満足感がある。
今回あらためて中島敦を読んでみて思ったことがある。
中島が主人公に据える人物は、皆おしなべて「優秀だが十分にその道を極めきれず、そばにいる極めた人物にさまざまな思いを抱く」という特徴を持っていることに気づいた。李陵しかり、悟浄しかり。彼ら自身、それぞれに有能ではあるのだけれど、その想いの部分が徹底しきれず、運命に翻弄されてしまう。それと対比して描かれる人物は、自らの道を極め、思いを徹底したがために、運命を自ら切り開いていく。その姿に、主人公たちは煩悶しながらも憧れを抱く。
おそらく、中島自身がそのような思いを抱きながら創作を続けていたのではないか、と考える。
33歳の若さで亡くなっていった中島敦。その到達点を見たようでいて、おそらく彼自身はまだまだ、十分であるとは思っていなかったのだろう。そんな思いを抱きながら、本書を読み終えた。
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本当は青空文庫で。
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心との所為である」
と。
あたし?
なんだろう。
今、あたしが好きな小説たちにはないズドンと響く感じは。
あたしの中の猛獣も、まわりの人たちを苦しめている。
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脳味噌人間のコンプレックス身につまされる。”どうも曖昧だな!余り見事な脱皮ではないな!”それはそれとして文体がかっこよすぎてさいこー
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ちょっと、変わった作風です。
全部じゃないですが、「中国の故事、古典の逸話にのっとって、独自の解釈と視点で人間ドラマを描く」ということですね。
つまりは、芥川龍之介さんもこういうの、やっていますね。漢籍に限りませんが、「蜘蛛の糸」「西方の人」とか。そういう感じ。
お友達に勧められた本です。中島敦さん。何十年も前から本屋さんで名前は見ていたけど、読んだことありませんでした。
1909-1942。33歳で病死しちゃったんですね。1942というと、十五年戦争、日中&太平洋戦争の真っ最中。まだ、日本劣勢があらわにならない頃ですね。
貧しくは無く漢学教養豊かに育ち、当時の東大の文学部だそうなんで、超エリートさんではあった訳です。
卒業後、教員やったり、南洋(当時日本領だった)に教科書の仕事で行ったり。
で、戦局悪化で帰国して、小説がちょっと雑誌に載って短編集が二冊出たかな、と思ったら、気管支ぜんそくで亡くなったそうです。ネットで拾える知識ですが。
それを、中島敦さんは漢籍でやるんですが、この理解というか、漢籍の教養がすごいですね。
つまりは、幼少期からそういう環境にいた賜物のようですが。
この当時の文学者の中でも、若いのに群を抜いていたのではないでしょうか。
だけど、漢籍口調一本だったら、読みにくいんですけど。
「山月記」も「悟浄」もそうなんですが、冒頭にグッっと漢籍口調で世界観を見せておいて、
だんだんと読み易い口語日本語になっていくんです。
そのあたり、ほぼアマチュアとして亡くなったはずなのに、意外にエンターテイメント。
内容的には、「自意識」の問題だったり、「人間の心理の裏腹さ、変わりやすさ」みたいなことだったり、
割と徹底して、「エゴに苦しむ人の心」っていう感じなんです。
そう書くと、やや自家中毒なブンガクでございってヤツかなあ、と聞こえてしまうんですが、
これが虎に変身する話だったり、西遊記の沙悟浄だったり、漢と匈奴の宿命の戦いだったり、孔子とその弟子の大河ドラマだったりします。
正直、面白い。面白く読んでいるうちに、グっとなんだか、冒険譚から人のエゴの話へとすり替わっちゃうんです。
なかなかとっつきが悪そうに見える小説なんですが、読んで良かった。面白かった。
特に「悟浄出世」「悟浄歎異」「山月記」「李陵」「牛人」「弟子」 このあたりは、ゾクゾクするくらい面白かったです。
※ですが、何せ早世したアマチュア作家さんなんで、つまらない短編も、あります。
11編読みましたが、まあ、上記6編だけで十分な気がしました…。
また、この6編だけでも、極上の味わい、堪能しました。
##########備忘録##########
●李陵…
歴史的なともかくとして。
中国の武将に李陵さんという名将がいて。
当時の中国は、北方の、ちょいと民族の異なる部族と戦争していました。
李陵さんは、善戦空しく、捕虜になります。
名将なもんだから、敵部族の長が、手厚���もてなします。敬意を払います。
一方で故国中国では、「失敗して捕まった」「裏切った」とかいろんな中傷が飛んで、家族が殺されちゃう。
初めは、中国に帰りたい。何とか敵を殺して脱走したい。
…でも、だんだん。故国に帰ったら罰せられてしまう。ここでは英雄として遇されている。
慕ってくれる若者もいる。どうしよう…。というお話です。
これに、李陵さんのことを弁護したばかりに、宮刑というおぞましい刑に処された司馬遷さんのお話が錯綜します。
「史記」を書いた人ですね。
ここンところの錯綜具合は、バランス的にはちょっとゴツゴツしていますが、
その辺はまあ。これは死後発表の遺稿だそうなんで。
●山月記…
これも中国のお話。
秀才が居て、詩文に秀で、詩人として大成したかった。
傲岸に人を見下していた。
だが、才能芽を開かず。落魄して小役人になっていた。鬱々と暮らし、失踪。
数年後、友人がとある山中で、虎と出会った。その虎が、詩人(希望だった男)の変わり果てた姿だった。
そして虎が、わが身のエゴの過ちを語る…。
●悟浄出世…
「西遊記」の沙悟浄さんなんですね。
河童っていうか、水中妖怪世界の一市民なんですね。
で、この悟浄さんが、
「自分はなぜ在るのか」「己は何者か」「俺の自意識からどうやって逃れられるのか」
みたいな、実存?存在そのものの疑問を持ちます。
それを、水中妖怪世界の色んな賢人を尋ねて珍問答を繰り広げるけど、悟れず。
そして最後に天界の声みたいに、「もうすぐ三蔵法師が来るから、ついていけ」…。
●悟浄歎異…
「悟浄出世」の続きですね。
三蔵法師、孫悟空、猪八戒と四人カルテットで旅をもうしているんです。
そして、悟浄の一人称、意識の中で、仲間三人それぞれの人物評が為される。
そういう、ひたすら悟浄の意識内の小説で、小説リアルタイム時間では、ほぼ何も起こらない、という、変わった小説です。
なんだけど、面白い。
どんな西遊記ものよりも、三人のキャラクターがものすごくハッキリくっきり立ち上がってきます。
描写の力、言葉の力。そして悟浄の、ニンゲンらしい、でも謙虚で前向きな姿勢も好感。
●弟子…
孔子と、その弟子の話。
そもそも、古代中国で孔子さんっていうのはこういう立場だったのかあ、というのも判ります。
これまた、実は「悟浄歎異」的な、多少欠点もある(頭脳鋭敏ではない、という)弟子と師匠の、長い時間の大河ドラマ。
これはケッコウ劇的です。弟子サイドの意識の中での孔子像、理想と現実の間で割り切れない自意識、という面白い話がありつつも、
シェークスピア悲劇的な展開。娯楽的です。
●牛人…
中国。豪族?がいて、正妻の子と妾腹の子。
この妾腹の子が、長い長い年月をかけて、復讐していく…という短編なんですが。
これが、怖い。凄いです。
ミステリーです。ホラーです。ドキドキします。いやー、怖かった。面白かった…。
●名人伝…
弓の名人が、最終的には弓と言うものを忘れてしまう境地になる、という話。
今一つ、深みは無かった。
●文字禍…
これまた異色な、古代アッシリアが舞台という短編。
文字、というものに精霊があるのか、というテーマから、学問とアカデミズムの中で現実と乖離していく怖さ、みたいな話。
むしろ、自分の学問の中にしか現実を認めなくなる…という。
まあでも、まあまあでした。
ここから先は、日本が舞台で、基本は私小説風。
●狼疾記…
職場で、あまり相手にされない惨めなオジサンが居る。
そのおじさんと飲むことになってしまった主人公。
主人公は主人公で暇を持て余して自意識を持て余して、俗悪なオジサンを心で罵倒したりする。
…というだけの短編。なんだか尻切れトンボ感。
●斗南先生…
「私」の叔父という人が、生涯独身生涯ほぼ無職、世に出ることなく終わった漢学者だった。
その叔父の晩年の想い出、死ぬまで。
我儘勝手な叔父に振り回された想い出を淡々と。
小品で、悪くないけれど、写生的で起伏に乏しい。
●環礁~ミクロネシア巡島記抄~ …
これはもう、南洋生活のスケッチなんですね。
やがて日本軍が玉砕しまくることになる島々の、原色にあふれる南洋世界が描かれます。
現地の人たちとの交流、というより観察日記的な。
水木しげるさんが交流した南洋の人たちもこんな感じだったのかなあ、という感慨。
文章は上手いと思うけど、南洋に興味ない限り、そんなに面白いものじゃありません…。
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美しい文体の作家は?と聞けば意見は分かれると思いますが、格好良い文体の作家は?と聞けば中島敦はかなりの高確率回答を得るのではないでしょうか。
〝漢の武帝の天漢二年秋九月、騎都尉・李陵は歩兵五千を率い、辺塞遮虜を発して北へ向かった。(中略)朔風は絨衣を吹いて寒く、如何にも万里孤軍来るの感が深い。漠北・浚稽山の麓に至って軍はようやく止営した。既に敵匈奴の勢力圏に深く進み行っているのである。秋とはいっても北地のこととて、苜蓿(うまごやし)も枯れ、楡や川柳の葉ももはや落ちつくしている。木の葉どころか、木そのものさえ(宿営地の近傍を除いては)、容易に見つからないほどのただ沙(すな)と岩と磧と、水の無い河床との荒涼たる風景であった。極目人煙を見ず、稀に訪れるものとては荒野に水を求める羚羊(かもしか)ぐらいのものである。突兀(とつこつ)と秋空をくぎる遠山の上を高く雁の列が南へ急ぐのを見ても、しかし、将兵一同誰一人として甘い懐郷の情などにそそられるものはない。それほどに、彼らの位置は危険極まるものだったのである。〝
をを、本を持って畳をゴロゴロしたくなるような格好よさではないですか!!
祖父、父と漢文学者の家で、自身も漢文学に親しみ作られた文体は、格調高くリズミカル、人の心の深淵を書くかと思えばユーモラスさも覗かせます。
この短編集では、中国の歴史書や伝承を小説化したもの、中島敦が南洋庁内務部地方課勤務の国語編集書記としてパラオ諸島に滞在した時の手記、儒教の家に育った中島敦自身の私小説のようなもの、が収められています。
===
死を賭して匈奴討伐に向かった李陵将軍は、捕縛されて匈奴の客将となる。
漢の都では李陵の裏切りの報に、彼への讒謗で溢れるが、ただ一人李陵をかばい宮刑(去勢の刑)を受けた司馬遷。一介の役人が刑の屈辱、無気力を乗り越え大歴史編纂になるまで。
そして匈奴の地では、やはり漢から匈奴の捕囚となったがその禄を食むことを拒み、極寒の地で生き続けた蘇武。
彼らの苦しみ、意地、拘り、屈辱を超えたその先の境地。
/ 「李陵」
孔子の弟子、子路を主点として、孔子と弟子との言行録。
/ 「弟子」
弓を極めた男の行き着いた極地とは。
そんなアホな、と言いたくなりつつ、まあそんなこともありそうな寓話というか伝承世界。
/ 「名人伝」
文字の霊などと言うものが、いったいあるものか、どうか。
文字に取りつかれた男の研究と受難の日々。
/ 「文字禍」
自分とは何か、生きる意味とは何か、悩める沙悟浄は、河底賢人たちを巡り歩く。
海老の賢者だの鯰の行者だの、河の妖怪たち河底世界っぷりを想像するのも楽しい。
/ 「悟浄出世」
三蔵法師の弟子として一行に加わった沙悟浄。
ここの悟空人物像はなかなか見事だ。
/ 「悟浄歎異. ―沙門悟浄の手記」
以下 -環礁―ミクロネシヤ巡島記抄― が数作品。
その島にはずっと子供が生まれなかった。神様がこの島を途絶えさせようと決めたか��ように。
最後の子供なら奇跡のように美しかろうと期待したら、風土病を患ったぼんやりした女児でがっかり、自然は自分ほどロマンチストではない…、という中島敦の美意識が面白かった。
/ 「寂しい島」
ふと休息に寄った家で会った女の強烈な目線…
日本統治時代のせいか、島の原始的な風習のせいか「疲れたからちょっと現地の家に入って休んだ。食事だしてもらった」が当たり前の生活です。
/ 「夾竹桃の家の女」
島のならず者少年ナポレオン(名前が大仰なこともおかしみを増してる)の捕り物記
/ 「ナポレオン」
自分が旅立つ前に期待していた南方の至福とはなんだろう…と、昼寝明けに考える話。
/ 「真昼」
島で知り合った女性マリヤン(マリヤ)との交流。それは中島敦の帰郷で終わる。病気のため日本に帰った中島敦はこの数か月後に亡くなることになる。まさに「マリヤンが聞いたらなんというだろうか?」
/ 「マリヤン」
南方記小品いくつか。
/ 「風物抄」
中国の歴史記事より。
人間の根源的悪を具現化した小説。
(この作品はミクロネシア集の前に収録すべきでは…)
/ 「牛人」
最後の二作品は、中島敦の私小説的なものか。
三造少年が「地球がなくなったら」と恐れたり、自分の存在の意味を求めたり。
/ 「狼疾記」
成長した三造の語る伯父の姿。中島敦の祖父、伯父、父が漢文学者という儒学の家。ここに書かれる伯父をはじめとする親族はかなり自分を強く持った人たち。そんな家や親族に反発しつつも惹かれながら育った中島敦(小説では三造)の磨かれた感性、人間観察力、人生への疑問、などが感じられる。
最初はこんな親族いたら確かに大変だ、と思いつつ、亡くなった時には自分の親族の事のように胸に痛み、かつ先生らしい…と微笑ましささえ感じる、まさに作家の面目躍如たる私小説。
/ 「斗南先生」
===
文体は変わっても作品の主人公たちは「自分はなぜ生きる、自分とは何者」に迷っているようですね。
そのため迷いのない周りの人間(斗南先生や孫悟空など)に戸惑いつつも眩しさを感じている。
「李陵」では、司馬遷の書の心得を「述べて作らず」としている。単なる事実列挙だけではなく、しかし著者の主張を入れ過ぎて事実を伝えられないことはしない。さらにはその人物を生気溌剌たるものにするための記述を加えるというもの。中島敦の自作への関わり方はまさにそのようなものだと思います。人物や文学への熱狂を抱えつつ、一歩引いた目線で物事をみて述べている。
まさに”格好いい”文章の作家です。
さて。漢文調でない文体も実に美しく繊細なのでメモ。
”汽船(ふね)はこの島を夜半に発(た)つ。それまで汐を待つのである。
私は甲板に出て欄干(てすり)に凭(よ)った。島の方角を見ると、闇の中に、ずっと低い所で、五つ六つの灯が微かにちらついて見える。空を仰いだ。檣(ほばしら)や索綱(つな)の黒い影の上に遥か高く、南国の星座が美しく燃えていた。ふと、古代希臘(ギリシャ)の或る神秘家��言った「天体の妙(たえ)なる諧音」のことが頭に浮かんだ。賢いその古代人はこう説いたのである。我々を取巻く天体の無数の星どもは常に巨大な音響――それも、調和的な宇宙の構成にふさわしい極めて調和的な壮大な諧音――を立てて廻転しつつあるのだが、地上の我々は太初よりそれに慣れ、それの聞えない世界は経験できないので、竟(つい)にその妙なる宇宙の大合唱を意識しないでいるのだ、と。先刻(さっき)夕方の浜辺で島民どもの死絶えた後(あと)のこの島を思い画いたように、今、私は、人類の絶えてしまったあとの・誰も見る者も無い・暗い天体の整然たる運転を――ピタゴラスのいう・巨大な音響を発しつつ廻転する無数の球体どもの様子を想像して見た。
何か、荒々しい悲しみに似たものが、ふっと、心の底から湧上って来るようであった。”